聴いてない 第234回 トリーネ・レイン

北欧のシルク姉さん、トリーネ・レイン。(大スベリ)
こんなあたしでも1曲聴いてるし、1枚だけだがアルバムジャケットもよく覚えているので、日本でも相当流行ったと思われる。
聴いたのはもちろん大ヒット曲「Just Missed The Train」。
昨日たまたま耳にしてトリーネ・レインを思い出した次第。
93年の曲だが聴いたのはその3年後くらい。
当時もうFMからのエアチェックなんか誰もやっておらず、自分もNOW系オムニバスCDで聴いた。
あともう1曲聴いてるはずだがタイトルが不明。
後で調べます。
聴いてない度は2。

「Just Missed The Train」はいい曲だったが、CDショップに大量入荷してた爆乳ジャケットには手を出さず、トリーネ・レインについてさらに掘り下げることはしていない。
繰り返しの言い訳になるが、聴いた当時はもうエアチェックもFMステーションもミュージックライフも卒業しており、自主的な音楽学習をほとんど行わなくなった時期にあたる。
なのであと5年登場が早ければおそらく違った展開になっていたと思う。
あのジャケットのイメージから、マドンナデボラ・ハリーのような妖艶路線(表現ダサ過ぎ)の人なのかと思ったけどそうでもないみたいです。

ということで25年(!)経った今頃トリーネ・レインについて、果てしなき手遅れ学習を敢行。
毎回恒例で当たり前だが調べてみると驚くような話が続出である。

トリーネ・レインは1970年サンフランシスコに生まれ、ノルウェーで育つ。
91年頃からノルウェーで活躍し始め、93年11月にソロデビューアルバム「Finders Keepers」発表。
このアルバムについてはどこのサイトでも全世界で60万枚売れたとあるが、内訳についてはあるサイトが「ノルウェーで20万枚」、別のサイトでは「日本で40万枚」などとなっており、総合するとノルウェーと日本でしか売れてないことになるけど合ってます?
いずれにしろ日本で本国以上のセールスを記録しており、ジャケットも大きく売り上げに貢献したと思われる。

96年のセカンドアルバム「Beneath My Skin」も30万枚中日本では18万枚売れ、同年来日コンサートが行われた。
さらに98年アルバム「To Find The Truth」を発表するが、セールス的には10万枚と伸び悩む。

ここから先の経歴はサイトによりニュアンスが少し異なる。
ウィキペディアでは「有名人としての生活に辟易」「活動を停止し2000年にアメリカ移住」「数年間リムジンのドライバーなどを経験」となっている。
しかし別のサイトでは「リムジン会社で運転手のアルバイトをしながらソングライターやプロデューサーとのネットワークを作っていった」と書いてある。
アメリカ移住・リムジン運転手は同じだが、芸能界がイヤで移住だったのか、さらなる夢を抱いて移住だったのかで話は大きく変わってくる気がするが・・・

諸説あるようだが、転機は意外なところから。
ケリー・クラークソンというアイドル歌手が2003年に「Just Missed The Train」をカバーしヒットしたことで、再びトリーネ・レインが注目されることになったらしい。
その後2004年にノルウェーでの野外フェス出演をきっかけに本格的に復帰し、ベストアルバム「The Very Best Of Trine Rein」も発表というハッピーな展開。
2010年に12年ぶりのシングル「I Found Love」とアルバム「Seeds of Joy」をリリース。
2011年3月にはノルウェーで東日本大震災復興支援チャリティコンサートを開催。
現在もノルウェーで音楽活動を続けているそうだ。

もちろん知ってた話はひとつもないが、本国より日本のほうが多く売れたアルバムがある、というのはかなりすごいことのように思う。
トリーネ・レイン本人も日本に対して良い思いでいるであろうし、そうしたことが復興支援コンサート主催などの行動にもつながっているのだろう。

「Just Missed The Train」しか聴いてないが、歌唱力は非常に高いものがある。
シンディ・ローパースティービー・ニックスのような特徴的な声ではないが、情感こめてひきずるように歌うボーカルは聴いていて安心する。
またセールスとしてはマライア・キャリーセリーヌ・ディオンには及ばないだろうが、個人的にはあの2人よりもトリーネ・レインの声のほうが好きである。
ちなみに「Just Missed The Train」はトリーネのオリジナルではなくダニエル・ブリズボワという人の作品で、94年にダニエル自身がセルフカバーを発表しているそうだ。

トリーネ・レインについて調べていくと、度々名前が見つかるのが椎名林檎だ。
椎名林檎は中学生の頃に「Just Missed The Train」を聴いて歌を作ろうと決心し、高校2年生でヤマハ主催の音楽フェスティバル全国大会にバンドで出演、この曲を歌い激励賞を受賞したとのこと。
椎名林檎のアルバムには「Just Missed The Train」に似ている曲もあるようなので、トリーネ・レインに強く影響を受けているのは間違いなさそうである。

というわけで、トリーネ・レイン。
オリジナルアルバムは今のところ4枚なので、「Finders Keepers」から順番に聴けばいいだけの話だが、ベスト盤でお手軽に学習してしまう予感もする。
みなさまの鑑賞履歴はいかがでしょうか?

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聴いてない 第233回 J.D.サウザー

ウエストコーストの黄金期を支えた一人、J.D.サウザーことジョン・デビッド・サウザー。
全然聴いておりません。
聴いているのは誰でも知ってる大ヒット曲「You're Only Lonely」だけ。
この曲はほぼリアルタイムで聴いたはずだが、エアチェックできたのはなぜかライブバージョンだった。
長いことスタジオバージョンのオンエアを待っていたのだが、柏村武昭はその少年の思いにこたえてはくれなかった。

ジェームス・テイラーとの共作「Her Town Too(憶い出の町)」もエアチェックはしたが、この曲はジェームス・テイラーのアルバム収録曲なので、J.D.サウザー名義では実質1曲しか聴いていない。
聴いてない度は2。

J.D.サウザーはイーグルスを学習していれば必ず登場する人物である。
・・・という話だけはこっそり知っているが、具体的にどう関係していたのか詳しくは知らない。
というわけで、このまま表層的知識だけでやっていくのもオトナとしてどうかなと思いまして(ウソ800)、略歴を調べてみました。

ジョン・デビッド・サウザーは1945年デトロイトに生まれ、あのザ・ファンクスの故郷テキサス州アマリロで育った。
若きジョン・デビッドは音楽で身を立てることを決意し20歳でロサンゼルスに移住。
ここで偶然同郷のグレン・フライに出会い、共同生活を始める。
68年グレン・フライとともにロングブランチ・ペニーウィッスルという名でユニットを結成し、70年にアルバムも発表。
しかしユニットはアルバム1枚で解散となり、グレン・フライは71年にイーグルスを結成する。
J.D.サウザーはグレンと決別したわけではなく、その後も互いの活動に参加協力していく。

72年、グレン・フライも参加したソロアルバム「John David Souther」を発表。
しかしセールスはいまいちだったため、レコード会社の意向もあって74年には元バーズのクリス・ヒルマン、元バッファロー・スプリング・フィールド、ポコのリッチー・フューレイとともにバンドを結成。
メンバーの名をつなげたサウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドは2枚のアルバムを残すが、思ったほど売れず解散。
バンド解散後もイーグルスの曲作りに協力したり、リンダ・ロンシュタットのプロデュースを手掛けたりといったスタッフとしての活動を続けた。

ソロに戻ったJ.D.サウザーは76年にリンダ・ロンシュタットやデビッド・クロスビー、イーグルスのメンバーが参加したアルバム「Black Rose」を発表。
さらに79年「You're Only Lonely」をリリース。
ジャケットはうつむき加減で立つJ.D.サウザーの姿で、当時流行のAOR感に満ちた絵はあちこちの貸しレコード屋でよく見かけたものだ。(借りませんでしたが・・)
ただし内容はAORというよりややロック寄りな曲が多いらしい。
同名シングルは全米7位を記録する大ヒットとなり、日本でもその名を知られることとなる。

