聴いてない 第310回 ソフト・マシーン

20年も聴いてない音楽を延々公表していて、もうほぼ結論は出たジャンルがプログレである。
要は「プログレはあきらめた」という定着敗北宣言なんですけど、そんなのメタルもブルースもダンスもヒップホップもグランジも全部同じ状態。
今回採り上げるソフト・マシーンも聴く前から敗色濃厚ではあるのだが、調べていくとメンバーに聞いたことのある名前が数名見つかった。
これで少し興味がわいたので、さらに調べることにしました。

ソフト・マシーン、1曲も聴いてないので聴いてない度は盤石の1。
いつ頃結成されてどの時代にいくら稼いでいたのか全く知らない。
多分柏村武昭も小林克也も東郷かおる子も、ソフト・マシーンを80年代のナウい日本のヤングには紹介していないと思う。(してたらすいません)
80年代のFMステーションやミュージックライフにソフト・マシーンの記事が掲載されたこともないと思う。(載ってたらすいません)
仕方なくソフト・マシーンについて自主学習を開始。

ソフト・マシーンは、60年代後半から80年代初頭にかけて活動したイギリスのプログレッシヴ・ロック・バンド。
「カンタベリー・ミュージック」の最重要バンドであり、ジャズ・ロックやプログレにおいて最も影響力を持つバンドとのこと。
・・・そうなの?
今さらだけどプログレといったらピンク・フロイドイエスキング・クリムゾンが闘魂三銃士で、四天王にはELPが加わり、五奉行だとジェネシスまで・・で合ってるよね?
ソフト・マシーンは最重要と言われてるけど五奉行には数えられないらしい。
五奉行のみなさんとは別系統なのだろうか・・?

メンバーの多くはケント州カンタベリーというロンドンの東にある古い街の出身で、その後カンタベリーで活動していた様々なバンドが音楽シーンを作っていったため、「カンタベリー系」と称されることになる。
カンタベリー・ミュージックという言葉もどこかで聞いたことはあったが、そういうくくりだったんスね。
日本の「渋谷系」みたいな言い方だろうか?

ソフト・マシーンの源流はサイケデリックバンドのワイルド・フラワーズにあった。
ワイルド・フラワーズはカンタベリー・シーンの元祖と言われ、活動期間はわずか3年間で作品もリリースすることはなかったが、解散後にメンバーはソフト・マシーンやキャラバン、キャメルなどシーンの主要バンドを数多く結成しているそうだ。

ワイルド・フラワーズのロバート・ワイアット(D)とケヴィン・エアーズ(B・Vo)は、WF脱退後にデヴィッド・アレン(G・Vo)、ラリー・ナウリン(G)と合流しミスター・ヘッドというバンドを結成した。
そのミスター・ヘッドにマイク・ラトリッジ(K)が加わりソフト・マシーンとなる。
黎明期はやはりジャズ風サイケデリック・ロックなバンドで、デビュー前のピンク・フロイドとは同じクラブで演奏したり交流したりもあったらしい。
バンド名はウィリアム・バロウズの小説のタイトルから付けられたとのこと。
ソフトとマシーンという硬軟混ぜ合わせな組み合わせは、レッド・ツェッペリンアイアン・バタフライなんかと似たようなノリってことですかね?

67年ファースト・シングル「Love Makes Sweet Music」を発表するが全然売れず、しばらくツアーを続けながらアルバム制作を保留していた。
翌年春のジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとのアメリカツアー中に、ニューヨークでデビューアルバム「The Soft Machine」を急いでレコーディング。
すでにラリー・ナウリンは脱退してバンドは3人組になっていた。

