聴いてない 第302回 アンスラックス

前回アンブロージアをメタルだと勘違いして世界中に恥をさらした自分ですが、今回は正真正銘のメタルバンド、アンスラックスを採り上げます。
どっちにしろ聴いてないんで恥をさらすことに変わりありませんが・・・

アンスラックス、全く聴いてません。
メンバーの名前や顔も知らず、そもそも何人組なのかもわからない。
メタリカメガデスとスレイヤーとともに「The Big 4」と呼ばれるスラッシュメタル四天王の一角を担う・・・そうだが、スレイヤーとアンスラックスは1曲も聴いていない。
聴いてない度は破竹の1。

アンスラックスはスラメタ(って言うの?)スタイルを確立したパイオニア的存在だが、四天王の中では特異なバンドだそうだ。
四天王のうち三沢・小橋・川田・・・じゃなかった、メガデス・メタリカ・スレイヤーは西海岸出身だったが、アンスラックスだけは東海岸のニューヨークで結成されている。
そのため基盤のメタルにパンクやヒップホップといった東海岸テイストな要素を加えることにより、独自のミクスチャーな音楽性を確立していった・・・とあちこちのサイトに書いてある。
メタルだけでも大変なところに、さらに縁遠いパンクやヒップホップが混ざってるとなると聴ける気が全然しないんですけど、ともかくバンドの来歴だけ追っかけることにした。

アンスラックスは1981年にニューヨークでスコット・イアンとダン・リルカ、デイブ・ワイスによって結成され、その後ボーカルのジョン・コネリーと、ベースのポール・カーンが加わった。
バンド名アンスラックスは炭疽菌のことで、イアンが生物学の教科書(ウィキペディア日本語では百科事典となっている)で見つけ、邪悪な響きであることから選ばれたとのこと。

ただしアンスラックスはデビュー前からメンバーが非常に流動的で、全ての人事異動を正確に言えるファンはあんましいないんじゃないかと思うほど出入りが激しい組織のようだ。
最初のアルバム「Fistful of Metal」は以下のみなさんで録音されている。
スコット・イアン(G)
ダン・リルカ(B)
ニール・タービン(Vo)
ダン・スピッツ(G)
チャーリー・ベナンテ(D)

結成時のメンバーから早くも3人入れ替わっている。
英語版ウィキペディアの「List of Anthrax members」というページを見ると、81年の結成から1年半くらいの間にボーカルが6人くらい変わっていて、きっちり数えるとデビューアルバムを発表したのは第9期だ。
パープルよりすごいってどういうバンドだよ・・・

そんな感じでスタートから安定の少ないアンスラックス。
結成メンバーだったダン・リルカは他のメンバーとの間に様々な理由(何?)で緊張が高まり、最終的にはバンドがダンを解雇するに至った。
後任としてチャーリー・ベナンテの甥にあたるローディのフランク・ベロが加入。
さらに84年8月にはニール・タービンの個人的な趣味(何?)を理由に解雇した。
バンドは残った4人で一時的に別の名前で活動を継続。
この時はスコット・イアンがボーカルを務めている。

その後ボーカルのジョーイ・ベラドンナが加入し、セカンドアルバム「Spreading the Disease(狂気のスラッシュ感染)」を85年10月にリリース。
評価も高くバンドとしてはようやく安定・・なのだが、メンバーはわりと自由に活動していたようだ。
スコット・イアンとチャーリー・ベナンテは、なんと解雇したはずのダン・リルカと共にサイドプロジェクトとしてストームトルーパー・オブ・デスを結成。
アンスラックスのレコーディングの余り時間を使ってわずか3日間でアルバム「Speak English or Die」を録音し、アンスラックスのアルバムより先にリリースしている。
本人たちは楽しそうですけど、契約上問題はなかったんでしょうかね?

87年にはアルバム「Among the Living」を発表する。
プロモーションのために1年以上ツアーを行い、ヨーロッパではメタリカとも同行。
キッスのCrazy Nightsツアーもサポートした。
この努力は結果としてアンスラックスの人気と知名度を飛躍的に向上させ、シングル「Indians」は全英チャートで44位、「I Am the Law」は32位を記録し、アルバムも初のゴールドレコード認定となった。

翌88年に4枚目のアルバム「State of Euphoria」をリリース。
ジューダス・プリーストやメタル・チャーチと仕事をしていたマーク・ドッドソンがプロデュースを担当したこのアルバムは、前作ほどには評判が良くなかったが、リリースから約5ヶ月でゴールド認定された。
ジャケットは蚊取り線香みたいな渦巻き模様にメンバーの叫び顔が浮遊してるという、どこかパープルチックな絵ですけど。

人気が安定したアンスラックスは、89年頃にはライブイベントのヘッドライナーやオープニングアクトとしてアリーナで演奏するようになる。
オジー・オズボーンのツアーのサポートや、エクソダスとハロウィンとのアメリカ・ヘッドバンガーズボールツアーのヘッドライナーを務めた。

90年にリリースされた「Persistence of Time」は、レコーディング前のセッションの最中にスタジオで火災が発生し、高額な機材とリハーサルスタジオを失うというアクシデントの中で制作された。(全英13位・全米24位)
シングル「Got the Time」はジョー・ジャクソンのカバーで、全英16位という成績をジョー・ジャクソンも喜んだらしい。

91年にはパブリック・エナミーが88年にリリースした「Bring Tha Noize」を、本家と共演カバー。
ヒップホップとメタルをクロスオーバーさせた革命的カバーと話題になった。
ただ「カバーするんで共演せえへん?」とパブリック・エナミー側に連絡したが、スケジュールが合わず一緒にスタジオに入れなかったので、別々の場所でレコーディングをしたそうだ。

しかし92年の初めにバンドは大きな転換を迎える。
ジョーイ・ベラドンナは創造性とスタイルの違い(って何?)を理由にアンスラックスから解雇された。
円満退社という報道もあったらしいが、解雇と円満退社ってどうして真逆の報道になるの?
バンドは後任ボーカリストのオーディションを行うが、最終的に別のメタルバンド「アーマード・セイント」のジョン・ブッシュを円満に引き抜くことに成功した。

ジョン加入後の最初のアルバム「Sound of White Noise」は1993年にリリースされた。
オルタナティブロックに影響を受けた暗いサウンドで、ジョンの低く野太い声は評論家から「威嚇的で不吉なアルバム」などと書かれたりしたが、ファンからは高い評価を得ており、全英14位・全米7位の成績を残した。

バンド史上最大のヒットを出してもアンスラックスは安泰ではなかった。
ギターのダン・スピッツが時計職人になるという予想外の転職動機でバンドを脱退する。
4人組となったバンドは95年に7枚目のスタジオアルバム「Stomp 442」をリリース。
だがリリース直前にレーベルのエレクトラでは社長交代があり、新社長は「Stomp 442」の内容を良く思っておらず「ワシやったらこんなんOK出さへんかったで正味の話」などと語り、プロモーションも行わなかった。
結果「Stomp 442」は全英77位・全米47位と前作を大きく下回る実績しか残せず、レーベルとの仲は悪くなり契約は終了してしまう。

以降アンスラックスはバンド内よりもレーベルに関して不運が続く。
97年末には独立レーベル「イグニッション」と契約し、翌年「Volume 8: The Threat Is Real」を発表。
パンテラのボーカリストであるフィル・アンセルモがゲスト参加してくれたが、98年末にレーベルは倒産し流通が途絶え、全米チャートでは100位にも入らなかった。
バンドは再帰を賭けてビヨンド・レコードと契約し、99年にベスト盤「Return of the Killer A's」をリリースしたが、その後ビヨンドも倒産している。
なおこの時期、ジョーイ・ベラドンナとジョン・ブッシュのツインボーカルツアーが計画されたが、ジョーイは直前で参加を見送っている。

2003年、今度はサンクチュアリ・レコードと契約し、9枚目のスタジオアルバム「We've Come for You All」を発表。
ファンや評論家からは復調したと賞賛されたが、全米122位止まりで商業的には成功しなかった。

様々な混乱にもめげずアンスラックスは活動を継続。
2004年初頭には全曲が新録音によるセルフカバーアルバム「The Greater of Two Evils」をリリースした。
デビュー20周年を記念し、ホームページ上でのファン投票によって選ばれたナンバーをスタジオライブ形式で録音している。

2005年、ジョーイ・ベラドンナとダン・スピッツが復帰。(時計職人の夢は?)
名盤「Among the Living」リリース時のメンバーが揃い活動を再開。
ツアーも行われ「Among the Living」全曲を演奏した時もあった。
2006年10月14日には「LOUD PARK 06」で来日を果たす。
この再結成アンスラックスはツアー後にニューアルバムをレコーディングする予定だったが、2007年にはジョーイ・ベラドンナが再結成に同意せず結局脱退。
バンドはジョン・ブッシュにも復帰を持ちかけたがジョンも断っている。
2007年12月にボーカルのダン・ネルソンが加入し、ロブ・カジアーノが復帰すると発表。
2008年5月にシカゴで19ヶ月ぶりのライブを行った。

その後ボーカルは小刻みに変動。
2009年7月、バンドマネージャーは「ダン・ネルソンは病気により脱退した」と発言するが、ダンは「解雇された」と否定した。
予定されていたオーストラリア公演を前にバンドは動揺したが、頼れるボーカルのジョン・ブッシュが復帰。
公演の後、ジョン・ブッシュは次のアルバムのいくつかの曲のボーカルを再録音するつもりだと語った。

だが。
2009年末にヨーロッパでの「Big4」のライブが決定すると、ジョン・ブッシュはなぜかBig4ライブを嫌がってバンドを脱退する。
で、今度はジョーイ・ベラドンナがBig4ライブ参加のためにバンドに復帰。
ニューアルバムを録音することも約束した。
この流れを見ると、ジョーイとジョンは互いに「ヤツと同じステージやスタジオでは歌いたくない」と思ってるってことですかね?
ともあれジョーイ復帰でアンスラックスはめでたくBig4としてメタリカとメガデスとスレイヤーとともに史上初めて同じステージで演奏した。

2011年6月、アンスラックスは新曲まで数年待ったファンに感謝を込めてシングル「 Fight'Em 'Til You Can't」をウェブサイトでフリーダウンロード曲として公開。
9月にはアルバム「Worship Music」がリリースされ、全米チャートで初登場12位となった。
2013年にギターのロブ・カッジアーノが脱退し、ジョナサン・ドナイスが加入。
2016年に11枚目のスタジオ・アルバム「For All Kings」を発表した。

その後のアンスラックスはBig4も含めて他のメタルバンドとの交流が多いようだ。
アイアン・メイデンの中南米ツアーでオープニングを飾ったり、スレイヤーやデス・エンジェルと共に北米ツアーに出たりしている。
また2019年10月にはテスタメント、アーマード・セイント、デビルドライバー、メタル・チャーチらとともに、メガデス主催のクルーズ船上ライブ「メガクルーズ」に参加した。

2021年にはバンド結成40周年記念ツアーが予定されていたが、コロナ禍により翌年に延期された。
2022年7月に配信ライブのフルセットリストに加え、リハーサルや地元ニューヨークの案内映像も収録されたライブ盤「XL」をリリースした。

以上がアンスラックスのたどった長く輝かしい金属な道のりである。
脱退や復帰など楽しそうな離合集散が多々あったようだが、残念ながら知ってた話は一切なし。
メタル界隈での交流についても、出てくるバンド名は全然知らない。
パブリック・エナミーとの共演も全く知らなかった。

学習にあたりいくつかの曲をYou Tubeで聴いてみたが、どれも想定していたメタルのイメージそのものの楽曲とサウンドだった。
やたら早いリズムに早口ボーカル、騒々しいドラムにキレ気味ギター。
ジョーイとジョンのボーカルの違いもあまりよくわからなかった。
それくらい楽器の音が騒がしい。
申し訳ないがあまり楽しくなく苦手な音楽だった。
これを克服するのは相当な勇気と挑戦そして努力が必要だ・・・などと予備校のスローガンみたいなことを考えました。

あとアンスラックスってそんなにプロモ・ビデオに凝ってないようで、ふつうに(でもないけど)歌って演奏する映像が多かったように思いました。
ストーリー仕立てや俳優を使ったビデオもあったりするんだろうか?

