聴いてない 第264回 ティナ・ターナー

80年代に全米チャートにハマった人なら誰でも知っているティナ・ターナー。
こんな自分でもさすがに「顔も名前も知らない」というわけにもいかず、曲もわずかだが聴いている。
また聴いてはいないが昔は「アイク&ティナ・ターナー」というデュオだったことや、USAフォー・アフリカやライブ・エイドへの参加、ブライアン・アダムスとの競演など、周辺情報も少しだけ知っている。

聴いてる曲は以下である。
・What's Love Got To Do With It(愛の魔力)
・Typical Male
・What You Get Is What You See
・Two People

もっと聴いていたような気もしたが、まとめるとこんな程度。
なお「What You Get Is What You See」はライブバージョンを録音している。
アルバムは聴いておらず、聴いてない度は3。

印象としてはパワフルでド派手に歌い飛ばす元気な姐さんというイメージだが、調べてみたらやはり苦労苦難は多々あったようだ。
しかも21世紀に入ってからは活動はほとんどしていないらしい。
あらためてティナ・ターナーの経歴を探ってみよう。(昭和の少年誌っぽい表現)

ウィキペディア日本語版は結構長い。
冒頭に「本名アンナ・メイ・ブロック・バーク」とあるが、少し後には「本名アンナ・メイ・ブロック」と書いてある。
最後の「バーク」は何?

アンナは1939年アメリカのテネシー州にあるナットブッシュという街に生まれた。
幼い頃には聖歌隊に所属。
11歳の頃に母親が家を出てしまい、祖母と暮らす。
その祖母もアンナが16歳の時に亡くなり、アンナはセントルイスで母親と再会。
やがて病院で看護助手として働き始める。

セントルイスでは姉とともにナイトクラブに出入りしていたが、そこでアイク・ターナーと運命の出会い。
クラブのバンドが休憩している間に、たまたま置いてあったマイクで歌いだしたアンナの歌声に衝撃を受けたアイクは、自分のバンドに引き入れることを決意。
その後アイクはアンナの芸名をティナと名付け、デュオグループ「アイク&ティナ・ターナー」として活動を始める。

1960年に「A Fool In Love」、翌年の「It's Gonna Work Out Fine」がヒット。
デュオの人気は全米各地で徐々に高まり、65年にはフィル・スペクターのプロデュースによる「River Deep Mountain High」をヒットさせる。
71年にはクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのカバー「Proud Mary」が、全米チャート4位とデュオ最大のヒットとなる。
デュオとしての新曲発表は73年まで続いた。

74年にティナ・ターナーは初のソロアルバム「Tina Turns the Country On!」を発表。
ティナがソロでもやっていける自信と実力を身につけたからだが、同時にアイクがアルコールやコカインの依存症になり、曲も書けずコンサートも中止したりと、まともな活動ができなくなってきたこともあった。
またアイクはティナに暴力をふるったり金を渡さないなどの虐待を繰り返し、76年にはティナが離婚の訴訟を起こし、78年には正式に離婚が確定した。

アイクがおかしくなるのと前後して、ティナは法華宗に帰依し「南無妙法蓮華経」を唱えるようになっていた・・・って書いてあるけど、そうだったの?
初めて知ったけど、ファンの間では有名な話なんでしょうか?
どんな経緯で題目を唱えるようになったのかわからないけど、あの「セクシー・ダイナマイト」ティナ・ターナーが「南無妙法蓮華経」を唱える姿というのも、あまりイメージがわきませんが・・

アイクとの別れを機に、77年頃からティナ・ターナーは本格的にソロ活動を開始。
と言ってもソロシンガーとして最初から順調だったわけではなく、しばらくは地味な活動と実績が続く。
復活をとげたのは45歳になった時だった。

84年に5年ぶりに発表したアルバム「Private Dancer」で状況が一変。
タイトル曲「Private Dancer」はマーク・ノップラーの作品で、「Let's Stay Together」「1984」「Help!」などのカバー曲も収録され、ジェフ・ベックも参加するなど話題性も十分。
収録曲のうち7曲がシングルカットされ、「What's Love Got to Do with It(愛の魔力)」は全米1位を獲得する大ヒットとなった。
アルバムも全米で500万枚を売り上げ、チャートでも3位を記録。

復活したティナ・ターナーは次々にビッグイベントに参加。
1985年1月、USAフォー・アフリカに参加し「We Are The World」でケニー・ロジャース、ジェームス・イングラムの次に登場。
ビリー・ジョエルとともにパートを歌った。
なおこの日ティナは「アメリカン・ミュージック・アワード」授賞式会場のシュライン・オーディトリアムから「We Are The World」録音のスタジオに直行したそうだ。

同年7月には「ライブ・エイド」のアメリカ会場に出演。
ミック・ジャガーが2曲歌い終えた後、「State Of Shock」でミックと競演し、次の「It's Only Rock'n Roll」で歴史的なスカートはぎ取り事件が勃発。
あれってどっちが考えた演出だったんでしょうか・・

さらにこの年には映画「マッド・マックス/サンダードーム」に出演し、サントラの2曲を歌った。
またこの年のツアー中にブライアン・アダムスとの「母と息子のデュエット」競演も行われ、この「It's Only Love」のライブ音源はそれぞれのライブアルバムやベスト盤にも収録された。

86年アルバム「Break Every Rule」を発表。
売り上げは前作には及ばなかったようだが、それでも全米で400万枚を超えるヒットを記録。
自分がエアチェックした4曲中3曲がこのアルバムに収録されているので、当時のFM各局もプロモーションに協力していたことがわかる。
その後のヨーロッパや南米でのツアーも大成功を収め、ライブアルバム「Tina Live in Europe」として発売された。
85年と88年には日本公演も行われている。
1991年にアイク&ティナ・ターナーがロックの殿堂入りを果たすと、二人の活動が映画化され、ティナはサントラの制作にも参加し、その後全米ツアーも行っている。

90年代以降のティナ・ターナーは、生活や活動の拠点をヨーロッパに移している。
96年にはアルバム「Wildest Dreams(どこまでも果てしなき野性の夢)」をリリース。
U2のボノとエッジの作品で映画007シリーズに採用された「Goldeneye」や、ジョン・ウェイトのカバー「Missing You」、スティング参加の「On silent wings」など豪華な内容だったが、売り上げとしては80年代の栄光には届かず、年間チャートではオーストリアやスイスで9位を記録したものの、全米では100位にも入らなかった。

99年のアルバム「Twenty Four Seven」を最後にスタジオ盤が出ておらず、一度は引退を公言したが、その後は活動と休息を繰り返す状態が続く。
2003年にはディズニー映画「ブラザー・ベア」用に「Great Sprits」をフィル・コリンズとデュエットで録音。
ちなみに日本語版ではこの曲を天童よしみが歌ったそうです。
2007年にはツアー活動を再開。
2008年にはベスト盤が発売され、芸能生活50周年記念ツアーも行われた。

このツアーを最後に、歌手活動はほとんど行われておらず、引退状態とのこと。
理由は主に健康面にあるという。
2013年にはドイツのレコード会社重役であるアーウィン氏と再婚し、スイスに移住。
しかしこの頃から高血圧や腸や腎臓の病気が重なり、ついに透析が必要な状態になる。
2018年には夫のアーウィン氏から腎臓の提供を受ける手術を行う。

さらに不幸は続き、2018年7月に長男クレイグ・レイモンド・ターナー(59歳)がカリフォルニア州の自宅で銃による自殺。
クレイグはティナがアイクと結婚する前に産んだ子供で、アイクの養子。

しかし度重なる不幸や逆境にも耐えてきたティナ・ターナー、「乗り越えるたびに強くなる自分を感じる」と発言している。
その半生を描いたミュージカル「TINA ? The Tina Turner Musical」がロンドンやニューヨークで上演された。

今年7月にはノルウェー人DJのカイゴが、ティナ・ターナーの「What's Love Got to Do with It(愛の魔力)」のリメイク・バージョンをリリース。
同時に撮影したのかは不明だが、二人並んだ写真も公開している。
PVで曲を聴いてみたが、ボーカルは基本的にティナが昔歌った「愛の魔力」をカイゴがアレンジしたもので、カイゴとデュエットというわけではないようだ。
カイゴは91年生まれなので、年齢的にはかつてのブライアン・アダムスとの「母と息子のデュエット」を超えて、完全に「祖母と孫のコラボ」である。

毎度自分の情弱ぶりに辟易するが、今回も全然知らない話ばかり。
アイク&ティナ・ターナーは名前だけ知ってはいたが、アイクがそんなにヒドい夫だったとは・・
ほぼ引退というのも知らなかった。
まあティナ・ターナーに限らず、80年代のスター達が今どうしているのか詳しく追っかけてるわけではありませんけど・・

さてこれから聴くとしたら、普通は最も売れた「Private Dancer」となるのだろうが、自分の場合は3曲知っていて参加ミュージシャンもブライアン・アダムスやフィル・コリンズ、エリック・クラプトンスティーブ・ウィンウッドと豪華な顔ぶれな「Break Every Rule」からというのが良さそうだと思っている。
日本での人気がどのくらいなのか見当もつきませんが、他におすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

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聴いてない 第263回 パール・ジャム

聴いてない名盤が多すぎるという音楽緊急事態宣言がいくつになっても解除できないSYUNJIといいます。
もうおそらく一生解除できないまま死を迎えるであろう今日のお題はパール・ジャム。
それなりに長くやってる珍奇BLOGだが、今回はいつにも増してハードな題材。

パール・ジャム、聴いてないのはいつものことだが、知ってるのは名前だけ。
1曲も聴いてないしメンバーの名前も全く知らない。
聴いてない度は万全の1。
ゼロでもマイナスでもいいくらい。
そもそも何人組なのか、バンドなのかピン芸人なのか、いつの時代の方々なのか、お国はどちらで資産はおいくらなのか、一切知りません。
なぜ名前だけ知ってるのかも不明。
なので今日書くことは全て受け売りである。(毎回そう)

ネットでパール・ジャムを調べてみて最初に目に入ったのは、グランジというキーワード。
あー・・・そういうくくりの人たちだったのね・・(そこからかよ)
一瞬それだけで調べるのも書くのもやめようかと思ったが、踏みとどまって険しいグランジ街道の入口まで行くことにした。

パール・ジャムは1990年結成。
源流は84年にシアトルで結成されたグリーン・リバーというバンドにある。
グリーン・リバーに在籍していたストーン・ゴッサード(G)とジェフ・アメン(B)は、解散後はマザー・ラブ・ボーンというバンドで活動していたが、アルバム発売直前にボーカルのアンドリュー・ウッドがヘロイン中毒で死亡。
バンドは解散したが、ストーンとジェフのもとにマイク・マクレディが合流し、デモテープ製作を開始。
そのデモを聴いた元レッチリのジャック・アイアンズ(後にパール・ジャムに加入)が、友人のエディ・ヴェダーにもデモテープを聴かせた。
エディはデモにオリジナルの歌詞をまぜてボーカルをかぶせて録音。
それを聴いたメンバーはエディを気に入り、バンドに迎え入れることにした。
さらにデイブ・クルーセン(D)が加わり、バンド名はパール・ジャム となった。
デモテープの行き来という、どこか高校生っぽいやりとりで結果として世界規模のバンドが誕生するという伝説的なストーリー。

パール・ジャムを検索すると、やっぱり名前が出てくるのがニルヴァーナ
ウィキペディア日本語版でも「ニルヴァーナとの関係」コーナーがあるが、今風に言うと両バンドはバチバチのリアルガチな敵対関係にあったようだ。
カート・コバーンは死ぬまでエディ・ヴェダー批判を続けていたそうだけど、アクセル・ローズみたいにタコ殴りしたような話はないんですかね?