ソフト・マシーンの特徴として、(結果的にだが)メンバーチェンジが激しく音楽性の頻繁な変動という点があった。
なのでアルバムごとに主導する人が異なり、大まかにサイケ・プログレ期→ジャズロック期→フュージョン期→レガシー期→再興期と言われるそうだ。
上記のとおりとにかく結成前後から人事異動が激しく、デヴィット・アレンは麻薬所持によりフランスから帰国できずそのまま脱退。(早い)
アレンに代わって加入したのがアンディ・サマーズだった。
アンディはソフト・マシーンのデビューアルバム発表後に6週間アメリカツアーに参加したが、メンバーから3人トリオで活動したいと言われて脱退。(早い)
・・・そうなの?
アンディがポリス結成前にアニマルズにいたことは知ってたけど、その前にソフト・マシーンにも参加してたとは・・全然知らなかった・・・

一方ソフト・マシーンではケヴィン・エアーズがデビュー直後に脱退。(早い)
後任ベーシストにヒュー・ホッパーを迎え、69年にセカンドアルバム「Volume Two」を発表。
直後にサックス担当のエルトン・ディーンが加入。
アルバム「Third」はロバート・ワイアットとマイク・ラトリッジが主導しフリー・ジャズっぽい音楽を展開する。

その後ヒュー・ホッパーとエルトン・ディーンが台頭し、インスト演奏中心バンドに移行。
だが4枚目アルバム「Fourrth」の制作中のある日、ロバート・ワイアットはパーティで酔っぱらってビルの4階から転落し、大けがを負う。
その後下半身不随となりドラムを叩けなくなったため、ボーカル専任となる。

4枚目アルバム「Fourrth」のリリース直後、インストなんでボーカルはいらんやろという理由でロバート・ワイアットが脱退。
次のアルバム「Fifth」のレコーディングにあたりドラマーのフィル・ハワードが参加するが、制作半ばで意見が衝突しフィルはクビとなり、後任のジョン・マーシャル加入でなんとかアルバムは完成した。
フィル・ハワードは「Fifth」のA面、ジョン・マーシャルはB面にしか参加していないそうだ。

73年後半、今度はエルトン・ディーンが脱退し、サックス・キーボード担当のカール・ジェンキンスが加入した。
新加入のカールが主導した同年発表のアルバム「Six」はライブとスタジオ録音のダブルアルバムで、サウンドはさらにジャズ・フュージョン路線に向かっていった。
メンバーチェンジが激しいのは他のロックバンドでも全然あるあるな話だけど、新しく加入した人が次々と主導権を握るというのは不思議な運営だと思う。
元からいた人は「なんやアイツ新入りのクセにエラそうに」とかやりにくくなかったんだろうか?
名前のとおり柔軟性がある団体と言えなくもない気がするけど。

「Six」をリリースした後、ヒュー・ホッパーは脱退。
後任に元ニュークリアスのメンバーで6弦ベースを演奏したロイ・バビントンが加入した。
この期間はカール・ジェンキンスがリーダーとなりバンドを牽引する。
73年末にアルバム「Seven」をリリースした後、さらに元ニュークリアスのメンバーであるアラン・ホールズワースが加わり、「ソフト・マシーンはニュークリアス残党に乗っ取られた」と評する人も多いそうだ。

75年のアルバム「Bundles」はアランのギター演奏に重点が置かれたが、同年春にアランは脱退。(早い)
代わりにジョン・エザリッジが加入し、76年初めにはサックス奏者のアラン・ウェイクマン(イエスのリック・ウェイクマンのいとこ)が加入した。
この後マイク・ラトリッジが脱退し、結成時のオリジナルメンバーはいなくなった。
アルバム「Soft」発表後、ソフト・マシーンは5年ほど停滞。

停滞の間、OB組のヒュー・ホッパーとエルトン・ディーンは、他2名を伴いソフト・ヒープという分家っぽいバンドを結成。
その後メンバーを替えてソフト・ヘッドと改名し、ツアーやライブ盤発表なども行い、80年代まで断続的に活動。
10年間に4回のツアーを行いヨーロッパで合計25回のコンサートを開催した。