そんなわけで、アンスラックス。
冒頭に述べたとおり正直聴ける気は全然しませんが、それでも初心者向けなアルバムがあったりするのであれば教えてほしいと思います。

 

 

 

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聴いてない 第301回 アンブロージア

関東最大級の無成長BLOG、300回を超えてもまだ聴いてないバンドが噴出する。
名前をなんとなく知ってる程度で、しかもどこでどう勘違いしたのか、先ほどまでメタルバンドだと思っていたのがアンブロージアである。
アンスラックスとかアイアン・メイデンとかアルカトラスとかアンタッチャブルとかアンガールズとか、メタルの人たちはアで始まるバンドが多いので、勝手にそう認識した可能性が高い。(適当)
事の重大さにようやく気付き、あわてていくつか曲をYou Tubeで確認したところ、「Biggest Part of Me」だけかすかに聴き覚えがあった。
でも実質全く聴いてないに等しいので、聴いてない度は孤高の1。

アンブロージアは結成当初はプログレで、後にAOR路線にシフトした珍しい歴史を持つバンドだそうだ。
これだけでも驚きだったが、さらに驚愕したのがブルース・ホーンズビーが在籍したことがあった、という話。
ブルース・ホーンズビーは結構好きで、レインジ時代やソロも含めて4枚もアルバムを聴いているが、全然知らなかった・・・
在籍期間も短く、目立った存在でもなかったようだが・・・

このトシになってもまだ知らないことだらけの全米芸能界。
あらためてメタルではなかったアンブロージアについて調査を開始。

アンブロージアは1970年にカリフォルニア州ロサンゼルスで結成されたアメリカのロックバンド。
結成当時のメンバーは以下のみなさんである。
・デビッド・パック(G・Vo)
・ジョー・プエルタ(B・Vo)
・クリストファー・ノース(K)
・バーレイ・ドラムンド(D)

当初は「アンバーグリスマイト」という名前だったが、すでに「アンバーグリス」という名前を使ったバンドがあることを知ったため、ギリシャ神話にある不老不死の食べ物の名前「アンブロージア」という名前を選んだ。
・・・アンバーグリスってなに?と思ったら、マッコウクジラの腸内にできる結石のことで、「竜涎香」と言う別名があり、漢方薬や香料として珍重されてきたものだそうです。
どっちにしろ日本人にはほとんどわからない名前だ。

メンバーは同世代の多くの人々と同様に、ビーチ・ボーイズビートルズに影響を受けていた。
だがバンド結成時はクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングに夢中になり、ボーカルにハーモニーを重ねる実験を始めた。
なので最初はフォーク・ロックのバンドだったが、ある晩に当時はまだ無名だったキング・クリムゾンのライヴを見て衝撃を受け、プログレに転向するようになったそうだ。
なんかどうも他人の影響を受けやすい人たちのように思えますけど・・・

75年にファーストアルバム「Ambrosia」をリリース。
この時ミキシングを務めたのはアラン・パーソンズで、アルバムはグラミー賞ベストエンジニア録音賞にノミネートされた。
シングル「Holdin' on to Yesterday」も全米チャート17位を記録している。

翌76年にアルバム「Somewhere I've Never Travelled(ピラミッドの伝説)」発表。
プロデューサーはアラン・パーソンズが担当。
ジャケットは確かにプログレな装いだが、どこかパープルっぽい気もする。
英語版ウィキペディアには「タイトル曲とシングル曲「Can't Let a Woman」が発表され、どちらも豪華なオーケストラとボーカルアレンジで、FMの人気曲となった」と書いてあるが、アルバムは全米79位で前作には及ばなかったようだ。

このあたりでバンドは方向転換を模索し始める。
プログレよりもポップやR&B、ジャズといった売れ線のサウンドを採り入れていくことになるが、この路線にクリストファー・ノースは納得できず、次のアルバム「Life Beyond L.A.(遥かなるロスの灯)」のレコーディング中に脱退した。

かなり大胆な転換だったと思うが、商業的には成功となる。
AORなシングル「How Much I Feel」は全米3位の大ヒットを記録し、アルバムも全米19位と復活。
フリートウッド・マックハートドゥービー・ブラザーズとの大規模なツアーも始まり、ライブバンドとして高い評価を受けるようになる。
78年のツアー中にクリストファー・ノースが復帰し、さらに2人目のキーボーディストのデビッド・C・ルイスと、ボーカルのロイス・ジョーンズが加入した。

80年4月にワーナーより「One Eighty(真夜中の晩餐会)」をリリース。
シングル「Biggest Part of Me」は全米3位、「You're the Only Woman (愛にときめいて) 」は13位を記録。
・・・そうなの?全然知らない・・・
80年の全米3位ヒット曲なのに、柏村武昭は何をしていたのだろうか?
オンエアしてたけど自分が録音し損ねた可能性もありますけど・・・

2曲の大ヒットにより、めでたくアルバム「One Eighty」はグラミー賞の3部門にノミネートされた。
日本公演も行われ、クリフ・ウーリーがギター、ハーモニカ、バックボーカルで参加した。
なお「One Eighty」とはバンドの方向性を「180度」変えたことを意味するとファンに信じられていたが、バンド側は80年1月にレコーディングを開始したことに由来すると主張している。

しかし栄光の後に波乱が起きるのがロックバンド。
82年にデビッド・C・ルイスは一時的にツアーグループを離れ、入れ替わる形でブルース・ホーンズビーが参加する。
同年に最後のスタジオアルバム「Road Island」を発表。
内容は大半が激しいハードロックで構成されており、商業的には全米115位と大幅に後退した。
クレジットや参加メンバーにブルース・ホーンズビーの名前はないそうだが、シングル「How Can You Love Me」のビデオに出演はしているとのこと。
アンブロージアはその後解散し、チャートでの成功の歴史に終止符を打った。

なおアンブロージア解散後、ブルースとジョー・プエルタはシーナ・イーストンのツアーバンドのメンバーとして活動し、後にザ・レインジを結成する。
またブルース・ホーンズビーはシーナ・イーストンのシングル「Strut」のプロモ・ビデオにも出演しているそうだ。
これも全然知らなかった・・・
もしかしてブルース・ホーンズビーのファンの間では常識?

アンブロージア解散後、デビッド・パックはマイケル・マクドナルドと仕事をしたり他のアーティストのプロデュースを手掛けたりしていた。
85年にはソロアルバムも発表。
マイケルの他、アンブロージアの同僚ジョー・プエルタ、カンサスのケリー・リブグレンとジョン・エレファンテ、TOTOのジェフ・ポーカロも参加している。

以降アンブロージアの活動は基本的に持ち歌をライブで披露する同窓会バンドになっている。
89年にオリジナルメンバー4人で再結成し、主に西海岸で再びライブ活動を開始。
ツアー中にメンバーを増やしたり入れ替えたりして活動を継続する。

97年にベスト盤「Anthology」をリリースした。
このCDには過去のヒット曲と、3曲の新曲およびデビッド・パックのソロ曲が収録されている。

2000年にはバンド結成30周年記念ツアーを開始。
しかし11月のアリゾナでのステージを最後にデビッド・パックが脱退。
脱退理由はよくわからないが、9月にカリフォルニアで行われたライブにはすでにデビッドの姿はなく、この時の模様を収録したライブ盤にもデビッドの歌や演奏は入っていないそうだ。
残ったメンバーや周囲が意図的にデビッド抜きのライブ盤を企画した、ということらしい。

一方デビッド・パックは2005年にアルバム「The Secret of Movin' On」を発表。
イーグルスのティモシー・B・シュミット、ジャーニーのスティーブ・ペリー、ハートのアン・ウィルソンなど豪華なメンバーが参加している。

その後もアンブロージアはメンバーを替えながら活動を継続中。
2021年のツアー開始時にはキップ・レノンがリードボーカルで参加した。
なおデビッド・C・ルイスは2021年6月に脳腫瘍で亡くなっている。
2020年頃には82年以来の全て新曲のアルバムを録音中という情報が流れたようだが、現時点でまだ発売はされていない。

以上がアンブロージア株式会社の壮大かつ大胆な社史である。
プログレやフォーク、ヨットロックやAORという形容はあるが、メタルとは全く関係なかった。
プログレでスタートして後にポップ路線に転換という歴史は、スティクスやジャーニーにも似ていると思う。
時期によって音楽性は異なるが、一番人気があったのはやはりAOR期で、デビッド・パックのハイトーンなボーカルに他のメンバーのコーラスを合わせたハーモニーが魅力だったようだ。

それにしても。
80年に全米3位の大ヒット曲を出していたのに、なぜ録音できなかったのだろうか?(知らんがな)
姉のコレクションにもアンブロージアはなかったし、友人との会話にアンブロージアが登場したことは一度もない(と思う)。
アルバムのタイトルもジャケットも全く見覚えがない。
また関わった人物もアラン・パーソンズやマイケル・マクドナルド、ブルース・ホーンズビーなど著名人が多いのに、そこからバンドにつながる情報を得ることはできなかった。
柏村武昭も東郷かおる子も小林克也も、アンブロージアについて何一つ教えてくれなかったのだ。(毎回人のせい)

長いこと洋楽の沼にはまってきた自負はそれなりにあったつもりだったが、ここまで情報を持たないバンドをこの歳になって知ることになったのはかなりショックである。(今さら)
アンブロージアについて「ああいましたね、アンブロージア。あまり聴いてなかったけど、メタルっぽいバンドでしょ?」などと知ったかぶりをカマさないでホントよかったです。

ちなみに。
今流行中のクラブハウス・・じゃなかった、chatGPT。
調子に乗ってあたしも使ってみました。
せっかくなので「アンブロージアとはどんなバンドですか?」と聞いたら、以下を即答してくれました。

「アンブロージア(Ambrosia)」は、1970年代から1980年代にかけて活躍したアメリカのプログレッシブ・ロック・バンドです。

彼らの音楽は、ロック、ジャズ、クラシック、そしてポップスの要素を融合させた、非常に洗練されたサウンドで知られています。代表曲には、「How Much I Feel」や「Biggest Part of Me」、「You're the Only Woman」などがあります。

彼らの初期の音楽は、プログレッシブ・ロックの影響を受けたものでしたが、後にはよりポップス寄りの方向性に向かい、グラミー賞にもノミネートされるなど、一定の商業的成功を収めました。
・・・思ったより誠実な回答。
自分で調べた情報とおおむね合致しました。
その昔FROCKLで知らないバンドについて質問した時に詳しい人が簡潔明瞭に答えてくれた・・ような感じ。
そのうち「方向性転換期におけるデビッド・パックの音楽性の変遷は・・」とか「マイケル・マクドナルドとの交流がもたらしたサウンドへの影響についての考察を端的に言うと・・」など、中の人も異様に詳しくなっていくんじゃないかと思いますが・・

というわけで、アンブロージア。
オリジナルスタジオ盤は5枚なので順番に全部聴けばええやんけが結論だとは思いますが、ベスト盤だけでもいいかなと甘いことを考えております。
一方でデビッド・パックの「The Secret of Movin' On」はゲストが豪華なので、こちらにも多少興味はわいています。
みなさまのおすすめはどのアルバムなのか、教えていただけたらと思います。
「そんなんchatGPTで聞けやボケ」かもしれませんけど・・

 

 

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聴いてない 第300回 スモーキー・ロビンソン

霊長類最低の珍奇音楽BLOGを続けて20年目。
恐ろしいことに聴いてないシリーズがとうとう300回を迎えてしまった。
第100回はストーンズ、200回はマドンナと、節目の回には超大物芸人を採り上げてきた。
なので今日は300回にふさわしい全米音楽界の重鎮、紹介すれば場内スタンディングオベーション間違いなしの御大スモーキー・ロビンソンの登場である。

ブラックミュージック界の大御所を前に大変失礼な話ですが、スモーキー・ロビンソン、全く聴いてません。
日本でどれだけの人気があるのか見当もつかないが、ミラクルズも含め聴いた曲は全くない。(いつものこと)
従って聴いてない度は1。

だが。
調べたら他のミュージシャンがカバーしていたり、あのヒット曲が実はスモーキー・ロビンソンの作品だったり・・という事例がいくつか判明。
なので本人とオリジナル曲は全然知らないが、他の人が歌うあの曲なら知ってますよというのがかろうじて少しだけある状態。
たぶんスモーキーは芸名だと思うが、そもそもなんでスモーキーなのかもよく知らない。
そこで300回記念なのでスモーキー・ロビンソンについて念入りに調査。

スモーキー・ロビンソンの本名はウィリアム・ロビンソン・ジュニア。
1940年2月19日、ミシガン州デトロイトのノースエンド地区の貧しい家庭に生まれた。
両親はアフリカ系だが、祖先にナイジェリア・スカンジナビア・ポルトガル・チェロキーなど多様な民族を持つ。
アレサ・フランクリンとは幼なじみで、アレサの兄とも仲がよかったそうだ。

