聴いてない 第339回 ザ・ジェッツ

ナイン・インチ・ネイルズの回でも告白したが、今日採り上げるザ・ジェッツも「聴いてない上に勝手に方向性やイメージを勘違いしていたアーチスト」に該当する。
なぜ間違えたのか定かではないが、グループの概要からヒット曲に至るまで不正確な情報で記憶してしまっていた。
以下はその勝手で不正確なジェッツ情報である。
(誤)黒人の男女混声グループ
(正)トンガ系アメリカ人のファミリーグループ
(誤)70年代にはすでにデビューしていた
(正)デビューは1985年
(誤)ヒット曲「You Got It All」はオールディーズのカバー
(正)ヒット曲「You Got It All」はルパート・ホルムズの作品で85年リリース

自分の場合勘違いはよくあるが(言い訳)、ジェッツに関してはなんか非常にタチの悪い具体的な勘違いである。
知ったかぶりしてFROCKLとかでジェッツ誤情報をまき散らさないでホントよかったと思う。
「You Got It All」しか聴いてないので聴いてない度は2。
この曲がルパート・ホルムズの作品だと今回初めて知ったという有様である。

贖罪の意味も込めてザ・ジェッツの正確な情報を綿密に調査。
ザ・ジェッツはミネソタ州出身のトンガ系アメリカ人のファミリーバンド。
ウルフグラム家の兄弟姉妹8人(リロイ、エディ、ユージン、ハイニ、ルディ、キャシー、エリザベス、モアナ)で構成され、77年にファミリーバンドとして活動を開始した。
兄弟全員でグループ結成・・かと思ったら、17人兄弟の中で8人が参加だそうだ。
残りの兄弟であともう1グループできそう・・
ちなみにイギリスのロカビリーバンドにもザ・ジェッツというグループが存在するそうです。

で、兄弟グループのザ・ジェッツ。
父親はポリネシアンダンサー、母は俳優や音楽活動をしており、家族でファミリーバンドを結成した。
当初はハワイアンやポリネシア文化的なパフォーマンスをやっていたが、興行場所のホテルからいわゆるヒットチャート的な流行歌をやるよう指示され、方向転換。
子供たちだけでバンドを組み、名前はテレビのブランド名にちなんでクエーサーとした。

その後マネージャーの発案でエルトン・ジョンの曲「Bennie And The Jets」からザ・ジェッツに改名。
ジェッツはミネアポリスのナイトクラブやバーで2年ほど活動し、少しずつ知名度が上がってきた頃、たまたまモータウンで働いていた人に発見され、レコードデビューのチャンスをつかむことになる。

85年10月14日にMCAレコードからデビューアルバム「The Jets」がリリースされた。
ファーストシングル「Curiosity」は、ビルボードR&Bシングルチャートで8位に達するヒットとなった。
セカンドシングル「Crush on You」はビルボードホット100で最高3位、R&Bシングルチャートで4位まで上昇。
続く「Private Number」は、ホット100で47位、R&Bチャートで28位だったが、最後のシングル「You Got It All」が、ホット100で3位、R&Bチャートで2位、アダルトコンテンポラリーチャートで1位という快挙を記録した。
要するにデビューアルバムからいきなり4曲がチャートの50位以内にランクインするというびっくり仰天(表現が昭和)な人たちだったのだ。
アルバム「The Jets」も全米チャート21位を記録し、プラチナ認定を受けている。

なおデビュー当時、兄弟はまだ曲制作には参加しておらず、アルバム収録曲の大半はプロデューサーであるジェリー・ナイトとアーロン・ジグマンの作品だった。
冒頭述べたとおり(知らなかったけど)、「You Got It All」がルパート・ホルムズの作品で、また「La-La (Means I Love You)」はフィラデルフィア・ソウルのボーカルグループ「デルフォニックス」のカバーである。

87年に2枚目のスタジオ盤「Magic」を発表。
シングル「Cross My Broken Heart」は全米7位を記録し、エディ・マーフィー主演の映画「ビバリーヒルズ・コップ2」のサウンドトラックにも収録された。
他にも「Make It Real」「Rocket 2 U」がトップ10入りするヒットとなった。
またチャートインはしなかったが、「Anytime」という曲はルパート・ホルムズの作品である。
なおユージンはこのアルバムには参加しておらず、メンバーは7人となっている。

順調だったジェッツだが、89年のアルバム「Believe」から実績は下降し始め、全米107位と大幅に後退。
シングル「You Better Dance」「The Same Love」も残念ながら50位にも届かず、ルパート・ホルムズの作品「Leave It to Me」はシングルカットもされなかった。
低迷の理由はいろいろあっただろうけど、背景としてグランジの台頭は間違いなく影響したと思われる。
モアナはインタビューで「90年代初頭には、ジェッツを雇おうとする人はもういなかった。でもジェッツの音楽性を刷新し、次々と現れる新しいグループと競争するのは困難だった」と語っている。
で、ジェッツはこの後90年に出したベストアルバムを最後にMCAレーベルを離れることになる。

バンドは自身の独立レーベルであるリバティパークレコードを設立。
95年にアルバム「Love People」をリリースするが、あまり話題にならずチャートインもしなかった。
このアルバムではルディがバンドを離れ、アーロン・ワテネという兄弟以外のメンバーが初めて参加している。
以降ジェッツはアルバムをリリースする度にレーベルを変えていく。

97年にシャドウ・マウンテン・レコードからアルバム「Love Will Lead the Way」を発表。
「Love People」を再収録したり、ユートピアの「Love Is the Answer」のカバーも入れてみたが、やはりよい成績は残せなかった。
なおこの年にはブリトニー・スピアーズが「You Got It All」のカバーを録音している。

翌98年には過去の曲の再録+新曲3曲という企画盤「Then & Now」を発売。
メンバーはリロイ、ハイニ、エリザベス、モアナの4兄弟だったが、弟妹のドニー、マリ、ミカ、ナタリアがバックコーラスで参加。
だがせっかく過去の大ヒット曲を収録したにもかかわらず、5万枚しか売れなかった。

21世紀に入るとジェッツとしての活動は停滞気味となる。
2001年と2004年にベスト盤、2006年にアルバム「Versatility」、2007年にライブ盤をリリースするが、バンドはほぼ解散状態にあった。

モアナによれば、解散の原因は「家族よりも音楽業界とビジネスを優先していたこと」だそうだ。
ジェッツは自分たちが犠牲にされ使い捨てにされていると感じ、現実に戻らざるを得なくなり、解散に至ったとのこと。
ジェッツは兄弟の上半分の8人で、その下にまだ9人の幼い兄弟がいたので、弟妹たちのためにジェッツが働かなければならないというプレッシャーは相当なものだったらしい。
ロックバンドにありがちな意見の衝突とか楽屋で殴り合いとかマネージャーの持ち逃げとかとは少し次元が異なる、独特な家庭環境も大きく影響していたと思われる。

再結成は2009年10月。
ハワイのホノルルで行われたMCAレコードのフェスティバルで、ジェッツはオリジナルメンバー7人で登場。
レディ・フォー・ザ・ワールドやアン・ヴォーグらとともにステージに立った。
2014年には過去のヒット曲+新曲6曲のアルバム「Reunited」を発表。

再結成後は全米各地でライブを行うなど円満に見えた兄弟だが、人気が出てくるとやっぱりジェッツを昔の悪いやり方でコントロールしようとするスジの良くない人たちがいたらしい。
デビューから5年ほどの間に全米芸能界のダークな面もイヤというほど見てきたはずのジェッツだが、再結成後もそれを教訓とすることはできなかったようだ。
マネジメントを巡って兄弟の仲は二分され、ジェッツの権利や金銭について兄弟間の訴訟にまで発展。
ただ最終的には兄弟は和解し、互いの方向性や意志を尊重しあうようになった。

現在ジェッツは2つに分裂しており、エディ、キャシー、エリザベス、モアナがジェッツとして活動。
リロイ、ハイニ、ルディが「ザ・ジェッツ・オリジナル・ファミリーバンド」という名で活動しているそうだ。
深刻な決裂ではなさそうだが、元通り再集結も難しそうという状態とのこと。

以上がザ・ジェッツの正しい概要と歴史である。
そもそも知識が大幅に間違っていたので、全て初めて知る話だった。
「You Got It All」がルパート・ホルムズの作品だったことも知らなかった。
ルパート・ホルムズはジェッツのデビューから3枚連続でアルバムに曲を提供しているが、もしかしてこれも80年代洋楽ファンにとってはサービス問題なのだろうか・・?
全然知らなかった・・・

オリジナルメンバーの中で一番若かったモアナ・ウルフグラムは、デビュー当時まだ12歳。
最年長のリロイでも20歳だったので、大半が未成年の子供バンドだった。
稼げるジェッツに目を付けた悪いヤツらがたくさん登場したのだろうが、それでも子供だった兄弟はやはり周りのオトナの言うとおりにせざるを得なかったのだろう。
才能に満ちた仲良し兄弟だったはずが、衝突や訴訟や分裂といった悲しい事態にまで発展したのは気の毒な話である。

というわけで、誤解と反省のグループ、ザ・ジェッツ。
日本で当時どれだけの人たちが聴いていたのか見当もつきませんが、聴くなら当然デビューアルバムでしょうね。
後はルパート・ホルムズの作品も追ってみるのもアリかと思いますが、皆さんの鑑賞履歴も教えていただけたらと思います。

The_jets_album
ザ・ジェッツ Jets
Jets-magic
ザ・ジェッツ Magic
Jet
アースジェット 450mL

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聴いてみた 第187回 ハート

先日大成功に終わったオアシスの日本公演。
あたしは行きませんでしたが、ネットでもマスコミでも夢の再結成をこぞって絶賛するという幸せな展開でなによりです。

だけど。
自分が「Morning Glory?」「Be Here Now」などを喜んで聴いていた30年くらい前は、カート・コバーンの死後も引き続きグランジの暗さがまだしばらく支持されており、高名な音楽評論家ほど「オアシスなんか聴いてるヤツはダサい」「あんなのはビートルズのモノマネ」などといった論調で音楽雑誌などに批判めいた文章を寄せていたのだ(と思う)。
それが30年経って兄弟殴り合わずにホントに日本に来たら、まあこの盛り上がりよう。
ダサいとか言われてたけど、やっぱみんなオアシス好きだったんじゃねえかよ・・・
再結成のニュースをぼんやり眺めながら、そんな歪んだ感想を持ちました。

そんな曲がった自分が今日聴いてみたのはハートのデビューアルバム「Dreamboat Annie」。
相変わらずヒドいフリでオアシスとは何の関係もありませんが、ハートの70年代の作品を初めて聴いてみました。

Dreamboat-annie

鑑賞前に心の友ウィキペディアを中心にハート結成の経緯をおさらい。
ロジャー・フィッシャー(G)とスティーブ・フォッセン(B)が、ドン・ウィルヘルム(K・Vo)とレイ・シェーファー(D)と共に67年頃に作ったジ・アーミーがハートの源流である。
バンドはその後メンバー交代を機にホーカス・ポーカスと改名。
さらに70年から3年ほどホワイト・ハートを名乗り、この間にロジャーの弟マイクとアン・ウィルソンが出会う。
アンとブライアン・ジョンストン(D)、ジョン・ハンナ(K)がカナダでバンドに加入し、ハートとして活動開始。
74年にはアンの妹ナンシーも加わり、バンクーバーを拠点にライブなどを行うようになる。

75年に最初のシングル「How Deep It Goes」を発表するが、あまり注目されなかった。
続くシングル「Magic Man」「Crazy On You」がモントリオールのFM局で流れ始めると人気に火が着き、9月にアルバム「Dreamboat Annie」をリリースする。
直後の10月に行われたロッド・スチュワートのモントリオール公演で、ハートはオープニングアクトに抜擢される。
アルバムは発売後数か月でカナダ全土で3万枚を売り上げ、最終的には20万枚に達しダブル・プラチナに認定された。
売上はゆるやかに上昇したため、カナダのアルバム・チャートにランクインしたのは1年後の76年9月で、10月に最高20位を記録した。(全米は7位)

ハートになる前にはそれなりに下積みはあったものの、新人バンドとしては順調なスタートである。
ウィルソン姉妹はお飾り的存在なのかと思ったら、収録曲のほとんどを姉妹が作っていた。
リーダーはロジャーさんだったかもしれないが、初めから姉妹を中心に活動してきたのは間違いないようだ。

80年代復活後のハートとはおそらくかなり異なるであろう原点アルバム「Dreamboat Annie」。
果たして80年代にまみれた浅薄な自分のハートにはどう響くのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