「You're Only Lonely」は確かに名曲だと思う。
おだやかな旋律は当時極東の貧乏中学生だった自分が聴いても心温まるものだったし、友達の間でも人気があったことを覚えている。
ロイ・オービソンの影響を強く受けた曲だそうだが、わかるような気もする。
(ロイ・オービソンもあまり聴いてませんけど)

だが。
全米7位のヒット曲を持ちながら、80年以降のソロ歌手としての活動はかなり控えめである。
アルバムは84年の「Home by Dawn」、その次がなんと24年後の2008年「If the World Was You」。
ただし24年間表舞台から姿を消したわけではなく、他のミュージシャンとの活動は続けていたようだ。
以降のソロアルバムは2009年の「Rain」、2011年「A Natural History」となっている。

最近も2014年9月にテネシー州ナッシュビルでの「アメリカーナ・ミュージック・アワード2014」でジェームス・テイラーと共演。
2015年にはアルバム「Tenderness」も発表し、ビルボード東京や大阪で歌ったりしている。

・・・というわけで、やはり知らない話ばかりであった。
リンダ・ロンシュタットとの交流もどこかで聞いたような気はするが、一時期恋仲にあったりリンダに捧げる曲を書いたりといった深い情報までは知らなかった。

45年以上のキャリアでリリースしたソロアルバムは10枚に満たないことになる。
なんとなくわかってきたが、この人はソロ歌手としてのゴージャスな立ち位置をあまり好まないようだ。
いい曲を作って友達に歌ってもらって売れたら自分もハッピー、みたいな裏方志向のミュージシャンなのだろうか。
スパンコール付きの衣装でステージ上を回転しながらスポットライト浴びたり、ホテルの窓から裸の女を投げ捨てたり、バックステージでメンバー同士殴り合って血だらけでアンコール登場といったことは苦手なんだと思う。

J.D.サウザーが制作に参加したイーグルスの主な名曲は以下である。
・Doolin-Dalton
・James Dean
・Best Of My Love(我が愛の至上)
・New Kid In Town
・Victim Of Love
・Heartache Tonight
・The Sad Cafe

最近の来日公演ではこれらイーグルスの名曲も歌ったりしたそうだ。

不思議なのはイーグルスにどうして加入しなかったのか?という点。
ジャクソン・ブラウンもそうだが、メンバーとの親交も深く、これだけ数々の名曲も手掛けてきたのであれば、「オマエも入れよ」とか「じゃあオレも入るかな」という流れになってもおかしくない気はするが・・
イーグルスもモメ事の多いパープルっぽい団体だったので、純粋に音楽は追求するけどグレンやドン・ヘンリーともめたりするのは御免だと思ってたんだろうか?
ランディ・マイズナーが加入に反対だったとかレコード会社が認めなかったとか、いろいろ楽しそうな話もあるようだが・・

というわけで、J.D.サウザー。
今さらですが聴くとすれば当然まずは「You're Only Lonely」でしょうけど、他にもおすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

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聴いてみた 第142回 ジャパン

もうすでに半月過ぎようとしていますが、みなさま新年明けましておめでとうございます。
2018年最初の聴いてみたシリーズ、自分でも意外なジャパンを選んでみました。

ジャパンの記事を書いたのは驚愕の14年前。
BLOGを始めて間もない頃で、記事書いたら最初のコメントでいきなりお叱りをくらってしまったという当然かつ因縁のバンドでもある。
しかもお叱りを受けていながらやっぱり14年間も放置という救いようのない展開。
他にもそんな扱いのバンドはたくさんありますけど。
しかし2018年のわたしはそんな自堕落な自分と今年こそ決別すべく(棒読み)、日本人なら誰でも知ってる「Gentlemen Take Polaroids(孤独な影)」を渋谷のレコファンにて750円で購入。

Japan

14年前に記事書いた時はジャパンの歴史すら全然調べなかったので、今回は少し調べました。(手遅れ)
ジャパンは1974年にロンドンで結成された。
メンバーはリチャード・バルビエリ(K)、ミック・カーン(B)、デビッド・シルビアン(Vo・G)、ロブ・ディーン(G)、スティーブ・ジャンセン(D)。
デビッド・シルビアンとスティーブ・ジャンセンは兄弟。(デビッドが兄)
デビュー当時ロブ以外の4人は結成当時全員10代だった。
なおバンド名の由来に明確な意味はなく、デビッドによれば「なんとなくジャパンという言葉が浮かんだ」からとのこと。
あとミック・カーンは奥さん日本人だそうです。

アルバム「Adolescent Sex」でデビュー。
ブラックやグラムやパンクなどを混ぜた感じの内容で、邦題は「果てしなき反抗」っていかにもなタイトルだけど、本国やアメリカでは全然売れず、一方日本では売上15000枚という実績を残す。
その名のとおり日本から人気に火がついたバンドとなった。

バンドは3枚目のアルバム「Quiet Life」より転換を見せる。
グラムやブラックな要素を大幅に縮小して、シンセサイザー多用やアレンジなど技巧面でのサウンド変化を実行。
さらにデビッドの粘性ボーカルに暗い歌詞といった独特な様式美を確立。
「耽美派」「内省的」といった形容が定着し始め、ようやく本国やアメリカでの人気が追いついていく。

80年代に入り、バンドはアフリカや東洋の音楽を取り入れた「Gentlemen Take Polaroids(孤独な影)」、「Tin Drum(錻力の太鼓)」を発表する。
特に「Tin Drum」には、デビッドの中国に対する興味や関心が、曲やジャケットやプロモビデオにも反映されているそうだ。
シングル「Ghosts」は全英4位を記録するバンド最高のヒットとなった。

しかし「Tin Drum」リリース直前、ギターのロブ・ディーンが脱退。
最後のライブツアーでは一風堂の土屋昌巳がサポートギタリストを務め、日本公演では土屋に加えて坂本龍一、高橋ユキヒロ、矢野顕子も参加した。
この後デビッドとミックの仲がうまくいかなくなり、ジャパンは82年に解散する。
バンドは91年に一時的に復活したが、ジャパンとは名乗らず「レイン・ツリー・クロウ」という名で同名のアルバムもリリース。
2011年ミック・カーンがロンドンで死去し、オリジナルメンバーによるジャパン再結成は永久になくなった。

14年前からジャパンに関する知識は全く向上しておらず、もちろん大半が初めて知る話である。
ただ「孤独な影」「ブリキの太鼓」が日本でも売れていたことはうっすら覚えており、ジャケットも記憶に残っていたので、聴くならこの2枚からだと思って選んでみました。(安直)

今回買った「孤独な影」はデジタルリマスター盤で、曲順も曲数もジャケットもオリジナルとは少し違うようだ。
果たしてあたしは14年間に及ぶ孤独を埋めることができるでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1. Gentlemen Take Polaroids
2. Swing
3. Burning Bridges
4. My New Career
5. Methods Of Dance
6. Ain't That Peculiar
7. Nightporter
8. Taking Islands In Africa
9. The Experience Of Swimming
10. The Width Of A Room
11. Taking Islands In Africa (Steve Nye Remix)

サウンドやボーカルはおおむね想定していたとおりだった。
デビュー当時のジャパンはブラックやパンクやレゲエも採り入れた荒削りな音楽だったそうだが、このアルバムについてはその残り香はどこにも感じなかった。
唯一聴いていた「I Second That Emotion」と路線はだいたい同じである。
なおtatsuromanさんに教えていただいて初めて知ったのだが、その「I Second That Emotion」はカバー曲で、彼らのオリジナルアルバムには収録されていないのだった。