スモーキーの愛称は叔父クロードから幼少時に付けられた。
ウィリアム少年はカウボーイ映画が好きで、クロードおじさんはよく映画に連れて行ってくれ、「スモーキー・ジョー」というカウボーイの名前もつけてくれた。
この愛称がそのまま芸名になったらしい。
・・・勝手に「声がハスキーで煙たい感じだからスモーキー」などと思ってたんだけど、全然違いました・・・

ハイスクール時代に友人達と一緒にコーラスグループ「ファイブ・チャイムズ」を結成。
その後メンバーを増やしてマタドールズと改名し、デトロイトで活動を始めた。
これが後のミラクルズである。

ミラクルズはモータウン・レコードが契約した最初のアーティストで、「Shop Around」でR&Bチャート1位を獲得したグループである。
1行で書けばその通りだが、詳細な経緯はもう少し複雑だったようだ。

実はミラクルズはモータウン契約の前にブランズウィックという別のレコード会社のオーディションを受けている。
残念ながらオーディションは不合格だった。
しかしその時出会った作曲家のベリー・ゴーディーが、スモーキーとミラクルズの運命を大きく変えることになる。

この頃スモーキーはまだ音楽のプロではなく、電気工学を学ぶ大学生だった。
スモーキーがオーディションに持参していたのが、自作曲を書きためたノートだった。
ベリーはスモーキーのボーカルと作曲力に感心し、自身が立ち上げたばかりのタムラ・レコードと契約するよう要請。
こうしてミラクルズは最初のシングル「Get a Job」をリリースする。
これがベリーとスモーキーの長く続いた協力体制の始まりだった。

「Get a Job」は全米R&Bチャートで5位を獲得。
スモーキーは音楽に専念する決意を固め、わずか2ヶ月で大学を中退。
ゴーディの設立したタムラ・レコードは、その後モータウン・レコードに統合されたため、ミラクルズはモータウンと契約した最初のアーティストとなった。
1960年、グループは最初のヒットシングル「Shop Around」を発表。
これがモータウン初のミリオンセラーとなった。

ミラクルズは60年代に26曲(!)のトップ40ヒットを生み出すことになる。
ビートルズもカバーした「You've Really Got a Hold on Me」や、「Mickey's Monkey」、80年にジャパンがカバーした「I Second That Emotion」、「Baby Baby Don't Cry」、グループ唯一のナンバーワンヒット「The Tears of a Clown」など、数々のヒット曲を発表。
なお65年のアルバム「Going to a Go-Go」をリリースした際に、スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズとしてグループ名を変更している。

一方でスモーキーはモータウンのソングライター兼プロデューサーとしても活躍する。
メアリー・ウェルズの「Two Lovers」「The One Who Really Loves You」「You Beat Me to the Punch」「My Guy」、テンプテーションズの「The Way You Do The Things You Do」「My Girl」「Since I Lost My Baby」「Get Ready」、フォー・トップス「Still Water (Love)」など多くのヒットシングルを作曲している。

モータウンの隆盛に伴い、スモーキーの仕事の比率も歌手活動より作曲やプロデュースが多くなっていった。
忙しくなりすぎた60年代末期にはミラクルズでのツアーに負担を感じるようになり、72年7月にワシントンD.C.で行われたステージを最後にグループを脱退し、1年間休養する。

スモーキーは73年にアルバム「Smokey」をリリースしてカムバックを宣言した。
このアルバムにはミラクルズのトリビュート曲「Sweet Harmony」やヒットバラード「Baby Come Close」などが含まれていた。
翌74年にアルバム「Pure Smokey」がリリースされたが、ヒットを生み出すことはできなかった。
かつてのコラボレーターであるマーヴィン・ゲイ、スティービー・ワンダー、元テンプテーションズのメンバーであるエディ・ケンドリックスらがそれぞれ複数のヒット曲を出していたからである。

この状況をどう思っていたかは本人に聞いてみないとわからないが、自らが育てたと言ってもいいモータウンの後輩芸人たちの台頭が、スモーキーの曲のチャートインを阻んでいた・・ということになる。
うれしくて目を細めていたのか、くやしくてホテルの部屋で大暴れしたのか、どうなんだろう?
いずれにせよ評論家たちからは酷評されていたようだ。気の毒・・・

スモーキーは評論家連中を黙らせるべく75年に「A Quiet Storm」をリリースする。
このアルバムからは、R&Bチャートで1位を獲得した「Baby That's Backatcha」、「The Agony & The Ecstasy」、「Quiet Storm」などのシングルも発表。

しかし当時すでにモータウンの副社長になっていたスモーキーは、経営者としての仕事のせいで自身の音楽活動は後回しにされた。
その結果、76年から78年にかけて発表したアルバム「Smokey's Family Robinson」「Deep in My Soul」「Love Breeze」「Smokin」はプロモーションがうまくいかず、チャートでも40位以内には入らず(「Smokin」に至っては165位)、悪い評価を受けた。
さすがにこたえたスモーキー・ロビンソンは、その後他の作曲家やプロデューサーを頼ってアルバムを制作するようになる。

この他人の力に頼った判断が功を奏する。
ミラクルズ時代にのツアーに参加していたギタリストのマーヴ・タープリンが作曲した「Cruisin'」が、キャッシュ・ボックスで1位を獲得し、ビルボード・ホット100では4位を記録。
アルバム「Warm Thoughts」でも同様のアプローチをとり、シングル「Let Me Be the Clock」で再びトップ40ヒット(全米31位・R&Bチャートは4位)を記録した。

そして81年にバラード「Being with You」でキャッシュボックスで1位、ビルボードホット100で2位、全英1位の大ヒットを記録。
この曲はスモーキーにとって最も成功したシングルとなり、同名のアルバムも全米10位まで上昇した。

歌手としてのピークはこの頃で、その後は商業的には徐々に下降していく。
82年以降も毎年シングルやアルバムを出してはいたが、チャートの上位を賑わすほどのヒットにはなっていない。
83年にはモータウンのレーベルメイトであるリック・ジェイムスと組み、「Ebony Eyes」を発表するが、全米43位と微妙な結果に終わった。
85年にはUSAフォー・アフリカに参加し、「We Are The World」のコーラスを担当。

しかしスモーキー・ロビンソンは復活する。
87年アルバム「One Heartbeat」とシングル「Just to See Her」「One Heartbeat」でカムバックし、「Just to See Her」は自身初のグラミー賞を受賞。
アルバム「One Heartbeat」はアメリカ国内だけで90万枚以上を売り上げた。

なお、スモーキー復活に歓喜したABCはトリビュート曲「When Smokey Sings」を発表し、全米5位というABC最大のヒットとなった。
スモーキー復活に勝手に乗っかった企画曲・・という気もするが、もしコケてたらスモーキーも不満だったろうし、炎上必至だったはずだ。
大ヒットしてABCもほっとしたんじゃないだろうか。
ちなみに「When Smokey Sings」はスモーキーのことを歌った曲、ということだけは知っていたが、歌詞にはルーサー・ヴァンドロスやスライ・ストーン、ジェームズ・ブラウンやマーヴィン・ゲイも出てくるそうだ。

スモーキー・ロビンソンは88年にソロアーティストとしてロックの殿堂入りを果たしたが、ミラクルズのメンバーが同時に殿堂入りできなかったことが論争を呼び、スモーキー自身も不愉快に思っていたそうだ。
後に委員会はこの判定が間違いだったことを認め、結局ミラクルズの殿堂入りが発表されたのは2012年だった。

長年所属し貢献してきたモータウンだが、88年にモータウンはMCAに売却され、スモーキー・ロビンソンは副社長の座を降りる。
90年のアルバム「Love Smokey」をリリースした後、スモーキーはモータウンを離れ、別のレコード会社と契約した。
だがアルバム「Double Good Everything」は全然売れず失敗。

がっかりしたスモーキーは99年にモータウンと再契約し、アルバム「Intimate」で一時的にカムバック。
でも全米134位という成績に終わってしまった。
再びがっかりしたスモーキーは、2003年にモータウンとの契約を終了。
以降オリジナルアルバムはモータウンから発表していない。

その後はチャートや売り上げを意識しないおだやかな活動となる。
2004年にゴスペルアルバム「Food for the Soul」をリキッド8レコードからリリースしたり、子供向けアニメシリーズ「Tod World」の主題歌「Colorful World」を歌ったりした。

2009年には自身のレーベルであるロブソ・レコードからアルバム「Time Flies When You're Having Fun」を発表。
久々にチャートで59位を記録した。

2014年には「Smokey & Friends」という企画盤をリリース。
ミラクルズ時代を含むかつての持ち歌をエルトン・ジョン、スティーブン・タイラー、ジェームス・テイラーらとデュエットするという豪華な内容で、全米チャートで12位を記録した。

スモーキー・ロビンソンは今も現役で活動中である。
今月には全曲新作で10年ぶりのアルバム「Gasms」がリリースされる予定。
最初のシングル「If We Don't Have Each Other」は今年1月からすでにストリーミング・サービスで入手可能になっている。

以上がスモーキー・ロビンソンの華麗で巨大なる人間山脈、名勝負数え歌である。
知っていた話はほぼゼロ。(業務田スー子調)
81年のナンバーワンヒット曲「Being with You」もYou Tubeで確認してみたが、サビの部分にうっすらと聴き覚えがある程度だった。
感覚的には「本国やイギリスでは超有名人で偉大なスターだけど日本ではあんましなじみがない・・」ような人じゃないかと思うんですけど、違います?

冒頭に告白したとおり、ミラクルズの曲も含めFMでスモーキー・ロビンソンの歌声を録音できたことは一度もない。
ABCの「When Smokey Sings」はリアルタイムでエアチェックできたのに・・・
おそらく柏村武昭の好みではなかったのだろう。(適当)

ビートルズの「You've Really Got a Hold on Me」や、ジャパンの「I Second That Emotion」が実はミラクルズがオリジナルだと今回調べて再確認した。
どっちもなんとなく誰かのカバーだったよな程度の認識だったが、どっちもスモーキー・ロビンソンの作品だったんスね。
「I Second That Emotion」のミラクルズ版も聴いてみたが、ジャパンとは全然雰囲気が違う。
というかジャパンのほうが同じ曲とは思えないほど、大幅にねっとりニューウェイブ寄りにアレンジし倒していたのだった。

あと気になっているのがUSAフォー・アフリカへの参加である。
当時の雑誌や音楽番組でも盛んに報道されたので、スモーキーの参加は知っていたが、「We Are The World」ではソロパートは歌っていない。
なぜ?
ミラクルズで数々の奇跡を起こし、ソロでも全米1位の大ヒット曲を持つモータウンの実力者なので、一節歌っていてもおかしくない存在ではないかと当時から(聴いてないくせに)思っていたのだが・・・
なんかあったんスかね?
クインシー先生の楽屋にスモーキーが挨拶に来なかったとか、スタジオ入りした時にスモーキーが先生の足を踏んづけちゃったとか、心躍るエピソードをネットで探してみたが見つからない。
誰かご存じですかね?
集合写真ではスモーキーさんも笑顔で楽しそうにしてましたけど・・・

というわけで本日は300回記念にスモーキー・ロビンソンをお届けしました。
みなさんは聴いておられますか?
まあ20年間常に失礼なBLOGなんで今さら言い訳もできませんが、どこから聴いたらいいものやら見当も付きません。
ミラクルズ時代とソロでそれぞれベスト盤を聴くしかないかなとも思います。
あと、他の歌手が歌った作品集なんてのもあるんでしょうか?
聴くならこれというアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

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聴いてみた 第176回 ジャーニー その2

当BLOGの基本運営理念である聴いてみたシリーズ
万年課題のジョン・レノンや緊急課題のジェフ・ベックを差し置いて、今回はなぜかジャーニーを聴いてみました。
・・・お察しのとおり、先日WBCがあったからです。

TBSではなぜか以前からWBCのテーマ曲としてジャーニーの「Separate Ways」を使ってきた。
歌詞の中身は男女の別れを歌ってるのに、なぜ野球大会のテーマ曲なのか?
局内の会議で「かっこいいから」という理由で決定し、以来誰も変えようとしてこなかったとのこと。
「TBSの英語ボケ」などと批判した評論家もいたが、選んだ人たちはボケじゃなくて本当に歌詞の意味をわかってなかったんでしょうね。

で、大谷や村上やヌートバーとともに繰り返し流れる「Separate Ways」でふと気づいたのだが、ジャーニーも結構未聴盤が残っている。
というか、聴いたのは全アルバムのうち半分もないのだ。

Journey (1975)
Departure (1980)
Dream, After Dream (1980)
Escape (1981)
Frontiers (1983)
Raised on Radio (1986)
Greatest Hits(1989)