 1. Magic Man
うなるギターでスタート。
この曲はライブ音源で聴いたことがあったはずだが、あまり覚えていない。
ギターが目立つサウンドは案外シンプル。
アンが当時つきあっていたマイクのことを想って書いた曲とのこと。

2. Dreamboat Annie (Fantasy Child)
アルバムの主題曲で邦題は「夢見るアニー」。
同じ曲が3パターンあるが、これは一番短いバージョン。

3. Crazy On You
これもライブバージョンで聴いている。
イントロはアコースティックギターだが全体はスピーディーなロックで、どこかフォークの香りもする。

4. Soul Of The Sea
波の音とともに始まる静かな曲で、どこかツェッペリンのような雰囲気。
中盤で曲調がプログレっぽく変わり、組曲風になっているが、やや難解な印象。

5. Dreamboat Annie
前の曲につながる形で始まる。
これが3パターンのうちの本編という感じで、バンジョーなどいろいろな楽器の音がする。

6. White Lighting & Wine
ブルース色の辛口なメロディ。
すでにアンのボーカルは確立されており、この曲で一番激しく叫んで歌っている。
どんな曲でもこなせる非凡なシンガーであることがよくわかる。

7. (Love Me Like Music) I'll Be Your Song
比較的おだやかなナンバーで、これもどこかフォークっぽい音がする。
姉妹のコーラスもこの曲が一番よく聞こえる。

8. Sing Child
再びヘビーで重いブルースロック。
途中フルートが混じったりジミー・ペイジ風のギターソロがあったりの構成。
フルートはアンが吹いているそうだ。

9. How Deep It Goes
ハートとしての最初のシングルで、静かに始まる抑えめの曲。
ストリングスやピアノ、フルートの音もするクラシカルなサウンド。

10. Dreamboat Annie (Reprise)
ラストは再び「夢見るアニー」。
このバージョンが一番壮大に聞こえ、エンディングにふさわしい仕上がりとなっている。

聴き終えた。
ロジャーのギターとアンのボーカルが中心であることが伝わる楽曲とサウンドである。
ブルース色の強いロックと、フォーク調のアコースティックなバラードが交互に流れ、多面的で緻密な構成となっている。
若いバンドにありがちな不安定さもなく、完成度の高いデビューアルバムだと思う。

ただし。
ハートを聴いてきた誰もが感じるところだろうが、80年代の復活後のハートとはかなり違う。
全体的に辛口で暗いメロディが多く、自分の好みからもやや遠い。
若い頃に聴いていたらおそらくローテーション入りは難しかっただろう・・というのが正直な感想になる。

元々姉妹がやりたかったのがこの路線で、そのまま80年代に突入してなかなか受けなかったので、プロデューサーにロン・ネヴィソンを起用し、外部のソングライターが作った歌で大ヒットしてバンドは復活・・というのが、よく知られているハートのサクセスストーリー。
復活後は自分みたいな極東の素人リスナーでも聴いたくらい売れたのでよかったじゃんとも思うが、売れる一方でロン・ネヴィソンが推進する産業ロック路線には納得できない面もあった、とアンは発言している。
スティクスジャーニーイエスなど、路線を変更して80年代にめでたく売れたバンドはおそらくどこも同じような話があったと思われる。

ジャケットはハートマークを真ん中に置いた姉妹の背中合わせの写真。
なんとなく昔の少女漫画の付録みたいなかわいらしい雰囲気だが、中身の楽曲やサウンドとはあまり合っていないような気はする。

というわけで、ハートの「Dreamboat Annie」。
秀逸で精緻な楽曲と歌唱・演奏ではありましたが、やはり自分が好きなハートのサウンドとは違ってやや難しい印象でした。
ジャーニーのデビューアルバムを聴いた時の感覚に近いです。
ただ70年代ハートの学習はもう少し必要と感じてはいますので、次の「Little Queen」も聴いてみようと思います。

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ハート Dreamboat Annie
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ハート Little Queen
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猪木啓介 兄 私だけが知るアントニオ猪木

 

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聴いてない 第338回 ポーラ・アブドゥル

毎回聴いてないアーチスト量産型のお約束珍奇BLOGですが、今日のお題ポーラ・アブドゥルもすでに壊滅状態。
そもそもどんな人なのかもよくわかっておらず、時々テイラー・デインと混同したりする有様です。
テイラー・デインも全然聴いてませんが・・・

あらためてポーラ・アブドゥル、全然聴いてません。
88年の「Forever Your Girl」、91年の「Will You Marry Me?」だけ聴いてるので、聴いてない度は慟哭の3。
どちらもMTVの音声をカセットテープに録音したのだが、映像は全く覚えていない。
正直聴いた2曲は悪くはないけど他の曲への鑑賞意欲もあまりなく、情報も仕入れることなく30年以上経過。
日本での人気や知名度もさっぱりわからないが、調べたら全米No.1ヒットシングルを6曲も出しており、本国アメリカでは歌手以外の活躍でも有名な人だそうだ。
知ってました?
以下はネットで調べたポーラ・アブドゥルの経歴と実績である。

ポーラ・ジュリー・アブドゥルは1962年6月、カリフォルニア州サンフェルナンドで生まれた。
父親はシリア系ユダヤ人、母親はロシアとウクライナにルーツを持つカナダ出身のユダヤ人である。
幼い頃からバレエやジャズダンスを習い、高校ではチアリーダー部に所属。
映画「雨に唄えば」のジーン・ケリーに影響を受け、将来はショービジネス界で活躍したいと思うようになった。

大学生の時、ロサンゼルスのバスケットボールチーム、レイカーズのチアリーディングチームに選ばれた。
その後ポーラはチームの中心的存在となり、リーダー役や振付担当となる。
この経験がその後のキャリアにも活かされることになったようだ。

プロとしての最初の仕事は振付師だった。
レイカーズの試合を観戦していたジャクソンズのバックバンドメンバーは、ポーラ・アブドゥルにジャクソンズのシングル曲「Torture」のミュージック・ビデオの振り付け担当を依頼。
ポーラはジャクソンズにダンスを教えるというものすごいプレッシャーの中、「どうやって乗り切ったのかよく覚えていない」と回想している。
「Torture」の振り付けの成功により、ポーラはミュージック・ビデオの振付師としてのキャリアをスタートさせた。

その後ジャネット・ジャクソンの「What Have You Done for Me Lately」「Nasty」「When I Think of You」「Control」の振り付けを手掛け、「What Have You Done for Me Lately」では自身もジャネットの友人役としてビデオに出演している。
またジョージ・マイケル、 ZZトップデュラン・デュランなどの振り付けも担当し、プロモ・ビデオの流行にも乗って活動を広げていった。

振付師として注目されたポーラだったが、実は本人は歌手になりたかった。
そこでポーラは自腹で歌のデモテープを制作し、ジャネット・ジャクソンのマーケティングを担当していたジェフ・エアロフに売り込む。
ジェフはポーラのダンスや振り付けの実力は認めていたが、歌は未熟と判断し、周囲の様々な関係者と協力してポーラの歌唱力を鍛えたそうだ。

こうしてポーラ・アブドゥルは、ジェフ・エアロフによって新しく設立されたヴァージン・レコード・アメリカと契約。
88年にデビューアルバム「Forever Your Girl」を発表すると、全米ビルボード200アルバムチャートでいきなり1位を獲得した。
アルバムは最終的にプラチナ認定を受け、世界中で1200万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。
また収録シングル「Straight Up」「Forever Your Girl」「Cold Hearted」「Opposites Attract」の4曲が全米1位となり、女性歌手のデビューアルバムとしては初の快挙となった。

ポーラは2枚目のアルバム「Spellbound」でも再び全米1位と成功を収め、全世界で700万枚を売り上げた。
シングル「Rush Rush」「The Promise of a New Day」も1位を記録。
なお「Rush Rush」のミュージックビデオには映画「理由なき反抗」をモチーフにした作品があり、キアヌ・リーブスがジェームズ・ディーン役で出演している。
また「Will You Marry Me?」にはスティービー・ワンダーがハーモニカでゲスト参加。
91年、ポーラはダイエットコークの人気コマーシャルに出演し、アイドルである若き日のジーン・ケリーのデジタル画像と一緒に踊った。
92年には日本を含む初のワールドツアーが行われ、大阪・横浜・東京での公演も実現。

人気実績ともに絶頂にあったポーラ・アブドゥルだが、この後健康面や私生活でいろいろなトラブルに見舞われる。
だがその主張には疑わしいという意見もあるようだ。
本人によれば、92年頃ツアー中にアイオワ州で飛行機墜落事故に遭い、15回もの頸椎手術を受けたと述べている。
しかし全米の航空事故の調査を任務とする国家運輸安全委員会には、ポーラの説明に合致する事故の記録がないとのこと。
この事故については、ポーラは今も自分の主張を曲げていない。

さらに彼女は10代の頃に過食症を発症し、スターになってから症状が悪化し治療が必要になったと明かす。
また17歳の時に「チアリーディング中の事故に遭い、慢性的な痛みを引き起こす反射性交感神経性ジストロフィーと診断された」とも述べている。
これも一部のマスコミなどからは「薬物使用の疑惑隠しではないか」などと言われているようだ。
ポーラの不安定な部分は、その後も度々世間を賑わすこととなる。

ポーラは92年に俳優のエミリオ・エステベスと結婚するが、94年には離婚してしまう。
96年には服飾デザイナーのブラッド・ベッカーマンと結婚したが、1年半ほどでまた離婚している。

95年6月に再起をかけてアルバム「Head over Heels」を発表。
ポップとR&Bの要素を採り入れ、全米最高18位を記録したが、以前ほどの実績は残せなかった。
結果的に歌手としてのオリジナルアルバムはこの作品で終了となる。
なおこの年の11月には来日公演が行われ、有明コロシアムで歌っている。

その後引退してオクラホマの農場でのんびり過ごす・・といった状況にはならず、かなりドラマチックな展開となる。
新曲発表はなくなったが、2000年にはベストアルバム「Paula Abdul: Greatest Hits」をリリース。
ダンサーとしてエクササイズDVDを発表したり、映画に出演するなどの活動は続いた。

転機となったのは2002年。
ポーラはテレビの人気オーディション番組「アメリカン・アイドル」の審査員の1人として出演し始める。
彼女は振付師としての実績を活かし、出場者のパフォーマンスの評価に的確で親切な評価やアドバイスをし、他の無愛想な審査員と比べて高い評判を得た。

この番組出演のおかげでポーラの人気が復活し、チアリーディング番組の司会やダンス指導などの仕事をするようになる。
2008年には久々の新曲「Dance Like There's No Tomorrow」を発表し、スーパーボウルの試合前のショーでこの曲を披露した。
ポーラ人気もあって「アメリカン・アイドル」は2016年まで15年間も続き、ポーラは2009年頃まで審査員を務めた。

ただ人気の一方でトラブルや疑惑の話も多かったらしい。
2004年にロサンゼルスでひき逃げ事故を起こしたり、テレビ番組出演中の奇行やインタビュー中に呂律が回らなくなる様子などがネット上で拡散され、その都度薬物使用が疑われた。(本人は否定)
またこれは本人に非はないようだが、2008年にはポーラの自宅前で熱狂的な女性ファンが薬物過剰摂取により車中で死亡する事件が発生。
女性は「アメリカン・アイドル」のオーディションで落選しており、ポーラへのストーカー行為もあったそうだ。

その後は主にダンスオーディション番組の審査員や振付師、俳優として活動。
2016年には歌手として25年ぶりのツアーも行い、2018年にはデビュー30周年記念ツアーが行われた。
2023年、ブロードウェイ・ミュージカル「How to Dance in Ohio」の製作チームに参加。
2024年にはニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックの10年ぶりのツアーでヘッドライナーを務める。
今もテレビや映画に出演し、その多くは本人役だそうだ。

以上がポーラ・アブドゥルの経歴である。
知ってた話は微塵もなし。
オリジナル盤が3枚だけ(しかも2枚は全米No.1)というのも初めて知った。
アルバム「Forever Your Girl」のジャケットはかすかに覚えているが・・・
日本では誰でも知ってる大スターというわけではない(と思う)ので、本国と日本での人気や知名度がかなり乖離している人だと思われる。
ヒットを飛ばしていた時は、個人的にはFMエアチェックをしなくなり、FMステーションやミュージックライフ購読もやめた頃なので、ポーラ・アブドゥルに限らずアーチスト情報を仕入れなくなった時期なのだ。(言い訳)

