聴いてない 第333回 ホリーズ

デビュー当時はビートルズストーンズに並ぶ存在だったバンド、ホリーズ。
実績は2大バンドには遠く及ばないものの、2010年にはロックの殿堂入りを果たし、今なお現役で活動中とのこと。
そんな偉大なるホリーズ、失礼ながらシュープリームスのカバー「Stop! In the Name of Love」1曲しか聴いていない。
60~70年代の日本での扱いは全くわからないが、80年代にはテレビやラジオの洋楽番組や音楽雑誌でホリーズを採り上げたことはあまりなかったんじゃないかと思う。
80年代は産業ロック革命により英米アーチストがムダに量産された時代だったので、どこの局でも出版社でも他に紹介すべきミュージシャンがいくらでもわいてきて、ホリーズを採り上げるスキマもなかったものと思われる。

なのでホリーズについてはどれだけすごい人たちだったのか全く知らない。
そこで今回ホリーズについて調べてみたが、やはり驚きの連続だった。

ホリーズは1962年にマンチェスターで結成されたイギリスのロックバンド。
ローリング・ストーンズと並んで結成以来一度も解散することなく活動を続けている数少ないバンドだそうだ。

小学校時代からの親友であるアラン・クラークとグラハム・ナッシュは、アメリカのエヴァリー・ブラザーズを真似たデュオ「リッキー・アンド・デイン・ヤング」を結成して活動を始めた。
その後別のバンドと組んだり離れたりしたが、二人でマンチェスターのバンド「デルタス」に加入する。
デルタスはリードギターのヴィック・スティール、ベースのエリック・ヘイドック、ドラムのドン・ラスボーンで構成されていたが、後に10ccを結成するエリック・スチュワートが脱退したばかりで、メンバーを探していたところだった。

やがて62年末にデルタスはホリーズに改名する。
グラハム・ナッシュは、ホリーズと名乗ったのはバディ・ホリーへの敬意からだと語っている。

翌63年の1月、ホリーズはリバプールのキャバーン・クラブで公演を行い、そこでビートルズの最初のセッションのプロデュースにも関わったロン・リチャーズの目に留まった。
ロンはホリーズにパーロフォンレコードのオーディションをオファーしたが、ヴィック・スティールはプロのミュージシャンになりたくなく、4月にバンドを脱退する。
バンドはヴィックの代わりとしてトニー・ヒックスを呼び寄せ、オーディションに参加させる。
ホリーズはパーロフォンと契約し、コースターズのカバー「(Ain't That) Just Like Me」が5月にデビューシングルとしてリリースされ、イギリスのシングルチャートで25位を獲得した。

セカンドシングルもコースターズのカバー「Searchin'」で、全英12位にランクインした。
好調に思えたホリーズだったが、8曲ほどレコーディングした後でドラムのドン・ラスボーンもバンドを脱退する。
トニー・ヒックスは昔のバンド仲間ボビー・エリオットを誘い、63年8月に新ドラマーとして迎え入れた。
ここでホリーズはメンバーがようやく安定。
デビューアルバム「Stay with the Hollies」は全英2位を記録し、カバー曲「Stay」は全英8位で初のトップ10ヒットとなった。

ホリーズもデビュー当時はカバー曲中心で人気が出たバンドだった。
アルバム「Stay with the Hollies」は大半がチャック・ベリー、レイ・チャールズ、リトル・リチャードなどのカバーで、オリジナルは1曲だけだった。
またビートルズやストーンズと同様、ホリーズもアルバムの収録曲や順序はイギリス盤とアメリカ盤・カナダ盤では大きく異なっていた。

2枚目のアルバム「In the Hollies Style」を64年に発表。
12曲中7曲はアラン・クラークとグラハム・ナッシュの作品だったが、このアルバム収録曲のいずれも米国ではリリースされなかった。

ホリーズが北米でブレイクしたのは翌65年。
オリジナル曲「Look Through Any Window」は全英4位、全米32位、カナダでは3位にそれぞれ初めてランクインした。
この曲は後に10ccのメンバーとなるマンチェスターのグレアム・グールドマンの作品である。

ちなみに、ホリーズのグラハム・ナッシュと、このグレアム・グールドマンのファーストネームは同じGraham。
日本では昔からGrahamさんを表記のままグラハムと書くことが多く、グラハム・ナッシュもグラハム・ボネットもビリー・グラハムもグレアムとはあまり書かない(と思う)。
ただ発音に寄せるとおそらくグレアムで、ネットでも混在していて、ホリーズを語るサイトでは「グラハム・ナッシュ」「グレアム・グールドマン」と表記されていることも多い。
「グレアム・ナッシュ」だと、古いファンには違和感しかないのではないか?
そう言いながらその昔「聴いてないシリーズ」でCS&Nを採り上げた時は「グレアム・ナッシュ」とか書いてますが・・・
面倒なので今回はこのまま「グラハム・ナッシュ」「グレアム・グールドマン」と書きます。

続くシングルは、ジョージ・ハリスンの「If I Needed Someone(恋をするなら)」だったが、ビートルズがアルバム「Rubber Soul」でジョージのバージョンを収録してリリースすることを決めたため、アルバムとシングルではあったが、両グループによる「恋をするなら」同時発売となった。
だがやはりビートルズが相手では分が悪く、ホリーズの「恋をするなら」は全英20位にとどまり、北米ではリリースされなかった。

そもそもホリーズへの曲提供はジョージ・マーティンからロン・リチャーズへデモ音源が渡って決まったもので、ジョージ・ハリスンの提案ではなかったらしい。
当時リバプールのビートルズとマンチェスターのホリーズは、マスコミや関係者により敵対関係にあるとされていた部分もあり、ホリーズ側では「あのビートルズの曲をホリーズに歌わせるのか」との議論もあったようだ。
昔からイギリスってこういう都市対抗戦が好きだね。
結局ホリーズは「恋をするなら」を録音したが、ジョージ・ハリスンはホリーズについて「寄せ集めのセッションマンの演奏のように聞こえる」と酷評。
ジョン・レノンもホリーズの曲を批判し、長年ホリーズのサウンドを嫌っていたそうだ。

3枚目のアルバムはシンプルに「Hollies」と題され、65年に全英8位に達したが、アメリカ盤は収録曲や順序を変えて「Hear! Here! 」というダジャレなタイトルで発売され、この上から目線なタイトルのせいか知らんけど全米チャート入りはしなかった。

翌年ホリーズはシングル「I Can't Let Go」で全英2位を記録した。
このヒット曲を収録した4枚目のアルバム「Would You Believe?」は全英16位まで上昇した。
だがアメリカではビートルズもカバーした「A Taste of Honey(蜜の味)」「Mr. Moonlight」を収録した「Beat Group!」としてリリースされたが、全米トップ100入りは逃してしまった。
どうもここまでホリーズのアメリカ戦略はいまいちうまくいかなかったようだ。

この後ホリーズは混乱と栄光をほぼ同時に経験することになる。
ベースのエリック・ヘイドックがマネージメント側に対して不満を主張し、活動を休止する。
エリック不在の間、バンドはビートルズの親友であるクラウス・フォアマンを招き、2枚のシングルを録音した。
それが「After the Fox」と「Bus Stop」である。

「After the Fox」にはピーター・セラーズがボーカル、ジャック・ブルースがベース、バート・バカラックがキーボードで参加。
ピーター・セラーズ主演の同名映画のテーマソングにもなった。
「Bus Stop」は全英・全米とも5位を記録し、ホリーズにとって初の全米トップ10シングルとなった。
この曲もグレアム・グールドマンの作品で、演奏ではバーニー・カルバートがベースを担当し、後に正式なメンバーになっている。
なおエリック・ヘイドックは「Bus Stop」が大ヒットした後、66年7月にバンドを解雇された。

なお「Bus Stop」は多くのミュージシャンによりカバーされており、ハーマンズ・ハーミッツやピーター&ゴードン、クラウドベリー・ジャムやドッケンもカバーしている。
日本でもキャンディーズや荻野目洋子がカバーしたそうです。

「Bus Stop」大ヒットを経て、ホリーズのメンバーには他のミュージシャンからの引き合いが増えることになる。
アラン・クラークとグラハム・ナッシュとトニー・ヒックスは、憧れだったエヴァリー・ブラザーズのアルバム「Two Yanks in England」のレコーディングに参加。
なおこのレコーディングに同時に参加していたのがジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、エルトン・ジョンである。

こうした課外活動はバンドの創作内容にも変化をもたらす。
ホリーズ5枚目のアルバム「For Certain Because」はアラン、グラハム、トニーによるオリジナル曲のみで構成された初のアルバムとなった。
「Stop! Stop! Stop!」は3人を作詞作曲者としてクレジットした最初の曲であり、全英2位・全米7位を記録。
トニー・ヒックスがバンジョーを演奏している数少ない曲としても有名である。

続くアルバム「Evolution」はサポートにミッチ・ミッチェルやクレム・カッティーニを起用。
ビートルズの「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」と同じ67年6月1日に発売され、全英13位・全米43位に達した。

この頃からグラハム・ナッシュはバンドの音域を広げようと様々な試みを行っていく。
グラハムはアメリカのフォークに影響を受けた野心的な「King Midas in Reverse」を制作したが、全英チャートでは18位に終わる。
18位なら十分ヒットしてるやんと言っていいような気もするが、アルバム「Butterfly」と合わせて商業的には失敗とされた。
あわてたアランとグラハムはより一般受けしそうなポップソング「Jennifer Eccles」を急遽発表。
これは吉と出て全英7位・全米40位・全豪13位を記録した。

この過程がバンド内にかなり深刻な亀裂を生むことになる。
「King Midas in Reverse」の失敗はグラハムの立場を悪くし、メンバー間の緊張を高めていく。
もともとアランとトニーはそれまでの「売れ筋路線ホリーズ」で行ったらええやんと考えており、グラハムのアメリカかぶれな方向性には反対だった。
次のアルバム用にグラハムが作った「Marrakesh Express」を他のメンバーは「こんなん売れへんわ」と拒否。
その後バンドがボブ・ディランのカバー曲のみで構成されたアルバムを作ることを決定した時点で、対立は決定的なものとなる。
グラハムは「風に吹かれて」の録音に渋々参加したが、ディランのカバー集という安直企画に対する嫌悪感を隠さず、メンバーやプロデューサーと何度も衝突した。

68年末のロンドンでのチャリティコンサートに出演した後、グラハムは正式にホリーズを脱退し、ロサンゼルスへ移住する。
グラハムは雑誌のインタビュー記事で「もうツアーには耐えられない。ただ家でじっと座って曲を書きたい。他のメンバーがどう思おうと、どうでもいい」と述べている。
ツアーは口実で、本音はやはり目指す音楽性や方向性の違いと、それに関するメンバーとの衝突にあったと思われる。

グラハムはロサンゼルスへ移住した後、元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルスと、元バーズのデヴィッド・クロスビーと共に、クロスビー・スティルス&ナッシュというグループを結成。
デビューシングルとしてホリーズでは出せなかった因縁の「Marrakesh Express」をリリースした。

69年1月、グラハム・ナッシュに代わりテリー・シルベスターがホリーズに加入した。
グラハム脱退前からの計画通り、5月にディランカバー集「Hollies Sing Dylan」を発表し、全英3位を記録した。
「風に吹かれて」にはグラハムがボーカルとギターで参加したはずが、クレジットには名前は載らなかった。
全英3位にはなったものの、ディランのファンや評論家からは不評だったようだ。
そうした反発を意識してか、次のアルバムは半年後に「Hollies Sing Hollies」と題して急ぎリリーズされた。

70年代に入ってもホリーズは比較的好調だった。
シングル「I Can't Tell the Bottom from the Top」はエルトン・ジョンがピアノで参加。
全英7位のほか、アイルランドやオランダでもトップ10入りしている。
続く「Gasoline Alley Bred(懐かしのガソリン・アレー)」も全英14位・全豪20位を記録。
アラン・クラーク作のハードなロックナンバー「Hey Willy」は全英22位となり、その他8カ国でチャートインした。

しかしこの頃からバンドは再び混乱する。
アラン・クラークもグラハム・ナッシュと同様に、メンバーやプロデューサーのロン・リチャーズと楽曲をめぐって衝突するようになった。
アランにはバンドへの不満もあったが、それ以上にグラハムの脱退後の成功をうらやましく見ており、「オレもバンドを脱退してうまいことやるんや!」と思ったらしい。
71年のアルバム「Distant Light」発表をもってレコード会社パーロフォンとの契約が終了した時点で、アランもホリーズを脱退した。

ホリーズは72年にポリドールと契約を結び、スウェーデン人歌手のミカエル・リックフォースをスカウト。
ミカエルは初のポリドールからのシングル「The Baby」でリードボーカルを務めた。
一方でパーロフォンは対抗策として、アランが脱退前に録音した「Long Cool Woman in a Black Dress」を「The Baby」にぶつけてリリースした。
歌ってるアランはすでに脱退してホリーズにはいなかったが、そんな事態に関係なく曲は大ヒット。
全米ビルボード2位(キャッシュボックスでは1位)、オーストラリアやニュージーランドでも2位、カナダや南アフリカで1位というバンド最高の実績となった。
・・・これって印税の配分はどうなってたんですかね?
抜けたアランにもお金は支払われたんでしょうか・・?

