聴いてない 第329回 ジョーン・バエズ

先日公開されたボブ・ディランの伝記映画「名もなき者」。
ディランを演じているのはティモシー・シャラメ、モニカ・バロバルが演じているのがジョーン・バエズである。
・・・などとインチキ映画評論家っぽく書いてみましたが、全部引き写し。
そもそもディラン聴いてないのでこの映画も観る資格もありませんけど、流れてきたニュースでジョーン・バエズとディランの関係をぼんやり知った次第。
もちろんジョーン・バエズも全然聴いておりません。

ジョーン・バエズ、1曲も聴いてないので聴いてない度は盤石の1。
じゃあ何で自分みたいな万年ド素人が名前を知ってるのかというと、一度だけ彼女の歌う姿をテレビで観たことがあるからだ。
そう、ライブ・エイドである。

ライブ・エイドはアフリカ難民救済を目的として1985年7月13日に行われたチャリティーコンサート。
主にイギリスとアメリカの会場でライブが行われ、日本でもフジテレビが特番として生放送。
まあ散々語り尽くされた話だが、両会場とも進行の不手際やアクシデントが続出し、日本のテレビ放送でも歌ってる途中で中継が途絶えたりCMに切り変わったりの連続で、称賛も批判も多かったイベントである。

ジョーン・バエズはアメリカ会場のトップバッター(表現が昭和)として登場。
この模様は日本でも放送され、自分も彼女が「Amazing Grace / We Are The World」を歌うシーンを観ていた。
ジョーン・バエズの名前もこの時知った次第。

ただ、この時なぜかジョーンは「Amazing Grace」の歌詞を一部変えて歌っている。
さらに持ち歌ではない「We Are The World」(しかもジョーンはスタジオ録音には参加していない)をアカペラで歌ったことに対する批判もあったらしい。
「トップだったのに観客があまりノッてこなかった」という評価が多いが、映像を見るとまあそうかもしれない・・と感じた。
ジョーン・バエズはエンディングの「We Are The World」大合唱にも登場しているが、シーナ・イーストンにマイクを向けてもらえず、なんとなく困った感じでシーナから離れていった様子が映像で残っている。

で、今回ジョーン・バエズを調べようと思ってウィキペディアを見たら、日本語版は非常に淡泊で短く、文章量は英語版の1/10くらいしかない。
さらに日本語版にはライブ・エイド出演の記述は全くなく、英語版でも1行程度。
どうやら彼女のキャリア中ではライブ・エイド出演はそんなに重要な出来事でもなかったようだ。
すいません、ライブ・エイド出演しか知らなくて・・・

あらためてジョーン・バエズの活躍をムリして調査。
ジョーン・バエズは1941年1月9日、ニューヨークで生まれた。
本名は母親と同じジョーン・チャンドス・バエズ。
父親のアルバートはメキシコで生まれ、ニューヨーク州ブルックリンで育ったため、スペイン語にも堪能だった。
三姉妹の次女として育ったが、父親がユネスコで働いていたため、家族は全米各地や、イギリス、フランス、スイス、スペイン、カナダ、イラクなど各国で生活した。

幼少の頃からメキシコ系であることで人種差別や中傷にさらされ、歌手になる前から公民権運動や非暴力運動など、さまざまな社会運動に関わるようになる。
カリフォルニアに住んでいた13歳の頃、叔母が彼女をフォークミュージシャンの ピート・シーガーのコンサートに連れて行った。
ピートの音楽に強い衝撃を受けたジョーンはすぐにピートの曲を練習し、教会などで演奏し始める。

高校卒業後、家族はボストンに移住する。
ここでもジョーンは大学やクラブで演奏し、友人とフォーク音楽アルバムを制作する。
その後フォーク歌手ボブ・ギブソンやゴスペル歌手オデッタと出会い、ボブの誘いで59年に行われたニューポート・フォーク・フェスティバルに出演。
当時はベトナム戦争が始まっており、フェスは反戦集会も兼ねたイベントだったが、ジョーンは会場に真っ赤な霊柩車で乗り付けるという大胆な反戦アピールをやってのける。
・・・すごいエピソードだけど、霊柩車は誰が塗ったの?
この時の歌と行動が認められたジョーンは、自らギターを弾き、「ドナドナ」「朝日のあたる家」などの伝統的なフォーク・バラード、ブルースを歌ったソロデビューアルバムを発表する。
無名歌手のデビューアルバムとしては異例のヒットとなり、全米15位・全英9位を記録した。

続く2枚目のアルバム「Joan Baez, Vol. 2」もゴールドディスクを獲得。
62年にはライブ盤「Joan Baez in Concert, Part 1」、翌年の「Joan Baez in Concert, Part 2」もゴールドディスクを獲得した。
この「Part 2」では、ディランの「Don't Think Twice It's Alright(くよくよするなよ)」をカバーしている。

61年にニューヨークのレストランで歌っていたディランを見たジョーン・バエズは、彼の才能に衝撃を受け、やがて二人は恋仲となる。
先に歌手として売れたのはジョーンだった。
アルバム2枚が大ヒットしたジョーンは「フォークの女王」と呼ばれる存在となったが、その時彼女の周辺にいた友人やプロデューサーに、まだ無名だったディランの才能を紹介するようになる。
この推し活により、ディランはハリー・ベラフォンテやニューヨークのフォークシンガーのレコーディングに参加できるようになり、62年にアルバム「Bob Dylan」でデビューを果たす。
なのでジョーン・バエズと出会わなかったら、ボブ・ディランのデビューはもっと後だった可能性がある・・・というまとめでいいんでしょうか?

ディランの先を行くジョーン・バエズは、ディランがデビューした半年後の11月にタイム誌の表紙を飾っている。
当時のミュージシャンにとっては珍しい栄誉だったそうだ。
ジョーンは63年に行われたニューポート・フォーク・フェスティバルでディランをステージに招き、ディランの「With God on Our Side(神が味方)」を一緒に演奏した。
二人はその後数年にわたって多くのステージでデュエットしたが、ディランのファンからは不評だったらしい。

ジョーン・バエズは64年に「There but for Fortune」という曲をカバーし、全米チャートでは50位・カナダで27位だったが、全英では8位のヒットとなり、シングルで初のトップ10入りを果たした。
オリジナルは60年代を代表するアメリカのプロテスト・フォーク・シンガーのフィル・オクス。
フィルとジョーンは75年にセントラルパークでのライブでこの曲を歌った。
だが翌年フィルは残念ながら精神を病み、36歳の若さで自殺している。

歌手活動としては順調だったジョーン・バエズとディランだったが、65年のディランのイギリスツアーの頃には、彼らの関係は徐々に冷え始めていたそうだ。
それでもアーティストとしての才能はお互い認め合っていて、68年に発表した2枚組アルバム「Any Day Now(ボブ・ディランを歌う)」は全曲ディランのカバーで構成されており、シングルカットされた「Love Is Just a Four-Letter Word」はその後も彼女のコンサートの定番曲のひとつとなっている。

この頃ジョーンに運命的な出来事と出会いが起こる。
67年10月、カリフォルニア州オークランドの軍隊入隊施設前で、ジョーン・バエズは母親や約70人の女性たちと共に、入隊予定の若者の入場を阻止するため出入口を塞ぐ抗議行動に出る。
ジョーンは母親らと共に逮捕され、サンタ・リタ刑務所に収監されてしまう。

この刑務所で出会ったのが、ベトナム戦争反対運動で有名なデビッド・ハリスだった。(出会ったのは刑務所を出た後と書いてあるサイトもある)
釈放後二人は親密になり、68年3月にニューヨークで結婚した。
だがその後デビッドは軍隊への入隊を拒否したため起訴され、69年7月にまたも刑務所に連行されてしまう。

夫デビッドの服役中もジョーンは音楽と反戦活動を止めなかった。
69年8月にはウッドストック・フェスティバルに出演し、夜明け前のステージで「Oh Happy Day」「Joe Hill」やボブ・ディランの「I Shall Be Released」を獄中のデビッドに捧げて歌い、最後は「We Shall Overcome」を披露した。
またカントリーミュージックの好きなデビッドのために「David's Album」を制作。
夫のために作ったカントリー色の強いアルバムで、彼女の音楽性はさらに広がった。
デビッドは1年半ほどで出所したが、二人はその後別居し、3年後には離婚している。

71年に2枚組アルバム「Blessed Are...」をリリース。
シングルカットされたザ・バンドのカバー「The Night They Drove Old Dixie Down」がトップ10ヒットとなり、またストーンズの「Salt of the Earth(地の塩)」やビートルズの「Let It Be」もカバーしている。
このアルバムを最後に、デビュー以来作品を発表してきたヴァンガードを離れ、A&Mレコードに移籍する。
このA&M時代がキャリア中最も商業的に成功していた時期だそうだ。
その割に日本語ウィキペディアには70年代から2000年代の活動が全く書いてない・・・どういうこと?

移籍後の最初のアルバム「Come from the Shadows」ではジョン・レノンの「Imagine」をカバー。
A&Mでは76年まで毎年コンスタントにアルバムを発表した。
その中にはB面が23分のタイトル曲だけ(しかも半分は朗読詩、半分はテープ録音された音)で構成された73年の「Where Are You Now, My Son?」のような変則的なアルバムもあった。

75年の「Diamonds & Rust」は、ボブ・ディラン、スティービー・ワンダー、オールマン・ブラザーズ、ジャクソン・ブラウンの曲をカバーし、ラリー・カールトン、ジョニ・ミッチェル、デビッド・ペイチも参加。
ジョーンの作品で最も売れたアルバムとなり、シングルの「Diamonds & Rust」が2枚目のトップ10シングルとなった。
この曲は後にジューダス・プリーストブラックモアズ・ナイトもカバーしている。

76年に2枚組ライブ盤「From Every Stage」を発表した後、今度はエピックの姉妹レーベルとして発足した新興のポートレイト・レコードに移籍。
翌77年、ロッド・スチュワートも歌った「Sailing」や、トラフィックの「Many a Mile to Freedom」をカバー収録した「Blowin' Away」をリリース。

多作だったジョーン・バエズだが、80年代に入るとアルバム制作の間隔が大幅に開いてくる。
グラミー賞授賞式やライブ・エイド出演、アムネスティ・インターナショナルによる慈善ツアーへの参加など、イベント出演で注目を集めることが多くなった。

87年に8年ぶりのスタジオ盤「Recently」を発表。
このアルバムでもダイアー・ストレイツの「Brothers in Arms」やU2の「MLK」、ピーター・ガブリエルの「Biko」をカバー。
へぇー・・知らなかった。
いえ、この話だけじゃなく全てのエピソードが初めて知る話ばかりですけど。
ここまで調べてなんとなくわかってきたが、この人も自作自演にはあまりこだわりがなく、他人のいい曲ならカバーするというスタンスのようだ。
「Brothers in Arms」はフォークランド紛争中にマーク・ノップラーが書いた反戦歌で、ジョーン・バエズも特に感銘を受けたようで、91年にもこのタイトルでカバー中心のアルバムを作っている。

89年には「Speaking of Dreams」をリリース。
90年代はレーベルチェンジを繰り返しながらアルバムを発表。
92年に「Play Me Backwards」、95年にライブ盤「Ring Them Bells」、97年「Gone from Danger」の各作品を残す。

2000年代のアルバムは2003年「Dark Chords on a Big Guitar」、2008年の「Day After Tomorrow」の2枚。
この頃にはもうチャートの実績にはこだわらなくなり、後輩芸人とのコラボやイベント出演で注目を集めていたようだ。
2006年6月にはブルース・スプリングスティーンのサンフランシスコでのライブに登場し、ボスと共に「Pay Me My Money Down」を披露した。
また同じ頃にジョン・メレンキャンプのアルバム「Freedom's Road」に、デュエット曲「Jim Crow」で参加している。

2008年のアメリカ大統領選挙で、ジョーンはバラク・オバマの支持を表明。
しかしオバマが当選し大統領になった後に、オバマの行動のどこかに失望したようで、「がっかりしている。大統領執務室に入ったら何もできなかった。もうおそらく二度と支持しない」と発言している。
・・・オバマの何にがっかりしたのだろうか?

