2007年の終わりに

三流ブロガーのSYUNJIです。
BLOGを始めて丸4年が過ぎた。
すでにエントリは200回を超え、ありがたいことに今年もほぼ全てのエントリにコメントがついた。
しかしながら今年になって自分は特に何かが変わったわけでもなく、相変わらず生涯永久初心者リスナーのままなのだが、今年起こったBLOG関連のできごとの中で印象に残るものをあげてみようと思う。
・・・って文章の形が毎年末ほぼ同じなんですけど。

ちなみに番号は時系列順序であって、順位ではありませんので、あしからず。

1.ぷくちゃんとの会見
あたしのBLOGの常連コメンテーターであり、またご自身のBLOGで数々の名企画を画策し、音楽BLOG界で常にトップを走り続ける、巨匠ぷく先輩。(大ヨイショ)
その先輩と渋谷でお会いすることができました。
音楽関連でのネット上の知り合いの方と実際にお会いしたのは、ぷく先輩が2人目です。

さてあれだけのお笑い企画で人気を博している人気ブロガーぷく先輩、いったいどんな方なのかしら・・・と期待と不安と恐怖で前夜は眠れませんでしたが、実際の先輩はもの静かで博識でシャイな印象でした。
酒は豪快に飲んでましたが、特に暴れたり店員殴ったり隣席の女性をナンパしたりとかそういうこともなく(ふつうねえよ)、とてもおだやかに渋谷の音楽談義は進んだのでありました。
まさか今年再度先輩にお会いすることになろうとは、この時は思っておりませんでしたが・・・

2.カナさんとの会見
そのぷく先輩との衝撃のファーストタイムからわずか2週間後、今度はあたしが名古屋に行くことになり、カナさんにお会いできないかお問い合わせしてみました。
BLOGでのやりとりの中で、カナさんが書店勤務、あたしは版元の人間であることはお互いわかっていたので、ぜひお会いしたいと思っていたのです。
突然の勝手なお願いにも関わらず、カナさんは快く応じて下さいました。
サカエチカの喫茶店で2時間ほどお話させていただいたのですが、音楽から業界の話までいろいろ聞けて実に楽しく有意義でした。
特に書店の方とプライベートで会うことは実はほとんどないので、カナさんの業界話はとてもためになりました。
またこれは今年お会いした方みなさん共通ですが、ホントにたくさん音楽を聴いておられるなぁとつくづく思いました。

3.ロック検定3級取得
初めは冗談のつもりだったロック検定、締め切り直前になって発作的に申し込んでしまいました。
まあBLOGのネタもすっかり枯れてしまい、存亡の危機に立たされていたことも理由のひとつです。
「不合格だったらBLOGも引退」などとつまんないことをほざいていましたが、実際合格の自信は半分くらいしかありませんでした。
しかしながらみなさまのおかげでなんとか合格でき、ほっとしました。
合格できたから言える話ですけど、受験の雰囲気は結構楽しめました。
ただ2級以上に挑戦する気はもうありませんけど・・・

4.モンスリー師匠との会見
師匠との会見も3度目ですが、今回はほぼ1日、大阪梅田界隈の中古CD店巡りというテーマを持って臨みました。
結果的には2枚しか買わないという失礼な有様でしたが、やはり中古CD店巡りは楽しいものですね。
またうまいお好み焼きやそばも師匠のご案内でいただくことができ、大変満足でした。
次回はぜひ渋谷か西新宿をあたしがご案内したいです。

5.ルドルフ編集長との会見&富士宮焼きそばツアー敢行
あたしにとってのBLOG関連の今年最大のイベントが、この富士宮焼きそばツアーでした。
だいまつ親分からじゃじゃ麺の存在を教えてもらい、たまたま近所にじゃじゃ麺屋があったので食べに行き、調子に乗って「食べてみたシリーズ」なんぞ始めてしまったのですが、そこにぷく先輩が強引に「だったら富士宮焼きそばを食いに来い!」という命令を下したのです。
無視したろうかとも思いましたが(ウソです)、そこに参加表明したのがルドルフ編集長でした。
詳細は記事のとおりですが、ルドルフさんもおだやかで博識な方でした。
最初の出会いが焼きそばという冗談みたいな展開でしたが、おかげで楽しい1日を過ごすことができました。
ぷく先輩的には焼きそばの味に不満が残ったようですが・・・

ということで、自分のような人見知りでヒッキーでロクに音楽も聴いてないような偏差値の低い人間が、ネットで知り合った方々と1年間に4人も実際にお会いできたということは非常に画期的な体験でした。
お会いできたみなさまに感謝するとともに、来年もまた新たな出会いがあることを願って、本年の締めくくりといたします。
たぶん来年も再来年も三流リスナーのままだと思いますが、今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。
みなさまよいお年を。

| | コメント (18) | トラックバック (0)

受けてみた 脳ドック

虚弱体質自慢中年のSYUNJIです。
最近どうもめまいがするし、もともと頭痛持ちだし、目も悪くなってきたし(それは老眼)、目つきも悪いし(それは元から)・・・ということでいろいろ心配な年頃なので検査を受けることにしました。
脳ドックという、脳みそ専門の検査を実施している病院が近所にあり、申し込むことにした。

まずは病院のサイトからメールで申し込む。
数日後病院から電話があり、希望日は予約でいっぱいなので1ヶ月ほど待てとのこと。
そんなに脳ドック人気があるのか・・・
その1ヶ月の間に脳が破裂して倒れたらどうしよう・・・
などと小さな脳みそで一瞬思い悩みましたが、しかたがないので1ヶ月後に予約を入れました。
で、先日ようやく受けることができた。

・・・・・受けてみた。

その病院は初めて行ってみたのだが、土曜なのに結構人が来ている。
脳ドックはふつうの外来での診察ではないので、別室に案内された。
ドック待合室は外来の待合室とは少し雰囲気が違い、古い喫茶店のようなサロンのような、病院ではないような変わった部屋である。
同じ日に脳ドックを受ける人は自分以外に2人いるようだ。

まずドック着?に着替える。
よくテレビドラマなんかで見る人間ドックのシーンでは、役者がジンベエみたいな半袖半ズボン姿になってるけど、ここでのドック着はそれとは全然違う。
ホテルにあるバスローブそのものである。
色は白。
これでグラスワインなんか持ってたりするとホントに外国映画のワンシーンのようである。

で、バスローブ姿で院内を移動。
かなり変な絵である。
別室で身長と体重と血圧を測定し、血液検査を受ける。
当日は朝から絶食なので徐々に空腹がこたえるようになってきた。

いったんサロン風待合室に戻る。
折しも部屋のテレビでは「脳外科医が不足して深刻な問題に」というニュース。
確かに脳溢血とか脳出血は起きたら一刻を争う病気なので、医師側にも全く時間に余裕がない状態であることがほとんどらしい。
なので若い医学生は脳外科医や産科医にはなりたがらない、という話のようだ。
これから脳外科に世話になろうとしてる矢先に、暗いニュースを見てしまいテンションが下がる。
検査でテンション上がるのも変ですけど。

しばらく待った後、また別室に呼ばれ、いよいよMRI検査である。
磁気を利用した頭の断層写真撮影装置だが、もちろん受けるのも見るのも初めてだ。
装置は筒状になっていて、ベッドに寝た人間がその穴にじわじわずぶずぶと押し込まれて脳が撮影される、という仕組みである。

ベッドに寝かされてレモン型のスイッチを握らされる。
装置はかなりうるさい音がするので、何かあったらこれを押して係員を呼べとのこと。
たまに閉所恐怖などで気分が悪くなる人もいるらしいが、MRI自体かなり大きな音がするので、係りの人に声が届かないため、このレモンが必要なんだそうだ。