ミカエル・リックフォースは新加入ながらホリーズのフロントマンとなり、1年半ほどの在籍中にアルバム「Romany」「Out on the Road」を発表。
だが加入前ほどの実績を残せず、73年夏にアラン・クラークがバンドに復帰し、ミカエルは脱退した。

アラン・クラークの復帰後も、ホリーズは作品ごとの成績が大幅に異なる状態が続く。
アラン作詞の「The Day that Curly Billy Shot Down Crazy Sam McGee」で全英トップ30(24位)に返り咲き、74年にはアルバート・ハモンドとマイク・ヘイズルウッド作曲の「The Air That I Breathe」が全英2位・全米6位を達成する。
しかしこれがホリーズにとって今のところ最後の全英全米トップ10入りした新曲になってしまった。

翌年アラン・パーソンズをプロデューサーに起用した「Another Night」は全米71位止まり。
ブルース・スプリングスティーン作曲の「4th of July, Asbury Park」はニュージーランドでは9位と健闘したものの、全米では85位で失敗に終わっている。
ホリーズは70年代後半もシングル・チャートでヒット曲を出し続けていたが、人気があったのはイギリス以外のヨーロッパとニュージーランドだった。
80年にはバディ・ホリーのカバー集アルバム「Buddy Holly」をリリース。
81年5月、バーニー・カルバートとテリー・シルベスターがグループを脱退し、アラン・コーツがギター担当で加入した。

この後バンドは意外な展開を見せる。
その年の8月にホリーズはEMIからヒット曲メドレー集「Holliedaze」をリリースした。
さらにBBCの要請により、グラハム・ナッシュとエリック・ヘイドックはこのアルバムのプロモーションのために短期間再加入する。
二人が戻ったホリーズはテレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」で「Holliedaze」を演奏した。

翌82年9月、グラハムはホリーズのレコーディングにも参加し、再結成アルバム「What Goes Around...」が発売された。
自分が聴いたシュープリームスのカバー「Stop! In the Name of Love」も収録されている。
「Stop! In the Name of Love」はホリーズ最後の全米トップ40ヒットとなった。
なおグラハムは84年初めまでホリーズで演奏を続けたが、その間クロスビー・スティルス&ナッシュは休業状態だった。
デヴィッド・クロスビーが82年にテキサスで麻薬と武器所持の容疑で逮捕・投獄されていたためである。

アルバムツアー終了後、グラハム・ナッシュがまた脱退し、アラン・コーツとスティーブ・ストラウド、デニス・ヘインズが加入した。
新生ホリーズは85年5月にシングル「Too Many Hearts Get Broken」をリリースした。
翌年春、レイ・スタイルズがスティーブ・ストラウドに代わって加入。
69年発売のシングル「He Ain't Heavy, He's My Brother」が、88年にビールのテレビCMで使用された後、イギリスで再発され、全英1位を獲得した。(69年は3位だった)

ホリーズは昔からカバー曲をたくさん出してきたが、90年にはあのプリンスの「Purple Rain」もカバーしている。
知らなかった・・・ほとんど話題にならず全然売れなかったようですけど。

93年、ホリーズは結成30周年を記念してベスト盤「The Air That I Breathe: The Very Best of the Hollies」を発売。
全英チャート15位にランクインし、シングル「The Woman I Love」は全英42位まで上昇した。
96年2月、バディ・ホリーのトリビュートアルバム「Buddy Holly Tribute - Not Fade Away」が発表された。
このアルバムのトップに収録された「Peggy Sue Got Married(ペギー・スーの結婚)」は、バディ・ホリーの音源にホリーズがコーラスと演奏を加えたもので、この録音のためにグラハム・ナッシュが一時的にホリーズに復帰した。
この後もホリーズはツアーやテレビ出演を続けた。

2000年以降はメンバー交代が相次いだ。
アラン・クラークは2000年2月に引退し、後任にはムーブの元リードシンガーであるカール・ウェインが加入。
カール・ウェインはホリーズとして「How Do I Survive? 」をレコーディングしたが、これは2003年のベスト・アルバム(全47曲)のラストに収録された唯一の新曲である。
だが2004年8月にカール・ウェインは食道癌で亡くなり、また同年アラン・コーツもバンドを脱退し、ピーター・ハワースとスティーブ・ラウリが加入した。

2006年には1983年以来初の新スタジオ盤「Staying Power」がリリースされた。
2009年に現時点で最新のスタジオアルバム「Then, Now, Always」を発表。

ホリーズは2010年にロックの殿堂入りを果たした。
2012年イギリスツアーのライブを収録したライブ2枚組CD「Hollies Live Hits! We Got the Tunes!」をリリース。
翌2013年にはバンド結成50周年記念ワールドツアーとして世界各国60か所でライブが行われた。

ホリーズは今も解散はしておらず、2023年まではライブが行われたが、2024年以降は活動は停止しているようだ。
なおオリジナルメンバーのエリック・ヘイドックは2019年1月、ドン・ラスボーンは2024年9月に亡くなっている。

以上がホリーズの長く波乱に満ちた歴史絵巻。
知ってた話は全然ない。
そもそもCS&Nのグラハム・ナッシュってそういえばホリーズ出身だったんスね・・というレベル。

60年代ホリーズの不幸だった点はビートルズとともにあったことだと思う。
本人達や周囲はもちろん大マジメにリバプール連中に対抗したれと思っていろいろ画策してたはずだが、結果を知ってる我々未来のリスナーからすれば「そりゃあ相手がビートルズじゃなぁ・・」と当然思うところである。
そんなグループは当時のイギリスに山ほどいただろうし、その中でもホリーズはビートルズという異次元バンドと共に時代を生きながらかなりの成果を残しているすごいバンドなのだ。

日本においての彼らの人気や認知度は全然わからないが、冒頭に述べたとおり80年代にはホリーズの曲をFMで聴いたり雑誌で情報を仕入れるなどの機会はほとんどなかった。
おそらくデビュー当時から最新作までくまなく聴いてますけどねという人はかなり少ないのではないかと思われる。

というわけで、ホリーズ。
自分のような素人はまずたくさん出てるベスト盤から学習したほうがよいように思いますが、オリジナル盤として押さえておくべきアルバムがあれば、教えていただけたらと思います。

Hollies-greatest
ホリーズ Hollies' Greatest
What-goes-around
ホリーズ What Goes Around...
Busstop

平浩二 バスストップ

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聴いてない 第332回 チャーリー・ドア

今年になって女性シンガー(を中心としたバンド含む)を採り上げることの多い「聴いてないシリーズ」ですが、今日もそのパターン。
日本だと一発屋にもカウントされてるかもしれないチャーリー・ドア。
みなさんはご存じでしょうか?

チャーリー・ドア、80年の「Pilot Of The Airwaves(涙のリクエスト)」しか聴いていないので、聴いてない度は2。
最初に「サンスイ・ベストリクエスト」で録音したが、テープが足りず途中で切れてしまい、4年ほど待って「クロスオーバー・イレブン」でようやくフルコーラスを録音できた思い出の曲である。
以降他の曲を聴く機会はなく、また彼女について雑誌で情報を仕入れることもなく45年も経過。
今回生涯で初めてネットでチャーリー・ドアを調べてみた次第。(毎度のこと)
だが彼女のキャリアや実績は一発どころではなく、想像のはるか上を行くマルチタレントだった。

チャーリー・ドアはイギリスの歌手で作曲家・演奏家、女優である。
シンガーソングライターの他、他のアーティストへの作詞作曲・プロデュース、映画や舞台での演技、テレビ・ラジオでの活動や、映画やテレビ番組用の作曲なども行ってきた。

1956年にロンドン郊外のピナーという小さな街に生まれる。
ロンドンのアートスクールで演劇を学び、ニューカッスルのタインサイド・シアター・カンパニーで2年間劇団員として活動。
その後テレビ番組の曲を作ったり演奏していたが、この頃知り合った仲間に誘われ、ブルーグラス、ウエスタン・スウィングなどのジャンルを得意としていたフラ・バレーというバンドに加入する。

その後フラ・バレーはメンバー交代や改称を重ね、オリジナル曲も演奏するようになり、チャーリーが中心的存在となる。
一時期バンド名はチャーリー・ドアズ・バック・ポケットとも名乗っていたらしい。
またこの頃のバンドには、後にダイアー・ストレイツに加入するドラムのピック・ウィザーズがいたそうだ。

チャーリーはアイランド・レコードに見出され、 78年に契約。
アメリカに渡りテネシー州ナッシュビルで最初のアルバム「Where to Now」を録音した。
ラジオDJに憧れる少女の想いを歌ったシングル「Pilot of the Airwaves(涙のリクエスト)」は、全米ビルボードホット100で13位、キャッシュボックスでは12位に達し、チャーリーはレコードワールドニュー女性アーティストオブザイヤーとASCAP賞を受賞した。
自分もリアルタイムで録音できたので、当時日本のラジオ局やレコード会社の期待も高かったものと思われる。

順調なスタートだったが、チャーリーは次のアルバム「Listen!」制作にあたりなぜかアイランドを離れ、クリサリスレコードと契約。
しかもクリサリスはプロデューサーにあのグリン・ジョンズを起用。
それだけレコード会社の期待は大きかったようだが、会社はこれまたなぜか結果に満足せず、プロデューサーはスチュワート・レヴィンに交代し、アルバム全体はロサンゼルスで再録音することになる。
この時演奏をサポートしたのが、TOTOのスティーブ・ルカサーと、マイク&ジェフ・ポーカロだった。
そんな豪華なバックでも残念ながら前作ほどには売れなかったようだが、チャーリー・ドアは81年から82年にかけてバンドと共にツアーを行い、ヤマハ・ソング・フェスティバルでイギリス代表として東京も訪れている。

またこの頃から女優としても活動。
83年のイギリス映画「The Ploughman's Lunch」でジョナサン・プライスやティム・カリーと共演し、87年から89年にかけてテレビドラマ「A Killing on the Exchange」「Hard Cases」「国境の南」などに出演。
舞台「ホイッスル・ストップ」「ビッグ・スウィープ」では主役を務めるなど、女優の仕事も続いた。

さらにチャーリーはソングライターとしても成功している。
最初のヒットはジュリアン・リットマンと共作したシーナ・イーストンの「Strut」で、84年に全米7位を記録。
日本でもCMに使われたヒット曲だが、チャーリー・ドアが作詞してたのか・・・全然知らなかった・・・
その後もティナ・ターナーの「Twenty Four Seven」、ジョージ・ハリスンの「Fear of Flying」、セリーヌ・ディオン「Refuse to Dance」「Time Goes By」など、多くのアーティストが彼女の書いた曲を歌っている。
ジミー・ネイルが92年にチャーリー・ドア(+他2人)と共作した「Ain't No Doubt」は全英1位となった。

ちなみにジョージ・ハリスンの「Fear of Flying」は生前未発表曲で、2014年10月に発売された、BBCラジオ番組と曲で構成された同名のCDに収録されている。
音源はジョージの元妻オリビアがジョージのアーカイブの中から見つけたデモトラックで、79年頃にチャーリーがジョージの家を訪れた際に録音されたといわれており、元はチャーリー・ドアの曲だそうです。

95年にアルバム「Things Change」を発表。
このアルバムに収録された「Refuse to Dance」「Time Goes By」を、後にセリーヌ・ディオンがカバーしている。

21世紀に入ってもチャーリー・ドアはマイペースで活動。
2004年に内省的な歌詞とアコースティックなサウンドでアルバム「Sleep All Day And Other Stories」をリリース。
2006年にはジャズからカントリー、ポップスなどの要素をフォークで包み込み、ライブで録音したような音に仕上げた「Cuckoo Hill」をリリースした。
2008年にフラ・バレー時代によく演奏していたお気に入りのアメリカの歌を集めたアルバム「The Hula Valley Songbook」を発表している。

2011年に「Cheapskate Lullabyes」をリリース。
ラストの「Fifty Pound Father」のみチャーリーが一人で作り、他の9曲は長年のパートナーであるジュリアン・リットマンと共同で制作した。
2014年の「Milk Roulette」では、生と死や結婚、体外受精といった社会派なテーマから、音楽ダウンロードに対する抗議まで、様々な内容を歌詞にして歌っている。
2017年発表の「Dark Matter」も、個人的なテーマを様々な比喩や例えで語るユーモアと憂鬱さが巧みに混ざり合う内容。
チャーリー・ドアの作品は、年を追うごとに歌詞もサウンドも多面的になっているようだ。
最新作は2020年の「Like Animals」。
今年も年末までイギリス各地でのライブ予定が組まれている。

今回も知ってた話は微塵もなし。
シーナ・イーストンの「Strut」をチャーリー・ドアが作っていたと知っていた日本人はどれくらいいただろうか?(エラそう)
ジョージ・ハリスンの「Fear of Flying」の話も初めて知った・・

「Pilot Of The Airwaves(涙のリクエスト)」は思ったより複雑で秀逸な構成だと思う。
イントロは少しスローな楽器なしの混声アカペラで始まり、演奏とともに甲高いチャーリーのボーカルが続くが、間奏ではエレキギターやキーボードのような音も聞こえる。
ナッシュビルで録音とのことで、そう言われるとカントリーな香りもするが(知ったかぶり)、純アコースティックなサウンドでもない。
何よりチャーリーの声と演奏が非常にマッチしており、聴いていて心地よい曲である。
チェッカーズが歌うより5年も前に(別の曲だけど)「涙のリクエスト」は日本のFMでも流れていたのだ。
その後柏村武昭も小林克也も東郷かおる子も、チャーリー・ドアを採り上げなかったのが残念である。(エラそう)

というわけで、チャーリー・ドア。
聴くなら当然「涙のリクエスト」収録の「Where to Now」からだと思いますが、このアルバムにはジョージ・ハリスンも歌ったという「Fear of Flying」もあるようので、ジョージのバージョンとも聴き比べてみたいとも少しだけ思っています。
他のアルバムが日本で入手可能なのかわかりませんが、ご存じの方がおられましたら教えていただけたらと思います。

Where-to-now
チャーリー・ドア Where to Now
Listen
チャーリー・ドア Listen!
Checkers
チェッカーズ 涙のリクエスト

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聴いてない 第331回 クランベリーズ

先日FMから流れてきた「Ode to My Family」で思い出したクランベリーズ。
実はこの曲しか聴いておらず、しかもタイトルやバンド名も正確に把握できていなかった。
クランベリーズと聞いて「ああエリック・カルメンがいたバンドだろ?」と知ったかぶりしそうになったが、それはラズベリーズ。
自分の認知レベルはこんな有様である。
「Ode to My Family」は確かNOW系オムニバスCDをレンタルしたら収録されていたと思う。
聴いてない度は見事に2。

「Ode to My Family」が代表曲なんやろと勝手に思っていたが、改めて調査してみたら、実は他にも売れた曲がいっぱいあったのだった。
バンドの源流は80年代半ばに発生。
兄マイクと弟ノエルのホーガン兄弟は、80年代半ばにアイルランドの都市リムリックでファーガル・ローラーと出会う。
3人の若者は、当時のイギリスのインディーズやパンク音楽に刺激を受け、バンドを組む。
ファーガルがドラム、マイクがベース、ノエルはギターを担当したが、ボーカルがいなかった。
この時近所に住んでいたナイアル・クインはすでに別のバンドに在籍していたが、何度か共演するうちに意気投合。
ナイアルは3人と合流することを決意し、クランベリー・ソウ・アスを結成した。

