聴いてない 第317回 ソニック・ユース

暗黒の90年代、自分にとっての音楽情報ソースは主にMTVと「NOW」系オムニバスCDだった。(ダサい)
80年代に頼りにしていたFM番組(サンスイ・ベストリクエストなど)や音楽雑誌(ミュージックライフ・FMステーションなど)から離れ、仕入れる新曲も極端に減少した時代である。
なのでMTVやNOWにあまり登場しなかったインディーズ系バンドなどは、その音源や実態に一切触れることなく過ごしてきた。
ソニック・ユースもそんな暗黒バンドのひとつ。

ソニック・ユース、1曲も聴いておらず、知ってるのは名前だけ。
メンバーの名前も顔もわからないし、そもそも何人組なのかも知らない。
聴いてない度は破竹の1。
ただなぜかアルバムジャケットのいくつかには見覚えがある。
バンド名しか知らないので、今から学習する基礎知識は全て初耳で伸びしろしかないが、取り急ぎソニック・ユースについて調査開始。

ソニック・ユースは1981年に結成されたニューヨーク出身のバンド。
ジャンルとしてはノイズパンク・オルタナ・グランジといった形容をされることが多いらしい。
70年代末にサーストン・ムーア(G・Vo)とキム・ゴードン(B・G・Vo)、アン・デマリニス(K)がニューヨークで結成。
いくつかの名前を経て81年半ばにソニック・ユースに落ち着いた。
その後リー・ラナルド(G・Vo)を誘い、リチャード・エドソン(D)が加入した。(アンはすぐ脱退)

ソニック・ユースはインディーズレーベルのニュートラル・レコードと契約。
81年12月、バンドは5曲をレコーディングし、EP「Sonic Youth」としてリリースされた。
この頃は後の作品とは対照的に、比較的伝統的なポストパンクのスタイルを特徴としていた。
その後リチャード・エドソンは俳優業を志すために脱退。
リチャードは後に俳優として「ストレンジャー・ザン・パラダイス」「プラトーン」などに出演したそうだ。

後任ドラマーとしてボブ・バートが加入したが、82年11月に他のバンドのサポートとしてツアーに同行中、サーストン・ムーアがボブのドラム演奏を批判し続け、結局解雇される。
その後ジム・スクラヴノスがボブの代わりを務め、83年にバンド初のスタジオアルバム「Confusion Is Sex」を発表。
EPよりもさらに音量が大きく不協和音の多いサウンドが特徴的だった。
ソニック・ユースは83年の夏にヨーロッパツアーを組んだが、ジム・スクラヴノスはツアー中に脱退。
仕方なく?バンドはボブ・バートに再加入を要請し、ボブは「ツアー終了後に再びオレを解雇しないように」という条件で同意した。

ソニック・ユースはヨーロッパでは好評だったが、ニューヨークのマスコミは地元のノイズロックシーンをほとんど無視していた。
ニューヨークの新聞社ヴィレッジ・ヴォイスは、ソニック・ユースとビッグ・ブラック、プッシー・ガロアなどのバンドをまとめて「ブタ野郎」というレッテルを貼り、ソニック・ユースのライブを酷評した。
そんな言い方ある?と親戚でもない自分でもそう思うけど、やっぱりアタマに来たキム・ゴードンは新聞社宛てに「地元の音楽シーンを支援していない」と抗議の手紙も送ったが、新聞社は「支援する義務はない」と返答。
サーストン・ムーアも報復として「I Killed Christgau with My Big Fucking Dick」という曲を発表。(Christgauは新聞社の編集者の名前)
数年後には新聞社と和解したそうだけど、80年代初めのニューヨークにはまだソニック・ユースが理解される土壌がなかったらしい。

2度のヨーロッパツアーを終えたソニック・ユースは、ニューヨークでもようやく人気が出始め、地元でのライブを定期的に組めるようになった。
84年にはサーストン・ムーアとキム・ゴードンが結婚。
バンドはアルバム「Bad Moon Rising」をレコーディングした。
強迫観念、狂気、チャールズ・マンソン、ヘヴィメタル、悪魔崇拝など、当時のアメリカのダークな状態をテーマにしており、タイトルはクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの1969年の楽曲「Bad Moon Rising」にちなんで付けられた。
サーストンとリー・ラナルドがステージ上でチューニングの休憩中に時間をつぶすために考え出したつなぎの曲が中心で、曲間にはほとんど隙間がないという妙な構成。
ニューヨークのマスコミはこのアルバムをほとんど無視したが、イギリスでは批評家の称賛を受け、5,000枚を売り上げた。
もっともまだこの時点ではインディーズの領域を出ておらず、アングラな尖ったバンドのひとつに過ぎなかった。

「Bad Moon Rising」リリース後、ボブ・バートは「1年中同じ曲を毎回演奏するのに飽きた」という、ミュージシャンってそもそもそういうもんでしょ的理由で脱退。
ソニック・ユースはドラマーを探し、ライブ演奏を見て演奏に感銘を受けたスティーブ・シェリーを発掘。
オーディションなしでスティーブを雇うことにした。

86年初頭にSSTレーベルと契約し、アルバム「EVOL」を発表する。
大手の音楽メディアもようやくソニック・ユースに注目し始め、「ジミ・ヘンドリックス以来の独創的なギターベースの音楽」などと評され、ニール・ヤングも「EVOL」を名作と評価している。
・・・ニール・ヤングって時々こうしたオルタナやグランジに理解あるレジェンドとして登場するけど、そういう人なの?

この頃ソニック・ユースは当時のメジャーな音楽にもアプローチしている。
バンドはチコーネ・ユースという名でマイク・ワットとコラボレーションした。
チコーネとはあのマドンナの本名(姓)である。
ソニック・ユースがマドンナのファンだったのかノリだったのかは不明だが、チコーネ・ユース名義でマドンナの「Into the Groove 」や「Burning Up」、またロバート・パーマーの「Addicted to Love 」のカバーもしている。

しかしその後ソニック・ユースはレーベルについてさまようことになる。
87年のアルバム「Sister」は6万枚を売り上げ、音楽評論家からは好評だったものの、バンドは金の支払いや管理業務についてSSTに不満を抱くようになった。
そこで次のアルバムをエニグマ・レコードからリリースすることを決め、SSTと決裂。
88年に2枚組LP「Daydream Nation」をエニグマから発表した。

「Daydream Nation」は好評を博し、シングル「Teen Age Riot」は、カレッジロックのラジオ局で何度もオンエアされた最初の曲となり、ビルボードのモダンロックトラックチャートでも20位に達した。
ローリングストーン誌を含む多くのメジャーな音楽雑誌も、「Daydream Nation」を称賛。
だがここでもレーベルによる流通の問題が発生。
エニグマ・レコードはマーケティングやプロモーションについてやはり力が不足していたようで、「Daydream Nation」は店頭で見つけるのが難しいことが多発した。
バンドのエニグマに対する不満は他にもあり、チコーネ・ユース名義でリリースされた実験的アルバム「The Whitey Album」の扱いであった。
エニグマは「The Whitey Album」と「Daydream Nation」を同時にリリースしたいというバンドの提案を拒否しただけでなく、「The Whitey Album」のジャケットにマドンナの顔の拡大写真を使うこと(マドンナ側が許可していたにもかかわらず)も却下したそうだ。
こういうエピソードからすると、ソニック・ユースはホントにマドンナのファンで楽曲も好きだったんだろうなと思う。

インディーズレーベルに限界を感じたサーストン・ムーアはエニグマとも決裂し、ついにメジャーレーベルとの契約を模索し始めることになる。
90年、ソニック・ユースはゲフィンと契約し、アルバム「Goo」をリリースした。
(厳密にはゲフィンの子会社レーベルであるDGCレコードからリリースされており、バンドは多少不満だったらしい)
パブリック・エネミーのチャック・Dがゲスト出演したシングル「Kool Thing」が収録され、音楽雑誌でも「以前の作品よりもはるかに聴きやすい」と高評価を得る。
90年12月までに20万枚以上を売り上げ、最終的にはビルボード200で96位まで上昇した。
96位がそんなにすごい評価なの?とは思うが、当時のバンド史上最高位ではあり、後に90年代初頭のオルタナティブ・ミュージックの商業的躍進に貢献したアルバムとされることになる。
ジャケットはカリフォルニアの芸術家レイモンド・ペティボーンによるイラスト。
描かれているのはイギリスで60年代に起こった連続猟奇殺人事件の共犯者の妹モリーン・ヒンドレーと夫のデヴィッド・スミス。
お笑い芸人永野がパロディTシャツを売っているが、聴いてない自分でも「あれ確かソニック・ユースのジャケットだな」とわかるほど有名なアートだ。

なお翌91年には同じくDGCレーベルからニルヴァーナの「Nevermind」がリリースされ、オルタナティブ・ロックやグランジが全米を席巻していく。
実績で言えばソニック・ユースのほうが少しだけ先に有名になっており、ソニック・ユースは91年にブレイク前夜のニルヴァーナとツアーしたこともあるそうだ。
後輩芸人とされていたニルヴァーナが鬼のような売れ方であっという間にソニック・ユースを追い越していった・・・ということだろうか?

92年、ソニック・ユースは再びDGCレーベルからアルバム「Dirty」をリリース。
94年には「Dirty」の続編にあたる「Experimental Jet Set, Trash and No Star」という長い名のアルバムを発表。
「Dirty」は大音量で濃密なノイズの爆発的なサウンドが特徴だが、続編はより暖かくリラックスした「静かなノイズ」となっているそうだ。
CDの最後の曲「Sweet Shine」が終わってから1分後に、「ボーナスノイズ」として1分半ほど日本人のガソリンスタンド店員の声が収録されているとのこと。
アメリカではビルボード200で34位となり、「Goo」を上回るセールスを記録した。
なお同じく94年にはカーペンターズのトリビュートアルバム「If I Were a Carpenter」で「Superstar」をカバーしている。

95年にはパンクロックから長いジャムベースのアレンジメントへと変化したサウンドのアルバム「Washing Machine」をリリース。
ここからソニック・ユースの活動や作品はさらに実験的要素を帯びていく。
97年から「SYR(Sonic Youth Recordings)」というタイトルでシリーズ化された即興アルバムをリリースし、曲名とライナーノーツはエスペラント語を含む様々な言語で表記された。
SYRシリーズは2011年までに9枚リリースされ、98年の「SYR3:Invito al cielo」には、後に正式なメンバーとなるジム・オルークが参加している。

一方で正規?の活動も並行して継続。
2000年にアルバム「NYC Ghosts & Flowers」をリリースし、パール・ジャムの2000年ツアーの東海岸公演で前座を務めた。
2002年にはジム・オルーク(G・B・K)が正式メンバーとして加入し、アルバム「Murray Street」を発表。
この時期にニューヨークのパンクロックの歴史を扱ったドキュメンタリー映画「Kill Your Idols」の制作にも参加した。(映画は2004年公開)

2004年に通常スタジオ盤「Sonic Nurse」を発表。
ジム・オルークは2006年に日本語と映画の勉強に専念するため脱退し、ツアーのためにベーシストのマーク・アイボールドが代わりに参加。
マークは後に正式なメンバーになった。

2006年にリリースされた「Rather Ripped」は、ジム・オルークの脱退の影響もあり初期のサウンドへの回帰として注目された。
同年12月にはコンピレーションアルバム「The Destroyed Room: B-Sides and Rarities」をリリース。
このアルバムには、以前はレコードでしか入手できなかったトラック、限定リリースのコンピレーションからのトラック、海外シングルのB面、未発表曲などが収録されている。
だがこれがバンドの最後のゲフィンからのリリースとなった。