一方本家ソフト・マシーンは81年にアルバム「Land of Cockayne」をリリースする。
メンバーはカール・ジェンキンスとジョン・マーシャルのユニット状態で、アラン・ホールズワースやジャック・ブルースも参加したが、これがソフト・マシーンの実質的なラストアルバムとされている。
84年夏にカール&ジョンに4人のミュージシャンが加わり、ロンドンのロニー・スコッツ・ジャズ・クラブでの公演のためにソフト・マシーンとして短期間再結成している。

90年代以降は各メンバーがソフト・ウェア、ソフト・ワークス、ソフト・マウンテン、ソフト・バウンドなど、ソフトなんとかを名乗ったユニットで散発的に活動。
どれもバンド名をソフト・マシーンとしなかったのは、やはり権利関係などの問題があったためらしい。
なおこれらのユニットには日本人ミュージシャンの吉田達也やホッピー神山が参加したこともあったそうだ。

2003年にヒュー・ホッパー、エルトン・ディーン、ジョン・マーシャル、ジョン・エサリッジによりソフト・マシーン・レガシーの名でギグを開始する。
その後ソフト・マシーン・レガシーはメンバーを替えて3枚のアルバムをリリースした。
だがエルトン・ディーンが2006年に、ヒュー・ホッパーは2009年に他界する。
主要メンバーの死に直面したバンドの危機に旧友たちが相次いで呼応参加し、レガシーの活動を継続。
2010年10月にはオーストリアとドイツのステージを収録したライブ盤「Live Adventures」を発表。
2013年3月、レガシー名義でスタジオ盤「Burden of Proof」もリリースした。
アルバム制作の都度ソフト・マシーンとしての発表も検討されたが、様々な事情で結局レガシー名義となっている。

そして2015年秋、ジョン・マーシャル(D)、ジョン・エスリッジ(G)、ロイ・バビントン(B)、テオ・トラヴィス(K・Sax)が、ついにソフト・マシーンの名で演奏することを発表。
同年末にはバンド名を正式に「レガシー」なしとすることが発表され、これにより1984年以来初めてソフト・マシーンとして再活動することになった。
再生ソフト・マシーンは2015年から16年にかけてオランダやベルギーやイギリスでシリーズ公演を行った。
なおアラン・ホールズワースは、2017年4月15日にカリフォルニア州ビスタの自宅で心不全のため70歳で亡くなっている。

2018年秋、ソフト・マシーンは1981年の「Land of Cockayne」以来37年ぶりに新作スタジオ盤「Hidden Detail」をリリースした。
2020年3月には2018年から2019年にかけての大規模なワールドツアーが記録されたライブ盤「Live at The Baked Potato」も発表。

ソフト・マシーンは現在も活動中で、2023年6月には過去の名曲「Penny Hitch」「Joy of a Toy」を再収録した新作アルバム「Other Doors」をリリースした。
ジョン・マーシャルの最後の演奏が録音されており、ジョンはアルバム発表の3か月後にに亡くなっている。
現在のメンバーは、ジョン・エスリッジ(G)、テオ・トラヴィス(K・Sax)、フレッド・セロニアス・ベイカー(B)、アサフ・サーキス(D)。

以上がソフト・マシーンの長く複雑な歴史絵巻名勝負数え歌である。
いやー長い。
今回も知ってた話は一切なし。
67年結成で今も活動中というのも初めて知った。
ただファンの評価としてはバンドの歴史は81年までで実質終了していて、以降は同窓会が頻繁に行われてる状態と見られているようだ。
メンバーが頻繁に入れ替わりながら50年以上もバンドを続けている、という点ではアイアン・バタフライにも似ている気がする。
それだけみんなソフト・マシーンの屋号を大事に思って演奏しているということだろうか。

ロバート・ワイアット、ケヴィン・エアーズ、アラン・ホールズワースは、ロックを学習しているとどこかで必ず目にする名前だ。
でも知ってたのはホントに名前だけで、みんなソフト・マシーンに関わっていたことは今回初めて知った。(ド素人)
・・・と思ったら、実はその昔当BLOGでティアーズ・フォー・フィアーズを採り上げた際、ぷく先輩からロバート・ワイアットについて説明コメントを頂戴していました・・
すっかり忘れてました・・すいません先輩・・
アンディ・サマーズがポリス以前にアニマルズにいたことは知っていたが、ソフト・マシーンにも(短期間だが)在籍してたことは知らなかった。