クランベリー・ソウ・アスは90年にデモEP 「Anything」を制作したが、直後にナイアルはバンドを脱退し、以前のグループに戻った。
残った3人は解散せずボーカルを探すことにした。
この時ナイアルが声をかけたのが、ドロレス・オリオーダンだった。
ホーガン兄弟は小柄なドロレスの声量に圧倒され、バンド加入を承諾。
バンドは4曲入りのデモEP「Water Circle 」を録音し、地元リムリックのレーベルからカセットテープでリリースした。
このようにスタートは地味だったが、地元では人気だったそうだ。

だがノエル・ホーガンは地元のクラブやパブでの演奏だけでは物足りないと感じていた。
ノエルがロンドンのレコード会社に直接デモテープを送ると、各社から注目を集め、大手レコードレーベルの間でバンドとの契約取り合いとなった。
この頃バンドは名前をクランベリーズに変更。
クランベリーズは争奪戦に勝利したアイランド・レコードと契約を結んだ。

デビュー前から順調に思えたクランベリーズ。
だが話はそう簡単でもなかったようだ。
地元リムリックでバンドの面倒を見ていた、ゼリック・スタジオのオーナーであるピアース・ギルモアは、初のEP「Uncertain」のプロデューサーを引き受ける。
ピアースは良かれと思って音源に様々な変更を加えたが、リリースされたEPはマスコミから酷評を受け、バンドとピアースの間に緊張が生まれてしまう。
さらにピアースがバンドへの連絡を制限し始めたり、アイランドの米国支社と別契約を結ぶなど、バンドから見ると不審な動きを見せるようになる。
バンドはイギリスとアイルランドをツアーするが、資金が不足しており(本当?)、1日の最大収入は25ドルしかなかった。(本当?)
またこれはピアースのせいではないが、クランベリーズは年末に予定されていたニルヴァーナのツアーでサポートアクトを務めるはずだったが、カート・コバーンの体調不良によりツアーは土壇場でキャンセルされてしまった。

トラブルが重なりレコーディング・セッションが難航した後、バンドは作品を白紙に戻してピアースを解雇した。
ノエル・ホーガンは「お互いに問題があったのではなく、ピアースに問題があった」と述べている。
まあそれぞれに言い分はあろうが、突然ビッグになれるよ的な話が持ち上がれば、バンド内外のあちこちに歪みが生じるのは仕方がないことなんだろうね。

それでもクランベリーズは停滞せず他のバンドのサポートでアイルランドとイギリスをツアーし、マネージャーとプロデューサーも刷新。
92年3月にダブリンのスタジオに戻り、ファーストアルバム「Everybody Else Is Doing It, So Why Can't We?(邦題:ドリームス)」の制作を再開した。
その年の10月、シングル「Dreams」がイギリスで発売され、93年2月に「Linger」をリリース。
翌月にはアルバムも発表された。

アルバムもシングルも、当初はそれほど大きな注目を集めなかった。
それでもバンドは地道にフランスやアメリカでもツアーを行い、「Linger」は全米の大学ラジオ局で頻繁に放送された。
これを機に「Linger」はバンドの最初のヒット曲としてアイルランドのチャートを上昇し、最高3位を記録。
全米ビルボードホット100でも8位に達し、24週間もチャートに留まった。
あまりないケースだと思うが、「Linger」は1年後の94年2月に、「Dreams」は94年5月に再リリースされている。
2曲とも英米やアイルランドのチャートで好成績を収め、アルバムも全英とアイルランドのチャートで1位を獲得した。

2枚目のアルバム「No Need to Argue」は94年10月にアイランド・レコードよりリリースされた。
全曲の作詞をドロレスが担当し、前作よりも暗くハードな音楽となったが、全英2位・全米6位の大ヒットを記録。
シングル「Zombie」は全英では14位だったが全米オルタナティブ・エアプレイ・リストで1位を獲得し、彼らの代表曲となった。
自分が聴いた「Ode to My Family」も収録されているが、各国チャートでの成績は「Zombie」のほうが圧倒的に良い。
「Ode to My Family」が1位となったのはアイスランドだけだが、「Zombie」はアイスランドの他にフランスやドイツ、オーストラリアやベルギーでも1位を記録している。
アルバムからは他に「I Can't Be with You」「Ridiculous Thoughts」「Dreaming My Dreams」のシングルがリリースされた。

翌95年までクランベリーズはアメリカ市場を席巻し、当時「U2以来アイルランド最大の音楽輸出品」とまで言われた。
この年のワールド・ミュージック・アワードで「Ode to My Family」を演奏し、最優秀アイルランド・レコーディング・アーティスト賞を受賞。
11月にはMTVヨーロッパ・ミュージック・アワードで、「Zombie」がマイケル・ジャクソンの「You Are Not Alone」を抑えて最優秀楽曲賞を受賞した。

96年4月に3枚目のアルバム「To the Faithful Departed(追憶と旅立ち)」を発表。
政治批判的な曲「Bosnia」「War Child」が収録され、前作「No Need to Argue」よりメッセージ色の強い作品になった。
「I Just Shot John Lennon」には実際の銃声が録音されていたため、マスコミからは酷評されたそうだ。
6週間で400万枚を売り上げ、アメリカではダブル・プラチナ、イギリスではゴールドを獲得したが、前作の売り上げには及ばなかった。

プロモーションツアーはアジアから始まり、5月には来日して東京・福岡・大阪で公演。
オセアニアの後に北米ツアーが予定されていたが、ドロレスがオーストラリア公演で膝を負傷し、残りの日程をキャンセルした。
この頃からドロレスは膝以外にも心身ともにかなりダメージを負っていたようだ。
ツアーは北米で再開されたが、やはりドロレスの体調不良を理由に北米・ヨーロッパツアーは中止された。
長いツアーとマスコミのしつこい取材攻勢でドロレスは疲れ果て、不眠症や妄想、拒食症に悩まされ、体重は41kgまで落ちたそうだ。
またメンバーも休みがないと不満を述べ、キャンセル費用を巡ってレコード会社や事務所とモメるようになる。
クランベリーズは解散寸前の危機に陥り、1年間の休業を余儀なくされた。

だがクランベリーズは解散せず、休業中も業界やファンの評価は高かった。
97年から98年にかけて、ジュノー賞やアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞。
98年のノーベル平和賞コンサートで「Dreams」「 Promises」「Linger」を演奏した。
当時クランベリーズはヴァン・モリソンやU2と並んで「史上最も優れたアイルランドのアーチスト」の一つに選ばれた。

活動を再開したクランベリーズは、99年にアルバム「Bury the Hatchet」を発表。
病気克服と出産を経験したドロレスは、作詞にも変化が表れ、テーマは妊娠や離婚や児童虐待など多岐にわたる内容となった。
ジャケットもそれまでのメンバー集合写真から、荒野の中で巨大な目に見つめられる裸の男といったプログレっぽいアートになっている。
売上枚数は休業前作品より減少したものの、全英7位・全米13位と健闘し、ドイツやカナダでは1位を獲得。
クランベリーズは110日間の世界ツアーを行い、100万人以上のファンを動員した。
これはクランベリーズのキャリアにおいて最大かつ最も成功したツアーとなった。

2001年10月、アルバム「Wake Up and Smell the Coffee」がMCAより発売された。
前作まではアイランド・レコードだったが、会社合併に伴いクランベリーズはMCAに移籍した。
本国アイルランドでは9位、スペインやフランスやイタリアで2位だったが、全米46位・全英61位と微妙な結果に終わる。
シングル「Analyse」「Time Is Ticking Out」「This Is the Day」リリース後、 9月にベストアルバム「Stars: The Best of 1992-2002」を発表。
イギリスではこのベスト盤のほうが好評で20位を記録した。

「Wake Up and Smell the Coffee」の微妙な成績はバンドとMCAの間に溝を作ることになり、結局バンドはMCAと決裂。
ノエル・ホーガンは「MCAレーベルの努力がほとんどなかったにもかかわらず、多くの国でトップ10入りを果たすことができて嬉しく思っているよ」と皮肉なコメントを残した。

この移籍からバンドの進行が少しずつ変化していく。
2003年9月、アルバムのリリースに向けたセッションを中止しバンドは再び活動停止となる。
当然マスコミは内紛や衝突を疑ったが、ドロレスは「個々のキャリアを追求し、家族との時間に集中するために2年間の休暇を取るだけ。私たちは13年間一緒にやってきたので、これは本当に必要な休みで、挑戦や実験に使う時間です」と強調した。

ドロレスとファーガルはそれぞれソロアルバムを発表し、ホーガン兄弟はモノ・バンドというユニット名でアルバムを制作した。
メンバーはそれぞれ別の活動に移ったが、仲違いしたわけではなく、定期的に連絡を取り合っていたそうだ。

2009年1月、ドロレスがダブリン大学哲学協会の名誉総裁になったことを記念して、クランベリーズは再結成する。
翌年からアルバムレコーディングを開始し、6枚目の新盤「Roses」は2012年2月に発売された。
全英で37位、全米ビルボード200チャートで51位を記録し、インディペンデント・チャートで4位、オルタナティブ・チャートで9位など、他のビルボードチャートでも多くの成績を残した。

この後バンドは方向性を大きく変更。
2017年4月に初のアコースティックアルバム「Something Else」をリリース。
アイルランドのオーケストラとアコースティックで再録音された「Linger」「Zombie」「Ode to My Family」などの過去のヒット曲に加え、新曲「The Glory」「Why」「Rupture」が収録されている。

アルバム発売後はヨーロッパと北米でのツアー(ただし会場は小規模でオーケストラの生演奏付き)を開始。
しかしこの時ドロレスは背中に強い痛みを抱えており、ステージではほとんど椅子に座って歌っていた。
なんとか11公演をこなしたものの回復はかなわず、残りのヨーロッパ公演と北米公演全日程をキャンセルしてしまう。

その後ドロレスは年末にニューヨークで行われたビルボードのクリスマスパーティーで3曲歌ったが、これが彼女の最後のステージとなった。
1ヶ月後の2018年1月に、ドロレスはロンドンのホテルで部屋の浴槽で溺れて亡くなった。
死因は溺死だが、背中の痛みに加え、アルコール中毒もあったようだ。

ノエル・ホーガンは「クランベリーズは継続しないが、ドロレスが残したボーカルのデモ音源を使って最後のアルバムをリリースする」と発表した。
宣言どおり2019年4月にラストアルバム「In the End」をリリースし、アイルランドで3位となったほか、ドイツで8位、フランスで11位、イタリアで4位を記録。
同年グラミー賞でも最優秀ロック・アルバムにノミネートされた。

ドロレスの死後、バンドはコンピレーションアルバム「Remembering Dolores」を出したり、昔の曲を編集したEP「Wrapped Around Your Finger」を発売したが、新曲発表やライブ活動などはしていないようだ。

以上がクランベリーズの輝かしくも過酷な歴史である。
いつものことだが、知ってた話は全くなかった。
そもそもボーカル女性がすでに亡くなっていたことも知らなかったし、アメリカ市場を席巻とかU2以来アイルランド最大の音楽輸出品など、そんなにすごい評価と実績を持つバンドだったことも初めて知った。
それにしてもドロレス・オリオーダン。
アルコール中毒を患いホテルの浴槽で溺死とは・・まるで70年代ロックスターのような悲劇的最期である。
結成以来作詞のほとんどとボーカルを担当していたドロレスが亡くなったら、バンド継続はやはり難しいだろう。

クランベリーズの音楽は、シンニード・オコナーやスージー・アンド・ザ・バンシーズに似ていると言われているそうだ。
・・・そう言われてもどっちも聴いてないんでああなるほどとは言えないんですけど・・
なおドロレスやノエルは「ザ・スミスに一番影響を受けた」と発言している。

「Ode to My Family」しか聴いていないが、ドロレスのヨーデルを採り入れた独特な歌唱スタイルがバンド最大の特徴であることは間違いない(と思う)。
彼女の歌声は好みなわけではないが、一度聴いたら忘れないようなインパクトがある。
今回クランベリーズの他の曲もいくつかYou Tubeで聴いてみたが、やはり知ってた曲はない。
どの曲も映像が暗くモノトーンなイメージで、こういうところは昔のU2にも少し似ているかも・・と思ったりした。

というわけで、クランベリーズ。
聴くとしたら「Ode to My Family」収録を頼りに「No Need to Argue」からになりそうです。
デビューアルバム「Everybody Else Is Doing It, So Why Can't We?」が最高傑作との評価もあるようなので、素直に発表順に聴いていけばよいはずですが、他におすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

Dreams
クランベリーズ Everybody Else Is Doing It, So Why Can't We?
No-need-to-argue
クランベリーズ No Need to Argue
Frenature

Frenature フリーズドライクランベリー

 

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聴いてみた 第185回 オアシス

今日聴いてみたのは、秋の来日公演が待ち遠しいオアシス。(行かないと思うけど)
しかも彼らのデビューアルバムである。
ミラノ・オリンピックまであと1年もないというのにまだこんな所にいるわたくしですが(関係ない)、発売後31年も経ってからやっと聴いてみました。
そもそもこのBLOG自体が手遅れ絶望コンセプトだが、オアシスでさえこの有様なので、今から何を聴いても手遅れである。

せめて手遅れ鑑賞前に制作経緯を稚拙に学習。
オアシスは93年に独立系レーベルのクリエイション・レコードと契約。
バンド初のシングル「Supersonic」は94年4月11日にリリースされ、全英チャートで31位に初登場。
続いて6月に「Shakermaker」が11位で初登場し、8月には3枚目のシングル「Live Forever」がリリースされ、初のトップ10ヒットとなった。

この3枚シングルが好調だったタイミングで、アルバム「Definitely Maybe」はリリースされた。
メンバーは以下のみなさんである。
ノエル・ギャラガー(G・Vo)
リアム・ギャラガー(Vo)
ポール・ボーンヘッド・アーサーズ(G)
ポール・ギグジー・マクギガン(B)
トニー・マッキャロル(D)

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全ての曲をノエル・ギャラガーが作っている。
その後メンバーの脱退や解雇や仲違いや殴り合いが勃発したため、オリジナルメンバーでの唯一のアルバムである。
270万枚以上の売り上げで全英アルバムチャートで1位に輝き、当時の英国音楽史上最速で1位を獲得したデビューアルバムとなった。
またアメリカでもヒットし、全米レコード協会からプラチナ認定を受けた。