タイトルだけは知っていた「Gentlemen Take Polaroids(孤独な影)」も含め、聴いたことのある曲は全くない。
デビッド・シルビアンのオクラ納豆系ボーカル、どこか曇ったサウンドとはかなげなメロディ、いかにも80年代っぽいアレンジ。
スピード感あふれるロックやノリのいい楽しいポップといった要素はなく、同じ時代に開花した他のニューロマな人たちとはやはり違う。
部分的にデュラン・デュランABCと似ているところはあるが、デュランにある力強さや神経質さはそれほど感じない。
・・・などと知ったかぶりカマして書いてますが、デュランもABCもちゃんと聴いてませんが・・・(台本どおり)
ジャパンの独創的な世界観はこのアルバムで完成したようだ。

聴いてみて意外だったのはリズムがかなりしっかりしているところだ。
ボーカルが粘性なので曲全体ももっとぐにゃぐにゃしてんのかと思ったが、そうでもない。
「Methods Of Dance」「Ain't That Peculiar」などはドラムの音がけっこうソリッドで、それでいて不思議な調和がある。
ちなみに「Ain't That Peculiar」もスモーキー・ロビンソン&ミラクルズのカバーだそうです。

一方で「Nightporter」は静かなピアノバラード。
あまり美しいとも思えないデビッドの声だが、これも悪くない。
「Taking Islands In Africa」は坂本龍一が参加してるそうだが、YMOもあまり聴いてないので「おお!やはり教授っぽい」などといった感想もなく、デビッドはやはりここでも糸引きボーカルである。
どの曲も全然明るくないし、やはり好みからは距離を感じるのだが、プログレのような置き去り感は思ったよりもない。
デビッドのボーカルも意外なほど拒絶感はなかったので、やや安心。

聴き終えた。
正直当時も今もミーハー(死語)で産業ロックに汚染された自分には難しい音楽だが、一回聴いて「あああダメだこりゃ」といった感情はありがたいことにわかなかった。
ジャパン、細かく聴いていくと「案外いいな」という音がわりと拾えるのだ。

矛盾してるようだが、おそらくリアルタイムで聴いていたら、拒絶反応だったと思う。
当時のチャラい産業ロック上等の自分では、この音はたぶん受け入れることは無理だった気がする。
好みや習熟は別として、中年になってから多少音楽鑑賞の枠を広げるようになったので、わずかではあるが寛容になっているのかもしれないが・・

というわけで、ジャパン「孤独な影」。
思ったより悪くなかったです。
とてもスタンディング・オベーションというレベルにまではいきませんが、もっと過酷な結果を想定していたので、この感想は自分でもホントに意外でした。
次作「ブリキの太鼓」にもチャレンジしてみようと思います。

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聴いてない 第231回 パット・ベネター

前回のプレイヤー同様、出会いは中学生の頃と非常に古いが全然聴いてないパット・ベネター。
いちおうリアルタイムで聴いてる曲もあったのだが、BLOG開始後14年目にしてようやく初登場である。(遅すぎ)
時系列的にはなんとなくだがリンダ・ロンシュタットマドンナの間にいた人、という感じにとらえている。

聴いた曲は以下のとおり。
・Heartbreaker
・We Live For Love(愛にまかせて)
・Hit Me With Your Best Shot(強気で愛して)
・Fire And Ice
・Little Too Late

他に全曲ブルースというアルバムをレンタルで聴いたことがあったが、そもそもブルースも得意ではないため1回だけ聴いて返却。
聴いてない度は3くらい。
能動的に聴きに行ったことはなく、FMでオンエアされた曲を録音できればしておく、という扱いだった。

ハードなロックナンバーを男まさりに歌うという立ち位置は嫌いではなかったが、申し訳ないけど顔も声も好みの範疇には入らなかった。
自分の場合、少なくとも顔面に関してはデボラ・ハリーが他の並み居る女性アーチストを全て粉砕していたのである。

つれない扱いに若干の罪悪感を覚えながら(ウソ)調査開始。
パット・ベネターの本名はパトリシア・アンジェイェフスキ。
えっそんな名前だったの?
姓の響きが東欧っぽいなと思ったら、やはりルーツはポーランドにあるようです。

本名パトリシア・アンジェイェフスキは1953年ニューヨーク生まれ。
ポーランド系の父親は板金工場経営、アイルランド系の母親は美容師という裕福な家庭に育つが、お嬢パトリシアは厳格な教育方針にやっぱり反発。
親は娘をクラシックかオペラ歌手にさせたかったようだが、パトリシアはジュリアード音楽院というクラシックの名門校のボイストレーニングの繰り返しに飽きてしまい、反動でロックに没頭というわかりやすい展開。

18歳からナイトクラブで歌い始め、レコード会社の担当者の目に止まり1974年にロック歌手としてデビュー。
この頃デニス・ベネターと結婚。
後に離婚することになるが、芸名パット・ベネターは変えなかったようだ。

しかしデビューはしてみたものの全然売れず、下積み時代が4年以上も続いた。
79年再デビューという形でようやくアルバム「In The Heat Of The Night」を発表。
シングル「Heartbreaker」は全米23位を記録した。
ということは自分もいちおうデビュー当時から聴いてはいた、ということになる。
偉くもなんともないが・・

なおこのアルバムのプロデューサーはスージー・クアトロやブロンディなどのプロデュース経験もあるマイク・チャップマン。
再デビューとはいえ売れっ子プロデューサーのチャップマンさんを起用できたというのはすごい話なんじゃなかろうか。
また収録曲である「I Need a Lover」はジョン・クーガーの作品とのこと。

ここから85年の間にコンスタントにアルバムをリリースし、特に「Precious Time」「Get Nervous」は大ヒット。
この間グラミー賞のロック女性ボーカル部門で5年連続受賞。
またバックバンドでギターを弾いて彼女をサポートし続けたのは夫であるニール・ジェラルドという泣かせる話もある。

しかし85年あたりに転機が来る。
この年のシングル「Sex as a Weapon」はタイトルが女性団体から問題視され、有害指定を受けたそうだ。
正確には「Stop Using the Sex as a Weapon」であり、むしろ女性団体から支持されそうなメッセージソングのはずだが、パットやレコード会社側の思惑とは違った形で騒動になってしまったらしい。
ちなみにこの曲とマドンナの「Like a Virgin」はどちらもトム・ケリーとビリー・スタインバーグという人たちの作曲だそうです。

別に競ったり衝突したわけでもないと思うけど、そのマドンナの台頭と入れ替わるような形でパット・ベネターの人気と活動量は下降していく。
チャートへの登場もアルバム発表も徐々に間隔が空いてきて、21世紀以降はあまり目立った活動はしていないようである。
スタジオ盤としては2003年の「Go」が今のところ最後のアルバムとなっている。
来日公演も95年に一度あったのみとのこと。

どれも全然知らない話ではあったが、確かに自分も80年代後半以降はパット・ベネターの曲はエアチェックできていない。
意識的に避けた記憶もないので、日本でもFMでのオンエア自体の頻度も下がっていたと思われる。

やはりロック・ボーカリストという特殊な職業は、特に女性が長い期間続けていくことは相当に難しいのだろう。
まあ女性に限らず男でもロック歌い続けるのがキツイのは同じだと思うけど。
マドンナは今も現役だがロック歌手とも言えないし、歌うスタイルもかなり変わってきている。
男でもミック・ジャガーという化けもんみたいな人だけが今もロックを歌っているのだ。

