聴いてない 第342回 レベル42

名前に数字が入っているバンドと言えば、U210CCUB40、B-52'sや38スペシャルなどいろいろあるが、思いついたけど聴いてないのがレベル42である。
まあU2以外はどれも聴いてませんけど。

レベル42、1曲も知らないと胸をはるつもりだったが、87年の「Running In The Family」だけ当時のFM一流音楽番組「サンスイ・ベストリクエスト」で録音していたことが判明。
さすがは柏村武昭、レベル42までちゃんとオンエアしていたのだ。
なのでレベル42、聴いてない度はなんとか2を確保。

ただしこの曲以外の情報は一切知らない。
そもそもどこの国の人たちなのか、メンバーは何人いるのか、曲やアルバムはどんだけ売れたのか、確定申告はきちんとしているのか、全くわからない。
そこでレベル42について生涯初のハイレベル調査を敢行。
なお先に書いておくと、木村カエラのデビュー曲も「レベル42」だそうだが、2004年に彼女が出演していたテレビ神奈川の音楽番組「saku saku」の企画でリリースされたもので、タイトルもテレビ神奈川のチャンネル42にちなむとのこと。
なので今回調査するレベル42とは無関係だそうです。

さてまずはウィキペディアを参照。
だが冒頭からいきなり混乱する状態に遭遇。
英語版と日本語版では最初の説明が微妙に異なっている。
英語版だと「イギリスのジャズファンクバンド」だが、日本語版では「イギリス出身のフュージョン・ポップ・バンド」と書いてある。
まあ日本語版でもジャンルの項には「ロック、ポップ、ジャズ・ファンク、フュージョン、ニュー・ウェイヴ」とあるので、いろいろやってる人たちだと解釈。(雑)
そのウィキペディアだが、日本語版は例によってかなり簡素な記述で、A4判1枚に収まる程度だが、英語版は非常に情報が詳細でメンバー一覧やディスコグラフィーは別項である。
なので本国での知名度や人気は日本とは相当異なるようだ。

レベル42の結成は79年頃。
メンバーは以下のみなさんである。
・マーク・キング(B・Vo)
・ローランド(ブーン)・グールド(G)
・フィリップ・グールド(D)※ローランドの弟
・マイク・リンダップ(K・Vo)

マークとグールド兄弟の3人はワイト島育ちの幼なじみで、マークとフィリップはレベル42結成前にあののプロジェクトに参加しており、Mの活動中にマイク・リンダップと知り合う。
4人はジャズ・ファンク・フュージョンなどのスタイルを採り入れたインストゥルメンタルを演奏するバンド「レベル42」を結成した。
バンド名はダグラス・アダムスのSFコメディ小説「銀河ヒッチハイク・ガイド」に由来するとのこと。

レベル42は80年にエリート・レコードというインディーズレーベルからシングル「Love Meeting Love」をリリース。
するとポリドール関係者の目に留まり、レコーディング契約を結び直す。
翌81年、ポリドールから初シングル「Love Games」をリリースし、全英38位となった。
セルフタイトルのデビューアルバムも全英20位を記録。
気を良くしたポリドールは、同年後半にエリート・レコード時代の楽曲を集めたコンピレーション・アルバム「The Early Tapes(Strategy)」をリリースした。

82年、レベル42はアルバム「The Pursuit of Accidents」を発表。
インストゥルメンタル・ジャズ・ファンクのスキルとスタイルは維持しつつ、ポップソングへの挑戦をさらに進めた内容で、前作を上回る全英17位に達した。
シングル「Weave Your Spell」と「The Chinese Way」はどちらも歌入り曲だがめでたくチャートインし、バンドはさらに幅広いファンを獲得した。

この後レベル42はインスト離れが加速する。
83年に4枚目のアルバム「Standing in the Light」をリリース。
ジャズ色が薄れ、インストゥルメンタル曲がなく、歌曲に重点を置いた作品となった。
アルバムは全英9位を記録し、シングル「The Sun Goes Down (Living It Up)」は初の全英トップ10入りを果たす。

84年のアルバム「True Colours」では、ジャズを基調とした音楽から離れ、バラエティ豊かなポップスに転換。
ファンク、パワーポップ、ミドルテンポなロック、ムーディなバラードを織り交ぜた。
アルバムは全英14位と前作からはやや後退したが、シングル「The Chant Has Begun」が41位、「Hot Water」は全英18位・オランダ5位・ベルギー7位・全米87位と健闘した。

バンドもレコード会社もこのポップス転向が成功への架け橋であることを確信した。
それは85年のアルバム「World Machine」でも明らかで、全英3位・全米18位のヒットとなり、シングル「Something About You」はバンド初の全米トップ10(7位)入りを果たす。

だが。
「World Machine」は評論家やファンから好評を博したものの、実はバンド内では意見の相違や衝突が起こり始めていたようだ。
アルバムのレコーディング中、フィリップ・グールドとマーク・キングの間で、音楽的な方向性や制作過程などをめぐって緊張が表面化し始める。
一時はフィリップがバンドを離脱し、マークが代役ドラマーとしてゲイリー・ハズバンドを指名するところまで行ったが、なんとか確執は収まり、フィリップは1週間ほどでスタジオに戻っている。

86年4月にリリースされたシングル「Lessons in Love」は、バンドがアメリカツアーで忙しい中、ヨーロッパのチャートの勢いを維持するために戦略的にレコーディングされた。
この作戦は見事に的中し、イギリスとアイルランドで3位の他、デンマーク、ドイツ、スイス、南アフリカで初の1位を記録。
またイタリアやオランダ、スウェーデンでも2位と、国際的なヒットとなり、バンド史上最大の売り上げとなった。
10月にはスティーブ・ウィンウッドのライブでオープニングアクトを務めた。

「Lessons in Love」を収録した87年のアルバム「Running in the Family」で、バンドは絶頂期を迎える。
アルバムは全英2位、シングル「To Be With You Again」「It's Over」「Running In The Family」も各国でヒット。
レベル42は6月に行われたプリンス・トラスト・コンサートに出演し「Running in the Family」を演奏したが、この時エリック・クラプトンがリードギターを弾いている。

成功の裏でバンド内部にはやはり問題が継続していたようだ。
フィリップ・グールドはバンドのポップ路線には依然として不満を露わにしていた。
だが最初に離脱したのは兄のブーンで、マドンナのツアーサポートを終えた87年後半に脱退。
神経衰弱に悩まされていたことや、ツアーの連続で妻子と過ごす時間がなかったことが脱退の理由とのこと。
ただしバンドとの関係は友好的なままで、ブーンは脱退後もバンドのために作詞作曲を続けたそうだ。
一方弟フィリップはポップ推進派マークとの関係がさらに悪化し、ツアーの最中にもかかわらず87年12月に脱退した。
ツアー日程を全うするため、バンドはプリファブ・スプラウトのドラマー、ニール・コンティを代役として雇った。

ここからの展開は想像以上に複雑である。
ツアー後、レベル42はドラマーとして以前も候補に挙がっていたゲイリー・ハズバンドを採用。
ブーンの後任ギタリストが見つからず、アルバム「Staring at the Sun」のほとんどは、専属ギタリストなしでレコーディングされたが、録音終盤になってようやく元ゴー・ウェストのアラン・マーフィーが加入した。

幸い「Staring at the Sun」は全英2位となり、シングル「Heaven in My Hands」も12位、「Tracie」も25位の好成績を残した。
アルバムのプロモーションのため、レベル42は4ヶ月間のヨーロッパツアーを開始。
ロンドンのウェンブリー・アリーナでの凱旋公演は全て完売となった。
この公演の模様は後にライブアルバム「Live At Wembley」としてリリースされている。

だがアラン・マーフィーはエイズを患っており、加入からわずか1年余りの89年10月19日に死亡。
またギタリストを失ったレベル42は1年間の活動休止となってしまう。
この間に結成10周年を記念したベスト盤「Level Best」を発表したが、ポリドールとの契約上出す必要があったためとも言われている。

アランの死の翌年、レベル42は活動を再開。
RCAレコードと契約を結び、アルバム「Guaranteed」を発表する。
バンドのメンバーはマークとマイク、ゲイリーの3人だが、ギターでドミニク・ミラーやアラン・ホールズワースが参加。
アルバムは全英3位、シングル「Guaranteed」も17位と健闘したが、バンド内はやっぱり不安定だった。

93年初頭、ゲイリー・ハズバンドが脱退し、フィリップ・グールドが復帰する。
翌94年に10枚目のスタジオアルバム「Forever Now」を発表。
全英8位でセールス的にも評論家からも高い評価は得たものの、フィリップはアルバムのプロモーション活動も1度演奏しただけでツアーも不参加。
バンドは仕方なく代役ドラマーのギャヴィン・ハリソンを雇いツアーを続行した。

この時点でマーク・キングはレベル42の継続はもう不可能と判断したようだ。
「Forever Now」ツアーの途中で、バンドはツアー終了後に解散す​​ると発表。
レベル42は94年10月14日、ロンドンのアルバート・ホールで最後のライブを行った。
解散後マーク・キングはソロ活動を始め、アルバムも2枚作ったが、ライブではレベル42の曲を演奏するほうが盛り上がることを痛感していたそうだ。
その後たまに友人のパーティーやマイク・リンダップの結婚式でメンバーが集まって演奏することはあったが、再結成には至らなかった。

2001年後半、マーク・キングはようやくレベル42として活動再開を決意する。
メンバーはマークとゲイリー・ハズバンド、リンドン・コナー(K)とショーン・フリーマン(Sax)、マークの弟のネイサン・キング(G)。
2002年7月、レベル42は6年ぶりの公式コンサートを行う。
その後数年間、新曲発表はなかったが、定期的にツアーを行い昔のヒット曲を演奏していた。

12年間スタジオアルバムをリリースしていなかったレベル42は、再始動から4年後の2006年9月、ようやく「Retroglide」を発表した。
このアルバムには元メンバーのブーン・グールドとマイク・リンダップもゲスト参加。
フィリップ・グールドは兄のブーンと共同でアレンジを担当したが、クレジットには名前はなし。
「Retroglide」リリース後、マイク・リンダップはバンドに正式に復帰する。

2010年、ゲイリー・ハズバンドが脱退し、後任にはピート・レイ・ビギンが加入。
2012年、レベル42はアルバム「Running in the Family」発売25周年を記念し、イギリスやヨーロッパ各国をツアーで巡り、「Running in the Family」収録の全曲に加え、数々のヒット曲を演奏した。
2013年には6曲入りEP「Sirens」をリリース。

バンドは現在も活動継続中で、今月もキム・ワイルドやジョニー・ヘイツ・ジャズとのジョイントコンサートが行われ、7月にはロンドン郊外でのフェス出演も予定されている。
なお2019年5月にブーン・グールドは自宅で亡くなったそうだ。

以上がレベル42の思ったよりすごい(失礼)実績と略歴である。
知ってた話は当然なし。
メンバーがレベル42結成前にあのMに参加してたことも知らなかった。
プリンス・トラスト・コンサートに出演してクラプトンにギターを弾かせた、という話も驚きである。
クラプトンをバックに歌うくらいだから、当時の英国での人気ぶりは相当なものだったのだろう。
前回採り上げたアデルもそうだが、レベル42も本国と日本では人気も知名度も大幅に違うようだ。

「Running in the Family」はノリのよいリズムでファンクな感じ(知ったかぶり)だが、好みかと言われると微妙なサウンド。
夢中になって聴いてたわけでもなく、たまたま録音できたので消さずにいただけである。
歌詞の和訳を見てもいまいち何を言っているのかよくわからない。
「Running in the Family」とはどういう意味か?というと、「家族総出のかけっこ」ではもちろんなく、「そういう家系なんだ」とか「遺伝しているんだ」ということらしい。
厳格な父親に反発して兄弟で家出してみたものの、すぐに警察に保護され父の車で家に帰った。父は全てお見通しだった、そういう家系なんだ(おそらくは父も幼い頃そういう子供だったんだろう)・・・といった内容(だと思う)。
で、終盤には「いつかお前も音楽と真剣に向き合うことになる」といった、ミュージシャンとしての至言みたいな言葉も出てくる。(父親も音楽家だったのか?)
男女の愛を歌ってるわけでもないが、イギリスではこういう不思議な曲も当時ヒットしてたんスね。

というわけで、レベル42。
自分が聴くとしたらやはりアルバム「Running in the Family」からになると思われます。
果たしてどれくらいの方が聴いているのか想像もつきませんが、他のアルバムも含め、おすすめがあれば教えていただけたらと思います。

Running-in-the-family
レベル42 Running in the Family
World-machine
レベル42 World Machine
42
木村カエラ レベル42

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聴いてない 第341回 アデル

本国と日本で人気や実績に大幅な乖離があるアーチスト、いわゆる「スモール・イン・ジャパン」と言えば、ミート・ローフグレイトフル・デッドAC/DCラッシュなどが該当するらしい。
今日のお題アデルもそんな扱いのようだ。そうなの?
日本でも知名度はあるし売れ行きも悪くはないが、我が国は本国の事務所やレコード会社が本気になるほどのマーケットとは思われていないとのこと。

・・・とエラそうな講釈を垂れ流しましたが、アデル全く聴いてません。
1曲も知らないので、聴いてない度も静謐の1。
アルバムジャケットにかすかに見覚えがある・・程度。
本国イギリスでは輝かしい実績を誇る大スターなのだが、自分は時々ジュエルと混同する有様である。(論外)

取り急ぎ共通テスト実施前にアデル概論を拙速受講。
アデルは1988年5月5日にロンドン北部のトッテナムで、イギリス人の母親とウェールズ人の父親の間に生まれた。
本名はアデル・ローリー・ブルー・アドキンス。
アデルが2歳の時に父親が家を出てからは母親に育てられた。