パール・ジャムは91年にアルバム「Ten」でデビュー。
ストーン、ジェフ、エディの埋もれていた才能が一気に開花したアルバムは全米2位まで上昇し、1000万枚以上のセールスを記録。
このデビューアルバムこそ最高傑作と評するファンも多いらしい。
このデビュー大成功とシアトルという拠点、そしてニルヴァーナの存在が、パール・ジャムの名前とともにグランジ台頭の歴史を作り上げていくことになる。
なおデイブ・クルーセンはデビューアルバム発表直前に脱退している。

デイブ脱退の後任に一人はさんで同じデイブだけど名字がアブラジーズというドラマーが加入。
93年には2枚目のアルバム「Vs」をリリース。
発売一週間で100万枚近く売り上げるという偉業を達成し、全米アルバムチャート初登場1位も記録した。
このアルバムからは6曲もシングルカットされたが、バンドはレコード会社の提案を無視してミュージックビデオを全く作らなかった。

勢いに乗ったパール・ジャムは次のアルバム制作に取りかかる。
しかしデイブ・アブラジーズは制作途中で脱退し、代わって前述のジャック・アイアンズが加入して録音を続けた。
初期のパール・ジャムはどうもドラマーがいまいち長続きしないバンドだったようだ。

ドラマー交代を乗り越え、94年12月にアルバム「Vitalogy(生命学)」を発表。
全米アルバムチャート5週連続1位・売り上げ500万枚以上という事務所社長も泣いて喜ぶ大ヒット。
・・・なのだが、パール・ジャムとは本来関係ない事件が、このアルバムの評価にも多少影響していると言われる。
事件とはもちろんカート・コバーンの自殺だ。
このアルバム制作期間中にカートが自殺し、死後半年ほど経ってアルバム「Vitalogy」がリリースされている。

カートが死ぬまで相互に批判合戦を続けたとされるエディ・ヴェダーだったが、やはりカートの死はかなりショックだったらしい。
エディはカートのことを想って曲を作ったなどとは一切言ってはいないが、このアルバムにあるいくつかの曲は、ファンや評論家により「カートのことを歌った曲」と解釈されているそうだ。
表現は全然違うが、カートもエディもチャラい商業主義やスター気取りのミュージシャンが大キライだったそうなので、エディがそうしたテーマで曲を作れば「カートを思わせる作品」なんて書かれるのも仕方がないとは思うが・・
なおエディもカートもそれほど多くを語らないながらも、カートが亡くなる直前には互いを理解しあえて友人となったという発言をしている。
カートがパール・ジャムの作品自体を気に入らなかったのは死ぬまで変わらなかったらしいが・・

96年にはアルバム「No Code」が全米初登場1位に輝く。
1位なんだから文句なさそうな話だが、このアルバムは音楽性にやや変化や迷いが見られ、初期からのファンは厳しい評価をする人も多いようだ。
98年にアルバム「Yield」を発表するが、このアルバムツアー直前にジャック・アイアンズが持病の悪化やツアーの長さへの不満を理由に脱退。
後任ドラマーとして元サウンドガーデンのマット・キャメロンが加入する。

99年、ファンクラブ向けのクリスマス用シングル曲として「Last Kiss」をリリース。
原曲は1961年にウェイン・コクランという人が歌った曲で、64年にJ.フランク・ウィルソン&キャバリアーズが歌ってヒットしている。
全米2位・カナダとオーストラリアで1位を記録し、パール・ジャム最大のヒットシングルとなった。
この曲はコソボ紛争の難民救済のためのチャリティ・アルバム「No Boundaries」にも収録された。

21世紀に入ってもパール・ジャムは精力的に活動。
2000年にはバイノーラルという技法を用いて録音した、そのままアルバムタイトルにも使った「Binaural」を発表。
バイノーラル録音とは、人間の頭部や耳の構造を模した「ダミーヘッド」にマイクを埋め込み録音する技術とのこと。
この録音による音源は、高性能なヘッドホンで聴いてみるとものすごい臨場感を味わえるそうだ。

さらに2000年から翌年にかけて、ライブツアーの音源を公式海賊盤ライブアルバムとしてリリースした。
店頭でのパッケージ盤ではなく、ネットで注文してMP3やCDで購入するという方法をとったそうだ。
これは「音が悪いのにムダに高額なブート盤が流通している」ことに対抗するための手段であり、「ライブ終了後にすぐにおみやげを持ち帰ることができるようにしたかった」というコメントも発表している。

2006年には創業以来続けてきたレーベルをJレコードに移し、バンド名と同じ「Pearl Jam」というタイトルのアルバムを発売。
2009年にまたレーベルを変え、初期作品のプロデューサーだったブレンダン・オブライエンを起用して「Backspacer」をリリース。
このアルバムで5作ぶりの全米1位を勝ち取ることに成功。
さらに2013年の「Lightning Bolt」でも全米1位を記録した。

その後しばらくアルバム発売がなかったが、今年3月に6年半ぶりのアルバム「Gigaton」を発表。
残念ながら今年開催予定だったツアーは大半が中止になるようだが、まだレコーディングしていない曲のストックがたくさんあり、今後の活動にも非常に意欲的である。

・・・今回も知ってた情報は一切なし。
明日東洋大学でパール・ジャム検定受けたら間違いなく0点である。
知らなかった話だらけなのは毎度のことながら、こんなに人気と実績のある人たちだったことに驚いた。
見事なくらい接触の機会がなかったのだ。
周りに聴いていた友人がいたこともないし(知らなかっただけ)、NOW系オムニバスCDで1曲だけ聴くといった出会いもなし。
あと5年デビューが早ければ、極東の貧困学生だった自分にも、柏村武昭や東郷かおる子からもう少し情報がもたらされた・・ような気がする。
かつて「村上春樹を読んだことがない」という首都圏最大級の愚かな告白を世界中に発信したことがあるが、今の心境は当時のものに近い感覚がある。(どうでもいい)

ネットでパール・ジャムを調べると、「師匠」としてニール・ヤングの名前が時々登場する。
パール・ジャムはデビュー以来ライブで度々ニールの曲をカバーしていたが、93年のMTVアワードでついにニール・ヤングと初競演。
その後はパール・ジャムのライブにニール・ヤングが登場するのが定番化。
95年のニール・ヤングのアルバム「Mirror Ball」ではパール・ジャムがバックバンドを務め、ツアーにも同行。
パール・ジャムのレコーディングにもニール・ヤングが参加するという、堅い絆で結ばれた師弟関係とのこと。
両者が師弟関係にあることはなんとなく知っていたが、ニール・ヤングも全然聴いてないので、相互の音楽性がどう響き合って師弟関係になってるのかは全くわからない。

マイク・マクレディは今年行われたファンとの交流ネットイベントで、「人生を変えたレコード」としてストーンズの「Sticky Fingers」「メインストリートのならず者」を挙げていた。
さらにお気に入りはクイーンの「世界に捧ぐ」やツェッペリンの「Led Zeppelin II」だそうだ。
カート・コバーンの時もそうだったが、こういう話を聞くと少しだけ安心。
グランジやオルタナの人だからすんごいコアな尖った音楽ばっか聴いてきたのかというと、そういうことでもないようです。

というか、パール・ジャム以前のマイクは子供の頃からずうっとメタル寄りな音楽をやっていたそうで、ジューダス・プリーストアイアン・メイデンマイケル・シェンカー、モーター・ヘッド、ガール、ハイノ・ロックス・・などといった楽しい音楽がお好みだったとのこと。
またストーン・ゴッサードとジェフ・アメンは若い頃は髪をがっちり固めたようなビジュアル系メタルを好んで聴いていた、という話もある。
共に若い頃同じシアトルで活動していたカート・コバーンは、パールのメンバーがかつてどんな音楽をやってたか・好きだったかを知っていたためか、「パール・ジャムなんてのはオルタナの波に乗っただけのただの操り人形だ」と批判。
カートに言わせれば「元メタルのくせに突然薄汚い格好でオルタナやグランジを名乗り始めた連中」ということだろう。
もっとも亡くなる前には「レコード会社がバンドの意思に反して勝手にグランジに便乗する形でマーケティングしただけ」と若干訂正っぽい発言をしていたそうだ。

ウィキペディアには「パンク・ロック的側面を多分に含むニルヴァーナに対してパール・ジャムのバックボーンはハードロックによる部分が大きく、両者のスタンスは決定的に異なる。」とある。
だとすればニルヴァーナで大敗を喫した自分には、もしかしたらパール・ジャムならば聴ける可能性がかすかにある・・かもしれない。(適当)

バンド名のパール・ジャムだが、エディ・ヴェダーの祖母パールの作っていたジャムに由来するらしい。
ペヨーテという小さなサボテンを使ったネイティブ・アメリカン伝統のレシピで作られたジャムだったが、ペヨーテには幻覚を引き起こす作用があり、エディは子供の頃このジャムを食ってユラユラグルグルしながら学校に行っていたそうだ。
パール(真珠)とジャムという組み合わせから、勝手にアイアン・バタフライとかレッド・ツェッペリンみたいな硬軟取り合わせ系かと思ってましたが、それは違うようです。

ということで、パール・ジャム。
毎度のことながら全米や世間での評価と己の知識の乖離が激しすぎて困惑していますが、こんな自分にも聴けそうな作品があれば教えていただけたらと思います。

 

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聴いてみた 第157回 ボブ・ディラン その2

今日聴いてみたのは予想外のボブ・ディラン
1975年発表の2枚組アルバム「The Basement Tapes(地下室)」を聴いてみました。

The-basement-tapes

ボブ・ディランの未聴作品を聴くのは15年ぶりである。(場内騒然)
「Blonde on Blonde」を勢いで聴いてみたものの、全く定着せず15年間学習から遠ざかっていた。
聴いてないシリーズの初回で恥も外聞もなく世界中に宣言したにもかかわらず、未だに聴いてないままだ。
並み居る聴いてない強豪アーチストの中でも苦戦している代表のような存在。
今回もモンスリー師匠の必修名盤学習指導要領に従いオロオロしながら聴くことにした。
初心者のくせにこんな上級者向けを聴くとは・・という古参ディランファンの舌打ちが世界中から聞こえる気もするが、どのみち何を聴いても初心者なのであまり深く考えないようにする。(開き直り)