ソニックユースは過去のアルバムのプロモーション方法に不満を抱き、2008年にゲフィンとの契約を解消する。
その後独立系レーベルのマタドール・レコードと契約し、2009年にアルバム「The Eternal」をリリースした。
これがソニック・ユースのラストアルバムとなる。

2011年10月、キム・ゴードンとサーストン・ムーアは27年間の結婚生活に終止符を打ったと発表。
ソニック・ユースの活動も停滞し、11月14日のブラジルのサンパウロ州で開催されたSWUミュージック&アーツフェスティバルで最後のコンサートを行った。
リー・ラナルドはインタビューで「ソニック・ユースは解散する」と述べ、サーストン・ムーアも解散を表明。
結局キムとサーストンの夫婦仲がバンドの生命線だったことになる。
昨年サーストンのバンド回想録も出版されたが、今のところ再結成はなさそうだ。

そもそも全然知らないバンドなので、知っていた話も全くなし。
90年代になってからのバンドだと思っていたが、81年にはすでに結成されてたことも知らなかった。
オルタナ・パンク・ノイズといったジャンルのようなので、聴けそうな気はほとんどしない。
ただポップスや産業ロック全般を否定してきたわけでもないようで、マドンナやカーペンターズをカバーしていた話にはやや安心。
インディーズからメジャーまでレーベルを変えてきたのも、自分たちのやりたい音楽追求の表れであり、実は頑固で実直な集団なのではないかと思う。

サーストン・ムーアは日本が好きで、日本のアングラな音楽をまめにチェックし、ボアダムスや少年ナイフのメンバーとも交流がある。
来日した際には各地の中古レコード店で大量のレコードやCDを買って帰るそうだ。
偏屈だけど実はいいやつ、という感じだろうか?

というわけで、ソニック・ユース。
どのアルバムも大衆受けを狙っていない楽曲やサウンドだそうなので、80年代産業ロックにまみれた自分はニルヴァーナ同様に玉砕する可能性が非常に高いのですが、そんな高齢初心者でも聴きやすそうなアルバムがあったら教えてください。

Goo

ソニック・ユース GOO

Daydream-nation
ソニック・ユース Daydream Nation
Goo_tshurt

[オソマロ] ソニックユース

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聴いてない 第316回 ローラ・ブラニガン

女性シンガーはいずれも壊滅的に聴いてない自分ですが、80年代に活躍したローラ・ブラニガンも例外ではありません。
聴いていたのは「サンスイ・ベストリクエスト」でオンエアされたのを録音した大ヒット曲「Self Control」だけ。
あと録音はしなかったが「Gloria」はかすかに聴き覚えがある。
聴いてない度は実質2。
今回調べてみて初めて知ったが、もう20年も前に亡くなっていた。

ローラ・ブラニガンは1952年7月ニューヨーク州で生まれた。
祖母はオペラ歌手で、父親は金融ブローカー、母はラジオ局専属の歌手。
ローラは5人兄弟の4番目で、弟ウィリアムも後にミュージシャンになり、ローラの初期のバック・バンドでギターを演奏したこともあったそうだ。

18歳でニューヨークの演劇芸術アカデミーに入学し、ウェイトレスとして働きながら音楽を勉強した。
72年頃にフォーク・ロック・バンドを結成。
翌年アルバムとシングル曲を発表するが、全く売れずバンドは解散し、メンバーの一人は自殺してしまうという不幸な音楽生活のスタートだった。
その後はレナード・コーエンのツアーでバックコーラス隊を務めるなど、様々な仕事を続けた。

経歴で変わっていると思ったのは、売れる前にもう結婚したことだ。
78年春頃にマンハッタンのパーティーで弁護士のラリー・ロス・クルテックと出会い、78年末に結婚。
79年にアトランティック・レコードと契約したが、会社側はローラをどのジャンルでデビューさせるか迷っていたらしい。
なので本格的にデビューするまで3年もかかっている。

82年にようやくアルバム「Branigan」でデビュー。
するとシングル「Gloria」が全米2位・全英6位の大ヒットとなる。
もともとこの曲はイタリアの歌手ウンベルト・トッツィが79年に発表しており、ヨーロッパ各国でカバーされたラブソングだそうだ。
「Gloria」は全米で200万枚以上を売り上げ、アルバムは最終的にゴールド認定された。

83年春、セカンドアルバム「Branigan2」をリリース。
シングル「Solitaire(哀しみのソリティア)」は全米7位を記録した。
この曲もフランスのマルティーヌ・クレマンソーという歌手の作品で、ローラは歌詞を英語に変えて歌っている。
またマイケル・ボルトンが書いた「How Am I Supposed to Live Without You」も全米12位に達し、ビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートでは3週間にわたり1位を維持するヒットとなった。
相次ぐヒット曲で人気者となったローラは、テレビ番組や映画にも出演し、CMの仕事も増えていく。

続く84年に発表した3枚目のアルバムのタイトル曲「Self Control」がキャリア最大のヒット曲となる。
全米では最高4位だったが、カナダやフランスや西ドイツでは1位を獲得。
特に西ドイツでは6週間1位を記録した。
ちなみにこの曲もカバーであり、オリジナルは同じく84年にイタリアの歌手ラフが作って歌い、イタリアとスイスで1位を記録している。

だが4枚目のアルバム「Hold Me」から少しずつ状況が変わり始める。
シングル「Spanish Eddie」やマイケル・ボルトン作「I Found Someone」はアダルト・コンテンポラリー・チャートでは高いスコアを記録したものの、どちらの曲もミュージックビデオがあまり支持されず、主流チャートのホット100では50位以内に入らなかった。
アルバムも全米71位と残念な結果に終わる。

この情報でなんとなくわかってきたが、この頃までのローラ・ブラニガンはあまりプロモ・ビデオに力を入れていなかったようだ。
「Spanish Eddie」のビデオを見たが、時代のせいもあるが「フラッシュダンス」「フィジカル」のパロディのような痛い感じがする。
「Self Control」もいまいち安っぽいミステリー風の造りだし、「Gloria」は演出も一切なく地方の営業みたいな貧相なステージ映像だ。
85年の時点ですでに大ヒット曲を持つスターだったのに、新曲の映像ががっかりするほどの出来だと、やはり影響はあったように思う。
ビデオのせいでヒットしなかったと断言もできないが、80年代後半はマイケルの「スリラー」登場以降であり、すでに多くのアーティストが映像を伴ってヒット曲を量産していたはずである。
もう少しビデオにお金をかけていたら、その後の展開は違っていたかも・・と感じた。

危機感を覚えたローラはマネージメントやプロデューサーなどスタッフを替え、5枚目のアルバム「Touch」を87年7月にリリースする。
ダンスナンバー「Shattered Glass」やジェニファー・ラッシュの名曲「The Power of Love」を収録したが、スタッフ刷新の効果は思ったほどなくアルバムは全米87位と前作よりもさらに順位を落としてしまった。

90年に6枚目のアルバム「Laura Branigan」を発表。
アダルト・コンテンポラリー・チャートで22位を記録した「Never in a Million Years」や、ブライアン・アダムスとジム・バランス共作の「The Best Was Yet to Come」などを収録したが、売り上げは伸びず全米チャートでは100位にも届かなかった。
それでもローラ・ブラニガンは全米各地でツアーを行い、テレビ番組やミュージカルにも出演するスターであり続けた。

7枚目のスタジオアルバム「Over My Heart」には、マイケル・ボルトン作でシェールの曲「Hard Enough Getting Over You」、カントリー歌手パティ・ラブレスの「How Can I Help You Say Goodbye 」、ロクセットの「The Sweet Hello, The Sad Goodbye 」などのカバーが収録されている。
残念ながらシングルもアルバムもチャートに登場することもなかったが、ローラは他人の曲も喜んでカバーしていたようだ。

しかしこの後ローラは度重なる不幸に見舞われる。
「Over My Heart」発表の翌年、夫ラリーが結腸癌と診断された。
ローラは夫の介護に専念するために音楽活動を休止する。
夫婦が選択した治療法は通常の西洋医学療法ではなく、ハーブを使った一種の民間療法だったらしい。
その間にローラのベスト盤「The Best of Branigan」が95年に発売され、宣伝のためテレビ番組で歌ったりしたが、ラリーが療養中だったため、本格的な復帰はできなかった。
ラリーは96年6月に亡くなり、その後ローラは数年間活動を中止した。

復帰を目指していたローラにまたアクシデントが起こる。
2001年初め、ニューヨーク州の湖畔にある自宅の外に花を吊るしていた際、ローラは誤ってはしごから転落し両大腿骨を骨折してしまう。
このケガのため、ステージへの復帰は半年ほど延期された。

ようやく復帰できたのは2002年のミュージカル「Love, Janis」でのジャニス・ジョプリン役だった。
ただローラは2度出演した後、予定より早くショーを降板した。
プロデューサーとの意見の相違や、自身の声がジャニス・ジョプリンとは全然違うことが理由とされた。
同じ年には、長らく絶版になっていたヒット曲「I Found Someone」を含む公式ヒット・コレクション「The Essentials」がリリースされた。

トラブルはあったものの本格的な復帰を果たし、本人も事務所もファンも期待していた中、生涯最大で最後の悲劇が発生。
2004年8月26日、ニューヨーク州の自宅(別荘と書いているサイトもあり)で、睡眠中の脳動脈瘤破裂により52歳で死亡する。
亡くなる数週間前から頭痛に悩まされていたが、医師の診察は受けなかったらしい。
なお死亡当時47歳だったと誤って広く報道され、実際に日本のメディアが残した死亡記事にも47歳と表記されているが、年齢詐称ではなくAP通信がマネジメント会社と連絡を取った時のミスの結果とのこと。
遺体はは火葬され、遺灰はロングアイランド湾に散骨されたそうだ。
彼女の功績を称えニューヨーク州アーモンクにあるバイラム・ヒルズ高校では、舞台芸術における優秀な成績を収めた学生にローラ・ブラニガン記念奨学金が毎年授与されている。

以上がローラ・ブラニガンの生涯の事績である。
知ってた話はもちろんなく、20年も前に死亡していたことも知らなかった。

ローラ・ブラニガンを語る多くのサイトに書いてあったが、やはり80年代においてマドンナシンディ・ローパーといったクセつよ女芸人と対等に渡り合いスターの座を維持する・・というのは非常に難しいことだった、と思われる。
もちろんあの二人だけの80年代ではなかったのだが、ローラの才能や歌唱力や優れた楽曲を以てしても苦戦を強いられたのは間違いなさそうである。
当時の日本の若者の間でも、マドンナやシンディ・ローパーに比べてローラ・ブラニガンの知名度や人気は低かっただろうし、友人との会話にローラ・ブラニガンが登場した記憶もない。

「Self Control」はわかりやすいメロディだが曲調は明るくなく、まだ「Gloria」や「The Power of Love」のほうがいいと思う。
調べてみて確かに思ったが、どの曲もやはり映像を全然覚えていない。
繰り返しになるが、事務所やレコード会社がもっと若者の記憶に刻まれるようなビデオ制作に力を入れていたら、違った展開になっていただろう。(偉そう)

というわけで、ローラ・ブラニガン。
正直聴くとしたらベスト盤でいいかなと思っていますが、もしみなさんの推奨盤があれば教えていただけたらと思います。

Self-control
ローラ・ブラニガン Self Control
Laura-branigan-best

ローラ・ブラニガン The Best of Laura Branigan   

Numero177

Numero TOKYO 2024年6月号特別版

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聴いてない 第315回 ヴィクセン

女性だけのバンドと言えばゴーゴーズバングルスなどが思いつくが、その中でもHR/HMに傾倒してたバンドがヴィクセンである。
みなさんはご存じでしょうか?