大ヒットの理由はもちろんノエルの作った曲とリアムの歌の良さがあったからだが、制作の裏側では周囲の関係者の苦労がかなりあったようだ。
最初のプロデューサーはノエルの古い知り合いであるデイヴ・バチェラーが務めたが、メンバーが満足するような音にならず、またエンジニアとも意思疎通ができなかった。
ボーンヘッドは「うまくいかなかった。デイヴはこの仕事に向いていなかった」と語っている。

結局デイヴさんは解雇され、ノエルは音源を抱えてスタジオを移動したりプロデューサーを変えたり録音をやり直したりと試行錯誤と衝突の連続だった。
新人バンドで、しかも一番経験の浅い男がリーダーですけど全曲作ってきましたという状態だったら、プロデューサーもエンジニアも「まああんたら音作りなんてようわからんやろ。ウチらにまかしとき」となって当然だろう。
ところがこのリーダーはただの素人ではなく、音作りにも異様なこだわりを持っていたから、摩擦や衝突は必然だったと思われる。
ノエルはギターの歪んだノイズっぽい音をオーバーダビングで重ねるのが好きだったようだが、録音された後エンジニアがその音をまた外していく面倒な作業を繰り返した、といった状態だったらしい。

最終的にバンドとスタッフのどちらの意見が通って完成したのかわからないが、シングルもアルバムも大ヒットしたので、たぶん双方が「あの音はオレがこだわって作ったんや。あいつらなんもわかってへん」と言ってるような気がする。

デビューアルバムにして最高傑作との評価もある「Definitely Maybe」。
果たして自分の評価も間違いない・・たぶん・・なのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1.Rock 'n' Roll Star
タイトルどおりの軽快なナンバーでスタート。
「今夜オレはロックンロール・スターだ!」と連呼する、こっちが赤面しそうな青い内容だけど、その後本当に英国を代表するスターになってるので、有言実行な人たちである。

2.Shakermaker
セカンドシングルは特有の粘り気の強いリズムや騒々しいサウンド。
歌詞にある「Mister Sifter」とは兄弟が育ったマンチェスターにある中古レコード屋の名前らしい。

3.Live Forever
サードシングル。
有名な曲だがまともに聴くのは初めてである。
すでにオアシスのサウンドは確立されており、後のヒット曲たちにつながる要素があちこちに聞こえる。
素行とは裏腹な誠実で泣かせる歌詞もいい。

4.Up in the Sky
再び軽快なリズムに戻り、パンクの香りがする曲。
歌詞はスネた感じの内容だが、言ってることは前の曲からつながっているように思う。

5.Columbia
ミドルテンポで抑揚なく地味に進行。
サウンドは他の曲同様に分厚くガサガサする印象だが、実は使われているコードは3つだけだそうだ。
なおタイトルの「Columbia」はアメリカの団体や組織の名前などで使用され、南米のコロンビア共和国は「Colombia」と書くそうだ。
で、歌詞にはコロンビアは出てこない。なぜ?

6.Supersonic
オアシスのデビューシングルだが、これもフルコーラスで聴くのは初めて。
曲調は意外と重く、歌詞も「社会の底辺で生きる労働者階級の人間がそこから抜け出したいなら、自分の思いを世の中に訴える方法を見つけるんだ」といった教育的指導なことを歌っている。

7.Bring It On Down
疾走感のあるストレートなロック。
「Supersonic」ができるまではファーストシングル候補だった曲とのこと。
先に「Bring It On Down」の録音を始めたが演奏がうまくいかず、中断してノエル以外のメンバーは食事のため外出。
ノエルは一人でスタジオに残り、メンバーが飯食ってる間に「Supersonic」を完成させてしまったそうだ。
どっちもオアシスらしい曲ではあるけど、この曲のほうが若干平凡なロック感があるような気がする。

8.Cigarettes & Alcohol
この曲だけオムニバスCDで聴いて知っていた。
Tレックスの「Get It On」とチャック・ベリーの「Little Queenie」からギターリフを引用している。
そう言われて聴いてみると確かに「Get It On」のリフだ。(気づくのが遅い)
そもそも「Get It On」が「Little Queenie」のフレーズを引用してるそうですけど。
「タバコと酒」というヤングなタイトルと歌詞だが、中身は思ったより前向きで誠実なメッセージだと思う。

9.Digsy's Dinner
これも彼ら特有の騒々しいサウンド。
当時仲が悪かったとされるブラーへのあてつけに作られた曲という説があるそうだ。

10.Slide Away
このアルバムの中では異色?な、やや憂いのある曇ったメロディ。
その後のオアシスはすっかりこの路線も得意技にしていると思う。
ただ6分半もあり後半はタイトルコールが延々続くので、少し飽きる。

11.Married with Children
唯一のアコースティックナンバー。
おだやかなメロディだけど振られた男の哀れな心情を歌っており、ノエルの実体験が元になっているらしい。
この曲をラストに持ってきた構成は秀逸だと思う。

聴き終えた。
シンプルだが自分が求めていたオアシスのサウンドがあり、やはり聴きやすいと感じる。
粗野でガサツな部分は多々あるが、それが彼らの魅力でもあることは理解しているつもりだ。
少なくとも「Standing on the Shoulder of Giants」「Heathen Chemistry」を聴いた時のような違和感はない。
やはり自分は初期のオアシスの音が好みのようだ。
(「The Masterplan」は騒がしすぎてイマイチだが・・)

リアム・ギャラガーは決して歌唱力で押してくるシンガーではない。
声もキレイとは言いがたく、発音も「sunshine」を「さんしやーーいーん」と歌うなど粘性なボーカル。
手を後ろで組んで猫背で歌う姿も独特で、顔もMr.ビーンというビジュアルなので、芸能人としてどこなら高得点付けられるのかわかんない不思議な歌手だ。
だがこの変な声と変な歌い方がノエルの曲に乗ってバンドの演奏に組み込まれると、凄まじい化学変化が起こり最強の破壊力となる。

なのでどの曲も聴きやすく間違いはない・・のだが、この後に登場する「Wonderwall」「Don't Look Back in Anger」「Stand By Me」「Whatever」など後世に歌い継がれる名曲たちと比べると、さすがに少し弱いと思う。

その名曲が詰まった「Morning Glory?」「Be Here Now」を聴いてたんだから、すぐに「Definitely Maybe」も後追い学習すればよかったんだが、あまりその気にならなかった。
たぶん唯一聴いた収録曲「Cigarettes & Alcohol」にそれほど心躍るものがなかったんだろうと思う。
失われた30年はもう取り返しがつかないが、なんとか今聴けてよかったです。

野蛮で暴力的な言動と行動が当初から批判されてきた兄弟だが、音楽や歌詞についてはかなり実直で誠実な姿勢が見られる。
ノエルは当時のグランジ台頭をあまり良く思っていなかったそうだ。
「Rock 'n' Roll Star」「Live Forever」などはまさにグランジの退廃的な思想とは真逆の内容だが、オアシスは当時ダサいとされた直球でオールドなロックンロールを真剣に選択していたのだ。
ノエルはニルヴァーナの「I Hate Myself and Want to Die」という曲について、「自分が嫌いで死にたいなんてタイトルや内容、またこんな歌を好きだというヤツも受け入れられないと思った」「子供達はこんな曲を聞く必要はない」などと酷評している。
その後の暴れっぷりを知るとあまり説得力はないような気はするが、実は兄弟とも根はマジメで純朴な人たち・・なのかもしれない。

タイトル「Definitely Maybe」は「間違いない、たぶん」という意味らしいが、「間違いない」と断定しておきながら「たぶん」を付ける変な言葉は、当時ギャラガー兄弟の周辺で流行っていた言い方だそうだ。
「知らんけど」を付けるようなもんかな?
なお「Definitely」は日本の中学校でもまず教わらない英単語だと思うので、レコード会社も配慮したんだろうか、邦題は地味に「オアシス」である。

ジャケットの部屋はボーンヘッドの自宅の居間で、メンバーのお気に入りの物や好きなサッカー選手の写真などを置いて撮影している。
立てかけてあるギターもボーンヘッドが実際にレコーディングやライブで弾いていたものとのこと。
ビートルズの「オールディーズ」から着想を得たとされているが、ソファーに腰掛けてるところくらいしか共通点は見当たらないようだが・・
バンドロゴの強さに対してタイトルが手書きの白文字で背景の部屋に埋もれてしまっており、意図的なのか否かはともかく、デビューアルバムでこのデザインはどうなのかと疑問は残る。

というわけで、「Definitely Maybe」。
しょうもない感想ですけど、これはよかったです。
今さらですがやはり初期のオアシスのダサいとされた音は、ダサい自分には合っているようです。
残る未聴盤「Don't Believe the Truth」「Dig Out Your Soul」も早急に鑑賞したいと思います。

Definitely-maybe
Oasis Definitely Maybe (Remastered) (Deluxe)
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Oasis Dig Out Your Soul
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光浦靖子 私が作って私がときめく自家発電ブローチ集

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聴いてない 第330回 シャーデー

80年代当時、「どんなの聴きます?」という質問に答えると相手の姿勢がぐっと良くなるアーティスト、それがシャーデーである。(適当)
聴いてないのでイメージでしかないのだが、ここでエア・サプライと答えるのとシャーデーと答えるのでは相手の反応が確実に違うような気がする。
エア・サプライだけでなくナックやレイフ・ギャレットでも同じかも。
平たく言うとシャーデーはオシャレな音楽・・でいいと思うが、オシャレでなくナウくもなかったヤングな自分は当時から今に至るまで聴いていない。

回りくどくなりましたけど、シャーデー聴いてません。
代表曲「Smooth Operator」だけは知っているが、エアチェックしたこともなくフルコーラス聴いたことはない。
たぶん柏村武昭の趣味ではなかったんだろう。(知らんけど)
聴いてない度は2だが実質1でいい状態。(どうでもいい)
よく言われる話だが、シャーデーはソロシンガーではなくバンド。
勘違いしてた人も多いようで、自分も割と長いことソロシンガーだと思っていた。

あらためてナゾの音楽集団シャーデーを調査。
シャーデーはイギリスのソウル・ジャズ系ポップスバンド。
デビュー当初よりシンセサイザーやプロモーションビデオに凝るといった当時の流行を回避し、最小限の音で構築した音楽が特徴。
ただしボーカルのシャーデー・アデュは、自分の作品やバンドの音楽性をジャズとくくられることを嫌っているそうだ。

そのシャーデー・アデュは1959年ナイジェリアで生まれた。
本名はヘレン・フォラシャーデー・アデュ。
父親はナイジェリア人の経済学教師で、母親はイギリス人看護婦。
ヘレンが4歳の時に両親は離婚し、母親はヘレンと兄を連れてイギリスへ帰国した。
少女時代のヘレンはカーティス・メイフィールドやマーヴィン・ゲイを好んで聴いていたそうだ。

77年にデザイン学校に進学し、卒業後は友人と共に小さなファッション会社を起業。
また会社経営の傍らで写真のモデルや、ラテン・ソウル系の音楽活動もしていた。
モデルや経営というと華やかなイメージだが、実際はかなり貧しい生活で、暖房もない部屋で凍えながら暮らしていたらしい。

シャーデー・アデュは、初めはアリバというラテン・ソウル・バンドに参加していたが、その後プライドという名のバンドでバックコーラスを始めた。
このプライドにいた仲間と共に、83年にバンドを結成。
バンド名は中心人物となったシャーデー・アデュの名前を使用することにした。

メンバーは以下のみなさんである。
シャーデー・アデュ(Vo)
ポール・スペンサー・デンマン (B)
アンドリュー・ヘイル(K)
スチュワート・マシューマン (G・Sax他)
ポール・アンソニー・クーク(D)

84年2月、シャーデーは最初のシングル「Your Love Is King」をリリース。
全英チャートで6位のヒットとなった。
セカンドシングル「When Am I Going to Make a Living」は全英36位だったが、続く3枚目シングル「Smooth Operator」は全英19位、全米アダルト・コンテンポラリー・チャートでは1位を記録。
あれ・・・?
「Smooth Operator」が最大のヒット曲・・じゃなかったの?
全英では最初のシングル「Your Love Is King」が現時点で最高位のようです。

で、これらのヒット曲を収録したデビューアルバム「Diamond Life」も全英2位を記録した。(ドイツやフランス、オランダでは1位)
このアルバムは半年以上イギリスのトップ10にランクインし、85年の英国最優秀アルバム賞も受賞。
後に「死ぬ前に聴くべき1001枚のアルバム」という本にも収録された。
ジャケットにはアデュしか写っていないので、彼女がシャーデーというソロシンガーだと思われてもやむを得ないと思う。(言い訳)

バンドは85年MTVビデオ・ミュージック・アワードの最優秀女性ビデオ・最優秀新人アーティストの2部門にノミネートされ、さらにあのライブ・エイドにも出演している。
83年に結成されたバンドが84年に大ヒットを飛ばし85年にライブ・エイドに出演、という驚愕のサクセスストーリー。
メンバーそれぞれに下積みはあったものの、シャーデーはスタートから絶好調だったようだ。

85年11月、シャーデーは2枚目のアルバム「Promise」をリリースし、全英・全米の両方で1位を獲得した。
売り上げ枚数は「Diamond Life」の1千万枚が上だが、「Promise」も930万枚の大ヒットである。
86年、アデュはアメリカン・ミュージック・アワードの最優秀ソウルR&B女性ビデオアーティストにノミネートされ、バンドはグラミー賞の最優秀新人賞を受賞した。
また同年6月にロンドン開催されたアーティスト・アゲインスト・アパルトヘイト・コンサートにも出演。
続く87年、バンドは「Promise」でグラミー賞の最優秀R&Bボーカルパフォーマンス賞にノミネートされている。
こんなすごい実績だったのか・・・

3枚目のアルバム「Stronger Than Pride」は88年5月に発売され、全英3位を記録。
シングル「Paradise」は全英29位、全米ACチャート3位に入った。
バンドは再び世界中をツアーし、89年にアデュは再び最優秀ソウルR&B女性ビデオアーティストにノミネートされた。

90年代に入ってもシャーデーはグランジの波に飲まれることなくマイペースだったようだ。
92年に4枚目のアルバム「Love Deluxe」を発表。
全英10位・全米3位を記録し、クアッドプラチナに認定された。
93年公開の映画「インデセント・プロポーズ」でシャーデーの「No Ordinary Love」が使用され、翌年のグラミー賞では最優秀R&Bパフォーマンス賞を受賞。