鑑賞前に馬のマークの参考書を手にアルバムに関する情報を一夜漬け学習。
ところがそんな一夜で覚えられるほど生易しい話じゃなかった。
まずこのアルバム、ディランの他のスタジオ盤とは少し制作経緯が違う。
いっしょに作ったり歌ったりしてるメンバーが後のザ・バンドであることだ。
ゲスト参加ではなく、ディランとザ・バンドの共作。
厳密には録音当時のグループ名は「リヴォン&ザ・ホークス」であった。
ザ・バンドに改名したのは少し後の68年である。

カナダやアメリカで活動していたリヴォン&ザ・ホークスは、ロビー・ロバートソンがディランのライブサポートを担当したことをきっかけに、ディランやマネージャーから信頼され、バックバンドに抜擢された。
そして1965~66年のワールドツアーで、ホークスはエレキ路線に転換したディランを強力にサポートする。
路線変更に対するファンの反応は賛否両論だったそうだが、ディランはメンバーの力量や音楽性などをいたく気に入り、ツアー後も交流を続ける。

ところが66年7月にバイクの事故でディランは大けがを負ってしまい、予定してたツアーはキャンセル。
ホークスの仕事もなくなり、ディランは治療と静養のためしばらく表舞台から遠ざかる。
静養当時ディランはあのウッドストック周辺に住んでいて、音楽や映画のプロジェクトの仕事を少しずつ再開。
そこにホークスのメンバーがやって来て、またディランの活動をサポートし始める。
いい話だなぁ。
「あんたがケガしたおかげでオレたちも失業だよ!」と抗議行動のためディラン邸に押しかけた・・という展開じゃなかったんですね。

こうしてさらに交流を深めたディランとメンバーは、67年にウッドストック近くにあったディランの家:通称「ビッグ・ピンク」でセッションを行う。
他のミュージシャンへの提供曲のデモテープ作成だったり、ほぼ本人たちが楽しむための半分プライベートなセッションだったが、相当盛り上がったとみえて100以上のトラックを録音した。 (150曲以上と書いてるサイトもある)
ロビー・ロバートソンによれば、初めの2ヶ月くらいはカバー中心のセッションだったが、そのうちディランもメンバーも次々と新しいメロディや歌詞を生み出していったそうだ。

この時録音された曲はどこからか流出してしまい、しばらく海賊盤「Great White Wonder」として出回っていた。
海賊盤は確認されてるだけで100種類以上あるそうですけど。
しかもディラン自身は「どうせみんな海賊盤聴いてるんやろ」と、録音の成果を正式に発表することにはあまり乗り気ではなかったそうだ。
ところが75年になって突然ディランが公式アルバムとしてリリースすると意志表明。
詳細は不明だが、権利関係などの問題が解決したためとも言われているらしい。
で、ロビー・ロバートソンが編集を担当し、公式アルバム「The Basement Tapes(地下室)」として発売することになった。

ザ・バンド担当の8曲には、ディランは参加していない。
またそのうちの「Bessie Smith」「Ain't No More Cane」は発表直前に録音されている。
さらに後からオーバーダビングしたりアレンジされたりの曲も混在してるようだ。
そういう意味では海賊盤は当時の音だけをより純粋に?反映しており、むしろ公式盤のほうがコアなディランのファンから厳しい評価を受けているらしい。

ということで結構複雑な経緯と状況のもとで制作された問題作「The Basement Tapes」。
自称ディランのファンは当然先に海賊盤で学習を済ませていたであろうから、この公式盤は答え合わせみたいなものだろう。
実際公式盤よりも海賊盤を高く評価するファンも多いとのこと。
自他共に認める最強素人の自分にとっては、教科書より先に教科書ガイドを買ってしまったバカ学生みたいな状態だが、明鏡止水の心境で聴いてみることにした。

・・・・・聴いてみた。

Disk1
1.Odds and Ends
2.Orange Juice Blues (Blues for Breakfast)
3.Million Dollar Bash(100万ドルさわぎ)
4.Yazoo Street Scandal
5.Goin'to Acapulco(アカプルコへ行こう)
6.Katie's Been Gone(ケイティは行ってしまった)
7.Lo and Behold!
8.Bessie Smith
9.Clothesline Saga(物干しづな)
10.Apple Suckling Tree(リンゴの木)
11.Please, Mrs. Henry(おねがいヘンリー夫人)
12.Tears of Rage(怒りの涙)

Disk2
1.Too Much of Nothing(なにもないことが多すぎる)
2.Yea! Heavy and a Bottle of Bread(おもいぞパンのビン)
3.Ain't No More Cane
4.Crash on the Levee (Down in the Flood)(堤防決壊)
5.Ruben Remus
6.Tiny Montgomery
7.You Ain't Goin' Nowhere(どこにも行けない)
8.Don't Ya Tell Henry(ヘンリーには言うな)
9.Nothing Was Delivered(なにもはなされなかった)
10.Open the Door, Homer(ドアをあけて)
11.Long Distance Operator(長距離電話交換手)
12.This Wheel's on Fire(火の車)


全24曲のうち、ディランの作品が16曲、ザ・バンドのメンバー作品が5曲(1-2、4、6、8、2-5)、共作が2曲(1-12、2-12)。
楽曲は思いの外バラエティに富んでいて、50年代の色を残すロックやブルースの他、フォークやバラードが次々に登場。
ザ・バンドの人たちも曲ごとにボーカルを変えているので、長いことは長いが飽きない造りである。

ディランのボーカルはやはりこの時期も投げっぱなしで、正直なじめない曲もかなりある。
特に「Lo and Behold!」「Clothesline Saga」「Please, Mrs. Henry」など低い語り調の放り投げ声はやや苦手だ。
ここを超えないとディラン学習の意味がないのはわかってはいるが、苦戦感情はそう簡単に消してはもらえないのがボブ・ディラン。
メンバーもディランに「すいませんもう少し音取ってもらえます?」とは言えなかったのだろうか。(素人の戯言)

逆に高いキーで歌う「Goin'to Acapulco」「Tears of Rage」は意外にいいと感じた。
バックと声を合わせる曲もあるが、調和がとれた美しいハーモニー・・ではない。
好みや慣れの問題だろうが、ムリヤリ言えば味わい深いコーラス。
いずれにしろこのあたりの克服がディラン攻略のカギである。
相変わらず難しいディラン。

ただし何もかも受け入れがたいというわけではなく、楽しくセッションする彼らの喜びや希望みたいなものはかすかに感じとれる・・ような気がする。(本当か?)
全編アコースティックな朴訥サウンドかと思ったらそうでもない。
かなりの割合でキーボードが鳴っており、武骨な男どもの歌声を違った角度で支えている。
これはかなりいい感じだ。
他の楽器と調和してるかどうかは微妙だけど、もしこのキーボードの音がなかったら、印象は相当違ったものになっていたと思う。

さてボブ・ディランと言えばノーベル文学賞受賞者である。
しかも世界中のファンの予想を見事に裏切り、抵抗も返上もせず「まあもらっとこか」とあっさり受賞。
彼の詩の世界を味わわなければ正しい鑑賞とは言えない。(ホントは他の歌手でもそうなんだけど)
いくつかの訳詞をネットで探して読んでみた。

当時のアメリカ文化や世相を理解していないので、訳だけでは何を意味しているのかほとんどわからない。
ただ割と平易な言葉で日常の情景や会話などを物語のように取り込んでいることはわかった。
おそらくはこの言葉の中に政治や経済や社会情勢に対する鋭いメッセージが隠されているのだろう。
さすがはボブ・ディラン。(知ったかぶり)
・・・これ以上は訳詞をなぞるだけではムリで、やはり詳細な解説が必要である。

ジャケットはディランとザ・バンドの人たちが、地下室っぽい部屋で楽器を手にしている写真。
ディランは横を向いてマンドリンをバイオリンのように構えているが、ザ・バンドの面々は記念写真調である。
裏面は表から続いていて、バレリーナやベリーダンサーや重量挙げ男やマツコ・デラックスなど、サーカス団の面々が写っている。
・・これって写真?
人物の立ち位置も変だし、コラージュか絵画のように見えるのだが・・
アートとしての評価はよくわからない、不思議なジャケットだ。

というわけで、15年ぶりのボブ・ディラン鑑賞でしたが、やはりそう簡単にはいかないようです。
ここまで来ると次にどのアルバムを聴いても結果に結びつきそうもないため、ディランにおいてはやはりベスト盤で基礎固めという安直な方法をとったほうがいいような気がしています。

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聴いてない 第262回 ボブ・ウェルチ

少し前のニュースの「レートは点ピン、当日の負けは数千円」といった情報に過剰に反応したSYUNJIです。
退職金6千万円検事長と一流新聞社の社員が、そんな三流出版社みたいなレートで打つわけないだろ!
明らかに一桁少なく申告してるよね。
「ピンピンのサブロク、ありあり・ありありのオール伏せ牌」くらいですよね、ぷく先輩?(巻き添え)
あと記者クラブに出入りしてた一流マスコミ各社の方々も、かなり前からこうした楽しい賭場同好会が定期開催されてたこと、絶対に知ってましたよね?
「いや、ウチは全く知らなかった」と言うのなら、御社のその取材力のほうが不安です。

ということで、かなりズレた社会派?の私が今回白状するのはボブ・ウェルチ。
「Ebony Eyes」「Precious Love」の2曲聴いているので、聴いてない度は3。
「Precious Love」は発売当時の79年に一流音楽番組「サンスイ・ベストリクエスト」で録音。
「Ebony Eyes」はかなり後になってNOW系オムニバスCDをレンタルで聴いた。
なお「Precious Love」と同時に録音したのはレイフ・ギャレットの「ダンスに夢中」だったので、自分の脳内では長いことレイフ・ギャレットとボブ・ウェルチがセットだった。

ボブ・ウェルチの最大の肩書きは「元フリートウッド・マック」だろう。
自分はソロとしての新曲で名前を知ったので、実は元マックであることを知ったのはずうっと後だ。
90年代にフリートウッド・マックのベスト盤を購入したら、ライナーに「元メンバーのボブ・ウェルチ」という記述があり、そこで初めて知ることとなった。
知ってはみたものの、ボブ・ウェルチ在籍時のマックを掘り起こしたり、ボブのアルバムを学習したりする気配は全くなく、現在に至る。(いつもの無気力展開)