ヴィクセン、聴いたことがあるのは89年の「Cryin'」だけ。
リアルタイムなエアチェックではなく、2000年くらいに「NOW」系CDをレンタルで聴いたらたまたま収録されていたという状況。
アルバムは聴いてないので、聴いてない度は2。

デビュー当時雑誌でヴィクセンの写真付き記事を見た記憶がかすかにあり、「女豹」「女性版ボン・ジョビ」などと表現されていた気がする。
小岩のCDレンタル店「友&愛」にもアルバムが並んでいたこともぼんやり覚えている。
美貌のガールズバンドだけど、メタルな人たちという情報だけ知って遠ざけたんだと思う。
ちなみにヴィクセンという同名のバンドは他にも存在し、マーティー・フリードマンが82年頃に在籍したメタルバンドもヴィクセンというそうだ。

で、ガールズのメタルバンド、ヴィクセン。
当時の日本での人気や知名度は全くわからない。
そこで生涯初のヴィクセン調査を開始。

ヴィクセンはアメリカのハードロック/ヘビー・メタル・バンド。
ミネソタ州セントポールでジャン・クエネムンドを中心に1980年に結成された。
その後ジェネシスに改名したりメンバー交代があったりしたが、84年に以下のメンバーでコメディ映画「ハードボディーズ」にバンド「ダイパー・ラッシュ」として出演した。
・ジャン・クエネムンド(G)
・ジャネット・ガードナー(Vo)
・ピア・マイオッコ(B)
・ローリー・ヘドランド(D)
・タマラ・イワノフ(G)

なので音楽より映画デビューのほうが先ということになる。
さらに87年にはドキュメンタリー映画「西洋文明の衰退 II: メタル イヤーズ」にも出演。
ドキュメントなので演技はなくインタビュー出演だったが、この映画にはファスター・プッシーキャットやメガデスのライブ映像や、オジー・オズボーンエアロスミスアリス・クーパーキッス、メガデスやW.A.S.P.などメタルな人たちのインタビューが収録されており、サントラ盤も発売された。
豪華なメタルバンドに混じってデビュー前のヴィクセンも出演していたのは驚きである。

88年頃にはドラムがロキシー・ペトルッチ、ベースがシェア・ペダーセンに代わり、4人体制の「クラシック・ラインナップ」が形成された。
この4人でデビューアルバム「Vixen」をリリース。
最初のシングル「Edge of a Broken Heart」はリチャード・マークスとフィー・ウェイビルの共作で、リチャードはプロデュースも担当し、全米26位・全英51位を記録。
続く「Cryin'」は全米22位・全英27位で、最大のヒット曲となった。(アルバムは全米41位)
ヴィクセンは翌89年に世界ツアーを行い、オジー・オズボーンやスコーピオンズ、ボン・ジョビなどのアーティストをサポートしたり、ヘッドライナーを務めたりした。

90年には2枚目のアルバム「Rev It Up」を発表。
直後にツアーを開始し、1年かけて欧米を巡り、ステージでメインを務めたり、キッスやパープルのサポート・アクトで演奏した。
しかしこのツアー中にメンバー間に摩擦が生じ、92年にヴィクセンは解散する。

以降のヴィクセンの歴史は、メタルバンドの鉄則である離合集散の連続だった。
ガールズではあっても、やはりメタルの血の掟からは逃れられなかったようだ。

97年にロキシー・ペトルッチとジャネット・ガードナーが新メンバー2人を加えてヴィクセンを再結成する。
全米ツアー中に1人が脱退し、98年に3人でアルバム「Tangerine」を発表。
直後にロキシーの妹マキシンがベースとして参加するが、バンドは創始者ジャン・クエネムンドから商標権侵害で訴えられた。
結果はバンド側が勝訴したが、一部ジャンの要求も受け入れられ、痛み分けみたいな話になったらしい。
やはりジャンにしてみれば、自分の作ったヴィクセンが自分抜きで再結成されて活動してることが不満だったんだろう。

その後ジャンとメンバーは和解し、99年にはベスト盤「The Best of Vixen: Full Throttle」もリリースされた。
2001年にヴィクセンはジャン・クエネムンド、ジャネット・ガードナー、ロキシー・ペトルッチ、新ベーシストのパット・ホロウェイで再々結成された。
再々結成ヴィクセンはめでたく全米ツアーを開始。
だがツアーの途中で意見の相違というやっぱりでド定番な理由によりジャンと他の3人の間にまた亀裂が生じ、3人は脱退。
結局ジャンだけがヴィクセンに残ることになった。

ジャンは残りのツアーを続けるため、急遽後輩芸人3人を招集。
呼ばれたのはジェナ・サンツ・アジェロ(Vo)、リン・ルイーズ・ローリー(B)、キャスリン・キャット・クラフト(D)。
だが2004年にアメリカのテレビ番組「Bands Reunited」でデビュー当時のメンバーでのライブが放送された。
番組を見たファンの間でオリジナルメンバーでの再結成も期待されたが、やはりテレビ用のイベントだったようで、結局実現はしなかった。
新生ヴィクセンは2006年にスウェーデンでのライブを収録した「Extended Versions」と、スタジオ盤「Live & Learn」を発売。
「Live & Learn」ではデビッド・ボウイの「Suffragette City」をカバーしている。

しかし結果的にこれがジャン在籍の最後のアルバムとなる。
新生ヴィクセンは2011年頃には次のアルバムを制作中であると表明したが、ジャンは密かにジャネット・ガードナー、シェア・ロス、ジーナ・スタイル、ロキシー・ペトルッチによるクラシックなヴィクセンを再結成する計画を立てていた。
だが再結成を発表する直前にジャンが癌と診断され、発表は無期限延期となる。
ジャンは残念ながら回復することなく2013年10月に59歳で亡くなり、クラシック・ヴィクセン再結成は永久に不可能となった。

残されたクラシック組のジャネット、シェア、ロキシーは、ジャンの遺志を尊重しヴィクセンの活動継続を決意する。
ジャンの構想どおりジーナ・スタイルがバンドに復帰し、翌2014年からジャン追悼ライブをアメリカやカナダで行った。
ツアー後ロキシー・ペトルッチは、ヴィクセンがジャンに捧げる曲を収録した新しいアルバムを制作中であると語った。

だがジャンが亡くなった後も、ヴィクセンはメンバーチェンジが止まらなかった。
2017年3月にジーナ・スタイルが脱退し、ブリット・ライトニングが加入。
2019年1月にはボーカルのジャネット・ガードナーが、家族との時間やソロキャリアを優先するためヴィクセンを脱退したとFacebookで発信。
バンドはジャネット脱退後も活動を継続し新しいスタジオアルバムを制作中であると発表。
後任にロレイン・ルイスが加入する。
2022年2月、今度はシェア・ロスが活動休止宣言し、後任にリッチー・コッツェンの妻としても知られるブラジル人のジュリア・ラージが加入する。

ヴィクセンは現在も活動中で、昨年10月にはシングル「Red」も発表している。

以上がヴィクセンの栄光と混乱の歴史である。
知ってた話はやはり今回もゼロ。
在籍した人の総数が20人以上もいるという変動相場制バンドだった。

初期の映像や写真を見ると、メンバー全員がボリュームのある長髪をしていて、ビジュアル面でもメタル系を強調していることがわかる。
ただし歌唱力や演奏は比較的実直で、絶叫や重低音を売りにしていた感じではない。
ステージで豚の生首を客席に投げたりギターに火を付けて振り回したりブーツに凶器を仕込んで反則したり、といった狼藉をはたらいたりはしていないようだ。
少なくとも「Cryin'」はふつうのロックナンバーで、ハートのアルバムに入っていても全く違和感はない曲である。
もしデビューが5年早ければ、きっと柏村武昭も番組で紹介していただろうと思う。

というわけで、ヴィクセン。
スタジオ盤は4枚なので全盤学習も難しくはなさそうですが、聴くとしたら正直デビューアルバムだけでもいいかなとも思っています。
みなさまの鑑賞履歴はいかがでしたでしょうか?

Vixen

ヴィクセン Vixen

Tangerine
ヴィクセン Tangerine
Vixen-147236

ビクセン(Vixen) 双眼鏡 アトレックIIHR8×32WP 14723-6 ブラック

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聴いてない 第314回 ロビー・ネヴィル

今日ご紹介するのはロビー・ネヴィル。
おそらく日本では一発屋と評される気の毒な歌手だと思いますが、ご存じでしょうか?

ロビー・ネヴィル、聴いているのはその一発当たった86年の大ヒット曲「C'est la Vie(セ・ラ・ヴィ)」だけ。
聴いてない度は2だけど、自分と同じ状態の人は多いと思う。
ネット上でも彼を語るサイトはあまり多くなく、まあ一発屋なんで仕方がないかと思っていたが、情報をかき集めていくうちに意外な事実が判明。
歌手としての実績は確かに「C'est la Vie」を含む数曲程度だが、他のミュージシャンへの曲提供や演奏やプロデュース実績は想像をはるかに上回るものだった。

ロビー・ネヴィルは1958年10月ロサンゼルス生まれ。
11歳でギターを弾き始め、アマチュア時代はカバーバンドで演奏。
83年にオリジナル曲を発表し始め、他のアーティストに向けに曲を作っていたが、86年にマンハッタン・レコードと初めてレコーディング契約を結ぶ。
当時マンハッタンはEMIアメリカ傘下の新鋭レコード会社で、カナダの新人バンドのグラス・タイガーを成功に導き、勢いに乗っていたところでロビー・ネヴィルを発掘。
デビューアルバム「Robbie Nevil」を発表すると、シングル「C'est la Vie」がビルボード・ホット100でいきなり2位を獲得する。
さらにシングル「Dominoes」も14位、「Wot's It To Ya」が10位を記録。
うーん・・ということは、少なくとも本国アメリカでは一発屋ではなかったんスかね?

88年にはセカンドアルバム「A Place Like This」をリリース。
シングル「Back on Holiday」は全米34位、「Somebody Like You」は63位と健闘はしたものの、前作を超える実績には及ばなかった。(アルバムは全米118位)

91年に再起を賭けてアルバム「Day 1」を発表。
シングル「Just Like You」は全米25位、「For Your Mind」は86位。
善戦はしたと思うが、アルバムは200位にも入らず、歌手としてのオリジナルアルバム発表はこれで終了となった。
アルバムを3枚発表して終了って、本人は後悔しなかったのだろうか?