話がかなりそれましたけど、パット・ベネター。
出会いが早かったわりにちっとも聴いてこなかったが、理由に特に強固なものはない。
前述のとおり顔や声が好みではなかった、ということはあるかもしれないが。
アルバムジャケットや雑誌で見た範囲で言えば、化粧がかなり濃いなとは思っていた。
(中学生なのにそこかよ)

でもデボラ・ハリーの顔は大好きだったのにアルバムはまともに聴いてなかったし、ジョーン・ジェットも化粧濃いけど顔は好きだったので、化粧と顔は鑑賞にはあんまし関係ないみたいです。(適当)
あと個人的には声がシーナ・イーストンにも少し似ていると思う。
どちらもあのファルセットが少し苦手・・・

1回だけ聴いたアルバム「True Love」は全編ブルースで、たぶんレンタル料金も無料か激安で、他のCD借りるついでだったような気がする。
(自分の意志でなく姉の気まぐれだった可能性あり)
パット・ベネターでブルースという組み合わせはやはりハードルが高く、ラストのクリスマスソング「Please Come Home For Christmas」だけテープに録って返してしまった。
店側もずいぶんとマニアックな盤を入荷したもんだと思うが・・

しかし歌うスタイルや歌唱力はやはり非凡なものがあり、今一度おさらいをしておくのもいいかもしれない。
聴くとしたら大ヒット作品「In The Heat Of The Night」「Precious Time」「Get Nervous」は外せないと思いますけど、他にもおすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。


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聴いてない 第230回 プレイヤー

みなさんは洋楽を聴き始めた頃のことをどれくらい覚えておられるでしょうか?
自分の場合、洋楽に目覚めた79年頃、60分カセットテープに曲を録音することを始めた。
最終的にはこのオムニバスコレクションは120本を超えることになるのだが、その記念すべき1本目にボストンの「A Man I'll Never Be」やJ・ガイルズ・バンド「One Last Kiss」などとともに録音したのがプレイヤーの「Silver Lining」。
今日採り上げるのはそのプレイヤー。
個人的には出会いは非常に古く、バンド名も曲名も正確に記憶はしているが、結局それっきりという一期一会放置バンドである。
なお表記はウィキペディアなどでは「プレーヤー」となっているが、文字面がなんとなく平坦なので今回はプレイヤーで統一します。

このファーストコンタクト以降、プレイヤーの曲をFMから録音できたことは一度もない。
バンドの素性も知る機会は全くなく、ミュージックライフやFMステーションでも彼らの記事を見た記憶はない。
姉や友人との会話にプレイヤーが登場したこともなく、FROCKLでも話題になっていたかどうか不明。
従ってこの1曲だけの情報で止まっている状態。
日本での評判はどうだったのか、全然わからない。

どうやら西海岸の人たちであることを後からうっすら知った程度。
10年くらい前にベスト盤CDを買ったはずなのだが、実は今も持っているのかどうかすらはっきりしない。(杜撰)
あまり聴かないまま手放したような気もする。

ということで長きにわたり放置してきたプレイヤー、このままでは柏村武昭にも申し訳ないので(棒読み)、心を入れ替えて調べてみることにした。

プレイヤーはロサンゼルスで結成されたバンドで、AORやウエストコーストといったキーワードでくくられることが多いようだ。
源流は、イギリス人のピーター・べケット(Vo・G)と、テキサス出身のジョン・チャールズ・クロウリー(K)がハリウッドで出会って結成したバンダナというグループにある。
その後ロン・モス(B)とジョン・フリーゼン(D)が加入し、4人組バンド「プレイヤー」として活動を開始。

77年アルバム「Player」でデビュー。
シングル「Baby Come Back」がいきなり全米チャート1位を記録する大ヒット。
また「This Time I'm in It for Love(今こそ愛の時)」も10位まで上昇し、アルバムも26位と好調なスタートとなる。

78年には2作目アルバム「Danger Zone」を発表。
このアルバムに自分が聴いた「Silver Lining」が収録されている。
ということは自分が聴いた時点ではまだデビューしてから2年くらいのキャリアだったんスね。
「Silver Lining」は62位というやや微妙な成績だが、別のシングル「Prisoner of Your Love(恋のプリズナー)」は27位を記録。

しかしバンドはこの後早くも内紛が発生。
中心メンバーだったピーター・ベケットが脱退し、3人で存続を試みたが、ジョン・チャールズ・クロウリーも脱退する。
その後ピーターが戻り、サポートメンバーを加えて80年に3作目アルバム「Room with a View」をリリースするが、セールスとしては全く振るわず、ロン・モスが脱退。

ベースのラスティー・ブキャナンが加入し、81年アルバム「Spies of Life」を発表。
シングル「If Looks Could Kill」「I'd Rather Be Gone」がそこそこヒットするが、アルバムチャートでは152位止まりに終わり、バンドは83年に解散。
メンバーはそれぞれミュージシャンや俳優業やカントリー歌手といった分野で活動を続ける。
なおピーターはプレイヤー解散後、リトル・リバー・バンドにも参加している。

83年いったん解散というのも初めて知ったが、80年以降FMでプレイヤーの曲を聴いたり録音したことが全くないので、解散以前に日本でのプロモーションもあまり力が入らなかったんだろう。
80年代にはもっと儲かるバンドが山のように湧いてたしなぁ。

その後プレイヤーは95年にめでたく再結成される。
この時のメンバーが意外に興味深いメンツ。
元メンバーのピーター・ベケットとロン・モスに加え、元カーズのエリオット・イーストン、元リトル・リバー・バンドのトニー・シュート、アンブロージアのバーリー・ドラモンドという顔ぶれ。
バーリーさんはアンブロージアをやめておらず、プレイヤーと掛け持ちだったそうです。
エリオット・イーストンは再結成プレイヤーに参加したのか・・知らなかった・・
95年頃だとカーズはもう解散していて、リック・オケイセックもプロデューサー業にシフトしてたはず。
カーズは東海岸のバンドだけど、どういう経緯でエリオットはプレイヤーに参加したのだろう?

再結成アルバム「Electric Shadow」は日本で先行発売され、翌96年には本国でも「Lost in Reality」というタイトルでリリースされた。
さらにメンバーチェンジと解散・再結成を繰り返しながら断続的に活動を続け、クリストファー・クロスやロビー・デュプリーらとともにツアーにも出かけ、2013年にアルバム「Too Many Reasons」も発表。
今後もピーター・ベケットとロン・モスがいる限りバンドとしてはやっていけるのだろう。

唯一聴いている「Silver Lining」だが、悪くない。
記念すべき1本目のテープに録音したのでそれなりに思い入れもあるが、程よくノリのいい明るく爽快なサウンドだ。
歌いだしの前に鳴ってくるギターも意外な感じでいいと思う。
なおエアチェックではエンディングがフェードアウトされており、長いことそういう終わり方だと思っていたが、ベスト盤で聴きなおしたらもっと壮大な映画のラストみたいなエンディングだったのでちょっと驚いた。
ちなみに「Silver Lining」は直訳だと「銀の裏地」だが、意味としては「希望の光」みたいな言葉らしい。
歌詞として「every cloud has a silver lining」という英語のことわざが使われており、「どんな雲にも銀の裏地がある=絶望の中にも必ず希望はある」ということだそうです。

しかし残念ながらそれ以外の曲を聴く機会がなく、毎週量産される産業ロックの波に飲まれていったので、プレイヤーについて興味を持つことすらなかった。
最初にして最大のヒット曲「Baby Come Back」を、後追いでもいいから80年代当時に聴いていれば、その後の展開も多少は違ったのではないかと思うが。(今さら)

あらためてベスト盤に頼らず聴いてみるとしたら、やはりデビューアルバムと2枚目の「Danger Zone」ははずせないでしょうね。
今日本でふつうに手に入るのかどうかわかりませんけど・・・
これ以外にもおすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