95年、アデュはジャマイカ人音楽プロデューサーのボブ・モーガンとともにジャマイカへ移住。
翌年長女を出産し、しばらくシャーデーとしての活動は休止する。
シャーデー休止中の96年に、アンドリュー・ヘイル、ポール・スペンサー・デンマン、スチュワート・マシューマンはサイドプロジェクトとしてスウィートバックを結成し、セルフタイトルのアルバムをリリースしている。

シャーデーとして活動を再開したのは2000年になってから。
10月にシャーデーはイギリスの音楽賞MOBOアワードでライブパフォーマンスを行い、11月には8年ぶり5枚目のスタジオ盤「Lovers Rock」をリリースした。
全英18位を記録したが、キャリア中トップ10入りしなかった唯一のスタジオアルバムとなった。(全米は3位)
2002年には最優秀ポップ・ボーカル・アルバムのグラミー賞も受賞。
バンドは2001年を通して全米ツアーを行い、ライブアルバム「Lovers Live」もリリースされた。

しかしツアー終了後、シャーデーは再び活動を休止。
アデュは音楽を急いで発表するつもりはなく、売るためだけにリリースすることには興味がないと述べ、イギリス南西部の田舎に移り住み、石造りのコテージを購入・改装するなどして過ごしていたそうだ。
真の理由は本人に聞かないとわからないが、結果的に活動休止期間は8年にも及んだ。

結局バンドはアデュの意志により休止したり復活したりだったようだ。
アデュは活動休止中にセッションのアイディアを集め始め、2008年にバンドを再結成してレコーディングを始めるようメンバーに電話。
急遽招集されたメンバーはそれぞれの仕事をやめてピーター・ガブリエル所有のスタジオに集合し、2009年6月よりレコーディングを開始。
メンバー全員が顔を合わせるのは、2001年のツアー終了以来初めてのことだった。
活動休止して8年も経ってんのに、突然呼び出されてもみんなちゃんと集まってアルバム作れるって、すごい話だなぁ・・
それはバンドの絆なのかアデュの恐怖政治なのかはわかりませんけど。

レコーディングは2009年夏に終了し、翌年2月に10年ぶりの新盤「Soldier of Love」として発表された。
アルバム「Soldier of Love」は全英4位、全米では85年の「Promise」以来25年ぶりの1位となった。
音楽評論家からも好評を博し、最優秀R&Bパフォーマンスグループのグラミー賞を受賞。
3曲がシングルカットされ、最初のシングル「Soldier of Love」は全米R&Bチャートで6位を記録した。
現時点ではこのアルバムが最新作である。
2018年7月にスチュアート・マシューマンは音楽雑誌インタビューで「シャーデーは7枚目のスタジオアルバムを制作中」と語ったが、まだ発表はされていない。

なおシャーデーは2017年公開の映画「Widows(妻たちの落とし前)」のサウンドトラックで「The Big Unknown」を、また翌年にはディズニー映画「五次元世界のぼうけん」のサウンドトラックで新曲「Flower of the Universe」を制作している。

以上がシャーデーのオシャレでハイセンスなアジェンダのサマリーである。(適当)
知ってた話はもちろん皆無。
ライブ・エイド出演も全然知らなかった。

前述のとおりアデュ本人はシャーデーをジャズにくくられるのは本意でないそうだが、ジャズ要素を含む音楽性であることは確かなようだ。
ウィキペディアによれば「ネオソウルという音楽ジャンルに影響を与え、1980年代に、ソウル、ポップ、スムースジャズ、クワイエットストームの要素を取り入れた洗練されたポップスタイルの曲で成功を収めたとされている。」とある。
そう言われても全然わからないですけど・・

「Smooth Operator」はジャズというよりゆるやかなレゲエ調のリズムに乗せたR&Bという感じがする。(知ったかぶり)
いずれにしろメタルやグランジやプログレや産業ロックといったジャンルとは縁遠い位置にいる人たちだと思う。
だが一方でシャーデーは多くのラップやヒップホップ、オルタナのミュージシャンから支持されており、ラキムやリック・ロス、カニエ・ウェストなどのラッパー達はいずれもシャーデーのファンであることを公言しているそうだ。

「Smooth Operator」の意味もわからずぼんやり聴いていたが、歌詞を見ると「口のうまい人・要領のいい人」のことのようだ。
アメリカのあちこちでうまいこと女をだまして飛び回る悪いヤツ・・といった内容。

シャーデーを語る多くのサイトに書いてあるが、人気の理由のひとつにアデュのルックスを含む優雅な魅力があるようだ。
どのアルバムもジャケットはアデュだけであり、やはり彼女のビジュアルもバンドを牽引してきたことは間違いない。
そういう意味ではブロンディプリテンダーズと同様の「バンドを率いる美女と存在感の薄い野郎ども(失礼)」という構成である。

というわけで、シャーデー。
聴くとしたらやはり「Smooth Operator」収録の「Diamond Life」から順番に・・でしょうか。
スタジオ盤は6枚なので、その気になれば全盤制覇も不可能ではなさそうですが、ジャズに疎い自分でも聴けそうな、ジャズ香の薄い作品がもしあれば教えていただけたらと思います。

Diamond-life
シャーデー Diamond Life
Promise
シャーデー Promise
Smooth-operator
スムース オペレーター

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聴いてない 第329回 ジョーン・バエズ

先日公開されたボブ・ディランの伝記映画「名もなき者」。
ディランを演じているのはティモシー・シャラメ、モニカ・バロバルが演じているのがジョーン・バエズである。
・・・などとインチキ映画評論家っぽく書いてみましたが、全部引き写し。
そもそもディラン聴いてないのでこの映画も観る資格もありませんけど、流れてきたニュースでジョーン・バエズとディランの関係をぼんやり知った次第。
もちろんジョーン・バエズも全然聴いておりません。

ジョーン・バエズ、1曲も聴いてないので聴いてない度は盤石の1。
じゃあ何で自分みたいな万年ド素人が名前を知ってるのかというと、一度だけ彼女の歌う姿をテレビで観たことがあるからだ。
そう、ライブ・エイドである。

ライブ・エイドはアフリカ難民救済を目的として1985年7月13日に行われたチャリティーコンサート。
主にイギリスとアメリカの会場でライブが行われ、日本でもフジテレビが特番として生放送。
まあ散々語り尽くされた話だが、両会場とも進行の不手際やアクシデントが続出し、日本のテレビ放送でも歌ってる途中で中継が途絶えたりCMに切り変わったりの連続で、称賛も批判も多かったイベントである。

ジョーン・バエズはアメリカ会場のトップバッター(表現が昭和)として登場。
この模様は日本でも放送され、自分も彼女が「Amazing Grace / We Are The World」を歌うシーンを観ていた。
ジョーン・バエズの名前もこの時知った次第。

ただ、この時なぜかジョーンは「Amazing Grace」の歌詞を一部変えて歌っている。
さらに持ち歌ではない「We Are The World」(しかもジョーンはスタジオ録音には参加していない)をアカペラで歌ったことに対する批判もあったらしい。
「トップだったのに観客があまりノッてこなかった」という評価が多いが、映像を見るとまあそうかもしれない・・と感じた。
ジョーン・バエズはエンディングの「We Are The World」大合唱にも登場しているが、シーナ・イーストンにマイクを向けてもらえず、なんとなく困った感じでシーナから離れていった様子が映像で残っている。

で、今回ジョーン・バエズを調べようと思ってウィキペディアを見たら、日本語版は非常に淡泊で短く、文章量は英語版の1/10くらいしかない。
さらに日本語版にはライブ・エイド出演の記述は全くなく、英語版でも1行程度。
どうやら彼女のキャリア中ではライブ・エイド出演はそんなに重要な出来事でもなかったようだ。
すいません、ライブ・エイド出演しか知らなくて・・・

あらためてジョーン・バエズの活躍をムリして調査。
ジョーン・バエズは1941年1月9日、ニューヨークで生まれた。
本名は母親と同じジョーン・チャンドス・バエズ。
父親のアルバートはメキシコで生まれ、ニューヨーク州ブルックリンで育ったため、スペイン語にも堪能だった。
三姉妹の次女として育ったが、父親がユネスコで働いていたため、家族は全米各地や、イギリス、フランス、スイス、スペイン、カナダ、イラクなど各国で生活した。

幼少の頃からメキシコ系であることで人種差別や中傷にさらされ、歌手になる前から公民権運動や非暴力運動など、さまざまな社会運動に関わるようになる。
カリフォルニアに住んでいた13歳の頃、叔母が彼女をフォークミュージシャンの ピート・シーガーのコンサートに連れて行った。
ピートの音楽に強い衝撃を受けたジョーンはすぐにピートの曲を練習し、教会などで演奏し始める。

高校卒業後、家族はボストンに移住する。
ここでもジョーンは大学やクラブで演奏し、友人とフォーク音楽アルバムを制作する。
その後フォーク歌手ボブ・ギブソンやゴスペル歌手オデッタと出会い、ボブの誘いで59年に行われたニューポート・フォーク・フェスティバルに出演。
当時はベトナム戦争が始まっており、フェスは反戦集会も兼ねたイベントだったが、ジョーンは会場に真っ赤な霊柩車で乗り付けるという大胆な反戦アピールをやってのける。
・・・すごいエピソードだけど、霊柩車は誰が塗ったの?
この時の歌と行動が認められたジョーンは、自らギターを弾き、「ドナドナ」「朝日のあたる家」などの伝統的なフォーク・バラード、ブルースを歌ったソロデビューアルバムを発表する。
無名歌手のデビューアルバムとしては異例のヒットとなり、全米15位・全英9位を記録した。

続く2枚目のアルバム「Joan Baez, Vol. 2」もゴールドディスクを獲得。
62年にはライブ盤「Joan Baez in Concert, Part 1」、翌年の「Joan Baez in Concert, Part 2」もゴールドディスクを獲得した。
この「Part 2」では、ディランの「Don't Think Twice It's Alright(くよくよするなよ)」をカバーしている。

61年にニューヨークのレストランで歌っていたディランを見たジョーン・バエズは、彼の才能に衝撃を受け、やがて二人は恋仲となる。
先に歌手として売れたのはジョーンだった。
アルバム2枚が大ヒットしたジョーンは「フォークの女王」と呼ばれる存在となったが、その時彼女の周辺にいた友人やプロデューサーに、まだ無名だったディランの才能を紹介するようになる。
この推し活により、ディランはハリー・ベラフォンテやニューヨークのフォークシンガーのレコーディングに参加できるようになり、62年にアルバム「Bob Dylan」でデビューを果たす。
なのでジョーン・バエズと出会わなかったら、ボブ・ディランのデビューはもっと後だった可能性がある・・・というまとめでいいんでしょうか?

ディランの先を行くジョーン・バエズは、ディランがデビューした半年後の11月にタイム誌の表紙を飾っている。
当時のミュージシャンにとっては珍しい栄誉だったそうだ。
ジョーンは63年に行われたニューポート・フォーク・フェスティバルでディランをステージに招き、ディランの「With God on Our Side(神が味方)」を一緒に演奏した。
二人はその後数年にわたって多くのステージでデュエットしたが、ディランのファンからは不評だったらしい。

ジョーン・バエズは64年に「There but for Fortune」という曲をカバーし、全米チャートでは50位・カナダで27位だったが、全英では8位のヒットとなり、シングルで初のトップ10入りを果たした。
オリジナルは60年代を代表するアメリカのプロテスト・フォーク・シンガーのフィル・オクス。
フィルとジョーンは75年にセントラルパークでのライブでこの曲を歌った。
だが翌年フィルは残念ながら精神を病み、36歳の若さで自殺している。

歌手活動としては順調だったジョーン・バエズとディランだったが、65年のディランのイギリスツアーの頃には、彼らの関係は徐々に冷え始めていたそうだ。
それでもアーティストとしての才能はお互い認め合っていて、68年に発表した2枚組アルバム「Any Day Now(ボブ・ディランを歌う)」は全曲ディランのカバーで構成されており、シングルカットされた「Love Is Just a Four-Letter Word」はその後も彼女のコンサートの定番曲のひとつとなっている。

この頃ジョーンに運命的な出来事と出会いが起こる。
67年10月、カリフォルニア州オークランドの軍隊入隊施設前で、ジョーン・バエズは母親や約70人の女性たちと共に、入隊予定の若者の入場を阻止するため出入口を塞ぐ抗議行動に出る。
ジョーンは母親らと共に逮捕され、サンタ・リタ刑務所に収監されてしまう。

この刑務所で出会ったのが、ベトナム戦争反対運動で有名なデビッド・ハリスだった。(出会ったのは刑務所を出た後と書いてあるサイトもある)
釈放後二人は親密になり、68年3月にニューヨークで結婚した。
だがその後デビッドは軍隊への入隊を拒否したため起訴され、69年7月にまたも刑務所に連行されてしまう。

夫デビッドの服役中もジョーンは音楽と反戦活動を止めなかった。
69年8月にはウッドストック・フェスティバルに出演し、夜明け前のステージで「Oh Happy Day」「Joe Hill」やボブ・ディランの「I Shall Be Released」を獄中のデビッドに捧げて歌い、最後は「We Shall Overcome」を披露した。
またカントリーミュージックの好きなデビッドのために「David's Album」を制作。
夫のために作ったカントリー色の強いアルバムで、彼女の音楽性はさらに広がった。
デビッドは1年半ほどで出所したが、二人はその後別居し、3年後には離婚している。

71年に2枚組アルバム「Blessed Are...」をリリース。
シングルカットされたザ・バンドのカバー「The Night They Drove Old Dixie Down」がトップ10ヒットとなり、またストーンズの「Salt of the Earth(地の塩)」やビートルズの「Let It Be」もカバーしている。
このアルバムを最後に、デビュー以来作品を発表してきたヴァンガードを離れ、A&Mレコードに移籍する。
このA&M時代がキャリア中最も商業的に成功していた時期だそうだ。
その割に日本語ウィキペディアには70年代から2000年代の活動が全く書いてない・・・どういうこと?