しかしロビーの音楽活動はまだ続きがあった。
この後は多くの著名なアーティストへの曲提供、歌・演奏、アレンジ、プロデュースを幅広く手がけていく。
ロビーの公式サイトを見ると、ド素人の自分でも知ってる人や曲がたくさん掲載されている。
・ポインター・シスターズ「Contact」:作詞作曲
・ジェシカ・シンプソン「Woman In Me(featuring Destiny's Child)」:プロデュース
・映画「カクテル」サウンドトラック:「Since When」:作詞作曲・歌・プロデュース
・ベイビーフェイス「Simple Days」:作詞作曲
・デイヴ・リー・ロス「A Lil' Ain't Enough」「Shoot It」:作詞作曲(デイヴとの共作)
・エターナル「This Love Is for Real」:作詞作曲
アース・ウィンド&ファイアー「You and I」:作詞作曲
・エル・デバージ「Someone」:作詞作曲
・スティービー・ニックス「Silent Night」(A Very Special Christmas):バックボーカル
スターシップ「It's Not Over」:作詞作曲
シーナ・イーストン「You Make Me Nervous」:作詞作曲
ケニー・ロギンス「What a Fool Believes」:アレンジ
・テイラー・デイン「Naked Without You」:アルバムプロデュース
・松田聖子「I'll Be There For You」:作詞作曲・歌

2006年には西海岸のロックバンド、スマッシュ・マウスのアルバム「Summer Girl」でマシュー・ジェラードとコラボレーション。
ジェラードは以前からディズニー映画の曲を書いており、その縁でロビーも「チーター・ガールズ」「ハイスクール・ミュージカル」「ハンナ・モンタナ」などのディズニーの映画やテレビドラマなどの仕事につながった。
2011年からはソニー傘下のエクストリーム・ミュージックで制作や作曲、プロデュースを行っている。

以上がロビー・ネヴィルの音楽活動の足跡である。
知ってた話は今回も全くなし。
90年代以降は完全に裏方として業界を支えてきたことも知らなかった。

自身のアルバムのクレジットを見るとわかるが、大半の曲が共作で、一人で作った曲はほとんどない。
また他のアーティストへ提供した曲も共作が多く、シングルカットされたりヒットしたりはしておらず、基本的にアルバム収録曲である。
自分一人で作って好きなように歌うという傲慢なオレ様タイプではなく、周囲のミュージシャンと協力しながら楽しく仕事をする人のようだ。
「C'est la Vie」の大ヒットをハナにかけて若手にマウントをとったり後輩のケツをバットで殴ったり・・という不適切なことはしていないと思う。

だが。
「C'est la Vie」の実績を調べてみると、どれだけすごいヒットだったかがよくわかる。
・全米2位(ダンス&ディスコ・クラブ・プレイチャートでは1位)
・全英3位
・カナダ・フィンランド・スイスで1位
・アイルランド・スウェーデン・西ドイツで2位
・ノルウェー・オーストリア・オーストラリアで4位
・スペイン7位、ベルギー13位、オランダ18位

とにかく当時欧米でサルのように売れた曲なのだ。
こんだけ売れたなら少しくらいはハナにかけてもいいかもしれない。
ちなみに「C'est la Vie」の全米1位を阻んだのは、グレゴリー・アボットの「Shake You Down」とビリー・ヴェラ・アンド・ザ・ビーターズの「At This Moment」だったそうだ。

自分は「C'est la Vie」をほぼリアルタイムで「クロスオーバー・イレブン」から録音している。
たまたま60分テープのB面ラストに録音したのだが、同じテープに録音したのがクラウデッド・ハウスの「Don't Dream It's Over」やスティーブ・ウィンウッド「Back In The High Life Again」などヒット曲ばかりだったので、ロビー・ネヴィルも含めてよく聴いたほうだ。
どこかけだるいリズムにガヤガヤした演奏、タイトルコールに「That's Life!」という合いの手が重なり、思った以上に聴きやすいし、今聴いてもそれほど古さを感じない。
またエンディングはフェードアウトでいったん無音になり、しばらくして同じリズムとメロディで戻ってくるという演出がある。
このあたりもビートルズのようで面白いと思っていた。

というわけで、ロビー・ネヴィル。
オリジナルアルバムは3枚だけなので学習も難しくはなさそうですけど、そもそも日本で入手可能なんですかね?
聴くとしたら当然デビューアルバムは外せないと思いますが、みなさまの鑑賞履歴や「C'est la Vie」以外の曲をご存じでしたら教えていただけたらと思います。

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ロビー・ネヴィル Robbie Nevil

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ロビー・ネヴィル A Place Like This
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辛酸なめこ 無心セラピー

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聴いてない 第313回 ヴァネッサ・カールトン

一度聴いたら忘れないような、印象的なイントロという曲はいくつかあると思う。
ビートルズには「A Hard Day's Night」や「Let It Be」など数多いし、個人的にはイーグルス「Hotel California」やクイーンの「Tie Your Mother Down」、TOTO「Africa」やパープルの「Burn」なども当てはまる。
で、その昔ラジオから聞こえてきた「A Thousand Miles」も、思わず「おお・・」と反応してしまうくらい印象的なイントロだった。
曲名とアーティスト名を知ったのは少し後。
歌っていたのはヴァネッサ・カールトンである。

印象的で思わず反応とか言ってるけど、結局ヴァネッサ・カールトンの曲は「A Thousand Miles」しか知らない。
聴いてない度は2。
自分は長いこと勉強もせずFM放送やMTVを音源に60分テープのコレクションを作ってきたが、その最後の128本目に「A Thousand Miles」を録音している。
(MTVの2002年末特集を丸録り)
なのでリアルタイムで聴いたような感じにはなるが、歌い手であるヴァネッサ・カールトンについては全く情報もなくそのまま20年以上も経過。(毎度のこと)

取り急ぎ略歴を調査。
ヴァネッサ・カールトンは1980年8月16日、ペンシルベニア州ミルフォードに生まれた。
パイロットの父親と音楽教師の母親に育てられ、妹と弟がいる。
幼少の頃からクラシック音楽やバレエに親しみ、14歳でバレエ学校に入学。
卒業後はナイトクラブで歌い始め、実家に帰省していたある日ピアノで思いついたメロディを弾いてみたら、そばで聴いていた母親から「絶対ヒットする!」と言われて俄然やる気になった、という。
それが「A Thousand Miles」の原曲だそうだ。

その後ニューヨークに移り、コロンビア大学を中退しウェイトレスとして働きながら創作を続けた。
ある日プロデューサーのピーター・ジッツォと出会い、デモを録音。
A&Mレコードと契約し、アルバム制作に着手した。

だがアルバム制作は試行錯誤の連続で、一度は断念寸前まで行ったが、「Interlude」という曲のデモを聴いたA&Mの社長ロン・フェアが、自らプロデュースとアレンジを担当。
ロン社長の意向で後に「A Thousand Miles」に改題され、2001年の映画「キューティ・ブロンド」で使われ、サウンドトラックにも収録された。
だがこの曲が逆に映画のような展開となる。
ロン社長はA&M社の会長であるジミー氏に「A Thousand Miles」を聴かせたところ、ジミー会長が大感激。
まだアルバム制作中だったにもかかわらず、会長はすぐにミュージックビデオの撮影を指示。
まさかのトップダウン命令にロン社長もあわてて部下に撮影開始を伝え、年末進行でビデオが完成した。

こうしてシングル先行で「A Thousand Miles」が2002年2月に発売され、全米5位の大ヒットとなった。
さらにグラミー賞の年間最優秀レコード賞や年間最優秀楽曲賞、最優秀器楽編曲伴奏ボーカリスト賞にノミネートされた。
デビューアルバム「Be Not Nobody」も2002年4月に無事リリースされ、10万枚以上を売り上げて全米チャートで5位を獲得。
世界中で200万枚以上の売り上げを記録した。

若き才能と経営者の英断が見事に功を奏し、ヴァネッサ・カールトンはデビュー直後にいきなりスターになる。
2002年にアルバムのプロモーションのため全米ツアーを行い、グー・グー・ドールズとサード・アイ・ブラインドの前座を務めた。
同年早くも名古屋・大阪・東京で日本公演が開催され、2003年にはヨーロッパ・ツアーも行われた。

成功に気をよくしたレコード会社側の計らいもあり(多分)、デビューしたばかりなのにビッグアーティストとのコラボレーションも次々と実現する。
ジョニ・ミッチェルのレコーディングにボーカル参加したり、イタリアの歌手ズッケロの曲でピアノやバイオリンを演奏。
フォーク歌手キミヤ・ドーソンの「Moving On」ではバックボーカルを務めた。

そんな中で2枚目のアルバム「Harmonium」は2004年11月にリリースされた。
プロデュースは当時ヴァネッサと交際中だったサード・アイ・ブラインドのステファン・ジェンキンス。
しかし前作ほどの明るさがなく、シングル「White Houses」は歌詞が問題視されるなど物議を醸し、結局「Harmonium」は1年以上経っても15万枚しか売れなかった。
15万枚も売れたならええやんけとも思うが、デビューアルバムが200万枚だったらまあ15万はガッカリする数字だ。
この結果レコード会社との間にも摩擦が生じ、ヴァネッサは移籍を決意する。

3枚目のアルバム「Heroes & Thieves(英雄と盗賊)」は、アーヴ・ゴッティ、リンダ・ペリー、ステファン・ジェンキンスが共同プロデュースし、2007年10月にモータウン系レーベルのザ・インクより発表された。
実はすでにヴァネッサとステファンは破局を迎えていたが、仕事上の関係は続いていたようだ。
アルバムは評論家の支持は得たものの残念ながら商業的には失敗で、ビルボードでは44位止まりで、トップ40に入らなかった初めての作品となった。
結局ヴァネッサはこのアルバムだけでザ・インク・レコードからも去ることになる。

その後ヴァネッサは、チベット支援のために編集されたアルバム「ソングス・フォー・チベット」に曲を提供したり、慈善団体を通じて気候変動研究者らと協力するなど、社会的な活動が増えていく。
様々な体験を重ねるなか、次回作を通常のアルバムとするか映画音楽を追求するかで迷うことになる。
ヴァネッサが出した結論は「理想的な環境で完璧な音楽アルバムを録音する」ことだった。
こうしてスタッフもレーベルも刷新した4枚目のアルバム「Rabbits on the Run」は2011年7月にリリースされた。
内省的な歌詞と幻想的なサウンドは評論家からは絶賛されたが、チャートでは62位と前作よりもさらに低い評価に終わった。

2013年にヴァネッサはオルタナバンド「ディア・ティック」のジョン・マッコリーと結婚。
結婚式の司会はスティービー・ニックスが務めたそうだ。
しばらく音楽活動は休止となったが、こうした人生の変化を楽曲に反映したとされたのが2015年発表のアルバム「Liberman」である。
プロデューサーは前作に続いてスティーブ・オズボーンが担当。
スティーブは演奏や作曲でも協力しており、当時のヴァネッサのレコーディングには欠かせない存在になっていた。
チャート成績は全米32位だったが、ヴァネッサ自身はもうあまり順位を気にしなくなっていたのではないかと思う。

2017年に自身のビクターミュージックレーベルから「Earlier Things Live」というライブアルバムをリリース。
2018年末には久々の日本公演が行われた。
2019年にはキャロル・キングのミュージカル「ビューティフル」の主役でブロードウェイデビューも果たした。
現時点での最新作は2020年発表の「Love Is an Art」。
全曲がトリステン・ガスパダレックという人との共作である。

以上がヴァネッサ・カールトンの栄光と波乱のストーリー。
知ってた話は今回も全くない。

冒頭に述べたとおり、自分は「A Thousand Miles」をMTVの2002年末特集で録音したが、この年は多くの若い女性ミュージシャンがヒットを飛ばしており、番組では他にアヴリル・ラヴィーンの「Complicated」、ノラ・ジョーンズ「Don't Know Why」、シャキーラ「Whenever, Wherever」などがオンエアされていた。
2003年のグラミー賞でヴァネッサ・カールトンは年間最優秀レコード賞にノミネートされたものの、最終的にはノラ・ジョーンズが受賞したので、ヴァネッサにとっては強豪揃いの中で苦戦したとも言えそうだ。