「Forever Your Girl」はジャネット・ジャクソンが歌っても違和感のない楽曲だと思う。
ジャネット・ジャクソンも全然聴いてないので説得力は全くないけど、軽快なリズムやきらびやかなサウンドは、ジャネットが歌って踊ってもヒットしたんじゃないかなと思う。(適当)

というわけで、ポーラ・アブドゥル。
オリジナルアルバムは3枚なので全盤制覇も難しくはなさそうですが、聴くならまずは最初で最大のヒットアルバム「Forever Your Girl」でしょうね。
聴いていた方からのご感想をうかがってみたいと思います。

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ポーラ・アブドゥル Forever Your Girl
Spellbound
ポーラ・アブドゥルSpellbound
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ブッチャー: 幸福な流血

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聴いてみた 第186回 オアシス その2

今日聴いてみたのは、いよいよ来日公演が間近にせまったオアシス。(行かないけど)
彼らの現時点で最新・最後のスタジオ盤「Dig Out Your Soul」を聴いてみました。
まだこんなの聴いてなかったヤツが日本にもおるんかと言われるほどの名盤である。(適当)

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アルバムの基礎情報は以下のとおり。
「Dig Out Your Soul」は、オアシス7枚目のスタジオアルバム。
2007年8月から12月にかけてロンドンのアビー・ロード・スタジオで録音され、プロデュースは前作に続いてデイブ・サーディが担当。
なおリンゴ・スターの息子ザック・スターキーは2004年からオアシスのツアーゲストメンバーとして参加し、このアルバムでもドラムを担当している。
一時は「正式にオアシス加入か」などとも伝えられたが、最終的にザックはザ・フーの正式なメンバーとしての活動を選択した。
ツアーではアイシクル・ワークスやザ・ラージでドラマーを務めたクリス・シャーロックがザックの代役で演奏したが、クリスもオアシスに加入することはなかった。

アルバムが2008年10月に発売されると、多くの音楽評論家から「バンド史上最強のアルバム」「『Morning Glory 』と並ぶ作品を作った」「無駄を削ぎ落としたロックのルーツに立ち返った」などと高評価を受けた。
チャートにもその評価は反映され、全英ではめでたく1位、全米も5位を獲得。
1年半に及ぶツアーも開始された。
アルバムそのものの概要はこんな感じである。

だが。
皆さんよくご存じのとおり、このアルバムはバンドにとって終わりの始まり、終末への序曲、一人民族大移動、戦いのワンダーランドの幕開けでもあったのだ。
アルバムツアー期間中、ギャラガー兄弟にはトラブルが頻発する。
2008年9月、トロントで演奏中に観客の一人がステージに乱入し、ノエルを背後から突き倒すという事件が発生。
倒されたノエルは肋骨を折り、その後いくつかの公演をキャンセルするはめになった。

翌年8月22日、バンドはイギリスのウェストン・パークでライブを行う。
だが今度はリアムの体調不良により、翌日以降予定されていた公演をキャンセル。
この時兄弟は激しい口論となり、1週間後に予定されていたパリ公演も中止となった。
直後にノエルはオアシス脱退を発表。
世界中の誰もが「またケンカが始まったよ」と本気にしなかったが、残ったメンバーはビーディ・アイと名乗ってバンドを再開、ノエルもソロとして活動を開始。
以来15年以上にわたり兄弟の断絶が続いたのだった。

作ってる間はまさか本人たちも分裂するとは思ってなかったはずの「Dig Out Your Soul」。
原点回帰なサウンドは果たして自分の耳にはどう聞こえるのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1. Bag It Up
2. The Turning
3. Waiting For The Rapture
4. The Shock Of The Lightning
5. I'm Outta Time
6. (Get Off Your) High Horse Lady
7. Falling Down
8. To Be Where There's Life
9. Ain't Got Nothin'
10. The Nature Of Reality
11. Soldier On
12.I Believe in All
13.The Turning(Alt Version # 4)

ラストの2曲は日本盤のみのボーナストラックである。

聴き終えた。
まず感じたのは全般的に曲調が重く暗い点。
もちろん彼ら本来のワイルドなロックではあるが、気分が高揚したりリズムに乗って体が揺れたり・・といった感覚とは少し違う。
リアムが歌う曲だけでなく、ノエルがボーカルでも太く重い曲が多く、二人の声の差はむしろ小さくなっている。
もちろん「The Shock Of The Lightning」などスピーディーで心地よいロックもあるが、そういう曲は思ったより少ない。

「初期のオアシスに近い」「原点回帰」といった評価があるようだが、確かに当たってはいると感じる。
ヤンチャで野蛮なサウンドと野太いリアムのやさぐれボーカルは健在なので、じゃあいいことじゃん・・となるはずなのだが、自分の好きな初期のオアシスとはどこか違うのだ。

全体を聴いて気づいたが、このアルバムにはバラード曲がほとんどない。
「Don’t Look Back in Anger」「Wonderwall」「Whatever」「Stand by Me」といった、後世に歌い継がれるような名曲に並ぶようなバラードが、このアルバムには入っていないのだ。
「I'm Outta Time」が唯一のバラードで、悪くはないがやはり過去の名曲と比べると弱い。

前半はそのワイルドな曲が多いが、後半には多少大人しい?曲がある。
「(Get Off Your) High Horse Lady」はテンポを落とした曲だが、終始暗い雰囲気で、ボーカルもノエルの良さはあまり感じない。
「Falling Down」は静かに始まり中盤からは力強く歌うノエルの曲。
これも悪くはないけどやはり暗くて会場を沸かすような曲とも違う。

このアルバムではバンドの民主化・分業が進んでいて、ギャラガー兄弟以外のメンバーが作った曲がある。
「To Be Where There's Life」はゲム・アーチャーの作品、「The Nature Of Reality」がアンディ・ベルの作品だそうだが、聴いてわかるほど差があるわけでもない。
どちらもリアムが歌っておりオアシスの楽曲として機能はしているので、試みとしてはこの分業も悪くないと思う。

また「The Turning」のエンディングにビートルズの「Dear Prudence」の一部をサンプリングしたり、「I'm Outta Time」ではラストにジョン・レノンの声を入れてみたりといった、お得意のビートルズ趣味はこのアルバムにもちゃんと仕込まれている。
そういう意味では相変わらずなオアシスである。

というわけで、「Dig Out Your Soul」。
「こりゃあいいや」という朗らかな感想は浮かんで来ず、どちらかというと残念な感覚が残りました。
「Standing on the Shoulder of Giants」を聴いた時の違和感にも近い心境です。
本国での再結成ツアーのセットリストには、このアルバムから選ばれた曲はほとんどないそうなので、まあそうなんだろうなとも思いました。
もう少し聴くとまた違った感想になるかもしれませんが、やはり「Morning Glory?」を超える作品は出ていなかったんだという確認になってしまった、というのが正直な気持ちです。

Dig-out-your-soul_20251005175701
オアシス Dig Out Your Soul
Dont-believe-the-truth_20251005175901
オアシス Don't Believe the Truth
Oasis2025
CROSSBEAT Special Edition オアシス 2025

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聴いてない 第337回 ナイン・インチ・ネイルズ

世の中には聴いてない上に勝手に方向性やイメージを勘違いしていたアーチストというのが相当数存在するが、今日採り上げるナイン・インチ・ネイルズもそんなところ。
まず1曲も聴いてないので、聴いてない度は堅固の1。
それだけでも十分失礼な話だが、実はてっきりメタルで派手な装飾をまとったビジュアル重視なバンドだと勘違いしていた。
勘違いしていた理由は不明。
たぶん「9インチもある長い爪」という恐ろしい名前から、勝手にメタルっぽい人たちとイメージしてしまったものと思われる。
改めて調査してみると、その実態は持っていたイメージとは大幅にかけ離れていた。

ナイン・インチ・ネイルズはトレント・レズナーによる音楽プロジェクトである。
日本語ウィキペディアによれば、バンドの体裁はとっているが、基本的にはトレント個人によるプロジェクトであり、アルバムごとにメンバーは異なるそうだ。
ただ英語版ウィキペディアを翻訳すると「1988年にクリーブランドで結成されたアメリカのインダストリアル・ロックバンドである」と書いてある。
どっちが正確なのかよくわからないが、実態は「トレント・レズナーさんのワンマンバンド」でいいような気がする。

で、インダストリアル・ロックって何?
これもいまいちよくわからないが、特徴として以下が挙げられるそうだ。
・繰り返される不協和音
・怒りと虚無の叫び、冷たい世界観を表現した難解な歌詞
・濁った声でうなる耳障りなボーカル
・金属が軋むようなノイズや暴力的なドラムマシンで作られる楽曲
・ディストーションのかかったシンセサイザーサウンド
・疾風怒濤・混沌・反体制といったキーワードでくくられる音楽ジャンル

自分が聴けそうな生やさしい要素は一切見当たらないが・・・
このジャンルで必ず名前が挙がるのがマリリン・マンソンとトレント・レズナーとのこと。

トレント・レズナーは1965年5月、ペンシルバニア州ニューキャッスルに生まれた。
彼はドイツとアイルランドの血を引いており、曽祖父ジョージ・レズナーは1884年に空調機器製造メーカーのレズナー社を設立した名士で、トレント君は裕福な名門家庭の出身ということになる。
だがトレントが6歳のときに両親が離婚し、姉は母親に引き取られ、弟トレントは母方の祖父母と一緒に暮らした。
本来ならもっと恵まれた家庭に育つはずだったという微妙な境遇は、その後の人生に大きく影響しているようだ。

トレント・レズナーは12歳でピアノを始め、早くから音楽の才能を発揮した。
初めて見たコンサートは76年のイーグルスのコンサートで、「いつかあのステージに立ってみたい」と思ったそうだ。
中学・高校ではジャズバンドやマーチングバンドに所属し、演劇にも熱中。
大学ではコンピュータ工学を専攻したが、音楽の道を志すため1年で中退した。

クリーブランドでいくつかのバンドにキーボード奏者として参加したがどれも長続きせず、その後スタジオで清掃員の仕事をしながら空き時間に自分の曲のデモを録音するということを繰り返していた。
自分の曲を思い通りに表現できるメンバーを見つけることができず、プリンスに感化されてドラム以外の楽器を全て自分で演奏し、ドラムは打ち込みで録音した。

こうしてほぼ一人で制作したデモ音源は複数のレーベルから好意的に受け止められ、トレント・レズナーはTVTレコードと契約。
デモから選りすぐりの曲が集められ、ナイン・インチ・ネイルズとして最初のスタジオアルバム「Pretty Hate Machine」として89年10月にリリースされた。
なお「Pretty Hate Machine」は2010年にリマスター版がリリースされ、クイーンの「Get Down, Make Love」のカバーが追加収録されている。
トレントは大きな影響を受けた音楽としてデペッシュ・モードのアルバム「Black Celebration」を挙げ、またライナーノーツにはサンプリングされたアーティストとしてプリンス、ジェーンズ・アディクション、パブリック・エネミーの名前が記載されている。
「Pretty Hate Machine」発表後、トレントはギタリストのリチャード・パトリックを雇い、ツアーを開始。
ピーター・マーフィーやジーザス&メリーチェイン、ガンズ・アンド・ローゼズなどのライブでオープニングアクトを務めた。

だがこの後トレント・レズナーは早くもレコード会社ともめることになる。
ツアー終了後、トレントは「もうレコードは作らない」とはっきり伝えていたが、TVTは「Pretty Hate Machine」の続編を制作するよう命じた。
トレントはもっと自由な環境で音楽をやりたいと思っていたが、TVTはバンドを管理し大きく事業展開することを考えていたようだ。
トレントはTVTに契約解除を要求したが、TVTは彼の嘆願を無視した。
TVTの干渉を避けるため、トレントはやむを得ず密かに偽名でレコーディングを開始する。
その後トレントはインタースコープ・レコードと契約を結び、自身のレコード会社「ナッシング・レコード」を設立した。

91年頃、トレントはロサンゼルスに移り、シエロ・ドライブ10050という場所にスタジオを作る。
そこは1969年にマンソン・ファミリーのメンバーによって女優シャロン・テートが殺害された場所だった。
ナイン・インチ・ネイルズはその事故物件スタジオでEP「Broken」とアルバム「The Downward Spiral」をレコーディングする。

「The Downward Spiral」は前作とは対照的に、テクノやメタルなどの要素を特徴としている。
テーマは人類に反抗し神を殺害してから自殺を図る厭世的な男の生と死に焦点を当てた。
この頃トレントは度々薬物中毒と鬱病に苦しみ、アルバムのテーマは彼の生活状況を投影しているものとされている。
なおトレントは、デビッド・ボウイの「Low」とピンク・フロイドの「The Wall」に強く影響を受けたと語っている。
「The Downward Spiral」は音楽評論家の間では評判が良く、今では90年代で最も重要なアルバムの一つに分類されており、「1985-2005年の最も偉大なアルバム100選」で25位、ローリング・ストーン誌の「史上最高のアルバム500選」で200位となっている。