「時間は20分から30分くらいです」と言われ、目のあたりにヘルメットのようなシェードをかぶせられる。
これで視界はきかなくなる。
さすがに不安になるが、いろいろ見えると目や首がつい動いてしまい、うまく撮影できないので、目隠しが必要らしい。
聞いていた話ではMRI検査の前には点滴で造影剤を入れられるということだったが、今回は何も入れられずそのまま検査である。
耳栓もヘッドホンもなし。
脳ドックなのでアタマにいろいろ付けてると撮影に影響するのだろう。

なんとなく周りが暗くなったので、装置の中にアタマが入ったようだ。
いったいどんなことになるのだろうか。

・・・・・突然アタマの上のほうでやたらでかい音が鳴りだした。

ぶぶーぶぶぶ・・ばばーばばば・・・
かんかんかん・・・がんがんがんぶぶぶー
ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ・・・んばばばばば

うるさい。
規則正しいが短い小節でいろいろな音がなんとなく交互に鳴る。
ステレオではなくあちこちから聞こえる感じだ。
リズムや休符はずっと同じパターンではなく、音も様々である。

ばばばばばば・・・どたどたどたどたどただだだらら・・・
ああーうるせえ・・・こんなの30分もやるのかよ・・・
早くも後悔。
こりゃあ気分が悪くなる人がいてもおかしくないなぁ。
なんかヘッタクソなアマチュアのプログレバンドの演奏を狭いライブハウスの最前列でムリヤリ聞かされてる感じ。
MRIというのがどんだけ優れた技術なのかわからないが、この音については改良の余地大アリである。

あああーうるせえ。
3分くらいでこの音にも飽きてしまい、まともにつきあって聞いてあげてるとホントに気分が悪くなりそうなので、アタマの中で音楽を再生することにした。
この時あたしの脳内MP3プレイヤーはクイーンの「ブライトン・ロック」を選曲。

この作戦は意外に功を奏し、脳内で再生されるブライアンのギターで騒音もあまり気にならなくなった。
おだやかなバラードなんかではこの騒音に太刀打ちできない。
もしこれからMRI検査を受ける方がおられたら、脳内再生は「アキレス最後の戦い」とか「幻惑されて」とか「Long Live Rock 'N' Roll」など、音がデカ目の選曲がおすすめです。
ノリにノってつい首や口が動いたら叱られますけど。

「ブライトン・ロック」を丁寧に2回くらい再生してたら案外早く終わりになった。
感覚的には20分くらいだろうか。
30分は経っていないと思うが、正確にはどれくらいだったのかわからない。

待合室に戻りバスローブを脱いで着替えるとお弁当が出てきた。
あまり期待してなかったのだが、けっこうまともな弁当である。

Obentou

食った後にMRIの結果が出て、別室に通される。
担当の医師が画像を見ながら説明。

Nou

今のところ画像でわかるような異常は見られないとのこと。
それは良かったのだが、なんかこの医者の物腰や口調が変だ。
どこか芝居がかったようなオネエっぽいしぐさのような、青島広志センセイのような感じ。
大事な話なんだからふつうに言えよ・・・

というわけで脳ドックも無事終了。
半日がかりで疲れてしまった。
自分の場合遺伝的な要因も注意する必要があるので、3年に1回は受けたほうがいいそうです。
3年後にはMRIの中で好きな音楽を流せるような改良が施されることを期待してやみません。

| | コメント (14) | トラックバック (0)

クールビズについて

毎日暑い日が続きますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
昨日は熊谷や多治見で観測史上最高気温の記録が塗り替えられたそうだ。
あああ暑い・・・
おまけに北極海の氷の面積は史上最小を記録。
このままだと2014年には氷がなくなる可能性もあるらしい。
日本の都市でも北極海でも、温暖化の影響は現れているということらしい。

・・・といった不安なニュースを、暑さにやられたアタマでぼんやりとながめていた。
が、映像が北極のシロクマからスタジオに切り替わったとたんものすごい違和感。
なぜだろう・・・と思ったがすぐにわかった。
番組はあの「報道ステーション」だったのだが、キャスターの古舘氏も加藤氏も、上着を着ているのだ。
見るからに高そうな上着を。
いや、値段は関係ないけど。

地球温暖化を少しでも止めるため、政府主導で始まったのがクールビズだ。
呼び方も閣僚のファッションセンスもかなり評判が悪いが、やらないよりはマシなのだろう。
このクールビズ、ひとつだけ確実に効果が上がると言えることがある。
それは上着を着ないことだ。
あ、当然それに加えて冷房の設定温度を上げるのが前提ですけど。

クールビズが始まった時、週刊誌などで「お父さんのためのクールビズ講座」といった脱力企画が一様に展開されたが、驚いたのはファッション評論家と称する人の中に「クールビズとはいえ上着は必要」と言うヤツが少なからずいたことである。
しかもなぜか先にネクタイがやり玉にあがってしまい、上着は着てるけどネクタイとボタンははずしている石田純一みたいなくずれたおっさんが官民問わずあふれかえったのだ。(しかも顔や髪は当然石田純一ではない。)
意味ないじゃん。

少し考えればわかると思うのだが、クソ暑いさなかに上着を着ているのと、上着は脱いでネクタイだけしめてるのと、どっちが暑く感じるのか?
上着を着てるほうが暑いに決まっている。
昨日は熊谷で40度を超えたそうだが、映像ではそれでも町中で上着を着て歩いている我慢大会みたいなおっさんが映ったりしていた。
我が国では、真夏晴天日中の野外でも上着姿のオトコを見つけるのは全然難しくないのである。

まあ本人が好きで炎天下でも上着を着てるのであれば、別に止めませんよ。
ただそういうカッコウで室内でも過ごしたり、出入りしたりすれば冷房だってあんまし効かないよね。
違和感の原因はここにあったのだ。
地球温暖化を報道するニュースキャスターが、夜のスタジオ内とはいえ二人ともがっちり上着を着込んでしゃべっている・・・
全然説得力がない。

「上着がないとカッコウが悪い」「失礼だ」という思想はわかるよ。
あたしも一応サラリーマンだし。
ただしだ。
クールビズって名前まで決めて実行しようとしているんなら、ハンパはやはりダメだろう。
上着を着ている彼らキャスターのために、スタジオには相当強い冷房がきいてるはずだ。
飛躍しすぎかもしれないけど、そういうことの積み重ねで地球が温暖化してるってことではないのでしょうか。
マスコミは「温暖化防止のため、できることから始めましょう」と呼びかけなければいけない立場のはずだ。
それを感じないまま上着を着てカメラに向かってしゃべるってのはセンスがなさすぎだと思う。

今までこっちもあまり気にしてなかったけど、ニュース番組に出てくる男性は基本的に上着着用だ。
この季節にはもうやめたほうがいいと思う。
「みなさまのNHK」という国営放送局。
「みなさまから頂戴した受信料は、職員の飲み食いとアナウンサーの上着とスタジオの冷房に使われています」
・・・ダメだろう、やっぱり。

そもそもそういう発想がないのか、誰かに遠慮してるのかわからないけど、もうそろそろ、上着を脱いで「夏の間はクールビズを実行します」という報道番組や放送局が出てきてもいいと思いますけど。(あります?)
評判あがりますぜ、きっと。
いいんです、動機は不純であっても。
それが地球温暖化防止に少しでもつながるなら。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

2006年の終わりに

三流ブロガーのSYUNJIです。
BLOGを始めて丸3年が過ぎた。
すでにエントリは150回を超え、ありがたいことに今年もほぼ全てのエントリにコメントがついた。
しかしながら今年になって自分は特に何かが変わったわけでもなく、相変わらず生涯永久初心者リスナーのままなのだが、今年起こったBLOG関連のできごとの中で印象に残るものをあげてみようと思う。
・・・って文章の形が昨年末のエントリとほぼ同じなんですけど。