幼少の頃から歌うことに夢中になり、学生時代もギターを弾いて歌う日々を過ごす。
2006年に音楽・舞台芸術・アートを学ぶ専門学校を卒業。
同級生には後にそれぞれ歌手となるレオナ・ルイスやジェシー・Jがいたそうだ。

卒業後、アデルは自作曲のデモ音源をオンライン芸術雑誌や音楽サイトに投稿した。
21世紀ともなれば、売り込みの主流メディアはテープではなくネットなのである。
その中で友人がアデルに代わって投稿した曲が話題になり、音楽レーベルXLの社長兼ディレクターであるリチャード・ラッセルがアデルに連絡。
電話で連絡を受けたアデルはXLレコードを知らず、本当にレコード会社からの連絡なのかどうか怪しいと疑って、呼び出された場には友人を連れて行ったそうだ。
リチャードはまだ17歳だったアデルをすぐにXLと契約させた。

2007年6月、アデルはBBCの音楽番組で自作曲「Daydreamer」を披露しテレビデビューを果たす。
10月には16歳の時に作曲した「Hometown Glory」がデビューシングルとしてリリースされた。

翌年1月に「Hometown Glory」を含む自作の11曲と、ディランのカバー「Make You Feel My Love」を収録したファーストアルバム「19」を発表。
するといきなり全英チャートで初登場1位を記録した。
アメリカでは初登場61位とやや出遅れたかに思えたが、テレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」に出演後、11位まで急上昇し、最終的には4位に到達。
アルバム「19」は世界中で220万枚を売り上げ、ゴールドディスクも獲得した。
スタートから鬼のように順調なプロ歌手生活である。

2009年2月のグラミー賞で、アデルは最優秀新人賞に加え、最優秀女性ポップ・ボーカル・パフォーマンス賞も受賞。
シングル「Chasing Pavements」は年間最優秀レコード賞と年間最優秀楽曲賞にもノミネートされた。

アデルは2枚目のアルバム「21」を2011年初めに発表した。
このアルバムは恋人との破局にインスピレーションを受け、別れの後に経験した怒りや苦しみ・孤独感、傷心と後悔、最後に受け入れという重い感情の変動をテーマにした内容となっている。
またサウンドはモータウンやソウルの他、北米ツアー中に聴き始めたアメリカのカントリーやサザンブルースも採り入れている。
なお当初タイトルは年齢数字はやめて「Rolling in the Deep」にしようと考えていたが、やっぱり制作当時の年齢を表す「21」が最もふさわしいと考え直したそうだ。

決して明るく楽しい音楽ではない「21」について、レコード会社の幹部は「今度はそう簡単には売れんやろ」と思って、ネットでのプロモーションや、英米各地での地道なテレビ出演など、息の長いマーケティング・キャンペーンを行うことにした。
だが「21」は本人以上に事務所やレコード会社が震えるほどの実績を残すことになる。
どんだけすごい成績だったのか、箇条書きにすると以下の通り。
・全英チャートで初登場1位を獲得し、プラチナ認定
・全米チャートでも1位、24週間トップをキープ
・イギリスで540万枚、アメリカでは1200万枚を売り上げた
・2011年に世界中で1800万枚を売り上げ、最も売れたアルバムとなった
・翌2012年も830万枚で最も売れたアルバムであり続け、2年連続1位を達成
・オーストラリア、カナダ、フランス、ドイツ、アイルランド、ニュージーランド、スイスでも1位
・シングル「Rolling in the Deep」「Someone like You」「Set Fire to the Rain」は全て全米1位

他にもいろいろな話があるが、「21」はイギリスではフリートウッド・マックの「噂」や、マイケル・ジャクソン「スリラー」よりも売れたスタジオアルバム、とのこと。本当?

また「21」の大ヒットにより「19」も全英チャートに再登場。
これによりアデルは1964年のビートルズ以来となる、シングルとアルバムの両方でトップ5に2枚同時に送り込むという快挙も達成した。
なおこの頃アデルは慈善事業家のサイモン・コネッキと交際を始め、2012年には長男が生まれている。

翌2012年のグラミー賞でアデルは年間最優秀アルバム賞・最優秀レコード賞・最優秀楽曲賞など6部門を受賞し、ビヨンセに次いでグラミー賞史上2人目の「一晩で最も多くの賞を受賞した女性アーティスト」となった。
世界で最も好調な女性アーティストとなったアデルだが、さすがに周囲の狂騒には疲れたようだった。
2012年4月には「次のアルバムには少し時間をかけたいので、少なくともリリースは2年後になると思う」と述べた。

だがアデルは活動を停止したわけではなかった。
2012年10月、アデルはジェームズ・ボンド映画23作目「007スカイフォール」の主題歌「Skyfall」を発表。
「Skyfall」は全英2位・全米8位を記録し、世界中で500万枚以上を売り上げ、アデルはゴールデングローブ賞の最優秀オリジナル楽曲賞とアカデミー賞の最優秀オリジナル楽曲賞を獲得した。
ちなみに「21」や「Skyfall」をプロデュースしたポール・エプワースは、ポール・マッカートニーの2013年発表の「New」においても「Save Us」「Queenie Eye」「Road」など数曲を手がけているそうです。

アデルは2013年にロサンゼルスに移住する。
この年の暮れには英国音楽業界への貢献を認められ、MBE勲章(大英帝国勲章)を受章した。

3枚目のアルバムは2015年11月20日にリリースされた。
「少なくとも2年後」と語っていたが、実際には倍の4年後の発表となった。
タイトルは25歳になった時に作ったのでやっぱり「25」。
25歳になった彼女の人生と心境を反映し、過去の自分への憧れやノスタルジア、また時の流れへの憂鬱といったテーマに加え、母性や新しい愛、後悔といったテーマも取り上げられている。
サウンドは80年代風のエレクトロニックな要素と独創的なリズムパターンが採り入れられた。

4年経ってもアデルは無双状態で、「25」も恐ろしいほどの実績を叩き出す。
・全英チャートで初登場1位を獲得し、初登場週で80万枚というチャート史上最速の売り上げを記録
・アメリカでは発売後1週間で338万枚、アルバムの単一週売上枚数としては史上最大となった
 ※ただし今年テイラー・スウィフトの「The Life of a Showgirl」がこの記録を350万枚で塗り替えた
・カナダでは30万枚で初登場1位となり、それまでセリーヌ・ディオンが持っていた「Let's Talk About Love」の23万枚という最高売上枚数記録を更新
・全世界で初週売上570万枚を記録
・2015年に1740万枚を売り上げ、世界で最も売れたアルバムとなった
・オーストラリア、フランス、ドイツ、アイルランド、ニュージーランド、スイスでも1位
・ベルギー、チェコ、デンマーク、フィンランド、ギリシャ、アルゼンチン、香港でも1位

50年前にビートルズがチャートで繰り広げた伝説を、アデルが再現したようなものである。
ジャスティン・ビーバー、リアーナ、サム・スミス、ワン・ダイレクションなど多くのミュージシャンが、アルバム売上に影響が出ないよう、アデルとの競争を避けてリリース時期を変更したとも言われている。

2016年の間「25」がずうっと売れ続けたため、翌2017年のグラミー賞では、最優秀アルバム賞・最優秀楽曲賞・最優秀レコード賞を受賞し、史上初めてこの「三冠」を2度制覇したアーティストとなった。

長くつきあってきたパートナーのサイモン・コネッキとは2018年に正式に結婚。
だが間もなく別居し、2021年3月には離婚が成立している。
当時アデルの資産は200億円とも言われ、離婚理由を口外しない条件でアデルがサイモンに慰謝料187億円を提示したらしい。
桁がでかすぎてよくわかんない話ですけど・・・

アデルの4枚目のアルバム「30」は2018年に制作を開始し、2021年11月19日にリリースされた。
「30」と言いながらアデルはすでに31歳になっていたが、コロナ禍の影響で発売が遅れたとのこと。
6年ぶりのスタジオ盤は、離婚の経験や不安、息子の人生に与えた影響、母性や名声にインスピレーションを得て制作。
そしてやはりアデルは6年経っても変わらぬ無敵の強さを世界中に知らしめることとなる。
・2021年に世界で最も売れたアルバムとなり、24の地域で1位を獲得
・イギリスでは261,000枚を売り上げてオフィシャルアルバムチャートで初登場1位を獲得
・アメリカでは3枚連続のビルボード200の1位
・オーストラリア、フランス、ドイツ、アイルランド、ニュージーランド、スペインでも1位
・日本のオリコンでは4位だったがダウンロードでは1位
・ブリット・アワードでブリティッシュ・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞(ソロとしての3度の受賞はアデルが史上初)

2022年初めにアデルはラスベガスでのレジデンシー公演「Weekends with Adele」を開始。
レジデンシー公演って何?・・と思ったら、1つの会場で10回以上連続で行われる公演のことだそうです。
途中コロナ禍の影響や健康上の理由で何度か延期があったが、毎回20曲以上を歌い2時間を超えるステージは大好評で、度々追加公演が行われ、最終的に2024年11月まで延長された。
ステージ衣装の中にはステラ・マッカートニーがデザインした特注ドレスもあったとのこと。

2024年10月の公演では、アデルが観客席にいたセリーヌ・ディオンを見つけ、歌を中断してセリーヌの元に駆け寄り、二人は泣きながら抱擁という感動的な一幕もあったそうだ。
公演の模様を録音したライブアルバムは2025年2月にリリースされ、3枚のLPレコードに写真集とショーの紙吹雪が付いたボックスセットとなっている。
・・・ファンにとっては紙吹雪でもありがたいんスかね?
なお公演期間中のあるステージ上で、NBA専門スポーツエージェントのリッチ・ポールとの結婚も公表している。

ところが。
2024年7月、アデルは突然活動休止を宣言する。
インタビューで「新曲やアルバム制作の計画は全くありません」と語り、レジデンシー公演終了後は音楽活動を無期限に休止することを明らかにした。
真の理由は不明だが、本人は「音楽から離れてしっかり休みを取りたい・他のクリエイティブなことに取り組みたい」とも語っている。
現在も音楽活動は休止中のままだが、近いうちに映画で女優デビューを果たすのではないかとも報じられた。

以上がアデルの凄まじい略歴と実績である。
知ってた話は全くない。
「聴いてない」だの「スモール・イン・ジャパン」だの書いてしまったが、そんな告白したら英国大使館から厳重注意が来るんじゃないかと思うほどすごい成績だ。
ウィキペディアをご覧いただければおわかりかと思うが、とにかく「21」「25」「30」は欧米各国で軒並みチャート1位なのだ。
これまでいろいろな聴いてないアーティストを調べてきたけど、こんなに「1」が並んでるの見たことがない。
今さらですけど、こんなにすごい人だったんですね・・・すいません・・

欧米での実績と知名度は揺るがないことはわかったが、やはり我が日本での人気となると微妙な気がする。
もちろんファンは日本にもたくさんいて、貫地谷しほりや藤あや子はアデルのファンであることを公言している。
ただ日本公演もまだ実現していないそうで、自分のような三流素人リスナーを含む一般人における認知度となると、テイラー・スウィフトやブルーノ・マーズのほうが少し上なのではないだろうか。

アデルはとにかく歌や音楽について実直で誠実な反面、私生活や趣味や社会活動に関する発信にはあまり積極的ではないそうだ。
ド派手なファッションで注目を集めたり、マネージャーを次々とクビにしたり、パパラッチのシャツを引きちぎったり、ヤフーで天気予報を見たり、やよい軒でおかわりしたりといった日本のマスコミが好みそうな話題もないとのこと。
ファンもアデルの歌や曲そのもので自己表現する正攻法な姿勢を支持しており、本人もそれを崩してまで話題作りする必要性を感じていないのだろう。

アデルの功績は、ただアルバムを鬼のように売っただけでなく、ストリーミングではないフィジカルなレコードディスク購入への回帰を促すことに成功した点にある、と言われている。
ネット配信での入手が主流となった21世紀において、リアルな販売店舗に客を呼び戻し、CDやDVDを所有する喜びを若い世代にもたらし、傾きつつあった音楽業界を救ったと評されたそうだ。

というわけで、アデル。
今さらながら実績と自分の知識や認識との乖離にめまいがしますが、オリジナル盤は4枚なのでさっさと全部聴きなさいよって話ですね。
中でもやはりこの1枚、というアルバムがあったら教えていただけたらと思います。

19
アデル 19
21
アデル 21
30

アデル 30

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聴いてない 第340回 ラモーンズ

当店は聴いてない音楽を量産し続ける無知無双BLOGですが、今日はその中でも相当に堅いバンド。
ラモーンズ、全く聴いてません。(毎度のこと)
知ってるのはバンド名と由来だけだが、なんでそこだけ知ってるのかもナゾ。
聴いてない度は硬派な1。

ニューヨークのパンクバンドだそうだが、どうも自分が聴いてきた80年代産業ロックとは異なる路線を進んでいたと思われる。
FMで彼らの曲を聴いたり録音したことは一度もないし、FMステーションやミュージックライフで記事を読んだ記憶もないからだ。
なので日本での人気や知名度がどれくらいなのかも全くわからない。

あらためてナゾのパンクバンド、ラモーンズについて調査してみた。
ラモーンズは1974年にニューヨークで結成されたパンクロックバンド。
活動期間中に大きな商業的成功を収めたことはないが、アメリカ国内のみならず世界各地でパンクムーブメントの確立に貢献し、このジャンルの先駆者としてパンク文化に大きな影響を与えたバンドとして知られている。

74年にジョン・カミングスとダグラス・コルヴィンがジェフリー・ハイマンを誘いバンドを結成。
ダグラスはポール・マッカートニーがシルバー・ビートルズ時代にポール・ラモンというペンネームを使っていたことに影響を受け、ディー・ディー・ラモーンと名乗った。
さらにメンバーを説得して以下のとおり全員ラモーンという名前にし、バンド名もラモーンズとした。
・ジョーイ・ラモーン(Vo) 本名:ジェフリー・ハイマン
・ジョニー・ラモーン(G) 本名:ジョン・カミングス
・ディー・ディー・ラモーン(B) 本名:ダグラス・コルヴィン
なので当然血縁関係はなく、全員でビジネス兄弟を名乗っただけ。
ポール・マッカートニーに許可は取ったんだろうか?