アルバムごとにセンターで主導した人と音楽性が異なるという話だが、サイケ・プログレ・ジャズ・フュージョンというキーワードを並べても、正直どれも聴けそうな気がしない・・・
デビューアルバムから順に「Land of Cockayne」まで聴いてみるというのが正しい学習指導要領だとは思うが、2枚目あたりで挫折する可能性も高い。
そもそも初期のアルバムって日本でも入手可能なんだろうか・・?

というわけで、ソフト・マシーン。
壮大な歴史絵巻の基礎情報を薄く調べてはみましたが、この後どうしたらいいのか途方に暮れている心境です。(聴けよ)
自分のような万年素人はどれを聴いたらいいのか、入門編としてこの1枚より始めよというアルバムがあったら教えてください。

Softmachine

ソフト・マシーン Soft Machine

Third
ソフト・マシーン Third

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聴いてみた 第181回 パール・ジャム

21年目に突入した珍妙希少情弱BLOG、今日のお題はどういうわけかパール・ジャム
彼らのデビューアルバム「Ten」を聴いてみました。

「Ten」は1991年8月リリース。
前年にマザー・ラブ・ボーンというメタルっぽいバンドを解散させた後、ベーシストのジェフ・アメントとギタリストのストーン・ゴサードは、新しいギタリストのマイク・マクレディ、ドラムのマット・キャメロン、クリス・フリエルとともにリハーサルを開始。
この時録音したのは全てインストで、5曲入りのデモテープを作成した。
そのデモを聴いた元レッチリのジャック・アイアンズ(後にパール・ジャムに加入)が、友人のエディ・ヴェダーにもデモテープを聴かせた。
エディはデモにオリジナルの歌詞をまぜてボーカルをかぶせて録音。
それを聴いたメンバーはエディを気に入り、バンドに迎え入れることにした。
バンドはすぐにエピック・レコードと契約。
さらにデイブ・クルーセン(D)が加わり、バンド名はパール・ジャムとなった。
なおデイブは「Ten」発表前に脱退している。

「Ten」は91年にシアトルのスタジオで約1か月という短い期間で録音された。(あまり予算がなかったらしい)
ニルヴァーナの「Nevermind」よりも発表は先だったが、「Nevermind」は空前の大ヒットを記録する。
すると同期同郷芸人のパール・ジャムにも注目が集まり、2つのバンドが先頭でグランジというジャンルを牽引する形に発展。
全米の音楽業界の潮流を覆すほどの展開となり、結果的に「Ten」はじわじわチャートを上昇し最終的に全米2位の大ヒットアルバムとなった。
タイトル「Ten」は、バスケットボール選手のムーキー・ブレイロックの背番号10から来ているらしい。

Ten

グランジ2大巨頭のパール・ジャムの「Ten」。
果たしていまだにグランジ慣れしていない遅すぎな自分は、このアルバムを聴いて10点満点をとれるのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1.Once
2.Even Flow
3.Alive
4.Why Go
5.Black
6.Jeremy
7.Oceans
8.Porch
9.Garden
10.Deep
11.Release

うーん・・・・・
直感的に言って考え込む音楽ではある。
おおおいいね!とか、楽しいね!とか、気分が高揚する音はどこにもない。
まあそうでしょうねという感覚。
やはり自分が聴いてきた80年代産業ロックとは相当遠い位置の音楽である。

歌詞もどの曲もひたすら重く暗い。
全曲エディ・ヴェダーが書いてるそうだが、自身の過酷な経験や暗い世相や痛ましい事件など、とにかく「本来起きてほしくなかったこと」について語る内容。
ただ難しい言い回しや例えなどはあまり使っていないようで、訳詞を読んでもエディの傷んだ心の叫びであることは理解できる。