2011年10月にはアップルコンピュータ設立者であるスティーブ・ジョブズの追悼式で「Swing Low, Sweet Chariot」を歌った。
追悼式にはU2やノラ・ジョーンズなども出演してたそうだが、驚いたことにジョーン・バエズは80年代初頭に若きスティーブ・ジョブズと交際していたとのこと。
・・・そうだったの?ファンの間ではもしかして常識?
二人には年齢差もあって(ジョーンのほうが14歳上)、スティーブ氏がプロポーズを断念したらしいが・・
ちなみにスティーブ氏はボブ・ディランの大ファンでもあったそうです。

2010年以降もジョーン・バエズは歌にも社会活動にも意欲的に取り組んできた。
2017年4月4日、トランプ大統領に対する抗議歌として27年ぶりの新曲「Nasty Man」を発表した。
その3日後にはロックの殿堂入りを果たす。

だが2018年3月に、重大な決意とともにアルバム「Whistle Down the Wind 」をリリースする。
タイトル曲はトム・ウェイツのカバーである。
このアルバムツアーで世界各国を回り、2019年2月のツアー終了をもって歌手活動から引退すると発表した。
引退の理由はやはり加齢により高い声が出なくなったことだそうだ。
アルバムは全米フォークアルバムチャートで5位、ドイツやスイスなど多くの国でチャートインした。

2019年4月、ジョーン・バエズはウッドストック開催50周年記念イベントへの出演を断ったと雑誌のインタビューで語っている。
「関わるには複雑すぎる」ことが理由だったそうだが、やはり声が出ない状態でステージに立つのはイヤだったんじゃないかと思う。
なおフェスティバルは8月に開催される予定だったが、様々な問題が噴出したようで、直前に中止となっている。

今回も知ってた話は全然ない。
主に60年代後半から70年代に輝かしい実績を残したが、80年代米国芸能界のチャラい展開には乗らず(乗れず?)、社会活動とともに音楽もブレずに活動してきたため、80年代以降は現役でありながら早くも「伝説」の歌手みたいな扱いになっていったのではないだろうか。
たぶんプロモ・ビデオでミラーボールを回して踊ったり寸劇を演じて笑いを取ったりはしていないはずである。

というわけで、ジョーン・バエズ。
聴くとしたらまずは最大のヒット作「Diamonds & Rust」かなと思いますが、「Brothers in Arms」にも少し興味はあります。
多作なので評価も選択もいろいろかもしれませんが、おすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

Diamonds-and-rust
ジョーン・バエズ Diamonds & Rust
Brothers-in-arms
ジョーン・バエズ Brothers in Arms
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聴いてない 第328回 ヴァレンシア

自分が洋楽の沼に浸かっていたのはほぼ80年代限定なので、90年代以降に活躍したアーティストの鑑賞は基本的に壊滅状態である。
その暗黒の90年代に登場し、なぜか1曲だけ聴いているのが、オランダの貴公子ヴァレンシア。
93年のデビューシングル「Gaia」だけ、MTVの音声をテープに録音している。
映像は全く覚えておらず、オランダの若い人という情報以外仕入れることもなかった。
聴いてない度は2。

今回ヴァレンシアを調べて初めて知ったが、この人はクイーンに強く影響を受けたことを公言していて、2003年にはカバー集アルバム「Queen Tribute」までリリースしているそうだ。
これで俄然興味がわいたので、採り上げることにしました。(安直)

ヴァレンシアは1971年4月13日にオランダのハーグで生まれた。
父親はインドネシア人、母親はオランダ人。
父母は逆だが、ルーツの組み合わせはヴァン・ヘイレン兄弟と同じである。
本名はアルダス・バイロン・ヴァレンシア・クラークソンという長い名前。
幼少の頃暮らしていたスペインでピアノやギターを始めた。

その後オランダに戻りバンド活動を始め、16歳でレコード会社にデモテープを送るようになる。
すでにこの頃にはクイーンをよく聴いていたようだ。
デモに注目したプロデューサーから連絡を受けたヴァレンシアは、91年マーキュリー・レコードと契約。
93年に最初のアルバム「Valensia(邦題:ガイア)」をリリースし、オランダのチャートで2位に達した。

デビューシングル「Gaia」は6分近くもある長尺曲で、ラジオ向きでないためレコード会社内ではシングル発表に否定的な意見もあったらしい。
新人歌手の長すぎるデビュー曲という大胆な決断ではあったが、結果は大ヒットで成功を収めた。

デビューアルバムは翌年日本でもリリースされ、10万枚のセールスを記録。
日本でのヒットに気を良くしたヴァレンシアは、クリスマスソング「21st Century New Christmas Time」やデュラン・デュランの「A View to a Kill」のカバーを含む5曲を収録したミニアルバム「The White Album」を日本限定で発売する。

96年には2枚目のアルバム「Valensia II - K.O.S.M.O.S.(邦題:遥かGAIA(地球)を離れて)」を発表。
シングル3曲を収録し、その中の「Thunderbolt」は日本でのみ発売である。
この年には初の来日公演も行われ、日本滞在中はテレビやラジオ番組に出演したり、CDショップでサイン会も行われたそうだ。
ヴァレンシア本人やレコード会社が、日本市場をわりとマジメに重視していたことがよくわかる。
97年には早くもベスト盤「The Very Best Of Valensia」も発売している。

98年にアルバム「V III - Valensia '98」を日本限定でリリース。
方向性に若干の変更が見られ、ややロック寄りにシフトしたサウンドになったが、ヴァレンシア本人はあまり気に入っておらず、後に「レコード会社からの指示で仕方なく作った」などと発言している。

99年にはオランダのミュージシャンであるロビー・ヴァレンタインとのプロジェクト「V」名義でアルバム「V」をリリースした。
2002年6月にもV名義で「Valentine vs Valensia」を発表。
ファンの間では2枚目のほうがゴージャスで高評価なようだ。
てっきりこのままユニットで活動すんのかと思いきや、翌月にはヴァレンシアとして「The Blue Album」をリリースしている。
案外多作なヴァレンシア。

そして2003年にクイーンの曲を自ら演奏し歌ったアルバム「Queen Tribute」を発表。
12曲全てクイーン作品ではなく、クイーンの前身バンドのスマイル時代の「Polar Bear」や、モット・ザ・フープル「All the Young Dudes(全ての若き野郎ども)」が収録されている。
また「Man From Manhattan」という曲もカバーしており、元曲はエディ・ハウエルという人が76年にリリースしたシングル。
なんでこんなのカバーしたのかと思ったら、オリジナルはフレディがプロデュースしてピアノを弾き、ブライアンがギターで参加した曲とのこと。
しかも演奏をサポートしたミュージシャンの労働許可違反が発覚し、リリースはしたもののすぐに廃盤となっている。
こんな曲クイーンのファンでも知らない人多いんじゃないの?
クイーンをカバーした人は世界中にいると思うが、ヴァレンシアも相当コアなクイーンマニアのようだ。

また同年メタル・マジェスティという名で弟のデビッドとユニットを組み、アルバムを発表。
デビッドはドラムを担当し、ギター、ベース、キーボードはヴァレンシアが演奏している。
なお日本盤はバンド名そのままのタイトルだが、ヨーロッパ盤は「This Is Not A Drill」という名前で2004年に発売され、収録曲も異なるそうだ。
メタル・マジェスティとしては2005年にもアルバム「2005」をリリースしているが、日本では未発表。
この頃は日本市場をどう見ていたのか、あまりよくわからない。

2010年にはシングル「One Day My Princess Will Come」を発表したが、直後にまたも販売中止となった。
中止の理由は不明で、どのサイトも「種々の事情」と書いている。
なのですでに流通に乗った盤だけがわずかに店頭販売されたというレアな曲になったそうだ。
なんかヴァレンシアさんはどうもこういう展開が多い気がする。
本人が悪いわけではなさそうですけど。

2014年9月、「Valensia VI - Gaia III - Aglaea - Legacy」というアルバムをリリース。
ヴァレンシアは活動休止を宣言し、レコード会社も「最後のアルバム」として発表している。
これでミュージシャンとしては引退・・となるはずだったが、思ったより早くヴァレンシアは復活する。

2017年に未発表曲をクラウドファンディングの特典として配布するなど、わりと珍しい形で活動を再開。
2019年に7枚目となるアルバム「7EVE7(セブン)」も発表。
2022年には3Dシューティングゲーム「Air Twister」の音楽を担当し、2枚組サントラアルバムも制作している。
最近はK-POPの楽曲を手がけているという情報もあるそうだ。

今回も知ってた話は全くない。
歌手というより作曲や演奏もこなすマルチプレーヤーと、どのサイトでも紹介されている。
若い頃から人見知りで内向的でインドアなタイプだったようで、大人数での会食などが苦手なため、来日中も毎晩ホテルの部屋で一人飯を食っていたとのこと。
なんか共感するなぁ。
楽屋で殴り合ったりステージで火を吹いたり生きたコウモリを食いちぎったりホテルの窓から女を投げ捨てたり・・・といった往年の野蛮なロックスターの行動様式とは無縁の人のようだ。

「Gaia」だけしか知らないが、言われてみればあのサウンドやワルツなリズムや構成は確かにクイーンっぽい気はする。
ビートルズが発したサイケやプログレな部分もなぞっている感じはするし、ティアーズ・フォー・フィアーズにも似ていると思う。
壮大でやや大げさな楽曲だが、中性的なボーカルが乗ると悪くはない。
他の曲もおおむねこの路線であれば、それほど拒絶感なく聴けそうな気はする。(本当か?)

というわけで、ヴァレンシア。
聴くなら当然「Gaia」収録のファーストアルバムからでしょうけど、「Queen Tribute」でどんなカバーに仕上げているのかも興味はあります。
ユニット名義も含め、他におすすめのアルバムや曲があれば教えていただけたらと思います。

Gaia
ヴァレンシア Valensia
Air-twister
Air Twister オリジナル・サウンドトラック
Orange

ネーブル バレンシア 果物 フルーツ

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聴いてない 第327回 ブルー・マーダー

先日亡くなったジョン・サイクス。
彼を語る記事で在籍したバンドとして必ず書いてあるのがシン・リジィホワイトスネイクだが、バンドリーダーとして活動していたのはブルー・マーダーである。
・・・などと知ったかぶりで書いてみたが、実は全く聴いていない。

というか、そもそもジョン・サイクスの動向やギターサウンドを意識して確認したことがない。
まあそんなのはジョー・サトリアーニもスティーヴ・ヴァイもトミー・ボーリンも同じなんだけど。
名前と華麗なる経歴はかすかに知ってはいるが、他の情報はないまま訃報に接してしまった状態。
すでにシン・リジィとホワイトスネイクはどっちも20年くらい前に書いてしまったが、いずれもジョン・サイクスにはほとんどふれていなかった。(知らないから)
亡くなってからあわてて調べて書いてみるという鉄板の失礼BLOGではあるが、今回はジョン・サイクスを中心としたバンドであるブルー・マーダーに限定して発信します。(エラくない)

ブルー・マーダーは、ジョン・サイクスが中心となって結成されたイギリスのハードロックバンドである。
結成にはホワイトスネイクのデビッド・カバーディルが大きく関係している。
1986年にジョン・サイクスはカバによりホワイトスネイクを解雇される。
ジョン・サイクスはホワイトスネイクの大ヒットアルバム「Whitesnake(白蛇の紋章:サーペンス・アルバス)」の大半をカバと作り全曲演奏しており、ほぼ二人で作った傑作と言える。
でもアルバム発表時にはもうジョン・サイクスはクビになっており、ジョンのどこが気に入らなかったのかはカバに聞いてみるしかないが、カバの傲慢さがにじみ出た歴史的名盤でもある。

傲慢カバと決別し、雇われギタリストの立場にも飽きたたジョン・サイクスは、自らバンド運営に乗り出すことを決意。
ホワイトスネイク時代のバンドメイトであるコージー・パウエル、元ザ・ファームのベーシストのトニー・フランクリン、元ブラック・サバスのボーカリストのレイ・ギレンといった実力者が集まった。
ちなみにレイさんを「レイ・ギラン」と書いてるサイトも多いが、あのイアン・ギラン(Ian Gillan)とは親戚でもなんでもないので、レイ・ギレン(Ray Gillen)としたほうが良さそうだ。

新生ジョン・サイクス・バンドはデモをいくつか録音し、ゲフィン・レコードに送ったが、ゲフィンのジョン・カロドナーはジョンに「レイ・ギレンよりお前が歌ったほうがええんちゃうか」と意見する。
この話がレイ本人にもうっすらと伝わり、レイは「もうええわ」と脱退。
ジョンは「ほんならボーカルはもう少し探してみよか」と思い、バンドはボーカル未定のままゲフィンと契約したが、このボーカル探しを「何をモタモタしとるんや」と感じた短気なコージー・パウエルは突然脱退し、ブラック・サバスに行ってしまう。

コージー脱退にあわてたジョン・サイクスは、ドラマーのエインズリー・ダンバー(元ジャーニー、ホワイトスネイク)やカーマイン・アピス、ボーカリストのトニー・マーティン(元ブラック・サバス)にも声をかけたが、結局加入してくれたのはカーマイン・アピスだけだった。
取り急ぎジョン・サイクス、トニー・フランクリン、カーマイン・アピスの3人でボーカル未定のままバンドは始動。
なんか出だしから全然順調じゃないブルー・マーダー。

トニーの提案によりバンド名をブルー・マーダーとし、88年2月からデビューアルバムのレコーディングを開始した。
並行してボーカルのオーディションも続けたが、メンバーやプロデューサーが満足する歌い手を見つけることができなかったため、トニーとカーマインとジョン・カロドナーは再度ジョン・サイクスに「やっぱお前が歌ったらええねん」と提案。
提案を受け入れたジョンは奮起したのか渋々だったのかはわからないが、最終的にリードシンガーの役割を引き受けることになった。
ただ元々歌手としてのボイストレーニングをあまりマジメにしてこなかったため、やはり当初は歌うのに苦労したそうだ。

こうしてデビューアルバム「Blue Murder」は89年4月に発売された。
プロデューサーは当時モトリー・クルーラヴァーボーイのアルバムも手がけていたボブ・ロック。
プロモーションも兼ねてボン・ジョビとビリー・スクワイアのサポートとしてアメリカをツアーし、8月には東京・川崎・大阪で来日公演も行われた。

アルバムは全米ビルボードチャートで最高69位、全英は45位まで上昇したが、評価は分かれるようだ。
評論家からはバンドの音楽性やボブ・ロックのプロデュースを高く評価されたが、商業的にはやはりイマイチな結果とされた。
当然要因はいろいろあったと思うが、当時のメンバーや関係者の談話を読むと、なんとなくみんなが「自分ではない誰かのせい」にしていたように感じる。

ジョン・サイクスはサウンドの重厚さと明確なヒットシングルの欠如が失敗だったと認めてはいるが、一方でゲフィンレコードのプロモーションが不十分だったとも発言している。
カーマイン・アピスはマネジメントを担当していたチームに問題があったと指摘している。
実はこのチームはジョン・サイクスの義父が率いていたが、ツアー前に解雇された。
この解雇判断もカーマインは「遅すぎた」と思っていたようだ。
さらにゲフィンのジョン・カロドナーは、ブルー・マーダーの失敗はジョン・サイクスがフロントマンとして機能不十分だったことに起因すると感じていたが、そもそもジョン・サイクスをフロントマンに推したのはカロドナーだった。
やっぱみんな押しつけあってるなぁ・・・

意見や評価のズレはシングルも同様だった。
ジョン・カロドナーが提案した当初の計画では、「Valley of the Kings」を最初にシングルリリースして話題を集め、続いて「Jelly Roll」をMTVやラジオでよりプッシュするはずだった。
「Valley of the Kings」のビデオ撮影には15万ドルもかけたそうだ。
この高額費用もあってか、バンドがツアーに出るとゲフィンは「Valley of the Kings」のプッシュをバンドやMTVに要求し始めた。
だが「Valley of the Kings」はMTVで何度か採り上げられたものの、やがてMTV側から「長すぎて流す価値がない」と見なされ、「Jelly Roll」の放送も拒否される。
・・・そんなことある?
なんかゲフィン側がやらかしてMTVを怒らせたんじゃないの?