移籍後の最初のアルバム「Come from the Shadows」ではジョン・レノンの「Imagine」をカバー。
A&Mでは76年まで毎年コンスタントにアルバムを発表した。
その中にはB面が23分のタイトル曲だけ(しかも半分は朗読詩、半分はテープ録音された音)で構成された73年の「Where Are You Now, My Son?」のような変則的なアルバムもあった。

75年の「Diamonds & Rust」は、ボブ・ディラン、スティービー・ワンダー、オールマン・ブラザーズ、ジャクソン・ブラウンの曲をカバーし、ラリー・カールトン、ジョニ・ミッチェル、デビッド・ペイチも参加。
ジョーンの作品で最も売れたアルバムとなり、シングルの「Diamonds & Rust」が2枚目のトップ10シングルとなった。
この曲は後にジューダス・プリーストブラックモアズ・ナイトもカバーしている。

76年に2枚組ライブ盤「From Every Stage」を発表した後、今度はエピックの姉妹レーベルとして発足した新興のポートレイト・レコードに移籍。
翌77年、ロッド・スチュワートも歌った「Sailing」や、トラフィックの「Many a Mile to Freedom」をカバー収録した「Blowin' Away」をリリース。

多作だったジョーン・バエズだが、80年代に入るとアルバム制作の間隔が大幅に開いてくる。
グラミー賞授賞式やライブ・エイド出演、アムネスティ・インターナショナルによる慈善ツアーへの参加など、イベント出演で注目を集めることが多くなった。

87年に8年ぶりのスタジオ盤「Recently」を発表。
このアルバムでもダイアー・ストレイツの「Brothers in Arms」やU2の「MLK」、ピーター・ガブリエルの「Biko」をカバー。
へぇー・・知らなかった。
いえ、この話だけじゃなく全てのエピソードが初めて知る話ばかりですけど。
ここまで調べてなんとなくわかってきたが、この人も自作自演にはあまりこだわりがなく、他人のいい曲ならカバーするというスタンスのようだ。
「Brothers in Arms」はフォークランド紛争中にマーク・ノップラーが書いた反戦歌で、ジョーン・バエズも特に感銘を受けたようで、91年にもこのタイトルでカバー中心のアルバムを作っている。

89年には「Speaking of Dreams」をリリース。
90年代はレーベルチェンジを繰り返しながらアルバムを発表。
92年に「Play Me Backwards」、95年にライブ盤「Ring Them Bells」、97年「Gone from Danger」の各作品を残す。

2000年代のアルバムは2003年「Dark Chords on a Big Guitar」、2008年の「Day After Tomorrow」の2枚。
この頃にはもうチャートの実績にはこだわらなくなり、後輩芸人とのコラボやイベント出演で注目を集めていたようだ。
2006年6月にはブルース・スプリングスティーンのサンフランシスコでのライブに登場し、ボスと共に「Pay Me My Money Down」を披露した。
また同じ頃にジョン・メレンキャンプのアルバム「Freedom's Road」に、デュエット曲「Jim Crow」で参加している。

2008年のアメリカ大統領選挙で、ジョーンはバラク・オバマの支持を表明。
しかしオバマが当選し大統領になった後に、オバマの行動のどこかに失望したようで、「がっかりしている。大統領執務室に入ったら何もできなかった。もうおそらく二度と支持しない」と発言している。
・・・オバマの何にがっかりしたのだろうか?

2011年10月にはアップルコンピュータ設立者であるスティーブ・ジョブズの追悼式で「Swing Low, Sweet Chariot」を歌った。
追悼式にはU2やノラ・ジョーンズなども出演してたそうだが、驚いたことにジョーン・バエズは80年代初頭に若きスティーブ・ジョブズと交際していたとのこと。
・・・そうだったの?ファンの間ではもしかして常識?
二人には年齢差もあって(ジョーンのほうが14歳上)、スティーブ氏がプロポーズを断念したらしいが・・
ちなみにスティーブ氏はボブ・ディランの大ファンでもあったそうです。

2010年以降もジョーン・バエズは歌にも社会活動にも意欲的に取り組んできた。
2017年4月4日、トランプ大統領に対する抗議歌として27年ぶりの新曲「Nasty Man」を発表した。
その3日後にはロックの殿堂入りを果たす。

だが2018年3月に、重大な決意とともにアルバム「Whistle Down the Wind 」をリリースする。
タイトル曲はトム・ウェイツのカバーである。
このアルバムツアーで世界各国を回り、2019年2月のツアー終了をもって歌手活動から引退すると発表した。
引退の理由はやはり加齢により高い声が出なくなったことだそうだ。
アルバムは全米フォークアルバムチャートで5位、ドイツやスイスなど多くの国でチャートインした。

2019年4月、ジョーン・バエズはウッドストック開催50周年記念イベントへの出演を断ったと雑誌のインタビューで語っている。
「関わるには複雑すぎる」ことが理由だったそうだが、やはり声が出ない状態でステージに立つのはイヤだったんじゃないかと思う。
なおフェスティバルは8月に開催される予定だったが、様々な問題が噴出したようで、直前に中止となっている。

今回も知ってた話は全然ない。
主に60年代後半から70年代に輝かしい実績を残したが、80年代米国芸能界のチャラい展開には乗らず(乗れず?)、社会活動とともに音楽もブレずに活動してきたため、80年代以降は現役でありながら早くも「伝説」の歌手みたいな扱いになっていったのではないだろうか。
たぶんプロモ・ビデオでミラーボールを回して踊ったり寸劇を演じて笑いを取ったりはしていないはずである。

というわけで、ジョーン・バエズ。
聴くとしたらまずは最大のヒット作「Diamonds & Rust」かなと思いますが、「Brothers in Arms」にも少し興味はあります。
多作なので評価も選択もいろいろかもしれませんが、おすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

Diamonds-and-rust
ジョーン・バエズ Diamonds & Rust
Brothers-in-arms
ジョーン・バエズ Brothers in Arms
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聴いてない 第328回 ヴァレンシア

自分が洋楽の沼に浸かっていたのはほぼ80年代限定なので、90年代以降に活躍したアーティストの鑑賞は基本的に壊滅状態である。
その暗黒の90年代に登場し、なぜか1曲だけ聴いているのが、オランダの貴公子ヴァレンシア。
93年のデビューシングル「Gaia」だけ、MTVの音声をテープに録音している。
映像は全く覚えておらず、オランダの若い人という情報以外仕入れることもなかった。
聴いてない度は2。

今回ヴァレンシアを調べて初めて知ったが、この人はクイーンに強く影響を受けたことを公言していて、2003年にはカバー集アルバム「Queen Tribute」までリリースしているそうだ。
これで俄然興味がわいたので、採り上げることにしました。(安直)

ヴァレンシアは1971年4月13日にオランダのハーグで生まれた。
父親はインドネシア人、母親はオランダ人。
父母は逆だが、ルーツの組み合わせはヴァン・ヘイレン兄弟と同じである。
本名はアルダス・バイロン・ヴァレンシア・クラークソンという長い名前。
幼少の頃暮らしていたスペインでピアノやギターを始めた。

その後オランダに戻りバンド活動を始め、16歳でレコード会社にデモテープを送るようになる。
すでにこの頃にはクイーンをよく聴いていたようだ。
デモに注目したプロデューサーから連絡を受けたヴァレンシアは、91年マーキュリー・レコードと契約。
93年に最初のアルバム「Valensia(邦題:ガイア)」をリリースし、オランダのチャートで2位に達した。

デビューシングル「Gaia」は6分近くもある長尺曲で、ラジオ向きでないためレコード会社内ではシングル発表に否定的な意見もあったらしい。
新人歌手の長すぎるデビュー曲という大胆な決断ではあったが、結果は大ヒットで成功を収めた。

デビューアルバムは翌年日本でもリリースされ、10万枚のセールスを記録。
日本でのヒットに気を良くしたヴァレンシアは、クリスマスソング「21st Century New Christmas Time」やデュラン・デュランの「A View to a Kill」のカバーを含む5曲を収録したミニアルバム「The White Album」を日本限定で発売する。

96年には2枚目のアルバム「Valensia II - K.O.S.M.O.S.(邦題:遥かGAIA(地球)を離れて)」を発表。
シングル3曲を収録し、その中の「Thunderbolt」は日本でのみ発売である。
この年には初の来日公演も行われ、日本滞在中はテレビやラジオ番組に出演したり、CDショップでサイン会も行われたそうだ。
ヴァレンシア本人やレコード会社が、日本市場をわりとマジメに重視していたことがよくわかる。
97年には早くもベスト盤「The Very Best Of Valensia」も発売している。

98年にアルバム「V III - Valensia '98」を日本限定でリリース。
方向性に若干の変更が見られ、ややロック寄りにシフトしたサウンドになったが、ヴァレンシア本人はあまり気に入っておらず、後に「レコード会社からの指示で仕方なく作った」などと発言している。

99年にはオランダのミュージシャンであるロビー・ヴァレンタインとのプロジェクト「V」名義でアルバム「V」をリリースした。
2002年6月にもV名義で「Valentine vs Valensia」を発表。
ファンの間では2枚目のほうがゴージャスで高評価なようだ。
てっきりこのままユニットで活動すんのかと思いきや、翌月にはヴァレンシアとして「The Blue Album」をリリースしている。
案外多作なヴァレンシア。

そして2003年にクイーンの曲を自ら演奏し歌ったアルバム「Queen Tribute」を発表。
12曲全てクイーン作品ではなく、クイーンの前身バンドのスマイル時代の「Polar Bear」や、モット・ザ・フープル「All the Young Dudes(全ての若き野郎ども)」が収録されている。
また「Man From Manhattan」という曲もカバーしており、元曲はエディ・ハウエルという人が76年にリリースしたシングル。
なんでこんなのカバーしたのかと思ったら、オリジナルはフレディがプロデュースしてピアノを弾き、ブライアンがギターで参加した曲とのこと。
しかも演奏をサポートしたミュージシャンの労働許可違反が発覚し、リリースはしたもののすぐに廃盤となっている。
こんな曲クイーンのファンでも知らない人多いんじゃないの?
クイーンをカバーした人は世界中にいると思うが、ヴァレンシアも相当コアなクイーンマニアのようだ。

また同年メタル・マジェスティという名で弟のデビッドとユニットを組み、アルバムを発表。
デビッドはドラムを担当し、ギター、ベース、キーボードはヴァレンシアが演奏している。
なお日本盤はバンド名そのままのタイトルだが、ヨーロッパ盤は「This Is Not A Drill」という名前で2004年に発売され、収録曲も異なるそうだ。
メタル・マジェスティとしては2005年にもアルバム「2005」をリリースしているが、日本では未発表。
この頃は日本市場をどう見ていたのか、あまりよくわからない。

2010年にはシングル「One Day My Princess Will Come」を発表したが、直後にまたも販売中止となった。
中止の理由は不明で、どのサイトも「種々の事情」と書いている。
なのですでに流通に乗った盤だけがわずかに店頭販売されたというレアな曲になったそうだ。
なんかヴァレンシアさんはどうもこういう展開が多い気がする。
本人が悪いわけではなさそうですけど。

2014年9月、「Valensia VI - Gaia III - Aglaea - Legacy」というアルバムをリリース。
ヴァレンシアは活動休止を宣言し、レコード会社も「最後のアルバム」として発表している。
これでミュージシャンとしては引退・・となるはずだったが、思ったより早くヴァレンシアは復活する。

2017年に未発表曲をクラウドファンディングの特典として配布するなど、わりと珍しい形で活動を再開。
2019年に7枚目となるアルバム「7EVE7(セブン)」も発表。
2022年には3Dシューティングゲーム「Air Twister」の音楽を担当し、2枚組サントラアルバムも制作している。
最近はK-POPの楽曲を手がけているという情報もあるそうだ。

今回も知ってた話は全くない。
歌手というより作曲や演奏もこなすマルチプレーヤーと、どのサイトでも紹介されている。
若い頃から人見知りで内向的でインドアなタイプだったようで、大人数での会食などが苦手なため、来日中も毎晩ホテルの部屋で一人飯を食っていたとのこと。
なんか共感するなぁ。
楽屋で殴り合ったりステージで火を吹いたり生きたコウモリを食いちぎったりホテルの窓から女を投げ捨てたり・・・といった往年の野蛮なロックスターの行動様式とは無縁の人のようだ。

「Gaia」だけしか知らないが、言われてみればあのサウンドやワルツなリズムや構成は確かにクイーンっぽい気はする。
ビートルズが発したサイケやプログレな部分もなぞっている感じはするし、ティアーズ・フォー・フィアーズにも似ていると思う。
壮大でやや大げさな楽曲だが、中性的なボーカルが乗ると悪くはない。
他の曲もおおむねこの路線であれば、それほど拒絶感なく聴けそうな気はする。(本当か?)