上記が鑑賞履歴の全てである。
デビューアルバム「Journey」とサントラ盤「Dream, After Dream(夢・夢のあと)」は後追いなので、リアルタイムで聴いたのは80年代の4枚である。
自分にしては聴いてるほうで、また70年代のヒット曲はFM番組やベスト盤で聴いたりしたので、あまり切迫感もないまま過ごしてきた。
だが70年代の、特にスティーブ・ペリー在籍時代の「Infinity」「Evolution」を聴いていないのは大きな文化的損失と言える。
というわけで、WBCを契機にスティーブ加入後の最初のアルバム「Infinity」を聴くことにしました。(デタラメな動機)

Infinity

「Infinity」は78年発表の4作目のスタジオアルバムで、邦題は「無限との遭遇」。
映画「未知との遭遇」に完全に乗っかったレコード会社の命名だと思うが、あまり浸透しなかったようです。

メンバーは以下のみなさんである。
・スティーブ・ペリー(Vo)
・ニール・ショーン(G)
・グレッグ・ローリー(K・Vo)
・ロス・ヴァロリー(B)
・エインズレー・ダンバー(D)

それまでのいまいち中途半端な技巧派プログレバンドから脱したかったジャーニーは、レコード会社からの圧力もあり、ボーカルの強化を検討し始める。
目指したのはフォリナーやボストンのような存在感のあるボーカルを擁するバンド。
そこでロバート・フライシュマンという人が加入し、数曲をレコーディング。
しかしロバートさんは音楽性の違いやマネージメント契約でのモメ事などの理由からバンドを脱退。
直後にスティーブ・ペリーが加入し、バンド内に産業革命をもたらすことになる。
なのでスティーブを「ジャーニー2代目ボーカル」と紹介するサイトも多いが、厳密には3代目のボーカル担当ということになる。

ジャーニーのマネージャー、ハービー・ハーバートは、イギリス人プロデューサーのロイ・トーマス・ベイカーに新盤「Infinity」のプロデュースを依頼した。
ロイはクイーンでの実績を生かし、層の厚いサウンドとコーラスを作り上げる。
これがその後もジャーニーのサウンドのトレードマークとなった。

こうして新しいリードシンガーと新しいプロデューサーにより、アルバム「Infinity」は全米チャートで21位を獲得。
バンドはこのアルバムを引っ提げ、ヴァン・ヘイレンやモントローズとともにツアーを開始した。

バンドの大きな転換となった「Infinity」。
果たしてスティーブ・ペリーとロイ・トーマス・ベイカーはジャーニーにどのような変革をもたらしたのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1.Lights
この曲はベスト盤で聴いていた。
スタートからスティーブ・ペリーが本領発揮の展開。
目の前にサンフランシスコの夜景が見えるようなサウンドと、その後多用されるコーラスワークも見事な構成である。
サンフランシスコ行ったことないけど。

2.Feeling That Way
静かなイントロで歌うのはグレッグ・ローリー。
その後スティーブとボーカルを分け合い、コーラスを当てつつメインがスティーブに移る。

3.Anytime
これも前の曲と似たサウンドで、グレッグが歌う。
中盤でスティーブが登場し、ニールのうねるギターをはさんで二人で歌う。
このサウンドとコーラスが新生ジャーニーの特徴であることを強調する意味で、当時のラジオではよくこの曲と「Wheel in the Sky」が連続してオンエアされたそうだ。

4.La Do Da
この曲もベスト盤で聴いている。
メタルっぽく刻まれたギターとドラムでややヘビーな印象。
タイトルはどういう意味だろう?

5.Patiently
一転おだやかに始まるバラード。
スティーブ・ペリーとニール・ショーンが初めて一緒に書いた曲だそうだ。
(作詞をスティーブ、作曲をニールが担当)
中盤から急に重厚なギターとドラムが加わって盛り上がり、エンディングは再度静かに終わる。
彼らの得意な攻撃パターンと言える。

6.Wheel in the Sky
ジャーニー初の全米チャート100位以内に達した曲。(75位)
当時FM番組でジャーニー特集が組まれるとよくオンエアされていた。
哀愁が充満したスティーブの演歌っぽいボーカルとコーラス、ニールのやけくそギター、どすどす響くエインズレー・ダンバーのドラム。
80年代に隆盛を極める彼らのサウンドの完成されたフォーマットが詰まった名曲。
タイトルの「空に浮かぶ車輪」とは太陽のことで、「回り続ける太陽=時の経過」を示しているとのこと。
この歌詞はロス・ヴァロリーの妻であるダイアン・ヴァロリーが書いた「Wheels In My Mind」という詩が原案で、またクレジットには脱退したロバート・フライシュマンの名前もある。

7.Somethin' to Hide
わりと大人しめの曲だが、キーがかなり高く、珍しく?スティーブがファルセットを多用。
基本ハイトーンボイスが売りな人なので、ムリに裏声を使わず、むしろキーをスティーブの声に合わせて設定したほうがよかったのでは・・・

8.Winds of March
これもスティーブの物悲しい演歌調の声が響き渡るバラード。
想定どおり各楽器が重苦しくからみ、静かにエンディング。
この曲もロバート・フライシュマンが作曲に参加している。

9.Can Do
「La Do Da」に似た重厚長大な楽曲。
ギターソロもかなり大げさで、タイトルをコーラスで連呼し、終了直前にボーカルを残して楽器だけ急に止まる。
これも80年代に時々使われた彼らの得意技。

10.Open the Door
ラストはどこかプログレの香りが残る、静寂と重厚が奏効するメリハリの利いた壮大な曲。
スティーブのボーカルならではの構成だが、シングルにはあまり向かない感じ。

聴き終えた。
評判どおりの産業ロック革命盤である。
やはり「Lights」「Wheel in the Sky」の存在感が強いが、「Feeling That Way」「Patiently」もいいと思う。
使いまわされた言い方になるが、このアルバムには捨て曲がない。

スティーブ・ペリーのボーカルはその後のジャーニーの方向性を決定する重要な要素であったことは間違いない。
以前も書いたが、この人の声はキーが高いがツヤがそれほどなく、ハスキーな枯れ声である。
だがこのヘタリのない安定した枯れ声にやはり特徴があり、唯一無二の存在となっている。
また歌だけでなく曲作りの面でもほとんどの曲に参加しており、功績は非常に大きかったはずだ。
それまでの技巧派プログレとは全く違うバンドになっており、たどった道としてはスティクスにも共通するものがあると思う。

今回調べて初めて知ったが、ロイ・トーマス・ベイカーのプロデュースという点も大きいと感じた。
聴いていてクイーンのようなサウンドとコーラスが目立つなと感じていたが、ロイのプロデュースと聞いて納得である。(知ったかぶり)
次のアルバム「Evolution」もロイさんがプロデュースしてるそうなので、おそらく問題なく聴けると思われる。

ところでこのアルバムを最後に脱退したドラマーのエインズレー・ダンバーだが、これも調べて初めて知ったのだが、ものすごい経歴の持ち主だった。
ジャーニー加入前はジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズやジェフ・ベック・グループに参加しており、その後もザッパやジョン・レノン、デビッド・ボウイルー・リードのアルバムにも参加経験がある。
ジャーニー脱退後はジェファーソン・スターシップに加入したり、ホワイトスネイク「白蛇の紋章-サーペンス・アルバス」でもドラムを担当。
2000年以降もUFOやマイケル・シェンカー、キース・エマーソンのアルバムに参加している。
全然知らなかった・・・
実績と稼働年数はコージー・パウエル以上のものがある。
元々ブルース志向の人で、スティーブ・ペリー加入後の産業ロック化したジャーニーが合わなかったらしい。

というわけで、「Infinity」。
予想以上によかったです。
個人的には「Departure」よりも華やかでいいと感じました。
毎度の言い訳になりますけど、若い頃に聴いていたら、「Escape」「Frontiers」と並んで愛聴盤になっていたはずです。(後悔)
次回は「Evolution」を聴いてみようと思います。

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聴いてない 第299回 ジョー・コッカー

世の中には声を聴いてすぐ誰だかわかる歌手が存在する。
ロッド・スチュワートブライアン・アダムスなど、ハスキーな声の人は特にそうだろう。
そのハスキーボイスの持ち主の中でも「暑苦しい」と形容される、ジョー・コッカー。

ジョー・コッカー、全然聴いてません。
聴いたのはジェニファー・ウォーンズとのデュエット「Up Where We Belong(愛と青春の旅だち)」だけ。
82年の曲だが録音できたのは10年くらいあとで、NOW系オムニバスCDからだったと思う。
ジョー・コッカーの名前はもう少し前からなんとなく知ってはいたが、実績や経歴は今も全然知らない。
すでに故人であることもさっき初めて知った。
「すぐわかる声」などと言ってるわりに実はなんにも知らないのである。(毎度のこと)
暑苦しく渋い声のジョー・コッカーについて渋々調査開始。

ジョー・コッカーは1944年イギリスに生まれた。
・・・勝手にアメリカの人かと思ってましたけど、イギリス人だったんスね。
本名はジョン・ロバート・コッカー。
レイ・チャールズとロニー・ドネガンに影響を受けて音楽活動を始めた。
16歳で友人3人とともにキャバリアーズという名のバンドを結成。
その後学校を辞めてガス局で働きながら音楽活動を続けた。

1961年にヴァンス・アーノルドという芸名で、シェフィールド周辺のパブでチャック・ベリーやレイ・チャールズなどの歌を演奏していた。
63年にはシェフィールド・シティホールでローリング・ストーンズをサポートしたこともあった。

64年ソロとしてデッカとレコーディング契約を結び、最初のシングルとしてビートルズの「I'll Cry Instead(ぼくが泣く)」でデビュー。
このシングルでギターを弾いているのはジミー・ペイジである。
だがペイジの協力もむなしく全く売れなかった。

がっかりしたジョー・コッカーはいったん音楽活動を休止する。
だが音楽の夢をあきらめられなかったジョーは同郷の同い年クリス・ステントンと組み、グリース・バンドを結成した。
バンドは主にシェフィールド周辺のパブで演奏していたが、やがてプロコル・ハルムムーディー・ブルースのプロデューサーであるデニー・コーデルの目に留まる。
デニー・コーデルはジョーにロンドンのマーキー・クラブで演奏するよう指示し、ジョーはクリスとともにロンドンに移り住む。

68年にジョー・コッカーは再びジミー・ペイジの演奏をバックにビートルズの曲「With a Little Help from My Friends」をカバーする。
すると全英チャートのトップ10に13週間留まり、最終的に1位を獲得する大ヒットとなった。

ジョー・コッカー&グリース・バンドは69年春に初のアメリカ・ツアーに乗り出した。
ジョーのアルバム「With a Little Help from My Friends」は全米チャートで35位を記録し、最終的にはゴールドになった。
この全米ツアー中、ジョーとバンドはニューポート・ロック・フェスティバルやデンバー・ポップ・フェスティバルなど、いくつかの大きなフェスティバルで演奏した。
するとプロデューサーのデニー・コーデルが、ニューヨーク郊外のウッドストックで大規模なコンサートが予定されていることを聞き、主催者を説得してジョー・コッカーとグリース・バンドを出演させるよう依頼。

めでたくジョーとバンドはウッドストック・フェスティバルに出演し、「Feelin' Alright?」「Something's Comin' On」「Let's Go Get Stoned」「I Shall Be Released」「With a Little Help from My Friends」など数曲を披露した。
ジョー・コッカーは後に、「この体験は日食のようだった...とても特別な日だった」と語っている。

ウッドストックの直後、ジョー・コッカーは2枚目のアルバム「Joe Cocker!」をリリースした。
ツアーの合間に録音されたこのアルバムは全米チャートで11位を記録し、レオン・ラッセルの曲「Delta Lady」は全英10位とヒットした。

69年にはワイト島フェスティバルで歌ったり、「エド・サリバン・ショー」やトム・ジョーンズのバラエティ番組にも出演するなど、多忙な日々を送る。
さすがに疲弊したこの年の暮れ、ジョー・コッカーはもうアメリカ・ツアーに出ることを望まず、グリース・バンドは解散してしまう。
しかしアメリカでのツアーは契約上出演する義務があったため、ジョーは新しいバンドを結成しなければならなかった。
そこで集まったのがレオン・ラッセル、ジム・ゴードン、ジム・ケルトナー、チャック・ブラックウェル、リタ・クーリッジやクローディア・レニアなど、20人以上の大所帯だった。