3人でバンドを結成はしたものの、ボーカルのつもりだったディー・ディーは歌いながらベースを弾けないことに気づいた。
もう少し早い段階で気づかなかったんだろうか・・
仕方なくジョーイがボーカルになったが、ジョーイもテンポの速い曲だと歌いながらドラムを叩けないことに気づき(気づけよ)、ドラマーをやめると言い出した。
後任ドラマーを探してオーディション中、たまたまスタジオに居合わせたジョーイの友人トーマス・エルデイがドラムを演奏したところ、誰よりも上手にできることが明らかになり、トミー・ラモーンとしてバンドに加入した。
なんかマンガみたいなラモーンズのスタートである。

バンドは76年4月にデビューアルバム「Ramones(ラモーンズの激情)」を発表した。
収録されている14曲はどれも短く、最も長い「I Don't Wanna Go Down to the Basement」でも2分半をかろうじて超える程度だった。
作詞作曲のクレジットはバンド全体で分け合っていたが、大半はディー・ディーが手掛けた。
デビューアルバムは評論家からは絶賛されたものの、商業的には成功せず、ビルボードのアルバムチャートで111位にとどまり、シングル「Blitzkrieg Bop」と「I Wanna Be Your Boyfriend」はチャート入りを逃した。
だがニューヨーク以外での公演は好評で、オハイオ州やイギリスでの短いツアーは大成功を収め、ロンドンではマーク・ボランとの共演も果たし、セックス・ピストルズやクラッシュのメンバーとも交流した。

77年1月にアルバム「Leave Home」をリリース。
タイトルはラモーンズが世界ツアーに出発するためにニューヨークを離れる様子を表している。
プロデューサーはジョン・ボンジョビの親類(又従兄弟)のトニー・ボンジョビ。
楽曲と構成は前作よりも洗練されていたが、全米チャートでは148位と厳しい成績に終わる。
一方イギリスでは45位と健闘し、シングル「Swallow My Pride」も全英36位を記録。
以降ラモーンズはアメリカよりイギリスで評価されていく。

前作からわずか10ヶ月後に3枚目アルバム「Rocket to Russia」を発表。
全米49位・全英60位を記録し、ローリングストーン誌は「今年最高のアメリカン・ロックンロール」と絶賛した。
シングル「Sheena Is a Punk Rocker」 は初の全米チャート入りとなり(最高81位)、「Rockaway Beach」は66位に達した。

順調かに思えたラモーンズだったが、ツアーに疲れたトミーは78年初頭にバンドを脱退。
ただしメンバーとは決裂ではなく、脱退後もラモーンズのレコードプロデューサーを続けた。
トミーの後任ドラマーとしてマーク・ベルが加入し、芸名をマーキー・ラモーンとした。

マーキーが参加した最初のアルバム「Road to Ruin」は78年5月にリリースされた。
このアルバムでは、アコースティックギターやメタル風ギターソロなどの新しいサウンドや、数曲のバラード、バンド初の3分を超える曲などが収録された。
当時のアメリカのメイン市場を意識しサウンド改革にも意欲的な作品だったが、期待どおりには売れず全米103位と前作よりも大幅に後退。(全英は32位)
トミーは「あのアルバムはアメリカでは大失敗だった。ラジオで流してもらうために意図的にそうしたのに」と回想している。
この失敗はメンバーの士気を下げ、その後のレコード制作やツアーにも悪影響を及ぼすことになる。

「Road to Ruin」の失敗を払拭すべく、バンドはコメディ映画「ロックンロール・ハイスクール」に出演。
ラモーンズファンの生徒会長で問題児の学生が、校長や教師と対決するという話で、ラモーンズのメンバーは本人役で登場。
映画は大ヒットというわけでもなかったようだが、この映画を見てラモーンズに興味を持ち接触してきたのが、あのフィル・スペクターだった。

フィル・スペクターはラモーンズ5枚目のアルバム「End of the Century」をプロデュースした。
実はフィルがラモーンズのプロデュースを申し出たのはこれが初めてではなく、77年の「Rocket to Russia」を制作する時にも名乗りをあげていた。(この時はバンド側がフィルの申し出を断っている)
満を持して登場したフィル・スペクターは、後に代名詞となる「ウォール・オブ・サウンド」でラモーンズの楽曲を演出しようとした。
同じパートをユニゾンで合奏し、高品質のオーバーダビングとエコーチェンバーを多用するという例の手法である。

だが、そのフィル・スペクターの完璧主義で傲慢で脅迫的なやり方は、ラモーンズのメンバーにとっては苦痛でしかなかったようだ。
フィルはレコーディング中にヘッドフォンで同じドラムの音を何時間も聴き続けたり、ジョニーに何度も同じパートを繰り返し演奏するよう強要した。
時にはディー・ディーやジョニーに銃を突きつけリフを繰り返し弾かせたという。
フィルさんは確かにプロデューサーとしての力量はすごかったが、人格的には相当ヤバイ人だったらしい。

「End of the Century」は全米44位・全英14位の成績を残すが、ジョニーは「あんなのはただの薄めたラモーンズだった。本物のラモーンズじゃない」と切り捨てている。
ロネッツの「Baby, I Love You」もストリングスを採り入れてカバーしているが、ジョニーは「自分は全然演奏してない。オーケストラに合わせて演奏するなんて意味がない」とフィルの手法を批判した。
でもこのカバーはシングルとしてリリースされ、イギリスで8位を記録するバンド最大のヒットとなっている。

80年には初来日し、東京・名古屋・京都・大阪・福岡でライブを行い、NHKのテレビ番組「レッツゴーヤング」にも出演している。

6枚目のアルバム「Pleasant Dreams」は81年7月にリリースされた。
フィル・スペクターに懲りたバンドはスティーブ・リリーホワイトにプロデュースを依頼するつもりだったが、レコード会社に却下され、10ccのグラハム・グールドマンがプロデュースした。
アルバムは全米58位まで上昇したが、全英ではチャートインせず、シングルも全くヒットしなかった。
この頃からジョニーとジョーイは音楽の方向性や同じ女性を巡って対立するようになる。

バンドは83年にアルバム「Subterranean Jungle」を発表する。
このアルバムはハードなパンク・ロック・スタイルへの回帰を特徴としており、その方向性はジョニー・ラモーンが推進した。
ジョニーは「ただ曲がラジオで流されることを心配するのをやめ、ひたすら集中して良いレコードを作る必要がある」と感じていた。
だがこの方針はリードシンガーのジョーイの意向とはズレており、ジョニーのハードロックな好みが優先された形となった。
二人の対立は深まり、またジョーイとマーキーはアルコール依存症、ディー・ディーはコカイン依存症になっており、メンバー間の不和はさらに深刻なものになった。
アルバムは全米83位と微妙な評価に終わり、マーキーはリリース後に解雇され、後任としてリッチー・ラモーン(本名リチャード・ラインハルト)が加入する。

84年のアルバム「Too Tough to Die」は、演奏前のカウントや短いアップテンポの曲を増やすなど、初期のサウンドに近いものへ転換した。
新加入リッチーの作品も1曲あり、評論家からは好評だったが、全米171位・全英63位と商業的にはやっぱり成功と言えない結果に終わる。

9枚目のアルバム「Animal Boy」は86年にリリースされた。
ディー・ディーが大半を作曲し、以前のアルバムにはなかった様々なジャンルや音楽的要素を採り入れ、シンセサイザーを多用したり、レーガン大統領を批判する曲を収録するなど、意欲的な内容。
だがメンバー間の軋轢はかなり悪化していた。
ディー・ディーは「ジョニーはジョーイの作ったいい曲にも『マイナーコードやリードギターは弾かない』などとあれこれ理由をつけて演奏したがらなかった。ヤツにはいつもストレスを感じてた」と語っている。
またジョーイはいつもリッチーに曲作りをするよう勧めていたが、リッチーの本音はあまり気が進まなかったらしい。

結局この居心地の悪さが、リッチーの脱退につながる。
翌87年、バンドはリッチーにとって最後のアルバムとなる「Halfway to Sanity」を制作した。
ほとんどの曲が3分以内で、全12曲でも30分に満たないというラモーンズらしい構成。
ただしサウンドは大きく変化しており、ハードロック、ヘヴィメタル、クロスオーバーなどの影響が見られる曲もあった。
「Go Lil' Camaro Go」ではジョーイがデボラ・ハリーとデュエットしている。

バンドはアルバムツアーに出るが、リッチーはギャラの配分を巡ってジョニーとモメて脱退。
ジョニーは代わりのドラマーを必死で探し、ブロンディのクレム・バークがエルヴィス・ラモーンとしてリッチーの代役を務めた。
しかしクレム・バークはライブで曲や拍を何度も間違えるなど、高校の文化祭みたいな散々な演奏をしてしまう。
ジョニーはこの時のクレムのドラミングを「大惨事」と表現している。
結局クレムはわずか2公演でやっぱり解雇となり、その後アルコール依存症を克服したマーキーが復帰する。

マーキー復帰後バンドは11枚目のスタジオアルバム「Brain Drain」のレコーディングを行った。
だがマーキーが戻ってもメンバーの仲はちっとも良くなく、ディー・ディーはもうこんなバンドやめてやると思い、一人で追加ボーカルのみを別録音した。
そんな状態の中アルバムは88年5月に完成。
シングル「Pet Sematary」はスティーブン・キング原作の同名映画のために書かれた曲で、ラモーンズ最大のヒット曲の一つとなり、全米オルタナチャートでは4位を記録した。
ジョーイ作の「Merry Christmas (I Don't Want to Fight Tonight)」は、後にスマッシュ・マウスやLAガンズ、チープ・トリックなど様々なアーチストによりカバーされている。
ただしアルバムの実績は全米122位・全英75位。
個人的にはジャケットが気持ち悪いんで売れ行きにも影響したんじゃないかと思うが・・・

ディー・ディーはアルバムのツアー終了後に宣言どおり脱退。
代わってクリストファー・ジョセフ・ワード(芸名C・J・ラモーン)が加入した。

バンドは長年契約してきたサイアー・レコードを離れ、ラジオアクティブ・レコードと新たに契約を結ぶ。
レーベル移籍後ラモーンズはすぐにアルバム「Mondo Bizarro(狂った世界)」の制作に取り掛かる。
シングル「Poison Heart」はビルボードのモダン・ロック・トラックチャート(って何?)で2位となった。
またドアーズのカバー「Take It as It Comes」も収録され、「Mondo Bizarro」は10万枚を売り上げてブラジルでゴールド認定を受けた。
ただし全米チャートでは190位。
評価はいろいろだけど、ラモーンズはとにかくアメリカ市場ではかなり苦戦していたようだ。

93年初めにはまた来日し、東京・川崎・名古屋・大阪で公演。
この年の暮れには、ストーンズの「Out of Time」やザ・フー「Substitute」、ボブ・ディラン「My Back Pages」やCCR「Have You Ever Seen the Rain?」など全曲カバーソングを集めたアルバム「Acid Eaters」を発表する。
アルバムはスコット・ハックウィズがプロデュースしたが、ラモーンズがスコットと仕事をしたのはこれが初めてだった。
そのためか制作過程は混乱の連続で、ジョニーによれば「スタジオワーク、アレンジ、トリックといろいろやってみたが、我々にとっては本当に異例のことだった」そうで、「スコットやメンバーからもやたら提案を受け、面倒だった。成功と失敗が入り混じる実験だった」と厳しい評価を述べた。
C・J・ラモーンは「あのアルバムは完全に金儲けのために作った」と発言している。
初のカバー集として話題性はあったものの、実績は全米179位に終わった。

本業でいまいち振るわなかったラモーンズは、同年テレビアニメシリーズ「ザ・シンプソンズ」に出演。
自分たちのアニメ版の音楽と声を担当した。

95年、ラモーンズは14枚目で最後のスタジオアルバム「¡Adios Amigos!(さらば友よ)」をリリースし、翌年解散すると発表した。
ディー・ディーはすでにバンドを脱退していたが、このアルバムには彼の作品が6曲もあり、またトム・ウェイツの「I Don't Want to Grow Up」とハートブレーカーズの「I Love You」のカバーも収録されていた。
だが売上は平凡で、ビルボードチャートの下位に2週間ランクインしただけで最高147位だった。

ラモーンズはアルバム発表後最終ツアーを行う。
96年8月ハリウッドでの最後の公演には元メンバーのディー・ディーが登場し、またモーターヘッドのレミー・キルミスター、パール・ジャムのエディ・ヴェダー、サウンドガーデンのクリス・コーネルとベン・シェパードなどのゲストも出演した。
ツアー終了後の99年7月、ディー・ディー、ジョニー、ジョーイ、トミー、マーキー、C・J・ラモーンはニューヨークのヴァージン・メガストアでサイン会に出席。
これがオリジナルメンバー4人が揃った最後の機会となった。
2001年4月15日にジョーイがリンパ腫により49年の生涯を閉じたためである。

この後相次いでオリジナルメンバーが亡くなる。
2002年3月、ラモーンズはロックの殿堂入りを果たし、式典にはディー・ディー、ジョニー、ジョーイ、トミー、マーキーが出演。
だが今度はこの式典が、ディー・ディーの公の場での最後の姿となった。
この年の6月、彼はヘロインの過剰摂取により死亡。
また前立腺癌と診断されていたジョニーは、2004年9月にロサンゼルスで亡くなった。
最後のオリジナルメンバーであるトミー・ラモーンは、2014年7月11日に胆管癌で亡くなっている。

メンバーの死によりラモーンズは消滅したが、特筆すべきはその影響である。
以下のミュージシャンがラモーンズの楽曲や演奏に影響を受けたことを公言している。
・ポール・シムノン(クラッシュ)
・グレッグ・ギン(ブラック・フラッグ)
・ジェロ・ビアフラとイースト・ベイ・レイ(デッド・ケネディーズ)
・マイク・ネス(ソーシャル・ディストーション)
・ブレット・グルウィッツ(バッド・レリジョン)
・ビリー・ジョー・アームストロングとトレ・クール(グリーン・デイ
・レミー・キルミスター(モーターヘッド)
・カーク・ハメット(メタリカ
・ポール・ディアノ(アイアン・メイデン
・ダフ・マッケイガン(ガンズ・アンド・ローゼズ
・デイブ・グロール(ニルヴァーナフー・ファイターズ
・エディ・ヴェダー(パール・ジャム)
・マイク・ポーノトイ(ドリーム・シアター

また他のアーチストやバンドによるトリビュート・アルバムも、判明しているだけで50枚近くあり、日本でも少年ナイフが2011年に「大阪ラモーンズ」というタイトルでリリースしているそうだ。

以上がラモーンズの概論である。
知ってた話は微塵もなし。
柏村武昭・小林克也・東郷かおる子の誰からもラモーンズを教わっていないし、姉や友人からラモーンズの話を聞いたこともない。(いつも人のせい)
ものすごく簡単に言うと「わずか3つのコードをハイテンポで演奏するというスタイルで、後に続くパンクやハードロック、メタルを含む多くのミュージシャンたちに多大な影響を与えた」という存在とのこと。

80年代は停滞してたのかと思っていたらそんなことは全然なく、アルバムが6枚も出ていた。
ただ曲やアルバムがチャートにばんばん登場するような産業ロックバンドではなかったため、自分みたいな極東の極貧素人学生リスナーにまでは情報が届かなかったようだ。(そうか?)
当時日本で誰がどういう評価をしてたんだろうか?