これ、発売当時に何の知識もなく聴いていたらまず定着しない音楽だと思う。
今聴いても定着する予感は全然ないけど。
ニルヴァーナの「Nevermind」は実際そうだったし。
たぶんグランジに熱狂する年下の人たちにうっかり「・・・これ、何がおもろいん?」と地雷な質問を漏らしてしまって軽蔑されていた・・いた気がする。
メタリカのブラック・アルバムでも感じたことだが、「これなら売れたのもわかる」ではなく「こういうのがそんなに売れたんだ・・」という感覚。
やはりエア・サプライやデボラ・ハリーで喜んでた自分が気安く聴ける音楽ではないのだ。

しかし。
30年以上経過はしてしまったが(遅すぎ)、今グランジに関する表層知識を自分なりに装備し、ニルヴァーナやカートとの関係なども学習して聴いてみると、かなり深い音楽であることがなんとなくわかる。
グランジなのでやはりちっとも明るくなく、退廃的な音楽というくくりではニルヴァーナに共通するものもあるだろうけど、ギターとベースとドラムとボーカルという誠実な構成だし、サウンドの根幹にブルースやハードロックのニオイは感じるのだ。
実際メンバーはツェッペリンキッスに影響を受けていると明かしている。

変拍子や転調で小細工したりムダに絶叫したり火を吹いたりサーベルで若手をどついたりという演出はなく、たまにバラードも混ぜたりの実直なロックアルバムだと思う。
そういう意味では恐れていたほどの拒絶感はなかった。
「Black」「Oceans」などメロディやサウンドが美しいと思う曲もある。

実績としては前述のとおり最終的に全米2位まで上昇する大ヒットとなったが、1位獲得を阻んだのがビリー・レイ・サイラスの「Some Gave All」だったそうだ。
「Some Gave All」は17週連続1位という驚異的な記録を立てており、「Ten」も時期をずらして発表してたら間違いなく1位をとれたはず・・と今も言われているとのこと。

ジャケットはピンクっぽい背景に集結するメンバーの手の写真。
どこか野球チームっぽい演出で、あまり予算のないアマチュアバンドのようなデザイン。
バンド名ロゴはジェフ・アメンが作ったそうだ。
だがその後の躍進を示唆するような若いアートでもあり、こういうところも実直なロックバンドの雰囲気が出ていてよいと思う。
比較ばかりで申し訳ないけど、「Nevermind」はジャケットも中身と全然関係なくメンバーもいない強烈なインパクトだが、「Ten」のジャケットにはそこまでの衝撃は感じない。

というわけで、パール・ジャム「Ten」。
好みかと言われると非常に微妙(なんだそれ)でしたが、勉強にはなったというおかしな感覚はあります。
パール・ジャムもアルバムごとの作風はかなり違うとのことなので、機会があれば他のアルバムも試してみようかと思います。

Ten

パール・ジャム Ten

Pearl-jam
パール・ジャム Pearl Jam

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聴いてない 第309回 ドナ・ルイス

21年目最初の聴いてないシリーズ、お題目はドナ・ルイス。
みなさんはこの人をご存じでしょうか?

ドナ・ルイス、唯一聴いているのは96年の大ヒットシングル「I Love You Always Forever」だけ。
プロモ・ビデオの音声をテープに録音したので、映像で姿は見てたはずだが顔はもう思い出せない。
同時に録音したのがロス・デル・リオの「Macarena(恋のマカレナ)」で、アメリカのチャートでは「I Love You Always Forever」はこの「恋のマカレナ」に首位を阻まれて最高2位だったとのこと。
他に知ってる情報は一切なく、聴いてない度は2。

そこでいつもの通りドナ・ルイスの情報を調査開始したところ、いきなり不思議な展開に。
どうも伝えられている生年月日が2パターンあるようなのだ。

まずウィキペディアでは英語版も日本語版も最初に「1973年7月6日生まれ」と書いてある。
さらに日本語版の略歴には「1973年、イギリス・ウェールズの首都カーディフに生まれる。」とある。
だが英語版を訳すと「生年月日については、相反する記述がある」となっている。
具体的には、上記の1973年8月6日生まれ説と、1957年から1966年の間に生まれた説があるようだ。
どういうこと?