「A Thousand Miles」は歌詞だけ読めば会えない男女の悲しい心情を歌ったものと解釈されるところだが、ヴァネッサ本人によれば「亡くなった祖父のことを想って作った」曲だそうだ。
「A Thousand」なのに「Miles」と複数形になっているのも、絶望的なほどの遠い距離を強調しているらしい。
悲しい歌詞を美しく印象的なピアノでリズミカルに進める名曲であり、繰り返しになるがとにかく「一度聴いたら忘れない」ようなイントロである。
今も世界中でプロアマ問わずこの曲を歌ったり弾いたりする人は多いようで、日本でも「A Thousand Miles」をストリートピアノで弾いてる動画もいくつか見つかる。

ここからは日本限定の話題だが、あることがきっかけで「A Thousand Miles」とヴァネッサが再び人気急上昇となった。
日本のロックバンド「ONE OK ROCK」のTakaが2014年の横浜でのライブ中、「今のところ世界でいちばん好きな曲」と紹介して「A Thousand Miles」を披露。
これを機にONE OK ROCKのファンを中心にオリジナル曲の人気も高まり、ワンオク版とともに再生回数も上昇。
レコード会社(ユニバーサル)も反応し、2020年10月には日本独自企画盤として「A Thousand Miles」も収録した「Piano Songs」の配信が始まったのである。

ONE OK ROCKの「A Thousand Miles」もYou Tubeで見たが、Takaのキーが女性並みに高く英語の歌詞もネイティブばりの発音で、元曲の雰囲気を損なうことなく歌いこなしている秀逸なカバーだ。
Takaのことも調べてみて初めて知ったが、この人はかつて元ジャニーズのNEWSのメンバー(ただし在籍期間は3ヶ月程度)で、父は森進一、母は森昌子。
国内外のミュージシャンのレコーディングにも多数参加する実力派ボーカルとのこと。
何が起きるかわからない芸能界だが、こういういい話は今後も世界中で起きていってほしいものである。

というわけで、ヴァネッサ・カールトン。
当然「A Thousand Miles」収録のデビューアルバムは外せないと思いますが、日本限定の「Piano Songs」からでもいいかなとも思っています。
他におすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

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ヴァネッサ・カールトン Be Not Nobody
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ヴァネッサ・カールトン Piano Songs

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聴いてみた 第182回 ロッド・スチュワート

先日有明アリーナでロッド・スチュワートの公演が行われ、SNSでも自分の複数の友人がタイムラインでライブの様子を発信していた。
その楽しそうなレポートをぼんやりと眺めているうちに急速に感じた危機感。(遅い)
実はロッド・スチュワートの70年代ソロ作品を全然聴いていなかったのでした。(遅い)
ということで間違った焦燥感に押し流されるようにあわてて聴いてみたのが「Foot Loose & Fancy Free(明日へのキック・オフ)」。(遅い)

聴く前にアルバム概要を拙速に学習。
「Foot Loose & Fancy Free(明日へのキック・オフ)」は77年発表。
ロッドは70年代前半はフェイセズに所属しながらソロ作品も発表していた。
75年にフェイセズは解散し、ロッドはワーナー・ブラザースに移籍。
アメリカで録音した「Atlantic Crossing」「A Night on the Town」がヒットし、引き続き多くのアメリカ人ミュージシャンが参加して完成したのが「明日へのキック・オフ」で、スタジオ盤としては8作目となる。

Foot-loose-fancy-free

ロッドのバックバンドとして演奏しているのは以下のメンバーである。
・ジム・クリーガン(G)
・ゲイリー・グレインジャー(G)
・ビリー・ピーク(G)
・フィル・チェン(B)
・カーマイン・アピス(D)
・ジョン・バーロウ・ジャーヴィス(K)

さらにスティーブ・クロッパー、ニッキー・ホプキンス、ジョン・メイオール、フレッド・タケットなどの大物芸人も参加し、豪華な内容となっている。
プロデューサーにはアメリカ進出以来成功を共有してきた信頼と実績のトム・ダウドを起用。
チャートでは1位は逃したものの、全英3位・全米2位を記録した。
構成としては「Atlantic Crossing」と同様に「A面=ファストサイド=ロック色の強い楽曲中心、B面=スローサイド=バラード・タイプの楽曲中心」となっている。

安心材料として、ロッドの代表作「Hot Legs」「You're In My Heart」や、ヴァニラ・ファッジもカバーした名曲「You Keep Me Hangin' On」が収録されている。
まあ仮に全曲初鑑賞だとしてもロッドのボーカルなので不安はあまりないはずである。
そんな思い上がった態度で聴いてみました。

・・・・・聴いてみた。

1. Hot Legs
ロッドの代表曲とも言えるガヤ系ナンバーでスタート。
意外に長いイントロからワクワクさせる。
やはりこういう下品な曲がロッドには似合う。

2. You're Insane
初めて聴く曲。
リズミカルではあるがやや重いメロディで、ベースがべんべんと響く。

3. You're In My Heart(胸につのる想い)
ファストサイドに収録されているが、思いっきりスローでおだやかな曲。
なんでA面に入ってんの?
これもロッドの代表的なバラードである。
歌詞をきちんと見たのは初めてだが、けっこういろんなことを語っている。
「You're celtic, united,」というサッカーチーム名を入れて女性への想いを語る部分が有名だそうだが、サッカー好きのロッドならではの表現だと思う。
ただ感覚的には日本人にはいまいちわかりにくい気がする。
例えば「君はガンバ、セレッソ」と言われてキュンとなる浪速女子がどれくらいいるのか・・・?

4. Born Loose
一転スピーディーなメロディのロック。
・・・と思ったら中盤でどんどんスピードが落ちてゆっくりになり、再び加速する不思議な構成。
タイトルは「生まれながらのだらしないヤツ」という意味らしい。

5. You Keep Me Hangin' On
シュープリームスの曲をヴァニラ・ファッジがカバーして大ヒットしたあの名曲を、なぜかロッドもカバー。
たぶん元ファッジのカーマイン・アピスの発案じゃないかと思う。
雰囲気はファッジ版に寄せていて、長さもキーボードもコーラスもファッジ風。
中盤の静寂のあと、ピアノやストリングスが鳴る間奏があり、ファッジ版よりも物憂い味付けになっている。
ちなみにこの曲、86年にキム・ワイルドもカバーしており、さらに日本では野口五郎や西城秀樹、五木ひろしもカバーしてたそうです・・

6. (If Lovin' You Is Wrong) I Don't Want to Be Right
この曲も聴いたことがあった。
ロッドのオリジナルかと思っていたが、元々はザ・エモーションズというグループのために書かれた曲のカバー。
他にも多くの歌手やグループがカバーしており、フェイセズも解散直前にレコーディングしたことがあるそうだ。(フェイセズとしては未発表)
スローサイドならではの憂いに満ちたバラードで、ロッドのボーカルはどんな曲でも合うのがよくわかる。

7. You Got A Nerve
さらに哀愁漂うバラードが続く。
アコースティックギターで静かに始まり、ロッドが一人で歌う。
コーラスはなく、メンバーのガヤもこの曲では聞こえない。
どこかフラメンコのようなスパニッシュな雰囲気。
時々鳴るインド風のような音は、スライドギターを使ってシタールのような音を出しているらしい。

8. I Was Only Joking(ただのジョークさ)
ラストは温かみのあるメロディのバラード。
アメリカではシングルカットもされ、22位を記録している。
この曲もアコースティックギター中心のサウンドだが、間奏ではエレキギターでのソロも入れている。
エンディングはロッドとは思えないほど声が小さくなっていて、どこか照れながら語りかけるようにささやき、静かに終わる。

聴き終えた。
当たり前だが全部ロッドのボーカルなので、やはりフェイセズよりも安心して聴ける。
本人も声が世界最強の武器であることを自覚して歌っているし、どんな曲調でもこなせる自信にあふれたアルバムになっている。
ファストサイド・スローサイドという構成も、このアルバムではうまく機能していると思う。
「You're In My Heart」がファストサイドのA面収録だけは変だけど。
発売当時から聴いていたら間違いなく定着していたはずだ。(後悔)

このアルバムがロッドの最高傑作であり頂点と評するファンも多いようだ。
この後の「スーパースターはブロンドがお好き」からディスコサウンドを採り入れるなど産業ロック化していき、日本では大ヒットしたが、古くからのファンには評判が悪くなっていったらしい。
本人はあまり気にしてなかったと思うが、キャリアの中では80年代はそれほど評価されていない、ということになっている。
個人的には「Tonight I'm Yours」「Baby Jane」「Infatuation」「People Get Ready」「Every Beat of My Heart」「Lost in You」など、80年代のシングルこそむしろマメに聴いてきたクチなので、そうなの?とも思うが。
実際79年の「Da Ya Think I'm Sexy?」以降10年間は全米・全英ともトップ10入りした曲がなく、再びトップ10入りしたのは89年「Downtown Train」である。

というわけで、「明日へのキック・オフ」。
これは非常に良かったです。
名曲の連続でアルバムとしてのまとまりもあり、ベスト盤くらいの水準にあるんじゃないかと感じました。
この前の作品である「Atlantic Crossing」「A Night on the Town」も、早急に鑑賞しておきたいと思います。
 

Foot-loose-fancy-free

ロッド・スチュワート 明日へのキック・オフ

Atlantic-crossing
ロッド・スチュワート Atlantic Crossing
A-night-on-the-town
ロッド・スチュワート A Night on the Town

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聴いてない 第312回 ロマンティックス

名前はとてもわかりやすいけど、日本での知名度はおそらくC-C-Bよりは低いであろう、ザ・ロマンティックス。
もちろん聴いてないのですが、みなさんはこのバンドご存じでしょうか?

ロマンティックス、聴いてるのは大ヒット曲「Talking in Your Sleep」と、「One In A Million」の前半。
どっちも当時の若者向け一流FM音楽番組「サンスイ・ベストリクエスト」で録音したが、「One In A Million」はテープが足りず途中で切れてしまい、以来二度とフルコーラス録音ができなかった。
従って聴いてない度は事実上2。
雑誌に紹介記事があったこともかすかに覚えており、なんか黒い革ジャン姿の面々だったと記憶している。

当時日本のFM番組で曲がかかるくらいのアーティストであれば、今はネットでほぼ氏素姓や略歴や賞罰やイザコザが(真偽は別として)調査可能だ。
今回ロマンティックスも調べたらいろいろな情報が見つかったが、日本での「Talking in Your Sleep」だけの一発屋バンドという評価は、本国ではかなり違うことが判明。
詳細は以下のとおり。

ザ・ロマンティクスは1977年にデトロイトで結成されたアメリカのロックバンドである。
・・・いきなり勘違いで恐縮だが、ずっとイギリスのバンドかと思ってました・・
パワーポップやニューウェーブといったカテゴリーに組み入れられることが多いらしいが、どちらかというと50年代の古き良きアメリカのロックンロールやモータウンなどのR&B、また60年代のガレージロックに影響を受けたバンドだそうだ。
そう言われてもあまりよくわかりませんが・・

結成当時のメンバーは以下のみなさんである。
ウォーリー・パルマー(Vo、G)
マイク・スキル(Vo、G)
リッチ・コール(B)
ジミー・マリノス(D)

主にウォーリー・パルマーとマイク・スキルが作曲を担当し、メンバー全員がボーカルを取れる。
77年のバレンタインデーにデトロイトで初の公演を行い、バンド名をザ・ロマンティックスとした。