You Tubeでいくつか彼らの曲を聴いてみたが、やはり知っていた曲はなかった。
多くのミュージシャンに影響を与えたそうだが、そのミュージシャンたちの曲も全然聴いていないので、ラモーンズまでたどり着くこともなかったのだった。

というわけで、ラモーンズ。
いつにも増してハードルの高いイメージですが、自分が聴くとしたらデボラ・ハリーが参加してる「Halfway to Sanity」かなと勝手に考えています。
こんな素人でも聴きやすいアルバムがあったら教えていただけたらと思います。

Ramones
ラモーンズ Ramones
Halfway-to-sanity
ラモーンズ Halfway to Sanity
Osaka-ramones
少年ナイフ 大阪ラモーンズ

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聴いてない 第339回 ザ・ジェッツ

ナイン・インチ・ネイルズの回でも告白したが、今日採り上げるザ・ジェッツも「聴いてない上に勝手に方向性やイメージを勘違いしていたアーチスト」に該当する。
なぜ間違えたのか定かではないが、グループの概要からヒット曲に至るまで不正確な情報で記憶してしまっていた。
以下はその勝手で不正確なジェッツ情報である。
(誤)黒人の男女混声グループ
(正)トンガ系アメリカ人のファミリーグループ
(誤)70年代にはすでにデビューしていた
(正)デビューは1985年
(誤)ヒット曲「You Got It All」はオールディーズのカバー
(正)ヒット曲「You Got It All」はルパート・ホルムズの作品で85年リリース

自分の場合勘違いはよくあるが(言い訳)、ジェッツに関してはなんか非常にタチの悪い具体的な勘違いである。
知ったかぶりしてFROCKLとかでジェッツ誤情報をまき散らさないでホントよかったと思う。
「You Got It All」しか聴いてないので聴いてない度は2。
この曲がルパート・ホルムズの作品だと今回初めて知ったという有様である。

贖罪の意味も込めてザ・ジェッツの正確な情報を綿密に調査。
ザ・ジェッツはミネソタ州出身のトンガ系アメリカ人のファミリーバンド。
ウルフグラム家の兄弟姉妹8人(リロイ、エディ、ユージン、ハイニ、ルディ、キャシー、エリザベス、モアナ)で構成され、77年にファミリーバンドとして活動を開始した。
兄弟全員でグループ結成・・かと思ったら、17人兄弟の中で8人が参加だそうだ。
残りの兄弟であともう1グループできそう・・
ちなみにイギリスのロカビリーバンドにもザ・ジェッツというグループが存在するそうです。

で、兄弟グループのザ・ジェッツ。
父親はポリネシアンダンサー、母は俳優や音楽活動をしており、家族でファミリーバンドを結成した。
当初はハワイアンやポリネシア文化的なパフォーマンスをやっていたが、興行場所のホテルからいわゆるヒットチャート的な流行歌をやるよう指示され、方向転換。
子供たちだけでバンドを組み、名前はテレビのブランド名にちなんでクエーサーとした。

その後マネージャーの発案でエルトン・ジョンの曲「Bennie And The Jets」からザ・ジェッツに改名。
ジェッツはミネアポリスのナイトクラブやバーで2年ほど活動し、少しずつ知名度が上がってきた頃、たまたまモータウンで働いていた人に発見され、レコードデビューのチャンスをつかむことになる。

85年10月14日にMCAレコードからデビューアルバム「The Jets」がリリースされた。
ファーストシングル「Curiosity」は、ビルボードR&Bシングルチャートで8位に達するヒットとなった。
セカンドシングル「Crush on You」はビルボードホット100で最高3位、R&Bシングルチャートで4位まで上昇。
続く「Private Number」は、ホット100で47位、R&Bチャートで28位だったが、最後のシングル「You Got It All」が、ホット100で3位、R&Bチャートで2位、アダルトコンテンポラリーチャートで1位という快挙を記録した。
要するにデビューアルバムからいきなり4曲がチャートの50位以内にランクインするというびっくり仰天(表現が昭和)な人たちだったのだ。
アルバム「The Jets」も全米チャート21位を記録し、プラチナ認定を受けている。

なおデビュー当時、兄弟はまだ曲制作には参加しておらず、アルバム収録曲の大半はプロデューサーであるジェリー・ナイトとアーロン・ジグマンの作品だった。
冒頭述べたとおり(知らなかったけど)、「You Got It All」がルパート・ホルムズの作品で、また「La-La (Means I Love You)」はフィラデルフィア・ソウルのボーカルグループ「デルフォニックス」のカバーである。

87年に2枚目のスタジオ盤「Magic」を発表。
シングル「Cross My Broken Heart」は全米7位を記録し、エディ・マーフィー主演の映画「ビバリーヒルズ・コップ2」のサウンドトラックにも収録された。
他にも「Make It Real」「Rocket 2 U」がトップ10入りするヒットとなった。
またチャートインはしなかったが、「Anytime」という曲はルパート・ホルムズの作品である。
なおユージンはこのアルバムには参加しておらず、メンバーは7人となっている。

順調だったジェッツだが、89年のアルバム「Believe」から実績は下降し始め、全米107位と大幅に後退。
シングル「You Better Dance」「The Same Love」も残念ながら50位にも届かず、ルパート・ホルムズの作品「Leave It to Me」はシングルカットもされなかった。
低迷の理由はいろいろあっただろうけど、背景としてグランジの台頭は間違いなく影響したと思われる。
モアナはインタビューで「90年代初頭には、ジェッツを雇おうとする人はもういなかった。でもジェッツの音楽性を刷新し、次々と現れる新しいグループと競争するのは困難だった」と語っている。
で、ジェッツはこの後90年に出したベストアルバムを最後にMCAレーベルを離れることになる。

バンドは自身の独立レーベルであるリバティパークレコードを設立。
95年にアルバム「Love People」をリリースするが、あまり話題にならずチャートインもしなかった。
このアルバムではルディがバンドを離れ、アーロン・ワテネという兄弟以外のメンバーが初めて参加している。
以降ジェッツはアルバムをリリースする度にレーベルを変えていく。

97年にシャドウ・マウンテン・レコードからアルバム「Love Will Lead the Way」を発表。
「Love People」を再収録したり、ユートピアの「Love Is the Answer」のカバーも入れてみたが、やはりよい成績は残せなかった。
なおこの年にはブリトニー・スピアーズが「You Got It All」のカバーを録音している。

翌98年には過去の曲の再録+新曲3曲という企画盤「Then & Now」を発売。
メンバーはリロイ、ハイニ、エリザベス、モアナの4兄弟だったが、弟妹のドニー、マリ、ミカ、ナタリアがバックコーラスで参加。
だがせっかく過去の大ヒット曲を収録したにもかかわらず、5万枚しか売れなかった。

21世紀に入るとジェッツとしての活動は停滞気味となる。
2001年と2004年にベスト盤、2006年にアルバム「Versatility」、2007年にライブ盤をリリースするが、バンドはほぼ解散状態にあった。

モアナによれば、解散の原因は「家族よりも音楽業界とビジネスを優先していたこと」だそうだ。
ジェッツは自分たちが犠牲にされ使い捨てにされていると感じ、現実に戻らざるを得なくなり、解散に至ったとのこと。
ジェッツは兄弟の上半分の8人で、その下にまだ9人の幼い兄弟がいたので、弟妹たちのためにジェッツが働かなければならないというプレッシャーは相当なものだったらしい。
ロックバンドにありがちな意見の衝突とか楽屋で殴り合いとかマネージャーの持ち逃げとかとは少し次元が異なる、独特な家庭環境も大きく影響していたと思われる。

再結成は2009年10月。
ハワイのホノルルで行われたMCAレコードのフェスティバルで、ジェッツはオリジナルメンバー7人で登場。
レディ・フォー・ザ・ワールドやアン・ヴォーグらとともにステージに立った。
2014年には過去のヒット曲+新曲6曲のアルバム「Reunited」を発表。

再結成後は全米各地でライブを行うなど円満に見えた兄弟だが、人気が出てくるとやっぱりジェッツを昔の悪いやり方でコントロールしようとするスジの良くない人たちがいたらしい。
デビューから5年ほどの間に全米芸能界のダークな面もイヤというほど見てきたはずのジェッツだが、再結成後もそれを教訓とすることはできなかったようだ。
マネジメントを巡って兄弟の仲は二分され、ジェッツの権利や金銭について兄弟間の訴訟にまで発展。
ただ最終的には兄弟は和解し、互いの方向性や意志を尊重しあうようになった。

現在ジェッツは2つに分裂しており、エディ、キャシー、エリザベス、モアナがジェッツとして活動。
リロイ、ハイニ、ルディが「ザ・ジェッツ・オリジナル・ファミリーバンド」という名で活動しているそうだ。
深刻な決裂ではなさそうだが、元通り再集結も難しそうという状態とのこと。

以上がザ・ジェッツの正しい概要と歴史である。
そもそも知識が大幅に間違っていたので、全て初めて知る話だった。
「You Got It All」がルパート・ホルムズの作品だったことも知らなかった。
ルパート・ホルムズはジェッツのデビューから3枚連続でアルバムに曲を提供しているが、もしかしてこれも80年代洋楽ファンにとってはサービス問題なのだろうか・・?
全然知らなかった・・・

オリジナルメンバーの中で一番若かったモアナ・ウルフグラムは、デビュー当時まだ12歳。
最年長のリロイでも20歳だったので、大半が未成年の子供バンドだった。
稼げるジェッツに目を付けた悪いヤツらがたくさん登場したのだろうが、それでも子供だった兄弟はやはり周りのオトナの言うとおりにせざるを得なかったのだろう。
才能に満ちた仲良し兄弟だったはずが、衝突や訴訟や分裂といった悲しい事態にまで発展したのは気の毒な話である。

というわけで、誤解と反省のグループ、ザ・ジェッツ。
日本で当時どれだけの人たちが聴いていたのか見当もつきませんが、聴くなら当然デビューアルバムでしょうね。
後はルパート・ホルムズの作品も追ってみるのもアリかと思いますが、皆さんの鑑賞履歴も教えていただけたらと思います。

The_jets_album
ザ・ジェッツ Jets
Jets-magic
ザ・ジェッツ Magic
Jet
アースジェット 450mL

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聴いてみた 第187回 ハート

先日大成功に終わったオアシスの日本公演。
あたしは行きませんでしたが、ネットでもマスコミでも夢の再結成をこぞって絶賛するという幸せな展開でなによりです。

だけど。
自分が「Morning Glory?」「Be Here Now」などを喜んで聴いていた30年くらい前は、カート・コバーンの死後も引き続きグランジの暗さがまだしばらく支持されており、高名な音楽評論家ほど「オアシスなんか聴いてるヤツはダサい」「あんなのはビートルズのモノマネ」などといった論調で音楽雑誌などに批判めいた文章を寄せていたのだ(と思う)。
それが30年経って兄弟殴り合わずにホントに日本に来たら、まあこの盛り上がりよう。
ダサいとか言われてたけど、やっぱみんなオアシス好きだったんじゃねえかよ・・・
再結成のニュースをぼんやり眺めながら、そんな歪んだ感想を持ちました。

そんな曲がった自分が今日聴いてみたのはハートのデビューアルバム「Dreamboat Annie」。
相変わらずヒドいフリでオアシスとは何の関係もありませんが、ハートの70年代の作品を初めて聴いてみました。

Dreamboat-annie

鑑賞前に心の友ウィキペディアを中心にハート結成の経緯をおさらい。
ロジャー・フィッシャー(G)とスティーブ・フォッセン(B)が、ドン・ウィルヘルム(K・Vo)とレイ・シェーファー(D)と共に67年頃に作ったジ・アーミーがハートの源流である。
バンドはその後メンバー交代を機にホーカス・ポーカスと改名。
さらに70年から3年ほどホワイト・ハートを名乗り、この間にロジャーの弟マイクとアン・ウィルソンが出会う。
アンとブライアン・ジョンストン(D)、ジョン・ハンナ(K)がカナダでバンドに加入し、ハートとして活動開始。
74年にはアンの妹ナンシーも加わり、バンクーバーを拠点にライブなどを行うようになる。