なので名前と2曲と肩書き以外は何も知らない。
さらに2012年に亡くなっていたことも今回初めて知った。
8年前のことだが、訃報を機に(失礼)記事を書いて学習することもできたはずである。
どこかの新聞記者並みのポンコツ取材力に恐縮しつつ、ボブ・ウェルチについて記者会見で挙手してみた。(意味不明)

ボブ・ウェルチは1945年ロサンゼルス出身。(英語版ウィキペディアではハリウッド出身となっている)
本名はロバート・ローレンス・ウェルチ・ジュニア。
父のロバート・ウェルチは映画プロデューサー、母親は歌手・女優というエンタメな家庭で育つ。
両親の影響を受けてジャズやリズム&ブルースやロック音楽に興味を持ったボブは、ジョージタウン大学というカトリック系の学校に進学予定だったが、入学直前にパリに行く。(なぜ?)
パリですっかり遊んでしまったボブは、帰国後カリフォルニア大学でフランス語を学ぶが、学位が取れず中退。

お勉強よりも音楽に目覚めたボブは、1964年ロサンゼルスで「セブン・ソウルズ」というバンドにギタリストとして参加する。
このバンド、スライ&ファミリーストーンとコンペで争うほどの実力を持ち、シングル「I'm No Stranger」をリリースしたが、残念ながら69年に解散。

その後再びパリへ渡ったボブは、「ヘッド・ウエスト」という3人組バンドを結成するが、これも長続きしなかった。
ここで登場するジュディ・ウォンという人が、ボブ・ウェルチの人生を大きく変えることになる。
ジュディはボブ・ウェルチの高校の同級生で、当時はフリートウッド・マックのマネジメントスタッフとして働いていた。
フリートウッド・マックはピーター・グリーンとジェレミー・スペンサーが相次いで脱退した直後で、代わりのメンバーを探していたところだった。
ジュディはボブ・ウェルチの名を思いだし、ミック・フリートウッドにボブを推薦。
1971年、ボブはイギリスに渡りフリートウッド・マックのオーディションを受け見事合格。
まるで漫画のような話だが、ジュディがボブ・ウェルチの名前を挙げなければ、フリートウッド・マックでの大活躍もなかった可能性が高い。
持つべきものはお友達ってのは洋の東西問わず真理であるようだ。

こうしてボブ・ウェルチはリズムギター担当としてマックに喜んで加入。
初めはリードギタリストのダニー・カーワンをバックアップしていたが、徐々に頭角を現し、同時期に加入したクリスティン・マクビーとともにバンドを牽引していく。
1971年、バンドはアルバム「Future Games」をリリース。(タイトル曲はボブの作品)

しかしここからはやっぱりロックバンドあるあるな展開。
後輩ボブ・ウェルチの加入を頼もしく思っていたはずのダニー・カーワンは、ボブの才能と発言力に次第にプレッシャーを感じるようになり、アルコールに依存していく。
そして72年アメリカツアーでのコンサートの前に事件が起こる。
ボブと酒に酔ったダニーが口論となり、ダニーはボブのギターを粉砕し楽屋を破壊し、ステージに上がることを拒否。
壊れたのはボブのギターや楽屋だけでなく、ダニーの精神でもあったようで、ダニーは楽屋の壁に頭をぶつけて血だらけという国際プロレスっぽい騒動に発展。
さすがの後輩ボブもこれには激怒。
バンドはダニーをクビにし、結局さらにボブ・ウェルチとクリスティンの発言力は増していくこととなる。

ボブがフリートウッド・マックに在籍したのは3年ほどだが、この間5枚のアルバムを制作し、マックにおける一時代=ウェルチ期を築く。
しかしながらバンド内はやっぱり年中モメ事が絶えず、またバンドのブルース志向に対してハードロックをやりたかったボブ・ウェルチは、74年に脱退してしまう。

1975年、ボブ・ウェルチは元ジェスロ・タルのグレン・コーニックと元ナッズのトム・ムーニーと3人で、新バンド「パリス」を結成。
このパリス、当時渋谷陽一は非常に高く評価しており、自身の出演するNHK-FM番組「ヤングジョッキー」で、パリスの曲をよく採り上げていたそうだ。ふーん・・(流し反応)
パリスはそれまでのボブの経歴の中で最もハードロックな音楽性を持っており、2枚のアルバムも発表したが、陽一の想いもむなしく全然売れず、ボブ・ウェルチはカネを使い果たす。

脱退後のボブの人生にもやはりマック・ファミリーは何かと登場する。
ボブ・ウェルチはパリスとして制作途中だったアルバムを、ソロ名義で「French Kiss」としてリリースすることにした。
パリス用に作っていた曲だが、全てがボブのオリジナル作品である。
その中の「Sentimental Lady(悲しい女)」は、元々マック時代のアルバム「Bare Trees(枯木)」の収録曲で、セルフ・カバーのレコーディングにはミック・フリートウッド、リンジー・バッキンガム、クリスティン・マクビーも参加。
プロデュースもリンジーとクリスティンが担当。
じゃあほぼマックじゃん。
脱退はしたけど、協力関係は途切れてはいなかったということですかね。
おかげでアルバムは200万枚以上売れて、全米12位を獲得。
ボブ・ウェルチは貧困から脱出できたそうだ。
自分が聴いた「Ebony Eyes」も収録されており、この曲はバックボーカルとしてジュース・ニュートンが参加している。

79年にアルバム「Three Hearts」を発表。
全米20位まで上昇し、シングル「Precious Love」も19位を記録した。
柏村武昭もめざとく極東のFM番組でオンエアしたものと思われる。

しかし80年代に入ると成績は低迷。
アルバムは発表するもののチャートの順位は芳しくなく100位にも入らなくなる。
80年には「Hollywood Heartbeat」という音楽番組の司会を担当するが、自身のセールスには作用しなかった。

落ち込んだボブ・ウェルチ、台本どおりに薬物に手を出す。
ここで名前が出てくるのが、やはりというか意外でも何でもないお待ちかねガンズ・アンド・ローゼズ
ガンズがボブ・ウェルチのガレージでリハーサルなどをしていたという間柄で、どっちから誘ったのか不明だが、ガンズとのドラッグ・パーティをきっかけにボブはコカイン&ヘロイン中毒となる。
85年には逮捕され治療のために入院もしたそうだ。
後のインタビューでボブは当時のことを「自分は非常に退廃的でダメな男だった。いい時間ではなかった。後悔している」と発言している。
ただ退院直後にボブ・ウェルチは結婚し、その後薬物には手を出さずに過ごしたそうなので、やはり周りの人がほっとかないタイプの人間のようだ。

一方で元のバンドメイトたちとはやはりモメてしまう。
ボブが脱退した後でフリートウッド・マックはさらにビッグな成長を遂げ、アルバム「噂」はウソみたいに売れてしまった。
このマックの大成功に、やはりおだやかでいられなかったようだ。
ボブが低迷したり薬物中毒になったりしてる間もマックは商業的には順調だったので、ボブの心に何かが鬱積していってもおかしくはない。
不満が溜まりまくったボブは、94年にフリートウッド・マックのメンバーやレコード会社に対して著作権使用料の支払いに関する契約違反で訴訟を起こす。
96年には和解したそうですけど、どういう結果に落ち着いたんでしょうね?

またフリートウッド・マックが1998年にロックンロールの殿堂入りした際、黄金期のメンバー5人の他、元メンバーであるピーター・グリーンやジェレミー・スペンサー 、ダニー・カーワンは「フリートウッド・マックのメンバー」とされたのに、ボブ・ウェルチは選ばれなかった。
ボブだけはずれた理由は不明だが、メンバーと訴訟でモメたりしてたことが不利に働いたらしく、政治的・恣意的選別がなされたという見方をする人もいる。

ボブ・ウェルチは後にこの時の思いを「バンド活動の場をイギリスからアメリカに移し、アルバム5枚を世に出し、リンジーやスティービー加入の橋渡し役を担ったのは自分なのに」と語っている。
うーん・・これはさすがにボブ・ウェルチに同情するなぁ。
殿堂入りから数年後にはミック・フリートウッドと再会し和解もしたそうだが、殿堂入りを決めた指名委員会や業界関係者のことはずうっと良く思っていなかったらしい。
まあそうでしょうね。

2000年以降はマックも含む自身の昔の作品を再レコーディングしたアルバムを2枚ほど発表しているが、目立った実績もなく新曲も出していない。
ソロでも確かな実績は残した人ではあるが、元マックの肩書きからは終生逃れられなかったと思われる。

で、冒頭に述べたとおり今回調べてみて初めて知ったのだが、ボブ・ウェルチは2012年に66歳で亡くなっていた。
テネシー州ナッシュビルの自宅で、自らの胸を拳銃で撃っての死だった。
死ぬ3ヶ月ほど前に脊柱の手術をしたが、痛みが治まらず悩んでいたとのこと。
ピストルで自殺とはロックミュージシャンらしい最期ではあるが、70年代に輝かしい実績を残した人が、80年代の音楽界の栄光を享受できずに終わったというのはやはり悲しいものがある。

聴いている「Ebony Eyes」「Precious Love」だが、特に苦手な印象はなく、ブルースやロックというよりも、80年代の華やかな音を予感させるポップなサウンドだ。
ギターがいずれも少しノイジーな感じだが、これがボブ・ウェルチの特徴なのだろうか。

ということで、ボブ・ウェルチ。
今回はもう明確に結論は出ましたが、ボブ・ウェルチを学習するなら、ソロ作品以前にマック時代のアルバムから聴くべきでしょうね。
マック学習も「噂」のみで全然進んでませんので、ピーター期も含めて早々に着手する必要がありそうです。(遅い)
小池知事の導きのもと、密を避けつつユニオンで探してみようと思います。

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聴いてみた 第156回 ELO

16年半も珍奇BLOGを続けていながら、聴いてて当然の名盤を未だに聴いてないという緊急事態が一向に解除できないSYUNJIといいます。
70年代名盤回帰シリーズ(遅い)、今回は信頼と実績の大英帝国名門バンド、エレクトリック・ライト・オーケストラの「Discovery」を聴いてみました。

「Discovery」は1979年の作品で、ELOとしては8枚目のアルバム。
全英1位・全米5位を記録し、さらに21の国でプラチナムやゴールドディスクを獲得というやたら輝かしき名盤である。
シングル5曲も本国イギリスではいずれもトップ10入りしており、簡単に言うとELOの代表作だ。
本当は全曲シングルカットする予定で、PVも全曲用意していたという意欲と自信に満ちた作品。
先日紹介したフェイセズ「Ooh La La」、ブロンディ「Parallel Lines(恋の平行線)」とともに渋谷のレコファンで購入。