1.モンスリー氏との会見
このBLOGの常連コメンテーターであり、自分にとってのプログレ指導者であるモンスリー氏に、昨年に引き続いて今年もお会いすることができました。
今回も実に楽しかったです。
よくよく考えると互いの音楽趣味は相当違うはずなのですが、やはりロックに詳しい人と実際に会って話すことは楽しいもんですね。
次回はぜひ西新宿でお会いしたいです。

2.「聴いてない」シリーズ100回突破
「聴いてない」シリーズが先日とうとう100回を超えた。
始めた頃はまさか3年も100回も続くとは全く思っておらず、「あーこれもそういえば聴いてないな」と思って積み上げていったら100回を超えてしまった、という状態である。
で、相変わらず不勉強な状態は継続中なのですが、BLOGを通じて多くの方と交流できたことは、自分にとって財産でもあります。
BLOGをやっていなければおそらく一生聴くはずもなかったプログレや超名盤に出会えたことも、非常に貴重な体験となっています。
多くの方からたくさんのアドバイスや情報をいただいたことはとてもありがたいと思っています。

3.「見ていない」シリーズ開始
このシリーズも「聴いてない」シリーズとノリは同じである。
始めた理由は実は「聴いてない」シリーズがネタ枯れ気味になってきたというのが正直なところでもある。
まだそれほど回を重ねていないが、自分と同じように有名な番組を実は「見ていない」方が意外に多いという気がする。
逆に「できるかな」を見ていなかった人がほとんどいない、ということがわかった時はかなり疎外感を感じてしまい、しばらくは仕事にも身が入らなかった。(ウソです)
またテレビとはあまり関係ないが、自分のBLOGにコメントを寄せていただいている方の中に「弟持ち姉」が多いことが、このシリーズを始めてみてわかった。
自分自身「姉持ち弟」であり、実生活でも周囲に「弟持ち姉」がとても多いのだが、なぜBLOGでもそうなるのかはナゾである。

4.「読んでみた」シリーズ開始
これは他のシリーズとはややアプローチが異なり、事後報告企画である。
これもネタ枯れの苦しい事情から捻出した企画なのだが、始めてみると意外に楽しい。
隅々まで雑誌を読んでみるといろいろな発見がある。
一応同業者という身分ではあるが、雑誌なんて作ったこともないので感覚的には一般の人と変わらない。
読み応えのある雑誌にはなかなかたどり着かないが、しばらくは続けようと思っている。

5.紙ジャケを買った
みなさまにとっては「素人が何をいまさら」な話だが、このトシで今年生まれて初めて紙ジャケというものを買ってみた。
そもそもCD自体あまり買うことがないのだが、世の中に蔓延する紙ジャケブームに抗いきれず、断腸の思いで代金を支払ったのである。(大ウソ)
実は単に安かっただけだったんですけど。
あ、買ったのはツェッペリンの「プレゼンス」です。
買った時はさすがに多少興奮しました。
しかし、紙ジャケだからといってむやみに音がいいわけでもなく、他のCDとサイズが違うんでうまく箱に収まらないし、正直どこに価値があるのか未だによくわかっていない。
・・・などと悠長に構えていたのだが、昨日渋谷の中古CD屋に行ったら、紙ジャケの中古が驚くほどたくさんおいてあった。
自分が全然手を出さないうちに世の中ではすでにこんなにたくさん中古になっとる・・・
世間では予約までして紙ジャケを購入し(西城秀樹)、エルメスのガウンを着てケリーバッグをぶらぶらさせてる人もいるというのに・・・
というデタラメな情報にも若干惑わされてはいるのだが、それでもたぶん今後もふつうに安くなければ買うことはないような気がする。

そんなわけで3年も続いてしまった愚かなBLOGですが、今年一年情報やアドバイスをくださった方々、本当にありがとうございました。
2007年もよろしくお願いいたします。
みなさま良いお年を。

| | コメント (26) | トラックバック (0)

従来から「おくつした」

今年も文化庁による「国語に関する世論調査」の結果が発表されました。
毎年恒例なので楽しみにしてる方も多いと思います。
文化庁の調査目的は「国語施策を進める上での参考とする」とのことですが、毎年ほとんどのマスコミは調査結果を「日本語の乱れの現れ」として報道してしまっています。
調査目的と結果の運用がズレてる気もしますが、この結果を見て「普段使っている言葉が実は誤用だったことに初めて気づく」ケースも多いでしょう。
あたしも商売柄日本語の誤用や乱れには多少気を配ってきているつもりですが、毎年「げっ・・・これって誤用だったんだ・・」と気づくことが続いています。

さて言葉の問題は自分が思っている以上に国民のみなさんの関心は高く、「やはり使うからには正しく美しい日本語を」と考えている人が多いのでしょう。
自分もたま~に言葉についてBLOGで採り上げたりしますが、以前とても驚いたのは自分の意見に賛成しかねる方からのコメントでした。
具体的には、自分は「1万円からお預かりします」にはかなり寛容なのですが、これが相当お気に召さなかったらしく「恥知らずの言語無知」「何様のつもりか」などといったお叱りを受けました。
驚いたのは、言葉遣いの問題を採り上げているのにも関わらず、全く唐突に挨拶もなしに(←ここ重要)「オマエの考えは間違っている」旨のコメントを、あまり美しくない表現で寄せてきたからでした。
こういうバランスの乱れた人はネットの中に意外に多く見かけます。
言葉遣い以前にアンタのネット遣いが全然お子さまじゃねえかよ!と、こっちも言いたくなりますが。
あ、「全然お子さま」は誤用ですかね。(もうええやんけ)

話を文化庁の調査結果に戻しますが、今年の調査結果の中に少し脱力した言葉がありました。
「どんな語に「お」を付けるか」という設問なのですが、用意された言葉は以下の15語でした。

 ・お弁当
 ・お天気
 ・お皿
 ・おビール
 ・おソース
 ・お紅茶
 ・お酢
 ・お薬
 ・お手紙
 ・おくつした
 ・おかばん
 ・お酒
 ・お米
 ・お茶わん
 ・お菓子

もちろん自分も全部「お」をつけてるわけではないのですが、ひとつ変な言葉が混じっていると感じました。
「おくつした」。
調査結果で「くつした」に「お」をつけると答えた人がいたことも驚きですけど(セレブ?)、「くつした」を選んだ文化庁のほうがおかしくないか?と思います。
「おくつした」なんて幼稚園児でもあんまし言わないような言葉だと思うけど、なんでこんなの答えさせたかなぁ。
くだらない文句かもしれないけど、税金使って調査するんなら、もう少し国民のタメになる事例を持って来ないといかんですね。

さて自分が「誤用だと初めて知った」今年の言葉。
それは「従来から」。
4人に3人は「気にならない」と回答したそうですが、あたしゃ気になる以前に「どこがおかしいんだ?」と一瞬考えてしまいました。
「従来」には「以前から」「従前より」という「から」も含めた意味があるので、「従来から」は「あとで後悔」「馬から落馬」のように二重表現となるそうです。
よく考えればその通りですが、これはもうゴキブリと同じで元に(正しく)戻らないんじゃないかなぁ。
自分もたぶんこのBLOGのどこかで使ってるかもしれませんし、「まだ未完成」「今朝の朝刊」などとともに、普段からまったく気にせず発している言葉だと思います。

新聞各紙ともこの調査結果を報道したようですが、東京新聞なんか「二重表現ですが・・」と見出しをつけておきながら、「4人に3人は違和感を感じないといった実態が浮き彫りになった」などとスルっと書いてあります。
「二重表現」って言ってるそばから「違和感を感じない」ってのも、どうかと思いますね。
「違和感を覚えない」にしておくとか、少しは考えなかったんでしょうか。
あ、「違和感を感じる」ってもしかして間違いとは言えない表現でしょうか?
「臨場感を感じる」とはあまり言わんぞ。「臨場感」は「ある」だ。
「危機感」はどうだろう?
「違和感を感じる」を言い換えるなら「違和を感じる」だけど、「危機を感じる」って言うと少しニュアンス変わりますね。
「危機感を覚える」よりもヤバそうな感じだ。
難しいなぁ。