この豪華なバンドは「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」と名付けられ、ツアーでは48都市を回り、ライブアルバムを録音し、そのパフォーマンスは音楽誌や評論家から非常に高い評価を受けた。
だがツアーは商業的には成功に至らず、ジョー・コッカーは多額の借金を負うはめになる。

「やっぱ行くんじゃなかった・・・」とがっかりしたジョーは70年5月にやっとツアーが終了すると鬱状態になり、酒におぼれてしまうようになった。
それでも音楽活動はなんとか続け、アメリカでは「Feelin' Alright」「Cry Me a River」がヒットした。
またライブアルバム「Mad Dogs & Englishmen」に収録された「The Letter」も、ジョーにとって初の全米トップ10ヒットとなった。
ジョー・コッカーはデビュー当時からカバーが好きなようで、これらのヒット曲はいずれも他のミュージシャンの曲のカバーである。

酒の飲み過ぎで心身共に悪化したジョー・コッカーは2年ほど活動を休止。
72年初めにようやくクリス・ステイントンらと一緒に欧米でのツアーに出る。
このツアーでの演奏も収録したアルバム「Joe Cocker」は全米30位・全英29位を記録した。

だがこの年の秋、オーストラリアのツアー中にマリファナ所持やホテルでの暴行で逮捕されてしまう。
オーストラリア連邦警察から即刻国外退去を求められたが、人気者ジョー・コッカーの逮捕はオーストラリア国内で大きな反響や抗議活動を呼び、マリファナ合法化についての議論まで引き起こした。
この騒動でジョーについたあだ名が「English Mad Dog」だった・・・

ファンは狂犬ディック・マードック・・じゃなかったジョー・コッカーを支持してくれたが、周囲の友人たちはやはり離れていったため、ジョーは再び鬱状態に陥り、酒やヘロインに溺れることになる。

そんなジョーの素行を見かねたバンドメンバーのジム・プライスは、自身が作った「I Can Stand a Little Rain」を歌って録音するよう説得。
いまいち乗り気でなかったジョーもジムと1曲共作してようやくレコーディング開始。
ヘンリー・マックロウやアラン・トゥーサンからも曲提供を受け、後にTOTOを結成するデビッド・ペイチやジェフ・ポーカロも参加し、74年にアルバム「I Can Stand a Little Rain」をリリースする。

アルバムは全米チャートで11位まで上昇し評価は高かったものの、この頃のジョーはライブでのパフォーマンスは非常に悪く、飲み過ぎでまともに歌えないステージもあったようだ。
その後もコンスタントにアルバムを発表するが、成績はかなり下降してしまう。

酒や薬物でダメになるミュージシャンてのは山ほどいるけど、やはり才能あるアーチストの場合は周囲が放っておけないらしく、ジョー・コッカーも断酒と中毒を繰り返しつつも友人たちの協力を得て活動を続けたようだ。

そして82年、ジョー・コッカーは映画「An Officer and a Gentleman(愛と青春の旅だち)」のテーマ曲「Up Where We Belong」で全米1位を獲得する。
このジェニファー・ウォーンズとのデュエットはアカデミー賞のオリジナル曲賞も受賞し、二人は授賞式でこの曲を披露している。

80年代は5枚のアルバムをリリースしているが、自作の曲はほとんどなく、シンガーとして活動するスタイルをとっている。
83年には9枚目のスタジオアルバム「Civilized Man」を発表。
このアルバムにはデビッド・ペイチやスティーブ・ルカサーも参加している。
87年のアルバム「Unchain My Heart」ではジョン・レノンの「Isolation」をカバー。
89年「One Night of Sin」はオーストラリアやスイスのチャートで1位を記録。
ブライアン・アダムス、ジム・ヴァランス、ダイアン・ウォレンが書いたシングル「When The Night Comes」は全米11位のヒットとなった。
この曲でブライアンはギターも弾いている。

90年代もペースは変わらず、おおむね1年おきに1枚アルバムを制作。
アメリカではあまり売れなかったが、ヨーロッパではいずれもチャート上位に食い込んでいる。
またやはりカバーも多く、ビートルズの「You've Got to Hide Your Love Away」「Something」、エルトン・ジョンの「Don't Let the Sun Go Down on Me」、ボブ・ディラン「Dignity」などを採り上げている。

21世紀に入っても活動ペースは変わらず、自身のアルバムをマメに発表し続け、ビッグなアーチストとの共演も行ってきた。

2000年にはティナ・ターナーのツアーのオープニング・アクトとして、アメリカやヨーロッパの公演に参加。
2002年6月、エリザベス女王の即位50周年記念コンサートで、ジョー・コッカーはフィル・コリンズのドラムとブライアン・メイのギターをバックに「With A Little Help From My Friends」を披露。
2007年には故郷シェフィールドの名誉市民に選ばれ、また長年の音楽への貢献が認められ大英帝国勲章(Order of the British Empire)が与えられた。
2010年のカルロス・サンタナのアルバム「Guitar Heaven」収録の「Little Wing」ではボーカルを担当。

晩年は肺がんを患い、2014年末にコロラドで亡くなった。
タバコは91年頃やめたそうだが、それまでは1日40本のヘビースモーカーだったらしい。
レイ・パーカー・ジュニアがギターで参加した2012年の「Fire it up」が、最後のスタジオ・アルバムとなった。
最後のライブは2013年9月7日にドイツのサンクト・ゴアルスハウゼンにあるローレライ野外劇場で行われた。

以上がジョー・コッカーの波乱に満ちた生涯である。
知ってた話は今回も全然ない。
思っていた以上に多作で、また交友範囲の広いミュージシャンだった。
デビュー曲でペイジがギターを弾いていたのも初めて知った。

ウッドストックで手を震わせながら歌う姿を「アルコール中毒の影響」と解説した記事を昔音楽雑誌で読んだ記憶があるが、今ネットで多くのサイトやBLOGでは「エアギター」と説明している。
ウッドストックでの映像も見たが、確かにアル中の震えというよりは、やはりギターを弾くマネをしてる・・・ように見える。
ただ実際アル中でひどいステージだったことも何度もあったらしいので、どこかで情報が混在したものと思われる。

あと驚いたのは年齢。
1944年生まれなので「Up Where We Belong」の頃はまだ40歳前である。
すいません、あんなにすごいしわがれた声なんで、70くらいのじいさんが歌ってんのかと思ってました・・・

なお「Up Where We Belong」でデュエットしたジェニファー・ウォーンズだが、この人のことも全然知らなかった。
調べたら87年の映画「ダーティ・ダンシング」の主題歌「The Time of My Life」を元ライチャス・ブラザーズのビル・メドレーとデュエットし、全米1位を獲得している。
映画のテーマ曲をデュエットで歌い、2度も全米1位を記録するという珍しい経歴の持ち主である。

というわけで、ジョー・コッカー。
あの声でアルバム全曲聴いていられるか、あまり自信もありませんが・・・
ただカバーが多い人のようなんで、どのアルバムを聴いても知ってる曲がありそうです。
もし聴くとしたら2枚目の「Joe Cocker!」がいいかなとぼんやり考えています。
皆さまおすすめのアルバムはどれか、教えていただけたらと思います。

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聴いてない 第298回 トミー・ツートーン

今日はおそらく日本では一発屋と認識されているであろうユニットを採り上げます。
その名はトミー・ツートーン。
みなさんはご存じでしょうか?

まずスタートから微妙なのはバンド名表記。
ネットで検索すると「トミー・ツートン」「トミー・テュトーン」と若干の揺れあり。
一応当時の国内盤レコードには「トミー・ツートーン」と書かれていたようなんで、今回の記事もそれに合わせます。

トミー・ツートーン、聴いたのは81年発表の大ヒット曲「867-5309/Jenny」だけ。
他の曲は全く知らず、アルバムは聴いていない。
同世代ならこういう人は多いと思う。
なので80年代洋楽一発屋特集CDなんかにタコやバルティモラやオクソやネーナらとともに収録されてる感じの人たち・・と、さっきまで思っていた。

だが。
調べてみたら実はもう1曲、デビューシングル「Angel Say No」が全米では38位の実績を持っていたことが判明。
しかもバンドは一度解散したもののメンバーを変えて再結成し、現在も活動中とのこと。
少なくともアメリカでは一発屋ではないらしい。
・・・すいません、一発ではなかったことには多少驚きはしましたが、「実は本国では大スターでヒット曲を量産」というほどの乖離はなかったんで微妙な空気になりましたけど、とりあえず続けてみます。(適当)

取り急ぎバンドの略歴調査。
トミー・ツートーンは78年カリフォルニアで結成されたパワー・ポップ・バンド。
中心メンバーはボーカルのトミー・ヒースとギターのジム・ケラーの2人である。
80年代のトミー・ツートーンは基本的にトミーとジムのユニットで、ボーカルとギター以外はその都度メンバーを募ってアルバム制作していたようです。

2人はミッキー・シャイン(D)とテリー・ネイルズ(B)とともにバンドを結成。
初めはトミー&ザ・ツートーンズと名乗ったが、長いのでトミー・ツートーンに改名。
80年のファースト・シングル「Angel Say No」は全米38位にチャートインした。
全然知らない・・・これ日本でオンエアされたことあるんだろうか?

しかし81年にはドラムがロニー・ターナーに、ベースはジョン・ライオンズに交代。
同年アルバム「Tommy Tutone-2」とシングル「867-5309/Jenny」を発表。
すると「867-5309/Jenny」がビルボードホット100チャートをじわじわと上昇し、翌年4位を記録。(年間では16位)
40週にもわたりチャートに残り続けるロングセラーとなり、日本の一流洋楽FM番組「サンスイ・ベストリクエスト」でもオンエアされた。
なおこの時柏村武昭は「トミー・ツートーン」と紹介していた(と思う)。
シングルの大ヒットによりアルバムもめでたく全米20位を記録した。

だが83年のアルバム「National Emotion」は全米179位と惨敗。
シングル「Get Around Girl」も全く売れず、バンドは84年に解散する。
その後トミー・ヒースはどう過ごしていたかは不明だが、それから12年後の96年にバンドは復活。
アルバム「Nervous Love」をリリースする。
クレジットにはジム・ケラーの名前はなく、トミー以外のメンバーは全員入れ替わっている。

98年にはトミーが解散後に書きためていた曲を集めたアルバム「Tutone.rtf」を発表。
多くのミュージシャンを起用し、制作に時間をかけた渾身の作品だそうだ。
「Jenny's Calling」という「867-5309/Jenny」の続編のような曲もあるが、残念ながらあまり話題にはならなかったらしい。

それでもバンドは21世紀に入っても意欲的に活動している。
2011年にはアルバム「A Long Time Ago」がリリースされているが、これは企画盤らしくウィキペディアには記載がない。
「867-5309/Jenny」のアコースティックバージョンが収録されている。

2016年に初期のステージを収めたライブ盤「Tommy Tutone Live」がリリースされた。
2017年にはシングル「My Little Red Book」を発表。
2019年「Beautiful Ending」というタイトルで、20年以上出していなかったスタジオ盤をようやく発表。
オフィシャルサイトには今年のライブやイベントスケジュールも掲載されており、現在も活動中のようだ。

「867-5309/Jenny」がヒットしてた時、FM番組で「アメリカのラジオ局がこの番号を買い取ってプロモーションに利用した」という話をしていた。
しかし今ネットで調べると、この曲のヒットがそうした商業利用的な話とは全く異なる、様々な騒動も起こしていたことがわかる。

当時アメリカ国内でこの番号を持っていた人の多くは、迷惑電話が頻繁にかかってくるためにすぐにこの番号を捨てたとか、たまたまこの番号だった中学校は「ジェニーを尋ねる迷惑な電話」を毎日200件も受けるはめになったとか・・・
つくづく面倒な話だよなぁ。
こういう「用もないのにすぐに電話をかけてみる迷惑な人」というのは国を問わず存在するようで、もし日本でも電話番号タイトル曲がヒットしたら、同じ現象は必ず起こると思われる。

アメリカでは「867-5309/Jenny」が大ヒットした影響は今なおあるようで、電話番号「867-5309」がオークションにかけられたり、80年代の文化やファッションを売りにしているレストランが「867-5309」を使ったりしているそうだ。

あとこれも調べて初めて知ったが、トミー・ツートーンのファンの中には、ブルース・スプリングスティーンの2007年のシングル「Radio Nowhere」が「867-5309/Jenny」のパクリじゃないのか?と考える人がいるとのこと。
イントロのギターリフや曲調が似ているということらしい。
「Radio Nowhere」は聴いたことがなかったので、You Tubeで確認してみたが、個人的には「まあ似てなくもないけど」という感想になる。
このレベルで訴えたらそれはただのイチャモンじゃないの?
真相はボスに聞いてみるしかないが、当のトミー・ヒースは訴訟なんかに興味はないらしく、「もし似ているのならそれは本当に光栄に思っている」と発言している。