3枚目のスタジオ盤「The Fragile」は、度々の延期の後に99年9月にようやく発表された。
前作「The Downward Spiral」の歪んだ楽曲やサウンドから脱却しようとした結果、アンビエント・ミュージックやエレクトロニックなど様々なジャンルの要素が取り入れられ、また前作よりもインスト曲を増やし、約1時間45分にも及ぶダブルアルバムとなった。
アルバムはビルボード200で初登場1位を獲得し、初週で22万8千枚を売り上げ、概ね好評を博した。
なおこのアルバムからは3枚のシングルをリリースしたが、北米では「The Day the World Went Away」、ヨーロッパと日本では「We're in This Together」、オーストラリアでは「Into the Void」と、地域で発売曲を変えている。

2000年1月には初の来日公演が実現。
「The Fragile」のジャパンツアーとして東京(実際は千葉の東京ベイNKホール)・横浜・大阪でライブを行った。
だがこの頃トレント・レズナーの薬物中毒はさらに悪化していた。
よく来日中に捕まらなかったな・・・
2000年6月のツアー中、ロンドンでヘロインを過剰摂取し、予定されていた公演がキャンセルとなった。
この事件をきっかけにトレントはリハビリ施設に入所。
ナイン・インチ・ネイルズの活動も休止し、禁酒断薬に努めた。
活動停止は4年間にも及んだそうだ。

2004年にようやく次のアルバム「With Teeth」のレコーディングを開始。
フー・ファイターズのデイヴ・グロールと、後にバンドのメンバーとなるアッティカス・ロスも参加し、翌年5月にリリースされた。
だがアルバムにはライナーノーツがなく、オンラインPDFのURLが記載されているだけで、歌詞やクレジットはそっちを見てねというスタイルを取った。
なんとなく投げやりな戦略だったが、ビルボード200でバンド史上2度目の(しかも初登場)1位を記録した。
ナイン・インチ・ネイルズはいわゆる音楽配信サービスには積極的で、このアルバム全曲はリリース前にバンドの公式サイトでストリーミングオーディオとして提供されている。

6作目のアルバム「Year Zero」は2007年4月にリリースされた。
アメリカ政府の政策と、未来の世界に与える影響を批判した、政治色の強いコンセプトアルバムである。
このコンセプトと並行して、ストーリーラインを拡張したゲームを制作したり、ファンがリミックスできるようにシングル曲をマルチトラックオーディオファイルとしてリリースするなど、様々なアイディアが実現している。
トレント・レズナーは「Year Zero」の映像化も考えており、映画やテレビ番組制作も試みたようだが、これは公開されていない。
5月には再来日ツアーも行なわれた。

ナイン・インチ・ネイルズは2008年に「Ghosts I-IV」という実験的な発表を行った。
当初5曲入りEPとして構想されていたが、最終的にリリースされたのは9曲入りのEP4枚組で、合計36曲。
ただしトラックには名前がなく、リストとグループ番号のみで識別され、ほぼ全曲インストゥルメンタルである。
しかも第1巻の無料ダウンロード版から300ドルのウルトラデラックス限定版パッケージまで、様々なフォーマットで販売された。
タダでダウンロードもできるのに300ドルの限定版なんて売れるの?と思ったが、この300ドル豪華パッケージは2500枚が3日間で完売したそうだ。
翌年「Ghosts I-IV」のツアーでまた来日し、東京と大阪公演を行った。

しかし2009年2月、トレントは公式サイトで「以前から考えていたが、ナイン・インチ・ネイルズの活動をしばらくの間停止させるべき時が来た」と発表。
その後「ナイン・インチ・ネイルズという名義での音楽制作は終わったわけではないが、ロックコンサートとしてのツアーは終了する」と明言した。
宣言を反映した「Wave Goodbye」ツアーの間にサマーソニック2009にも出演し、千葉マリンスタジアムでパフォーマンスを行った。
ツアーは2009年9月、ロサンゼルスで終了した。

ツアー終了後、トレント・レズナーはマリクイーン・マーンディグというフィリピン系アメリカ人女性歌手と結婚。
夫婦にアティカス・ロスとロブ・シェリダンを加えた4人でハウ・トゥ・デストロイ・エンジェルズというプロジェクトを結成した。
2010年6月にはセルフタイトルEPをリリースし、2013年まで活動した。
このプロジェクトはトレントのナイン・インチ・ネイルズ復活により自然消滅となった、ということのようだ。

トレント・レズナーは2012年頃からナイン・インチ・ネイルズの復活を考えていたらしい。
新曲を書きため新たな参加メンバーを探し、2013年2月にナイン・インチ・ネイルズの復活とツアー開始を発表。
バンドの新ラインナップにはジェーンズ・アディクションのエリック・エイヴリー、キング・クリムゾンのエイドリアン・ブリュー、テレフォン・テルアビブのジョシュ・ユースティス、そして復帰メンバーのアレッサンドロ・コルティーニとイラン・ルービンが含まれることも明らかにした。
ただしエリック・エイヴリーとエイドリアン・ブリューはツアーが始まる前に脱退している。
やはりゆるい人事がナイン・インチ・ネイルズの特徴のようだ。

復活後のアルバム「Hesitation Marks」は2013年8月にリリースされた。
エイドリアン・ブリューに加え、ベーシストのピノ・パラディーノ、トッド・ラングレン、そしてフリートウッド・マックのリンジー・バッキンガムを起用し、様々なアートロック要素を盛り込んだ。

2014年と15年にはナイン・インチ・ネイルズはロックの殿堂入り候補にノミネートされた。
ファン投票でも2位になったが、殿堂入りは果たせなかった。

2018年6月には9枚目のスタジオ盤「Bad Witch」をリリースした。
攻撃的なサウンドとボーカル、一方でより静かで陰鬱な楽曲で構成され、6曲収録で合計30分という簡潔なアルバムである。
このアルバムでは今までほとんど無かったサックスを使用しており、またトレントは時折普段とは異なる方法で歌っている。

2020年1月にナイン・インチ・ネイルズはようやく正式にロックの殿堂入りメンバーに選出された。
同年3月、10枚目と11枚目のスタジオアルバムとなる「Ghosts V: Together」と「Ghosts VI: Locusts」を同時リリースした。
これは2008年の「Ghosts I-IV」の続編で、コロナパンデミックの間、バンドのファンとの連帯を示すために無料でリリースされた。

2022年9月、ナイン・インチ・ネイルズは2013年以来初めて故郷クリーブランドで公演を行った。
バンドは現在も活動継続中で、ライブツアーも行い、映画やゲーム音楽制作も手掛けており、今年10月公開予定の映画「Tron: Ares」のサウンドトラックも制作しているとのこと。

以上がナイン・インチ・ネイルズの複雑で華麗なヒストリーである。
そもそもバンドについて大幅に勘違いしていたので、知ってた話はひとつもない。
なんにも知らないうちにロックの殿堂入りまで果たしてしまった、という状態。(論外)

逆になぜ名前だけ知っていたのかもよくわからない。
ちなみにバンド名の由来は「9インチの釘で十字架にかけられたイエス・キリスト」から来ている説、ホラー映画「エルム街の悪夢」の悪役フレディ・クルーガーの右手にはめられた鉄の鉤爪から取った説などがあるが、どれもファンの間で広まった噂のようだ。
トレント・レズナー自身は「ナイン・インチ・ネイルズ」という名前を「簡単にNINと省略できるから」という理由で選んだと発言している。
それが一番ウソっぽいんですけど・・・

見た目についてもキッスやトゥイステッド・シスターみたいなメイクを施したメタル系の人たち・・と勝手に勘違いしていたが、全然違っていた。
トレント・レズナーやメンバーの宣材?写真も見たが、インディーズ団体の格闘家みたいな風貌である。
曲もいくつかYou Tubeで聴いてみたが、どれも暗く難解な音のする上級者向けの楽曲だった。

というわけで、ナイン・インチ・ネイルズ。
自分みたいな素人にはとても聴ける音楽ではなさそうですが、もし初心者向けのアルバムがあるようでしたら教えていただけたらと思います。

Pretty-hate-machine
ナイン・インチ・ネイルズ Pretty Hate Machine
Hesitation-marks
ナイン・インチ・ネイルズ Hesitation Marks
Nail

両手 ネイル グローブ

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聴いてない 第336回 メリサ・マンチェスター

何も知らない女性ボーカリストシリーズ、今日はメリサ・マンチェスターの巻。
1曲も知らず、顔もよくわからない。
なぜ名前だけは知っているのかもナゾ。
聴いてない度は至高の1。

毎回同じ表現になるが、今回生涯で初めてメリサ・マンチェスターを調べてみたら、やはりその経歴は驚きの連続でした。(安い)
メリサ・マンチェスターはアメリカのシンガーソングライター、女優である。
1970年代から1980年代にかけて、特にアダルト・コンテンポラリー市場で広く活躍し人気を博した。

1952年2月15日、ニューヨークで生まれる。
父はメトロポリタン歌劇場のファゴット奏者、母は婦人服デザイナーのユダヤ系家庭。
なお日本語ウィキペディアでは「バスーン奏者の父」となっているが、バスーンとファゴットは基本的に同じ楽器だそうです。

メリサ・マンチェスターはマンハッタン音楽学校でピアノとチェンバロを学び、17歳でマンハッタンのワーナー系音楽出版社チャペル・ミュージックのスタッフライターとなった。

19歳の時、メリサはニューヨーク大学でポール・サイモンに師事し、作詞作曲を学ぶ。
この頃ポール・サイモンはアート・ガーファンクルとのデュオを解散し、大学で作詞作曲を教えていたそうだ。
その後マンハッタンのクラブなどで歌や演奏するようになったメリサは、友人のバリー・マニロウからベット・ミドラーを紹介され、ベットのバックシンガーグループ「ザ・ハーレッツ」にバリーと共に参加する。

73年アルバム「Home to Myself」でソロデビュー。
収録曲の大半はキャロル・ベイヤー・セイガーとの共作である。
翌年2枚目のアルバム「Bright Eyes」を発表するが、ここまではチャートの100位以内にも入らなかった。

この後メリサの人生を大きく変える曲が世に登場する。
75年にアルバム「Melissa(想い出にさようなら)」をリリースすると、シングル「Midnight Blue」が全米6位で初のトップ10ヒットとなり、チャートに17週間もランクインした。
この曲もキャロル・ベイヤー・セイガーとの共作で、デビューアルバム制作時に作っておいたものだった。

元々メリサは自身をアルバム・アーティストと思っており、シングルのことをあまり考えていなかったそうだ。
だが所属レコード会社のベル・レコードが突如アリスタに吸収されると、メリサのプロモーション方針が大幅に変更される。
シングル「Midnight Blue」の宣伝のため、メリサは全米各地のラジオ局や大学やレコード店などを精力的に巡った。
この地道な宣伝活動が功を奏し、めでたく全米6位の大ヒットを記録。
メリサも「Midnight Blue」以降、「すべてが変わった」と語っている。

76年にアルバム「Better Days and Happy Endings(幸せの日々)」を発表。
収録曲「Come In From The Rain(雨に想いを)」はシングルカットはされなかったものの、後にキャプテン・アンド・テニール、ライザ・ミネリ、ダイアナ・ロスなど、多くのアーティストによってカバーされた。

79年にはピーター・アレンの「Don't Cry Out Loud(あなたしか見えない)」をカバー。
演奏にはリー・リトナーやデビッド・ハンゲイト、ジム・ケルトナーも参加している。
この曲は全米10位に達し、メリサは最優秀ポップ女性ボーカルパフォーマンス賞にノミネートされた。

その年の10月にはアルバム「Melissa Manchester」をリリース。
ケニー・ロギンスとの共作「Whenever I Call You "Friend"」を収録し、演奏にはタワー・オブ・パワーも参加したが、全米63位と前作よりやや後退。
さらに1年と経たずにアルバム「For the Working Girl」を発表。
バッド・フィンガーのカバー「Without You」や、ピーボ・ブライソンとのデュエット「Lovers After All」が収録され、コーラスでドン・ヘンリーも参加したが、これも全米68位でさらに後退する。