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聴いてない 第229回 ハノイ・ロックス

北欧フィンランドからムーミンとともにやってきた元祖ビジュアル系?バンド、ハノイ・ロックス。
全然聴いておらず、フィンランド出身というのも実は今回調べて初めて知った。
ハノイなんて地名が付いてるので、アジア系アメリカ人がいるのかと勝手に思っていたが、バンド名はクスリの愛称に由来するそうです。
別の候補としてこれもクスリの名前で「チャイニーズ・ロックス」というのもあったらしい。

そんな北欧薬学部バンド、ハノイ・ロックス。
82年の「Motorvatin'(炎のドライビン)」だけ柏村武昭の紹介で聴いており、聴いてない度は2。
以降「サンスイ・ベストリクエスト」でハノイ・ロックスをエアチェックできたことはなく、おそらく柏村武昭の趣味ではなかったと思われる。

エアチェックより前からミュージックライフには時々登場していたので、バンドとマイケル・モンローの名は知ってはいた。
「炎のドライビン」はハードロックではあるが金属的なサウンドではなく、キッスをもっと若い感じにしたガヤ系のノリの曲である。
悪くはないが特に好みというわけでもなく、前後に別の曲を合わせて録音したため消さずにいたという扱い。

ハノイ・ロックスを語る上で必ず登場するのがモトリー・クルーのヴィンス・ニールだ。
モトリーを採り上げた時に調べたので、彼らの因縁については少し知っている。
あらためてその因縁も含めたハノイ・ロックスの歴史をひもといてみよう。

バンドは1980年フィンランドの首都ヘルシンキで結成。
マイケル・モンローとアンディ・マッコイが中心メンバーだが、最初はマイケルとギターのナスティ・スーサイドがスウェーデンで5人組バンドを結成し、少しあとでアンディが加入してハノイ・ロックスとなったそうだ。

1981年にシングル「I Want You」でデビュー。
アルバムはなぜか「Bangkok Shocks, Saigon Shakes」というタイトルで、邦題は「白夜のバイオレンス」。
地元フィンランドやスウェーデンでヒットし人気はイギリスまで拡張。

1982年アルバム「Oriental Beat」がフィンランドで1位を記録する。
自分が聴いた「炎のドライビン」はこのアルバムに収録されており、日本での人気に火が着き始めた頃のようだ。
イギリスでの人気に連動するように日本でも評価が上昇し、83年に初来日を果たす。
翌84年にも来日し、東京・大阪・福岡でライブを行った。

しかしこの年にバンド最大の悲劇と危機が発生。
ライブの最中にステージ上で高いところから飛び降りたマイケル・モンローが、アンディと衝突。
マイケルは足を骨折し、その後もムリしてツアーを続けたためケガは悪化。
ツアーは終盤だったが、残り5公演をキャンセルして中止になった。

このアクシデントが結果的にさらなる悲劇につながっていく。
バンドはツアー中止を受けて休養とプロモーション活動に切り替える。
この期間にメンバーはモトリー・クルーの面々と出会い意気投合。
マイケル以外のメンバーは、モトリー・クルーのトミー・リーの家でパーティーに参加。

パーティーの途中ヴィンス・ニールは当時ハノイ・ロックスのドラマーだったラズルを誘い、酒を買いに車(パンテーラ)で出かける。
しかし泥酔状態のヴィンスが運転するパンテーラは暴走し、車線をはみ出し対向車と正面衝突。
対向車の運転手とラズルが死亡、その他の車も巻き添えになり運転手が重傷という大事故を引き起こした。
ヴィンス自身はほぼ無傷だったそうだ。

ラズル死亡により年内に予定されていたハノイのライブは全て中止となり、翌年正月のライブは追悼公演となった。
結局ラズルが死んだ時点でハノイのバンドとしての歴史はほぼ終わったものとなる。
ベースのサミ・ヤッファは追悼公演直後に脱退し、アンディとナスティはクスリや酒におぼれ、マイケル・モンローも脱退を告げ、バンドは解散した。
その後マイケルはアクセル・ローズと交流し、それぞれお互いのライブに出たりと比較的なごやかに音楽活動を続ける。

しかし。
この後マイケル・モンローはさらにつらい思いをすることになる。
ここで登場するのが元ビリー・アイドル・バンドのギタリスト、スティーブ・スティーブンス。
昔猪木と戦った空手家みたいな名前だが、そのウィリー・・じゃなかったスティーブとマイケル・モンローはエルサレム・スリムというバンドを結成。
だが意見の相違からか公式アルバムを出す前に二人は決裂しバンドは破綻。
直後にスティーブはマイケルにとっては因縁のクソ野郎であるヴィンス・ニールのソロアルバムに参加してしまう。

ヴィンス・ニールによって盟友ラズルを死に追いやられ、さらにはスティーブという得難い名ギタリストまで引き抜かれる・・という、マイケルにとってはありえへん展開。
スティーブを引き抜いたヴィンスには他意や悪意はなかったらしいが、マイケル自身もハノイのファンも、ヴィンス・ニールのことは今でも良く思っていないそうだ。
そりゃそうだろうなぁ。
ラズルの件についてはモトリー・クルーを聴いた時に調べて知ったのだが、さらにスティーブを巡る因縁まであったとは・・・
どこまでも気の毒なマイケル・モンロー。

ただしいずれにしても作品に罪はない。
ヴィンス・ニールの「Can't Change Me」をリアルタイムで聴いているが、ここで素晴らしいギターを弾いているのがスティーブ・スティーブンスだったんスね。
この曲を作ったのはダム・ヤンキーズのジャック・ブレイズとトミー・ショウ
なおヴィンス・ニールは例の事故の服役後はモトリーのメンバーとも和解して、バンドとしては最近までわりとマジメに活動はしていた一方、やっぱり暴行や飲酒運転で逮捕歴を順調に積み重ねてきたり、ニコラス・ケイジと殴り合ったり、相変わらずなクソぶりで世間をにぎわせているようです。

で、主役のマイケル・モンローだが、まだ悲劇は続く。
2001年に最初の妻と死別。
2002年にはハノイ・ロックスを再結成するが、この頃マイケルはバセドウ氏病にかかっていたと言われている。
新生ハノイ・ロックスは2007年までに3枚アルバムを発表し、ラウドパーク07出演のため来日もするが、2009年には解散を表明。
解散後はソロとして、また自身のバンド「マイケル・モンロー・バンド」を率いて活動している。
なんか苦労の多い人だ。
特に自ら転落していったということではなく、他人によってつらい目に合わされた、というところが泣かせる。
半生が映画化されたりしないだろうか。

というわけで、ハノイ・ロックス。
悲劇的な歴史ばかりについ注目してしまうが、音楽作品としては第1期・2期(と呼んでいいのか不明だけど)で分けて評価するのが一般的のようだ。
ビジュアルの印象から毒っぽいサウンドをイメージしそうだが、根底にはR&Bを保持しながら多様な音楽性も持ち合わせるという、思ったよりも深いバンドのようです。
聴くとしたらやはりまずは第1期作品からだろう。
個人的には「炎のドライビン」収録の「Oriental Beat」か、または1期最後の作品「Two Steps From The Move」に興味がややあるところですが、皆様の鑑賞履歴はいかがでしょうか?