75年に最初のシングル「How Deep It Goes」を発表するが、あまり注目されなかった。
続くシングル「Magic Man」「Crazy On You」がモントリオールのFM局で流れ始めると人気に火が着き、9月にアルバム「Dreamboat Annie」をリリースする。
直後の10月に行われたロッド・スチュワートのモントリオール公演で、ハートはオープニングアクトに抜擢される。
アルバムは発売後数か月でカナダ全土で3万枚を売り上げ、最終的には20万枚に達しダブル・プラチナに認定された。
売上はゆるやかに上昇したため、カナダのアルバム・チャートにランクインしたのは1年後の76年9月で、10月に最高20位を記録した。(全米は7位)

ハートになる前にはそれなりに下積みはあったものの、新人バンドとしては順調なスタートである。
ウィルソン姉妹はお飾り的存在なのかと思ったら、収録曲のほとんどを姉妹が作っていた。
リーダーはロジャーさんだったかもしれないが、初めから姉妹を中心に活動してきたのは間違いないようだ。

80年代復活後のハートとはおそらくかなり異なるであろう原点アルバム「Dreamboat Annie」。
果たして80年代にまみれた浅薄な自分のハートにはどう響くのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

 1. Magic Man
うなるギターでスタート。
この曲はライブ音源で聴いたことがあったはずだが、あまり覚えていない。
ギターが目立つサウンドは案外シンプル。
アンが当時つきあっていたマイクのことを想って書いた曲とのこと。

2. Dreamboat Annie (Fantasy Child)
アルバムの主題曲で邦題は「夢見るアニー」。
同じ曲が3パターンあるが、これは一番短いバージョン。

3. Crazy On You
これもライブバージョンで聴いている。
イントロはアコースティックギターだが全体はスピーディーなロックで、どこかフォークの香りもする。

4. Soul Of The Sea
波の音とともに始まる静かな曲で、どこかツェッペリンのような雰囲気。
中盤で曲調がプログレっぽく変わり、組曲風になっているが、やや難解な印象。

5. Dreamboat Annie
前の曲につながる形で始まる。
これが3パターンのうちの本編という感じで、バンジョーなどいろいろな楽器の音がする。

6. White Lighting & Wine
ブルース色の辛口なメロディ。
すでにアンのボーカルは確立されており、この曲で一番激しく叫んで歌っている。
どんな曲でもこなせる非凡なシンガーであることがよくわかる。

7. (Love Me Like Music) I'll Be Your Song
比較的おだやかなナンバーで、これもどこかフォークっぽい音がする。
姉妹のコーラスもこの曲が一番よく聞こえる。

8. Sing Child
再びヘビーで重いブルースロック。
途中フルートが混じったりジミー・ペイジ風のギターソロがあったりの構成。
フルートはアンが吹いているそうだ。

9. How Deep It Goes
ハートとしての最初のシングルで、静かに始まる抑えめの曲。
ストリングスやピアノ、フルートの音もするクラシカルなサウンド。

10. Dreamboat Annie (Reprise)
ラストは再び「夢見るアニー」。
このバージョンが一番壮大に聞こえ、エンディングにふさわしい仕上がりとなっている。

聴き終えた。
ロジャーのギターとアンのボーカルが中心であることが伝わる楽曲とサウンドである。
ブルース色の強いロックと、フォーク調のアコースティックなバラードが交互に流れ、多面的で緻密な構成となっている。
若いバンドにありがちな不安定さもなく、完成度の高いデビューアルバムだと思う。

ただし。
ハートを聴いてきた誰もが感じるところだろうが、80年代の復活後のハートとはかなり違う。
全体的に辛口で暗いメロディが多く、自分の好みからもやや遠い。
若い頃に聴いていたらおそらくローテーション入りは難しかっただろう・・というのが正直な感想になる。

元々姉妹がやりたかったのがこの路線で、そのまま80年代に突入してなかなか受けなかったので、プロデューサーにロン・ネヴィソンを起用し、外部のソングライターが作った歌で大ヒットしてバンドは復活・・というのが、よく知られているハートのサクセスストーリー。
復活後は自分みたいな極東の素人リスナーでも聴いたくらい売れたのでよかったじゃんとも思うが、売れる一方でロン・ネヴィソンが推進する産業ロック路線には納得できない面もあった、とアンは発言している。
スティクスジャーニーイエスなど、路線を変更して80年代にめでたく売れたバンドはおそらくどこも同じような話があったと思われる。

ジャケットはハートマークを真ん中に置いた姉妹の背中合わせの写真。
なんとなく昔の少女漫画の付録みたいなかわいらしい雰囲気だが、中身の楽曲やサウンドとはあまり合っていないような気はする。

というわけで、ハートの「Dreamboat Annie」。
秀逸で精緻な楽曲と歌唱・演奏ではありましたが、やはり自分が好きなハートのサウンドとは違ってやや難しい印象でした。
ジャーニーのデビューアルバムを聴いた時の感覚に近いです。
ただ70年代ハートの学習はもう少し必要と感じてはいますので、次の「Little Queen」も聴いてみようと思います。

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ハート Dreamboat Annie
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ハート Little Queen
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猪木啓介 兄 私だけが知るアントニオ猪木

 

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聴いてない 第338回 ポーラ・アブドゥル

毎回聴いてないアーチスト量産型のお約束珍奇BLOGですが、今日のお題ポーラ・アブドゥルもすでに壊滅状態。
そもそもどんな人なのかもよくわかっておらず、時々テイラー・デインと混同したりする有様です。
テイラー・デインも全然聴いてませんが・・・

あらためてポーラ・アブドゥル、全然聴いてません。
88年の「Forever Your Girl」、91年の「Will You Marry Me?」だけ聴いてるので、聴いてない度は慟哭の3。
どちらもMTVの音声をカセットテープに録音したのだが、映像は全く覚えていない。
正直聴いた2曲は悪くはないけど他の曲への鑑賞意欲もあまりなく、情報も仕入れることなく30年以上経過。
日本での人気や知名度もさっぱりわからないが、調べたら全米No.1ヒットシングルを6曲も出しており、本国アメリカでは歌手以外の活躍でも有名な人だそうだ。
知ってました?
以下はネットで調べたポーラ・アブドゥルの経歴と実績である。

ポーラ・ジュリー・アブドゥルは1962年6月、カリフォルニア州サンフェルナンドで生まれた。
父親はシリア系ユダヤ人、母親はロシアとウクライナにルーツを持つカナダ出身のユダヤ人である。
幼い頃からバレエやジャズダンスを習い、高校ではチアリーダー部に所属。
映画「雨に唄えば」のジーン・ケリーに影響を受け、将来はショービジネス界で活躍したいと思うようになった。

大学生の時、ロサンゼルスのバスケットボールチーム、レイカーズのチアリーディングチームに選ばれた。
その後ポーラはチームの中心的存在となり、リーダー役や振付担当となる。
この経験がその後のキャリアにも活かされることになったようだ。

プロとしての最初の仕事は振付師だった。
レイカーズの試合を観戦していたジャクソンズのバックバンドメンバーは、ポーラ・アブドゥルにジャクソンズのシングル曲「Torture」のミュージック・ビデオの振り付け担当を依頼。
ポーラはジャクソンズにダンスを教えるというものすごいプレッシャーの中、「どうやって乗り切ったのかよく覚えていない」と回想している。
「Torture」の振り付けの成功により、ポーラはミュージック・ビデオの振付師としてのキャリアをスタートさせた。

その後ジャネット・ジャクソンの「What Have You Done for Me Lately」「Nasty」「When I Think of You」「Control」の振り付けを手掛け、「What Have You Done for Me Lately」では自身もジャネットの友人役としてビデオに出演している。
またジョージ・マイケル、 ZZトップデュラン・デュランなどの振り付けも担当し、プロモ・ビデオの流行にも乗って活動を広げていった。

振付師として注目されたポーラだったが、実は本人は歌手になりたかった。
そこでポーラは自腹で歌のデモテープを制作し、ジャネット・ジャクソンのマーケティングを担当していたジェフ・エアロフに売り込む。
ジェフはポーラのダンスや振り付けの実力は認めていたが、歌は未熟と判断し、周囲の様々な関係者と協力してポーラの歌唱力を鍛えたそうだ。

こうしてポーラ・アブドゥルは、ジェフ・エアロフによって新しく設立されたヴァージン・レコード・アメリカと契約。
88年にデビューアルバム「Forever Your Girl」を発表すると、全米ビルボード200アルバムチャートでいきなり1位を獲得した。
アルバムは最終的にプラチナ認定を受け、世界中で1200万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。
また収録シングル「Straight Up」「Forever Your Girl」「Cold Hearted」「Opposites Attract」の4曲が全米1位となり、女性歌手のデビューアルバムとしては初の快挙となった。

ポーラは2枚目のアルバム「Spellbound」でも再び全米1位と成功を収め、全世界で700万枚を売り上げた。
シングル「Rush Rush」「The Promise of a New Day」も1位を記録。
なお「Rush Rush」のミュージックビデオには映画「理由なき反抗」をモチーフにした作品があり、キアヌ・リーブスがジェームズ・ディーン役で出演している。
また「Will You Marry Me?」にはスティービー・ワンダーがハーモニカでゲスト参加。
91年、ポーラはダイエットコークの人気コマーシャルに出演し、アイドルである若き日のジーン・ケリーのデジタル画像と一緒に踊った。
92年には日本を含む初のワールドツアーが行われ、大阪・横浜・東京での公演も実現。

人気実績ともに絶頂にあったポーラ・アブドゥルだが、この後健康面や私生活でいろいろなトラブルに見舞われる。
だがその主張には疑わしいという意見もあるようだ。
本人によれば、92年頃ツアー中にアイオワ州で飛行機墜落事故に遭い、15回もの頸椎手術を受けたと述べている。
しかし全米の航空事故の調査を任務とする国家運輸安全委員会には、ポーラの説明に合致する事故の記録がないとのこと。
この事故については、ポーラは今も自分の主張を曲げていない。

さらに彼女は10代の頃に過食症を発症し、スターになってから症状が悪化し治療が必要になったと明かす。
また17歳の時に「チアリーディング中の事故に遭い、慢性的な痛みを引き起こす反射性交感神経性ジストロフィーと診断された」とも述べている。
これも一部のマスコミなどからは「薬物使用の疑惑隠しではないか」などと言われているようだ。
ポーラの不安定な部分は、その後も度々世間を賑わすこととなる。

ポーラは92年に俳優のエミリオ・エステベスと結婚するが、94年には離婚してしまう。
96年には服飾デザイナーのブラッド・ベッカーマンと結婚したが、1年半ほどでまた離婚している。

95年6月に再起をかけてアルバム「Head over Heels」を発表。
ポップとR&Bの要素を採り入れ、全米最高18位を記録したが、以前ほどの実績は残せなかった。
結果的に歌手としてのオリジナルアルバムはこの作品で終了となる。
なおこの年の11月には来日公演が行われ、有明コロシアムで歌っている。

その後引退してオクラホマの農場でのんびり過ごす・・といった状況にはならず、かなりドラマチックな展開となる。
新曲発表はなくなったが、2000年にはベストアルバム「Paula Abdul: Greatest Hits」をリリース。
ダンサーとしてエクササイズDVDを発表したり、映画に出演するなどの活動は続いた。

転機となったのは2002年。
ポーラはテレビの人気オーディション番組「アメリカン・アイドル」の審査員の1人として出演し始める。
彼女は振付師としての実績を活かし、出場者のパフォーマンスの評価に的確で親切な評価やアドバイスをし、他の無愛想な審査員と比べて高い評判を得た。

この番組出演のおかげでポーラの人気が復活し、チアリーディング番組の司会やダンス指導などの仕事をするようになる。
2008年には久々の新曲「Dance Like There's No Tomorrow」を発表し、スーパーボウルの試合前のショーでこの曲を披露した。
ポーラ人気もあって「アメリカン・アイドル」は2016年まで15年間も続き、ポーラは2009年頃まで審査員を務めた。

ただ人気の一方でトラブルや疑惑の話も多かったらしい。
2004年にロサンゼルスでひき逃げ事故を起こしたり、テレビ番組出演中の奇行やインタビュー中に呂律が回らなくなる様子などがネット上で拡散され、その都度薬物使用が疑われた。(本人は否定)
またこれは本人に非はないようだが、2008年にはポーラの自宅前で熱狂的な女性ファンが薬物過剰摂取により車中で死亡する事件が発生。
女性は「アメリカン・アイドル」のオーディションで落選しており、ポーラへのストーカー行為もあったそうだ。

その後は主にダンスオーディション番組の審査員や振付師、俳優として活動。
2016年には歌手として25年ぶりのツアーも行い、2018年にはデビュー30周年記念ツアーが行われた。
2023年、ブロードウェイ・ミュージカル「How to Dance in Ohio」の製作チームに参加。
2024年にはニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックの10年ぶりのツアーでヘッドライナーを務める。
今もテレビや映画に出演し、その多くは本人役だそうだ。

以上がポーラ・アブドゥルの経歴である。
知ってた話は微塵もなし。
オリジナル盤が3枚だけ(しかも2枚は全米No.1)というのも初めて知った。
アルバム「Forever Your Girl」のジャケットはかすかに覚えているが・・・
日本では誰でも知ってる大スターというわけではない(と思う)ので、本国と日本での人気や知名度がかなり乖離している人だと思われる。
ヒットを飛ばしていた時は、個人的にはFMエアチェックをしなくなり、FMステーションやミュージックライフ購読もやめた頃なので、ポーラ・アブドゥルに限らずアーチスト情報を仕入れなくなった時期なのだ。(言い訳)