Discovery

当時のメンバーは以下のみなさんである。
・ジェフ・リン
・ベヴ・ベヴァン
・ケリー・グロウカット
・リチャード・タンディ

全曲ジェフ・リンが作詞作曲。
タイトル「Discovery」は直訳すると「発見」だが、実は「Very Disco」を入れ替えたもので、当時流行のディスコサウンドを彼らなりに皮肉も込めて表現した・・という説があるそうだ。
本気でディスコブームに乗っかったわけではないにせよ、こうした売れ線意識丸出しの姿勢については、一部のプログレマニアからは厳しい評価を受けているとのこと。
まあそうかもしれない。
ジャーニーもボストンもそうだが、高い技術力や創造性を持ちながら、それをプログレ志向に振り向けていかない産業ロックバンドは、やっぱりプログレ好きのみなさんからは評判悪いんでしょうね。
でもそんなインダストリーなサウンドはおおむね自分の耳にはマッチすることが多いので、多少ディスコが混じろうが不安はほとんどない。
知ってる曲も半分くらいあるので、慢心増長の想い(なんだそれ)で聴くことにした。

・・・・・聴いてみた。

1.Shine A Little Love
これはベスト盤で聴いていたが、オリジナルはイントロが長い気がする。
タイトルのとおりキラキラとロマン輝くELOお得意のサウンド、ノリのいいリズム。
星屑を振り撒きながら通り過ぎる馬車のようなイメージ。
1曲目から期待感満載である。

2.Confusion
中学生の時に初めてエアチェックしたELOの曲がこれ。
リズムは比較的ゆったりだが、じゃららんと鳴るギター、どんどん!という象徴的なドラム、奥行きあるエコーサウンドやエレクトリックなアレンジは、何度聴いても飽きない。

3.Need Her Love
初めて聴く曲。
後の「Don't Walk Away」にも通じるバラード。

4.The Diary Of Horace Wimp(ホレスの日記)
これもベスト盤で聴いていた。
ホレスというモテない若者が一週間で天の声を聞いて恋して誘って告白して結婚するという物語を曜日ごとに分けて歌う。
歌詞に土曜だけ出てこないのは、英国男子にとって土曜日はサッカー見る日だからだそうだ。
途中からずんずんとリズムが強くなり、電気的にゆがめたバックコーラスやストリングスも効果的だ。
前の曲もそうだが、ポール・マッカートニーの香りが漂うという評価は同感である。

5.Last Train To London(ロンドン行き最終列車)
これもベスト盤にあって聴いてはいたが、特にリズムギターなどやや70年代ディスコっぽい音がするので、他の曲よりも相対評価は少し下がる感じ。
決して悪くはないが・・

6.Midnight Blue
3曲目の「Need Her Love」と同系統のバラード。
アレンジはそれほど強くなく、正統派のクラシカルな音造り。
基盤にビートルズがあるのはELOの特徴だが、個人的にはこの曲はジョン・レノンの色が濃いような気がする。

7.On The Run
テンポアップした楽しい曲。
この曲はエレクトリックなアレンジがふんだんにあり、コーラスワークも美しく整えている。
エンディングでスピードを落としているところはやはりビートルズの影響かな?

8.Wishing
この曲も初めて聴いた。
特に尖ったところもなく、イメージどおりのELOサウンドが続く。
間奏で電子オルガンなどでなくピアノを入れているのが特徴と言えるかも。

9.Don't Bring Me Down
ラストもおなじみ、どんどんばすばすドラムが響くELOの教科書サウンド。
シングルとしてはこの曲が一番売れて全米4位・全英3位を記録している。
メロディは決して楽しくはないんだが、つい体が揺れてしまうような楽曲。
エンディングはぶつっと終わるが、最後にわずかにカチャッというノイズが聞こえる(ような気がする)。

聴き終えた。
いやー楽しいね。
やっぱELOいいね!
軽いけど、そんな感想がまずある。
考え込むような音楽じゃないので、聴いていてラクだ。
聴いていた曲はもちろん、初めて聴く曲にも拒絶感や苦手意識は一切感じない。
聴く前の余裕と聴いた後の感動が整合する、聴いてみたシリーズでは割と珍しいパターン。

慣れてるつもりのELOサウンドだが、「Discovery」までは自分が聴いてきた80年代作品とは少し違い、ストリングスをより多用してるそうだ。
言われてみればそうかなくらいの認識でしかなかったが、聴いていて心地よい音なのはこの点にも要因がありそうだ。
ただし「Discovery」はむしろシンセサイザー使用によって前作「Out Of The Blue」よりもストリングスの比重は減っているとのこと。

どこのサイトにも書いてあり共感しかない「基盤がクラシックとビートルズ、味付けはシンセサイザー」だが、全くその通りだと思う。
ジェフ・リンはビートルズを基盤にこういうどんどんばすばすなサウンドでELOを作ってきたけど、その功績がポールやジョージに評価されて、再結成ビートルズやソロ作品にちゃんと還元されていってるってのは面白い話だ。
ジェフ・リンも音楽家冥利に尽きるというか、さぞかし嬉しかっただろうね。

断言できるが、発売当時にきちんと聴いていたら、間違いなくヘビーローテーション盤として定着していただろう。
遠ざける理由は何もない。
90分テープに録音して旅先にも持っていったはずである。
もっと早く聴いておけばよかった・・というこのBLOGでの決まり文句は、まさにこのアルバムのためにあるような言葉。

ジャケットはアラビアン・ナイトをモチーフにしたとされており、映画のポスターのようなアートである。
ELOのアルバムジャケットは芸術性が高いものが多く、メンバーのダサい集合写真などは使っていない。
このジャケットも壁にかけて飾っておける絵だと思う。

というわけで、「Discovery」。
発売後40年(!)以上経って聴いてる時点でもはや救いようはないが、死ぬ前に聴けてよかったと思います。(大げさ)
このバンドに対するマイナス感覚は全くないことを再確認できましたので、引き続き他の未聴盤も聴いていこうと決心した次第です。

 

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聴いてない 第261回 マイケル・センベロ

引き続き緊急事態宣言のさなか自粛警察の告発を恐れながら無益引きこもりBLOGを続けるSYUNJIといいます。
今回はゴールデンウィークにふさわしいアーチストをムリヤリ掘り起こしてみました。
マイケルと言えば国民の7割はこの方を思い浮かべるであろう、ジャクソンでもジョーダンでも富岡でもない、マイケル・センベロです。(中スベリ)
安くて不潔な飲み屋で酔っ払い、「いやー千円でべろべろ、マイケル・センベロ!」と意味不明な冷シャレをカマし、ムリヤリ連れてきた若いヤツに全く伝わらず涙目になった中高年がたぶん都内だけでも4人くらいいると思われる。

マイケル・センベロ、名前は知らなくても80年代に洋楽にまみれた経験があれば、あの曲は聴いたことがあるだろう。
全米1位を獲得し、映画「フラッシュダンス」のサントラに収録された「Maniac」。
発音に忠実に書くと「メーニアック」ですが。
で、全米の誰もが「どうせオマエそれしか聴いてないんだろ」と思ってたはずだ。
ところが実はもう1曲柏村武昭プレゼンツにより「Automatic Man」を聴いている。
従って聴いてない度は温情の3。

申し訳ないがここからさらに躍進して次々と大ヒットを飛ばし・・という展開ではなかったため、情報も鑑賞もこの2曲で止まっている。
当時の雑誌でもマイケル・センベロが何者かを詳しく紹介した記事に出会ったことがない。
そこでマイケル・センベロについて調査敢行。

さて心の友ウィキペディアは、意外にも英語版と日本語版で文章量は同じくらい。
それぞれの情報を勝手に要約すると以下のとおり。
マイケル・センベロは1954年にフィラデルフィアの西郊外のペンシルベニア州アードモアで生まれた。
本名はマイケル・アンドリュー・センベロ。
センベロという名前はこの人以外に見たことはなく、ルーツがどこにあるのかも不明。
フィラデルフィア生まれと書いてるサイトが多いが、地図で見るとアードモアという街はフィラデルフィア市街から10kmくらい西にあるところなので、まあほぼフィラデルフィアなんだろう。
実は勝手に西海岸の人ではないかと思っていたのだが、見事にはずしてしまった・・

ギターを手にした少年マイケル・センベロは、セッションミュージシャンとして働き始める。
スタートはジャズだったが、わずか17歳にしてスティービー・ワンダーのレコーディングに参加。
スティービーの76年のアルバム「Songs in the Key of Life」ではインスト曲「Contusion(負傷)」のリードギターを担当。
この曲はスティービーとの共作にもなっている。

他にもマイケル・ジャクソンダイアナ・ロスバーブラ・ストライサンドドナ・サマーなど様々な大物ミュージシャンのスタジオ・ギタリストとしてキャリアを積んでいった・・とある。
で、マイケル・ジャクソン関連で言うと、あちこちのサイトに書かれている「Carousel」という曲。
マイケル・センベロが作り、マイケル・ジャクソンに提供した曲で、アルバム「Thriller」のために録音されたが、残念ながら最終トラックリストからははずされてしまい、「Human Nature」に置き換えられた。
幻の「Carousel」はその後アルバムの25周年記念盤「Thriller 25」デラックスエディションのボーナストラックに収録されたそうだ。
なおCarousel=カルーセルとは元祖オネエの人ではなく、フランス語で回転木馬のことだそうです。

マイケル・センベロのソロ歌手としての最初の実績は82年のシングル「Summer Lovers」。
アメリカのラブコメディ映画の主題歌で、サントラ盤にも収録されている。
ふーん・・と通り過ぎるところだが、このサントラの曲リストを見ると、デペッシュ・モード、ティナ・ターナー、エルトン・ジョンシカゴなど結構豪華な名前が並んでいる。

センベロは初のオリジナルアルバム「Bossa Nova Hotel」を83年にリリース。
プロデューサーはフィル・ラモーン。
ジョージ・デュークや弟のダニー・センベロも参加。
これに自分が聴いた「Maniac」「Automatic Man」が収録されている。

映画「フラッシュダンス」との相乗効果もあり、「Maniac」はめでたく全米1位を獲得。
ただしアルバム「Bossa Nova Hotel」はサントラ盤ほどには売れず、全米80位という思ったよりも地味な実績。
当時のFM雑誌にジャケットごと紹介されており、読者からの「なぜふんどし姿なのか」といったツッコミ投稿が掲載されていたことも覚えている。
というかそんなくだらない小話しか覚えてないです、すいません。

その後のソロ活動に目立った実績はあまり書いておらず、90年代以降は他のミュージシャンのプロデュースや曲の提供、映画音楽の制作といった裏方の仕事が中心らしい。
現時点で最新のスタジオ盤は2002年の作品「Ancient Future」。
でもウィキペディア日本語版には「アンボン島やインドネシア、バルセロナ、ローマ、ミラノ、パリなど世界中でツアーをしている。」とある。
これいつ頃の話だろうか?
検索してもツアーのスケジュールやレポートがなかなか見つかりませんけど・・