78年にインディーズレーベルでシングル「Little White Lies」「Tell It to Carrie」を発表しレコードデビュー。
79年にCBSと契約しこれらのシングル曲を再録音し、セルフタイトルのアルバムをレコーディングした。
このアルバム収録のシングル「What I Like About You」がヒットし、全米49位、全豪2位を記録。
アルバムも20万枚以上の売り上げとなった。(全米61位)
なおこのアルバムではキンクスの「She's Got Everything」をカバーしている。

80年にセカンドアルバム「National Breakout」をリリースするが、直後にマイク・スキルが脱退。
後任ギタリストのコズ・キャンラーが加入し、3作目アルバム「Strictly Personal」をレコーディングした。
しかしその後リッチ・コールが音作りに不満が募り脱退。
脱退したマイク・スキルがベーシストとして復帰することになった。

83年の4枚目のアルバム「In Heat」はロマンティックスにとって最大の商業的成功となる。
1・2枚目のアルバムをプロデュースしたピーター・ソリーを再度プロデューサーに起用。
ピーターさんはプロコル・ハルムの元メンバーで、エリック・クラプトンホワイトスネイクのレコード制作に参加したことがあり、ピーター・フランプトンやモーターヘッドのプロデュースもしたことがある人物だそうだ。
さらにミキシングを担当したのがイギリスのエンジニアであるニール・カーノン。
この人の実績を調べたら、ニール・ダイヤモンドジューダス・プリーストホール&オーツイエスカンサスドッケンクイーンズライクなど、ものすごい数の作品でプロデュースやミキシング、アレンジや演奏を手がけている。

このピーター&ニール効果もあって、アメリカではゴールドアルバムを獲得し、最終的には90万枚以上の売り上げを記録。
ファーストシングル「Talking in Your Sleep」はアルバム制作の最後に録音した曲で、当初はインストだったが、出来の良さにメンバーが共感して歌詞やサウンドを追加。
この判断が奇跡を起こし、「Talking in Your Sleep」は全米ビルボードホット100チャートで4週連続3位となる大ヒット。(カナダでは1位)
セカンドシングル「One In A Million」も翌年のチャートで37位、ダンスチャートでは21位を記録した。
ロマンティックスは「In Heat」のヒットを機に全米や国外でコンサートツアーを行い、テレビ番組にも多数出演。

だが。
この絶頂が実にわかりやすくバンド内外に様々な摩擦と軋轢を生むことになる。
84年にドラムのジミー・マリノスがバンドを脱退し、デヴィッド・ペトラトスが加入。
85年にまたピーター・ソリーがプロデューサーとなってアルバム「Rhythm Romance」をリリースするが、ピーター効果も前作に遠く及ばず最高72位に終わり、シングル「Test of Time」も71位と惨敗。
「Rhythm Romance」ツアーはチケットも売り上げが悪く、徐々にバンドとマネジメント会社やレコード会社との間に緊張が高まっていく。
その後バンドはソニー系のレコード会社から離れることになった。

80年代後半、ロマンティックスのマネージャーがレコードやライブから得た利益を不正に流用していたことが発覚。
さらにバンドのヒット曲「What I Like About You」が、テレビコマーシャルに使用するために勝手にライセンスされていた。
メンバーは87年にマネージャーに対して訴訟を起こしたが、面倒な訴訟手続きによりバンドは90年代半ばまで新曲のレコーディングをすることができなかった。

そんな事態にもめげずバンドは活動を続行。
90年にデヴィッド・ペトラトスが脱退するが、元ブロンディのクレム・バークがに加入する。
だがロマンティックスはその存在をほとんど忘れられ、小さな会場で地味にライブ活動を行う日々が続いた。

90年代半ばにバンドにようやく復活の兆しが訪れる。
マネージャーに対する訴訟で勝利したことで、曲のライセンス料がバンドに入ることが保証され、再びレコーディングができるようになった。
まず93年にイギリス限定のEP「Made In Detroit」を録音。
またベスト盤やライブ盤も発売された。
96年から97年にかけては、ドラマーのジミー・マリノスが一時的にバンドに戻りライブを行った。

2003年、プリティ・シングスの「Midnight To Six Man」やキンクスの「I Need You」をカバーした、ブルース志向の強いアルバム「61/49」を発表。
このアルバムでは一時期復帰したジミー・マリノスが半分の曲でドラムを叩いている。
ただ残念ながら商業的には成功とはいかず、チャートでも100位以内には入っていない。

2004年、クレム・バークが再結成ブロンディに参加のため脱退。
バンド4人目のドラマーはブラッド・エルビスで現在も在籍中。
2010年にはベースのリッチ・コールが28年ぶりにバンドに復帰。
2011年にギタリストのコズ・キャンラーがバンドを脱退し、マイク・スキルはようやく本来のポジションであったリードギタリストの座に戻ることができた。
息の長いバンドは他にもたくさんあるが、元リードギタリストが脱退せずに30年近くベースをイヤイヤ(かどうか知らんけど)務め、またリードに戻ったというのも珍しいケースのような気がする。

バンドは現在も活動継続中とのこと。
ただウォーリー・パルマーは若い頃よりだいぶ太ってしまったらしい。
以上がロマンティックスのロマン輝く栄光と軋轢の架け橋である。
知ってた話は当然なし。

多くの日本語サイトには「Talking in Your Sleep」のみの一発屋などと書いてあるし、実際自分もほぼそういう印象しかなかったが、本国ではやはり状況や認識が異なるようだ。
バンド初のヒット曲が実は「Talking in Your Sleep」ではなく79年の「What I Like About You」である、という情報はおそらく日本にはほとんど入ってこなかったんじゃないだろうか。
当時姉が読んでたミュージックライフにロマンティックスが載っていた記憶は全くない。(載ってたらすいません)
その「What I Like About You」はアメリカでバドワイザーのCMやテレビドラマの主題歌に使われ、複数のアーティストによってカバーもされてるそうだ。
さらにテレビゲーム「Guitar Hero Encore」にも使われており、エラい大儲けやん・・と思ったら、バンドはゲーム開発者側を不当な楽曲利用で訴えたとのこと。
ゲームソフトでカバーされた「What I Like About You」の出来が良すぎて本物のバージョンと区別がつかず、「消費者を混乱させ、バンドが実際に音楽をゲーム開発用に録音し製品を支持していると誤解させる」というのがロマンティックスの主張。
バンドはゲームソフトの販売中止と損害賠償を求めたが、提訴の翌年に連邦地方裁判所が「ゲーム開発側はライセンスを適切に取得している」として訴えは棄却されたそうです。
いずれにしろ多くのアメリカ国民に支持されたヒット曲であることは間違いない。

一方「Talking in Your Sleep」はイギリスでは全然売れず全英100位にも入らなかったが、バックス・フィズというグループがカバーして全英15位を記録したとのこと。
同じ曲なのに本家がこれほど売れずカバーしたほうが売れた・・・なぜ?
バックス・フィズというグループも初めて知ったが、アバと同じ男女混生4人組でイギリスではかなり人気があった人たち、だそうです。

ロマンティックスはむしろ当たった「Talking in Your Sleep」だけが、どうも彼ら本来の特徴や持ち味とは違ってたようだ。
本業はもっとワイルドでブルージーなパワーポップで、切り刻むカッティングやガヤ系コーラスが魅力のはずだったらしい。
そう言われると「Talking in Your Sleep」もリズムよくビートを刻むギターやドラムがよく聞こえる曲ではある・・が、サウンド全体はやはり80年代のラメっぽい造りが施してある気がする。
なのでその一般受けするサウンドがゆえに全米で大ヒットしてしまい、同じ路線を期待したニワカなファンが続きを聴いてみたら「なんか違う」となった・・・んじゃないかと思われる。
ロマンティックスを聴いてもいない素人の自分が仮定するのも無意味だけど、最初から得意技のパワーポップ路線で売り出していたら、「Talking in Your Sleep」のような大ヒットはなかったにしても、固定ファンもたくさん付いて違った展開だったんじゃないだろうか。

というわけで、ザ・ロマンティックス。
スタジオ盤アルバムは6枚なのでやる気さえあれば全盤制覇も可能ではありますけど、今日本で全部入手できるのかはわかりません。
聴くとしたら当然最大のヒットアルバム「In Heat」でしょうけど、皆様の鑑賞履歴はいかがでしょうか?

Romantics

ザ・ロマンティックス The Romantics

In-heat
ザ・ロマンティックス In Heat
Ccb

C-C-B ロマンチックが止まらない

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聴いてない 第311回 トレイシー・チャップマン

今日のお題はトレイシー・チャップマン。
昨日FMを聴いていたら「Fast Car」がオンエアされたので採り上げてみました。

トレイシー・チャップマン、予想どおり「Fast Car」しか聴いておらず、聴いてない度は2。
あとは92年のボブ・ディランのデビュー30周年記念コンサートで「Times They Are A-Changin'(時代は変わる)」を歌っているトレイシーを見たことがある。
映像は当時NHKで放送されたので、見た人は多いと思う。
だがトレイシーについて他のオリジナル曲やアルバムを聴くことはなく今に至る。
なので彼女の正体については何も知らない。
そこでまずは略歴を調査。

トレイシー・チャップマンはアメリカの歌手で、ウィキペディアによるとジャンルは「フォーク・ブルース・ロック・ポップ・ソウル」と書いてある。
思ったより幅広い音楽性を持っているようだ。

トレイシーは1964年オハイオ州クリーブランドで生まれた。
両親は彼女が4歳のときに離婚し母親に育てられるが、子供の頃はいじめや人種差別など苦労があったようだ。
8 歳でギターを弾き曲を書き始める。
大学で人類学を学んでいた頃、大学のラジオ局で自作曲のデモを録音した。
このデモテープがレコード会社の関係者に渡り才能が認められ、大学を卒業した後にエレクトラ・レコードと契約。

このあたりの展開が日本だと想像しづらいが、アメリカでは各大学の中に学生が運営するミニFMのようなラジオ局があり、大手レコード会社のプロモーションとは関係なく無名アーティストの楽曲を発掘しオンエアしているとのこと。
70年代末には全米のカレッジ・ラジオ局がネットワーク化され、独自のチャートを掲載する雑誌まであるそうだ。
なので「大学のラジオ曲でデモテープを作り、それがレコード会社に渡ってデビューにつながる」というのは、アメリカならではのサクセスルートだろう。

トレイシーは88年4月にデビューアルバム「Tracy Chapman」をリリースした。
リリース直後から評論家や若者に絶賛され、2ヶ月後にはロンドンのウェンブリー・スタジアムで開催された「ネルソン・マンデラ生誕70周年記念コンサート」でデビュー曲「Fast Car」を演奏。
この出演によりシングルとアルバムの売り上げが大幅に加速し、「Fast Car」は2日間で12,000枚売れたとも言われている。
最終的にビルボード・ホット100で第6位を記録するヒットとなった。
アルバムも全米1位とマルチ・プラチナムを獲得し、グラミー賞で最優秀新人アーティストなど3部門を受賞した。

88年9月に「アムネスティ・インターナショナル・ヒューマン・ライツ・ナウ!」というコンサートに出演。
ブルース・スプリングスティーンピーター・ガブリエルスティング、ユッスー・ンドゥールなどと同じステージに立ち、注目の新人出演者となった。

89年にセカンドアルバム「Crossroads」を発表。
ダニー・コーチマーやニール・ヤングも参加し、全米9位・全英1位を記録した。
なので「Fast Car」だけの一発屋芸人という評価は正しくないと言える。