だが82年にキャリア最大のヒット曲が登場する。
スティーブ・ルカサーやジェフ・ポーカロも参加した「You Should Hear How She Talks About You(気になるふたり)」は、キャッシュ・ボックスで4位、ビルボード・ホット100チャートで5位、アダルト・コンテンポラリー・チャートで10位に達した。
それまでバラードを得意としていたメリサにとって、ニューウェーブ系のダンスミュージック的な要素がある「気になるふたり」は、大きな転換だったようだ。
本人も大ヒットの後でしばらく歌うのをやめていた時期もあったが、最近は「歌うのが楽しい」と発言している。
この曲でメリサはリンダ・ロンシュタットオリビア・ニュートンジョン、ジュース・ニュートン、ローラ・ブラニガンを抑えて83年のグラミー賞最優秀ポップ女性ボーカル・パフォーマンス賞を受賞した。

大ヒットの後、メリサはデビュー以来10年間所属していたアリスタ・レコードを離れ、MCAレコードに移籍。
アルバム「Mathematics」(表記は「Ma+hematics」)を85年4月に発表した。
以前のシンガーソングライター風の作品とは異なり、シンセポップやニューウェーブ・サウンドに傾倒している。
収録曲ごとにジョージ・デューク、ブロック・ウォルシュロビー・ネヴィルらがプロデュースし、リー・リトナーやスティーブ・ルカサーやマイケル・センベロなど多数のミュージシャンが参加。
だがタイトルシングル「Mathematics」はビルボード・ホット100で最高74位止まり、アルバムも144位と低迷し、結局この1枚だけリリースした後、MCAレコードを離れることになる。

89年にディオンヌ・ワーウィックの「Walk On By」をカバーし、ACチャートのトップ10入りを果たした。
91年公開のミュージカルコメディ映画「フォー・ザ・ボーイズ」ではベット・ミドラーと共演し、テレビのドラマシリーズ「ブロッサム」にも出演。
さらに91年のワールドシリーズ第6戦では、試合前のセレモニーでアメリカ国歌を独唱してオープニングを飾った。
92年にはアニメミュージカル「リトル・ニモ」の主題歌を歌った。

95年にアトランティック・レコードに移籍し、アルバム「If My Heart Had Wings」をリリースした。
プロデューサーや参加メンバーを大幅に入れ替え、ドゥービー・ブラザーズの「Here to Love You」のカバーも収録したが、残念ながらチャート入りは果たせず商業的には失敗に終わる。

96年には山下達郎の「愛の灯~STAND IN THE LIGHT」で作詞と歌を担当。
山下達郎がフジテレビのミュージック・キャンペーン・ソングの依頼を受け、外国人女性とのデュエットという企画に対しメリサ・マンチェスターを指名。
メリサはオファーを快諾し、山下達郎作の曲を聴いた上で作詞したそうだ。

2004年、9年ぶりのスタジオ盤「When I Look Down That Road」を発表。
ソウルやジャズ、ボサノバなど様々な要素を採り入れ、全曲の制作(主に作詞)をメリサが担当し、「Where The Truth Lies」ではルパート・ホルムズと共作。
「Lucky Break」にはリッチー・コッツェンがギターで参加している。

2007年にはバリー・マニロウとのデュエットで、キャロル・キングの名曲「You've Got a Friend(君の友だち)」をカバー。
このカバーはバリー・マニロウのカバー集アルバム「The Greatest Songs of the Seventies」に収録された。

2011年には、ジュノー・テンプル、ミラ・ジョヴォヴィッチ、ウィリアム・H・メイシーらが出演した青春コメディ映画「ダーティ・ガール」でメリサ・マンチェスターの曲が多数使用され、「You Should Hear How She Talks About You」「Singing From My Soul」「Midnight Blue」など5曲がサウンドトラックに収録された。
なおメリサは主人公が歌う「Don't Cry Out Loud」の伴奏ピアニストとして、セリフなしのカメオ出演を果たしている。

2015年にはジャズにシフトしたアルバム「You Gotta Love the Life」をリリースし、ビルボードジャズアルバムチャートで17位を獲得した。
このアルバム制作にあたり、資金を集めるためクラウドファンディングを利用してキャンペーンを行ったそうだ。
当時メリサは音楽学校の非常勤講師をしており、学生たちからインディーズアルバム制作を勧められ、クラウドファンディング利用を思いついたとのこと。
だが参加ミュージシャンはアル・ジャロウやディオンヌ・ワーウィック、スティービー・ワンダーなどビッグネームも多い。
ギャラのお支払いは大丈夫だったんだろうか・・?

2017年、メリサはトニー・ベネット、ディーン・マーティン、ジョニー・マティス、フランク・シナトラ、メル・トーメといった男性シンガーのカバーを収録した「The Fellas」をリリースした。
前作「You Gotta Love the Life」に続いての自主制作スタジオ盤で、彼女が講師を務める大学のオーケストラ伴奏がフィーチャーされているほか、バリー・マニロウとのデュエット曲「For Me and My Gal」が収録されている。

最新作は過去の名曲を再録した2024年のアルバム「Re: View」。
ケニー・ロギンスとのデュエット曲「Whenever I Call You "Friend"」の再録バージョン、ドリー・パートン参加の大ヒット曲「Midnight Blue」、ゴスペル調にアレンジされた「Just You And I」には、ジャズ界の人気サックス奏者ジェラルド・アルブライトを迎えるなど、かつての名曲を高いクオリティでリメイクしている。

以上がメリサ・マンチェスターの優雅で煌びやかな経歴である。
知ってた話は今回も一切なし。
山下達郎とのデュエットも知らなかった。
柏村武昭・小林克也・東郷かおる子の誰からもメリサ・マンチェスターの情報を教えてもらえなかった。

調べてみて気づいたが、デビュー当時から現在に至るまで、著名なミュージシャン・アーチストとの共演やゲスト参加が非常に多い。
学生時代にポール・サイモンに作詞作曲を習ったり、デビューにあたってバリー・マニロウやベット・ミドラーの協力があったなど、ミュージシャンとしてはかなりエリートコースでスタートしている。
またスティーブ・ルカサーやジェフ・ポーカロ、デビッド・ハンゲイトらTOTOのメンバーは何度も演奏に参加している。
事務所やレコード会社のセッティングもあるだろうが、多くはメリサ本人の実力や人柄もあっての話だろう。

最大のヒット曲「気になるふたり」をYou Tubeで見てみたが、やはり知らない曲だった。
ただし楽曲はいかにもあの頃流行していたサウンドやリズムだ。
プロモ・ビデオもメリサがノリよく歌い、バックで数人が踊るという構成だが、地方の営業ステージみたいな簡素な造り。
感覚的にはローラ・ブラニガンの「Gloria」に近い。
全米5位なのにこんなビデオなの?
本人も認めているとおり、それまでの方向性とは明らかに違ったハヤリの曲を仕方なく歌わされたけど予想以上にヒットした、ということのようだ。

というわけで、メリサ・マンチェスター。
そもそもこの人は日本でどれくらい支持されていたのか、見当もつかないのですが・・・
最大のヒット曲「気になるふたり」を求めて聴くならアルバム「Hey Ricky」となりますけど、それは彼女の本質を鑑賞することにはならないような気もします。
なので聴くとしたらやはり70年代の作品からだと思いますが、おすすめのアルバムがあれば教えていただけるとありがたいです。

Melissa
メリサ・マンチェスター 想い出にさようなら
Hey-ricky
メリサ・マンチェスター Hey Ricky
Manchester
マンチェスターシティ オフィシャル 1号球 選手サイン入り

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聴いてない 第335回 デバージ

前回採り上げたブロック・ウォルシュの「This Time」を録音した際、同時にエアチェックしたのがデバージの「Time Will Reveal(時のささやき)」である。
いずれも柏村武昭の異色経歴でもあるFM洋楽番組「サンスイ・ベストリクエスト」で録音したのだが、デバージも結果的にこの1曲のみの鑑賞で終わっている。
柏村武昭に落ち度はないけど、聴いてない度は2。

聴いてないけど、デバージが兄弟グループであることや、エル・デバージやチコ・デバージの名前もなんとなく知ってはいた。
同じく兄弟グループであるジャクソン・ファイブと比較されることも多かったらしい。
だが調べてみたら、ただ比較されるだけでなく、実はかなり深い関係にあったこともわかった。
以下はネットで調べたデバージの壮絶な略歴である。

デバージはデトロイト出身のデバージ兄弟により結成されたグループで、活動期間はほぼ80年代の10年間。
父親は白人の兵士、母親は黒人ゴスペル歌手。
だが夫婦仲は良くなく、結婚後4年で離婚。
しかも父親は離婚後も子供達を虐待するなど、兄弟は複雑で過酷な家庭環境で育つ。

兄弟は70年代半ばからデトロイトで音楽活動を始める。
長男ボビーと次男トミーは76年、グレゴリー・ウィリアムス、エディー・フルーレン、フィリップ・イングラム、マイケル・マクグローリー、ジョディー・シムズらと共にスウィッチというグループを結成。
スウィッチは78年モータウンからデビューし、「There'll Never Be」「I Call Your Name」「Best Beat in Town」などのR&B曲がヒットした。
スウィッチのデビューを後押ししたのが、ジャーメイン・ジャクソンと言われている。
スウィッチのメンバーがモータウンの事務所があったビルのエレベーターでジャーメインにデモテープを渡したところ、ジャーメインが気に入り、モータウンでのデビューを勧めたそうだ。
なんか映画や小説のような展開だが、本当なんだろうか?

80年にザ・デバージズという名でデビュー。
兄弟の中で参加したのは以下のみなさんである。
・長女バニー(Vo)
・長男ボビー(Vo・D・K)
・三男ランディ(Vo・B)
・四男マーティ(Vo・D)
・五男エル(Vo・K)

デバージズは81年にデビューアルバム「The DeBarges」を発表。
次男トミーはデバージズには参加せず、長男ボビーはアルバム発表まではスウィッチと掛け持ちだったらしい。
残念ながらアルバムはチャートを賑わすような実績は残せなかったようだ。
その後長男ボビーはいったんグループを離脱。

82年には六男ジェームスが加わり、全曲デバージ兄弟の作品で構成された2枚目のアルバム「All This Love」をリリース。
全米24位(R&Bチャートは3位)となり、シングル「 I Like It」「All This Love」もヒットした。
「All This Love」は後にビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートで1位を獲得している。

83年9月、3枚目のアルバム「In a Special Way」をリリース。
前作と同様全曲デバージ兄弟の作品で、自分が聴いたシングル「Time Will Reveal(時のささやき)」も収録されている。
「Time Will Reveal」は全米R&Bチャートで1位を記録し、アルバムもゴールド・ディスクを獲得した。

だが人気の陰でトラブルも起こる。
84年、六男ジェームズ・デバージはジャネット・ジャクソンと極秘結婚。
すぐにジャネットが結婚を公表したが、翌年には離婚。
・・というか結婚自体が無効とされたそうだ。
ジャネットの若気の至りとも言われたが、ジェームスはこの頃薬物中毒だったらしく、結婚式の直後もジャネットに隠れてクスリをやってたとのこと。

デバージは85年のモータウン製作映画「ラスト・ドラゴン」のサウンドトラック用として「Rhythm of the Night」を録音した。
この曲はシングルとしてもリリースされ、全米3位・全英4位を記録。
グループ史上最大の売上となった。
また同名のアルバムにはデビッド・フォスターやスティーブ・ポーカロも参加し、ビルボードR&Bチャートで3位の成績およびプラチナ・ディスクを獲得した。

だが絶頂の裏でグループ内のパワーバランスは崩れつつあった。
エル・デバージがグループの中心として台頭しつつあることを察知したモータウンは、次のアルバム制作をエル一人で行わせようとした。
モータウンはエルの実力を信頼する一方で、ジェームスの薬物依存症の問題を懸念していたとも言われている。
結果的にグループの命運は、このモータウンの判断によって決定されてしまう。

アルバム「Rhythm of the Night」の大ヒット後、モータウンはエルとバニーに高額なソロ契約をオファー。
二人はソロ歌手として活動することを決意し、グループを脱退する。
モータウンは二人の力強いハーモニーを失った残りのデバージには商業的価値はないと判断し、86年に契約を解除する。
アメリカの芸能界も厳しい・・・

危機感を覚えた残デバージは、87年に長男ボビーが加入し建て直しを図ったが、メジャーレーベルとの契約に失敗したため、インディーズレーベルのストライプド・ホース・レコードと契約し、アルバム「Badboys」をリリースした。
だがストライプド・ホースはやはりカネがなく、満足なプロモーションもできず、モータウンの支援も受けられなかったため、アルバムはチャートインしなかった。
結果的にこれがデバージとしてのラストアルバムとなる。

デバージはその後もライブなど活動を続け、オープニングアクトには七男のチコを起用したり、テレビの歌番組にゲスト出演した。
なおチコ・デバージはソロ歌手で活動しており、兄たちのグループのデバージには加入していない。
・・・なぜ?
ビージーズに参加しなかった弟アンディ・ギブみたいなもんかな?