というわけで、ヴァレンシア。
聴くなら当然「Gaia」収録のファーストアルバムからでしょうけど、「Queen Tribute」でどんなカバーに仕上げているのかも興味はあります。
ユニット名義も含め、他におすすめのアルバムや曲があれば教えていただけたらと思います。

Gaia
ヴァレンシア Valensia
Air-twister
Air Twister オリジナル・サウンドトラック
Orange

ネーブル バレンシア 果物 フルーツ

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聴いてない 第327回 ブルー・マーダー

先日亡くなったジョン・サイクス。
彼を語る記事で在籍したバンドとして必ず書いてあるのがシン・リジィホワイトスネイクだが、バンドリーダーとして活動していたのはブルー・マーダーである。
・・・などと知ったかぶりで書いてみたが、実は全く聴いていない。

というか、そもそもジョン・サイクスの動向やギターサウンドを意識して確認したことがない。
まあそんなのはジョー・サトリアーニもスティーヴ・ヴァイもトミー・ボーリンも同じなんだけど。
名前と華麗なる経歴はかすかに知ってはいるが、他の情報はないまま訃報に接してしまった状態。
すでにシン・リジィとホワイトスネイクはどっちも20年くらい前に書いてしまったが、いずれもジョン・サイクスにはほとんどふれていなかった。(知らないから)
亡くなってからあわてて調べて書いてみるという鉄板の失礼BLOGではあるが、今回はジョン・サイクスを中心としたバンドであるブルー・マーダーに限定して発信します。(エラくない)

ブルー・マーダーは、ジョン・サイクスが中心となって結成されたイギリスのハードロックバンドである。
結成にはホワイトスネイクのデビッド・カバーディルが大きく関係している。
1986年にジョン・サイクスはカバによりホワイトスネイクを解雇される。
ジョン・サイクスはホワイトスネイクの大ヒットアルバム「Whitesnake(白蛇の紋章:サーペンス・アルバス)」の大半をカバと作り全曲演奏しており、ほぼ二人で作った傑作と言える。
でもアルバム発表時にはもうジョン・サイクスはクビになっており、ジョンのどこが気に入らなかったのかはカバに聞いてみるしかないが、カバの傲慢さがにじみ出た歴史的名盤でもある。

傲慢カバと決別し、雇われギタリストの立場にも飽きたたジョン・サイクスは、自らバンド運営に乗り出すことを決意。
ホワイトスネイク時代のバンドメイトであるコージー・パウエル、元ザ・ファームのベーシストのトニー・フランクリン、元ブラック・サバスのボーカリストのレイ・ギレンといった実力者が集まった。
ちなみにレイさんを「レイ・ギラン」と書いてるサイトも多いが、あのイアン・ギラン(Ian Gillan)とは親戚でもなんでもないので、レイ・ギレン(Ray Gillen)としたほうが良さそうだ。

新生ジョン・サイクス・バンドはデモをいくつか録音し、ゲフィン・レコードに送ったが、ゲフィンのジョン・カロドナーはジョンに「レイ・ギレンよりお前が歌ったほうがええんちゃうか」と意見する。
この話がレイ本人にもうっすらと伝わり、レイは「もうええわ」と脱退。
ジョンは「ほんならボーカルはもう少し探してみよか」と思い、バンドはボーカル未定のままゲフィンと契約したが、このボーカル探しを「何をモタモタしとるんや」と感じた短気なコージー・パウエルは突然脱退し、ブラック・サバスに行ってしまう。

コージー脱退にあわてたジョン・サイクスは、ドラマーのエインズリー・ダンバー(元ジャーニー、ホワイトスネイク)やカーマイン・アピス、ボーカリストのトニー・マーティン(元ブラック・サバス)にも声をかけたが、結局加入してくれたのはカーマイン・アピスだけだった。
取り急ぎジョン・サイクス、トニー・フランクリン、カーマイン・アピスの3人でボーカル未定のままバンドは始動。
なんか出だしから全然順調じゃないブルー・マーダー。

トニーの提案によりバンド名をブルー・マーダーとし、88年2月からデビューアルバムのレコーディングを開始した。
並行してボーカルのオーディションも続けたが、メンバーやプロデューサーが満足する歌い手を見つけることができなかったため、トニーとカーマインとジョン・カロドナーは再度ジョン・サイクスに「やっぱお前が歌ったらええねん」と提案。
提案を受け入れたジョンは奮起したのか渋々だったのかはわからないが、最終的にリードシンガーの役割を引き受けることになった。
ただ元々歌手としてのボイストレーニングをあまりマジメにしてこなかったため、やはり当初は歌うのに苦労したそうだ。

こうしてデビューアルバム「Blue Murder」は89年4月に発売された。
プロデューサーは当時モトリー・クルーラヴァーボーイのアルバムも手がけていたボブ・ロック。
プロモーションも兼ねてボン・ジョビとビリー・スクワイアのサポートとしてアメリカをツアーし、8月には東京・川崎・大阪で来日公演も行われた。

アルバムは全米ビルボードチャートで最高69位、全英は45位まで上昇したが、評価は分かれるようだ。
評論家からはバンドの音楽性やボブ・ロックのプロデュースを高く評価されたが、商業的にはやはりイマイチな結果とされた。
当然要因はいろいろあったと思うが、当時のメンバーや関係者の談話を読むと、なんとなくみんなが「自分ではない誰かのせい」にしていたように感じる。

ジョン・サイクスはサウンドの重厚さと明確なヒットシングルの欠如が失敗だったと認めてはいるが、一方でゲフィンレコードのプロモーションが不十分だったとも発言している。
カーマイン・アピスはマネジメントを担当していたチームに問題があったと指摘している。
実はこのチームはジョン・サイクスの義父が率いていたが、ツアー前に解雇された。
この解雇判断もカーマインは「遅すぎた」と思っていたようだ。
さらにゲフィンのジョン・カロドナーは、ブルー・マーダーの失敗はジョン・サイクスがフロントマンとして機能不十分だったことに起因すると感じていたが、そもそもジョン・サイクスをフロントマンに推したのはカロドナーだった。
やっぱみんな押しつけあってるなぁ・・・

意見や評価のズレはシングルも同様だった。
ジョン・カロドナーが提案した当初の計画では、「Valley of the Kings」を最初にシングルリリースして話題を集め、続いて「Jelly Roll」をMTVやラジオでよりプッシュするはずだった。
「Valley of the Kings」のビデオ撮影には15万ドルもかけたそうだ。
この高額費用もあってか、バンドがツアーに出るとゲフィンは「Valley of the Kings」のプッシュをバンドやMTVに要求し始めた。
だが「Valley of the Kings」はMTVで何度か採り上げられたものの、やがてMTV側から「長すぎて流す価値がない」と見なされ、「Jelly Roll」の放送も拒否される。
・・・そんなことある?
なんかゲフィン側がやらかしてMTVを怒らせたんじゃないの?

ジョン・サイクスはブルー・マーダーのデビューアルバムの失敗に深く落ち込み、バンドはしばらく活動休止になった。
その間全米を覆ったのがグランジである。
メンバーやレコード会社は、グランジ台頭によりブルー・マーダーを含むメタル系のグループは流行遅れとなったと感じていた。
ジョンは90年に入ってようやく新しいアルバム制作の準備を開始したものの、進捗は遅々として進まなかった。
トニーとカーマインはジョンを待つことに疲れ、相次いでブルー・マーダーを脱退。
ジョンはトミー・オスティーン(D)とマルコ・メンドーサ(B)、ニック・グリーン(K)を採用し、トニーやカーマインが残した音源も使ってアルバム制作を進めた。

こうして3年ほどかけてアルバム「Nothin' But Trouble」は完成し、93年8月にゲフィンからリリースされた。
9月には来日して公開番組「ミュージックトマトWorld」にも出演し、アルバムラスト曲「She Knows」の生歌も披露。
伊藤政則が「もう自分でもアルバムは一生出ないんじゃないかと思った?」と問いかけると、ジョンも「そう思ったことは何度かあった」などと答えている。

「Nothin' But Trouble」は日本ではオリコン6位と健闘し、シングル「We All Fall Down」はロック・トラック・チャートで35位に達したが、評論家は「デビューアルバムより劣る」と批判し、結局日本以外ではチャートインしなかった。
ジョンはこの結果をまたしてもゲフィンのせいにし、「アルバムの宣伝を全然しなかった」と発言。
これでゲフィンとの決裂は決定的となり、94年に東京で録音されたライブ盤「Screaming Blue Murder: Dedicated to Phil Lynott(フィルに捧ぐ)」をリリースした直後、ゲフィンとの契約を切った。

ジョン・サイクスは「Nothin' But Trouble」が好評だった日本に恩義を感じ、あえてマーキュリー・ジャパンと契約。
トミー・オスティーンとマルコ・メンドーサを、自身のバンド「サイクス」に連れて行き、95年にはアルバム「Out of My Tree」を発表。
その後も2000年までトミーとマルコを伴い活動を続けた。
なお97年の「20th Century」にはTOTOのサイモン・フィリップス、2000年の「Nuclear Cowboy」にはカーマイン・アピスが参加している。

一方で94年には新生シン・リジィとしても活動を開始。
ジョン・サイクスは元シン・リジィのブライアン・ダウニー、スコット・ゴーハム、ダレン・ウォートンと共にツアーに出る。
新シン・リジィ(ややこしい)は過去の曲のみを演奏し新曲は作らなかったが、フィル・ライノット抜きでシン・リジィの名前を使ったことで批判されたりした。
メンバーを変えつつライブアルバム「One Night Only」もリリースし、ジョン・サイクスは2009年まで新シン・リジィのフロントマンを務め続けた。

ジョンが新シン・リジィを脱退した表向きの理由は「自分の音楽に戻る時が来たと感じた」からだそうだが、実は脱退前後にガンズ・アンド・ローゼズのオーディションを受けていたとの話もある。
結局ガンズ加入は実現しなかったが・・・
なおその後はスコット・ゴーハムがジョン・サイクスのいないシン・リジィを再結成している。

名門バンドを渡り歩いた栄光の経歴ギタリストを業界が放っておくはずがなく、ジョン・サイクス周辺には再びスーパーグループ結成の話が持ち上がる。
2011年にはマイク・ポートノイ(元ドリーム・シアター)、ビリー・シーン(元MR. BIG)と新バンド「バッド・アップル」結成を画策していることが判明した。
しかしジョン・サイクスは他のメンバーと予定が合わないというとってつけたかのような理由でバッド・アップルは頓挫。
ジョンに代わってリッチー・コッツェンが加わり、2012年にワイナリー・ドッグスと名を変えて結成された。
ワイナリー・ドッグスは意外?に順調で、10年間で3枚アルバムをリリースし、都度日本を含むワールドツアーも行われている。

結果的にジョン・サイクスはキャリア最終章としてソロ活動を選んだことになる。
2013年に新しいソロアルバム制作に取り組んでいることを明らかにしたが、正式にリリースはされていない。
2021年には20年ぶりの新曲「Dawning of a Brand New Day」「Out Alive」を発表。
アルバム「Sy-Ops」もリリースすると表明していたが、これも実現しなかった。

で、本題のブルー・マーダーだが、再結成の話はメンバーや関係者の間では何度もあったようだ。
2019年にジョンとカーマイン・アピスでリハーサルもしたが、再結成で合意するところまで行かなかった。
ツアーの名義を「ジョン・サイクス&ブルー・マーダー」にしたいとジョンが言いだし、カーマイン・アピスは「なんやそれ」と反発したらしい。
冒頭で述べたとおり、ジョン・サイクスは2024年12月に65歳で亡くなったため、ブルー・マーダーの再結成は永久に不可能となってしまった。

今回ブルー・マーダーの曲をいくつかYou Tubeで聴いてみた。
本業はシンガーでなくギタリストで通してきた人なので、歌もそんなに頼りないのかと思って構えて聴いたが、ふつうに歌えていると感じた。
ただデビカバやフィル・ライノットのようにクセがすごいボーカルではないので、比べられるとやや厳しいかもとは思う。
本人も結成後しばらくはシンガーを探していたようなので、もしブルー・マーダーにもっと強力な歌手が加入していたら・・と思うと少し残念ではある。

あとブルー・マーダーの活動期間がグランジ台頭と重なってしまった点も不利に働いたと思う。
日本では結構売れたようだが、結成があと5年早ければ、アメリカやイギリスでもまた違った展開になっていたと思われる。

というわけで、ブルー・マーダー。
スタジオ盤は2枚なので全盤制覇も難しくなさそうですが、ブルー・マーダーを含むジョン・サイクスが関わった名曲についても、教えていただけたらと思います。

Blue-murder
ブルー・マーダー Blue Murder
Nothin-but-trouble
ブルー・マーダー Nothin' But Trouble
Blue-murder_book
誉田哲也 ブルーマーダー 警部補 姫川玲子

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聴いてみた 第184回 メン・アット・ワーク

2025年最初の聴いてみたシリーズ、今回はメン・アット・ワークを聴いてみました。(場内失笑)
・・・まあそうでしょうね。
自分でも「なぜ今それを聴く?」と問いただしたい感覚はわかります。
ジョン・レノンクラプトンブルース・スプリングスティーンなど他にやらなきゃいけない宿題がたまってるのに・・・
大学入学共通テスト前日なのに突然原付免許を取りに行って同級生からあきれられた高校生みたいな状態ですが・・・
なんかぼんやりと昔の洋楽の動画なんかを眺めてるうちに「そういや聴いてなかったな」と突然思い出し、急遽入手したのが3枚目のアルバム「Two Hearts」。

メン・アット・ワークをBLOGで採り上げるのは初めてである。
なんでかっつうと一応「Business as Usual」「Cargo」は聴いているからだ。
いつもの通り貸しレコード屋で借りたんですけど。
「Who Can It Be Now?(ノックは夜中に)」「Down Under」「Be Good Johnny」「Overkill」「It's a Mistake」などのシングルもだいたいエアチェックしたし、どれも嫌いではない。
ただアルバムを録音したテープはもう手元になく、それほどマジメなリスナーではなかった。(毎度のこと)

で、シングル「Everything I Need」も無事エアチェックし、3枚目の「Two Hearts」が出ていたことも知ってはいたが、売れ行きも評判もあまり良くないことも伝わってきていたので、レコードは借りなかった。
この後バンドは解散し、学習もそれっきりで終了。
聴いておけばよかった後悔は多少はあったが、特に深刻にとらえることなく40年ほど経過。(遅すぎ)
今回聴いてみたのも全くの思いつきで、聴くにあたっての不安材料もないが切迫感や義務感も全然ない。(失礼)

Two-hearts_l

一応鑑賞にあたり経緯や背景を確認。
「Two Hearts」はメン・アット・ワークが1985年4月にリリースした3枚目のアルバムである。
83年の前作「Cargo」が全米3位・全英8位・全豪1位と大ヒットしたが、この後メン・アット・ワークもロックバンドあるあるな展開で不安定になっていく。

「Business as Usual」「Cargo」の大ヒットで、見たこともない額のお金を手にしたメン・アット・ワーク。
しかし世界中を巡るツアーの連続でメンバーは次第に疲弊していき、バンド運営や演奏をめぐって衝突が積み重なっていった。
ドラムのジェリー・スパイザーとベースのジョン・リースの2人は、マネージャーを巡ってコリン・ヘイと対立する。
ジェリーとジョンはコリンの友人であるマネージャーを「田舎者でカネの扱いを知らないので解雇すべき」と主張し、コリンが反対したため「Two Hearts」制作前にジェリーとジョンがバンドを脱退(コリンによるクビという説あり)。
なおコリンとジェリーは結成当初からのメンバーだが、少し後から参加したジョンはジェリーが連れてきた友人だった。

残ったコリン・ヘイとグレッグ・ハム、ロン・ストライカートの3人は、セッションミュージシャンを雇ってレコーディングを開始したが、今度はロン・ストライカートがコリンと衝突し、アルバム制作途中にバンドを脱退した。
クレジットにはロンの名前もあるが、全曲演奏したわけではなく10曲中8曲参加だそうだ。

こうして混乱の中「Two Hearts」が完成。
オーストラリアでは最高16位、全米では50位どまりで、過去のアルバムに比べ大幅に後退した結果となった。
シングルも「Everything I Need」のみがオーストラリア(37位)とアメリカ(47位)でチャートインしただけで、他の3曲「Man with Two Hearts」「Maria」「Hard Luck Story」は100位に入らなかった。