ジョン・サイクスはブルー・マーダーのデビューアルバムの失敗に深く落ち込み、バンドはしばらく活動休止になった。
その間全米を覆ったのがグランジである。
メンバーやレコード会社は、グランジ台頭によりブルー・マーダーを含むメタル系のグループは流行遅れとなったと感じていた。
ジョンは90年に入ってようやく新しいアルバム制作の準備を開始したものの、進捗は遅々として進まなかった。
トニーとカーマインはジョンを待つことに疲れ、相次いでブルー・マーダーを脱退。
ジョンはトミー・オスティーン(D)とマルコ・メンドーサ(B)、ニック・グリーン(K)を採用し、トニーやカーマインが残した音源も使ってアルバム制作を進めた。

こうして3年ほどかけてアルバム「Nothin' But Trouble」は完成し、93年8月にゲフィンからリリースされた。
9月には来日して公開番組「ミュージックトマトWorld」にも出演し、アルバムラスト曲「She Knows」の生歌も披露。
伊藤政則が「もう自分でもアルバムは一生出ないんじゃないかと思った?」と問いかけると、ジョンも「そう思ったことは何度かあった」などと答えている。

「Nothin' But Trouble」は日本ではオリコン6位と健闘し、シングル「We All Fall Down」はロック・トラック・チャートで35位に達したが、評論家は「デビューアルバムより劣る」と批判し、結局日本以外ではチャートインしなかった。
ジョンはこの結果をまたしてもゲフィンのせいにし、「アルバムの宣伝を全然しなかった」と発言。
これでゲフィンとの決裂は決定的となり、94年に東京で録音されたライブ盤「Screaming Blue Murder: Dedicated to Phil Lynott(フィルに捧ぐ)」をリリースした直後、ゲフィンとの契約を切った。

ジョン・サイクスは「Nothin' But Trouble」が好評だった日本に恩義を感じ、あえてマーキュリー・ジャパンと契約。
トミー・オスティーンとマルコ・メンドーサを、自身のバンド「サイクス」に連れて行き、95年にはアルバム「Out of My Tree」を発表。
その後も2000年までトミーとマルコを伴い活動を続けた。
なお97年の「20th Century」にはTOTOのサイモン・フィリップス、2000年の「Nuclear Cowboy」にはカーマイン・アピスが参加している。

一方で94年には新生シン・リジィとしても活動を開始。
ジョン・サイクスは元シン・リジィのブライアン・ダウニー、スコット・ゴーハム、ダレン・ウォートンと共にツアーに出る。
新シン・リジィ(ややこしい)は過去の曲のみを演奏し新曲は作らなかったが、フィル・ライノット抜きでシン・リジィの名前を使ったことで批判されたりした。
メンバーを変えつつライブアルバム「One Night Only」もリリースし、ジョン・サイクスは2009年まで新シン・リジィのフロントマンを務め続けた。

ジョンが新シン・リジィを脱退した表向きの理由は「自分の音楽に戻る時が来たと感じた」からだそうだが、実は脱退前後にガンズ・アンド・ローゼズのオーディションを受けていたとの話もある。
結局ガンズ加入は実現しなかったが・・・
なおその後はスコット・ゴーハムがジョン・サイクスのいないシン・リジィを再結成している。

名門バンドを渡り歩いた栄光の経歴ギタリストを業界が放っておくはずがなく、ジョン・サイクス周辺には再びスーパーグループ結成の話が持ち上がる。
2011年にはマイク・ポートノイ(元ドリーム・シアター)、ビリー・シーン(元MR. BIG)と新バンド「バッド・アップル」結成を画策していることが判明した。
しかしジョン・サイクスは他のメンバーと予定が合わないというとってつけたかのような理由でバッド・アップルは頓挫。
ジョンに代わってリッチー・コッツェンが加わり、2012年にワイナリー・ドッグスと名を変えて結成された。
ワイナリー・ドッグスは意外?に順調で、10年間で3枚アルバムをリリースし、都度日本を含むワールドツアーも行われている。

結果的にジョン・サイクスはキャリア最終章としてソロ活動を選んだことになる。
2013年に新しいソロアルバム制作に取り組んでいることを明らかにしたが、正式にリリースはされていない。
2021年には20年ぶりの新曲「Dawning of a Brand New Day」「Out Alive」を発表。
アルバム「Sy-Ops」もリリースすると表明していたが、これも実現しなかった。

で、本題のブルー・マーダーだが、再結成の話はメンバーや関係者の間では何度もあったようだ。
2019年にジョンとカーマイン・アピスでリハーサルもしたが、再結成で合意するところまで行かなかった。
ツアーの名義を「ジョン・サイクス&ブルー・マーダー」にしたいとジョンが言いだし、カーマイン・アピスは「なんやそれ」と反発したらしい。
冒頭で述べたとおり、ジョン・サイクスは2024年12月に65歳で亡くなったため、ブルー・マーダーの再結成は永久に不可能となってしまった。

今回ブルー・マーダーの曲をいくつかYou Tubeで聴いてみた。
本業はシンガーでなくギタリストで通してきた人なので、歌もそんなに頼りないのかと思って構えて聴いたが、ふつうに歌えていると感じた。
ただデビカバやフィル・ライノットのようにクセがすごいボーカルではないので、比べられるとやや厳しいかもとは思う。
本人も結成後しばらくはシンガーを探していたようなので、もしブルー・マーダーにもっと強力な歌手が加入していたら・・と思うと少し残念ではある。

あとブルー・マーダーの活動期間がグランジ台頭と重なってしまった点も不利に働いたと思う。
日本では結構売れたようだが、結成があと5年早ければ、アメリカやイギリスでもまた違った展開になっていたと思われる。

というわけで、ブルー・マーダー。
スタジオ盤は2枚なので全盤制覇も難しくなさそうですが、ブルー・マーダーを含むジョン・サイクスが関わった名曲についても、教えていただけたらと思います。

Blue-murder
ブルー・マーダー Blue Murder
Nothin-but-trouble
ブルー・マーダー Nothin' But Trouble
Blue-murder_book
誉田哲也 ブルーマーダー 警部補 姫川玲子

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聴いてみた 第184回 メン・アット・ワーク

2025年最初の聴いてみたシリーズ、今回はメン・アット・ワークを聴いてみました。(場内失笑)
・・・まあそうでしょうね。
自分でも「なぜ今それを聴く?」と問いただしたい感覚はわかります。
ジョン・レノンクラプトンブルース・スプリングスティーンなど他にやらなきゃいけない宿題がたまってるのに・・・
大学入学共通テスト前日なのに突然原付免許を取りに行って同級生からあきれられた高校生みたいな状態ですが・・・
なんかぼんやりと昔の洋楽の動画なんかを眺めてるうちに「そういや聴いてなかったな」と突然思い出し、急遽入手したのが3枚目のアルバム「Two Hearts」。

メン・アット・ワークをBLOGで採り上げるのは初めてである。
なんでかっつうと一応「Business as Usual」「Cargo」は聴いているからだ。
いつもの通り貸しレコード屋で借りたんですけど。
「Who Can It Be Now?(ノックは夜中に)」「Down Under」「Be Good Johnny」「Overkill」「It's a Mistake」などのシングルもだいたいエアチェックしたし、どれも嫌いではない。
ただアルバムを録音したテープはもう手元になく、それほどマジメなリスナーではなかった。(毎度のこと)

で、シングル「Everything I Need」も無事エアチェックし、3枚目の「Two Hearts」が出ていたことも知ってはいたが、売れ行きも評判もあまり良くないことも伝わってきていたので、レコードは借りなかった。
この後バンドは解散し、学習もそれっきりで終了。
聴いておけばよかった後悔は多少はあったが、特に深刻にとらえることなく40年ほど経過。(遅すぎ)
今回聴いてみたのも全くの思いつきで、聴くにあたっての不安材料もないが切迫感や義務感も全然ない。(失礼)

Two-hearts_l

一応鑑賞にあたり経緯や背景を確認。
「Two Hearts」はメン・アット・ワークが1985年4月にリリースした3枚目のアルバムである。
83年の前作「Cargo」が全米3位・全英8位・全豪1位と大ヒットしたが、この後メン・アット・ワークもロックバンドあるあるな展開で不安定になっていく。

「Business as Usual」「Cargo」の大ヒットで、見たこともない額のお金を手にしたメン・アット・ワーク。
しかし世界中を巡るツアーの連続でメンバーは次第に疲弊していき、バンド運営や演奏をめぐって衝突が積み重なっていった。
ドラムのジェリー・スパイザーとベースのジョン・リースの2人は、マネージャーを巡ってコリン・ヘイと対立する。
ジェリーとジョンはコリンの友人であるマネージャーを「田舎者でカネの扱いを知らないので解雇すべき」と主張し、コリンが反対したため「Two Hearts」制作前にジェリーとジョンがバンドを脱退(コリンによるクビという説あり)。
なおコリンとジェリーは結成当初からのメンバーだが、少し後から参加したジョンはジェリーが連れてきた友人だった。

残ったコリン・ヘイとグレッグ・ハム、ロン・ストライカートの3人は、セッションミュージシャンを雇ってレコーディングを開始したが、今度はロン・ストライカートがコリンと衝突し、アルバム制作途中にバンドを脱退した。
クレジットにはロンの名前もあるが、全曲演奏したわけではなく10曲中8曲参加だそうだ。

こうして混乱の中「Two Hearts」が完成。
オーストラリアでは最高16位、全米では50位どまりで、過去のアルバムに比べ大幅に後退した結果となった。
シングルも「Everything I Need」のみがオーストラリア(37位)とアメリカ(47位)でチャートインしただけで、他の3曲「Man with Two Hearts」「Maria」「Hard Luck Story」は100位に入らなかった。

コリン・ヘイとグレッグ・ハムはさらにサポートメンバーを招集して「Two Hearts」ツアーを続けたが、ツアー中にグレッグが脱退。
一人になったコリンはサポート隊とともにツアーを終えた後、86年に解散を表明。
結果的に「Two Hearts」はメン・アット・ワーク最後のアルバムとなった。

思っていた以上に複雑な背景(でもないけど)で作られた「Two Hearts」。
サウンドはドラムマシンとシンセサイザーに大きく依存し、前作とは違った雰囲気になっているとのこと。
イヤな予感しかしないが、果たしてどんなアルバムだったのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1.Man With Two Hearts
2.Giving Up
3.Everything I Need
4.Sail To You
5.Children On Parade
6.Maria
7.Stay At Home
8.Hard Luck Story
9.Snakes And Ladders
10.Still Life

うーん・・・
やはり評判どおりやや地味な印象がまずある。
メン・アット・ワークの魅力は、曲により当然違いはあるが、レゲエ調のリズムに乗せた進行や、どこか皮肉っぽいメロディ、間奏後のコリンのギアを上げたボーカル、サックスやフルートの効果的な使用などがあると思う。
だが「Two Hearts」にはこの特徴を強く感じる曲がない。
好みの点でもシングル「Everything I Need」を超えるようなステキな曲は見当たらなかった。

サウンドは確かにメン・アット・ワークだが、どの曲もあまり高揚感がなく淡々と進む感じ。
ドライブ中に聴いたりスーパーマーケットの中で流れる分には違和感はないが、このアルバムの各曲でイントロやサビで観衆が大歓声・・というシーンも想像しづらい。
B面特集のようでやはり物足りないという感想になる。
3曲ほどグレッグ・ハムがメインで歌っているが、コリン・ヘイに比べるとボーカルとしてはやや弱い。
そう考えるとやっぱり「Who Can It Be Now?」「Down Under」「Overkill」は、後半コリンの盛り上がるボーカルが秀逸で名曲だと思う。