栄光のデバージ兄弟にとって最大の問題は、音楽ではなく薬物にあったようだ。
88年、ボビーとチコは麻薬密売の容疑で逮捕され有罪判決を受け、別々に刑務所に収監された。
この逮捕と収監によりデバージの音楽活動は終焉を迎え、89年に解散する。

薬物は音楽活動だけでなく個人の生活や兄弟仲にも深刻なダメージを及ぼし、破綻して命を落としている者もいる。
困ったことに兄弟のほとんどに薬物使用による逮捕歴があり、中でもエル・デバージは何度も逮捕され、治療を経て復帰も果たしたが、2018年に仲間との口論で逆上し車のフロントガラスを叩き割り、器物損壊で逮捕されている。
ボビーは長年のヘロイン中毒の末、エイズに感染し95年に死亡。
トミーも薬物の影響で腎臓が機能不全となり透析を受けていたが、2021年に腎不全で亡くなっている。

2008年、長女バニーは「The Kept Ones」と題した家族についての本を執筆した。
貧しい家庭に育った兄弟が成功していくというアメリカンドリームな内容で、2020年には続編も出版されたが、弟たちからは不評で、SNSなどで「バニーが書いた本は嘘だらけのフィクションだ」と言われたようだ。

以上がデバージの短く儚い栄光と炎上の過酷な歴史である。
知ってた話は当然皆無。
最大のヒット曲「Rhythm of the Night」もYou Tubeで聴いてみたが、全く知らない曲だった。

ジャーメインやジャネットなどジャクソン・ファミリーとの関係も全く知らなかった。
もっと言うとエル・デバージやチコ・デバージも当然デバージの一員で、グループでもソロでも並行して活躍してるのかと思っていたが、エルはグループを脱退してソロになっており、チコはそもそもデバージには参加していなかった。
この経歴を正確に把握してた日本人リスナーはどれくらいいるんでしょうか・・?

デバージ兄弟は歌ったり演奏したりはもちろん、ソングライターとしての才能も持っていた。
発表した曲の大半は兄弟の誰かが作ったもので、他人の作った曲やカバー曲はかなり少ない。
才能は間違いなくあったデバージ兄弟。
ジェームスの娘クリスティニアにもそれは受け継がれ、2009年に歌手デビューしている。
彼女が父親や叔父たちのようなトラブルに見舞われないよう祈るばかりだ。

才能や素質に恵まれながら、グループとしての活動期間はほぼ80年代限定だった。
長くは続かなかった原因の一つは間違いなく薬物だろう。
まあビートルズやストーンズやツェッペリンやクラプトンなど、60~70年代に活躍したミュージシャンの大半は薬物と酒でダメージを負ったり逮捕されたりしていたが、残念ながらデバージ兄弟はそうした先輩方のトラブルを教訓とはできなかったようだ。
仮定は無意味だが、もし兄弟が誰一人薬物には手を出さなかったら、少しは違った展開になっていたのではないかと思う。

「Time Will Reveal(時のささやき)」はゆったりしたオトナ向けバラード。
ただ個人的にはビージーズやアース・ウィンド&ファイアーを思わせるファルセットでコーラスというスタイルがやや苦手で、他の曲も聴いてみようという気にはならなかった。

というわけで、デバージ。
正直鑑賞意欲はほとんどありませんが、もし聴くとしたら「時のささやき」を頼りに「In a Special Way」から、ということになりそうです。
最大のヒット作「Rhythm of the Night」も含め、みなさまのデバージ鑑賞履歴をご紹介いただけたらと思います。

In-a-special-way
デバージ In a Special Way
Rhythm-of-the-night
デバージ Rhythm of the Night
Young-and-restless

クリスティニア・デバージ YOUNG & RESTLESS

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聴いてない 第334回 ブロック・ウォルシュ

生涯でたった1曲だけ録音できた一期一会のアーチストは結構いるが、今日のお題ブロック・ウォルシュもその一人。
84年初めに「This Time」という曲だけエアチェックしているが、名前とこの曲以外の情報は一切なし。
雑誌やテレビでも見たことがなく、聴いてない度は2。

ということでいつものとおり心の友ウィキペディアで調査開始・・と思ったら、ブロック・ウォルシュのページが見つからない。
日本語版だとそんなもんかなと勝手に納得したが、英語版でも見当たらない。
これだけネットに情報があふれているのに、ブロック・ウォルシュさんを語るサイトは日米問わずかなり少ないようだ。
なんとかかき集めた情報を整理すると以下のような感じ。

ブロック・ウォルシュは1953年2月ニューヨークに生まれる。
幼少の頃から作曲を始め、ハーバード大学では語学や文学を学ぶ。
大学在学中から自作のデモテープをレコード会社に送り、エレクトラ・アサイラム・レコードからロサンゼルスに来るよう連絡を受ける。
ロスでリンダ・ロンシュタットのバンドのオーディションに合格し、リンダのバックで演奏するようになる。
78年にアンドリュー・ゴールドのアルバム「All This And Heaven Too」をアンドリューと共同でプロデュース。
またカーラ・ボノフのバンドでもキーボードを担当し、80年と81年の来日公演にも同行。
この時はピアノとギターで参加し、オープニング・アクトとしても数曲を歌っている。
この頃ソロデビューに向けてアルバム制作を開始するが、なぜかリリースはされなかった。

82年頃に日本のワーナー・パイオニアと契約。
83年に最初のアルバム「Dateline:Tokyo」が日本でのみリリースされた。
曲は全てブロックの作品(6曲は共作)で、自分が聴いた「This Time」も収録されている。
ブロック本人とアンドリュー・ゴールドの共同プロデュース。
参加ミュージシャンはアンドリュー・ゴールドの他、TOTOからスティーブ・ルカサーとジェフ・ポーカロ、さらにはマシュー・ワイルダー、ケニー・エドワーズとかなり豪華な顔ぶれ。
だが残念ながら日本でもあまり売れなかったようだ。

その後、ブロック・ウォルシュは他のアーティストへの楽曲提供に専念する。
83年にマーク・ゴールデンバーグとの共作「Automatic」をポインター・シスターズに提供し(ブロックもシンセで演奏に参加)、全米5位・全英2位の大ヒットとなった。
そうなの?この曲知らない・・・

他にブロック・ウォルシュが(共作含む)提供した曲は以下がある。
・アル・ジャロウ「Real Tight」(ロビー・ネヴィル他3人との共作)
シーナ・イーストンセリーヌ・ディオン「The Last to Know」
・マンハッタン・トランスファー「Metropolis」「Agua」「The Jungle Pioneer」「Notes from the Underground」
アース・ウィンド&ファイアー「Chicago (Chi-Town) Blues」「Every Now and Then」
・ベット・ミドラー「Lullaby in Blue」
・アーロン・ネヴィル「Show Some Emotion」
・クリスティーナ・アギレラ「Blessed」
シカゴ「Let’s Take a Lifetime」「Mah-Jong」
・ロビー・ネヴィル「Getting Better」「Back to You」

シングル化されていない曲も多いが、多くのアーチストからソングライターとして信頼される存在となった。

95年には「Brother Time」というユニット名義でアルバム「Just The Beginning」をリリースする。
このユニットのメンバーは以下のみなさんである。
・ブロック・ウォルシュ(Vo)
マイケル・センベロ(Vo)
・トレヴァー・ゴードン(K・B)
・ジョジョ・アルヴェス(D・G)
・ジョアン・ラス(K)
・ペン・ジョーンズ(Vo)

ブロック・ウォルシュは全12曲中9曲の創作を担当し、ユニットの中心的存在となっている。

2001年、「Lullaby in Blue」「Blessed」など提供曲のセルフカバーや過去の作品を集めたデモ集「Songs From The Moon Room」を、日本のAOR専門レーベルのクール・サウンドよりリリース。

以上がネットで探し当てたブロック・ウォルシュの経歴である。
知ってた話は当然ゼロ。
提供曲でも聴いたことがある曲もなかった。
またマイケル・センベロとユニットを組んでいたことも初めて知った。
米英ではシンガーよりもソングライターとしての評価が高いようだ。

不思議なのは、2枚のアルバムがいずれも日本限定発売とか日本のレーベルからリリースなど、日本との関わりが深い点。
その割に当時日本であまり話題になっていない(と思う)。
自分が知らないだけかもしれないが、少なくとも当時の雑誌やテレビの洋楽番組でブロック・ウォルシュを目にしたことはない。
アルバムの参加メンバーもビッグネームだらけでお金もかかってそうな感じなのに、なんでふつうに本国アメリカでの発表としなかったのか、理由はよくわからない。

「This Time」は84年1月に当時の一流音楽番組「サンスイ・ベストリクエスト」で録音している。
だがこの時同じテープに録音していたのが、エイジア「The Smlie Has Left Your Eyes」やナイト・レンジャー「You Can Still Rock In America」、カルチャー・クラブ「Karma Chameleon」、イエス「Owner Of A Lonely Heart」、ヴァン・ヘイレン「Jump」など、当時を代表する強豪曲ばかり。
「This Time」は悪くはないが、やはり上記の各ヒット曲に比べて線は細いと感じる。
こういう状況の中でヒットを狙って日本で様々なプロモーションを仕掛ける・・というのもかなり難しそうだ。
柏村武昭も東郷かおる子も小林克也も、残念ながらブロック・ウォルシュに時間を割いてる余裕はなかったんだろう。

というわけで、ブロック・ウォルシュ。
そもそもみなさんはこの人をご存じでしょうか?
AOR界隈に詳しい方ならご存じなのかもしれませんが・・・
アルバムは「Dateline:Tokyo」「Songs From The Moon Room」だけのようなので、2枚とも聴けば全盤制覇なのですが、ユニット「Brother Time」にも少しだけ興味はあります。
もし3枚とも聴いておられる方がいらっしゃいましたら、感想をお聞かせいただけたらと思います。

Dateline
ブロック・ウォルシュ Dateline
Songs-from-the-moon-room
ブロック・ウォルシュ Songs From The Moon Room
Just-the-beginning
ブラザー・タイム Just The Beginning

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聴いてない 第333回 ホリーズ

デビュー当時はビートルズストーンズに並ぶ存在だったバンド、ホリーズ。
実績は2大バンドには遠く及ばないものの、2010年にはロックの殿堂入りを果たし、今なお現役で活動中とのこと。
そんな偉大なるホリーズ、失礼ながらシュープリームスのカバー「Stop! In the Name of Love」1曲しか聴いていない。
60~70年代の日本での扱いは全くわからないが、80年代にはテレビやラジオの洋楽番組や音楽雑誌でホリーズを採り上げたことはあまりなかったんじゃないかと思う。
80年代は産業ロック革命により英米アーチストがムダに量産された時代だったので、どこの局でも出版社でも他に紹介すべきミュージシャンがいくらでもわいてきて、ホリーズを採り上げるスキマもなかったものと思われる。

なのでホリーズについてはどれだけすごい人たちだったのか全く知らない。
そこで今回ホリーズについて調べてみたが、やはり驚きの連続だった。

ホリーズは1962年にマンチェスターで結成されたイギリスのロックバンド。
ローリング・ストーンズと並んで結成以来一度も解散することなく活動を続けている数少ないバンドだそうだ。

小学校時代からの親友であるアラン・クラークとグラハム・ナッシュは、アメリカのエヴァリー・ブラザーズを真似たデュオ「リッキー・アンド・デイン・ヤング」を結成して活動を始めた。
その後別のバンドと組んだり離れたりしたが、二人でマンチェスターのバンド「デルタス」に加入する。
デルタスはリードギターのヴィック・スティール、ベースのエリック・ヘイドック、ドラムのドン・ラスボーンで構成されていたが、後に10ccを結成するエリック・スチュワートが脱退したばかりで、メンバーを探していたところだった。

やがて62年末にデルタスはホリーズに改名する。
グラハム・ナッシュは、ホリーズと名乗ったのはバディ・ホリーへの敬意からだと語っている。

翌63年の1月、ホリーズはリバプールのキャバーン・クラブで公演を行い、そこでビートルズの最初のセッションのプロデュースにも関わったロン・リチャーズの目に留まった。
ロンはホリーズにパーロフォンレコードのオーディションをオファーしたが、ヴィック・スティールはプロのミュージシャンになりたくなく、4月にバンドを脱退する。
バンドはヴィックの代わりとしてトニー・ヒックスを呼び寄せ、オーディションに参加させる。
ホリーズはパーロフォンと契約し、コースターズのカバー「(Ain't That) Just Like Me」が5月にデビューシングルとしてリリースされ、イギリスのシングルチャートで25位を獲得した。