で、「従来から」って、ホントに間違った表現なのか?
いまひとつ納得できなかったあたしは意地悪くネットであちこち調べてみました。
そして非常に痛快(←失礼)な事例を発見したのです。

なんと国語学会(現:日本語学会)のサイトに、「従来から」の記述を見つけてしまいました。
国語そのものや誤用に関するページではなく、組織運営の説明のような内容ですが、「従来からある外部査読委員の制度は存続し・・」と書いてあります。

いや、別に国語学会の方々をあげつらうつもりはありません。(本当か?)
自分も人様の言葉遣いを指摘できるほど日本語に堪能ではありませんし。
でもマスコミにしても国語学会にしても、このあたりの二重表現については、従来から違和感は感じていないようです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

住めば都

文化庁の国語に関する世論調査で、言葉や慣用句の持つ本来の意味を知らず、全く別の意味で使っている実例が報告された。
で、いくつかあがっていた例を見て愕然とした。
ほとんど自分も本来の意味を知らないで使っていたのだ。

「檄をとばす」「憮然」なんて、本来の意味で使っている人なんているのかと思うくらい、間違った?意味の方が通用していると思う。
「檄をとばす」なんて日常会話ではあまり使わないが、本来は「自分の主張を強く訴えて同意を求め決起を促す」ことだそうだ。
「たるんだヤツにハッパかける」ことではないそうです。
でもこないだの「サンデーモーニング」では明らかに「ハッパをかける」意味で使っていたぞ。
マスコミだってちゃんと使えてないじゃん。

「憮然」とは「失望して呆然とすること」、「姑息」とは「一時しのぎ」・・・
自分は日本語について正しい使い手だという自信はあまりないが、このあたりの言葉を正しく理解できていなかったことはかなりショックである。反省。

とすると、同じ文章でも正しく理解してる少数の人と、勘違いしてる多くの人とでは、受け取り方が変わってくることになる。

「社長は部下に向かって檄をとばしたが、部下は全員憮然としていた。」

正しい意味で解釈すれば、「社長は自分の主張を強く部下に訴えたが、部下は失望して皆呆然としていた」になる。
「社長はそういうけどさぁ、そんなムリな話できっこないじゃねえかよ」という、やや部下の側に立ったニュアンスである。
ところが、多くの人は「社長は部下にハッパをかけたが、部下は皆むくれていた」→「まったく社長のワシが一生懸命言ってるのに、みんなちっとも働きゃしない」という、むしろ社長に肩入れしたような意味合いにとるのではないだろうか。

「姑息」についてはマイナスのイメージしかない。
「一時しのぎ」もあまり前向きな感じではないが、必ずしも良くない状況ばかりを指すものでもないことになる。
ホントにこの言葉って「ひきょうな」「セコイ」といった意味はないんでしょうか?
「姑息なヤツ」って表現、本来の意味だと成り立たないですよね。
「一時しのぎなヤツ」。いまいち意味不明。
正しく理解できてない自分が言える話じゃないけど、これはもう「手遅れ」な言葉じゃないですかね。
ゴキブリだって印刷ミスが原因で「ゴキブリ」になったんでしょ?
正しくは「ゴキカブリ」だったのだが、もう「手遅れ」だって、トリビアでやってたよなあ。

「的を得る」「取りつく暇もない」「押しも押されぬ」あたりはなんとか正解できますけど、あらためて自分の日本語力が足りないことを痛感しました。

最後に、「住めば都」。
これの何が問題なの?と思ったら、最近の若い人の中には「住むなら都会」って意味だと勘違いしてる人がいるとのこと。
もちろん誤りだし、喜んではいけないのでしょうけど、なんか自分にとっては新鮮な感覚でおもしろいなあと思ってしまいました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

独断と偏見

いつからこういう組み合わせで使われてきたのだろうか、「独断と偏見」。
2つの言葉は本来意味は同じではないが、単独で使用されるよりもセットでの方がよく見かけるような気がする。
なぜかわからないが「偏見と独断」とは言わない。

今を去ること25年ほど昔、学校の先生にこれを多用するヒト(中年女性)がいた。
自分はその時すでにこの組み合わせに何の面白味も感じていなかったし、正直「古くさいな」と思っていた。
70年代末のことだ。
ところが、どういうわけかこの組み合わせは、すたれることなく21世紀においてなお使われ続けている。
ネットでも、検索すると数万単位でヒットするのだ。
驚くほかない。

「独断と偏見」を最初に公の場に著したのは開高健だという話を聞いたような気がするが、確証はない。
いずれにせよ公文書やあらたまった場面で使われる組み合わせではなく、くだけた文章や会話の中で用いられる。
自分の考えや趣味・選んだものなどについて、やや自信がないような時に「一応入れておく」形で使うことが多いようだ。

しかしである。
使う方に聞いてみたいのだが、「独断と偏見」って、おもしろいですか?
まだ笑いのとれる言葉なんでしょうか?
もはや何のチカラも持たない言葉だと思うのですが・・

「独断と偏見」って書いてある文章は、書いた人から「ボクこんなこと書いてるけど、許してね。でもボクっておもしろいでしょ?」と言われているような気がして、なんかすっごいイタイのだ。
どうしてこれって死語にならないかなあ?
世間で「死語」として認識されていれば、まだ運用のしかたもあるってもんだ。(そうでもないか?)
が、未だ何の疑いもなく綴ってしまう方々がおられるのは、本当に驚きである。

ネットでも新聞でも雑誌でも、「私が独断と偏見で選ぶ今年の映画ベスト10!」などという記述を見ると、はっきり言って脱力である。
読み手の脱力をねらって使っている、というのなら意図はわかる。
「トホホ」という言葉なんかはそう使われる。
「トホホ」自体もう死んでる言葉だし、それを入れることでよりいっそうの脱力感を表現する意図があっての運用だ。
ただしそれなりの表現力は必要な気がしますけど。

たとえば「私が選ぶ名画ベスト10」というサイトがあったとしよう。
ヒトの好みの問題なんだから、「こいつこんなくだらねーの選んでやがる」と思うこともあるだろう。
そんなことはお互いに何を選ぼうが勝手なんだから別にいいのだが、むしろせっかくいい趣味してるのに「独断と偏見で選んでみました」なんて書いてあったら、なんだかがっかりしませんか?
こんなこと考えてるのって自分だけ?

若い人たちにとっては、特に古いとも思われていないのでしょうかね。
もしかして「独断と偏見」てのは実はとてもナウイのでしょうか。
あ、だんだん文章が汚くなってきちゃった・・

全然関係ないのだが、つい最近スポーツ新聞でとても脱力な見出しがあった。
近鉄とオリックスの合併についての記事だったのだが・・

「ファン怒号 近鉄バッキャローズ」

どうです。
21世紀なのに「バッキャロー」だよ。
なんか脱力を通り越してめまいがしそうである。
バッキャローかよ・・・言われる近鉄も気の毒だなあ。
球場で「バッキャロー」とどなった観客なんかホントはひとりもいないんだろうなあ。
当たり前ですが。
実際に「バッキャロー」って言ってみるとわかりますが、赤面しますよ。
よく考えればただのダジャレなんだけど、アエラに使われる前に出しておいて良かったかもね。

・・・話がそれました。
「独断と偏見」を使うこともヒトの好みだから、いちいちとりあげるような問題ではないかもしれない。
なんたって「独断と偏見で」やってるんだから、何を書こうと何を言おうと勝手だって?
「トホホ」「バッキャロー」なんかといっしょにするな?ちゃんとした熟語だし、誤用じゃないって?
それはその通り。
ただ自分にとっては、何というか船酔いみたいな気分にさせる言葉なのだ。
使われすぎて、もうボロボロだと思います。