「Forever Your Girl」はジャネット・ジャクソンが歌っても違和感のない楽曲だと思う。
ジャネット・ジャクソンも全然聴いてないので説得力は全くないけど、軽快なリズムやきらびやかなサウンドは、ジャネットが歌って踊ってもヒットしたんじゃないかなと思う。(適当)

というわけで、ポーラ・アブドゥル。
オリジナルアルバムは3枚なので全盤制覇も難しくはなさそうですが、聴くならまずは最初で最大のヒットアルバム「Forever Your Girl」でしょうね。
聴いていた方からのご感想をうかがってみたいと思います。

Forever-your-girl
ポーラ・アブドゥル Forever Your Girl
Spellbound
ポーラ・アブドゥルSpellbound
Photo_20251018084101

ブッチャー: 幸福な流血

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聴いてみた 第186回 オアシス その2

今日聴いてみたのは、いよいよ来日公演が間近にせまったオアシス。(行かないけど)
彼らの現時点で最新・最後のスタジオ盤「Dig Out Your Soul」を聴いてみました。
まだこんなの聴いてなかったヤツが日本にもおるんかと言われるほどの名盤である。(適当)

Dig-out-your-soul_large

アルバムの基礎情報は以下のとおり。
「Dig Out Your Soul」は、オアシス7枚目のスタジオアルバム。
2007年8月から12月にかけてロンドンのアビー・ロード・スタジオで録音され、プロデュースは前作に続いてデイブ・サーディが担当。
なおリンゴ・スターの息子ザック・スターキーは2004年からオアシスのツアーゲストメンバーとして参加し、このアルバムでもドラムを担当している。
一時は「正式にオアシス加入か」などとも伝えられたが、最終的にザックはザ・フーの正式なメンバーとしての活動を選択した。
ツアーではアイシクル・ワークスやザ・ラージでドラマーを務めたクリス・シャーロックがザックの代役で演奏したが、クリスもオアシスに加入することはなかった。

アルバムが2008年10月に発売されると、多くの音楽評論家から「バンド史上最強のアルバム」「『Morning Glory 』と並ぶ作品を作った」「無駄を削ぎ落としたロックのルーツに立ち返った」などと高評価を受けた。
チャートにもその評価は反映され、全英ではめでたく1位、全米も5位を獲得。
1年半に及ぶツアーも開始された。
アルバムそのものの概要はこんな感じである。

だが。
皆さんよくご存じのとおり、このアルバムはバンドにとって終わりの始まり、終末への序曲、一人民族大移動、戦いのワンダーランドの幕開けでもあったのだ。
アルバムツアー期間中、ギャラガー兄弟にはトラブルが頻発する。
2008年9月、トロントで演奏中に観客の一人がステージに乱入し、ノエルを背後から突き倒すという事件が発生。
倒されたノエルは肋骨を折り、その後いくつかの公演をキャンセルするはめになった。

翌年8月22日、バンドはイギリスのウェストン・パークでライブを行う。
だが今度はリアムの体調不良により、翌日以降予定されていた公演をキャンセル。
この時兄弟は激しい口論となり、1週間後に予定されていたパリ公演も中止となった。
直後にノエルはオアシス脱退を発表。
世界中の誰もが「またケンカが始まったよ」と本気にしなかったが、残ったメンバーはビーディ・アイと名乗ってバンドを再開、ノエルもソロとして活動を開始。
以来15年以上にわたり兄弟の断絶が続いたのだった。

作ってる間はまさか本人たちも分裂するとは思ってなかったはずの「Dig Out Your Soul」。
原点回帰なサウンドは果たして自分の耳にはどう聞こえるのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1. Bag It Up
2. The Turning
3. Waiting For The Rapture
4. The Shock Of The Lightning
5. I'm Outta Time
6. (Get Off Your) High Horse Lady
7. Falling Down
8. To Be Where There's Life
9. Ain't Got Nothin'
10. The Nature Of Reality
11. Soldier On
12.I Believe in All
13.The Turning(Alt Version # 4)

ラストの2曲は日本盤のみのボーナストラックである。

聴き終えた。
まず感じたのは全般的に曲調が重く暗い点。
もちろん彼ら本来のワイルドなロックではあるが、気分が高揚したりリズムに乗って体が揺れたり・・といった感覚とは少し違う。
リアムが歌う曲だけでなく、ノエルがボーカルでも太く重い曲が多く、二人の声の差はむしろ小さくなっている。
もちろん「The Shock Of The Lightning」などスピーディーで心地よいロックもあるが、そういう曲は思ったより少ない。

「初期のオアシスに近い」「原点回帰」といった評価があるようだが、確かに当たってはいると感じる。
ヤンチャで野蛮なサウンドと野太いリアムのやさぐれボーカルは健在なので、じゃあいいことじゃん・・となるはずなのだが、自分の好きな初期のオアシスとはどこか違うのだ。

全体を聴いて気づいたが、このアルバムにはバラード曲がほとんどない。
「Don’t Look Back in Anger」「Wonderwall」「Whatever」「Stand by Me」といった、後世に歌い継がれるような名曲に並ぶようなバラードが、このアルバムには入っていないのだ。
「I'm Outta Time」が唯一のバラードで、悪くはないがやはり過去の名曲と比べると弱い。

前半はそのワイルドな曲が多いが、後半には多少大人しい?曲がある。
「(Get Off Your) High Horse Lady」はテンポを落とした曲だが、終始暗い雰囲気で、ボーカルもノエルの良さはあまり感じない。
「Falling Down」は静かに始まり中盤からは力強く歌うノエルの曲。
これも悪くはないけどやはり暗くて会場を沸かすような曲とも違う。

このアルバムではバンドの民主化・分業が進んでいて、ギャラガー兄弟以外のメンバーが作った曲がある。
「To Be Where There's Life」はゲム・アーチャーの作品、「The Nature Of Reality」がアンディ・ベルの作品だそうだが、聴いてわかるほど差があるわけでもない。
どちらもリアムが歌っておりオアシスの楽曲として機能はしているので、試みとしてはこの分業も悪くないと思う。

また「The Turning」のエンディングにビートルズの「Dear Prudence」の一部をサンプリングしたり、「I'm Outta Time」ではラストにジョン・レノンの声を入れてみたりといった、お得意のビートルズ趣味はこのアルバムにもちゃんと仕込まれている。
そういう意味では相変わらずなオアシスである。

というわけで、「Dig Out Your Soul」。
「こりゃあいいや」という朗らかな感想は浮かんで来ず、どちらかというと残念な感覚が残りました。
「Standing on the Shoulder of Giants」を聴いた時の違和感にも近い心境です。
本国での再結成ツアーのセットリストには、このアルバムから選ばれた曲はほとんどないそうなので、まあそうなんだろうなとも思いました。
もう少し聴くとまた違った感想になるかもしれませんが、やはり「Morning Glory?」を超える作品は出ていなかったんだという確認になってしまった、というのが正直な気持ちです。

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オアシス Dig Out Your Soul
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オアシス Don't Believe the Truth
Oasis2025
CROSSBEAT Special Edition オアシス 2025

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聴いてない 第337回 ナイン・インチ・ネイルズ

世の中には聴いてない上に勝手に方向性やイメージを勘違いしていたアーチストというのが相当数存在するが、今日採り上げるナイン・インチ・ネイルズもそんなところ。
まず1曲も聴いてないので、聴いてない度は堅固の1。
それだけでも十分失礼な話だが、実はてっきりメタルで派手な装飾をまとったビジュアル重視なバンドだと勘違いしていた。
勘違いしていた理由は不明。
たぶん「9インチもある長い爪」という恐ろしい名前から、勝手にメタルっぽい人たちとイメージしてしまったものと思われる。
改めて調査してみると、その実態は持っていたイメージとは大幅にかけ離れていた。

ナイン・インチ・ネイルズはトレント・レズナーによる音楽プロジェクトである。
日本語ウィキペディアによれば、バンドの体裁はとっているが、基本的にはトレント個人によるプロジェクトであり、アルバムごとにメンバーは異なるそうだ。
ただ英語版ウィキペディアを翻訳すると「1988年にクリーブランドで結成されたアメリカのインダストリアル・ロックバンドである」と書いてある。
どっちが正確なのかよくわからないが、実態は「トレント・レズナーさんのワンマンバンド」でいいような気がする。

で、インダストリアル・ロックって何?
これもいまいちよくわからないが、特徴として以下が挙げられるそうだ。
・繰り返される不協和音
・怒りと虚無の叫び、冷たい世界観を表現した難解な歌詞
・濁った声でうなる耳障りなボーカル
・金属が軋むようなノイズや暴力的なドラムマシンで作られる楽曲
・ディストーションのかかったシンセサイザーサウンド
・疾風怒濤・混沌・反体制といったキーワードでくくられる音楽ジャンル

自分が聴けそうな生やさしい要素は一切見当たらないが・・・
このジャンルで必ず名前が挙がるのがマリリン・マンソンとトレント・レズナーとのこと。

トレント・レズナーは1965年5月、ペンシルバニア州ニューキャッスルに生まれた。
彼はドイツとアイルランドの血を引いており、曽祖父ジョージ・レズナーは1884年に空調機器製造メーカーのレズナー社を設立した名士で、トレント君は裕福な名門家庭の出身ということになる。
だがトレントが6歳のときに両親が離婚し、姉は母親に引き取られ、弟トレントは母方の祖父母と一緒に暮らした。
本来ならもっと恵まれた家庭に育つはずだったという微妙な境遇は、その後の人生に大きく影響しているようだ。

トレント・レズナーは12歳でピアノを始め、早くから音楽の才能を発揮した。
初めて見たコンサートは76年のイーグルスのコンサートで、「いつかあのステージに立ってみたい」と思ったそうだ。
中学・高校ではジャズバンドやマーチングバンドに所属し、演劇にも熱中。
大学ではコンピュータ工学を専攻したが、音楽の道を志すため1年で中退した。

クリーブランドでいくつかのバンドにキーボード奏者として参加したがどれも長続きせず、その後スタジオで清掃員の仕事をしながら空き時間に自分の曲のデモを録音するということを繰り返していた。
自分の曲を思い通りに表現できるメンバーを見つけることができず、プリンスに感化されてドラム以外の楽器を全て自分で演奏し、ドラムは打ち込みで録音した。

こうしてほぼ一人で制作したデモ音源は複数のレーベルから好意的に受け止められ、トレント・レズナーはTVTレコードと契約。
デモから選りすぐりの曲が集められ、ナイン・インチ・ネイルズとして最初のスタジオアルバム「Pretty Hate Machine」として89年10月にリリースされた。
なお「Pretty Hate Machine」は2010年にリマスター版がリリースされ、クイーンの「Get Down, Make Love」のカバーが追加収録されている。
トレントは大きな影響を受けた音楽としてデペッシュ・モードのアルバム「Black Celebration」を挙げ、またライナーノーツにはサンプリングされたアーティストとしてプリンス、ジェーンズ・アディクション、パブリック・エネミーの名前が記載されている。
「Pretty Hate Machine」発表後、トレントはギタリストのリチャード・パトリックを雇い、ツアーを開始。
ピーター・マーフィーやジーザス&メリーチェイン、ガンズ・アンド・ローゼズなどのライブでオープニングアクトを務めた。

だがこの後トレント・レズナーは早くもレコード会社ともめることになる。
ツアー終了後、トレントは「もうレコードは作らない」とはっきり伝えていたが、TVTは「Pretty Hate Machine」の続編を制作するよう命じた。
トレントはもっと自由な環境で音楽をやりたいと思っていたが、TVTはバンドを管理し大きく事業展開することを考えていたようだ。
トレントはTVTに契約解除を要求したが、TVTは彼の嘆願を無視した。
TVTの干渉を避けるため、トレントはやむを得ず密かに偽名でレコーディングを開始する。
その後トレントはインタースコープ・レコードと契約を結び、自身のレコード会社「ナッシング・レコード」を設立した。

91年頃、トレントはロサンゼルスに移り、シエロ・ドライブ10050という場所にスタジオを作る。
そこは1969年にマンソン・ファミリーのメンバーによって女優シャロン・テートが殺害された場所だった。
ナイン・インチ・ネイルズはその事故物件スタジオでEP「Broken」とアルバム「The Downward Spiral」をレコーディングする。

「The Downward Spiral」は前作とは対照的に、テクノやメタルなどの要素を特徴としている。
テーマは人類に反抗し神を殺害してから自殺を図る厭世的な男の生と死に焦点を当てた。
この頃トレントは度々薬物中毒と鬱病に苦しみ、アルバムのテーマは彼の生活状況を投影しているものとされている。
なおトレントは、デビッド・ボウイの「Low」とピンク・フロイドの「The Wall」に強く影響を受けたと語っている。
「The Downward Spiral」は音楽評論家の間では評判が良く、今では90年代で最も重要なアルバムの一つに分類されており、「1985-2005年の最も偉大なアルバム100選」で25位、ローリング・ストーン誌の「史上最高のアルバム500選」で200位となっている。

3枚目のスタジオ盤「The Fragile」は、度々の延期の後に99年9月にようやく発表された。
前作「The Downward Spiral」の歪んだ楽曲やサウンドから脱却しようとした結果、アンビエント・ミュージックやエレクトロニックなど様々なジャンルの要素が取り入れられ、また前作よりもインスト曲を増やし、約1時間45分にも及ぶダブルアルバムとなった。
アルバムはビルボード200で初登場1位を獲得し、初週で22万8千枚を売り上げ、概ね好評を博した。
なおこのアルバムからは3枚のシングルをリリースしたが、北米では「The Day the World Went Away」、ヨーロッパと日本では「We're in This Together」、オーストラリアでは「Into the Void」と、地域で発売曲を変えている。