というわけで、トミー・ツートーン。
繰り返しになりますけど、そもそもこのバンド、みなさんはご存じでしょうか?
もし聴くとしたら当然「867-5309/Jenny」収録の「Tommy Tutone-2」だと思いますが、アコースティックバージョン収録の「A Long Time Ago」も若干の興味はあります。
日本では全盤制覇しているコアなファンはあまりいないのではないかと思いますが、もし詳細な情報をご存じでしたら教えていただければと思います。

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聴いてない 第297回 シック

世界中が悲しみに包まれたジェフ・ベックの訃報だが、このニュースで三流の自分が思い出したのはナイル・ロジャースだった。
キャリア最大の問題作「Flash」をプロデュースしたのがナイルさんである。
(厳密にはナイルとアーサー・ベイカーとトニー・ハイマスとベック自身による共同プロデュース)
またナイル・ロジャースはハニー・ドリッパーズでもベックと共演している。
で、思い出したわりにナイルの母校たるシックをやはり聴いていないので、ムリヤリ記事にすることにしました。

シックとの出会いは意外に早く、78年の「Le Freak(おしゃれフリーク)」はほぼリアルタイムで聴いた。
あとは同じく78年の「I Want Your Love(愛してほしい)」、80年の「Rebels Are We(反逆者たち)」を聴いている。
いずれも当時の最新流行番組「サンスイ・ベストリクエスト」より録音しており、たぶん柏村武昭はシックのファンだったと思われる。(適当)
アルバムは聴いておらず、聴いてない度は3。

シックの人気や知名度はどんなもんなのか見当もつかないが、「おしゃれフリーク」なんて邦題が付けられて極東の場末貧困中学生でも聴けたくらいなので、当時は相当ラジオで流れていたと思う。
今ネットで検索すると「おしゃれフリーク」というそのまんまの名前のパブや美容院が出てくるので、その昔ディスコでインチキアフロに手足を必死にくねらせていた元ナウいヤングが経営してる店が実は日本全国にある・・ということがわかる名曲である。

ただし我が家では姉の守備範囲にシックは含まれておらず、シックのレコードが我が家のターンテーブルで回ったことは一度もない。
「おしゃれフリーク」のノリは嫌いではなかったが、他の2曲はたまたま録音できたので消さずに聴いてたんです程度。
シックの鑑賞履歴は例によってこんな貧しい有様だが、メンバーの活動はむしろバンド外で知ることが多かった。

ナイル・ロジャースは冒頭に述べたとおり、ベックやデビッド・ボウイマドンナのプロデュースを手がけている。
80年代はどのアーチストの作品を誰がプロデュースしているかというのも非常に重要な情報だった。
ブライアン・イーノ、テッド・テンプルマン、グリン・ジョンズ、ボブ・クリアマウンテン、スティーブ・リリーホワイト、ロバート・ラング(ジョン・マット・ランジ)など、今でも名前を言える名プロデューサーたちが、アーチストと共に80年代のサウンドを作っていたのだ。
ナイル・ロジャースはミュージシャンだが、プロデューサーとしてもトップクラスであることは極東の貧弱リスナーにも伝わっていた。

またバーナード・エドワーズとトニー・トンプソンも、シックではなく課外活動で名前を知った。
パワー・ステーションである。
パワステのアルバムがヒットした頃、雑誌の記事でバーナードがプロデュースしてトニーがドラムであること、二人はシック出身であることを知った。
知ったまではよかったが、じゃあシックを聴いてみようかとはならず、結局鑑賞しないまま今に至る。

前置き長くなりましたけど、このままでは彼らの本業シックの活動も偉業も全然知らずに人生が終わりそうなので、主な実績について軽薄に調べてみました。

シックはニューヨークで結成された男女混合バンドである。
だが枠組みとしては非常に流動的かつ有機的で、その後の活躍が示すとおり、結成当初から他のミュージシャンとの活動や制作支援も積極的に行うスタイルを取っている。

中心人物はジャズ系ミュージシャンのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズで、二人は70年にニューヨークで出会う。
その後は他のミュージシャンのバックやツアーバンドを務めていたが、76年にシックを結成する。
直後にトニー・トンプソンが加入し、三人組セッションバンドとして活動。

ナイルが目指したのは「黒人版ロキシー・ミュージック」だった。
ナイルはロキシー・ミュージックのコンサートにバックで参加したこともあり、音楽と雰囲気が整合するロキシーのスタイルに感銘を受けたそうだ。
またキッスからも影響を受けたと明かしている。

ナイルとバーナードはバンドとして自立するにはやはりシンガーが必要と考え、テネシー出身の女性歌手ノーマ・ジーン・ライトを加入させる。
ただしシックの一員としてがっちり囲い込むことはせず、ソロ活動もOKというゆるい契約だった。

シックの最初のシングルはノーマがボーカルを務めた「Dance, Dance, Dance (Yowsah, Yowsah, Yowsah)」で、全米6位の大ヒットとなった。
この曲でエンジニアを担当したのは若き日のボブ・クリアマウンテンである。
77年にアルバム「Chic」を発表。
さらにノーマの誘いでもう一人の女性シンガーであるルーシ・マーティンが加入する。

翌78年に発表した「Le Freak(おしゃれフリーク)」が国内で400万枚以上の売り上げとなり、全米1位を獲得。
また当時のアトランティック・レコード史上最大のヒット・シングルとなった。

フランス語を交えたおしゃれなノリのいい歌、というイメージだが、ナイルとバーナードが最初に作った時点では「fuck off!」を連呼する下品な歌詞だったそうだ。
この制作経緯にはグレイス・ジョーンズが間接的に関係している。

二人がグレイス・ジョーンズの公演に招待されて「スタジオ54」というセレブに人気のナイトクラブに行ったところ、受付のスタッフに招待が伝わっておらず、追い返されてしまった。
二人は腹を立てながらナイルの家に戻り、怒りの冷めぬままセッションを開始。
ヤケクソで楽器を鳴らしながら「fuck off(クソったれ!)」を連呼。
ついでに因縁の「スタジオ54」まで歌詞に入れてしまった。

ヤケクソで作ったわりにできた曲は良かったので二人とも気に入ったが、さすがに歌詞に「fuck off」を入れたら売れんやろと思い直し、「freak off」に変更。
最終的には「freak out」として発表した。
このヤケクソフリークが全米1位になるんだから、アメリカの芸能界も何が起こるかわからない。
もしグレイス・ジョーンズが「スタジオ54」のスタッフにナイルとバーナードを招待してることをきちんと伝えていたら、シックの全米1位はなかったかもしれない・・・という話。
なお「Le Freak」は、2018年に文化的・歴史的・芸術的に非常に重要であるとされて議会図書館による全米レコード登録の保存対象として選定されている。

翌79年にはアルバム「Risque(危険な関係)」をリリース。
シングル「Good Times」も全米1位を記録したが、この曲はラップやヒップホップの源流とも言われており、クイーンの「Another One Bites the Dust」やブロンディの「Rapture」などに大きく影響を与えている。

80年代に入ってもシックは毎年コンスタントにアルバムを発表してきた。
しかし売り上げは70年代の栄光には全く及ばず、80年の「Real People」は全米30位、81年以降のアルバムはいずれも100位にも入っていない。
こうしてバンドとしての実績は下降していったが、逆にメンバーの評価はどんどん上昇していった。
冒頭に述べたとおり、他のミュージシャンのプロデュースやゲスト参加やユニット結成などの課外活動によって、である。

まずナイルとバーナードのプロデューサーとしての最初の成功は、79年のシスター・スレッジのアルバム「We Are Family(華麗な妖精たち)」である。
さらに二人はダイアナ・ロスの「Diana」もヒットさせ、時代を象徴するリズムとサウンドを作り上げる。

80年代にナイルが手がけた主なアルバムに以下がある。
・デボラ・ハリー「KooKoo(予感)」
・デビッド・ボウイ「Let's Dance」
・マドンナ「Like a Virgin」
インエクセス「Original Sin」
・ジェフ・ベック「Flash」
・ミック・ジャガー「She's The Boss」
トンプソン・ツインズ「Here's to Future Days」
デュラン・デュラン「Notorious」

実績としては微妙なものもあるが、少なくとも当時英米のミュージシャンから絶大な信頼を得ていたのは間違いない。
特徴としてはギターのカッティングでノリよくリズムを刻んでいく、というのが共通しているようだ。

一方バーナードもナイルと組んだり、また単独でもプロデューサー業をこなしている。
・デボラ・ハリー「KooKoo(予感)」
・マドンナ「Like a Virgin」
・パワー・ステーション「The Power Station」
ロバート・パーマー「Riptide」
エア・サプライ「Hearts in Motion」
ロッド・スチュワート「Out of Order」
・ミッシング・パーソンズ「Color in Your Life」

また84年にナイル・ロジャースはハニー・ドリッパーズに、トニー・トンプソンはパワー・ステーションに参加。
どちらもスーパーグループが故に短命に終わったが、ビッグネームが集結したユニットは大きな話題となった。

で、今回調べて初めて知ったんですけど、ハニー・ドリッパーズって元はロバート・プラントがツェッペリン解散直後に作ったユニットで、その時はペイジもベックも参加してなかったんですね。
3年くらい経ってからロバート以外はメンバーを改めてユニットを組み直し、ナイル・ロジャースやブライアン・セッツァーも参加してミニアルバムを作った・・ということだそうです。

そんな課外活動も80年代末くらいからようやく落ち着いてきた。
89年にナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズは、ポール・シェーファーやアントン・フィグとともにシックの曲をパーティー会場で演奏。
喝采を浴びた二人はこれをきっかけにシック再結成を決意する。
ボーカルにシルバー・ローガン・シャープとジェン・トーマスを加えた新生シックはレコーディングを開始し、92年シングル「Chic Mystique」とアルバム「Chic-ism」を発表。
どちらも久々に全米R&Bチャートで50位以内に入り、シックは世界中でライブを行った。
ただ新生シックの活動はいったん上記だけに終わり、トニーは参加していない。

93年にナイルとバーナードとトニーは、ジミ・ヘンドリックスのトリビュートアルバム制作のためエリック・クラプトンと共にレコーディングに参加。
「Stone Free」「Burning of the Midnight Lamp」を録音した。

だが結果的にこれが三人の最後の共同作業になった。
ここまで世界中のサウンドを牽引してきたナイルとバーナードだが、二人の協力活動は思わぬ形で終焉を迎える。

96年にナイル・ロジャースはビルボード誌で世界のトッププロデューサーとして表彰される。
これを記念した「JTスーパー・プロデューサー・シリーズ」というコンサートが日本で開催され、ナイルとバーナードはシックを伴い初来日。
シックに加えシスター・スレッジ、スティーブ・ウィンウッド、サイモン・ル・ボン、スラッシュといった豪華な面々がステージに立った。

しかし最終公演の二日後、バーナード・エドワーズは宿泊していたホテル・ニューオータニの客室で倒れているところを発見される。
残念ながらバーナードは43歳という若さで亡くなってしまった。
公演中もバーナードは体調がすぐれず、点滴を打ちながらライブを行ったが、ナイルはバーナードの異変に全く気づいていなかったそうだ。
バーナードの最後の演奏は99年発売の「Live at the Budokan」に収録されている。

バーナード本人もナイルも、まさか日本で亡くなるとは夢にも思わなかったはずだ。
盟友を異国の地で失うという事態に、一時期は音楽活動への意欲すらも失いかけたナイル・ロジャースだが、後任ベーシストのジェリー・バーンズと、妹でキーボーディストのカトリーズ・バーンズの加入によりシックは復活。
翌年もシックは再び来日公演を行った。
なお2003年にはトニー・トンプソンが腎臓癌のため48歳で亡くなっている。

一人残ったナイル・ロジャースは、バンドのゆるい参加規約も含めてシックの屋号を維持。
メンバーを都度変えながら、日本公演もコンスタントに行われている。

またナイルは他のミュージシャンとの共演も精力的にこなしている。
2013年、ナイル・ロジャースはダフト・パンクからの熱望により、彼らのアルバム「Random Access Memories」に参加する。
するとナイルのギターが効果的に使われたシングル「Get Lucky」が大ヒット。
ダフト・パンクは2013年のグラミー賞で5部門を受賞し、共作・演奏者としてナイルも自身初の3部門を受賞する。
授賞式ではダフト・パンクと共にナイル・ロジャースやドラムのオマー・ハキムやベースのネイザン・イースト、スティービー・ワンダーが演奏に参加した。