ソロではなくプロジェクトの活動の情報はあった。
2008年にジェイニー・クルーワー、ブルース・ガイチとともにプロジェクト「Bossa Nova Hotel」を結成。
翌年にボーカルを6つの言語で録音したアルバム「Moon Island」をリリース。
内容はブラジル音楽風アレンジを施したアメリカンポップソングで構成されており、アース・ウィンド&ファイアーの「Let's Groove」やマドンナのヒット曲「La Isla Bonita」(ブルース・ガイチが作曲)などをカバーし、「Maniac」も聴ける。
2010年にはプロジェクトとして来日し、丸の内コットンクラブでライブを行い、収録曲の多くを演奏したとのこと。
ちなみにジェイニーとブルースは夫婦で、センベロ抜きの別のプロジェクトを組んで2012年に日本公演を行ったこともあるそうだ。

というわけで、やはり2曲以外に知ってた情報はなく、全て初耳学に認定。
「フラッシュダンス」はサントラ盤は聴いたが、映画はレンタルビデオで見た・・はずである。
だが記憶はもうあやふや。
テレビでもジェニファー・ビールスが踊ったり飛び跳ねたりのシーンをしょっちゅう流していたので、そこしか覚えていない。
「Maniac」が使われたシーンももちろん忘れている。
主題歌「Flashdance...What a Feeling」を聴くと反射的に堀ちえみを思い出すのは我々の世代ではやむを得ない。(断言)

堀ちえみは置いといて、マイケル・センベロ。
2曲しか知らないが、メロディは「Automatic Man」のほうが好みだ。
「Maniac」はノリもよくギターソロもテクニカルで聴きどころは多いが、やや神経質でせっかちなサウンドという印象。
成績は「Automatic Man」が全米34位・全豪49位なので「Maniac」とはかなり開きがある。
映画の評判はよくわからないが、販促効果は絶大だったことは間違いなさそうだ。

ここまでマイケル・センベロを調べてきたが、今のところ正直ソロよりはプロジェクト「Bossa Nova Hotel」にわずかだが興味がわいている。
知ってる曲がいくつかカバーされてるし、こっちから試すほうがなんかラクそう・・という毎度失礼で安直な発想。
ソロアルバムが全部日本で手に入るのかも不明ですが、聴いてた方がおられましたら、感想や評価など教えていただけたらと思います。

 

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聴いてない 第260回 ギルバート・オサリバン

世のため人のために何も役に立っていないアルファブロガー(死語)のSYUNJIといいます。(真理)
普段自分は何の役にも立たないBLOGを通勤電車の中で書いているのですが、今回の緊急事態宣言で引きこもりとなったため、自宅よりお届けします。(どうでもいい)

どうせ誰も見ていない今日のお題はギルバート・オサリバン。
大ヒット曲の「Alone Again」だけ聴いており、聴いてない度は安定の2。
エアチェックできた経験はないが、AM・FM問わず昔から一定の頻度でオンエアされていた曲だと思う。
自分と同じようにこの曲しか知らない日本国民もそれなりにいると推測。
中学生の時、この曲が友人との話題に1度だけ登場したことを覚えている。

少し調べたらシングル曲は80年を最後に出ていないようなので、80年代から洋楽の沼にはまった自分にとっては残念ながら時代としては過去の人になる。
聴いてない理由もそこにある。

そこで生涯初のギルバート・オサリバン検索を実施。
毎回そうだが、今回も驚愕の連続だった。

ギルバート・オサリバンは1946年アイルランドに生まれた。
本名はレイモンド・エドワード・オサリバン。
7歳の頃にイギリスのスウィンドンという街に移り、グラフィックデザインアートカレッジに進学。
しかしレイモンド青年はビートルズやディランに強い影響を受け、デザイナーではなく音楽の道を選び、地元でバンドを結成。
1967年にCBSレコードから「Disappear」という曲を発表し、芸名ギルバート・オサリバンとしてデビュー。

しかしほとんど売れず、あせったギルバートはあちこちのレコード会社や音楽事務所にデモテープを送りつけるローラー作戦を実行。
その送り先に、トム・ジョーンズのマネージャーだったゴードン・ミルズという人がおり、これがギルバート・オサリバンの大きな転機となる。
すごい話だなぁ。
ギルバートの音楽を気に入ったゴードンは、自身が主宰するMAMレーベルとの契約を打診し、ギルバートは快諾。
最初のシングル「Nothing Rhymed」は1970年の全英8位を記録するヒットとなり、アルバム「Himself(ギルバート・オサリバンの肖像)」は全英5位をマークし、86週間にわたってランクインという快挙を達成した。

さらに72年発表のシングル「Alone Again(Naturally)」は全米チャート6週連続1位、年間1位も勝ち取り、3つのグラミー賞ノミネートを獲得した。
ただこの大ヒット曲はあくまでシングルとしてのリリースだけで、当時イギリス盤アルバムには入っておらず、1976年のベスト盤「Greatest Hits」で初めてアルバム収録された。
(アメリカ盤「Himself」には収録)
その後も「Clair」「Get Down」「Happiness Is Me And You」などのヒット曲を発表。
「Clair」はゴードンの娘ミルズのことを歌った曲だそうだ。

しかし数年後、ギルバートは目指す方向性の違いや権利配分などでゴードンともめてしまい、訴訟にまで発展。
うーん・・娘のことを曲にするほど仲良しだった二人だが、やはりおカネとなると話は別なんだね。
ゴードンと決別したギルバートは、エルトン・ジョンの作品を手がけたガス・ダッジョンとチームを組み、80年にガスがプロデュースし、クリス・レアも1曲アコーディオンで参加したアルバム「Off Centre」を発表。
このアルバムには日本でもヒットした「What's In A Kiss(そよ風にキッス)」が収録されている。(全英19位)

ただし日本でヒットしたのは本国と同時ではなく、1992年放送のテレビドラマ「あの日の僕をさがして」の挿入歌として使われたためとのこと。
ドラマでは他にも「Tommorrow, Today」「Who Was It」というギルバートの曲が使われたそうだ。
・・・すいません、番組も曲も全然知らないですけど。
「あの日の僕をさがして」は織田裕二主演のTBSドラマで、共演は仙道敦子や大鶴義丹、保阪尚輝・・といかにもなトレンディなドラマ・・かと思ったら、舞台はナウいヤングの東京ではなく長野県の山奥で、視聴率はイマイチだったらしい。

視聴率と裁判に疲れたギルバート・オサリバンは、精神的にもダメージを負い音楽活動にも支障が生じ、しばらくジャージー島という離島に引きこもる。
90年代に発表したアルバム「The Little Album」「In The Key Of G」があるが、実は80年代に制作していたものだそうだ。
裁判などのモメ事のせいで、せっかく作ったアルバムを発表できないという面倒な事態になっていたらしい。

ヒット曲は多くはないが、当時は日本も重要なマーケットとされており、ドラマ放送以前から本国とは異なる日本盤が発売されるという少しややこしい状況だったようだ。
「Sounds of the Loop」というアルバムは、日本では本国よりも早い1991年11月に発売された。
イギリスでは1993年4月にリリースされているが、収録曲もジャケットも異なる。
しかも邦題はドラマ放送よりも先に「あの日の僕をさがして」と付けられている。
さらにドラマ主題歌の「Tommorrow, Today」はこのアルバムには収録されていない。
わかりにくい・・・

訴訟に勝って立ち直ったギルバート、その後はあせることなく自身の好きなペースで音楽活動を続けている。
2000年以降もコンスタントにスタジオ盤やライブ盤・ベスト盤を発表。
来生たかおや久保田利伸らとのデュエット曲もあり、92年の初ライブ以降、来日公演も何度も行われている。
今年も5月に東京と大阪で公演が予定されている・・が、残念ながらこれは開催中止となるかもしれませんが・・

今回も台本どおり知ってる話は全くなかった。
日本でドラマの主題歌になったり何度も来日してることも全然知りませんでした・・

「Alone Again(Naturally)」の訳詞も初めて読んでみたが、かなり厳しい内容だったことに驚いた。
歌詞だけではわかりにくいのだが、教会で結婚式挙げようと思って行ってみたら相手が来なかった、という笑えないコントのようなことを歌っている。
ヤケクソで近くのビルから飛び降りたろかとか、両親が亡くなった時のことを思い出したりとか、キツい心情を綴っており、とても「またフラれて一人になっちゃったw」といった軽い内容ではない。
メロディがどこかほのぼのした感じなので、こんなに重い歌だとは思ってませんでした・・
ちなみにこの曲、日本でも草刈正雄や九重佑三子が日本語でカバーしてるそうです。

というわけで、ギルバート・オサリバン。
やはり「Alone Again(Naturally)」を頼りに聴きたいので、自分の場合アメリカ盤「Himself」かベスト盤からということになりそうです。
ファンだった方も多いと思いますが、他におすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

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聴いてない 第259回 ジュエル

グランジ・オルタナの台頭とエアチェック文化終焉という失われた暗黒の時代、ひとり歌の才能で芸能界を行き抜き世界を感動させた実力派、ジュエル。
・・・勝手に安っぽいキャッチを盛りつけてみましたけど、聴いてません。
唯一聴いたのは名曲「Hands」のみ。
当時流行のNOW系オムニバスCDに収録されていたもので、アルバムは当然聴いておらず、聴いてない度は2。
この頃に仕入れたミュージシャンは、結局オムニバスCDの1曲だけ聴いているパターンが割と多い。

なおジュエル(Jewell)という名のR&B歌手や、3人組ダンサーチームが存在するそうだが、今日のお題は90年代に登場したアメリカの女性シンガーであるジュエルさんのほうです。
そのジュエルさん情報をネットで収集してみました。

ジュエルは本名である。
ジャラジャラいいそうなキラキラネームのような印象だが、ジュエル・キルヒャー(Jewel Kilcher)が本名。
なおサイトによってキルチャーやケルヒャーなど表記に揺らぎあり。
なお映画女優のクオリアンカ・キルヒャーはいとこだそうです。
すいません、どなたか存じ上げませんが・・

ジュエルは1974年5月23日、ユタ州ペイソンに生まれる。
アラスカ生まれと書いてるサイトもあったが、生まれはユタ州のようだ。
アラスカ州ホーマーで育ち、上院議員の祖父やミュージシャンの父親に歌とヨーデルを習う。
母親は教師だったが、8歳の頃に両親は離婚。
15歳でミシガン州にあるインターローシェン・アーツアカデミーという芸術学校で奨学金を受け、オペラや声楽を学んだ。
卒業後は母親の暮らすサンディエゴで生活を始め、クラブや喫茶店で歌うようになる。