もうそろそろ、使うのやめてみませんか?「独断と偏見」。

| | コメント (13) | トラックバック (0)

ありえない

言葉は生き物であり、常に変化している。
最近、まさにその変化の過程にあると認識した言葉がある。
「ありえない」。

本来は「可能性を強く否定する」場合に使う言葉で、否定を強調したり断言する時に用いるはずだ。
ところが最近のヤング(死語)の間では、驚きや非難、脱力の意味で使われているようだ。
実際CMでも、携帯を会社に置いてきた男に女が「ありえない!」といって去っていく、といったものがある。
どうやら肯定的には使わないみたいですね。

これは少なくとも数年前まではなかった使い方だ。
どこが起源なのかわからないが、世間ではまだ違和感や嫌悪感を覚える方もおられるであろう。
自分もやはり違和感はあり、実際に「驚き・非難」の意味で使うことは、今のところしていない。

「乱れている」と言えばその通りだろうが、勘違いから来る誤用の蔓延ではなさそうだ。
(なので余計にタチが悪いという指摘もありそうですけど)

この現象については、「乱れを遺憾に思う」ことよりも、「今変化の過程にある」という実感の方が大きい。
感動というわけではないのだが、今までに実感したことのない現象ではないか?貴重な体験ではないか?とも思う。
単なる流行語で終わる可能性ももちろんあるのだが、もしかするとこのまま辞書に載ってしまうほど一般化してしまうかもしれないのだ。(本当か?)

これまでの流行語と少し違うのは、言葉そのものの新規発生ではなく、運用のしかたの変化だという点である。
少し考えたのだが、我々の世代でもこれと似たようなことをしてきたのではないか?と思う言葉があった。
「あせった」という言葉である。

言うまでもなく「あせる」の過去形ですけど、「あせる」は余裕がなくなってあわてるとかいらつくとか、そういう「気が急く」状態を言うと思うのだが、我々の世代(80年代のヤング)ではその昔「驚いた」の意味で通用していたのだ。
「目の前で交通事故が起こってあせったよ」
「片思いの人に街でバッタリ会ってあせった」
・・・という使い方。
予期せぬ事態に気が動転した、という場合に使っていたわけですね。
本来の「余裕がなくなってあわてた」というのとは少し違う。
これって、今のヤング(死語。しつこい)はあまり使わないかもしれないけど、どうでしょう?

で、「ありえない」の変化は、こんな「あせった」をはるかに超えていると思う。
「おかしい」「あわれ」だって何百年もたったら意味は変わったのである。
百年後の日本では「ありえない」だってすっかり変わってるかもしれないのだ。

そういう意味で、「まさに今変化しようとしている」「やっぱ言葉って生きてるんだなあ」という実感がわく言葉なのだ。
(とてもバカな感想ですが。)
古くさい言い回しだが、「動向を見守りたい」気分なのである。

・・・・そんなことは、「ありえない」?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1万円からお預かりします

「1万円からお預かりします」
「コーヒーのほうお持ちしました」
「こちらサラダになります」

こうした言い回しがいつから定着しているのか、よくわからない。
ファミレスやコンビニで若い店員が使うことが多いようで、「ファミレス敬語」「コンビニ敬語」などと呼ぶそうだ。
少し驚いたのは、こうしたファミレス敬語に違和感や嫌悪感を抱く人が意外と多いことだった。
やはり正しくはない言い方だから気にはなるのだろう。

「1万円からお預かりします」は、会計を仕事にしない人は口にしない言葉である。
日常会話では使われない。
だからこそ、普通の(=正しい)日本語表現とは少し違う形にしてもいいのではないかと思う。
意味は通じるわけだから、このまま使っていっていいのではないでしょうか。
客側も「この表現はプロ仕様」と考えればいいのだと思いますけど。
「1万円から」はあくまでプロがお客様からお金を受け取る時の言い方。
「間違い」「乱れ」とは次元が違うような気がする。

「こちらサラダになります」は正しくかつ丁寧に言うと「サラダでございます」になるのでしょうかね。
気になる方の中には「はぁ?いつかこれがサラダに変化するってぇのかよ」などと突っ込みたくなる人もいらっしゃるようですが。

ではどうして「サラダになります」なのか?
別に「これからサラダに変化します」って言ってるわけではない。(当然ですけど)
思うに、「サラダでございます」は、確かに丁寧語なのだが、語感としては濁点が多くて、音声として美しく聞こえにくい、というのがあったんじゃないでしょうか。
そこで「デゴザイマス」よりも音声的にやわらかく、かつ「サラダです」という言い切り口調でもない表現として、「サラダになります」が開発された、と。
違うかなあ?

「日本語が乱れている」という指摘は、まあごもっともではある。
が、そういう指摘をする人は、「食べれる」「見れる」「来れる」などを使っていない自信はあるんだろうか。
もっと言うと「役不足」「帽子をアミダにかぶる」「確信犯」などの正しい意味をわかって使えているんだろうか。

飲食店で会計する時「お姉さん、おあいそ」と言うオヤジがよくいるけど、自分はこの方がずっと気になる。
これは誤用。客が口にする言葉ではなく、お店側が言う言葉だ。
店に入って客が自分で「いらっしゃい」って言うのと同じレベルですね。

・・・まあ話がそれた。元に戻そう。
「1万円から」「コーヒーのほう」といった言い回しは、慣れると無意識になっている部分はあるが、使う側が実は正しい言い方をわかっていながら、あえて使っているのである。
ここが「見れる」「お姉さん、おあいそ」とは違う点だ。
さらに言えば、その工夫は決して自己満足的な意図から発生したものではないと思う。
お客様との間の空気を少しでも柔らかくできるとしたら・・という苦心が読み取れませんか?
まあ実際マニュアルに沿って使ってる店員に、そこまでの意識があるかどうかは不明だが。

例えば日本語には「お茶が入りました」という表現がある。
よく考えればおかしな表現だ。
お茶が勝手に湯飲みに入るはずもない。
英語だと「あんたのために私はお茶を入れた」とかになるんだろうか。
ここをあえて「おまえのためにおれは」などと恩着せがましいことを言わず、お茶のほうから自然と入ったような言い方をすることで、お互いに心やわらぐ時間を共有しませんか?という意味が込められているのだ。
なんて素晴らしい表現なんだろう。
こういう奥ゆかしい表現が残っていることはとても大事だ。
このくらいのゆとりを持って日本語を運用したいものである。

最近になって店(企業)側でも、ファミレス敬語を禁止する動きも出てきているようだ。
客から指摘をたびたび受けてきた店(企業)側が改善を考えたものらしいが、指摘してる客側の傲慢さが透けて見えて、自分としてはそっちの「ほう」がイヤなのである。

どうもこのファミレス敬語を嫌う人の多くは、ファミレスやコンビニで働く若者を見下してるように思える。
これは自分だけがそう思ってるのかもしれないけど、長く続く不況の中で、特に飲食店関係で働く若者の姿はとてもしっかりしていると感じている。
きっと安い給料で働かされているだろうに、きちんとしてないとすぐクビになるからだろう、その割には客への応対が非常にまともだ。
「最近のファミレスやコンビニの店員はなっとらん」と言われる方は、いったいどこを見てそう思っておられるのだろうか。

最後に、どうしても書いておきたいことがある。
ある週刊誌の連載コラムで、このファミレス敬語がとりあげられていた。
筆者はこのおかしな日本語には非常に厳しく、ひとつひとつ突っ込みをいれながら、乱れを指摘していた。
それは別に構わないのだが、結びの部分で「こうした言葉を使う若者は、育ちが悪いってことでしょうね」という表現があった。