セカンドシングルもコースターズのカバー「Searchin'」で、全英12位にランクインした。
好調に思えたホリーズだったが、8曲ほどレコーディングした後でドラムのドン・ラスボーンもバンドを脱退する。
トニー・ヒックスは昔のバンド仲間ボビー・エリオットを誘い、63年8月に新ドラマーとして迎え入れた。
ここでホリーズはメンバーがようやく安定。
デビューアルバム「Stay with the Hollies」は全英2位を記録し、カバー曲「Stay」は全英8位で初のトップ10ヒットとなった。

ホリーズもデビュー当時はカバー曲中心で人気が出たバンドだった。
アルバム「Stay with the Hollies」は大半がチャック・ベリー、レイ・チャールズ、リトル・リチャードなどのカバーで、オリジナルは1曲だけだった。
またビートルズやストーンズと同様、ホリーズもアルバムの収録曲や順序はイギリス盤とアメリカ盤・カナダ盤では大きく異なっていた。

2枚目のアルバム「In the Hollies Style」を64年に発表。
12曲中7曲はアラン・クラークとグラハム・ナッシュの作品だったが、このアルバム収録曲のいずれも米国ではリリースされなかった。

ホリーズが北米でブレイクしたのは翌65年。
オリジナル曲「Look Through Any Window」は全英4位、全米32位、カナダでは3位にそれぞれ初めてランクインした。
この曲は後に10ccのメンバーとなるマンチェスターのグレアム・グールドマンの作品である。

ちなみに、ホリーズのグラハム・ナッシュと、このグレアム・グールドマンのファーストネームは同じGraham。
日本では昔からGrahamさんを表記のままグラハムと書くことが多く、グラハム・ナッシュもグラハム・ボネットもビリー・グラハムもグレアムとはあまり書かない(と思う)。
ただ発音に寄せるとおそらくグレアムで、ネットでも混在していて、ホリーズを語るサイトでは「グラハム・ナッシュ」「グレアム・グールドマン」と表記されていることも多い。
「グレアム・ナッシュ」だと、古いファンには違和感しかないのではないか?
そう言いながらその昔「聴いてないシリーズ」でCS&Nを採り上げた時は「グレアム・ナッシュ」とか書いてますが・・・
面倒なので今回はこのまま「グラハム・ナッシュ」「グレアム・グールドマン」と書きます。

続くシングルは、ジョージ・ハリスンの「If I Needed Someone(恋をするなら)」だったが、ビートルズがアルバム「Rubber Soul」でジョージのバージョンを収録してリリースすることを決めたため、アルバムとシングルではあったが、両グループによる「恋をするなら」同時発売となった。
だがやはりビートルズが相手では分が悪く、ホリーズの「恋をするなら」は全英20位にとどまり、北米ではリリースされなかった。

そもそもホリーズへの曲提供はジョージ・マーティンからロン・リチャーズへデモ音源が渡って決まったもので、ジョージ・ハリスンの提案ではなかったらしい。
当時リバプールのビートルズとマンチェスターのホリーズは、マスコミや関係者により敵対関係にあるとされていた部分もあり、ホリーズ側では「あのビートルズの曲をホリーズに歌わせるのか」との議論もあったようだ。
昔からイギリスってこういう都市対抗戦が好きだね。
結局ホリーズは「恋をするなら」を録音したが、ジョージ・ハリスンはホリーズについて「寄せ集めのセッションマンの演奏のように聞こえる」と酷評。
ジョン・レノンもホリーズの曲を批判し、長年ホリーズのサウンドを嫌っていたそうだ。

3枚目のアルバムはシンプルに「Hollies」と題され、65年に全英8位に達したが、アメリカ盤は収録曲や順序を変えて「Hear! Here! 」というダジャレなタイトルで発売され、この上から目線なタイトルのせいか知らんけど全米チャート入りはしなかった。

翌年ホリーズはシングル「I Can't Let Go」で全英2位を記録した。
このヒット曲を収録した4枚目のアルバム「Would You Believe?」は全英16位まで上昇した。
だがアメリカではビートルズもカバーした「A Taste of Honey(蜜の味)」「Mr. Moonlight」を収録した「Beat Group!」としてリリースされたが、全米トップ100入りは逃してしまった。
どうもここまでホリーズのアメリカ戦略はいまいちうまくいかなかったようだ。

この後ホリーズは混乱と栄光をほぼ同時に経験することになる。
ベースのエリック・ヘイドックがマネージメント側に対して不満を主張し、活動を休止する。
エリック不在の間、バンドはビートルズの親友であるクラウス・フォアマンを招き、2枚のシングルを録音した。
それが「After the Fox」と「Bus Stop」である。

「After the Fox」にはピーター・セラーズがボーカル、ジャック・ブルースがベース、バート・バカラックがキーボードで参加。
ピーター・セラーズ主演の同名映画のテーマソングにもなった。
「Bus Stop」は全英・全米とも5位を記録し、ホリーズにとって初の全米トップ10シングルとなった。
この曲もグレアム・グールドマンの作品で、演奏ではバーニー・カルバートがベースを担当し、後に正式なメンバーになっている。
なおエリック・ヘイドックは「Bus Stop」が大ヒットした後、66年7月にバンドを解雇された。

なお「Bus Stop」は多くのミュージシャンによりカバーされており、ハーマンズ・ハーミッツやピーター&ゴードン、クラウドベリー・ジャムやドッケンもカバーしている。
日本でもキャンディーズや荻野目洋子がカバーしたそうです。

「Bus Stop」大ヒットを経て、ホリーズのメンバーには他のミュージシャンからの引き合いが増えることになる。
アラン・クラークとグラハム・ナッシュとトニー・ヒックスは、憧れだったエヴァリー・ブラザーズのアルバム「Two Yanks in England」のレコーディングに参加。
なおこのレコーディングに同時に参加していたのがジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、エルトン・ジョンである。

こうした課外活動はバンドの創作内容にも変化をもたらす。
ホリーズ5枚目のアルバム「For Certain Because」はアラン、グラハム、トニーによるオリジナル曲のみで構成された初のアルバムとなった。
「Stop! Stop! Stop!」は3人を作詞作曲者としてクレジットした最初の曲であり、全英2位・全米7位を記録。
トニー・ヒックスがバンジョーを演奏している数少ない曲としても有名である。

続くアルバム「Evolution」はサポートにミッチ・ミッチェルやクレム・カッティーニを起用。
ビートルズの「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」と同じ67年6月1日に発売され、全英13位・全米43位に達した。

この頃からグラハム・ナッシュはバンドの音域を広げようと様々な試みを行っていく。
グラハムはアメリカのフォークに影響を受けた野心的な「King Midas in Reverse」を制作したが、全英チャートでは18位に終わる。
18位なら十分ヒットしてるやんと言っていいような気もするが、アルバム「Butterfly」と合わせて商業的には失敗とされた。
あわてたアランとグラハムはより一般受けしそうなポップソング「Jennifer Eccles」を急遽発表。
これは吉と出て全英7位・全米40位・全豪13位を記録した。

この過程がバンド内にかなり深刻な亀裂を生むことになる。
「King Midas in Reverse」の失敗はグラハムの立場を悪くし、メンバー間の緊張を高めていく。
もともとアランとトニーはそれまでの「売れ筋路線ホリーズ」で行ったらええやんと考えており、グラハムのアメリカかぶれな方向性には反対だった。
次のアルバム用にグラハムが作った「Marrakesh Express」を他のメンバーは「こんなん売れへんわ」と拒否。
その後バンドがボブ・ディランのカバー曲のみで構成されたアルバムを作ることを決定した時点で、対立は決定的なものとなる。
グラハムは「風に吹かれて」の録音に渋々参加したが、ディランのカバー集という安直企画に対する嫌悪感を隠さず、メンバーやプロデューサーと何度も衝突した。

68年末のロンドンでのチャリティコンサートに出演した後、グラハムは正式にホリーズを脱退し、ロサンゼルスへ移住する。
グラハムは雑誌のインタビュー記事で「もうツアーには耐えられない。ただ家でじっと座って曲を書きたい。他のメンバーがどう思おうと、どうでもいい」と述べている。
ツアーは口実で、本音はやはり目指す音楽性や方向性の違いと、それに関するメンバーとの衝突にあったと思われる。

グラハムはロサンゼルスへ移住した後、元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルスと、元バーズのデヴィッド・クロスビーと共に、クロスビー・スティルス&ナッシュというグループを結成。
デビューシングルとしてホリーズでは出せなかった因縁の「Marrakesh Express」をリリースした。

69年1月、グラハム・ナッシュに代わりテリー・シルベスターがホリーズに加入した。
グラハム脱退前からの計画通り、5月にディランカバー集「Hollies Sing Dylan」を発表し、全英3位を記録した。
「風に吹かれて」にはグラハムがボーカルとギターで参加したはずが、クレジットには名前は載らなかった。
全英3位にはなったものの、ディランのファンや評論家からは不評だったようだ。
そうした反発を意識してか、次のアルバムは半年後に「Hollies Sing Hollies」と題して急ぎリリーズされた。

70年代に入ってもホリーズは比較的好調だった。
シングル「I Can't Tell the Bottom from the Top」はエルトン・ジョンがピアノで参加。
全英7位のほか、アイルランドやオランダでもトップ10入りしている。
続く「Gasoline Alley Bred(懐かしのガソリン・アレー)」も全英14位・全豪20位を記録。
アラン・クラーク作のハードなロックナンバー「Hey Willy」は全英22位となり、その他8カ国でチャートインした。

しかしこの頃からバンドは再び混乱する。
アラン・クラークもグラハム・ナッシュと同様に、メンバーやプロデューサーのロン・リチャーズと楽曲をめぐって衝突するようになった。
アランにはバンドへの不満もあったが、それ以上にグラハムの脱退後の成功をうらやましく見ており、「オレもバンドを脱退してうまいことやるんや!」と思ったらしい。
71年のアルバム「Distant Light」発表をもってレコード会社パーロフォンとの契約が終了した時点で、アランもホリーズを脱退した。

ホリーズは72年にポリドールと契約を結び、スウェーデン人歌手のミカエル・リックフォースをスカウト。
ミカエルは初のポリドールからのシングル「The Baby」でリードボーカルを務めた。
一方でパーロフォンは対抗策として、アランが脱退前に録音した「Long Cool Woman in a Black Dress」を「The Baby」にぶつけてリリースした。
歌ってるアランはすでに脱退してホリーズにはいなかったが、そんな事態に関係なく曲は大ヒット。
全米ビルボード2位(キャッシュボックスでは1位)、オーストラリアやニュージーランドでも2位、カナダや南アフリカで1位というバンド最高の実績となった。
・・・これって印税の配分はどうなってたんですかね?
抜けたアランにもお金は支払われたんでしょうか・・?