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聴いてない 第228回 スクリッティ・ポリッティ

日々FMから大量に流される産業ロックを片っ端からエアチェックしていた80年代。
それでも全てのアーチストや楽曲にふれることは当然不可能で、残念ながら個人的には置き去りにしてしまったものもたくさんある。
今回のスクリッティ・ポリッティもまさにそんな80年代置き去りバンドです。

スクリッティ・ポリッティ、聴いたことがあるのは「Lover To Fall」の1曲だけ。
これは「サンスイ・ベストリクエスト」ではなく「クロスオーバー・イレブン」から録音している。
「サンスイ・ベストリクエスト」でスクリッティ・ポリッティを録音できたことはない。
たぶん柏村武昭の趣味ではなかったのだろう。
なお同時に録音したのがエイス・ワンダーの「オープン・ユア・マインド」やスターシップ「シスコはロックシティ」である。

この1曲以外に一切の情報を持ち合わせておらず、FMステーションやミュージックライフ、またベストヒットUSAでも彼らの情報を得ることはなかった。
あまり日本ではヒットもせずチャートをにぎわせるような存在ではなかった・・という認識なのだが、合ってますかね?
1曲だけ聴いた範囲で言えばデジタル・テクノ・シンセといったワードがぼんやり思い浮かぶが、果たして正しいのかどうかもわからない。

そもそもバンドなのかピン芸人なのかもよく知らないので、スクリッティ・ポリッティについて生涯初の検索を実行。(毎度のこと)

スクリッティ・ポリッティは1977年にイギリスでグリーン・ガートサイドを中心として結成された音楽ユニット。
実質グリーンさんのワンマンバンドで、学生時代に結成した時からメジャーになってもこの形態は変わらないそうだ。
主なメンバーにはデビッド・ギャムソンとフレッド・メイハーという人がおり、最大では8人編成にもなった時期もあったらしい。

ユニット名はイタリアのマルクス主義思想家アントニオ・グラムシの言葉から採ったもので、「政治的著作・文書・書簡」といった意味になるらしい。
たぶん意味よりも音を重視して命名したと推測。
レイナード・スキナードとかアドリアン・アドニスとかいんぐりもんぐりなんかとノリは同じだろう。(適当)

しかしウィキペディアには「登場したばかりのYAMAHA DX7とゲートリバーブを全面的に楽曲制作に導入し、音響効果の徹底的な練り込みやシーケンサーを用いた緻密な音色の配置により、都会的なポップミュージックに洗練したキューピッド&サイケ'85を制作し、80年代の音楽シーンに大きな影響を与えた。」とある。
この時点で何を言っているのかド素人の自分には全然わからない。
「DX7」ってのはシンセサイザーだと思うが、「ゲートリバーブ」「練り込み」「シーケンサー」「緻密な音色の配置」ってひとつもわからない・・・
なんかいろいろすごいユニットみたいです。(雑)

82年「Songs To Remember」でデビュー。
84年にシングル「Wood Beez」「Absolute」「Hypnotize」を立て続けに発表。
これらは3部作と呼ばれ、いずれも12インチ盤もリリースされた。
翌85年には3部作やマイルス・デイビスのカバー「Perfect Way」を収録したアルバム「Cupid & Psyche 85」も大ヒット。
自分が聴いた「Lover To Fall」もこのアルバムにあった。

88年には3枚目のアルバム「Provision」をリリースしたが、以降作品発表は停滞し、10年ほど沈黙期間となる。
デジタル技術を駆使した打ち込みによる楽曲創作を続けていたため、スタジオ以外での音の再現ができずライブでの演奏はほとんどしてこなかった。
その後楽器演奏の工夫や音声技術の進歩などでようやくライブ活動ができるようになり、2006年にはデビュー24年後にやっと来日公演が実現。

最近はあまり活動しておらず、アルバムは通算5枚というポリス並みの実績。
2011年にはベスト盤が発表されている。

大まかにいうと、テクノやエレクトリックという技術志向でソウルやレゲエやポップスなど多角的にトライしていたユニットということになるようだ。(かえってよくわからない)
音楽シーンに多大な影響を与えたという称号はついてまわるようだが、日本でどのくらいセールス的に実績があったのかは不明。
チャートアクションもよくわからない。
玄人好みというところなのだろうか。

唯一聴いた「Lover To Fall」も、前後の曲とまとめて録音したので消さなかっただけというのが実情。
テンポのいい80年代のリズムとサウンドだが、特にいいとも悪いとも感じなかった。
どこか冒険アニメのエンディングテーマ曲みたいな雰囲気。
「クロスオーバー・イレブン」で録音したので、FMステーションには曲とアーチスト名が記載されていた。
なのでスクリッティ・ポリッティの名もこの時正確に知ることができたが、それ以上の興味はわかなかった。

というわけで、スクリッティ・ポリッティ。
「Cupid & Psyche 85」はレゲエやソウルやバラードなど多彩なサウンドのようで評価も高いので、聴くとしたらこのアルバムからになると思いますが、他におすすめのアルバムがあれば教えていただきたいと思います。

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聴いてみた 第141回 XTC その3

聴いてない音楽を世界中に公表しアドバイスをいただいては生返事というろくでなしBLOGを13年半も続けているが、結局ちっとも定着せず放置してるアーチストを量産するはめになった。(愚)
図らずもその放置バンド代表格となったのがXTCである。

White Music」で粉々になり、「Nonsuch」で多少回復したものの、以降8年以上他のアルバムにトライしていないという、ダメOLのダイエットみたいな続かなさ。
そこで今回は生まれ変わったわたくしを見ていただくため、ボストンの新作並みに時間を空けて三度XTCに挑戦することを決意しました。(誰も視線を合わさない)
聴いたのはあのトッド・ラングレンがプロデュースした名盤「Skylarking」である。
あ、トッドも同じくらい長期間放置しています・・・すいません・・・

Skylarking

「Skylarking」は1986年の作品で、バンド8枚目のアルバム。
全英最高90位・全米では最高70位を記録。
世界中で大ヒットというわけではないが、トッド登場で話題性は充分にあったと思われる。
タイトルはひばりではなく「バカ騒ぎ」の意味だそうだ。

86年といえば自分は日々産業ロックに汚染され続け、FMステーションを買ってラテカセの前で息を殺して待機したり11PM秘湯の旅に出てくるうさぎちゃんを凝視していた頃だ。
XTCの存在は知っていたような気もするが、エアチェックの機会もなくアルバムジャケットも一切記憶に残っていない。

XTCの卓越した音楽センスと宅録職人トッドの微妙絶妙な融合に生まれた傑作「Skylarking」。(全部受け売り)
バンドのキャリア上の頂点と評価するファンも多いらしい。
正直そう言われても不安はぬぐえないが、果たしてどんな音楽なのだろうか。

・・・・・聴いてみた。

1.Summer's Cauldron
2.Grass
3.The Meeting Place
4.That's Really Super, Supergirl
5.Ballet for a Rainy Day
6.1000 Umbrellas
7.Season Cycle
8.Earn Enough for Us
9.Big Day
10.Another Satellite
11.Mermaid Smiled
12.The Man Who Sailed Around His Soul
13.Dying
14.Sacrificial Bonfire

「Season Cycle」や「Earn Enough for Us」は楽しそうでよい。
「Another Satellite」はどこか曇っためまい系サウンドだが、エコーやアレンジで80年代っぽい広がりになっており、これも意外にいい感じだ。

このアルバムもやはりあちこちポール・マッカートニー色が濃い。
特に1曲目から8曲目までは頻繁にポール。
メロディやリズムもそうだが、アンディ・パートリッジのボーカルはキーも声質も発声のしかたもポールに似ていると思う。
一方コリン・モールディングの曲や歌はアンディほどポール色は濃くはない。
声もやや濁りがあるし、サウンドも少しひねったものが多い気がする。

後半は曲ごとの雰囲気の違いが目立ち、なんとなく散漫な印象。
終盤「Man Who Sailed Around His Soul」「Dying」「Sacrificial Bonfire」など抑えた曲が続き、少し重い。