世間の評判と自分の感覚が大幅に乖離することも多いが、今回は評判どおりだったようだ。
発売当時に聴いていたらそれなりにローテーションはしてたかもしれないが、評価はやはり「Business as Usual」「Cargo」よりも低い点にしかならなかったはずである。
次々にメンバーが脱退という過酷な混乱の中で作られた事情を考えれば「まあしょうがないよね」とも言えるが、ロックバンドでは内部の人間関係と作品の完成度は必ずしも整合しないので、コリン・ヘイももう少しやりようはなかったのかと思ったりした。(エラそう)

なおメン・アット・ワークは96年にコリンとグレッグを中心に再結成し4年ほど活動するが、イベントでのステージや、ライブと数曲のレコーディングだけで、スタジオ盤は発表していない。

2010年に「Down Under」のフルートのメロディが、童謡「Kookaburra」からの無断盗用だと版権を持つレコード会社から訴えられ、バンド側が敗訴。
判決にショックを受けたグレッグ・ハムは精神を病み、2012年4月に58歳で心臓発作のため亡くなる。

その後コリン・ヘイはリンゴ・スターのオールスター・バンドに参加(2003年以降ほぼ常連)したり、ソロアルバムを出したりしている。
2022年にコリンはリンゴ・スターがドラムで参加した新曲「Now and the Evermore」を発表した。
メン・アット・ワークを名乗って今も時々活動はしているが、オリジナルのメンバーはコリン以外は参加していないとのこと。
まあ昔も今も、メン・アット・ワークはコリンのワンマンバンドという定義で問題はないと思いますが。

というわけで、メン・アット・ワーク「Two Hearts」。
単品で考えれば悪くはないけど、「Business as Usual」「Cargo」との差もがっちり思い知らされる点で残念な感覚にはなってしまいました。
これで全盤制覇とはなったんですが、達成感は全くありません。
聴いてない80年代名盤はもっと他にもたくさんあるはずなので、ジョン・レノンやクラプトンなど王道学習と合わせて鑑賞していこうと思います。(薄い)

Two-hearts
メン・アット・ワーク Two Hearts
Work-songs
メン・アット・ワーク Business as Usual
Ringo-starr2
リンゴ・スター&ヒズ・オールスター・バンド Live At The Greek Theater 2019

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聴いてない 第326回 カーラ・ボノフ

聴いてない音楽を書かせれば無双状態の当BLOG、22年目最初のお題はカーラ・ボノフ。
イーグルスを学習していると登場するミュージシャンは、リンダ・ロンシュタットジャクソン・ブラウンJ.D.サウザージェームス・テイラーなどたくさんいるが、カーラ・ボノフもメンバーと関わりの深い人である。
・・・などと知ったかぶりで書いたが、実はそのイーグルスとの関係も含め、なんにも知らない。

名前しか知らず1曲も聴いてない・・と胸を張るつもりだったが、映画「フットルース」のサントラ盤に収録されていた「Somebody's Eyes」という曲だけ聴いていたことが判明。
でもメロディはほとんど記憶に残っていないので、聴いてない度は実質1。

シンガーソングライターで合っていると思うが、他のミュージシャンへの曲提供も多数あるようだ。
ではさっそく心の友ウィキペディアで調査開始・・と思ったが、意外にも日本語版と英語版は文章量がほぼ同じ。
どちらも思ったよりも説明が少なく薄い内容となっている。(エラそう)
英語版ならもっと詳しいと思ったんだけど・・アメリカでは有名な歌手じゃないの・・?
仕方なく他のサイトも含め鋭意調査した結果は以下のとおり。

カーラ・ボノフはアメリカのシンガーソングライター。
1951年12月27日カリフォルニア州でユダヤ人家庭に生まれ、ロシア、ハンガリー、オーストリア、ドイツにルーツを持つ。
父方の祖父カール・ボノフにちなんでカーラと名付けられた。

17歳の頃に姉とフォーク・デュオを結成するが、残念ながら芽が出ず解散。
姉はプロ歌手を諦めたが、妹カーラは引き続き地味に音楽活動を続け、この頃リンダ・ロンシュタットやケニー・エドワーズ、ジャクソン・ブラウン、ジェームス・テイラー、グレン・フライやドン・ヘンリーと出会う。
その後ロサンゼルスでアンドリュー・ゴールド、ウェンディ・ウォルドマン、ケニー・エドワーズとともに、ブリンドルというフォーク・バンドを結成する。

ケニー・エドワーズはリンダ・ロンシュタットのバックバンドのメンバーでもあり、その縁でリンダの76年のアルバム「Hasten Down The Wind(風にさらわれた恋)」にブリンドルも参加することになる。
カーラはこのアルバムに「Lose Again(またひとりぼっち)」「If He’s Ever Near(彼にお願い)」「Someone To Lay Down Beside Me(誰か私のそばに)の3曲を提供し、バックコーラスとしても参加。
この活躍がレコード会社との契約につながり、リンダに提供した各曲を自ら歌って録音し、77年にソロデビューアルバム「Karla Bonoff」をリリースした。
このアルバムにはリンダやブリンドルのメンバーの他、J.D.サウザー、グレン・フライなど友人達が多数参加している。
ちなみに収録曲「Isn’t It Always Love」は竹内まりやがカバーしているそうだ。

79年に2枚目のアルバム「Restless Nights(ささやく夜)」を発表。
前作に続きブリンドルのメンバーとJ.D.サウザー、さらにはジェームス・テイラーやドン・ヘンリーも参加した。
ローリング・ストーン誌はアルバムを「安っぽい」と酷評したが、全米31位を獲得。
シングル「Trouble Again(涙に染めて)」は日本でもヒットし、翌80年には初来日。
東京音楽祭で「Trouble Again」は金賞を受賞した。

82年のアルバム「Wild Heart of the Young(麗しの女~香りはバイオレット)」は、さらに豪華なメンバーが参加している。
当時は解散していたイーグルスからはドン・ヘンリーとジョー・ウォルシュとティモシー・B・シュミットが参加。
またおなじみのJ.D.サウザーに加え、デビッド・サンボーンやビル・ペインも協力し、全米49位を記録している。
シングル「Personally」は全米ビルボード19位・キャッシュボックス12位の大ヒットとなった。
これがキャリア最大のヒット曲だが、カーラが作ったものではなくポール・ケリーという人の作品である。

84年には映画「フットルース」のサウンドトラック盤に、「Somebody's Eyes(誰かの愛が…)」を提供。
映画が大ヒットし、サントラ盤も全米1位を記録する。
確かにサントラはケニー・ロギンスのメインテーマ曲やボニー・タイラーの「Holding Out For A Hero」、アン・ウィルソン&マイク・レノ「Almost Paradise(パラダイス~愛のテーマ)」、ムービング・ピクチャー「Never」など日本でもおなじみのヒット曲集ではあった。
自分もレコードを借りて録音はしたが、申し訳ないけどカーラ・ボノフの曲は全然記憶に残っていない。

80年代後半、カーラ・ボノフはインディーズ系のゴールド・キャッスル・レコードに移籍。
盟友ケニー・エドワーズやピーター・フランプトンが参加したアルバム「New World」は残念ながらチャートインせず、結果としては敗退。
一方でリンダ・ロンシュタットはこのアルバムの収録曲「Goodbye My Friend」「All My Life」を、自らのアルバム曲として採用。
同じく89年に「Cry Like a Rainstorm、Howl Like the Wind」というタイトルでリリースし、アーロン・ネヴィルとのデュエットで「All My Life」はグラミー賞を受賞している。
カーラ・ボノフがリンダの快挙をどう思ってたのかはわからないけど、昔から「カーラの作品を歌うとカーラ本人よりもリンダのほうが売れる」というのが現実だったようだ。
カーラの作曲家としての才能は認められたことにはなるが・・リンダの歌のほうが魅力的に聞こえるんだろうか?

90年代に入ると、カーラ・ボノフを含むオリジナルメンバーでブリンドルが再結成され、未発表曲を収録したアルバムの制作を再開。
95年にアルバム「Bryndle」がリリースされ、バンドはツアーを開始。
ウィキペディアではカーラ・ボノフもケニー・エドワーズも「アメリカと日本へのツアーを始めた」と書いてあるが、この間カーラ・ボノフが来日した記録が見つからない。
どなたかご存じですかね?

96年にアンドリュー・ゴールドがブリンドルを脱退し、3人組となったブリンドルは97年までツアーを続けたことになっているが、結局ブリンドルとしての日本公演は行われていないっぽいのだ。
カーラ・ボノフが日本に来たのは99年になってからで、ケニー・エドワーズとケニー・ランキン共同の来日公演に登場している。
ケニー・エドワーズと二人だけのステージで、「Trouble Again」「Home」「The Water Is Wide」などを披露。
調べた限りでは90年代のカーラ・ボノフ来日の記録はこれのみのようだが・・・

ブリンドルは97年以降停滞していたが、2002年に2度のハウス・コンサートのために再結成され、アルバム「House Of Silence」も発表された。
再結成ライブも翌年にシングルCDとしてリリースされたが、その後メンバーはそれぞれソロやグループに戻っており、ブリンドルとしては2002年以降活動を休止している。
再結成は一時的なもので、ブリンドルは一種のスーパーグループでもあったようだ。

カーラ・ボノフは2004年にケニー・エドワーズとともに来日し、福岡・大阪・名古屋でライブを行った。
以降も2009年までコンスタントに来日し、ケニーとのデュオで公演を行ってきた。
しかし残念なことに長年活動を共にしてきたケニー・エドワーズは2010年8月に64歳で亡くなり、アンドリュー・ゴールドも翌2011年6月に59歳の若さで亡くなった。

親友を相次いで失ったカーラだが、2010年代以降も旧友たちと音楽活動を続けている。
2012年にはJ.D.サウザー、翌年はジミー・ウェッブ、さらに2014年は再びJ.D.サウザーとのデュオで日本公演を実施。
2018年には昔の作品の再録と新曲・カバー曲を収録した30年ぶりのスタジオ盤「Carry Me Home」を発表。
翌2019年9月には東京と大阪でアルバム発表記念公演も開催された。

2020年にはクリスマスアルバム「Silent Night」をリリース。
収録曲「o come, o come emmanuel」(マイケル・マクドナルドとの共作)は翌年シングルカットされている。
2023年にはジェームスの弟リヴィングストン・テイラーとの共演ライブが東京・横浜・大阪で行われた。
現在も活動中で、公式サイトには今年も全米各地のコンサート予定が掲載されている。

以上がカーラ・ボノフの勤勉実直な信頼と実績の活動履歴である。
当然知ってた話は全くない。
全米チャートにばんばん登場するようなハデな実績はないが、多くのアーチストへ曲を提供し、また多くの作品がカバーされており、西海岸を代表する実力派ミュージシャンである・・といったところだろうか。

日本での人気や知名度も全くわからない。
毎度の言い訳になるが、柏村武昭や小林克也は番組でカーラ・ボノフの曲をオンエアしてはくれず(してたらすいません)、東郷かおる子もミュージックライフでカーラ・ボノフを採り上げなかった。(採り上げてたらすいません)
おそらく当時それほど日本のナウいヤング向けには紹介されてはいなかったと思われる。

なお最大のヒット曲「Personally」は、日本では91年のホイチョイ映画「波の数だけ抱きしめて」のサントラ盤に収録されているとのこと。
映画は観ておらず、中山美穂と織田裕二主演ということだけは知っていたが、サントラが出ていたことは初めて知った。
ストーリーが83年の湘南という設定のため、「Personally」の他、J.D.サウザーの「You're Only Lonely」やTOTO「Rosanna」、バーティ・ヒギンス「Casablanca」など、劇中で使用された83年前後の洋楽ヒット曲10曲が収録されているそうだ。
もし当時サントラ盤を聴いたとしても、そこからカーラ・ボノフ学習に発展した可能性はほとんどなかったと思いますが・・

というわけで、カーラ・ボノフ。
落ち着いたオトナの音楽というイメージですが、年齢だけは十分すぎる高齢者となった自分にも聴けるようなアルバムがあれば、教えていただけたらと思います。

Restless-nights
カーラ・ボノフ ささやく夜
Wild-heart-of-the-young
カーラ・ボノフ 麗しの女
712mylvs8ol_ac_sy445_
波の数だけ抱きしめて

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聴いてない 第325回 ヤズー

その昔イギリスのエレクトリックなポップの人たちは独特な雰囲気をまとっていたと思う。
勝手なイメージだが、当時感じていた特徴はこんなところ。
・奇抜なヘアスタイルとメイク
・スタイリッシュなファッション
・シンセやエレピを多用した人工的でエレクトリックなサウンド
・短調中心で緊張感のある神経質なメロディ

今回採り上げるヤズーもまさに上記にがっちり当てはまるはえぬきどまんなかの人たちである。
・・と勝手に思っていた。
1曲しか聴いてないけど・・

ヤズー、聴いたのは82年のシングル「Situation」だけ。
ただこの曲、イギリスではヤズーのデビューシングル「Only You」のB面としてリリースされ、デビューアルバム「Upstairs at Eric's」には収録されていなかったそうだ。(90年の再発CDにはボーナストラックで収録された)
アメリカではシングルとしてリリースされており、ビルボードホット100チャートで最高73位、カナダのチャートでは最高31位となっている。
なので英米で大ヒットしたデビューシングル・・ではないのだが、自分はこの曲を当時の一流音楽番組「サンスイ・ベストリクエスト」で録音している。
柏村武昭はヤズーにも理解があったということだろうか・・?