コリン・ヘイとグレッグ・ハムはさらにサポートメンバーを招集して「Two Hearts」ツアーを続けたが、ツアー中にグレッグが脱退。
一人になったコリンはサポート隊とともにツアーを終えた後、86年に解散を表明。
結果的に「Two Hearts」はメン・アット・ワーク最後のアルバムとなった。

思っていた以上に複雑な背景(でもないけど)で作られた「Two Hearts」。
サウンドはドラムマシンとシンセサイザーに大きく依存し、前作とは違った雰囲気になっているとのこと。
イヤな予感しかしないが、果たしてどんなアルバムだったのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1.Man With Two Hearts
2.Giving Up
3.Everything I Need
4.Sail To You
5.Children On Parade
6.Maria
7.Stay At Home
8.Hard Luck Story
9.Snakes And Ladders
10.Still Life

うーん・・・
やはり評判どおりやや地味な印象がまずある。
メン・アット・ワークの魅力は、曲により当然違いはあるが、レゲエ調のリズムに乗せた進行や、どこか皮肉っぽいメロディ、間奏後のコリンのギアを上げたボーカル、サックスやフルートの効果的な使用などがあると思う。
だが「Two Hearts」にはこの特徴を強く感じる曲がない。
好みの点でもシングル「Everything I Need」を超えるようなステキな曲は見当たらなかった。

サウンドは確かにメン・アット・ワークだが、どの曲もあまり高揚感がなく淡々と進む感じ。
ドライブ中に聴いたりスーパーマーケットの中で流れる分には違和感はないが、このアルバムの各曲でイントロやサビで観衆が大歓声・・というシーンも想像しづらい。
B面特集のようでやはり物足りないという感想になる。
3曲ほどグレッグ・ハムがメインで歌っているが、コリン・ヘイに比べるとボーカルとしてはやや弱い。
そう考えるとやっぱり「Who Can It Be Now?」「Down Under」「Overkill」は、後半コリンの盛り上がるボーカルが秀逸で名曲だと思う。

世間の評判と自分の感覚が大幅に乖離することも多いが、今回は評判どおりだったようだ。
発売当時に聴いていたらそれなりにローテーションはしてたかもしれないが、評価はやはり「Business as Usual」「Cargo」よりも低い点にしかならなかったはずである。
次々にメンバーが脱退という過酷な混乱の中で作られた事情を考えれば「まあしょうがないよね」とも言えるが、ロックバンドでは内部の人間関係と作品の完成度は必ずしも整合しないので、コリン・ヘイももう少しやりようはなかったのかと思ったりした。(エラそう)

なおメン・アット・ワークは96年にコリンとグレッグを中心に再結成し4年ほど活動するが、イベントでのステージや、ライブと数曲のレコーディングだけで、スタジオ盤は発表していない。

2010年に「Down Under」のフルートのメロディが、童謡「Kookaburra」からの無断盗用だと版権を持つレコード会社から訴えられ、バンド側が敗訴。
判決にショックを受けたグレッグ・ハムは精神を病み、2012年4月に58歳で心臓発作のため亡くなる。

その後コリン・ヘイはリンゴ・スターのオールスター・バンドに参加(2003年以降ほぼ常連)したり、ソロアルバムを出したりしている。
2022年にコリンはリンゴ・スターがドラムで参加した新曲「Now and the Evermore」を発表した。
メン・アット・ワークを名乗って今も時々活動はしているが、オリジナルのメンバーはコリン以外は参加していないとのこと。
まあ昔も今も、メン・アット・ワークはコリンのワンマンバンドという定義で問題はないと思いますが。

というわけで、メン・アット・ワーク「Two Hearts」。
単品で考えれば悪くはないけど、「Business as Usual」「Cargo」との差もがっちり思い知らされる点で残念な感覚にはなってしまいました。
これで全盤制覇とはなったんですが、達成感は全くありません。
聴いてない80年代名盤はもっと他にもたくさんあるはずなので、ジョン・レノンやクラプトンなど王道学習と合わせて鑑賞していこうと思います。(薄い)

Two-hearts
メン・アット・ワーク Two Hearts
Work-songs
メン・アット・ワーク Business as Usual
Ringo-starr2
リンゴ・スター&ヒズ・オールスター・バンド Live At The Greek Theater 2019

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聴いてない 第326回 カーラ・ボノフ

聴いてない音楽を書かせれば無双状態の当BLOG、22年目最初のお題はカーラ・ボノフ。
イーグルスを学習していると登場するミュージシャンは、リンダ・ロンシュタットジャクソン・ブラウンJ.D.サウザージェームス・テイラーなどたくさんいるが、カーラ・ボノフもメンバーと関わりの深い人である。
・・・などと知ったかぶりで書いたが、実はそのイーグルスとの関係も含め、なんにも知らない。

名前しか知らず1曲も聴いてない・・と胸を張るつもりだったが、映画「フットルース」のサントラ盤に収録されていた「Somebody's Eyes」という曲だけ聴いていたことが判明。
でもメロディはほとんど記憶に残っていないので、聴いてない度は実質1。

シンガーソングライターで合っていると思うが、他のミュージシャンへの曲提供も多数あるようだ。
ではさっそく心の友ウィキペディアで調査開始・・と思ったが、意外にも日本語版と英語版は文章量がほぼ同じ。
どちらも思ったよりも説明が少なく薄い内容となっている。(エラそう)
英語版ならもっと詳しいと思ったんだけど・・アメリカでは有名な歌手じゃないの・・?
仕方なく他のサイトも含め鋭意調査した結果は以下のとおり。

カーラ・ボノフはアメリカのシンガーソングライター。
1951年12月27日カリフォルニア州でユダヤ人家庭に生まれ、ロシア、ハンガリー、オーストリア、ドイツにルーツを持つ。
父方の祖父カール・ボノフにちなんでカーラと名付けられた。

17歳の頃に姉とフォーク・デュオを結成するが、残念ながら芽が出ず解散。
姉はプロ歌手を諦めたが、妹カーラは引き続き地味に音楽活動を続け、この頃リンダ・ロンシュタットやケニー・エドワーズ、ジャクソン・ブラウン、ジェームス・テイラー、グレン・フライやドン・ヘンリーと出会う。
その後ロサンゼルスでアンドリュー・ゴールド、ウェンディ・ウォルドマン、ケニー・エドワーズとともに、ブリンドルというフォーク・バンドを結成する。

ケニー・エドワーズはリンダ・ロンシュタットのバックバンドのメンバーでもあり、その縁でリンダの76年のアルバム「Hasten Down The Wind(風にさらわれた恋)」にブリンドルも参加することになる。
カーラはこのアルバムに「Lose Again(またひとりぼっち)」「If He’s Ever Near(彼にお願い)」「Someone To Lay Down Beside Me(誰か私のそばに)の3曲を提供し、バックコーラスとしても参加。
この活躍がレコード会社との契約につながり、リンダに提供した各曲を自ら歌って録音し、77年にソロデビューアルバム「Karla Bonoff」をリリースした。
このアルバムにはリンダやブリンドルのメンバーの他、J.D.サウザー、グレン・フライなど友人達が多数参加している。
ちなみに収録曲「Isn’t It Always Love」は竹内まりやがカバーしているそうだ。

79年に2枚目のアルバム「Restless Nights(ささやく夜)」を発表。
前作に続きブリンドルのメンバーとJ.D.サウザー、さらにはジェームス・テイラーやドン・ヘンリーも参加した。
ローリング・ストーン誌はアルバムを「安っぽい」と酷評したが、全米31位を獲得。
シングル「Trouble Again(涙に染めて)」は日本でもヒットし、翌80年には初来日。
東京音楽祭で「Trouble Again」は金賞を受賞した。

82年のアルバム「Wild Heart of the Young(麗しの女~香りはバイオレット)」は、さらに豪華なメンバーが参加している。
当時は解散していたイーグルスからはドン・ヘンリーとジョー・ウォルシュとティモシー・B・シュミットが参加。
またおなじみのJ.D.サウザーに加え、デビッド・サンボーンやビル・ペインも協力し、全米49位を記録している。
シングル「Personally」は全米ビルボード19位・キャッシュボックス12位の大ヒットとなった。
これがキャリア最大のヒット曲だが、カーラが作ったものではなくポール・ケリーという人の作品である。

84年には映画「フットルース」のサウンドトラック盤に、「Somebody's Eyes(誰かの愛が…)」を提供。
映画が大ヒットし、サントラ盤も全米1位を記録する。
確かにサントラはケニー・ロギンスのメインテーマ曲やボニー・タイラーの「Holding Out For A Hero」、アン・ウィルソン&マイク・レノ「Almost Paradise(パラダイス~愛のテーマ)」、ムービング・ピクチャー「Never」など日本でもおなじみのヒット曲集ではあった。
自分もレコードを借りて録音はしたが、申し訳ないけどカーラ・ボノフの曲は全然記憶に残っていない。

80年代後半、カーラ・ボノフはインディーズ系のゴールド・キャッスル・レコードに移籍。
盟友ケニー・エドワーズやピーター・フランプトンが参加したアルバム「New World」は残念ながらチャートインせず、結果としては敗退。
一方でリンダ・ロンシュタットはこのアルバムの収録曲「Goodbye My Friend」「All My Life」を、自らのアルバム曲として採用。
同じく89年に「Cry Like a Rainstorm、Howl Like the Wind」というタイトルでリリースし、アーロン・ネヴィルとのデュエットで「All My Life」はグラミー賞を受賞している。
カーラ・ボノフがリンダの快挙をどう思ってたのかはわからないけど、昔から「カーラの作品を歌うとカーラ本人よりもリンダのほうが売れる」というのが現実だったようだ。
カーラの作曲家としての才能は認められたことにはなるが・・リンダの歌のほうが魅力的に聞こえるんだろうか?

90年代に入ると、カーラ・ボノフを含むオリジナルメンバーでブリンドルが再結成され、未発表曲を収録したアルバムの制作を再開。
95年にアルバム「Bryndle」がリリースされ、バンドはツアーを開始。
ウィキペディアではカーラ・ボノフもケニー・エドワーズも「アメリカと日本へのツアーを始めた」と書いてあるが、この間カーラ・ボノフが来日した記録が見つからない。
どなたかご存じですかね?

96年にアンドリュー・ゴールドがブリンドルを脱退し、3人組となったブリンドルは97年までツアーを続けたことになっているが、結局ブリンドルとしての日本公演は行われていないっぽいのだ。
カーラ・ボノフが日本に来たのは99年になってからで、ケニー・エドワーズとケニー・ランキン共同の来日公演に登場している。
ケニー・エドワーズと二人だけのステージで、「Trouble Again」「Home」「The Water Is Wide」などを披露。
調べた限りでは90年代のカーラ・ボノフ来日の記録はこれのみのようだが・・・

ブリンドルは97年以降停滞していたが、2002年に2度のハウス・コンサートのために再結成され、アルバム「House Of Silence」も発表された。
再結成ライブも翌年にシングルCDとしてリリースされたが、その後メンバーはそれぞれソロやグループに戻っており、ブリンドルとしては2002年以降活動を休止している。
再結成は一時的なもので、ブリンドルは一種のスーパーグループでもあったようだ。

カーラ・ボノフは2004年にケニー・エドワーズとともに来日し、福岡・大阪・名古屋でライブを行った。
以降も2009年までコンスタントに来日し、ケニーとのデュオで公演を行ってきた。
しかし残念なことに長年活動を共にしてきたケニー・エドワーズは2010年8月に64歳で亡くなり、アンドリュー・ゴールドも翌2011年6月に59歳の若さで亡くなった。

親友を相次いで失ったカーラだが、2010年代以降も旧友たちと音楽活動を続けている。
2012年にはJ.D.サウザー、翌年はジミー・ウェッブ、さらに2014年は再びJ.D.サウザーとのデュオで日本公演を実施。
2018年には昔の作品の再録と新曲・カバー曲を収録した30年ぶりのスタジオ盤「Carry Me Home」を発表。
翌2019年9月には東京と大阪でアルバム発表記念公演も開催された。

2020年にはクリスマスアルバム「Silent Night」をリリース。
収録曲「o come, o come emmanuel」(マイケル・マクドナルドとの共作)は翌年シングルカットされている。
2023年にはジェームスの弟リヴィングストン・テイラーとの共演ライブが東京・横浜・大阪で行われた。
現在も活動中で、公式サイトには今年も全米各地のコンサート予定が掲載されている。

以上がカーラ・ボノフの勤勉実直な信頼と実績の活動履歴である。
当然知ってた話は全くない。
全米チャートにばんばん登場するようなハデな実績はないが、多くのアーチストへ曲を提供し、また多くの作品がカバーされており、西海岸を代表する実力派ミュージシャンである・・といったところだろうか。

日本での人気や知名度も全くわからない。
毎度の言い訳になるが、柏村武昭や小林克也は番組でカーラ・ボノフの曲をオンエアしてはくれず(してたらすいません)、東郷かおる子もミュージックライフでカーラ・ボノフを採り上げなかった。(採り上げてたらすいません)
おそらく当時それほど日本のナウいヤング向けには紹介されてはいなかったと思われる。

なお最大のヒット曲「Personally」は、日本では91年のホイチョイ映画「波の数だけ抱きしめて」のサントラ盤に収録されているとのこと。
映画は観ておらず、中山美穂と織田裕二主演ということだけは知っていたが、サントラが出ていたことは初めて知った。
ストーリーが83年の湘南という設定のため、「Personally」の他、J.D.サウザーの「You're Only Lonely」やTOTO「Rosanna」、バーティ・ヒギンス「Casablanca」など、劇中で使用された83年前後の洋楽ヒット曲10曲が収録されているそうだ。
もし当時サントラ盤を聴いたとしても、そこからカーラ・ボノフ学習に発展した可能性はほとんどなかったと思いますが・・

というわけで、カーラ・ボノフ。
落ち着いたオトナの音楽というイメージですが、年齢だけは十分すぎる高齢者となった自分にも聴けるようなアルバムがあれば、教えていただけたらと思います。

Restless-nights
カーラ・ボノフ ささやく夜
Wild-heart-of-the-young
カーラ・ボノフ 麗しの女
712mylvs8ol_ac_sy445_
波の数だけ抱きしめて

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