なお今回聴いた盤は「Dear God」という曲は未収録だった。
この曲はシングルのみのリリースだったが、思いがけずヒットし、後からアルバムに追加されたそうだ。

「ビートルズを思わせる」と多くのサイトには書いてあるが、個人的にはやはりポール寄りであって、ジョン・レノンを思わせる音は少ないように思う。
なのでむしろ「ウィングスを思わせる」というほうが自分としてはしっくりくる。

ただしウィングス(のヒット曲)ほどのゴージャスさは見当たらない。
86年の音楽にしてはシンプルで、産業ロック的な分厚いサウンド重ねやチャラいアレンジといった要素もない。
これがアンディの意向なのかトッドの趣味なのかはよくわからない。
「Nonsuch」のほうがもう少し大衆的な音だったように思う。

まず「White Music」のような拒絶感・絶望感はない。
どの曲も比較的おだやかで、ムダに絶叫したり不協和音の連続だったり両者リングアウトだったりといった不快感も置き去り感も特にない。
一方でどの曲も音の厚みはあまりなく、ハーモニーや一体感もそれほど重視されていない。
「壮大」「疾走感」「調和」というキーワードを想起させる曲がないのだ。

従って好みかと言われるとまたしても非常に微妙。
「Nonsuch」もそうだが、サウンドや雰囲気は悪くないとは感じたものの、繰り返し聴きたくなるという感情の煮立ちがまだない。
音楽性は全然違うが、感覚的にはイーグルスを聴いた時の状況に似ている。
86年当時リアルタイムで聴いていたら、もう少し違った展開になっていたとは思うが・・
ビートルズのフォロワーは世界中にたくさんいるが、おそらく自分はそういう中でももっとあからさまでダサいオアシスみたいなサウンドのほうが好きなのだろう。

さて。
トッド・ラングレンがプロデューサーを務めた経緯には諸説あるようだが、まずギターのデイブがトッドのファンだった、というのがあったらしい。
当時トッドも自身のバンドであるユートピアの活動は停止中で、意外にヒマだったとかお金がちょっと必要だったとかの背景もあったようだ。

ただ所属レコード会社ヴァージンはこの頃カルチャー・クラブのような稼げるチャラいバンドに注力していて、アンディの意向も深く確認しないままトッド起用を決めてしまったそうだ。
さらにデモテープを聴いたトッドが、曲の選択から曲順まで決めて仕切ろうとしてきたとのこと。
それだとやはりメンバーとしてはトッドを「ウザい教師」みたいに感じてあんましおもしろくはなかったんじゃないかなぁ。

XTCの作った原音に対して、それなりに時間をかけてトッドが調整を施したのに、メンバーは音の仕上がりにもいろいろ不満だったようだ。
発表直後にはアンディとトッドがメディアで互いを非難し合うという楽しい状況にもなったそうだが、まあ今風に言えば多少「釣り」「炎上商法」みたいなものだったのかもしれないスね。

なのでトッドがいなければこのサウンドはなかっただろうけど、XTCの長いキャリアの中で、結局トッドのプロデュースはこの「Skylarking」だけとなっている。
リスナー側にも様々な意見はあるようだが、ネットでいろいろ見てみた範囲ではトッドのプロデュースについてはわりと評価する人が多いように感じた。

というわけで、久しぶりにトライしてみたXTC。
やはりそう甘くはなかったというのが正直な感想です。
ただアルバムごとに作風が大きく違うのがXTCだそうなので、もう少し他のアルバムも学習してみようかと思います。

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聴いてない 第227回 イギー・ポップ

孤高の淫力魔人イギー・ポップ。
なんか昭和のエロい映画みたいなキャッチですけど、みなさんの期待を裏切ることなく、全く聴いておりません。
というか名前しか知らず、人物像や資格や懲罰などの情報も全然仕入れてこなかった。
1曲も知らず、アルバムのタイトルもジャケットも一切思い浮かばない。
聴いてない度は孤高の1。
超難関大学というより、全国でそこしかない独特な研究をやってる謎の学部という感じ。
自分みたいな万年ド素人がたしなむようなアーチストではないのだった。

イギー・ポップと聞いてうっすら前頭葉に浮上するのは「たぶん変わってる人」「なんかいつも上半身裸」といったイメージである。
これだけだと天龍でも飯伏でも真壁でも当てはまってしまうので、イギー・ポップについてマジメに経歴調査。

イギー・ポップは1947年アメリカのミシガン州に生まれる。
・・・出だしからつまづいてるけど、イギリスの人じゃないんですね。
イギーリスのポップな歌手だからイギー・ポップなのかと思ってました・・

本名はジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニアという長い名前。
どこにもイギーもポップもない。
ウィキペディアには「ハイスクール時代にザ・イグアナズなるバンドを結成する」と書いてあるけど、もしかしてこれが芸名の由来なの?
あとバンド名は正確には「ジ・イグアナズ」じゃないの?

その後パイン・ムーヴァーズというバンドを結成(加入?)。
ドラマーとしてスタートするが、ジム・モリソンに憧れてボーカリストに転向。
67年には伝説の破天荒バンド、ザ・ストゥージズを結成する。
69年に元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルのプロデュースによりアルバム「The Stooges」でデビュー。
当時の流行音楽を全て否定したサウンドや、ステージでの暴力的なパフォーマンスで元祖パンクとして若者の支持を集める。

70年にはアルバム「Fun House」を発表。
ここでバンドはいったん解散し、73年に再結成。
「Raw Power(淫力魔人)」はデビッド・ボウイがミキシングで協力したアルバムとして知られる。
しかしイギーの奇行やメンバーの薬物中毒が問題となり、再び活動停止となる。
イギー・ポップ本人はストゥージズを「独創的だっただけ」ととらえていて、メンバー間でもめたりすることもない平和なバンドだったそうだ。

その後ドイツ・ベルリンでボウイとの共作活動を開始する。
77年ボウイのプロデュースでソロアルバム「Idiot(愚者)」「Lust For Life(欲情)」をリリース。
79年にはボウイの力を借りずに「New Values」を発表。
80年以降も毎年アルバムを出したものの、セールスとしては低迷する。

86年に再度ボウイの協力を得てアルバム「Blah-Blah-Blah」をリリース。
収録されていたシングル「Real Wild Child」とともにイギー史上最大のヒットとなる。
・・・86年だと自分も毎晩サルのようにエアチェックしてた頃なのだが、申し訳ないけどイギー・ポップがヒットを飛ばしていたことは全く知らなかった。
たぶん柏村武昭の趣味ではなかったのだろう。

めでたく大ヒットでがっちりお金も儲けたはずだったが、イギー本人は世間に迎合しすぎたと感じていたらしく、このアルバムもシングルも気に入らなかったようだ。
続く88年の「Instinct」で自らの望む方向性に戻したが、売り上げは当然前作に比べて落ちてしまい、レコード会社を移籍することになる。

移籍後第1弾として、90年にドン・ウォズがプロデュースした「Brick By Brick」を発表。
このアルバムにはガンズ&ローゼスのスラッシュとダフ・マッケイガンも参加し、新境地を開拓したと評価されたそうだ。

98年には日本で開催されたフジ・ロック・フェスティバルに登場。
2003年に29年ぶりにストゥージズを再結成し、2007年にはストゥージズとしてアルバムも発表。
イギー本人はストゥージズのピークをこの再結成後の頃だと認識しているらしい。
なおその後も2007年までフジ・ロックなど日本のロック・フェスに度々出演している。

だが2014年ストゥージズのドラマー、スコット・アシュトンが亡くなり、バンドとしては活動停止となった。
イギーは今もステージには上がり続けているが、ストゥージズ時代の曲はもう歌っていないとのこと。

毎度のことながら端から端まで全く知らない話であった。
逆になぜイギー・ポップの名前だけは知っているのかが不明。
FMステーションやミュージックライフでイギーの記事を見た記憶も一切ない。