聴いたのはこの1曲だけだが、どういうわけかメンバーの名前もマジメに記憶はしていた。
ヴィンセント・クラークとアリソン・モイエットだ。
何で名前を知ってるのかはナゾ。
だがその後この二人については表記が変わったようで、今はヴィンス・クラーク、アリソン・モイエと呼ぶらしい。
表記変更の理由は不明だが、クイーンズ・ライクのようにどこかの時点でレコード会社が変えてきたと思われる。

「Situation」と二人の名前以外に情報を一切持たず40年以上経過。
今さら何を調べようと手遅れではあるが、ヤズーについてヤフーで調査開始。(小スベリ)

ヤズーは、イギリスのシンセポップデュオである。
メンバーは元デペッシュ・モードのヴィンス・クラークと、アリソン・モイエ。
二人がヤズーを結成したのは81年頃だが、実は二人は同じバジルドンという街で育ち、子供の頃に同じ土曜音楽学校に通っていた。
ただ二人はお互いをよく知らなかったそうで、「幼なじみ同士のデュオ」ではないようだ。

ヴィンス・クラークはデペッシュ・モードの創設者で初代バンドリーダーだった。
81年後半、アリソン・モイエはイギリスの週刊音楽雑誌メロディー・メーカーに、ブルースバンドを結成するためミュージシャンを募集する広告を出した。
この募集広告に応募してきた唯一の人物こそが、デペッシュ・モードを脱退して音楽メディアを驚かせたばかりだったヴィンス・クラークだった。

だがアリソンとヴィンスは音楽の方向性や置かれた状況が全く異なっていた。
アリソンは伝統的なブルース志向で、シンセサイザーなんか到底受け入れられないというスタンス。
一方ヴィンスは現代的なR&Bは許容できるが、マディ・ウォーターズのような伝統的なブルースのアーティストは苦手だと認めている。

またヴィンスはデペッシュ時代のレコード会社との契約や関係を維持したいと考えており、自作曲「Only You」をレコード会社に持ち込むためデモを一緒に作ってくれる人が必要だった。
デモ協力者を探していた時にアリソンの新聞広告を見つけ、すぐにアリソンに電話。
二人は全く異なる背景と音楽性を持っていたにも関わらず、デュオを組むことで合意する。(なんで?)
これがヤズーのスタートだった。

ヤズーという名前はブルース専門のレコードレーベル、ヤズー・レコードから取られたものである。
ただし勝手にヤズーを名乗ったため、ヤズー・レコードから訴えられたりしたそうだ。
またアメリカにはすでに「Yazoo」というロックバンドがいたことから、英ヤズーは北米市場向けには「Yaz(ヤズ)」と改名された。

アリソンという強力なパートナーを得たヴィンスは、計画どおり「Only You」を二人で録音してミュート・レコードに持ち込んだ。
ミュート側は「Only You」を絶賛し、すぐにアルバムを作るよう依頼。
ヴィンスが書いた「Don't Go」や、二人で書いたシングルのB面用「Situation」などを集めてアルバム「Upstairs at Eric's」をリリースする。
タイトルは、プロデューサーでスタジオのオーナーでもあるエリック・ラドクリフの名前から来ているとのこと。
急な話にもかかわらず、エリックさんはプロデュースを引き受けたりスタジオの空き時間を調整したりと、ヤズーにいろいろ配慮してくれたそうだ。

すると「Only You」が全英シングルチャートで2位、「Don't Go」は3位の大ヒットとなった。
「Situation」はB面用だったのでイギリスではシングルカットされなかったが、アメリカでは二人の意に反して「ヤズ」のデビューシングルとしてリリースされた。
「Situation」はDJリミックスバージョンがクラブシーンでヒットし、全米ダンスチャート1位を獲得する。
自分が「Situation」をエアチェックできたのも、この大ヒットに柏村武昭が食いついたためと思われる。(本当か?)

シングルのヒットにより、アルバム「Upstairs at Eric's」もめでたく全英チャートで最高2位を記録し、30万枚以上を売り上げてプラチナディスクを獲得した。
一方アメリカではそれほど評価されず、全米アルバムチャートでは最高92位だった。
ただし発売から7年かけてじわじわと100万枚以上を売り上げ、最終的にはプラチナディスクを獲得している。

だが成功の裏側で二人の周辺にはすれ違いが発生する。
ヴィンスは元々「Upstairs at Eric's」を1回限りのプロジェクトと見なしていたが、レコード会社はそうは思っていなかった。
会社側はヤズーの成功を評価しており、今ヤズーを脱退するとファンから「短期間で脱退を繰り返すヤツ」と批判されるんとちゃうか?とヴィンスに警告し、ヤズーとして次のアルバムを作るよう説得した。

一方アリソンは当時まだ21歳で、突然のヤズーのヒットで注目されたことへのプレッシャーに苦労しており、さらにヴィンスがレコードのプロモーション作業を全てアリソン一人にやらせていることに憤慨していた。
ヒットはしたものの、二人はお互い「これオマエが言い出した話だろ」と思っていたようだ。

二人はアルバムのレコーディングのためにスタジオに戻ったが、前回のような協力意識はなくなり、同時にスタジオにいることはほとんどなく、ヴィンスが午前中に演奏トラックを録音し、アリソンが夕方にボーカルを録音するという感じだったらしい。

83年5月にシングル「Nobody's Diary」がアルバムに先駆けてリリースされ、全英チャートで3位に達したが、リリースから数日後にヤズーは解散を発表。
アルバム「You and Me Both」はその後に発表されたが、解散しちゃったのでプロモーションのライブもテレビ出演もなく、全英1位にはなったものの前作ほどの売り上げにはならなかった。
解散については二人とも「急速に人気が出たため、コミュニケーションが取れず関係を築く時間がなかった」と認めている。

ヤズー解散後、ヴィンスはエリック・ラドクリフとアセンブリーを結成するが、短期間で解散。
その後オーディションに応募してきたアンディ・ベルと組み、イレイジャーを結成する。

一方アリソンはCBSと契約しソロ活動を開始。
84年のソロデビューアルバム「Alf」はイギリスでヒットし、全英アルバムチャートで1位を獲得した。
85年にはライブ・エイドに出演したが、ポール・マッカートニーの「Let It Be」でポールのボーカルマイクが故障したため、急遽アリソンが代わって歌うというハプニングもあった。

こうしてヴィンスはイレイジャーとして、アリソンはソロ歌手としてそれぞれ活動。
この間アリソンはヤズー最後のアルバム「You and Me Both」の曲をステージで歌うことはなかったそうだ。
曲そのものは気に入っていたが、契約など様々な理由で歌うことはできなかったらしい。

だが2007年末、ヤズーが再結成に向けて動き出す。
ミュート・レコードがヤズーのアルバムのリマスター版をリリースする予定であることを知ったアリソンは、ヴィンスにメールで再結成に興味があるかどうか尋ねた。
ヴィンスはアリソンからの連絡に喜んだが、気になったのがイレイジャーのパートナーであるアンディの反応だった。
ヴィンスはアンディがヤズー再結成に反対するんじゃないかと思って恐る恐る聞いたところ、アンディは歓迎し再結成公演のチケットを早くよこせとのんきに回答。
いい人、アンディ・ベル。
アンディの承諾を得てほっとしたヴィンスはイレイジャーの活動を一時休止し、ヤズー再結成を決意する。

2008年1月、ヤズーは新しい公式ウェブサイトで、再結成コンサートを行うことと、「In Your Room」と題された4枚組ボックスセット発売を発表。
二人はロンドンの会員制クラブで再会し、その様子はテレビでも報道された。
再結成ツアーコンサートは本国イギリスだけでなくヨーロッパ各国・アメリカでも開催され、このツアーの模様は後にライブ盤「Reconnected Live」としてリリースされている。

2011年5月にロンドンで行われたミュート・レコード主催の音楽祭で、イレイジャーのステージ前にアリソン・モイエがゲストとして登場。
ヴィンスとアリソンはヤズーの「Nobody's Diary」「Ode to Boy」「Don't Go」を披露した。
元ヤズーの二人が揃って懐メロを歌った形ではあったが、現時点ではこの日のライブがヤズーとしての最後のステージである。
二人は決裂したわけではないが、ヤズーは再々結成することはなく、ヴィンスはイレイジャーとして、アリソンはソロ歌手としてそれぞれ活動を続けている。

以上がヤズーの歴史サマリーでレジュメのアウトラインである。(適当)
知っていた話は当然なし。
アリソン・モイエはもうソロとしてのキャリアや知名度のほうが上だろう。

「Situation」はアタマに残るリズムとサウンドだが、楽しいメロディではないし、好みかと問われるとアリソンのボーカルも含め微妙。
You Tubeで「Only You」「Don't Go」も聴いてみたが、やはり知らない曲で、路線は「Situation」と同じように感じた。

アリソンのビジュアルもあまり細かく認識していなかったが、当時観た映像や歌声が実は21歳の若い女性だったということに驚いた。
今聴いてもパワフルで貫禄十分のボーカルは、21歳とは思えない迫力である。
元々ブルースを基盤としていて、ヤズーの前はパンクもやってたそうなので、力のある人なんだろう。
このエネルギッシュな歌唱力と、ヴィンスの作るテクノなリズムやシンセサウンドがうまく融合したのがヤズーの魅力ということになる。(知ったかぶり)

というわけで、ヤズー。
オリジナル盤は「Upstairs at Eric's」「You and Me Both」だけなので全盤制覇もそう難しくはなさそうですが、おそらく自分にはあまり定着しそうもないと思われます。
ヤズーに限った話ではありませんけど・・・
それぞれのアルバムでいい曲があったら教えていただけたらと思います。

Upstairs-at-erics
ヤズー Upstairs at Eric's
You-and-me-both
ヤズー You and Me Both
Yazuya

やずやにんにく卵黄WILD&シティハンターコラボ品セット

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聴いてない 第324回 ジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンド

長い名前のバンドで思い浮かぶのは、先日採り上げたクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの他、ブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドとか、ボブ・シーガー&シルバー・バレット・バンドニッティ・グリッティ・ダート・バンド、ロス・インディオス&シルビア、一人民族大移動・大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントなどがあるが(後半適当)、今日採り上げるジョン・キャファティも長名バンドを率いていたことで有名な人である。

ただし。
ジョン・キャファティ、実は1曲も知らない。
ジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンドというムダに長いバンド名だけなぜか知っているが、どこで知ったのかは不明。
曲は全く聴いておらず、FM番組でエアチェックした実績もない。
バンドのメンバーも一切知らないし、そもそもジョン・キャファティの顔もわからない。
聴いてない度は天上天下唯我独尊の1。

まずジョンさんのお名前表記だが、おそらく発音に忠実に書くと「ジョン・カフェティ」ではないかと思われる。
ただ当時の日本盤レコードや雑誌での表記は「ジョン・キャファティ」であり、自分もこの文字列で記憶していたので、今回はジョン・キャファティで統一します。

さてほんならジョン・キャファティを調べてみるかなと思うたら、ウィキペディアには日本語版がない。
どうやら日本では人気も知名度もそんなに高くはないようだ。
仕方なく英語版を翻訳したり他のサイトを見たりして集めた情報は以下のとおり。

ジョン・キャファティはロードアイランド州ノース・プロビデンス出身。
60年代半ばの中学生の頃にナイト・クローラーズと名付けたバンドを結成する。
当時ジョンたちがよく聴いていたのはローリング・ストーンズアニマルズヤードバーズなどブルース系の音楽だった。
地元で行われたバンド対抗戦で、中学生バンドのナイト・クローラーズは大学生バンド3つを破って優勝したことがあるそうだ。

ジョン・キャファティはその才能を生かして高校・大学進学後も音楽活動を続け、いくつものバンドを渡り歩いてきた。
その中でビーバー・ブラウンの源流となる以下のメンバーに出会うことになる。
・ゲイリー・グラモリーニ(G)
・パット・ルポ(B)
・ケニー・ジョー・シルバ(D)
・ボビー・コトイア(K)
・フレッド・マカリ(Sax)

バンドの基盤はブルースだったが、当時東海岸で活動するにはジャズやクラシックやソウルなど様々なジャンルでもこなせる必要があった。
そこで彼らは休みなくリハーサルを続け、その結果どのジャンルでもカバーできるユニークな存在となり、各地のステージに呼ばれるようになる。

73年頃にバンドはプロデビューを決意したが、名前がないことに気づく。
・・そんなことある?
中学生でナイト・クローラーズって名前でバンド組んでたのに、プロデビュー前でも名前付けてなかったって、大丈夫だったの?
メンバーがアイデアを出し合ってもいまいち使えるものが思いつかなかったが、その時誰かが棚にあった住宅用ペンキの缶を見つけた。
ペンキの色は「ビーバー・ブラウン」。
で、何か響きがいいということで一致し、他に良い候補もなかったため、それをバンド名として採用した。
ロックバンドとしてはなんか牧歌的でゆるい感じがしますけど。

ビーバー・ブラウン・バンドの人気は地元ロードアイランド州からマサチューセッツ州・コネチカット州へじわじわと広がっていった。
しかしオリジナル曲をほとんど持っていなかったため、ジョン・キャファティが曲作りを担当し始める。
74年にはフレッド・マカリが脱退し、ポール・ジャクソンが加入する。