2000年1月には初の来日公演が実現。
「The Fragile」のジャパンツアーとして東京(実際は千葉の東京ベイNKホール)・横浜・大阪でライブを行った。
だがこの頃トレント・レズナーの薬物中毒はさらに悪化していた。
よく来日中に捕まらなかったな・・・
2000年6月のツアー中、ロンドンでヘロインを過剰摂取し、予定されていた公演がキャンセルとなった。
この事件をきっかけにトレントはリハビリ施設に入所。
ナイン・インチ・ネイルズの活動も休止し、禁酒断薬に努めた。
活動停止は4年間にも及んだそうだ。

2004年にようやく次のアルバム「With Teeth」のレコーディングを開始。
フー・ファイターズのデイヴ・グロールと、後にバンドのメンバーとなるアッティカス・ロスも参加し、翌年5月にリリースされた。
だがアルバムにはライナーノーツがなく、オンラインPDFのURLが記載されているだけで、歌詞やクレジットはそっちを見てねというスタイルを取った。
なんとなく投げやりな戦略だったが、ビルボード200でバンド史上2度目の(しかも初登場)1位を記録した。
ナイン・インチ・ネイルズはいわゆる音楽配信サービスには積極的で、このアルバム全曲はリリース前にバンドの公式サイトでストリーミングオーディオとして提供されている。

6作目のアルバム「Year Zero」は2007年4月にリリースされた。
アメリカ政府の政策と、未来の世界に与える影響を批判した、政治色の強いコンセプトアルバムである。
このコンセプトと並行して、ストーリーラインを拡張したゲームを制作したり、ファンがリミックスできるようにシングル曲をマルチトラックオーディオファイルとしてリリースするなど、様々なアイディアが実現している。
トレント・レズナーは「Year Zero」の映像化も考えており、映画やテレビ番組制作も試みたようだが、これは公開されていない。
5月には再来日ツアーも行なわれた。

ナイン・インチ・ネイルズは2008年に「Ghosts I-IV」という実験的な発表を行った。
当初5曲入りEPとして構想されていたが、最終的にリリースされたのは9曲入りのEP4枚組で、合計36曲。
ただしトラックには名前がなく、リストとグループ番号のみで識別され、ほぼ全曲インストゥルメンタルである。
しかも第1巻の無料ダウンロード版から300ドルのウルトラデラックス限定版パッケージまで、様々なフォーマットで販売された。
タダでダウンロードもできるのに300ドルの限定版なんて売れるの?と思ったが、この300ドル豪華パッケージは2500枚が3日間で完売したそうだ。
翌年「Ghosts I-IV」のツアーでまた来日し、東京と大阪公演を行った。

しかし2009年2月、トレントは公式サイトで「以前から考えていたが、ナイン・インチ・ネイルズの活動をしばらくの間停止させるべき時が来た」と発表。
その後「ナイン・インチ・ネイルズという名義での音楽制作は終わったわけではないが、ロックコンサートとしてのツアーは終了する」と明言した。
宣言を反映した「Wave Goodbye」ツアーの間にサマーソニック2009にも出演し、千葉マリンスタジアムでパフォーマンスを行った。
ツアーは2009年9月、ロサンゼルスで終了した。

ツアー終了後、トレント・レズナーはマリクイーン・マーンディグというフィリピン系アメリカ人女性歌手と結婚。
夫婦にアティカス・ロスとロブ・シェリダンを加えた4人でハウ・トゥ・デストロイ・エンジェルズというプロジェクトを結成した。
2010年6月にはセルフタイトルEPをリリースし、2013年まで活動した。
このプロジェクトはトレントのナイン・インチ・ネイルズ復活により自然消滅となった、ということのようだ。

トレント・レズナーは2012年頃からナイン・インチ・ネイルズの復活を考えていたらしい。
新曲を書きため新たな参加メンバーを探し、2013年2月にナイン・インチ・ネイルズの復活とツアー開始を発表。
バンドの新ラインナップにはジェーンズ・アディクションのエリック・エイヴリー、キング・クリムゾンのエイドリアン・ブリュー、テレフォン・テルアビブのジョシュ・ユースティス、そして復帰メンバーのアレッサンドロ・コルティーニとイラン・ルービンが含まれることも明らかにした。
ただしエリック・エイヴリーとエイドリアン・ブリューはツアーが始まる前に脱退している。
やはりゆるい人事がナイン・インチ・ネイルズの特徴のようだ。

復活後のアルバム「Hesitation Marks」は2013年8月にリリースされた。
エイドリアン・ブリューに加え、ベーシストのピノ・パラディーノ、トッド・ラングレン、そしてフリートウッド・マックのリンジー・バッキンガムを起用し、様々なアートロック要素を盛り込んだ。

2014年と15年にはナイン・インチ・ネイルズはロックの殿堂入り候補にノミネートされた。
ファン投票でも2位になったが、殿堂入りは果たせなかった。

2018年6月には9枚目のスタジオ盤「Bad Witch」をリリースした。
攻撃的なサウンドとボーカル、一方でより静かで陰鬱な楽曲で構成され、6曲収録で合計30分という簡潔なアルバムである。
このアルバムでは今までほとんど無かったサックスを使用しており、またトレントは時折普段とは異なる方法で歌っている。

2020年1月にナイン・インチ・ネイルズはようやく正式にロックの殿堂入りメンバーに選出された。
同年3月、10枚目と11枚目のスタジオアルバムとなる「Ghosts V: Together」と「Ghosts VI: Locusts」を同時リリースした。
これは2008年の「Ghosts I-IV」の続編で、コロナパンデミックの間、バンドのファンとの連帯を示すために無料でリリースされた。

2022年9月、ナイン・インチ・ネイルズは2013年以来初めて故郷クリーブランドで公演を行った。
バンドは現在も活動継続中で、ライブツアーも行い、映画やゲーム音楽制作も手掛けており、今年10月公開予定の映画「Tron: Ares」のサウンドトラックも制作しているとのこと。

以上がナイン・インチ・ネイルズの複雑で華麗なヒストリーである。
そもそもバンドについて大幅に勘違いしていたので、知ってた話はひとつもない。
なんにも知らないうちにロックの殿堂入りまで果たしてしまった、という状態。(論外)

逆になぜ名前だけ知っていたのかもよくわからない。
ちなみにバンド名の由来は「9インチの釘で十字架にかけられたイエス・キリスト」から来ている説、ホラー映画「エルム街の悪夢」の悪役フレディ・クルーガーの右手にはめられた鉄の鉤爪から取った説などがあるが、どれもファンの間で広まった噂のようだ。
トレント・レズナー自身は「ナイン・インチ・ネイルズ」という名前を「簡単にNINと省略できるから」という理由で選んだと発言している。
それが一番ウソっぽいんですけど・・・

見た目についてもキッスやトゥイステッド・シスターみたいなメイクを施したメタル系の人たち・・と勝手に勘違いしていたが、全然違っていた。
トレント・レズナーやメンバーの宣材?写真も見たが、インディーズ団体の格闘家みたいな風貌である。
曲もいくつかYou Tubeで聴いてみたが、どれも暗く難解な音のする上級者向けの楽曲だった。

というわけで、ナイン・インチ・ネイルズ。
自分みたいな素人にはとても聴ける音楽ではなさそうですが、もし初心者向けのアルバムがあるようでしたら教えていただけたらと思います。

Pretty-hate-machine
ナイン・インチ・ネイルズ Pretty Hate Machine
Hesitation-marks
ナイン・インチ・ネイルズ Hesitation Marks
Nail

両手 ネイル グローブ

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聴いてない 第336回 メリサ・マンチェスター

何も知らない女性ボーカリストシリーズ、今日はメリサ・マンチェスターの巻。
1曲も知らず、顔もよくわからない。
なぜ名前だけは知っているのかもナゾ。
聴いてない度は至高の1。

毎回同じ表現になるが、今回生涯で初めてメリサ・マンチェスターを調べてみたら、やはりその経歴は驚きの連続でした。(安い)
メリサ・マンチェスターはアメリカのシンガーソングライター、女優である。
1970年代から1980年代にかけて、特にアダルト・コンテンポラリー市場で広く活躍し人気を博した。

1952年2月15日、ニューヨークで生まれる。
父はメトロポリタン歌劇場のファゴット奏者、母は婦人服デザイナーのユダヤ系家庭。
なお日本語ウィキペディアでは「バスーン奏者の父」となっているが、バスーンとファゴットは基本的に同じ楽器だそうです。

メリサ・マンチェスターはマンハッタン音楽学校でピアノとチェンバロを学び、17歳でマンハッタンのワーナー系音楽出版社チャペル・ミュージックのスタッフライターとなった。

19歳の時、メリサはニューヨーク大学でポール・サイモンに師事し、作詞作曲を学ぶ。
この頃ポール・サイモンはアート・ガーファンクルとのデュオを解散し、大学で作詞作曲を教えていたそうだ。
その後マンハッタンのクラブなどで歌や演奏するようになったメリサは、友人のバリー・マニロウからベット・ミドラーを紹介され、ベットのバックシンガーグループ「ザ・ハーレッツ」にバリーと共に参加する。

73年アルバム「Home to Myself」でソロデビュー。
収録曲の大半はキャロル・ベイヤー・セイガーとの共作である。
翌年2枚目のアルバム「Bright Eyes」を発表するが、ここまではチャートの100位以内にも入らなかった。

この後メリサの人生を大きく変える曲が世に登場する。
75年にアルバム「Melissa(想い出にさようなら)」をリリースすると、シングル「Midnight Blue」が全米6位で初のトップ10ヒットとなり、チャートに17週間もランクインした。
この曲もキャロル・ベイヤー・セイガーとの共作で、デビューアルバム制作時に作っておいたものだった。

元々メリサは自身をアルバム・アーティストと思っており、シングルのことをあまり考えていなかったそうだ。
だが所属レコード会社のベル・レコードが突如アリスタに吸収されると、メリサのプロモーション方針が大幅に変更される。
シングル「Midnight Blue」の宣伝のため、メリサは全米各地のラジオ局や大学やレコード店などを精力的に巡った。
この地道な宣伝活動が功を奏し、めでたく全米6位の大ヒットを記録。
メリサも「Midnight Blue」以降、「すべてが変わった」と語っている。

76年にアルバム「Better Days and Happy Endings(幸せの日々)」を発表。
収録曲「Come In From The Rain(雨に想いを)」はシングルカットはされなかったものの、後にキャプテン・アンド・テニール、ライザ・ミネリ、ダイアナ・ロスなど、多くのアーティストによってカバーされた。

79年にはピーター・アレンの「Don't Cry Out Loud(あなたしか見えない)」をカバー。
演奏にはリー・リトナーやデビッド・ハンゲイト、ジム・ケルトナーも参加している。
この曲は全米10位に達し、メリサは最優秀ポップ女性ボーカルパフォーマンス賞にノミネートされた。

その年の10月にはアルバム「Melissa Manchester」をリリース。
ケニー・ロギンスとの共作「Whenever I Call You "Friend"」を収録し、演奏にはタワー・オブ・パワーも参加したが、全米63位と前作よりやや後退。
さらに1年と経たずにアルバム「For the Working Girl」を発表。
バッド・フィンガーのカバー「Without You」や、ピーボ・ブライソンとのデュエット「Lovers After All」が収録され、コーラスでドン・ヘンリーも参加したが、これも全米68位でさらに後退する。

だが82年にキャリア最大のヒット曲が登場する。
スティーブ・ルカサーやジェフ・ポーカロも参加した「You Should Hear How She Talks About You(気になるふたり)」は、キャッシュ・ボックスで4位、ビルボード・ホット100チャートで5位、アダルト・コンテンポラリー・チャートで10位に達した。
それまでバラードを得意としていたメリサにとって、ニューウェーブ系のダンスミュージック的な要素がある「気になるふたり」は、大きな転換だったようだ。
本人も大ヒットの後でしばらく歌うのをやめていた時期もあったが、最近は「歌うのが楽しい」と発言している。
この曲でメリサはリンダ・ロンシュタットオリビア・ニュートンジョン、ジュース・ニュートン、ローラ・ブラニガンを抑えて83年のグラミー賞最優秀ポップ女性ボーカル・パフォーマンス賞を受賞した。

大ヒットの後、メリサはデビュー以来10年間所属していたアリスタ・レコードを離れ、MCAレコードに移籍。
アルバム「Mathematics」(表記は「Ma+hematics」)を85年4月に発表した。
以前のシンガーソングライター風の作品とは異なり、シンセポップやニューウェーブ・サウンドに傾倒している。
収録曲ごとにジョージ・デューク、ブロック・ウォルシュロビー・ネヴィルらがプロデュースし、リー・リトナーやスティーブ・ルカサーやマイケル・センベロなど多数のミュージシャンが参加。
だがタイトルシングル「Mathematics」はビルボード・ホット100で最高74位止まり、アルバムも144位と低迷し、結局この1枚だけリリースした後、MCAレコードを離れることになる。

89年にディオンヌ・ワーウィックの「Walk On By」をカバーし、ACチャートのトップ10入りを果たした。
91年公開のミュージカルコメディ映画「フォー・ザ・ボーイズ」ではベット・ミドラーと共演し、テレビのドラマシリーズ「ブロッサム」にも出演。
さらに91年のワールドシリーズ第6戦では、試合前のセレモニーでアメリカ国歌を独唱してオープニングを飾った。
92年にはアニメミュージカル「リトル・ニモ」の主題歌を歌った。

95年にアトランティック・レコードに移籍し、アルバム「If My Heart Had Wings」をリリースした。
プロデューサーや参加メンバーを大幅に入れ替え、ドゥービー・ブラザーズの「Here to Love You」のカバーも収録したが、残念ながらチャート入りは果たせず商業的には失敗に終わる。

96年には山下達郎の「愛の灯~STAND IN THE LIGHT」で作詞と歌を担当。
山下達郎がフジテレビのミュージック・キャンペーン・ソングの依頼を受け、外国人女性とのデュエットという企画に対しメリサ・マンチェスターを指名。
メリサはオファーを快諾し、山下達郎作の曲を聴いた上で作詞したそうだ。

2004年、9年ぶりのスタジオ盤「When I Look Down That Road」を発表。
ソウルやジャズ、ボサノバなど様々な要素を採り入れ、全曲の制作(主に作詞)をメリサが担当し、「Where The Truth Lies」ではルパート・ホルムズと共作。
「Lucky Break」にはリッチー・コッツェンがギターで参加している。

2007年にはバリー・マニロウとのデュエットで、キャロル・キングの名曲「You've Got a Friend(君の友だち)」をカバー。
このカバーはバリー・マニロウのカバー集アルバム「The Greatest Songs of the Seventies」に収録された。

2011年には、ジュノー・テンプル、ミラ・ジョヴォヴィッチ、ウィリアム・H・メイシーらが出演した青春コメディ映画「ダーティ・ガール」でメリサ・マンチェスターの曲が多数使用され、「You Should Hear How She Talks About You」「Singing From My Soul」「Midnight Blue」など5曲がサウンドトラックに収録された。
なおメリサは主人公が歌う「Don't Cry Out Loud」の伴奏ピアニストとして、セリフなしのカメオ出演を果たしている。

2015年にはジャズにシフトしたアルバム「You Gotta Love the Life」をリリースし、ビルボードジャズアルバムチャートで17位を獲得した。
このアルバム制作にあたり、資金を集めるためクラウドファンディングを利用してキャンペーンを行ったそうだ。
当時メリサは音楽学校の非常勤講師をしており、学生たちからインディーズアルバム制作を勧められ、クラウドファンディング利用を思いついたとのこと。
だが参加ミュージシャンはアル・ジャロウやディオンヌ・ワーウィック、スティービー・ワンダーなどビッグネームも多い。
ギャラのお支払いは大丈夫だったんだろうか・・?