「なんか変わってる人」というのはたぶん当たっているだろう。
まあロックやパンクの人はだいたい変わってるとは思うが、ライブでのセットリストを事前に決めずステージに上がってから決めたとか、マイクを放り投げて探しもしないとか、客席にダイブしてそのまま帰ってこないとか、いろいろ周りは大変だった人のようだ。
ちなみに江頭2:50はイギーのステージに強い影響を受けてあの芸風になった、という話もあるようです。

イギー・ポップを調べていくと、デビッド・ボウイの名前が頻繁に出てくる。
ボウイが亡くなった後、イギーはボウイについて「人生の光」だと表現したそうだ。
あまりパンクロッカーらしくないけど、いい話だなぁ。
イギーはボウイの協力で何度かアルバムを発表しており、またボウイの作品にもイギーが協力したりという間柄だったそうだが、おそらくはイギーの鋭すぎる個性・音楽性と一般大衆をつなぐ役割をボウイが果たしたのではないかと思う。
ボウイとの共作活動をしていた「ベルリン時代」に作った曲を、今でもイギーは一番気に入っているらしい。

というわけで、イギー・ポップ。
アルバムをじっくり聴いて味わうタイプのミュージシャンではなく、むしろ映像から入ったほうがよさそうな気もしますが、80年代産業ロックに汚染された自分がもし学習を始めるのなら「Blah-Blah-Blah」「Brick By Brick」あたりになるのでしょうか。
みなさんの鑑賞履歴やおすすめのアルバムをご紹介いただけたらと思います。

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聴いてない 第226回 ブラインド・メロン

今日のお題は唐突に思い出したブラインド・メロン。
子供の頃はメロンといえばプリンスメロンだったのだが、最近はデパートやスーパーでも全く見かけない。
今の若い人はプリンスメロンなんて知らないだろうなぁ。
表面が網状のやつはマスクメロンと呼ばれ、プリンスメロンよりもずっと高級で入院しないと食べられないという認識だった。
それがどうしたって話ですが・・

そんな記憶も鑑賞も網状のブラインド・メロン。
「No Rain」という曲だけ聴いているので、聴いてない度は2。
これは柏村武昭の指導によるものではない。
92年の曲だがこの頃はもう「サンスイ・ベストリクエスト」は放送時間が変わったため聴いておらず、MTVで映像を見て音声だけテープに録音したものだ。
というか当時「サンスイ・ベストリクエスト」が続いていたかどうかも不明。
柏村チルドレンを卒業し、自立リスナーの道を歩んでいた頃の思い出の1曲である。

「No Rain」のプロモ・ビデオの始まりは以下のような流れ。
みつばちに扮した少女が小さな舞台でタップダンスのような踊りをたどたどしく披露し、踊りが終わったとたんに見ていた男(映像には姿はない)がなぜか大笑い。
少女は笑われた恥ずかしさからか、舞台から逃げるように走り去り、突然場面が草原に切り替わりブラインド・メロンのメンバーが演奏を始める、という妙な構成である。
なおこのみつばち少女は後に女優となったヘザー・デローチという人だそうだ。

この不思議な映像を伴う不思議なサウンドが不思議に売れて全米では最高20位、全英では17位を記録。
「No Rain」はブラインド・メロン最初で最大のヒットとなった。
残念ながら当時まだインターネットは普及しておらず、曲と映像以外の情報は得られなかった。
そしてその後他の曲にふれる機会も一切なし。
あれから25年が経過し、今回初めてバンドの略歴を知った次第。

ブラインド・メロンの結成時期には諸説あるようだが、89年・または90年頃とするサイトが多い。
メンバーはシャノン・フーン(Vo)、クリストファー・ソーン(G)、ロジャース・スティーブンス(G)、グレン・グレアム(D)、ブラッド・スミス(B)。
メンバーの多くはミシシッピ州出身だが、結成はロサンゼルス。
バンド名はコメディ映画「チーチ&チョン」に出てくる「ブラインド・メロン・チトリン」というキャラクターから、という由来らしい。

ブラインド・メロンを検索するとアクセル・ローズの名前がよく出てくる。
ボーカルのシャノンはアクセルの友人(後輩?)で、ガンズの「Don't Cry」という曲にも参加しており、プロモビデオにも出演しているそうだ。
アクセルのバックアップで、92年ブラインド・メロンはアルバム「Blind melon」でデビュー。
シングル「No Rain」が大ヒットし、アルバムも400万枚以上のセールスを記録。

ブラインド・メロンはこの大ヒットを興業的にはあまり利用せず、むしろ逆に内にひきこもるような共同生活を送りながら創作活動を続け、95年に方向性を大幅に転換した2枚目のアルバム「Soup」を発表。
「No Rain」の大ヒットによりフォークやヒッピーっぽいイメージが定着しそうになるのを嫌ったという話だが、残念ながらセールス的には厳しい展開となり、メンバーの間にドラッグが蔓延した。
95年10月、ツアー中のニューオーリンズでシャノン・フーンが死亡。
死因はドラッグの過剰摂取で、ツアーバスの中で倒れているのをアクセル・ローズが発見(他説もあるらしい)。
28歳の若さだった。

96年にシャノン参加の未発表曲を収録したアルバム「NICO」をリリースしたが、新しいボーカルが決まらず、バンドは10年近く停滞。
2006年にインディーズバンド出身のトラヴィス・ウォレンがボーカルとして加入。
2008年にアルバム「For My Friends」を発表した。
しかしこの直後にトラヴィスはメンバーとの意見が合わず脱退する。
全米ツアーではクリス・シンを臨時のボーカルとしたが、やはり後任が見つからず来日公演も中止となる。
現在はトラヴィスが復帰し、バンドとしては活動中のようだ。

何しろ「No Rain」以外に一切の情報を仕入れていなかったので、初代ボーカルがすでに死んでいたことも今回初めて知った。
最初のアルバム大ヒット→2枚目撃沈→ドラッグやりすぎ→ボーカル死亡とは、ロックバンドとしてあまりにも正調な展開。
90年代のバンドだけど70年代っぽい生き方である。
不謹慎な物言いになるが、もし死んだのが27歳だったら、マスコミやオールドなロックファンが食いつき、もう少し有名になっていたはずだ。

サウンドはかなり幅広いようで、ファンク・ハードロック・カントリー・ジャズ・ブルースといったジャンルをまたぐ様々な曲を生み出しているそうだ。
オルタナというカテゴリーにくくられることが多いが、退廃的なグランジとは違うらしい。
歌う内容も酒とダンスとお姉ちゃんといったチャラいものはあまりなく、そこは90年代らしく不安で不満で切なく物悲しい詞が多いとのこと。
突出して個性的というわけではないが、似たようなバンドも見つからない唯一無二の存在、というのがおおむね共通した評価のようだ。

「No Rain」はフォークっぽい感じもするが、青臭さはあまりなくのん気なサウンドにゆるいボーカルが乗る不思議な曲だ。
イントロのぽよーんというギターから気が抜けた感じで、悲壮感漂うバラードではなく、サビも盛り上がりはなく終始同じような調子。

当時の我が家の音響品質のせいかアレンジなのかは不明だが、なんとなく昔のオープンリールみたいな曇った音に聞こえる。
歌詞もやはり決して明るくはなく、なんとなく不満な気持ちを簡易な言葉だけで表している。
好みかと言われると微妙ではあるが、この曲は悪くない。

多くのファンが書いているように、「No Rain」だけではブラインド・メロンは語れないようだ。(当然だけど)
華やかな活動期間は短かったが、バラエティに富んだ楽曲や才能を持っていた多面的なバンドのようである。
1枚目「Blind melon」と2枚目「Soup」は必修科目でしょうが、みなさまの鑑賞履歴はいかがでしょうか?

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