ミカエル・リックフォースは新加入ながらホリーズのフロントマンとなり、1年半ほどの在籍中にアルバム「Romany」「Out on the Road」を発表。
だが加入前ほどの実績を残せず、73年夏にアラン・クラークがバンドに復帰し、ミカエルは脱退した。

アラン・クラークの復帰後も、ホリーズは作品ごとの成績が大幅に異なる状態が続く。
アラン作詞の「The Day that Curly Billy Shot Down Crazy Sam McGee」で全英トップ30(24位)に返り咲き、74年にはアルバート・ハモンドとマイク・ヘイズルウッド作曲の「The Air That I Breathe」が全英2位・全米6位を達成する。
しかしこれがホリーズにとって今のところ最後の全英全米トップ10入りした新曲になってしまった。

翌年アラン・パーソンズをプロデューサーに起用した「Another Night」は全米71位止まり。
ブルース・スプリングスティーン作曲の「4th of July, Asbury Park」はニュージーランドでは9位と健闘したものの、全米では85位で失敗に終わっている。
ホリーズは70年代後半もシングル・チャートでヒット曲を出し続けていたが、人気があったのはイギリス以外のヨーロッパとニュージーランドだった。
80年にはバディ・ホリーのカバー集アルバム「Buddy Holly」をリリース。
81年5月、バーニー・カルバートとテリー・シルベスターがグループを脱退し、アラン・コーツがギター担当で加入した。

この後バンドは意外な展開を見せる。
その年の8月にホリーズはEMIからヒット曲メドレー集「Holliedaze」をリリースした。
さらにBBCの要請により、グラハム・ナッシュとエリック・ヘイドックはこのアルバムのプロモーションのために短期間再加入する。
二人が戻ったホリーズはテレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」で「Holliedaze」を演奏した。

翌82年9月、グラハムはホリーズのレコーディングにも参加し、再結成アルバム「What Goes Around...」が発売された。
自分が聴いたシュープリームスのカバー「Stop! In the Name of Love」も収録されている。
「Stop! In the Name of Love」はホリーズ最後の全米トップ40ヒットとなった。
なおグラハムは84年初めまでホリーズで演奏を続けたが、その間クロスビー・スティルス&ナッシュは休業状態だった。
デヴィッド・クロスビーが82年にテキサスで麻薬と武器所持の容疑で逮捕・投獄されていたためである。

アルバムツアー終了後、グラハム・ナッシュがまた脱退し、アラン・コーツとスティーブ・ストラウド、デニス・ヘインズが加入した。
新生ホリーズは85年5月にシングル「Too Many Hearts Get Broken」をリリースした。
翌年春、レイ・スタイルズがスティーブ・ストラウドに代わって加入。
69年発売のシングル「He Ain't Heavy, He's My Brother」が、88年にビールのテレビCMで使用された後、イギリスで再発され、全英1位を獲得した。(69年は3位だった)

ホリーズは昔からカバー曲をたくさん出してきたが、90年にはあのプリンスの「Purple Rain」もカバーしている。
知らなかった・・・ほとんど話題にならず全然売れなかったようですけど。

93年、ホリーズは結成30周年を記念してベスト盤「The Air That I Breathe: The Very Best of the Hollies」を発売。
全英チャート15位にランクインし、シングル「The Woman I Love」は全英42位まで上昇した。
96年2月、バディ・ホリーのトリビュートアルバム「Buddy Holly Tribute - Not Fade Away」が発表された。
このアルバムのトップに収録された「Peggy Sue Got Married(ペギー・スーの結婚)」は、バディ・ホリーの音源にホリーズがコーラスと演奏を加えたもので、この録音のためにグラハム・ナッシュが一時的にホリーズに復帰した。
この後もホリーズはツアーやテレビ出演を続けた。

2000年以降はメンバー交代が相次いだ。
アラン・クラークは2000年2月に引退し、後任にはムーブの元リードシンガーであるカール・ウェインが加入。
カール・ウェインはホリーズとして「How Do I Survive? 」をレコーディングしたが、これは2003年のベスト・アルバム(全47曲)のラストに収録された唯一の新曲である。
だが2004年8月にカール・ウェインは食道癌で亡くなり、また同年アラン・コーツもバンドを脱退し、ピーター・ハワースとスティーブ・ラウリが加入した。

2006年には1983年以来初の新スタジオ盤「Staying Power」がリリースされた。
2009年に現時点で最新のスタジオアルバム「Then, Now, Always」を発表。

ホリーズは2010年にロックの殿堂入りを果たした。
2012年イギリスツアーのライブを収録したライブ2枚組CD「Hollies Live Hits! We Got the Tunes!」をリリース。
翌2013年にはバンド結成50周年記念ワールドツアーとして世界各国60か所でライブが行われた。

ホリーズは今も解散はしておらず、2023年まではライブが行われたが、2024年以降は活動は停止しているようだ。
なおオリジナルメンバーのエリック・ヘイドックは2019年1月、ドン・ラスボーンは2024年9月に亡くなっている。

以上がホリーズの長く波乱に満ちた歴史絵巻。
知ってた話は全然ない。
そもそもCS&Nのグラハム・ナッシュってそういえばホリーズ出身だったんスね・・というレベル。

60年代ホリーズの不幸だった点はビートルズとともにあったことだと思う。
本人達や周囲はもちろん大マジメにリバプール連中に対抗したれと思っていろいろ画策してたはずだが、結果を知ってる我々未来のリスナーからすれば「そりゃあ相手がビートルズじゃなぁ・・」と当然思うところである。
そんなグループは当時のイギリスに山ほどいただろうし、その中でもホリーズはビートルズという異次元バンドと共に時代を生きながらかなりの成果を残しているすごいバンドなのだ。

日本においての彼らの人気や認知度は全然わからないが、冒頭に述べたとおり80年代にはホリーズの曲をFMで聴いたり雑誌で情報を仕入れるなどの機会はほとんどなかった。
おそらくデビュー当時から最新作までくまなく聴いてますけどねという人はかなり少ないのではないかと思われる。

というわけで、ホリーズ。
自分のような素人はまずたくさん出てるベスト盤から学習したほうがよいように思いますが、オリジナル盤として押さえておくべきアルバムがあれば、教えていただけたらと思います。

Hollies-greatest
ホリーズ Hollies' Greatest
What-goes-around
ホリーズ What Goes Around...
Busstop

平浩二 バスストップ

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聴いてない 第332回 チャーリー・ドア

今年になって女性シンガー(を中心としたバンド含む)を採り上げることの多い「聴いてないシリーズ」ですが、今日もそのパターン。
日本だと一発屋にもカウントされてるかもしれないチャーリー・ドア。
みなさんはご存じでしょうか?

チャーリー・ドア、80年の「Pilot Of The Airwaves(涙のリクエスト)」しか聴いていないので、聴いてない度は2。
最初に「サンスイ・ベストリクエスト」で録音したが、テープが足りず途中で切れてしまい、4年ほど待って「クロスオーバー・イレブン」でようやくフルコーラスを録音できた思い出の曲である。
以降他の曲を聴く機会はなく、また彼女について雑誌で情報を仕入れることもなく45年も経過。
今回生涯で初めてネットでチャーリー・ドアを調べてみた次第。(毎度のこと)
だが彼女のキャリアや実績は一発どころではなく、想像のはるか上を行くマルチタレントだった。

チャーリー・ドアはイギリスの歌手で作曲家・演奏家、女優である。
シンガーソングライターの他、他のアーティストへの作詞作曲・プロデュース、映画や舞台での演技、テレビ・ラジオでの活動や、映画やテレビ番組用の作曲なども行ってきた。

1956年にロンドン郊外のピナーという小さな街に生まれる。
ロンドンのアートスクールで演劇を学び、ニューカッスルのタインサイド・シアター・カンパニーで2年間劇団員として活動。
その後テレビ番組の曲を作ったり演奏していたが、この頃知り合った仲間に誘われ、ブルーグラス、ウエスタン・スウィングなどのジャンルを得意としていたフラ・バレーというバンドに加入する。

その後フラ・バレーはメンバー交代や改称を重ね、オリジナル曲も演奏するようになり、チャーリーが中心的存在となる。
一時期バンド名はチャーリー・ドアズ・バック・ポケットとも名乗っていたらしい。
またこの頃のバンドには、後にダイアー・ストレイツに加入するドラムのピック・ウィザーズがいたそうだ。

チャーリーはアイランド・レコードに見出され、 78年に契約。
アメリカに渡りテネシー州ナッシュビルで最初のアルバム「Where to Now」を録音した。
ラジオDJに憧れる少女の想いを歌ったシングル「Pilot of the Airwaves(涙のリクエスト)」は、全米ビルボードホット100で13位、キャッシュボックスでは12位に達し、チャーリーはレコードワールドニュー女性アーティストオブザイヤーとASCAP賞を受賞した。
自分もリアルタイムで録音できたので、当時日本のラジオ局やレコード会社の期待も高かったものと思われる。

順調なスタートだったが、チャーリーは次のアルバム「Listen!」制作にあたりなぜかアイランドを離れ、クリサリスレコードと契約。
しかもクリサリスはプロデューサーにあのグリン・ジョンズを起用。
それだけレコード会社の期待は大きかったようだが、会社はこれまたなぜか結果に満足せず、プロデューサーはスチュワート・レヴィンに交代し、アルバム全体はロサンゼルスで再録音することになる。
この時演奏をサポートしたのが、TOTOのスティーブ・ルカサーと、マイク&ジェフ・ポーカロだった。
そんな豪華なバックでも残念ながら前作ほどには売れなかったようだが、チャーリー・ドアは81年から82年にかけてバンドと共にツアーを行い、ヤマハ・ソング・フェスティバルでイギリス代表として東京も訪れている。

またこの頃から女優としても活動。
83年のイギリス映画「The Ploughman's Lunch」でジョナサン・プライスやティム・カリーと共演し、87年から89年にかけてテレビドラマ「A Killing on the Exchange」「Hard Cases」「国境の南」などに出演。
舞台「ホイッスル・ストップ」「ビッグ・スウィープ」では主役を務めるなど、女優の仕事も続いた。

さらにチャーリーはソングライターとしても成功している。
最初のヒットはジュリアン・リットマンと共作したシーナ・イーストンの「Strut」で、84年に全米7位を記録。
日本でもCMに使われたヒット曲だが、チャーリー・ドアが作詞してたのか・・・全然知らなかった・・・
その後もティナ・ターナーの「Twenty Four Seven」、ジョージ・ハリスンの「Fear of Flying」、セリーヌ・ディオン「Refuse to Dance」「Time Goes By」など、多くのアーティストが彼女の書いた曲を歌っている。
ジミー・ネイルが92年にチャーリー・ドア(+他2人)と共作した「Ain't No Doubt」は全英1位となった。

ちなみにジョージ・ハリスンの「Fear of Flying」は生前未発表曲で、2014年10月に発売された、BBCラジオ番組と曲で構成された同名のCDに収録されている。
音源はジョージの元妻オリビアがジョージのアーカイブの中から見つけたデモトラックで、79年頃にチャーリーがジョージの家を訪れた際に録音されたといわれており、元はチャーリー・ドアの曲だそうです。

95年にアルバム「Things Change」を発表。
このアルバムに収録された「Refuse to Dance」「Time Goes By」を、後にセリーヌ・ディオンがカバーしている。

21世紀に入ってもチャーリー・ドアはマイペースで活動。
2004年に内省的な歌詞とアコースティックなサウンドでアルバム「Sleep All Day And Other Stories」をリリース。
2006年にはジャズからカントリー、ポップスなどの要素をフォークで包み込み、ライブで録音したような音に仕上げた「Cuckoo Hill」をリリースした。
2008年にフラ・バレー時代によく演奏していたお気に入りのアメリカの歌を集めたアルバム「The Hula Valley Songbook」を発表している。

2011年に「Cheapskate Lullabyes」をリリース。
ラストの「Fifty Pound Father」のみチャーリーが一人で作り、他の9曲は長年のパートナーであるジュリアン・リットマンと共同で制作した。
2014年の「Milk Roulette」では、生と死や結婚、体外受精といった社会派なテーマから、音楽ダウンロードに対する抗議まで、様々な内容を歌詞にして歌っている。
2017年発表の「Dark Matter」も、個人的なテーマを様々な比喩や例えで語るユーモアと憂鬱さが巧みに混ざり合う内容。
チャーリー・ドアの作品は、年を追うごとに歌詞もサウンドも多面的になっているようだ。
最新作は2020年の「Like Animals」。
今年も年末までイギリス各地でのライブ予定が組まれている。

今回も知ってた話は微塵もなし。
シーナ・イーストンの「Strut」をチャーリー・ドアが作っていたと知っていた日本人はどれくらいいただろうか?(エラそう)
ジョージ・ハリスンの「Fear of Flying」の話も初めて知った・・

「Pilot Of The Airwaves(涙のリクエスト)」は思ったより複雑で秀逸な構成だと思う。
イントロは少しスローな楽器なしの混声アカペラで始まり、演奏とともに甲高いチャーリーのボーカルが続くが、間奏ではエレキギターやキーボードのような音も聞こえる。
ナッシュビルで録音とのことで、そう言われるとカントリーな香りもするが(知ったかぶり)、純アコースティックなサウンドでもない。
何よりチャーリーの声と演奏が非常にマッチしており、聴いていて心地よい曲である。
チェッカーズが歌うより5年も前に(別の曲だけど)「涙のリクエスト」は日本のFMでも流れていたのだ。
その後柏村武昭も小林克也も東郷かおる子も、チャーリー・ドアを採り上げなかったのが残念である。(エラそう)

というわけで、チャーリー・ドア。
聴くなら当然「涙のリクエスト」収録の「Where to Now」からだと思いますが、このアルバムにはジョージ・ハリスンも歌ったという「Fear of Flying」もあるようので、ジョージのバージョンとも聴き比べてみたいとも少しだけ思っています。
他のアルバムが日本で入手可能なのかわかりませんが、ご存じの方がおられましたら教えていただけたらと思います。

Where-to-now
チャーリー・ドア Where to Now
Listen
チャーリー・ドア Listen!
Checkers
チェッカーズ 涙のリクエスト

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