これはダメである。
もちろん筆者氏が言いたいのは「親や周りの大人の指導しつけがなっとらん」ということなのだろう。
それを言い表すのに「育ちが悪い」という下品な言葉を、出版物上で使ってしまう品のなさがとてもイヤだ。
今時の若者の言葉が気に入らないなら、「我々大人が正しく指導してやるべきだ」で結論付けすれば済むことだ。

例えば一般人がネット上の掲示板で使うとか、居酒屋で酒飲みながら口にするとか、そういう場面ならばまあ許される範疇だとは思うよ。
でも金もらって週刊誌に文章寄せる時に、「育ちが悪い」は品がなさ過ぎだろう。
筆者氏本人はさぞかし痛快なのかもしれないけど、こんなの「1万円からお預かり」よりずうっとタチが悪い。
他にも「親の顔が見たい」「お里が知れる」といった、本人の出自までもを問うような表現を、公の出版物で使用することは良くないと思うけど、いかがでしょうか?

| | コメント (21) | トラックバック (2)

箸と説得力

先日日テレの「バンキシャ!」という番組で、早稲田実業初等部のいわゆるお受験がとりあげられた。
寄付金350万円を学校側が親にあからさまにもちかけたとか、あの話である。
大して興味もない話題だったので、ぼんやり画面をながめていた。

番組では実際の受験問題を出演者に体験してもらうという展開になった。
皿に入ったビーズのようなものを、制限時間内に箸を使って別の皿に移すという、なんだかTVチャンピオンみたいな問題である。
菊川怜は大騒ぎしながらもなんとか移し終えた。
ゲストの2人はうまくできなかったようだった。

「ワセダもくだらないことさせるなあ・・」と思いながら見ていたが、あることに気がついた。
ゲストの桐島洋子の箸の持ち方が、明らかにおかしいのだ。
要するにヘタクソな持ち方の見本なのである。
あれじゃあビーズなんか掴めるはずもない。

制限時間が来て、福沢アナが「どうですか?桐島さん」とコメントを求めた。
桐島洋子は「ワタシは指で掴むやり方で評価したいですねえ」というようなコメントを返した。
意味不明だ。全然コメントにチカラがなかった。
桐島洋子は明らかに動揺しているように見えた。
彼女は「実は箸をうまく使えない」ことを自覚しているに違いなかった。

菊川怜は「こんなのやって何になるんですかねえ?手先の器用さを見るんですか?」などと言い、テストの意図がわからないようだった。
妻は画面を見ながら言った。
「あれは手先の器用さを見るんじゃなくて、親がきちんとしつけているかどうかを見るんだよ」
その通りである。
時間内に全てのビーズを移し終えるかどうかは、あまり重要ではない。
きちんと箸が使えているかどうか、親がそれを子供に教えているかどうか、そこがテストのポイントなのだ。

桐島洋子がどういう人なのか、あまりよく知らない。
が、評論家・ジャーナリストといった紹介のされ方で通っている人物のはずだ。
ましてや今回の番組でとりあげられる話題は教育問題であり、だからこそ局側は桐島洋子を呼んだのである。
桐島洋子自身も出演する以前に当然わかっていたはずだ。

その映像の前後をきちんと見ていなかったので、今回の放映での桐島洋子の役割はよくわからない。
が、教育問題を評論する場面において、その評論家が箸も満足に使えないとは・・・
どんな考えをお持ちの方かは知らないけど、どれだけ高尚な意見を述べても、この箸の持ち方で説得力は半分以下になってしまうような気がした。

特別な事情でもない限り、箸の持ち方がおかしい場合は、矯正すべきだと思っている。
「食えりゃいいじゃん」「個人の自由でしょ」は言い訳である。
正しい持ち方でなければ箸として機能しないし、落としたりこぼしたりで食べ物を粗末にすることになる。
何より美しくない。
「親のしつけがなってない」のは理由のひとつだが、それは子供の話。
大人になっても正しく持てない場合、それは本人の問題である。
「直そうとする意志がない」だけだ。

かくいう自分も、実は中学生のころ矯正したクチである。
我が家はどうも親が無関心だったらしく、姉は未だに桐島洋子型だ。
自分の場合は、友人が見かねて矯正したのだ。
それまでは桐島洋子よりもずうっとヘタクソな持ち方だったのだが、一週間くらいで案外簡単に矯正できた。

そう、「正しい持ち方」は「最も使いやすい持ち方」でもあるのだ。(当然ですね)
その気になればどんな年齢の人でも、矯正は可能だと思う。

桐島先生、今からでも全然遅くありません。
今すぐ正しい持ち方に直した方がいいですよ。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

続・左利きと自動改札

今回はレフティやすおさんそんちょさんが書かれた、利き手に関する問題についての、右利きであるワタシなりの考えを述べます。

偶然にも同じ時期にココログの中で利き手について書かれた方が、自分以外にもふたりもいて、興味深く読みました。

自分は右利きですが、たまたま自動改札は左手を使います。
で、この話に興味がわいたのも自動改札の話を新聞で見かけたためで、もし内容がはさみや急須だったら、何の関心も持たずそれっきりだったと思います。

利き手に関する問題について、レフティやすおさんの言われる「むしろ右利きの連中に興味を持ってもらいたい」とのご意見はごもっともです。
が、簡単ではないと思います。
当事者でなければ問題についてふれる機会も考える動機も少ないことは、内容に関わらず同じです。
飛躍しますが、「左利き」の部分を「車椅子」や「うつ病」「母子家庭」「ホームレス」といった言葉にかえても、現象は同様ではないでしょうか。

そんちょさんのblogへのレフティやすおさんのコメントに、「右利きは融通がきかない」という表現がありました。
これ、たぶん正解です。
正解なんだけど、寅さん流に言えば「それを言っちゃあおしまいよ」じゃないでしょうか。

もし本当に利き手の問題を右利きの連中に考えてほしいとするなら、こうした意見を表現してしまうことこそが、その目的を遠いものにしてしまう可能性があります。
融通のきかない連中に、「おまえら融通きかないんだから少しはわかれよ」と言って、理解してもらえるかどうか?
右利きで融通のきかないワタシは自信がありません。

自分が自動改札のコラムで「ん?」と思ったのも、筆者が「左利きなんだから自動改札は使いにくい」という「固定した考えでいる」ところにあります。
「左利きだから」じゃなくて「あんたが」使いにくいだけだろ?それを左利き全員を味方につけたような物言いはおかしくねえか?って思ったのですが。

つまるところ利き手と融通のなさ・固定観念には、傾向こそあれ、最終的には個々の問題と思います。
右利きでも柔軟な考えのヤツはいるでしょうし、左利きのわりに頭の固い人も絶対いないというわけではないでしょう。

で、実際の問題として、自動改札に限りますが、左側に通す機械があれば、たぶん自分のような変な右利きにとっても、使いやすいかもしれません。(今は現実には存在しないからわからない)

問題はやはり「左側に通す改札機」が「全然ない」ことでしょうね。
10台あって1台でもそうした機械があれば、だいぶ違ってくる気がします。
高速の料金所の左ハンドル用みたいなもんかな。
数が少ないのはしかたがないけど、「全くない」ってのはやはり不親切なんでしょうね。

また左側改札機は利き手の問題だけでなく、いわゆるバリアフリーにもつながっていくのではないでしょうか?
少し考えたのですが、最近駅には車椅子の通り抜けなどを考慮した、多少間口の広い改札があります。
これを「左右どちらからでも入れられる機械」にすれば、けっこう便利と感じる人は多いんじゃないでしょうかね?
車椅子の人だって左に機械があったほうが使いやすいと思ってる人は必ずいます。
右利きだけど右足が不自由でつえをついてる人や、ワタシのようなひねた右利きも、もちろん左利きで90度カラダひねってる人も、こんな改札があれば便利だと感じるんじゃないでしょうか。

役所や鉄道会社に働きかけるとしても、「左利きのため」だけでなく、「様々な人が左側改札機を望んでいる」という理由をつけた方が、現実的だと感じます。
右利きなりに、こんなことを考えました。いかがでしょうか?

| | コメント (1) | トラックバック (1)

左利きと自動改札

自分は右利きである。
手も足も目も耳も、全部右だ。
左利きの人にとって、右利き中心にできている世の中では、不便なことが多いようだ。
はさみやカッター、急須やおたまなど、右利きには気づきにくいようなものが、左利きには不便だそうだ。

先日そんなコラムを新聞で目にして、文字通り他人事で申し訳ないけど、「そうかぁ・・大変だなあ」などと思った。
ところが読んでいくうちに、おや?と思わせる記述があった。

コラムの筆者は当然左利きなのだが、「駅の自動改札を通り抜ける際、左手で切符や定期を機械に通すため、からだを90度近くもひねって不自然なかっこうで通り抜けさせられ、不便極まりない」とのことだった。
正直、「バカじゃねえの?」と思ってしまった。
左手で自動改札に切符を入れることが、そんなに不自然な体勢を強いるもんだろうか?