92年にはオマー・ハキムやマイク・キャンベル、ボビー・ウーマックなどまたしても大物先輩芸人多数参加の「Matters of the Heart」をリリース。
だが成績は全米53位と今ひとつな結果に終わる。
勝手な推測だが、この頃はすでに全米音楽業界はグランジの波に覆われており、トレイシー・チャップマンのような素朴なアーティストの売り上げにも影響したのではないかと思う。

それでもトレイシーは実直に音楽活動を継続。
95年に4枚目のアルバム「New Beginning」を発表。
それまでの顔ジャケットをやめ、花のアップ写真を採用し、文字どおり新たな出発を決意したアルバムは成功を収め、米国だけで500万枚以上を売り上げた。
このアルバムにはキャリア最大のヒットシングル「Give Me One Reason」が収録されており、97年のグラミー賞最優秀ロックソング賞も受賞。

98年にはホワイトハウス主催のスペシャルオリンピックスディナーでエリック・クラプトンと共演した。
2000年6月、カンボジアとチベットのためのチャリティーコンサートで、オペラ歌手ルチアーノ・パヴァロッティと「Baby Can I Hold You」のデュエットを披露。

5枚目のアルバム「Telling Stories」は2000年にリリースされ、後にゴールドディスクとなった。
その後も2002年に「Let It Rain」、2005年に「Where You Live」を発表。
現時点で最新のスタジオ盤は2008年の「Our Bright Future」。
以来15年ほど新曲も新盤も発表はしておらず、時折イベントなどでステージに上がることがある、という状態。

だが「Fast Car」が歴史的名曲であることを証明するニュースが昨年報じられ、その余波が今も続いている。
昨年7月にカントリーの若手歌手ルーク・コムズがカバーした「Fast Car」がカントリー・エアプレイ・チャートで1位を獲得。
この快挙により、トレイシー・チャップマンはソロ曲でカントリーチャートの首位を獲得した初の黒人女性となった。
今月行われた第66回グラミー賞授賞式では、ルークが「Fast Car」を歌うためステージに登場。
ところがルークの横でイントロのギターを弾き始めたのはトレイシー本人だった。
トレイシーのサプライズ出演に気づいた観客からは大歓声が起こったそうだ。

「Fast Car」は他にもジャスティン・ビーバーやジョナス・ブルー、サム・スミスなどによりカバーされている。
カバーしたアーティストは10人以上にもおよび、日本でも矢井田瞳が歌詞を日本語にして歌っているとのこと。

今回も知ってた話は全然ない。
幸運なことにデビュー当時からリアルタイムで聴けたことにはなるが、デビュー曲だけの鑑賞で終わっている。

自分は「Fast Car」を88年9月頃に録音している。
MTVの音声をテープに録音したのだが、MTV側も期待の大型新人としてオンエアしたのだろう。
放送前からトレイシーの存在を知っていた日本人もほとんどいなかったんじゃないかと思う。
映像は照明が暗くトレイシーの顔も半分くらいしか見えず、声も中性的なため最初は十代の男性かと思っていた。

活動履歴を見ると、様々なジャンルのアーティスト(先輩から後輩まで)から、その実力を評価されたことがわかる。
デビュー直後からビッグイベントでビッグネームと共演し、その後もアルバムのゲストや自身のステージに数々の大物芸人を招いている。
またデビュー曲「Fast Car」が何度もカバーされているのも、トレイシーが最初からそれだけ力を持っていたからだろう。
事務所やレコード会社の力があったのかもしれないが、そう簡単なことではなく、実力が伴わなければ実現しなかったはずである。

一方で歌声や歌詞やライブでの所作などからは、非常に繊細で控えめな印象を受ける。
知り合いじゃないので断言はできないのだが(当たり前)、ディランのデビュー30周年記念コンサートでの歌い終えた後はにかみながら去って行く姿は、やはりとてもシャイな人のように感じた。
たぶんステージから「アリーナーーーーー!!」と叫んだり、全身スパンコールのボディスーツに身を包んで踊ったりはしてないだろう。
少なくとも80年代のマドンナシンディ・ローパーのようなグイグイ来る威圧系シンガーたちとは全然異なるタイプの歌手だと思う。

というわけで、トレイシー・チャップマン。
自分みたいな狭量貧弱リスナーでもトレイシーの歌なら暖かく響くのでは・・と淡い期待はあります。(本当か?)
聴くならデビューアルバムかベスト盤でいいかなとも思いますが、2000年以降の作品はどんな感じなのか、ご存じでしたら教えていただけたらと思います。

Tracy-chapman

トレイシー・チャップマン Tracy Chapman

Crossroads
トレイシー・チャップマン Crossroads

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聴いてない 第310回 ソフト・マシーン

20年も聴いてない音楽を延々公表していて、もうほぼ結論は出たジャンルがプログレである。
要は「プログレはあきらめた」という定着敗北宣言なんですけど、そんなのメタルもブルースもダンスもヒップホップもグランジも全部同じ状態。
今回採り上げるソフト・マシーンも聴く前から敗色濃厚ではあるのだが、調べていくとメンバーに聞いたことのある名前が数名見つかった。
これで少し興味がわいたので、さらに調べることにしました。

ソフト・マシーン、1曲も聴いてないので聴いてない度は盤石の1。
いつ頃結成されてどの時代にいくら稼いでいたのか全く知らない。
多分柏村武昭も小林克也も東郷かおる子も、ソフト・マシーンを80年代のナウい日本のヤングには紹介していないと思う。(してたらすいません)
80年代のFMステーションやミュージックライフにソフト・マシーンの記事が掲載されたこともないと思う。(載ってたらすいません)
仕方なくソフト・マシーンについて自主学習を開始。

ソフト・マシーンは、60年代後半から80年代初頭にかけて活動したイギリスのプログレッシヴ・ロック・バンド。
「カンタベリー・ミュージック」の最重要バンドであり、ジャズ・ロックやプログレにおいて最も影響力を持つバンドとのこと。
・・・そうなの?
今さらだけどプログレといったらピンク・フロイドイエスキング・クリムゾンが闘魂三銃士で、四天王にはELPが加わり、五奉行だとジェネシスまで・・で合ってるよね?
ソフト・マシーンは最重要と言われてるけど五奉行には数えられないらしい。
五奉行のみなさんとは別系統なのだろうか・・?

メンバーの多くはケント州カンタベリーというロンドンの東にある古い街の出身で、その後カンタベリーで活動していた様々なバンドが音楽シーンを作っていったため、「カンタベリー系」と称されることになる。
カンタベリー・ミュージックという言葉もどこかで聞いたことはあったが、そういうくくりだったんスね。
日本の「渋谷系」みたいな言い方だろうか?

ソフト・マシーンの源流はサイケデリックバンドのワイルド・フラワーズにあった。
ワイルド・フラワーズはカンタベリー・シーンの元祖と言われ、活動期間はわずか3年間で作品もリリースすることはなかったが、解散後にメンバーはソフト・マシーンやキャラバン、キャメルなどシーンの主要バンドを数多く結成しているそうだ。

ワイルド・フラワーズのロバート・ワイアット(D)とケヴィン・エアーズ(B・Vo)は、WF脱退後にデヴィッド・アレン(G・Vo)、ラリー・ナウリン(G)と合流しミスター・ヘッドというバンドを結成した。
そのミスター・ヘッドにマイク・ラトリッジ(K)が加わりソフト・マシーンとなる。
黎明期はやはりジャズ風サイケデリック・ロックなバンドで、デビュー前のピンク・フロイドとは同じクラブで演奏したり交流したりもあったらしい。
バンド名はウィリアム・バロウズの小説のタイトルから付けられたとのこと。
ソフトとマシーンという硬軟混ぜ合わせな組み合わせは、レッド・ツェッペリンアイアン・バタフライなんかと似たようなノリってことですかね?

67年ファースト・シングル「Love Makes Sweet Music」を発表するが全然売れず、しばらくツアーを続けながらアルバム制作を保留していた。
翌年春のジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとのアメリカツアー中に、ニューヨークでデビューアルバム「The Soft Machine」を急いでレコーディング。
すでにラリー・ナウリンは脱退してバンドは3人組になっていた。

ソフト・マシーンの特徴として、(結果的にだが)メンバーチェンジが激しく音楽性の頻繁な変動という点があった。
なのでアルバムごとに主導する人が異なり、大まかにサイケ・プログレ期→ジャズロック期→フュージョン期→レガシー期→再興期と言われるそうだ。
上記のとおりとにかく結成前後から人事異動が激しく、デヴィット・アレンは麻薬所持によりフランスから帰国できずそのまま脱退。(早い)
アレンに代わって加入したのがアンディ・サマーズだった。
アンディはソフト・マシーンのデビューアルバム発表後に6週間アメリカツアーに参加したが、メンバーから3人トリオで活動したいと言われて脱退。(早い)
・・・そうなの?
アンディがポリス結成前にアニマルズにいたことは知ってたけど、その前にソフト・マシーンにも参加してたとは・・全然知らなかった・・・

一方ソフト・マシーンではケヴィン・エアーズがデビュー直後に脱退。(早い)
後任ベーシストにヒュー・ホッパーを迎え、69年にセカンドアルバム「Volume Two」を発表。
直後にサックス担当のエルトン・ディーンが加入。
アルバム「Third」はロバート・ワイアットとマイク・ラトリッジが主導しフリー・ジャズっぽい音楽を展開する。

その後ヒュー・ホッパーとエルトン・ディーンが台頭し、インスト演奏中心バンドに移行。
だが4枚目アルバム「Fourrth」の制作中のある日、ロバート・ワイアットはパーティで酔っぱらってビルの4階から転落し、大けがを負う。
その後下半身不随となりドラムを叩けなくなったため、ボーカル専任となる。

4枚目アルバム「Fourrth」のリリース直後、インストなんでボーカルはいらんやろという理由でロバート・ワイアットが脱退。
次のアルバム「Fifth」のレコーディングにあたりドラマーのフィル・ハワードが参加するが、制作半ばで意見が衝突しフィルはクビとなり、後任のジョン・マーシャル加入でなんとかアルバムは完成した。
フィル・ハワードは「Fifth」のA面、ジョン・マーシャルはB面にしか参加していないそうだ。

73年後半、今度はエルトン・ディーンが脱退し、サックス・キーボード担当のカール・ジェンキンスが加入した。
新加入のカールが主導した同年発表のアルバム「Six」はライブとスタジオ録音のダブルアルバムで、サウンドはさらにジャズ・フュージョン路線に向かっていった。
メンバーチェンジが激しいのは他のロックバンドでも全然あるあるな話だけど、新しく加入した人が次々と主導権を握るというのは不思議な運営だと思う。
元からいた人は「なんやアイツ新入りのクセにエラそうに」とかやりにくくなかったんだろうか?
名前のとおり柔軟性がある団体と言えなくもない気がするけど。

「Six」をリリースした後、ヒュー・ホッパーは脱退。
後任に元ニュークリアスのメンバーで6弦ベースを演奏したロイ・バビントンが加入した。
この期間はカール・ジェンキンスがリーダーとなりバンドを牽引する。
73年末にアルバム「Seven」をリリースした後、さらに元ニュークリアスのメンバーであるアラン・ホールズワースが加わり、「ソフト・マシーンはニュークリアス残党に乗っ取られた」と評する人も多いそうだ。