2015年、シックとしては23年ぶりの新曲「I'll Be There」を発表。
さらに2018年には25年ぶりのニューアルバム「It’s About Time」をリリース。
昨年3月ウクライナ救済支援のためのコンサートがイギリスで開催され、ナイル・ロジャース、エド・シーラン、カミラ・カベロ、マニック・ストリート・プリーチャーズなどが参加し、集まった支援金は19億円を超えた。

以上がシックとナイル・ロジャースの華麗なる活動履歴である。
知ってた話は半分もない。
ナイルとバーナードの80年代の輝かしい功績は多少知ってはいたが、バーナードが日本で亡くなっていたことも、トニー・トンプソンもすでに故人だったことも、今回調べて初めて知った。

あらためてナイルとバーナードのプロデュース実績には驚くばかりである。
こんな極東の極貧リスナーな自分でも、聴いていた作品がいくつもあり、いかに世界中で彼らの作った音が大量に流れていたかがわかる。
ナイル・ロジャースは、多くの曲で弦を6本中3本しか使わないという変わったギタリストだそうだ。
それでも世界中で売れる音を生み出す才能あふれるミュージシャンということなんだろう。

というわけで、シック。
聴くとしたら当然「おしゃれフリーク」収録のアルバム「C'est Chic」は必修でしょうけど、シックの名曲に加えてナイルがプロデュースした他のミュージシャンの曲も収録した、非常にいい感じの企画盤「Up All Night」というのもあるそうなので、これで学習してみようかと思っております。

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聴いてみた 第175回 ジェフ・ベック その6

正月早々まさかのベックの訃報に接し、あわててベックの未聴盤鑑賞に赴いたSYUNJIといいます。
誰しもが思っていたことだけど、三大ギタリストの中では一番健康的で躍動感もあったベックが、一番早く亡くなってしまった。
世界中でミュージシャンから一般人まで多くの人がSNS等で哀悼の意を表明している。
ベックを大して聴いてない極東辺境三流サラリーマンの自分も動揺するほどのがっかりニュースだった。

自分がこれまで聴いてきたベック関連アルバムは以下である。
Truth
Beck-Ola
Rough and Ready
Jeff Beck Group
Beck, Bogert & Appice
・Wired
Flash
Performing This Week... Live at Ronnie Scott's(ライブ盤)

三流な自分にしてはまあ聴いてるほうだが、やはり世間一般の水準にほど遠くとても「ベック聴いてました」とFacebookやクラブハウスで発信できない状態。
最初に聴いたのは「Wired」だが、実はレコードでもCDでもなくMDである。
昔はアルバムがMDでも市販されていたのだ。
初めて聴いたベックのアルバムがMDだった・・というヤツは東日本でも自分だけだと思う。
ということでたくさん残っていた未聴盤の中から、取り急ぎソロ時代のインスト名盤「There and Back」を聴くことにしました。

Thereandback

鑑賞前に基礎情報を一夜漬け学習。
「There and Back」は、80年にエピック・レコードから発売された、ジェフ・ベック4枚目のソロアルバムである。
「Blow by Blow」と「Wired」のジャズ・フュージョン路線を継承しており、シリーズ集大成とも言える作品。
全曲インストながらビルボード200チャートで21位を記録。
発表後にはアメリカやヨーロッパ、日本でもツアーが行われた。

ヤードバーズやジェフ・ベック・グループでやっていたブルースロックなバンド活動をいったんやめ、ジャズやフュージョン方面にシフトした時期で、この期間を最も高く評価しているファンも多い。
この次の作品が非常に評判のよくない「Flash」なので、相対的にも「There and Back」は傑作とされるのだろう。

参加ミュージシャンは以下のみなさんである。
・ヤン・ハマー(K)
・トニー・ハイマス(K)
・モー・フォスター(B)
・サイモン・フィリップス(D)

ただし全員同時に楽しく参加したわけではなく、初めはヤン・ハマーとレコーディングしていたがベックは仕上がりに満足できず、ツアーをはさんでヤン抜きで録音を再開。
ヤンは次作「Flash」でも作曲・演奏してるので仲違いしたわけではないが、ベックとしてはヤンとはいったん距離を置きたかったようだ。
ヤンに代わりトニーがキーボードを担当し、モーとサイモンが加わって残りの曲をレコーディングし、アルバムは完成した。

タイトル「There and Back」とは「あちこち」「往復」「ちょっとそこまで」といった意味とのこと。
果たして自分はベックの作り出す世界観に、ちょっとそこまでのつもりがあちこち右往左往するのでしょうか。(意味不明)

・・・・・聴いてみた。

1. Star Cycle
この曲は自分もよく知っているし、多くの元少年が聴いていただろう。
その昔新日本プロレスの「ワールドプロレスリング」で、次期シリーズや参加予定外国人レスラーを紹介するコーナーのBGMに使われていたのだ。
なので曲を聴くとマードックやアンドレやダスティ・ローデスの顔と古館の声しか思い浮かばない。
ちなみにアメリカでもプロレス団体ミッドサウス・レスリングのテーマ曲に使われてたそうです。
あらためて聴いてみるとプログレっぽい怪しいサウンドにベックの甲高いギターが乗る、秀逸な構成である。

2.Too Much to Lose
一転ゆるやかなリズムにおだやかな調べで始まる曲。
後半はベックの軽やかなギターが聴ける。

3.You Never Know
雰囲気は前の曲と似ており、つながっている感じ。
左右から手数の多いキーボードのようなギターが響く。
終盤の右からのギターはやや濁った音がする。

4.The Pump
ゆったりしたリズムでアダルトな雰囲気の曲。
これも少しギターが濁っている気がする。
この頃のベックは高い音の範囲で弾いている曲が多いと思う。

5. El Becko
リアルタイムで聴いていた曲がこれ。
イントロはフュージョンっぽく始まるが、突如スピーディーなロックに転換。
ベックの鳴らすメロディが攻めていて印象的で、アルバムの中でこの曲が一番ベックが前に出てきて弾いている感覚。
当時はFM番組「ダイヤトーン・ポップス・ベストテン」でもよくオンエアされており、ベックの来日公演CMでもかかっていたので、日本のリスナーにもよく知られていると思う。

6.The Golden Road
再びゆるやかなリズムに戻り、曇ったサウンド。
この曲ではフルートがよく聞こえる。
全体的にはおとなしめの曲だが、ベックのソロは意外にはじけている。

7.Space Boogie
行き急いだドラムで始まるせわしない曲。
サイモン・フィリップスとトニー・ハイマスの作品で、とにかくドラムが忙しく、終盤はドラムだけ先に行ってるような危ない速度。
二人がやりたかったあおり運転なリズムにベックがかなりムリして合わせた感じがする。

8.The Final Peace
ラストは唯一クレジットにベックの名がある、どこか中近東っぽい調べで静かに始まる曲。
長い長いイントロがそのまま曲になっているイメージ。
ベックの伸ばしたギターも突出しておらず、まとまっている印象。

聴き終えた。
知ってる曲が2曲あったというのもあるが、華やかで聴きやすいと感じた。
トータルでも個々の曲でもまとまった印象があり、ソロなんだけどバンドとしての一体感がある。
この時期のベックはジャズ・フュージョン路線と言われるようだが、音やリズムにはロック色も残っていて自分にも安心して聴ける。
ファンの評価は「Wired」のほうが高いらしいが、個人的には「There and Back」のほうがいいと思う。
まあこの次の「Flash」も結構いいなと思ってるので、こんなド素人な自分の評価なんて全然アテになりませんけど・・・

調べて驚いたのが、収録曲でベックの作品は8曲目「The Final Peace」だけ(しかもトニー・ハイマスとの共作)という点。
でも「Blow by Blow」も9曲中4曲しか作っておらず、「Wired」は全曲他人の作品なので、たぶんベックは作曲よりは演奏が好きな人なんだろう。

曲順で言うと1~3曲目がヤン・ハマー、4~7曲目はトニーとサイモンの作品である。
ヤンと録音した3曲のどこが気に入らなかったのかはよくわからないが、レコーディング再開にあたっては、ベックは自分のやりたい方針をトニーにかなり厳しく説明して理解させたそうだ。
トニーさんて人はかなりマジメで実直な性格らしく、ベックのきつい指示もいちいちメモに書き留めてたそうです。

さて日本の元少年にはなじみの深い「Star Cycle」。
誰がこの曲をチョイスしたのか不明だが、秀逸な選択だったことは確かだ。
ベック本人はこの曲が日本のプロレス番組で使われてることは知ってたんでしょうかね?
ちなみにベックとは関係ないが、同時期の全日本プロレスでも次期シリーズ予告のBGMにコモドアーズの「Machine Gun」というインストを使っていた。
昭和のプロレスは洋楽と非常に相性がよかったことがわかる話。

ジャケットは黒地に白抜きのでかい字で「JEFF BECK」と大書きされ、裏ジャケがタイトル。
演奏姿の「Blow by Blow」「Wired」とは雰囲気が大幅に異なり、中身とは違って威圧系のワイルドなデザイン。
ベックのアルバムの中では「Rough and Ready」と並んで好きなジャケットである。

というわけで、「There and Back」。
これはよかったです。
リアルタイムで聴いていれば、その後のベック鑑賞も変わっていただろう・・と後悔させられました。
次回は同じフュージョン期の「Blow by Blow」を聴いてみようと思います。

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聴いてない 第296回 ジョージア・サテライツ

東日本一中身のない低レベルBLOG、さて今年最初の戯言でも書こうかと思ったところにジェフ・ベックの訃報。
でも今日はベックについては語りません。
まあ偉そうに宣言したところでこんな惰性BLOGなんて誰も見てないし、そもそも語れるほどベック聴いてないし。
ベックの未聴盤なんて山ほどあるので、書くならばやはり聴いてみたシリーズで行きたいと思います。

というわけで、20年目最初の聴いてないシリーズに見事選ばれたのはジョージア・サテライツ。
みなさんは覚えておられますでしょうか?
どうせ名前しか知らんやろとタカをくくっていたが、You Tubeで「Keep Your Hands to Yourself」のプロモ・ビデオを見て聴き覚えがあることが発覚。
偉くもなんともないが・・
聴いてない度はいちおう2となるが、エアチェックはできなかったので実質1である。

個人的につい混同しそうになるのがフーターズだ。
シングルに「Satellite」という曲があるので間違いそうになるが、両バンドには共通点も交流もないと思う。
しかたがないのでジョージア・サテライツについて正月早々ゆで卵の薄皮をはがす程度に薄ーく調査開始。
調べてみたら、結成当初からかなり苦労してきたバンドのようだ。

ジョージア・サテライツはその名のとおりジョージア州アトランタ出身のアメリカのサザン・ロックバンドである。
原型はベーシストのキース・クリストファーを中心としたキース・アンド・ザ・サテライツというバンド。
1980年にキースとダン・ベアード(G)、リック・リチャーズ(G)、デヴィッド・ミケルソン(D)はアトランタでキース・アンド・ザ・サテライツを結成。
地元のバーなどで演奏していたが、キースとデヴィッドが脱退。
ベースはデイヴ・ヒューイット、ドラマーはランディ・デレイに代わり、バンド名もジョージア・サテライツに変更した。

デビュー時の話はかなりドラマチックな展開。
バンドはアトランタで低迷し、メンバーは希望を失って84年夏頃に解散する。
だがイギリス人マネージャーのケヴィン・ジェニングスが、解散したはずのバンドのデモテープを小さなレコード会社に持ち込むことで事態が急変。
レコード会社はデモを気に入って85年にEPとしてリリースした。
これが意外に反応がよく、レコード会社側はバンドに再結成を促すことになった。

メンバーはそれぞれ別のバンドで活動していたが、ダン・ベアードがリック・リチャーズのいたヘル・ハウンズというバンドに加入することで、ヘル・ハウンズは新生ジョージア・サテライツとなった。
メンバーは以下のみなさんである。
・ダン・ベアード(V・G)
・リック・リチャーズ(V・G)
・リック・プライス(B)
・マウロ・マゼラン(D)

86年にデビューアルバム「Georgia Satellites」をリリースし、全米5位を記録。
シングル「Keep Your Hands to Yourself」はビルボードホット100で2位の大ヒットとなった。
ちなみにこの時1位を阻んだのがボン・ジョビの「Livin' on a Prayer」だったそうだ。
なおアルバムにはロッド・スチュワートのカバー「Every Picture Tells a Story」も収録されている。