「オマエは右利きだからわからないんだ」と、左利きの方は思われるかもしれない。
しかしだ。聞いてくれ。
自分は右利きだが、自動改札に切符や定期を入れる手は100%左手である。
なぜか。「右手は荷物を持つ」手なのだ。
「左手で荷物を持つ」方が、自分にとっては不自然な体勢である。

通勤で乗り換えも1回あるため、1日合計8回自動改札を通るが、絶対左手だ。
「左手で入れる」ことが不自然だと思ったことはない。
たぶん手ぶらの場合も、左手を使うはずだ。
90度カラダねじったりなんかしない。

はさみや急須が使いにくいのは、わかる。
自分でも左手で使えば不便なことは体感できるからだ。
ただ自動改札に対しては、左手で入れるのがそこまで不満かよ?と、思わざるを得ない。

・・・と思ったところで、左利きと自動改札について、インターネットで検索したら、かなりの数のサイトにヒットした。
「左利き用改札を作ってほしい」はわかるけど、「左利きイジメだ」「後ろ向きに通ろうかと思った」なんて意見もあって、こんなに困った問題だったんですねえ・・ひゃー。

また自分と同じように「右手に荷物、切符は左」という右利きの人もいるらしく、「自動改札は右利き用に作られている」という左利きの方の見方は、実はそうでもなかったりするんじゃないかなあ。
全部左側に入れるように変えた方が、どちらにとっても使いやすくなったりするかもしれない。

結局、個人差があると思う。
左利きでも別に自動改札くらい何とも思わない人だっているはずだ。
件のコラム筆者氏は、カラダがカタイだけなのか、改札通れないくらい腹が出てるのか知らんけど、彼個人の感想を「全国の左利き代表として言わせてもらう」という勘違いな姿勢でいるだけじゃないかと思います。

ちなみに自分はビンの蓋を回して開ける時も、蓋を握るのは100%左手です。
これも別に左利きっぽいわけでもなんでもなく、「握力の強い右手でビンの腹をしっかり掴んで固定するから」なのだ。
「不便」を感じることは全くない。
これって、やっぱ左利きの人からすると、「ビンも右利き用に作りやがって・・」って思うのでしょうか?

実際左利きの人の中で「自動改札は不便だ」と思う人の割合は多いのかもしれないけど、「左利きなんだからな。不便なんだからな。90度カラダねじってんだからな」って言われると、オール右(ただし改札は左手ね)のアタシなんかは「そこまで怒らなくても・・」と思いますが。
どうなんでしょうか?

| | コメント (2) | トラックバック (1)

成人式

  【成人式】 せいじん-しき
   日本各地で、絶滅したと思われる「ツッパリ」「ヤンキィ」及び
   その亜種(いずれも害虫)が、精力的に活動する様を見ることが
   できる、一年に一度の風物詩。
   また普段仕事において潤沢な時間の利用で有名な自治体の
   職員が、この日だけは害虫の駆除や鎮静といった肉体労働に
   追われる様を見ることができる。

結局「テレビに映る」ことを期待して暴れる新成人と、「暴れる」ことを期待して撮影するマスコミ側の利害が見事に一致している。
こういうマスコミの姿勢が、来年のバカ成人生産を助成していることに早く気づくべきやね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

晴海・汐留・六本木

正月に汐留と六本木に行った。
どっちもかなりの人出。
できたばかりのスポットはどこもこんな感じだ。

で、汐留に行く前に、ふと思い立って晴海トリトンスクエアに行ってみた。
オープンしたのは確か3年前だ。
その時はやっぱりすごい人出で、車も少し遠くに停めさせられ、駐車場から5分くらい歩いた記憶がある。

で、3年たったらどうなったか。
駐車場は全く待たずに入れた。
そして人出も非常に少なかった。

うーん・・・
やっぱこんなもんか。
正月なのにこの人出の少なさは・・
少しがっかり。

でもよく考えたら、買い物も食事もとてもしやすい状況でもあるのだ。
もともとレベルの高い飲食店がそろっているはずなので、並ばずに食べられるのなら、むしろ歓迎すべき事態ではないか?
見方は色々だけど、「廃れた」のではなく「落ち着いた」と受け取れば、まだ楽しめる場所かもしれない。

世間が汐留や六本木に浮かれている今、静かにうまいもん食いたいと考えてるアナタ。
トリトンスクエア、案外イイかもよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

塩ラーメンの予感

最近になって気づいたのだが、自分は実はラーメンがあまり好きではないらしい。
「らしい」というのは、意識したことがなかったからだ。
別に嫌いというわけではないが、有名店に並んでまで食べることはしない。
どう考えてもカレーや寿司のほうが食べる機会が多い。
まあラーメンも含めて、食べることにさほど興味が強いほうではない。

こんな自分だが、実は生涯忘れられないラーメンに出会ったことがある。
もう10年近く前になるが、夫婦で北海道を旅行中、室蘭の町中で小さなラーメン屋に入った。
おかみさんがひとりで作っているようで、客はほとんどいなかった。
カウンターに座り、ホタテラーメンを注文した。

ところがこれが倒れそうなくらいうまかった。
ホタテのだしがきいていて、汁も全部飲んでしまった。
あまりにうまかったので、おかみさんといろいろ話をし、最後に妻は店の外でおかみさんと記念写真まで撮った。

店の人と話をすること自体、自分としては非常にまれなことである。
だいたい寿司にしても「カウンターで注文しながら店のオヤジと会話を楽しむ」なんてことはできない。
自分は実は回転寿司が好きである。
理由としては値段が安いこともあるが、黙って食えることが結構重要なファクターだったりするのだ。
そんな自分が思わず店の人と口をきいてしまう。
それほどこの時のラーメンは圧倒される味だった。

食べてから気づいたのだが、ホタテラーメンは塩ラーメンだった。
それまでラーメンと言えばほぼ決まってしょうゆを食べていた。
(味噌は香りがダメで好きになれない。)
ヤバイくらいにうまかったホタテラーメンのせいで、それ以降塩ラーメンを食べるようになった。

残念ながらそれ以降室蘭には行く機会もなく、店もどうやらなくなったようだ。
ネットで何度か検索してみたが、探し当てることはできないままだ。
そしてあの味に匹敵するようなうまい塩ラーメンにも未だに出会っていない。

世の中にラーメン好きな人は多く、有名な店もたくさんある。
しかし人気のラーメンはたいがい味噌かしょうゆで、塩で人気の店は驚くほど少ない。
ネットでもラーメンサイトは山ほどあるが、塩専門に食べ歩いているような人のサイトは見たことがない。
(あったらぜひ教えて下さい)

歪んだ見解を承知で言うなら、今のラーメン業界は、こだわりの過ぎた「プロ客」によって塩が隅に追いやられているのだ。
もうそろそろ味噌やしょうゆにも皆飽きてくる。
脂ぎった暑苦しいラーメンばっかじゃ、健康にもいいはずがない。

そこで今、塩ラーメンである。
そう、2004年以降は塩の予感なのだ。
別に根拠ないけど。
なかなかうまい塩ラーメンに巡り会わず、なんとなくラーメン屋から足が遠のいている人も、きっと全国にたくさんいるんじゃないでしょうか。
店の側も各地で果てしなく続く激戦の中で、勝ち残るためにはもう塩で勝負しかありませんぜ。
だしはもちろんホタテやハマグリ、鰹や昆布といった海系のもの。
そう、あっさり塩味がこれからのトレンド。
「こってりしてないと物足りない」ってのはわかるけど、あっさり塩味が「嫌い」って人は、実はそんなにいないのではないでしょうかね?