75年のアルバム「Bundles」はアランのギター演奏に重点が置かれたが、同年春にアランは脱退。(早い)
代わりにジョン・エザリッジが加入し、76年初めにはサックス奏者のアラン・ウェイクマン(イエスのリック・ウェイクマンのいとこ)が加入した。
この後マイク・ラトリッジが脱退し、結成時のオリジナルメンバーはいなくなった。
アルバム「Soft」発表後、ソフト・マシーンは5年ほど停滞。

停滞の間、OB組のヒュー・ホッパーとエルトン・ディーンは、他2名を伴いソフト・ヒープという分家っぽいバンドを結成。
その後メンバーを替えてソフト・ヘッドと改名し、ツアーやライブ盤発表なども行い、80年代まで断続的に活動。
10年間に4回のツアーを行いヨーロッパで合計25回のコンサートを開催した。

一方本家ソフト・マシーンは81年にアルバム「Land of Cockayne」をリリースする。
メンバーはカール・ジェンキンスとジョン・マーシャルのユニット状態で、アラン・ホールズワースやジャック・ブルースも参加したが、これがソフト・マシーンの実質的なラストアルバムとされている。
84年夏にカール&ジョンに4人のミュージシャンが加わり、ロンドンのロニー・スコッツ・ジャズ・クラブでの公演のためにソフト・マシーンとして短期間再結成している。

90年代以降は各メンバーがソフト・ウェア、ソフト・ワークス、ソフト・マウンテン、ソフト・バウンドなど、ソフトなんとかを名乗ったユニットで散発的に活動。
どれもバンド名をソフト・マシーンとしなかったのは、やはり権利関係などの問題があったためらしい。
なおこれらのユニットには日本人ミュージシャンの吉田達也やホッピー神山が参加したこともあったそうだ。

2003年にヒュー・ホッパー、エルトン・ディーン、ジョン・マーシャル、ジョン・エサリッジによりソフト・マシーン・レガシーの名でギグを開始する。
その後ソフト・マシーン・レガシーはメンバーを替えて3枚のアルバムをリリースした。
だがエルトン・ディーンが2006年に、ヒュー・ホッパーは2009年に他界する。
主要メンバーの死に直面したバンドの危機に旧友たちが相次いで呼応参加し、レガシーの活動を継続。
2010年10月にはオーストリアとドイツのステージを収録したライブ盤「Live Adventures」を発表。
2013年3月、レガシー名義でスタジオ盤「Burden of Proof」もリリースした。
アルバム制作の都度ソフト・マシーンとしての発表も検討されたが、様々な事情で結局レガシー名義となっている。

そして2015年秋、ジョン・マーシャル(D)、ジョン・エスリッジ(G)、ロイ・バビントン(B)、テオ・トラヴィス(K・Sax)が、ついにソフト・マシーンの名で演奏することを発表。
同年末にはバンド名を正式に「レガシー」なしとすることが発表され、これにより1984年以来初めてソフト・マシーンとして再活動することになった。
再生ソフト・マシーンは2015年から16年にかけてオランダやベルギーやイギリスでシリーズ公演を行った。
なおアラン・ホールズワースは、2017年4月15日にカリフォルニア州ビスタの自宅で心不全のため70歳で亡くなっている。

2018年秋、ソフト・マシーンは1981年の「Land of Cockayne」以来37年ぶりに新作スタジオ盤「Hidden Detail」をリリースした。
2020年3月には2018年から2019年にかけての大規模なワールドツアーが記録されたライブ盤「Live at The Baked Potato」も発表。

ソフト・マシーンは現在も活動中で、2023年6月には過去の名曲「Penny Hitch」「Joy of a Toy」を再収録した新作アルバム「Other Doors」をリリースした。
ジョン・マーシャルの最後の演奏が録音されており、ジョンはアルバム発表の3か月後にに亡くなっている。
現在のメンバーは、ジョン・エスリッジ(G)、テオ・トラヴィス(K・Sax)、フレッド・セロニアス・ベイカー(B)、アサフ・サーキス(D)。

以上がソフト・マシーンの長く複雑な歴史絵巻名勝負数え歌である。
いやー長い。
今回も知ってた話は一切なし。
67年結成で今も活動中というのも初めて知った。
ただファンの評価としてはバンドの歴史は81年までで実質終了していて、以降は同窓会が頻繁に行われてる状態と見られているようだ。
メンバーが頻繁に入れ替わりながら50年以上もバンドを続けている、という点ではアイアン・バタフライにも似ている気がする。
それだけみんなソフト・マシーンの屋号を大事に思って演奏しているということだろうか。

ロバート・ワイアット、ケヴィン・エアーズ、アラン・ホールズワースは、ロックを学習しているとどこかで必ず目にする名前だ。
でも知ってたのはホントに名前だけで、みんなソフト・マシーンに関わっていたことは今回初めて知った。(ド素人)
・・・と思ったら、実はその昔当BLOGでティアーズ・フォー・フィアーズを採り上げた際、ぷく先輩からロバート・ワイアットについて説明コメントを頂戴していました・・
すっかり忘れてました・・すいません先輩・・
アンディ・サマーズがポリス以前にアニマルズにいたことは知っていたが、ソフト・マシーンにも(短期間だが)在籍してたことは知らなかった。

アルバムごとにセンターで主導した人と音楽性が異なるという話だが、サイケ・プログレ・ジャズ・フュージョンというキーワードを並べても、正直どれも聴けそうな気がしない・・・
デビューアルバムから順に「Land of Cockayne」まで聴いてみるというのが正しい学習指導要領だとは思うが、2枚目あたりで挫折する可能性も高い。
そもそも初期のアルバムって日本でも入手可能なんだろうか・・?

というわけで、ソフト・マシーン。
壮大な歴史絵巻の基礎情報を薄く調べてはみましたが、この後どうしたらいいのか途方に暮れている心境です。(聴けよ)
自分のような万年素人はどれを聴いたらいいのか、入門編としてこの1枚より始めよというアルバムがあったら教えてください。

Softmachine

ソフト・マシーン Soft Machine

Third
ソフト・マシーン Third

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聴いてみた 第181回 パール・ジャム

21年目に突入した珍妙希少情弱BLOG、今日のお題はどういうわけかパール・ジャム
彼らのデビューアルバム「Ten」を聴いてみました。

「Ten」は1991年8月リリース。
前年にマザー・ラブ・ボーンというメタルっぽいバンドを解散させた後、ベーシストのジェフ・アメントとギタリストのストーン・ゴサードは、新しいギタリストのマイク・マクレディ、ドラムのマット・キャメロン、クリス・フリエルとともにリハーサルを開始。
この時録音したのは全てインストで、5曲入りのデモテープを作成した。
そのデモを聴いた元レッチリのジャック・アイアンズ(後にパール・ジャムに加入)が、友人のエディ・ヴェダーにもデモテープを聴かせた。
エディはデモにオリジナルの歌詞をまぜてボーカルをかぶせて録音。
それを聴いたメンバーはエディを気に入り、バンドに迎え入れることにした。
バンドはすぐにエピック・レコードと契約。
さらにデイブ・クルーセン(D)が加わり、バンド名はパール・ジャムとなった。
なおデイブは「Ten」発表前に脱退している。

「Ten」は91年にシアトルのスタジオで約1か月という短い期間で録音された。(あまり予算がなかったらしい)
ニルヴァーナの「Nevermind」よりも発表は先だったが、「Nevermind」は空前の大ヒットを記録する。
すると同期同郷芸人のパール・ジャムにも注目が集まり、2つのバンドが先頭でグランジというジャンルを牽引する形に発展。
全米の音楽業界の潮流を覆すほどの展開となり、結果的に「Ten」はじわじわチャートを上昇し最終的に全米2位の大ヒットアルバムとなった。
タイトル「Ten」は、バスケットボール選手のムーキー・ブレイロックの背番号10から来ているらしい。

Ten

グランジ2大巨頭のパール・ジャムの「Ten」。
果たしていまだにグランジ慣れしていない遅すぎな自分は、このアルバムを聴いて10点満点をとれるのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1.Once
2.Even Flow
3.Alive
4.Why Go
5.Black
6.Jeremy
7.Oceans
8.Porch
9.Garden
10.Deep
11.Release

うーん・・・・・
直感的に言って考え込む音楽ではある。
おおおいいね!とか、楽しいね!とか、気分が高揚する音はどこにもない。
まあそうでしょうねという感覚。
やはり自分が聴いてきた80年代産業ロックとは相当遠い位置の音楽である。

歌詞もどの曲もひたすら重く暗い。
全曲エディ・ヴェダーが書いてるそうだが、自身の過酷な経験や暗い世相や痛ましい事件など、とにかく「本来起きてほしくなかったこと」について語る内容。
ただ難しい言い回しや例えなどはあまり使っていないようで、訳詞を読んでもエディの傷んだ心の叫びであることは理解できる。

これ、発売当時に何の知識もなく聴いていたらまず定着しない音楽だと思う。
今聴いても定着する予感は全然ないけど。
ニルヴァーナの「Nevermind」は実際そうだったし。
たぶんグランジに熱狂する年下の人たちにうっかり「・・・これ、何がおもろいん?」と地雷な質問を漏らしてしまって軽蔑されていた・・いた気がする。
メタリカのブラック・アルバムでも感じたことだが、「これなら売れたのもわかる」ではなく「こういうのがそんなに売れたんだ・・」という感覚。
やはりエア・サプライやデボラ・ハリーで喜んでた自分が気安く聴ける音楽ではないのだ。

しかし。
30年以上経過はしてしまったが(遅すぎ)、今グランジに関する表層知識を自分なりに装備し、ニルヴァーナやカートとの関係なども学習して聴いてみると、かなり深い音楽であることがなんとなくわかる。
グランジなのでやはりちっとも明るくなく、退廃的な音楽というくくりではニルヴァーナに共通するものもあるだろうけど、ギターとベースとドラムとボーカルという誠実な構成だし、サウンドの根幹にブルースやハードロックのニオイは感じるのだ。
実際メンバーはツェッペリンキッスに影響を受けていると明かしている。

変拍子や転調で小細工したりムダに絶叫したり火を吹いたりサーベルで若手をどついたりという演出はなく、たまにバラードも混ぜたりの実直なロックアルバムだと思う。
そういう意味では恐れていたほどの拒絶感はなかった。
「Black」「Oceans」などメロディやサウンドが美しいと思う曲もある。

実績としては前述のとおり最終的に全米2位まで上昇する大ヒットとなったが、1位獲得を阻んだのがビリー・レイ・サイラスの「Some Gave All」だったそうだ。
「Some Gave All」は17週連続1位という驚異的な記録を立てており、「Ten」も時期をずらして発表してたら間違いなく1位をとれたはず・・と今も言われているとのこと。

ジャケットはピンクっぽい背景に集結するメンバーの手の写真。
どこか野球チームっぽい演出で、あまり予算のないアマチュアバンドのようなデザイン。
バンド名ロゴはジェフ・アメンが作ったそうだ。
だがその後の躍進を示唆するような若いアートでもあり、こういうところも実直なロックバンドの雰囲気が出ていてよいと思う。
比較ばかりで申し訳ないけど、「Nevermind」はジャケットも中身と全然関係なくメンバーもいない強烈なインパクトだが、「Ten」のジャケットにはそこまでの衝撃は感じない。

というわけで、パール・ジャム「Ten」。
好みかと言われると非常に微妙(なんだそれ)でしたが、勉強にはなったというおかしな感覚はあります。
パール・ジャムもアルバムごとの作風はかなり違うとのことなので、機会があれば他のアルバムも試してみようかと思います。

Ten

パール・ジャム Ten

Pearl-jam
パール・ジャム Pearl Jam

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