要約すると才能ある少女ジュエルがサンディエゴで歌手活動開始というサクセスストーリーの序章のようだが、実態はそんなに美しい展開ではなかったようだ。
両親の離婚原因は父親がアルコール依存症で妻や子供に暴力をふるうようになったからで、サンディエゴでの活動の前後でもしばらく車に住んでアメリカ国内を移動したあげく車も盗まれて、ホームレスになった時期もあったとのこと。

その後しばらくは歌手活動をしながら喫茶店や倉庫の電話オペレーターなどの仕事をしていた。
ジュエルの歌や活動は徐々に評判を呼び、93年頃に音楽プロダクションやレコード会社の偉い人の目に止まり、94年にアルバム「Pieces of You(心のかけら)」でデビュー。
中身は基本ギターで弾き語りのフォークで、これが大ヒットして全米で1200万枚を売り上げ、最高4位まで上昇した。

97年には初めて日本でライブを開催。
98年にアルバム「Spirit」をリリース。
この中に唯一聴いた「Hands」が収録されており、この曲は全米6位・カナダでは1位を記録。
そんなすごいヒット曲だったのか・・
まあNOWに収録されてたくらいだからヒットはしてたんでしょうけど、そこまでとは知らなかった・・
他にもシングル「Jupiter(Swallow the Moon)」「What's Simple Is True」「Life Uncommon」も続き、アルバムは370万枚も売れた。
その後も99年「Joy:A Holiday Collection」(全米32位)、2001年「This Way」(全米9位)とヒットアルバムを出し続ける。

翌99年には「Ride With The Devil」という映画に出演。
南北戦争を描いた内容で、役どころはスー・リー・シェリーという名の未亡人。
邦題は「シビル・ガン 楽園をください」とあるが、原題とは全然違う気がするけど・・
またこの年と2002年には日本公演も行われた。

2003年「0304」というアルバムから音楽性に変化が起こる。
ワーナーのサイトには「ダンス、ロック、ポップのビートを大胆に取り入れ、そのセクシーなヴィジュアルと共に、華麗なる変化と成長を遂げ、その多彩な内容に世界は驚かされた」などと書いてある。
発売直後の2か月で32万枚を売り上げ、評判は悪くなかったが、セレブ系の方向転換に戸惑うファンも多かったらしい。
まあそうだろうなぁ。
フォークでデビューしたのに、10年経ってダンスやセクシー路線に行かれても・・と思うファンが多くてもおかしくはない。
ジュエル本人は「より明るいサウンドでレコードを作ることを考えた」とコメントしている。

2006年にはアルバム「Goodbye Alice in Wonderland」を発表。
ジュエルによれば「私の人生の物語であり、最も自伝的なアルバム」とのこと。

だが。
この頃からカントリーにシフトを希望するジュエルとレコード会社との間で意見の相違が起こり、ジュエルは契約を更新せず別のレーベルに移籍する。
移籍後は希望どおりカントリーアルバム「Perfectly Clear」を2008年6月に発表。
シングル曲もカントリー専門のラジオで集中的にオンエアするなど、戦略を完全にカントリーに向けていく。
ということは、やはりダンスやビートを大胆に取り入れたセクシー路線は本人の希望ではなかったんスかね。

その後もジュエルの活動は意欲的である。
2009年には子守歌のコレクションアルバム「Lullaby」をiTunesでリリース。
本業のカントリーでも2010年にアルバム「Sweet and Wild」、副業?としても映画のサントラ用に曲を作っていく。
さらに2012年には映画「リング・オブ・ファイア」にも出演。
劇中でも歌い、主役を務めた。

現在も活動中だが、比重は女優のほうが多いようだ。
2011年以降は毎年映画作品に出演。
音楽の最新作は2015年のアルバム「Picking Up the Pieces」。
自身の会社「Jewel Inc.」を設立し、音楽・テレビ・映画・執筆などをこなし、マルチタレントとして活動中。

・・・毎度のことながら隅から隅まで知らない話であった。
女優もやってた人だったんですね。
総合すると、本来はフォークやカントリーという素朴な分野で才能を発揮するタイプのミュージシャンで、途中事務所やレコード会社の意向であっちこっち方向を振り回された実績もあり、という人だろうか。
ゲッティで彼女の画像をいろいろ見たが、確かに時期によって化粧からスタイルからファッションまで同じ人とは思えないほど変化してるようですけど・・

唯一聴いている「Hands」は明るくはないが、印象に残る音ではある。
歌詞はいろいろ解釈があるようだが、訳詞を読むと、はかないメロディに似合わないような強い意志や決意みたいな内容だ。
今の世界情勢をふまえて聴くとまた違った印象を受ける気がする。
好みかどうかは微妙だが、聴くとしたらやはりこの路線から勉強してみたいと思う。

というわけで、ジュエル。
まずは「Hands」の収録されている「Spirit」、あとはデビューアルバム「Pieces of You(心のかけら)」にわずかではあるが興味がわいております。
作品ごとに雰囲気は相当異なるようですけど、他におすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

 

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聴いてみた 第155回 ブロンディ その2

引きこもり中高年の聴いてみたシリーズ、2年ぶりのブロンディ
3枚目のアルバム「Parallel Lines(恋の平行線)」を聴いてみました。

Parallel-lines

「Parallel Lines」は78年発表で、プロデューサーはこのアルバムで初めてブロンディを手がけることになったマイク・チャップマン。
見事全英1位・全米6位を記録し、この後チャップマンはブロンディが82年に解散するまでのアルバムを全てプロデュースしている。
ただしこのアルバム制作においてはチャップマンさんとメンバーの間で結構衝突もあったらしく、デボラの歌い方やメンバーの演奏にいちいち注文をつけるチャップマンに対して、デボラが泣いてトイレに立てこもって抵抗したりベースのナイジェル・ハリソンが楽器を投げつけたりといった偏差値のヤバイ高校みたいな騒動もあったそうだ。

収録されているうちの以下の曲はほぼリアルタイムで聴いている。
・One Way or Another(どうせ恋だから)
・Fade Away and Radiate
・Will Anything Happen?(どうなるかしら?)
・Sunday Girl
・Heart of Glass

いずれも当時最先端の一流音楽番組「サンスイ・ベストリクエスト」でエアチェックしたものだ。
今さらながら驚くが、よくあの番組でこれだけオンエアしたもんだと思う。
大ヒットした「Sunday Girl」「Heart of Glass」は他の番組でもよく聴いたけど、「Fade Away and Radiate」なんて日本ではシングルカットもされてないよね?
たぶん新しいアルバムとして特集でも組んだのだろう。
レコード会社の圧力なのか柏村武昭の忖度だったのかは不明だが、当時は日本もブロンディにとって重要なマーケットだったと思われる。

今回聴いたのは2001年発売のリマスター盤である。
前回同様知ってる曲がいくつかあるので、緊張感は全くない。
柏村武昭に感謝しつつ余裕の鑑賞としゃれこんでみました。

・・・・・聴いてみた。

1.Hanging on the Telephone
全英5位のヒット曲だが、彼らのオリジナルではなく、ジャック・リーという人の作品で76年にナーブスというバンドが発表している。
イントロの電話のコール音、ノリのいいリズムがよい。

2.One Way or Another(どうせ恋だから)
この曲も当時から聴いているが、こんな邦題だったとは知らなかった。
アルバム中最もパンク色が強く、デボラがガラ悪く「げちげちげちげちゃ」と歌う。
「Heart of Glass」「Sunday Girl」に続いて聴いたので、最初は雰囲気の違いに戸惑った記憶がある。
2013年にワン・ダイレクションがカバーしたそうだ。

3.Picture This(恋のピクチャー)
アルバムに先行して発表されたシングルで、全英11位を記録。
リアルタイムではなく聴いたのはかなり後だった。
楽しそうなメロディだが、歌詞はどこか物悲しい感じ。

4.Fade Away and Radiate
どんより重い進行でどこかプログレの香りがするなあと思っていたら、ロバート・フリップがギターで参加していた。
この頃クリムゾンが停滞しててフリップもヒマだったという話。
タイトルは「熱い想いも徐々に冷めていく」といった意味らしいが、この後発表された「Dreaming」の歌詞にもこの言葉が登場する。

5.Pretty Baby
初めて聴く曲。
なんとなく古き良きメロディで、タイトルをコーラスを交えてガヤっぽく歌う。

6.I Know But I Don't Know
邦題は「知ってるかい?」。いや、知らんがな。
ギターのフランク・インファンテが作った曲で、そのせいか間奏ではかなりギターが主張してくる。
サウンドは終始不協和音なゆがんだ感じ。

7.11:59
60年代っぽいメロディを70年代風にアレンジしたようなサウンド。
行き急いだリズムの割にデボラが余裕で歌う不思議な曲。

8.Will Anything Happen?(どうなるかしら?)
これもジャック・リー作の曲で、前の曲と同じようなテンポでドラムはどたどたしゃりしゃり鳴るが、歌詞がそれほど詰め込まれておらず、やはりデボラは余裕で流す感じ。

9.Sunday Girl
イギリスでは1位の大ヒット曲。
だがアメリカではなぜかシングルカットされなかったそうだ。
初めて知った・・
アルバムの中では一番明るく、デボラが楽しそうに歌う。
以前聴いたベスト盤には歌詞の一部がフランス語のフレンチ・バージョンが入っていた。

10.Heart of Glass
中学生の頃に最初に聴いたブロンディの曲がこれ。
映像とともに刷り込まれたので、以来デボラの顔と体ばかりに気をとられる羽目になった因縁?の1曲である。
あんなの中学生に見せたらそりゃあ勉強なんかしなくなるよ。(言い訳)
この高いキーで歌うデボラを基軸としてブロンディを覚えたので、その後他の曲を聴く都度バンドとデボラの多様性に驚いていた。
後半特に印象的なドラムの音だが、ドラマーのクレム・バークがクラフトワークビージーズのサウンドを参考にしたとのこと。
このディスコサウンドに対して、歌詞は決して楽しくはなく、昔好きになった男が急に信頼できなくなったことで、以来アタシはすっかりガラスのハートになったのよという切ない女心を歌った内容。
その信頼できない男のことを「mucho mistrust」(=大きな不信感)とスペイン語を交えて表現しているが、これは古い黒人スラングらしい。

11.I'm Gonna Love You Too(好きになりそう)
これは初めて聴いた。
ノリのいいコミカルな曲だが、バディ・ホリーのカバーだそうだ。

12.Just Go Away
デボラの作った曲。
彼女とメンバーのやや粗野な掛け合い。
ブロンディらしいと言えばその通りだが、造りがややガサツであまり好みの音ではない。

以下はボーナストラック。
13.Once I Had a Love
「Heart of Glass」のデモバージョン。
デボラの声はそれほど違わないが、楽器の音はやはりまだシンプル。
この後あのディスコ調のサウンドとアレンジがどっさり乗っかり、大成功・・という結果に。
確かにこのデモ版のままだと、あそこまでヒットしてないだろうね。