ここでバンドは難題に直面する。
レコード発売前から、どこのステージに呼ばれても観客は満員。
じゃあデビューも順調に進むかと思ったが、いくつかの大手レコード会社が契約を真剣に検討したにもかかわらず、なかなか実現しなかった。
当時各社が力を入れようとしていたのが、実はブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドや、ボブ・シーガー&シルバー・バレット・バンドだった。
一部の批評家はビーバー・ブラウン・バンドをEストリート・バンドを真似た連中だとして不当に切り捨て始めたという話もあり、時期的には不利に働いたと思われる。

ただ各バンドの似たような音楽スタイルと歌詞のテーマは偶然であり、お互いをよく知らず活動しそれぞれが人気者になっていっただけで、それがたまたま同時期だっただけのようだ。
その後ビーバーのメンバーはブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドや、ボブ・シーガー&シルバー・バレット・バンドの面々とも親しくなり、ニュージャージーなどで何度も共演していたそうだ。
冒頭名前の長いバンドとして適当に連ねていたが、実はみんな仲良しだったのね。

レコードデビューを目指して活動を続けたビーバー・ブラウン・バンドだが、76年にギターのゲイリーは音楽的な方向性の違いからバンドを脱退する。
だがバンドは後任を加入させず、ジョンがリードギターを担当し5人で活動を続けた。
1年後にゲイリーは復帰したが、直後にポール・ジャクソンが脱退。
サックスを音の重要なパートとしてきたバンドは、すぐに後任としてマイケル・アントゥネスを招き入れた。

それでもビーバー・ブラウン・バンドの苦難の道は続く。
80年に自主リリースしたシングル「Wild Summer Nights」「Tender Years」は、ニューイングランドでヒットし、1万枚以上を売り上げた。
だが批評家からはやっぱりブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドと比較され続け、大手レコード会社は興味を示さなかったため、バンドがメジャーシーンに登場するまでさらに 2 年かかっている。

ビーバー・ブラウン・バンドの運命を変えたのは、元ミュージシャンで音楽プロデューサーのケニー・ヴァンス。
ケニーは「エディ・アンド・ザ・クルーザーズ」という架空のバンドを描いた小説に基づいた映画のサウンドトラックのオファーを受け、脚本を読みながら曲をどうするか考えていた時、ビーバー・ブラウン・バンドのことを思い出した。
ケニーはジョン・キャファティに連絡を取り、一緒にこの作品に取り組むよう要請。
ジョンはメインテーマ曲「On the Dark Side」を作り、演奏はビーバー・ブラウンが担当し、主演俳優のマイケル・パレがジョンの声に合わせて口パクで歌うことになった。
劇中でビーバー・ブラウン・バンドが実際に演奏するシーンはなく、サックスのマイケルが少しだけ登場しているそうだ。

映画は83年に公開されたものの興行的には振るわなかった。
だがサウンドトラックは人気を博し、ビーバー・ブラウン・バンドのファーストアルバムの代わりに売れ始め、全米9位の大ヒットとなった。

サントラの仕事が終了した時点で、ビーバー・ブラウン・バンドは西海岸に拠点を移し、ついにメジャーレーベルと契約。
ケニー・ヴァンスがプロデュースを担当し、真のオリジナルアルバム「Tough All Over」を85年にリリースする。
タイトル曲を含む4曲がシングルカットされ、全米40位を記録。
シングル「Voice of America's Sons」は、シルベスター・スタローン主演のアクション映画「コブラ」のテーマソングとなり、ジョンのソロ曲「Heart's on Fire」は、別のスタローン主演映画「ロッキー4」で使用された。
バンドはプロモーションのために全米各地や世界各国を回るツアーを始め、この年の11月には来日して中野サンプラザで公演も行っている。

だが、これ以降バンドとレコード会社の方向性は少しずつズレ始める。
バンドは88年にアルバム「Roadhouse」を発表。
レコード会社やプロモーターの意向より自分たちの意志とペースを優先して完成させた作品だったが、ファンの間ではよく売れたものの、一般大衆には受け入れられず、バンドは新たな岐路に立たされることになる。

「Roadhouse」の失敗を重く見たレコード会社は、映画「エディ・アンド・ザ・クルーザーズ」の続編の音楽を手がけるようビーバー・ブラウン・バンドに指示。
会社側は契約解除と映画音楽制作のどちらかを選ぶよう圧力をかけ、悩んだジョンとバンドは、ケニー・ヴァンスとともにサウンドトラック制作を選択した。
曲素材の大部分は脚本を確認しながら書かれ、残りは過去に演奏していた未発表の名曲の中から選んだものだった。
続編映画は89年に公開されたが、前編よりもさらに興行収入を得られず、あっという間に公開は終了。
サントラは「Roadhouse」よりは評価されたが、結果的にこれがメジャーレーベルからリリースされた最後の新盤となった。

その後2年ほどはバンドの人気も安定し、全米各地で満席のステージをこなしていた。
サックスのマイケル・アントゥネスはセッションマンとしても引っ張りだこで、当時ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックのバックバンドのメンバーだった二人の息子とともに、90年のアルバム「Step By Step」のレコーディングに参加している。

だがその後メンバーに変化が起こる。
92年にドラムのケニー・ジョー・シルバが演奏から離れ、ロードマネージャーとなったため、後任としてジャッキー・サントスとトム・エンライトが加入した。
リードとスライドギターの両方を演奏するトムがゲイリーとうまく連携し、ギター3人という厚みのある編成になったことで、新しい楽曲に最新のサウンドが加わり、ジョンは必要なときに歌うことだけに集中することができたと語っている。

また同時期にキーボードのボビー・コトイアが病気になり、スタジオでは演奏したがツアーには参加しなくなった。
ステージ上ではボビーの代役をスティーブ・バークが務め、スティーブは現在もメンバーに残っている。
94年にはベースのパット・ルポが脱退し、ディーン・カッセルが加入。

2000年代初頭、ジョンとゲイリーとマイケルは「ザ・ヴォイス・オブ・クラシック・ロック」と「ロック・アンド・ポップ・マスターズ」というツアーに参加。
これはゲイリー・US・ボンズ、スペンサー・デイビス、マイク・レノ(ラヴァーボーイ)、ジミ・ジェイミソン(サバイバー)、ラリー・ホッペン(オーリンズ)など、60年代から80年代までのトップアーティストのリードシンガーが入れ替わりで出演するツアーレビューで、リンゴ・スター&オールスター・バンドのような企画だった。
参加者は自分のヒット曲を歌うだけでなく、他のシンガーのバックボーカルも務め、その結果非常に味わい深い組み合わせが生まれ、全米で大好評となったそうだ。

残念なことに、2004年にオリジナルメンバーのボビー・コトイアは肝臓病で死去。
元メンバーのパット・ルポも2021年に亡くなっている。

ビーバー・ブラウン・バンドは、今のところ新曲レコーディングの予定はないが、現在もライブは続けており、11月はロードアイランド州やメキシコで演奏している。
またジョンは慈善活動にも熱心で、ゲイリーやマイケルはビーバー・ブラウン以外にも自身のバンドを率いてそれぞれ活動中だそうだ。

以上がジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンドの長く華麗なヒストリーである。
知ってた話は全くない。
最初のアルバムがサントラというケースはけっこう珍しいのではないだろうか。
映画「エディ・アンド・ザ・クルーザーズ」はアメリカであまりヒットしなかったためか、日本では劇場未公開だそうだ。
となるとビーバー・ブラウン・バンドをくまなく聴いてきた日本のリスナーもそんなに多くはないのかもしれない。
ミート・ローフのように本国と日本では人気や知名度に大幅な乖離があるパターンのような気がするが・・

今回彼らの曲をいくつかYou Tubeで聴いてみたが、どれも全く知らない曲だった。
「ロッキー4」も「コブラ」も観ていないので、「Voice of America's Sons」「Heart's on Fire」も聴いたことはなかった。
ただサウンドやメロディは80年代らしく力強く華やかな印象で、確かにブルース・スプリングスティーンが歌いそうな感じはした。
聴きにくい感覚はあまりなかったので、学習効果への希望はあるように思う。(本当か?)

というわけで、ジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンド。
実績からすれば「Eddie and the Cruisers」だと思いますが、サントラではなく純粋に彼らのオリジナルを聴くなら「Tough All Over」でしょうか。
日本で入手可能なのかすらわかりませんが、おすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

Eddie-and-cruisers
Eddie & The Cruisers - Soundtrack
Tough-all-over
ジョン・キャファティ&ビーバー・ブラウン・バンド Tough All Over
Nodogurobeaber
北陸製菓 hokka のどぐろビーバー

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聴いてない 第323回 スリー・ドッグ・ナイト

前回のCCRに続いてアメリカの古くて変わった名前のバンドをご紹介します。
スリー・ドッグ・ナイト、やはり聴いてません。
86年頃にFMの「アメリカン・ポップスDJ」という特番で、CCRの「雨を見たかい」を録音したが、同じ番組でオンエアされたのがスリー・ドッグ・ナイトの「An Old Fashioned Love Song」だった。
この1曲だけ録音したが、以来他の曲を全く聴くこともなく現在に至る。
従ってCCR同様に聴いてない度も2。

そこでスリー・ドッグ・ナイトについても調べてみたが、当然だけどCCRとは全く異なる原理と経歴を持っていた。
さらにバンドの歴史にからむ関係者に、意外な人たちの名前が見つかった。
意外と思ったのは自分だけで、ファンにとっては常識なのかもしれませんけど・・・

スリー・ドッグ・ナイトの原型は1967年ロサンゼルスで結成されたレッドウッドというグループ。
ダニー・ハットン、チャック・ネグロン、コリー・ウェルズの歌える3人がレッドウッドを組んだが、これが後のスリー・ドッグ・ナイトである。

レッドウッドをデビューに先立ってサポートしようとしたのは、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンだった。
レッドウッドはブライアンとともに3曲ほどレコーディングし、ビーチ・ボーイズが設立したブラザー・レコードと契約させ、アルバムのプロデュースもブライアンが行う予定だった。

だが、ブライアン以外のメンバーはこれに反対する。
当時ビーチ・ボーイズは「Smiley Smile」が商業的に失敗し、またブライアンが心身ともに不安定になりバンド活動にいまいち身が入らない状況にあった。
他のメンバーはこの状況を打破するためにはブライアンの力をビーチ・ボーイズにのみ振り向ける必要があると考えたようだ。
メンバーはブライアンに「そんな新人バンドの面倒なんか見ないでビーチ・ボーイズに集中せえよ」と詰め寄ったらしい。
ブライアンに頼らず自分たちでビーチ・ボーイズを立て直そうとは思わなかったんですかね?

レッドウッドの演奏や歌は残念ながらブライアンの期待したレベルではなく、ビーチ・ボーイズのメンバーからの圧力もあり、結局ブライアンはレッドウッドのサポートを断念。
ブライアンに頼れなくなったレッドウッドは、自力でのデビューに向けて追加メンバーを雇うことにした。
採用されたのはギターのロン・モーガン、ドラムのフロイド・スニード、ベースのジョー・シェルミー、キーボードのジミー・グリーンスプーンの4人。
だがロン・モーガンはアルバム録音前に脱退し、代わってマイケル・オールサップが加入。
7人組となったバンドはスリー・ドッグ・ナイトに改名した。
このボーカル隊3人+演奏4人という変わった編成が、スリー・ドッグ・ナイトの特徴でもある。

スリー・ドッグ・ナイトという妙な名前は、「オーストラリア先住民アボリジニが寒い夜には犬を3匹抱いて眠る」という慣習から来ているとのこと。
ボーカルのダニー・ハットンの恋人ジューン・フェアチャイルドが、雑誌記事を読んでこの名前を提案したそうだ。
低偏差値な疑問ですけど、これって「three dogs」じゃなくていいんでしょうか・・・?