2017年、メリサはトニー・ベネット、ディーン・マーティン、ジョニー・マティス、フランク・シナトラ、メル・トーメといった男性シンガーのカバーを収録した「The Fellas」をリリースした。
前作「You Gotta Love the Life」に続いての自主制作スタジオ盤で、彼女が講師を務める大学のオーケストラ伴奏がフィーチャーされているほか、バリー・マニロウとのデュエット曲「For Me and My Gal」が収録されている。

最新作は過去の名曲を再録した2024年のアルバム「Re: View」。
ケニー・ロギンスとのデュエット曲「Whenever I Call You "Friend"」の再録バージョン、ドリー・パートン参加の大ヒット曲「Midnight Blue」、ゴスペル調にアレンジされた「Just You And I」には、ジャズ界の人気サックス奏者ジェラルド・アルブライトを迎えるなど、かつての名曲を高いクオリティでリメイクしている。

以上がメリサ・マンチェスターの優雅で煌びやかな経歴である。
知ってた話は今回も一切なし。
山下達郎とのデュエットも知らなかった。
柏村武昭・小林克也・東郷かおる子の誰からもメリサ・マンチェスターの情報を教えてもらえなかった。

調べてみて気づいたが、デビュー当時から現在に至るまで、著名なミュージシャン・アーチストとの共演やゲスト参加が非常に多い。
学生時代にポール・サイモンに作詞作曲を習ったり、デビューにあたってバリー・マニロウやベット・ミドラーの協力があったなど、ミュージシャンとしてはかなりエリートコースでスタートしている。
またスティーブ・ルカサーやジェフ・ポーカロ、デビッド・ハンゲイトらTOTOのメンバーは何度も演奏に参加している。
事務所やレコード会社のセッティングもあるだろうが、多くはメリサ本人の実力や人柄もあっての話だろう。

最大のヒット曲「気になるふたり」をYou Tubeで見てみたが、やはり知らない曲だった。
ただし楽曲はいかにもあの頃流行していたサウンドやリズムだ。
プロモ・ビデオもメリサがノリよく歌い、バックで数人が踊るという構成だが、地方の営業ステージみたいな簡素な造り。
感覚的にはローラ・ブラニガンの「Gloria」に近い。
全米5位なのにこんなビデオなの?
本人も認めているとおり、それまでの方向性とは明らかに違ったハヤリの曲を仕方なく歌わされたけど予想以上にヒットした、ということのようだ。

というわけで、メリサ・マンチェスター。
そもそもこの人は日本でどれくらい支持されていたのか、見当もつかないのですが・・・
最大のヒット曲「気になるふたり」を求めて聴くならアルバム「Hey Ricky」となりますけど、それは彼女の本質を鑑賞することにはならないような気もします。
なので聴くとしたらやはり70年代の作品からだと思いますが、おすすめのアルバムがあれば教えていただけるとありがたいです。

Melissa
メリサ・マンチェスター 想い出にさようなら
Hey-ricky
メリサ・マンチェスター Hey Ricky
Manchester
マンチェスターシティ オフィシャル 1号球 選手サイン入り

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聴いてない 第335回 デバージ

前回採り上げたブロック・ウォルシュの「This Time」を録音した際、同時にエアチェックしたのがデバージの「Time Will Reveal(時のささやき)」である。
いずれも柏村武昭の異色経歴でもあるFM洋楽番組「サンスイ・ベストリクエスト」で録音したのだが、デバージも結果的にこの1曲のみの鑑賞で終わっている。
柏村武昭に落ち度はないけど、聴いてない度は2。

聴いてないけど、デバージが兄弟グループであることや、エル・デバージやチコ・デバージの名前もなんとなく知ってはいた。
同じく兄弟グループであるジャクソン・ファイブと比較されることも多かったらしい。
だが調べてみたら、ただ比較されるだけでなく、実はかなり深い関係にあったこともわかった。
以下はネットで調べたデバージの壮絶な略歴である。

デバージはデトロイト出身のデバージ兄弟により結成されたグループで、活動期間はほぼ80年代の10年間。
父親は白人の兵士、母親は黒人ゴスペル歌手。
だが夫婦仲は良くなく、結婚後4年で離婚。
しかも父親は離婚後も子供達を虐待するなど、兄弟は複雑で過酷な家庭環境で育つ。

兄弟は70年代半ばからデトロイトで音楽活動を始める。
長男ボビーと次男トミーは76年、グレゴリー・ウィリアムス、エディー・フルーレン、フィリップ・イングラム、マイケル・マクグローリー、ジョディー・シムズらと共にスウィッチというグループを結成。
スウィッチは78年モータウンからデビューし、「There'll Never Be」「I Call Your Name」「Best Beat in Town」などのR&B曲がヒットした。
スウィッチのデビューを後押ししたのが、ジャーメイン・ジャクソンと言われている。
スウィッチのメンバーがモータウンの事務所があったビルのエレベーターでジャーメインにデモテープを渡したところ、ジャーメインが気に入り、モータウンでのデビューを勧めたそうだ。
なんか映画や小説のような展開だが、本当なんだろうか?

80年にザ・デバージズという名でデビュー。
兄弟の中で参加したのは以下のみなさんである。
・長女バニー(Vo)
・長男ボビー(Vo・D・K)
・三男ランディ(Vo・B)
・四男マーティ(Vo・D)
・五男エル(Vo・K)

デバージズは81年にデビューアルバム「The DeBarges」を発表。
次男トミーはデバージズには参加せず、長男ボビーはアルバム発表まではスウィッチと掛け持ちだったらしい。
残念ながらアルバムはチャートを賑わすような実績は残せなかったようだ。
その後長男ボビーはいったんグループを離脱。

82年には六男ジェームスが加わり、全曲デバージ兄弟の作品で構成された2枚目のアルバム「All This Love」をリリース。
全米24位(R&Bチャートは3位)となり、シングル「 I Like It」「All This Love」もヒットした。
「All This Love」は後にビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートで1位を獲得している。

83年9月、3枚目のアルバム「In a Special Way」をリリース。
前作と同様全曲デバージ兄弟の作品で、自分が聴いたシングル「Time Will Reveal(時のささやき)」も収録されている。
「Time Will Reveal」は全米R&Bチャートで1位を記録し、アルバムもゴールド・ディスクを獲得した。

だが人気の陰でトラブルも起こる。
84年、六男ジェームズ・デバージはジャネット・ジャクソンと極秘結婚。
すぐにジャネットが結婚を公表したが、翌年には離婚。
・・というか結婚自体が無効とされたそうだ。
ジャネットの若気の至りとも言われたが、ジェームスはこの頃薬物中毒だったらしく、結婚式の直後もジャネットに隠れてクスリをやってたとのこと。

デバージは85年のモータウン製作映画「ラスト・ドラゴン」のサウンドトラック用として「Rhythm of the Night」を録音した。
この曲はシングルとしてもリリースされ、全米3位・全英4位を記録。
グループ史上最大の売上となった。
また同名のアルバムにはデビッド・フォスターやスティーブ・ポーカロも参加し、ビルボードR&Bチャートで3位の成績およびプラチナ・ディスクを獲得した。

だが絶頂の裏でグループ内のパワーバランスは崩れつつあった。
エル・デバージがグループの中心として台頭しつつあることを察知したモータウンは、次のアルバム制作をエル一人で行わせようとした。
モータウンはエルの実力を信頼する一方で、ジェームスの薬物依存症の問題を懸念していたとも言われている。
結果的にグループの命運は、このモータウンの判断によって決定されてしまう。

アルバム「Rhythm of the Night」の大ヒット後、モータウンはエルとバニーに高額なソロ契約をオファー。
二人はソロ歌手として活動することを決意し、グループを脱退する。
モータウンは二人の力強いハーモニーを失った残りのデバージには商業的価値はないと判断し、86年に契約を解除する。
アメリカの芸能界も厳しい・・・

危機感を覚えた残デバージは、87年に長男ボビーが加入し建て直しを図ったが、メジャーレーベルとの契約に失敗したため、インディーズレーベルのストライプド・ホース・レコードと契約し、アルバム「Badboys」をリリースした。
だがストライプド・ホースはやはりカネがなく、満足なプロモーションもできず、モータウンの支援も受けられなかったため、アルバムはチャートインしなかった。
結果的にこれがデバージとしてのラストアルバムとなる。

デバージはその後もライブなど活動を続け、オープニングアクトには七男のチコを起用したり、テレビの歌番組にゲスト出演した。
なおチコ・デバージはソロ歌手で活動しており、兄たちのグループのデバージには加入していない。
・・・なぜ?
ビージーズに参加しなかった弟アンディ・ギブみたいなもんかな?

栄光のデバージ兄弟にとって最大の問題は、音楽ではなく薬物にあったようだ。
88年、ボビーとチコは麻薬密売の容疑で逮捕され有罪判決を受け、別々に刑務所に収監された。
この逮捕と収監によりデバージの音楽活動は終焉を迎え、89年に解散する。

薬物は音楽活動だけでなく個人の生活や兄弟仲にも深刻なダメージを及ぼし、破綻して命を落としている者もいる。
困ったことに兄弟のほとんどに薬物使用による逮捕歴があり、中でもエル・デバージは何度も逮捕され、治療を経て復帰も果たしたが、2018年に仲間との口論で逆上し車のフロントガラスを叩き割り、器物損壊で逮捕されている。
ボビーは長年のヘロイン中毒の末、エイズに感染し95年に死亡。
トミーも薬物の影響で腎臓が機能不全となり透析を受けていたが、2021年に腎不全で亡くなっている。

2008年、長女バニーは「The Kept Ones」と題した家族についての本を執筆した。
貧しい家庭に育った兄弟が成功していくというアメリカンドリームな内容で、2020年には続編も出版されたが、弟たちからは不評で、SNSなどで「バニーが書いた本は嘘だらけのフィクションだ」と言われたようだ。

以上がデバージの短く儚い栄光と炎上の過酷な歴史である。
知ってた話は当然皆無。
最大のヒット曲「Rhythm of the Night」もYou Tubeで聴いてみたが、全く知らない曲だった。

ジャーメインやジャネットなどジャクソン・ファミリーとの関係も全く知らなかった。
もっと言うとエル・デバージやチコ・デバージも当然デバージの一員で、グループでもソロでも並行して活躍してるのかと思っていたが、エルはグループを脱退してソロになっており、チコはそもそもデバージには参加していなかった。
この経歴を正確に把握してた日本人リスナーはどれくらいいるんでしょうか・・?

デバージ兄弟は歌ったり演奏したりはもちろん、ソングライターとしての才能も持っていた。
発表した曲の大半は兄弟の誰かが作ったもので、他人の作った曲やカバー曲はかなり少ない。
才能は間違いなくあったデバージ兄弟。
ジェームスの娘クリスティニアにもそれは受け継がれ、2009年に歌手デビューしている。
彼女が父親や叔父たちのようなトラブルに見舞われないよう祈るばかりだ。

才能や素質に恵まれながら、グループとしての活動期間はほぼ80年代限定だった。
長くは続かなかった原因の一つは間違いなく薬物だろう。
まあビートルズやストーンズやツェッペリンやクラプトンなど、60~70年代に活躍したミュージシャンの大半は薬物と酒でダメージを負ったり逮捕されたりしていたが、残念ながらデバージ兄弟はそうした先輩方のトラブルを教訓とはできなかったようだ。
仮定は無意味だが、もし兄弟が誰一人薬物には手を出さなかったら、少しは違った展開になっていたのではないかと思う。

「Time Will Reveal(時のささやき)」はゆったりしたオトナ向けバラード。
ただ個人的にはビージーズやアース・ウィンド&ファイアーを思わせるファルセットでコーラスというスタイルがやや苦手で、他の曲も聴いてみようという気にはならなかった。

というわけで、デバージ。
正直鑑賞意欲はほとんどありませんが、もし聴くとしたら「時のささやき」を頼りに「In a Special Way」から、ということになりそうです。
最大のヒット作「Rhythm of the Night」も含め、みなさまのデバージ鑑賞履歴をご紹介いただけたらと思います。

In-a-special-way
デバージ In a Special Way
Rhythm-of-the-night
デバージ Rhythm of the Night
Young-and-restless

クリスティニア・デバージ YOUNG & RESTLESS

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