14.Bang a Gong(Get It On)
ご存じTレックスの名曲をライブで収録。
好きな曲ではあるが、デボラがなんとなく気だるそうに歌うので高揚感はそれほどない。

15.I Know But I Don't Know
6曲目のライブバージョンだが、歓声はほとんど聞こえない。
スタジオよりも不協和音はさらに増幅されて、エンディングではスピードもアップ。
ただやはり聴いててあまり楽しくはない。

16.Hanging on the Telephone
これもライブだが、時期は少し後の1980年のステージ。
観客もノリノリで、この曲がライブ向きであることがよくわかる。


聴き終えた。
やはりあらためて感じるのはデボラ・ハリーとブロンディの多面的な器用さである。
大ざっぱに分けると、60年代風のオールドなポップスと当時流行のパンクを中心に構成されているのだが、そのどちらも、またオリジナルもカバーも問題なくこなしていると思う。

ただし。
個人的には「恋のハートビート」よりもパンクやプログレ色が濃い分、全体的な評価はやや厳しくつけたくなるレベル。
聴いてた曲は多いが、音の好みはかなりはっきりと分かれる。
「Hanging on the Telephone」「Sunday Girl」「Heart of Glass」は好きだが、それ以外はちょっと・・という感じ。
さらに前回聴いた「恋のハートビート」もそうだったが、初めて聴く曲にあまり感動がなかった、というのが正直な感想になる。

「Heart of Glass」はデモ版でわかるとおり後からディスコやテクノのアレンジが加えられて大ヒットしたが、デボラはすでにこの頃ディスコサウンドなんてダサい音楽だと思っていたそうだ。
それでも「まあ1曲くらいダサいディスコ調があってもいいか」と考え、マイク・チャップマンの意向に逆らいもせず、アレンジも許容したらしい。

いろいろ調べるとやはりチャップマン先生の指導がバンドに大いなる成功をもたらしたのは間違いなさそうだ。
チャップマンが彼らの音に大きく手を加えたのは、そのアレンジこそが売れると確信してた部分もあるが、それ以前に男どもの楽器演奏技量がいまいちだったと感じていたところもあったらしい。
結果的にこのアルバムは大ヒットしたので、メンバーもチャップマンの手腕を認め、以来がっちりと手を組み、ヒットアルバムを世に出し続けることになる。

ジャケットは腰に手を当て仁王立ちするデボラを中心に存在感のない男たち(失礼)が横並びという集合写真。
デボラの表情も固く、今見ると内容の割にはちょっと地味なアートだ。
裏は色っぽく歌うデボラの姿なので、こっちの方がいいじゃんと思うが・・
背景が黒白の帯になっているのは当時の流行を採り入れたもの、という解説がネットのあちこちに書かれているが、そう言えば確かにこの頃ファッションでもモノトーンが流行ってたなぁ・・とガサガサな記憶がよみがえった。

というわけで、「恋の平行線」。
正直なところ「恋のハートビート」ほどの盛り上がりはありませんでしたが、やっと聴けたことで安堵しています。(手遅れ)
残る70年代の未聴盤「妖女ブロンディ」「嘆きのブロンディ」も早めに片付けたいと思います。

 

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聴いてみた 第154回 フェイセズ その3

令和2年最初の聴いてみたシリーズ、今回はフェイセズの「Ooh La La」を聴いてみました。

「Ooh La La」は73年の作品。
フェイセズとしては4枚目で最後のスタジオ盤であり、全英では1位を獲得。(全米21位)
主にA面の曲をロッド・スチュワート、B面曲はロニー・レーンが作っているが、クレジット上はロッドが一人で作った曲はなく、ロニーやロン・ウッド、イアン・マクレガンとの共作である。
プロデューサーはグリン・ジョンズ。

Ooh-la-la

そもそもフェイセズは発生時点から全員が他のバンドで活躍していた実績を持つ役者揃いのグループだが、このアルバムを最後に解散してそれぞれが別の場所でまた活躍していく。
書き並べてみるとよくわかるが、解散後はロッド・スチュワートはソロ、ロン・ウッドはストーンズに加入、イアン・マクレガンはストーンズのサポート、ケニー・ジョーンズはザ・フーに加入する・・という、なんだか山田が西武、里中がロッテ、岩鬼がダイエー・・みたいな明訓高校っぽいドラマチックな展開なのである。
そんなフェイセズ高校の歴史的な転換期に位置する「Ooh La La」。
果たしてフェイ高最後のアルバムはどんな盛り上がりなのだろうか。

・・・・・聴いてみた。

1. Silicone Grown
オープニングは軽快なリズムで始まるロック。
ノリまくるピアノがフリージャズっぽくもある。

2. Cindy Incidentally(いとしのシンディ)
少しテンポを落としたリズムで、ロッドがキー高めに歌う安心の一曲。
左のギター、右のピアノ、奥のドラムといったシンプルな音の振り分けが臨場感を生んでてよい。

3. Flags And Banners
この曲はロニー・レーンがボーカル。
バンジョーのような音やオルガンも聞こえてくる楽曲は悪くない。
悪くはないんだが、やはりロッドを聴いたすぐ後だと、ロニーの歌は若干頼りない印象。

4. My Fault(俺のせいだ)
これもいかにもロッドのための課題曲といった調子で、終始叫びがちに甲高く歌うロッド。
エンディングが意外にはかなげでいい。

5. Borstal Boys
A面ラストはやや粗暴な歌と演奏。
イントロで繰り返し鳴るサイレンのような警告音で緊張が高まる。
ピアノよりはギザギザなギターがメインで、ドラムもかなりヤケクソに主張してくる。

6. Fly In The Ointment
B面の最初がインストという不思議な構成。
この曲はロッド以外の4人の共作で、各パートの持ち味が調和していていい感じ。

7. If I'm On The Late Side
どこかフォークやカントリーの香りのするバラードだが、テンポは思ったより早く、あまり湿っぽい雰囲気はない。

8. Glad and Sorry
ようやく本格的なバラード登場。
これもいい曲である。
レイドバックしたけだるいボーカルはロニーだが、ほぼ全編コーラスなので線の細さはあまり気にならない。
ロッドの声は聞こえない。
ロニーのボーカルに声を合わせているのはイアンだそうだ。
エンディングで少しだけ不協和音が混じる。

9. Just Another Honky
引き続きバラードで、今度はロッドが歌う。
これも演奏がまとまっていて非常によく、時々聞こえるころがるようなドラムが印象的。

10. Ooh La La
ラストはカントリーっぽいアコースティックなアルバムタイトルナンバー。
女に関する爺さんから孫への教訓?を歌った、どこか切ない内容。
やや投げやりに歌っているのはロン・ウッド。
ロンの歌声を意識して聴くのは初めてだが、思ったよりうまく(失礼)、曲調に合っていると思う。
ロニーとロンの共作だが、ロニーは当然ロッドが歌うもんだと思って作っていたらしい。
なんでロン・ウッドが歌うことになったんだろう?
ここまで歌える人ならストーンズでもたまにはボーカルを任されてもよかったんじゃないかと思うが、あっちのバンドではそうはならなかったみたいスね。

聴き終えたが、このアルバムも聴いてて目立った不満はほとんどない。
むしろここまで聴いたフェイセズの3枚のアルバムの中で、一番まとまりがある気がする。
大まかに言うとA面がブルース基調のロック、B面はカントリーやフォークで味付けしたバラード中心、といった構成。
これはバランスがとれてて非常にいいと思う。
さらにインストやロン・ウッドのボーカルなど、意外に聴きどころは多い。

自分がフェイセズに感じる「不安」はロニー・レーンのボーカルだけなのだが、このアルバムでは(聴き慣れてきたせいもあるが)それほど気にならなかった。
「Flags And Banners」だけがロニーほぼ一人のボーカルだが、もしロッドかイアンがバックでコーラスを当てていたら、全く問題なかっただろうと思う。

路線としては他のアルバム同様、とにかく楽しくやろうぜ的ガヤ系サウンドである。(特にA面)
尖っていない分、平凡なロックになってる可能性はあるが、どこから聴いても問題ない。
3枚聴いてわかってきたが、フェイセズは自分にとって安心できる信頼と実績のバンドなのだ。
聴いてみたシリーズをここまで続けてきた中で自分なりに分析すると、聴く前の緊張感期待感に対し、聴いた後の充足感満足感の比率が極めて高いのがフェイセズ、ということになる。

制作当時、バンド内の状況はあんまし良くなく(いつも?)、俺様ロッドはメンバーをバックバンドとして下に見ていたり、自分が歌う時だけしかレコーディングに参加しないなど、ロッドと他のメンバーとの間に様々な摩擦が生じていたようだ。
まあ同じ頃作ったロッドのソロでは実際にメンバーがバックバンドを務めてたんで、ロッドがそう考えるのも仕方ないとは思うけど。

で、「Ooh La La」発売直後にはロッドが「最悪なアルバム」などと発言し、その発言にキレたロニーは「こんな会社やめてやる!」と叫んで雪の札幌をさまよいバンドを脱退。(ボケ使い回し)
後任ベーシストとして日本人の山内テツが加入したが、ライブアルバムだけ出してバンドは解散してしまう・・という因縁の作品になってしまった。
後にロッドは「最悪」発言を訂正したそうだけど、たぶん作品じゃなくて人間関係が当時最悪だったんでしょうね。
ロックバンドを調べていていつも不思議に思うんだが、パープルイーグルスにおいて特に顕著な通り、音楽作品の質と人間関係の状態は必ずしも相関しない、というのがこのフェイセズの「Ooh La La」にも当てはまるようだ。

結局ロッド・ロニー・ロンの3Rは二度と同じバンドで共に活動することはなく、フェイセズとしても最後のスタジオ盤となった。
喧嘩別れした形の3人だが、その後ロニーが難病にかかった際にロッドとロンが治療費を出してあげた・・というイイ話もあるようだ。

ジャケットはエットーレ・ペトロリニというイタリアのコメディアンが演じたガストーネというキャラクターで、LPでは目や口が動く仕掛けになっていたとのこと。
70年代末のミュージックライフにアルバムレビューが掲載されていて、レビューの中身は忘れたがジャケットとタイトルは覚えていた。
気に入っていたわけではもちろんないが、印象に残るアートではある。
短い歴史のフェイセズだが、アルバムジャケットに関しては統一性は一切なかったようだ。

というわけで、「Ooh La La」。
今回も非常に良かったです。
今さらだけど、ここまでのクオリティで作品を世に出しながらも、これを最後に解散してしまった・・というのはやっぱり残念ですね。
これでフェイセズの未聴盤は「First Step」だけになりましたので、こちらも早いうちに聴こうと思います。

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