スリー・ドッグ・ナイトは68年にデビューを果たし、アルバム「Three Dog Night」とシングル「Nobody」「Try a Little Tenderness」がリリースされた。
この2曲は当初思ったほど売れず、バンドは気を取り直して次のアルバム制作に取りかかる。
だがハリー・ニルソンのカバー曲「One」が3枚目のシングルとして発表されると、すぐにヒットチャートを急上昇し、最終的に全米5位に達した。
この曲の人気を利用するため、アルバムジャケットのグループ名の下に「One」というタイトルが後から追加されている。

70年には「Mama Told Me Not to Come」で全米1位を獲得。
この曲はもともとランディ・ニューマンがエリック・バードンのソロアルバムのために書いた曲である。
さらに71年にもフォークシンガーのホイト・アクストンが作った「Joy to the World」をリリースし、全米1位になった。
また同年ポール・ウィリアムズが書いた「An Old Fashioned Love Song」もヒットさせている。
スリー・ドッグ・ナイトはこの後も他人が作ったいい曲を発掘してヒットさせるパターンを続け、74年にはレオ・セイヤー作の「The Show Must Go On」も全米4位を記録した。

だがスリー・ドッグ・ナイトはこの頃から混乱してくる。
ベースのジョー・シェルミーは73年初めに脱退し、直後にジャック・ライランドが加入。
さらにキーボードのスキップ・コンテが加わり、一時的に8人編成となった。

74年後半にはマイケル・オールサップとフロイド・スニードが脱退する。
後任のジェームズ・スミスとミッキー・マクミールが加入したが、二人とも2年持たず脱退している。
なおフロイド・スニードは、先に脱退したジョー・シェルミーと、後にTOTOのメンバーとなるボビー・キンボールと共にSSフールズを結成している。
スリー・ドッグ・ナイトはその後もメンバーチェンジが続いたが、基本的に入れ替わっていたのは演奏組だった。

しかし歌唱隊の3人も決して安定はしていなかったようだ。
ボーカルのダニー・ハットンはコカインとアルコールの乱用でレコーディングやセッションを欠席するようになり、最終的には75年後半にバンドから解雇されてしまう。
ダニーは結成当時の中心メンバーだった歌唱隊からの最初の脱落者となり、代わってジェイ・グルスカが加入した。
また75年のツアーの最初のコンサート開始前に、チャック・ネグロンは麻薬所持で逮捕されている。(すぐに1万ドルの保釈金で釈放)

バンド内部の不安定さは成績にも影響した。
75年5月にリリースされたアルバム「Coming Down Your Way」は、売れ行きが振るわず全米70位どまり。
また「Til The World Ends」をアルバムからの唯一のシングルとしてリリースしたが、結果的にこれがバンドにとって最後のトップ40ヒット(32位)となった。
不振の原因はレーベル変更やディスコミュージックの人気の高まりによるプロモーションの失敗とも言われたが、メンバーもファンも結果に失望。
がっかりしたバンドは、76年7月ロサンゼルスで最後の公演を行い解散する。

でもスリー・ドッグ・ナイトは案外早く再結成する。
81年にはジョー・シェルミーを除くデビュー当時の6人に、マイク・セイフリットを加えた編成で再結成された。
マイクは当時リック・スプリングフィールドのヒット曲「Don't Walk Away」などでベースを弾いていた人物である。

再結成スリー・ドッグ・ナイトは83年に5曲入りEP「It's a Jungle」をパスポート・レコードという小さなレーベルからリリース。
ただ音楽性はかなり変わっていて、スカ調の5曲全てがメンバー外の人による作品であった。
再結成してもメンバーは自前の曲にあまりこだわらない点は変わらなかったようだ。
パスポート・レコードはすぐ倒産したため、このEPは売れなかったが、後年再評価されている。

めでたく再結成はしたものの、すでに歌唱隊3人の求心力もなく、その後もやっぱりメンバー・チェンジが繰り返される。
マイケル・オールサップは活動を休みがちになりやがて脱退。
ポール・キングリーとスティーブ・エッツォがヘルプで加わり、その後正式に加入。
同時にフロイド・スニードは解雇され、マイク・キーリーと交代した。
キーボード担当はジミー・グリーンスプーンが病気→代役としてデビッド・ブルーフィールド加入→リック・セラットに交代→回復したジミー・グリーンスプーン復帰、と目まぐるしく変動。

チャック・ネグロンは85年にまたクスリのやり過ぎでついにバンドを解雇された。
リハビリを続けたが、結局バンドには復帰していない。
ポール・キングリーとマイケル・オールサップは80年代から90年代にかけて脱退と復帰を何度か繰り返している。
これだけ出入りの激しい期間でも、バンドはツアーに出て演奏してたというからすごい話だ。

ただこの時期のスリー・ドッグ・ナイトは、日本では話題になることはほとんどなかったのではないかと思う。
自分にとっての三大洋楽講師である柏村武昭・小林克也・東郷かおる子も、誰一人再結成スリー・ドッグ・ナイトを案内していなかった。(してたらすいません)
渋谷陽一やピーター・バラカンは当時の日本のヤング向けにきちんと案内していたのだろうか?(上から目線)

90年代以降もバンドは変動継続。
93年、パット・バウツがマイク・キーリーの後任としてドラマーに就任。
結成当時の演奏隊だったベーシストのジョー・シェルミーは2002年3月に死去した。

21世紀に入るとバンドはクラシックオーケストラと接近する。
2002年5月にロンドン交響楽団とのコラボ盤「Three Dog Night with The London Symphony Orchestra」をリリース。
ロサンゼルスとロンドンで録音され、新曲「Overground」「Sault Ste. Marie」が収録されている。
またテネシー交響楽団との演奏を収録したDVD「Three Dog Night Live With the Tennessee Symphony Orchestra」もリリースされた。

さらに2004年10月、スリー・ドッグ・ナイトは35周年記念ヒット曲集盤「The 35th Anniversary Hits Collection Featuring The London Symphony Orchestra」をリリースした。
本編は2002年のロンドン交響楽団とのコラボ盤で、ボーナストラックとして「Eli's Coming」「Brickyard Blues」「Try a Little Tenderness」「Family of Man」のテネシー交響楽団とのライブバージョンが収録されている。

長く活動を続けてきたスリー・ドッグ・ナイトだが、メンバーの高齢化や病気は避けられなかった。
2012年の夏、ギタリストのマイケル・オールサップが病気で入院したため、ベースのポール・キングリーはギターに戻らざるを得なくなり、ダニー・ハットンの息子ティモシーがベースを弾いた。
ティモシーは今もバンドの正式なメンバーとして活動している。
息子が加入して親子でステージに立つという図式は、イーグルスチープ・トリックヴァン・ヘイレンなど名門バンドで最近よく見られるパターンである。

2015年3月にはキーボードのジミー・グリーンスプーンが癌のため67歳で亡くなった。
同じ年の10月21日、結成当時から歌い続けてきたコリー・ウェルズが74歳で死亡。

主要メンバーの病欠や死亡、またコロナ禍により一時期停滞していたスリー・ドッグ・ナイトだが、2021年からはツアーを再開。
バンドは現在も活動中で、新曲や新盤も計画中とのこと。
結成当時のメンバーで残っているのはダニー・ハットンだけである。
マイケル・オールサップは現在もスリー・ドッグ・ナイトのメンバーだが、ツアーからは引退しているそうだ。
昨年1月には結成時のドラマーのフロイド・スニードも亡くなっている。

以上がスリー・ドッグ・ナイトの波乱と混沌と薬物の歴史絵巻である。
CCR同様知ってた話は一切ない。
デビューにあたりブライアン・ウィルソンが後押ししようとしたことも知らなかった。
歌唱隊と演奏隊という明確な分担があるバンドってのも珍しい構成だと思う。
ボーカル組のコリー・ウェルズも多少は楽器を使ったらしいけど。
出入りの激しい団体だが、全メンバーを覚えているファンはいたりするんだろうか?

「An Old Fashioned Love Song」以外の70年代の曲をYou Tubeでいくつか聴いてみたが、全米1位の「Joy to the World」はどこかで聴いたことがある。
他はどこかメルヘンでフラワーなクスリっぽい曲が多い気がする。(伝わらない)
好みかどうか微妙ではあるが、聴きやすい音ではあると感じた。

ちなみに「An Old Fashioned Love Song」は、ポール・ウィリアムズが元々はカーペンターズのために書いた曲だったらしい。
だがタイトルの「古くさい時代遅れのダサいラブソング」が、それ系のヒット曲で人気だったカーペンターズにとっては皮肉だと思われたらしく、リチャード・カーペンターは歌うことを断ったとのこと。
スリー・ドッグ・ナイトが歌ってヒットしたので、リチャードの判断は正しかったのか、微妙なところですけど。

というわけで、スリー・ドッグ・ナイト。
聴くとしたら「An Old Fashioned Love Song」収録の「Harmony」からかなと思いましたが・・
果たして我が国にどれだけファンの方がおられるのかわかりませんが、もし必聴盤があるならば教えていただけたらと思います。

Three-dog-night
Three Dog Night One
Harmony
スリー・ドッグ・ナイト Harmony
Three-dog-night_book
落合恵子 三匹の犬と眠る夜

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聴いてない 第322回 クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル

長い名前と短い活動期間のバンド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル。
全然聴いてません。
唯一聴いているのは「Have You Ever Seen the Rain?(雨を見たかい)」だけ。
FMの「アメリカン・ポップスDJ」という特番で、シカゴの「長い夜」やモンキーズの「恋の終列車」、ブレッド「二人の架け橋」などとともにオンエアされ、番組まるごと録音している。
バンド名が長すぎてテープのインデックスに書けなかったので、CCRと表記した。
その後も結局アルバムは聴かなかったので、聴いてない度は2となる。

持っている情報も「雨を見たかい」以外なく、メンバーも全く知らんなぁ・・と思っていたが、ネットで調べたらジョン・フォガティの名を発見。
ただジョン・フォガティも名前を知ってるだけで曲は聴いてないので、どっちにしろ聴いてない人たちである。(論外)
ということでジョン・フォガティも含め、CCRの歴史について出口調査開始。

クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)は、アメリカのロックバンド。
バンドの源流は1959年カリフォルニア州エルセリートで結成されたブルー・ベルベッツ。
中学校で出会ったボーカルとギターのジョン・フォガティ、ドラムのダグ・クリフォード、ベースのスチュアート・クックが、ブルー・ベルベッツを結成。
その後ジョンの兄のトムが加入し、シングル3曲をリリース。
このシングルを聴いていたのが、後に「アメリカン・トップ40」のDJで名を馳せることになるケイシー・ケイサムだった。
当時ケイシーはオークランドのレコード会社で働いており、ブルー・ベルベッツはケイシーの紹介で64年頃にサンフランシスコの独立系ジャズレーベルであるファンタジーレコードと契約した。

だがファンタジーの経営者は契約早々バンド名をヴィジョンに変更するよう命じる。
さらにゴリウォーグスと改名させられ、6枚のシングルを発表するが、メンバーはゴリウォーグスという名前を気に入らなかったらしい。
日本のサイトでは「ゴリウォッグス」と表記されていることが多いようだが、名前の由来は19世紀末にイギリスの児童文学者フローレンス・ケイト・アプトンが考案したキャラクター「ゴリウォーグ」にあるとのことなので、ゴリウォーグスでいいと思う。

67年にファンタジーの経営者が変わり、メンバーはアルバムのレコーディング中にクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルに改名することを決意した。
この長い名前は由来も話せば長いそうで、クリーデンスはトムの友人クリーデンス・ニューボールから拝借し、クリアウォーターは当時のビール会社のテレビCMから取り、リバイバルはメンバーの決意を意味している。
他にもいろいろ候補はあったらしいが、スチュアート・クックはこのバンド名を「バッファロー・スプリングフィールドやジェファーソン・エアプレインよりも奇妙だ」と発言している。

その奇妙なCCRは68年に2枚目のシングル「Suzie Q」のカバーがヒットし、全米11位を記録する。
同年5月のデビューアルバムからは、さらにシングル「I Put A Spell On You」「Porterville」がリリースされた。
アルバムはブルースやサイケな曲などを含み、当時ヒッピー文化が全盛だった西海岸で人気が出て、全米チャートでも52位となった。

翌年のシングル「Proud Mary」「Born on the Bayou」「Green River」は全て全米2位に達した。
2枚目のアルバム「Bayou Country」も7位のヒットとなり、続く70年発表のアルバム「Green River」で念願の全米1位を獲得する。
またシングル「Travelin' Band」「Lookin' Out My Back Door」も全米2位だったが、どれも1位は取れなかった。
CCRは現在まで全米シングル1位を獲得できず2位が当時最多の5曲もあるという珍しい記録を持つバンドとなった。
なおこの最多5曲の第2位シングルという記録は、後にマドンナ(6曲)、テイラー・スウィフト(7曲)、ドレイク(9曲)によって塗り替えられている。

またCCRは69年のウッドストック・フェスティバルにも出演したが、ジョン・フォガティが演奏の出来に満足していなかったため、映画やサントラには収録されなかった。
なのでCCRが実はウッドストックに出ていたことを知らない人も多いそうだ。
(自分も知りませんでした・・)

70年には「Cosmo's Factory」「Pendulum」の2枚のアルバムを発表。
「Cosmo's Factory」は全米1位、「Pendulum」も5位を獲得した。
翌年のシングル「Have You Ever Seen the Rain?(雨を見たかい)」も大ヒット。
この曲がCCRの代表曲なんだから当然1位やろと思っていたが、実績は意外なことに最高8位だった。

「雨を見たかい」が代表曲となった理由のひとつに話題性があった。
歌詞の「雨」はベトナムにおける米軍のナパーム弾爆撃を指しており、曲は反戦歌であるという説が、当時のヒッピー文化の中で広まったためだ。
自分も雑誌やラジオ番組でこの話を見聞きしており、さっきまで反戦歌だと思っていた。
しかしジョン・フォガティは「歌詞はバンド崩壊を表したもの」と発言し反戦歌説を否定しているそうだ。

人気が出たら内紛が起こるのがロックバンド。
ジョンの予告?どおりCCRもこのバンドあるある展開をたどることになる。
原因はメンバー間の労働負担と人気のバランスにあった。
ジョン・フォガティが作曲や演奏の中心だったため、人気もジョンに集中しメンバーの間に軋轢が生じてくる。
実兄トムはバンドのマネージャーも兼務していたが、ジョンとの仲が悪くなり、71年に脱退。

ジョン・フォガティはCCRのパワーバランスを見直し、ダグとスチュアートに民主的な運営を提案。
残った3人で活動を続けることになる。
72年には3人で来日し名古屋・大阪・東京で公演を行ったが、なぜか「雨を見たかい」は演奏していない。
淡泊で短時間なステージに不満だったファンも多かったらしい。

新生民主CCRとして3人がそれぞれ曲作りに励んだはずだったが、意見や主張のすれ違いが起こり、バンド内の緊張は高まるばかりだった。
そんな中で作られた72年のラストアルバム「Mardi Gras」は、3人がほぼ均等に作曲とボーカルを分け合う構成だった。
アルバムは全米12位のゴールドディスクとなり商業的には成功し、シングル「Sweet Hitch-Hiker」も全米6位、「Someday Never Comes」は25位を記録した。
しかしこの2曲もやはりジョンの作品だったため、金銭面や法的な問題が重なり、バンド内の不安定な状況がさらに悪化。
CCRはアルバムツアー終了直後の72年10月に解散した。