このまま波に乗ると思われたジョージア・サテライツだが、以降の実績はかなり厳しいものとなった。
88年に映画「カクテル」の挿入歌として「Hippy Hippy Shake」のカバーを録音。
オリジナルはチャン・ロメオという歌手が59年に発表した曲で、スウィンギング・ブルー・ジーンズが64年にカバーして全英2位・全米24位を記録している。
映画「カクテル」は大ヒットしたのでジョージア・サテライツ版シングルも期待されたが、記録は45位。

この年には2枚目のアルバム「Open All Night」も発表。
スモール・フェイセズのイアン・マクレガンが参加し、リンゴ・スターが作ったビートルズの「Don't Pass Me By」のカバーもあったが、前作ほどの成功は収められず全米77位止まりに終わる。

バンドは再起を賭けて89年にアルバム「In the Land of Salvation and Sin」をリリース。
イアン・マクレガンが再び参加し、85年に作ったEPから「Six Years Gone」と「Crazy」を再録音して収録したが、商業的には失敗し全米130位という悲しい結果となった。
ダン・ベアードはソロに転向するためバンドを脱退。

93年にベスト盤「Let It Rock」が出て、黄金期メンバーで復活かと思いきや、ダン不在のままジョージア・サテライツは再結成。
メンバーはリック・リチャーズとリック・プライスに、ジェレミー・グラフ(G)。
その後ビリー・ピッツ(D)が加わり、96年にアルバム「Shaken Not Stirred」をリリースする。
これはオリジナル盤ではなく、初期の楽曲の再録音に、ビートルズの「Don't Pass Me By」「Rain」などカバーを含む8曲を追加した企画盤である。
90年以降現在まで新曲や新盤は出ておらず、最近のインタビューでもリック・リチャーズは「バンドが新譜をリリースする予定はない」と述べている。

なおリック・リチャーズは、元ガンズ・アンド・ローゼズのイジー・ストラドリンの11枚のアルバムに参加したり、元マネージャーであるケヴィン・ジェニングスとともにウェスタン・シズラーズというユニットで2013年に「For Ol' Times Sake」と題したアルバムを発表するなど、バンド外の活動にも積極的である。

ではジョージア・サテライツは解散したのかというとそうでもなく、一応活動は継続中。
2000年以降は基本的にアメリカ国内のライブが活動の中心のようだ。
単独のツアーもあるが、他のミュージシャンとのジョイントライブも多い。
アトランタ・リズム・セクション38スペシャルZZ TOPなど南部のバンドと、またREOスピードワゴンチープ・トリックなどと共にステージに上がっており、意外なところではエディ・マネーとも何度か共演している。

現在のメンバーはリック・リチャーズ、フレッド・マクニール(G)、ブルース・スミス(B)、トッド・ジョンストン(D)。
昨年3月には88年クリーブランドのナイトクラブでの演奏を録音した初のオフィシャルライブアルバム「Lightnin' In A Bottle」をリリースした。
自前のヒット曲に加え、ストーンズの「It's Only Rock n Roll」、ラモーンズの「I Wanna Be Sedated」などカバー曲も多数収録されている。

以上がジョージア・サテライツの意外に落差の激しい来歴である。
もう少し長く好成績を積み重ねてきたバンドなのかと思っていたが、チャートで上位を賑わせていたのは最初の頃だけだったようだ。
それでも30年以上新曲を出さずに昔の曲だけでライブを続けているので、昔からの根強いファンがアメリカ南部にはたくさんいる、ということなんだろう。

バンドを紹介してるサイトに共通して書いてあるのが「泥臭い」「古臭い」といった形容。
わかってるようでイマイチきちんと理解できていないけど、ストレートで野太くワイルドなサウンドやボーカルを指していると思われる。
ジョージア・サテライツが登場した80年代後半は、産業ロックとLAメタル全盛&グランジ前夜という微妙な時期で、その時代にオールドなロックを土埃っぽくガヤガヤ歌って演奏するというスタイルは、かえって新鮮だったんじゃないだろうか。
その後急激に失速したのも、グランジ台頭が大きく影響していたと思う。

大ヒット曲「Keep Your Hands to Yourself」は今も彼らのライブで聴けるはずだが、ヒット当時歌ってたダン・ベアードはもう長いこと不在のまま。
歌詞のあちこちで裏声を駆使するちょっと変わった歌い方なので、今のジョージア・サテライツではダン・ベアードが歌わなくてもファンは満足なんだろうか?

カバー曲「Every Picture Tells a Story」「Don't Pass Me By」もYou Tubeで聴いてみたが、元曲とはかなり雰囲気が異なり、彼らなりのワイルドな仕上がりになっている。
ビートルズの曲をカバーしたミュージシャンは世界中にいるが、200曲以上の中からリンゴの「Don't Pass Me By」を選んだセンスはいいと思う。
ただどちらも悪くはないけど、やはり元曲のほうがいいかなという感じ。

ということで、ジョージア・サテライツ。
スタジオ盤は4枚とのことですので、全盤制覇もそう難しくはないと思われますが、聴くならデビューアルバムだけでいいような気もします。(偉そう)
ただライブ盤「Lightnin' In A Bottle」も少しだけ興味があります。
全盤聴いてる方はおられますでしょうか?

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聴いてみた 第174回 スティクス その2

渋谷のレコファンが場所を変えて再オープンのニュースに驚愕したSYUNJIといいます。
渋谷レコファンと言えばあのぷく先輩との初対面の日にお連れした都内屈指の中古CDの名店である。
中古CD店なんて閉店はあっても開店はもう永久にないんじゃないかと思ってましたが、意外に早く渋谷レコファンは復活したようです。

というわけで今日聴いてみたのは渋谷レコファンではない店で購入したスティクス「Pieces of Eight」。
毎回どうでもいいマクラですいません・・

Pieces-of-eight

「Pieces of Eight」は78年9月1日にリリースされたスティクス8枚目のアルバム。
参加メンバーは前作同様以下のみなさんである。
・デニス・デ・ヤング
・ジェイムズ・ヤング
・チャック・パノッツォ
・ジョン・パノッツォ
・トミー・ショウ

トミー・ショウが加入して産業ロック(褒め言葉)転換後の3作目になる。
タイトルは「八角形のコイン」という意味で、邦題は「古代への追想」。
テーマとして「永遠の若さ・美しさは金では買えない」「お金や物質的な所有物を追求するために夢をあきらめない」という格言のようなことを表現している。
全米年間チャート7位を記録し、300万枚を売り上げた70年代スティクスの名盤である。

・・・などと毎度のことながら受け売りを並べているが、実はこのアルバムも聴いたかどうかよくわからないのだ。
ジャケットにも見覚えはあるし、80年代になってから貸しレコード屋で借りたような気もするんだが、テープは残っていないし曲名もあまり覚えていない。
イーグルス同様「聴いた気になっていた」記憶錯誤の問題作である可能性も高い・・・ということで、真相を確かめるべく鑑賞に赴いた次第。

ライブ盤やベスト盤で聴いている曲もあるので、それほど緊張は感じていない。
果たして自分はこのアルバムを聴いていたのだろうか。

・・・・・聴いてみた。

1. Great White Hope
オープニングは歓声とアナウンスに続いて始まる、ジェイムズが歌うノリのいいロック。
実際のライブ音源ではなく、「Sgt. Pepper's」のように臨場感を出すための演出と思われる。

2. I'm O.K.
デニスお得意の壮大でドラマチックな曲。
日本でのみシングルカットされたそうだが、聴いたことはなかった。
キーボードもギターもいかにもスティクスな音がする。
中盤のパイプオルガンもコーラスもやや大げさでオーバーな気もするが、このサウンド・世界観は好きである。
このパイプオルガンはシカゴ最古のセント・ジェームズ大聖堂で録音されたものだそうだ。

3. Sing for the Day(この一瞬のために)
トミーの作品。
歌詞にあるハンナという女性の名はトミーの娘ハンナにちなんで付けられたと思われていたが、トミーがこの曲を書いた時にはまだハンナは生まれておらず、ファンが勝手に誤解していたようだ。
これもイントロに流れるキーボードからしてがっつりスティクスの音。
トミーとデニスのコーラスでタイトルコールを繰り返し、メインはトミーが歌う。
やはりトミー・ショウはこういう明るい曲のほうがいい。

4. The Message
1分ほどの謎めいたインスト。
この後の曲とほぼつながっている。

5. Lords of the Ring(指輪物語)
再びデニスによる壮大で荘厳な楽曲。
タイトルの通り、J・R・R・トールキンによる小説「指輪物語」をモチーフにした曲。
映画になる前からスティクスはこんな曲を作ってたのね。
デニスが好きそうなメロディだが、メインボーカルはなぜかジェイムズ。
この曲ならデニスの声のほうがいいと思うが・・・

6. Blue Collar Man
この曲はベスト盤やライブ盤で聴いていた。
トミーの作品で全米チャートでは21位を記録している。
イントロの濁ったキーボードが印象的で、ライブでもこの音が流れると大歓声というお約束の曲。
でも歌詞の内容は当時の世相を反映した、無職の男の悲しい叫びという社会派な曲である。
ちなみにTOTOのスティーブ・ルカサーは、スティクスで一番好きな曲が「Blue Collar Man」だと発言している。

7. Queen of Spades(スペードの女王)
静かに始まりやがて激しく進むロック。
終盤にメタルっぽいギターソロもある。
「Blue Collar Man」のノリにも似ているが、デニスの作品。

8. Renegade(逃亡者)
これもベスト盤で聴いており、全米16位のヒット曲。
歌詞もメロディも明るくはないがトミーの自信作のようで、アメリカではフットボールチームのプロモーション映像などにも使用される人気の曲とのこと。

9. Pieces of Eight
静かに歌う部分と壮大な合唱が交互に繰り返される、モロにスティクスなタイトル曲。
盛り過ぎ感はあるが、これぞスティクスな名曲である。

10. Aku-Aku
ラストは3分弱のピアノ中心のおだやかなインスト。
タイトルはイースター島にまつわる伝説から来ているそうだ。


聴き終えた。
やはりこのアルバムは聴いていなかったようだ。
ただどの曲も自分が知っていたスティクスの音であり、想定通り楽しめた。
他のアルバムで時々現れるトミーの暗い曲も、このアルバムにはそれほどない。
前回聴いた「The Grand Illusion」よりもいいと感じた。
聴いていた「Blue Collar Man」「Renegade」よりも、初めて聴いた「I'm O.K.」「Sing for the Day」「Pieces of Eight」のほうが全然いい。
若い頃に聴いていたら、「Cornerstone」「Paradise Theater」と並んで愛聴盤になっていたはずである。

当時のスティクスを「ハード・プログレ」などと評する人が多いが、個人的にはこのアルバムにはあまりプログレの香りは感じなかった。
自分がプログレをよくわかっていないだけかもしれないが、少なくともサウンドはポップだし、変拍子や冗長組曲といった高嶋政宏好みのプログレな展開はない。
ハード・プログレってそういうのとは違うの?
この頃のスティクスはもう来たるべきチャラくてゴージャスな80年代に向けて大衆路線にシフトし始めていたのだと思う。
その経営戦略は「Cornerstone」「Paradise Theater」「Kilroy Was Here」で見事に成功を果たすことになるのだ。

スティクスは2010年に「The Grand Illusion」と「Pieces of Eight」を全曲収録順に忠実に演奏するというライブツアーを行い、この音源で2012年にライブアルバムも発表している。
なのでバンドとしても気に入っているアルバムなのだろう。

売り上げ実績は「Cornerstone」「Paradise Theater」の方が上だが、この2枚はデニス色が強すぎるあまり現メンバーは敬遠している・・ような気もする。
ジェイムズ&トミーとデニスは絶縁状態にあるからだ。
ローレンス・ガーワンが加入し、デニスがジェイムズ&トミーと決別してもう20年以上経っており、裁判でデニス側がスティクスを名乗れないことも確定したため、スティクスにデニスが復帰することももうないと思われる。

ジャケットはヒプノシスによるモアイ像のピアスを付けた中年の女性の顔。
加齢により変化する人間と、長い時間不変のモアイという対比で、アルバムのテーマを表現してるそうだが、どこか化粧品のポスターっぽくもあり、あまりよくわからない。
ただ初期のプログレやってました期のジャケットよりも、この頃のほうがアートとして高い水準にはあると思う。
なおデニスはリリース当時このジャケットは気に入らなかったらしいが、歳を重ねるごとに好きになっていったそうだ。

というわけで、「Pieces of Eight」。
かなりよかったです。
もっと早く聴いていれば・・と後悔させるに十分なアルバムでした。
次回は「Crystal Ball」を聴いてみようと思います。

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