ラーメンはマニアだけの食べ物ではない。
我々市民のものであり、塩が邪道などと決めつける資格など誰にもないのだ。
塩ラーメンを我等に!

・・・こうしてホントにネットから塩ラーメンブームが起こったりしたら、スゴイと思う。
流行りゃしめたもの。うまい塩ラーメンが食えりゃいいんです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

男女混合出席番号

男女混合出席番号というのが、全国の学校で広まりつつあるらしい。
男子が先というのが差別の現れであり、それをあらためるところから男女は平等であ
るという認識を、学校側も生徒側も持つようにする、というのが目的のようだ。
目的自体否定はしないし、効果のほどはわからないけど、必要なら実施すればいいだ
ろう。

ただしこの話を聞いて思うのは、「出席番号が若いことで得することは実は少ない」
という実運用上の問題である。
なぜそう思うのか。
それは自分が常に若い番号だったからだ。
自分は「イ」で始まる姓なので、どうしたって若い番号にしかならなかった。
今でもよく覚えているので、示してみます。

小学校:
1年1組4番
2年2組1番
3年4組1番
4年4組1番
5年7組1番
6年2組1番

中学校:
1年1組2番
2年12組2番
3年13組4番

高校:
1年1組1番
2年4組1番
3年5組2番

どうです。9年間で6回の1番。すごいでしょう。
これが成績順位だったらよかったのだが、残念ながらただの出席番号である。

出席番号が1番だった時、最もイヤだったのが、テストやら発表やらの公式行事で、
最初に指名されてしまうことである。
特に体育や音楽のように、クラス全員の前で一発芸?を演じるテストがかなりつらい。

誰だってテストは緊張する。
それを全員が注目する中、まだ客席もあったまってない中、最初に演じなければなら
ないプレッシャー。
しかもそれが毎回、出席番号が1番というだけで強いられるのである。
その度に自分も「スドウ」とか「タニグチ」とか、あたりさわりのない位置になるよ
うな家に生まれたかったと、自分の運命を呪ったもんである。

要するに出席番号が最初だから得したって記憶は、実はあまりない。
給食が出席番号順にもらえた記憶はないし、尿検査提出だって最初に出さなきゃなん
ないし、はっきり言って「ロクなことない」のである。

男女混合名簿、大いに結構です。
ただし今までの男子が先の出席番号順に、そんなに男子有利な条件があったとはとて
も思えない。
そんなに最初に呼ばれるのが栄光なら、いくらでも譲って差し上げます。

混合にする目的と自分の主張がずれてるのは百も承知である。
が、今でも全国の気の小さいアオキ君やアイカワ君の苦悩は、変わっていないのでは
ないだろうか?
昇順降順でも「どっちだって同じ」と思ってのほほんとしてる全国のナカタとかハシ
モトに、「向こう1年オマエが1番だ!」と抜き打ちで宣告してやりたい気分である。

たかが出席番号。
でもそれを男女混合にしたところで、平等を教育することにつながるのか、自分とし
ては非常に疑問だ。

そういう意味では、「出席番号ルーレット制」を本気で文部科学省に提案したいとこ
ろである。
真の平等って、そういうことなんじゃないの?
誰も言わないけど。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

ビッグイシュー日本版

ビッグイシュー日本版を買った。

ホームレスしか売ることのできない、ホームレスの自立を目的とした雑誌である。
イギリスで創刊され、世界中で発行されているらしい。
日本でも関西で販売が始まり、先月から東京でも売られるようになった。
東京での販売開始を知ったのは新聞記事である。

ネットで調べると新宿南口で販売とあった。
その日たまたま東京ドームでK-1を見る予定だったので、新宿に寄ってみた。
南口では拾った雑誌を集めて売るという違法な露店が、相変わらず派手に営業中であ
る。
当然そこでは売っていない。
少し探すと、いかにも人の良さそうな感じの初老の夫婦が、一人の男とにこやかに話
しているのが見えた。
男は夫婦に雑誌を渡している。
あれだ。間違いない。
夫婦はその男に励ますような言葉をかけてその場を去っていった。

夫婦が離れたのを確認して、その男に近寄ってみると、そばに雑誌の束が置いてある。
「ビッグイシューですか?」と声をかけてみた。
男は立て続けに客がきたので少し驚いた様子だったが、「はい」と答えてくれた。
「買います、買います」
思わず2回も言ってしまった。
200円を払い、1冊受け取る。
何か言おうかとも思ったが、「がんばってね」というのもなんかエラソーな気がして、
そのまま何も言わずにその場を離れた。

内容についてはいろいろな意見があるようだが、率直な感想を言えば「きちんと作っ
てあるな」という印象だ。
オールカラーだし、絵や写真、レイアウトも普通の雑誌と遜色ない。
記事内容も結構バラエティに富んでいる。
ビョークのインタビューまであった。
「これ、ビョークはノーギャラかなあ」などと下品なことを考えた。

売り方が変わっているだけに、社会性の強い機関誌系のようなものを多少想像してい
たのだが、そうではないようだ。
デパートやCD店のフリーペーパーに近い感じである。
この内容であれば、「雑誌として買う」ことだけ考えても、抵抗は全くない。

社会的に困っている人を支援するしくみや団体はたくさんある。
しかし弱者救済を掲げながら、反体制色が強すぎる怪しい団体など、そのやり方にな
かなか賛同しづらい場合もある。
目的に対して手段が支持されなければ、行動する意味もないと思うのだが、取り上げ
る問題には難しい面が多く、なかなか簡単ではないのだろう。

そういう意味では、ビッグイシューが世界中で販売されてきた理由も、紙面を見て多
少わかった気がする。
目的のためには、この雑誌がやはり売れなければダメなのだ。
つまんない雑誌ではリピーターが確保できない。
見栄や流行で買うヤツがいたって構わないと思う。
売れればそれだけ目的に近づくのだ。

自分はなぜビッグイシューを買う気になったのだろうか。
ホームレス自立を支援したい。
その気持ちが全くなかったわけではない。
しかしながら「支援する自分」の姿に実は多少酔っているのも否定しない。
またホームレスしか売ることができないという、販売形態自体に好奇心がわいたこと
も事実だ。
以前オウム真理教が世間を騒がせた頃、有楽町で信者が広報誌のようなものを路上で
配っていたが、自分はわざわざ道路を横断して受け取りにいったこともある。
全くもって弱者支援などという崇高な行いとは、チカラいっぱい縁遠い下世話な人間
なのだ。
関係者の方からすれば迷惑な話かもしれない。
そんな乱れた心理の中、吸い寄せられるように買いに行ったのである。

ともあれ東京でも始まった、ビッグイシュー販売。
雑誌としてもおもしろいし、買うことでホームレスの自立に協力したという達成感?
もある。

また次も買ってみたい気になった。
次回も同じ人から買えるだろうか。
なぜだかよくわからないが、少しだけ新宿が楽しくなってきた。

| | コメント (3) | トラックバック (2)