ロックバンド解散は世界中で起こってきた話だが、CCRの場合も相当深刻な決裂だったようだ。
先に脱退したトム・フォガティは74年にソロアルバム「Zephyr National」を発表。
CCRのメンバー3人も参加したが、みんないっしょの同時演奏ではなく、ジョンのパートは別録音だった。
これが結果的にCCRの4人が参加した最後のアルバムとなった。
リンゴ・スターの「Ringo」と同じ図式である。

しかしトム・フォガティはソロではCCRほどの実績は残せず、また弟ジョンのソロ活動にも遠く及ばないまま、90年9月にアリゾナ州の自宅で輸血によるエイズ合併症で亡くなった。
兄弟はトムの死の直前になんとか和解しており、トムの葬儀ではジョンが弔辞を述べている。

弟ジョン・フォガティもCCR解散後ソロとして活動し、85年にはアルバム「Centerfield」で全米1位を獲得している。
ソロになってもCCRの曲は演奏しないと決意していたが、関係者やファンから苦情を受け、心労のため発声障害が再発。
声も出なくなるほど悩んでCCRの名曲演奏をかたくなに拒否していたジョンだったが、ボブ・ディランジョージ・ハリスンの助言もあり、87年のベトナム戦争退役軍人のための独立記念日慈善コンサートで、ついに「Born On The Bayou」「Proud Mary」などのCCRのヒット曲を演奏した。

だがジョン・フォガティのCCRにからむ苦難はさらに続く。
大ヒットアルバム「Centerfield」を巡っても、収録曲「The Old Man Down the Road」がCCRの「Run Through the Jungle」のパクリだとファンタジーレコード側から訴えられてしまう。
裁判所での証言中、ジョンはギターを持ち込んで2曲のパクリ疑惑部分を比較演奏し、「似ているように聞こえるかもしれないが、耳の肥えた人には違う曲だとわかる」ことを実証してみせたそうだ。(面倒くさそう・・)
この訴訟ではジョンが勝訴となったが、心身ともに疲れきったジョンはその後も度々活動を休止することになる。

93年にCCRはロックの殿堂入りを果たす。
ファンや関係者の誰もがこの機に再結成を望んだが、メンバー間の軋轢はそんな生やさしいものではなかったようだ。
ジョンは式典でのダグとスチュアートとの共演を拒否。
しかもダグとスチュアートはステージに上がることも禁じられ、ジョンはブルース・スプリングスティーンやロビー・ロバートソンを含むオールスターバンドとCCRの曲を演奏した。
ダグとスチュアートは客席のテーブルに座っていたが、ジョンの演奏が始まった直後に激怒して会場を出て行ってしまう。

アタマに来たダグとスチュアートは、95年にスティーブ・ガンナー、ジョン・トリスタオ、元カーズのエリオット・イーストンとともにクリーデンス・クリアウォーター・リヴィジテッドを結成。
リヴィジテッドはCCRの名曲を演奏しながら、2020年まで世界ツアーを続けてきた。
だが、結成直後にはやっぱりジョン・フォガティからバンド名の無断使用で訴えられ、やむを得ず一時期「コスモズ・ファクトリー」に変更していた。(後にリヴィジテッド側が勝訴)
つくづく仲の良くない人たち・・・

かたくななジョン・フォガティの姿勢にわずかな融解の兆しが見られたのは2011年頃。
再結成の可能性について新聞記者から尋ねられたとき、ジョンは「可能性はある。でもその電話はダグやスチュアートではなく外部からかかってくるかもしれないね」と答えた。
一方でダグとスチュアートは翌年の雑誌インタビュー記事で「CCRの再結成には興味がない」と述べている。
スチュアートはジョンの談話を「ジョンのイメージアップのための単なる練習」と切り捨て、ダグは「20年前ならいいアイデアだったかもしれないけど、もう遅すぎる」と答えている。
双方の温度差は現在も変わっていないようだ。

以上がCCRの栄光と摩擦と怨念のワンダーランド・名勝負数え歌である。
知ってた話は全くなし。
そもそもジョン・フォガティがCCRに在籍してたことも、85年のソロアルバム「Centerfield」で全米1位を獲得してたことも全く知らなかった。(ド素人)
85年ならば「サンスイ・ベストリクエスト」や「ベストヒットUSA」や「11PM秘湯の旅」を毎回欠かさずチェックしていた時代である。
が、残念ながらジョン・フォガティの曲を録音する機会もなく、オンエアを聴いた記憶もない。
柏村武昭は何をしていたのだろうか?(毎度人のせい)
エリオット・イーストンがクリーデンス・クリアウォーター・リヴィジテッドに参加してたことも驚きでしたけど。

それにしても想像を超えるメンバー間の軋轢である。
ハデに解散したビートルズでさえ25年後にアンソロジーを成功させ、モメ事御大リッチー・ブラックモアもジョー・リン・ターナーとは和解して共演もしてるのに、ジョン・フォガティは未だにダグとスチュアートとは再会もしてないらしい。
お互いに言い分はあろうが、ここまで長期間こじれてしまうと回復や再結成はもうムリなんじゃないかと思う。
モメてるバンドが好きな自分ではあるけど、なんか深刻すぎてあまり深入りする気が起きない・・

というわけで、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル。
活動期間4年でオリジナルアルバム7枚だそうなので、全盤制覇も不可能ではないと思いますが、自分が試すならまずは「雨を見たかい」収録の「Pendulum」からと考えております。
他におすすめのアルバムがあればご指導いただけたらと思います。

Pendulum

クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル Pendulum

Centerfield
ジョン・フォガティ Centerfield
Clearwater
クリアウォーターリップルパターン スイミングプールテクスチャエリアラグ

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聴いてみた 第183回 ポール・マッカートニー その6

高齢者洋楽手遅れ終活学習講座、今日はポール・マッカートニーの「Flaming Pie」を聴いてみました。

「Flaming Pie」は97年リリース。
ただし大半の曲は90年頃に作られており、ポールは当時始まったビートルズ・アンソロジー・プロジェクトを優先させたため、発表は大幅に後回しとなった。
アンソロジー・プロジェクトに参加したELOのジェフ・リンが、このアルバムでもプロデューサーを務めており、サウンドのあちこちにジェフの香りを感じることができるらしい。
ポールとジェフとジョージ・マーティンの共同プロデュースだが、全曲3人プロデュースではなく、ポールが全曲、ジェフは8曲、ジョージ・マーティンは2曲手がけている。
リンダもいくつかの曲で歌っているが、残念ながらリンダが参加した最後のアルバムになってしまった。

Flaming-pie

タイトル「Flaming Pie」は、ビートルズ命名の由来とされる「燃え盛るパイ」。
ジョン・レノンが見た夢を「燃え盛るパイに乗った男から『お前たちは今日からBeetleをBeatleに変えたビートルズだ!』と言われた」と語った話から来ているそうだ。
4人にだけ通じる内輪のギャグみたいな言葉だが、ここでもポールのビートルズへの想いが込められているのだろう。

ポールのソロ作品でも特にビートルズのテイストを感じるアルバムとなっているとされる「Flaming Pie」。
果たしてどんな音がするのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1.The Song We Were Singing
おだやかに始まる、安心と実績のスタート。
昔ジョンとリバプールで曲を作ったり歌ったりしたことを書いた曲。

2.The World Tonight
トム・ペティ風と書いてるサイトもあったが、確かにトムが歌いそうな曲ではある。
これは間違いなくジェフ・リンの仕業だろう。
リズムもサウンドもジェフのものである。
シングルカットもされており、全英23位。

3.If You Wanna
メロディは明るくないが、リズムは軽快。
クレジットにジェフの名はないが、どこかポールがジェフの音に寄せたような感じがする。

4.Somedays
物悲しい旋律をポールがアコースティックギターで静かに語り始める。
その後ストリングスやオーボエなどが加わり、小さくまとまって静かに終わる。

5.Young Boy
発表当時リアルタイムで聴いた唯一の曲。
ポールらしい軽快で明るいサウンド。
スティーブ・ミラーがボーカルとギターで参加。
歌詞は若者への応援歌だが、息子ジェームスに呼びかけた内容らしい。
最初のシングルとして発表され、全英19位を記録している。

6.Calico Skies
ジョージ・マーティンとの共作で、楽器はアコースティックギターだけ(だと思う)。
反戦や平和についてのメッセージソングで、ポールらしい美しい小作品だ。
アメリカで休暇中にハリケーンが来て停電となった中で作られた曲とのこと。
2002年の大阪でのステージで初めてライブ演奏されている。
「Calico」は日本語ではキャラコと呼ばれる木綿のことだが、「まだら」という意味もあり、いろいろ解釈があるようだ。

7.Flaming Pie
アルバムタイトルにもなった曲だが、かなりヘビーでややヤケクソな70年代調ロック。
たぶんジョンを意識してのことだと思う。

8.Heaven on a Sunday
ミドルテンポのリズムにわりと静かに楽器が鳴る。
息子のジェームスがギターを弾いている。
この曲はコーラスがよく聞こえる。
ポールによれば「For No One」に少し手を加えて作った曲だそうだが、そう言われてもそれほど似ている気はしないが・・

9.Used to Be Bad
この曲でもスティーブ・ミラーが参加。
ボーカルをポールと分け合うデュエットだが、曲調はブルースでサウンドもスティーブ・ミラーがけっこう前に出てきている。
「オレは昔ワルだった」という、世界中の男の誰もが一度は口にしたことがある(そして大半は盛っている)フレーズと、そこから学んだ教訓を語る内容。

10.Souvenir
リズムはゆったりワルツだが、ギターやホーンなどが思ったより重く響く。
バックコーラスも厚塗りでウィングス時代を思わせる。

11.Little Willow
「Willow」とは柳の木のことで、ポールがリンゴの亡くなった元妻モーリーンを思い浮かべて作った曲。
美しい調べに乗せて静かに歌うポール、本領発揮の一曲である。

12.Really Love You
リンゴとの共作で、プロデュースはポールとジェフ。
次の曲「Beautiful Night」を録音した後、3人がかりで即興で作った曲とのこと。
やや暗めなベースラインがどこかポリスを思わせる。

13.Beautiful Night
3枚目のシングルとしてリリースされ、全英25位を記録した曲。
ジョージ・マーティンがオーケストラを加えて壮大なサウンドが完成。
リンゴも参加しており、エンディングでのタイトル連呼でもリンゴの声が聞こえる。
そもそもリンゴ参加はジェフの提案だったそうだ。
個人的にはこの曲でラストとしたほうがよかったのではと思う。

14.Great Day
ラストはホワイトアルバムにあってもおかしくないヒネたメロディ。
これもビートルズ的編集で「Her Majesty」のような妙な小作品を最後に持ってきている。
原案は74年頃のウィングス時代に録音されており、ポールは過去にライブでも演奏したことがあるそうなので、気に入って最後に押し込んだのだろう。
やはりありきたりな形ではアルバムを終わらせないのがポールということか?

聴き終えた。
全体的にまとまりがあり、それほど聴きづらい曲もなく、ポールの作品として規格内に収まってはいる。
仮定は無意味だが、10年早く発表されていたら、間違いなく愛聴盤になっていたはずである。
・・・なのだが、思ったよりも辛口な曲が多く、意外にヘビーな印象もある。
「The Song We Were Singing」「Calico Skies」など、お得意の甘いメロディやおだやかなサウンドもあるが、スティーブ・ミラー参加の「Used to Be Bad」、リンゴとの共作「Really Love You」はいずれもブルージーなロックである。

またジェフ・リンだが、これも思ったほど前には出てきていないと感じた。
ジェフの力で聴きやすくなっていることは確かだが、ジョージ・ハリスンの「Cloud Nine」や、アンソロジーで披露した「Free As a Bird」よりも、ジェフ色は薄い気がする。
英米の音楽業界では、グリン・ジョンズやフィル・スペクター、ナイル・ロジャースやトレヴァー・ホーン、ロバート・ラング(ジョン・マット・ランジ)やスティーブ・リリーホワイトといった濃すぎる名プロデューサーたちがヒットサウンドを作り上げてきた実績があるが、ジェフ・リンもその一人ではある。
そのジェフもさすがにポール・マッカートニーの作品を自分の色にべったり染めるところまでは行っていないと思う。
ジェフがその点はわきまえたのか、ポールが払いのけたのかはわからないが・・・

ジャケットはモノクロの粗いポールの写真。
ジャケットに顔写真を使うことが多いポールだが、このアルバムでは特にタイトルを想起させる絵でもなく、歴代の作品の中でも簡素な造りである。
悪くはないが、思ったより印象に残らないアートだ。

というわけで、「Flaming Pie」。
予想よりも辛口なサウンドが多くやや戸惑いましたが、全般的には聴きやすくまとまりのあるアルバムだと感じました。
大ヒット曲もなく、ポールの代表作・最高傑作という評価でもないと思いますが、聴けてよかったです。
次回は「Press to Play」「Flowers in the Dirt」のどちらかを試してみようかと思います。

Flaming-pies

ポール・マッカートニー Flaming Pie

Press-to-play
ポール・マッカートニー Press to Play
Flowers-in-the-dirt
ポール・マッカートニー Flowers in the Dirt

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