もう少し英語版を読んでみると、「雑誌「People」の記事によれば、カレッジを卒業したのは1979年で、1996年11月時点で30代」となっている。
デビュー当時のインタビューでも本人がそう答えており、ロード・マネージャーと10年間結婚生活を送っていたとのこと。
この情報が正しければ、ドナ・ルイスは1957年から1966年の間に生まれたことになるのだ。
まあ日本でもたまに年齢サバ読み芸能人てのはいるけど、ここまで情報に開きがあるヒトも珍しい気がする。
57年から66年の間でも10年の幅があるし、57年生まれと73年生まれだと16年も違うんですけど・・・

とりあえず生年月日以外に疑惑はないようだ。
出身はウェールズのカーディフという都市で、父親はアマチュアのジャズピアニストという家庭に育つ。
ドナは6歳でピアノを始め、その後クラシックの作曲を学び、音楽学校卒業後いったんは音楽教職に就くが、プロのミュージシャンを目指してバーミンガムに移る。
ヨーロッパ各国でバンド活動をしながら、自宅で録音したデモテープをレコード会社に送っていた。

そのデモテープにあった「I Love You Always Forever」をアトランティック・レコードの社長だったダグ・モリスが気に入り、ドナに連絡を取るところからサクセスストーリーが始まった。
ダグ・モリスはドナをニューヨークに呼び寄せ、94年にアトランティックと契約させる。

96年にデビューシングル「I Love You Always Forever」をリリース。
これが大ヒットとなり、全英シングルチャートで5位を記録し14週間もチャートインした。
全米チャートでは前述のとおりロス・デル・リオの「Macarena」 に阻まれて9週連続で2位だった。
なおウェールズ出身の歌手が全米10位以内に入ったのは、83年にボニー・タイラーが歌った「Total Eclipse of the Heart(愛のかげり)」以来のことだったそうだ。
知らなかった・・・というかボニー・タイラーもウェールズ出身だったのね。
バリバリのアメリカンガールかと思ってました・・・

ドナ・ルイスのセカンドシングル「Without Love」も全英39位・全米41位のヒットとなった。
シングルのヒットに引っ張られてデビューアルバム「Now in a Minute」も全英52位を記録。
全米チャートでは31位となりプラチナ認定を受けた。

しかしドナの快進撃は残念ながらデビュー当時だけの結果に終わることになる。
97年の映画「アナスタシア」のサントラからのファーストシングルとして、リチャード・マークスとのデュエット「At the Beginning」がリリースされた。
(ドナもリチャードも作詞作曲はしておらず、他の人の作品)
全米45位と健闘はしたものの、以来ドナもリチャードも全米100位以内に入るヒット曲を出せておらず、現時点では2人にとって最後のヒット曲となっている。

ドナは98年に2枚目のアルバム「Blue Planet」を発表。
シングル「I Could Be The One」「Love Him」「Falling」もリリースし、音楽評論家からの評価は高かったが、実績は伴わずアルバムは全英全米とも100位に届かなかった。
(シングルは「I Could Be The One」がかろうじて全英99位)

がっかりしたアトランティックは契約を解除。
低迷の理由は方向性の転換にあったようだ。
ファンは当然ドナに「I Love You Always Forever」のような路線を期待したが、ドナ自身は「同じような曲を書かないといけないと思ってしまうのはダメ」と考えていたらしい。
なのでシングル3曲はどれも「I Love You Always Forever」とは全く曲調が異なるそうだ。

契約は打ち切られたが、自らの意志に正直でありたかったドナは、アコースティックにシフトしたアルバム「Be Still」を自主制作する。
商業的な成功にはならなかったが、本人は満足していたようだ。

2000年代に入ると、トランスやハウス・ミュージックのレコーディングにゲスト参加。
2008年に4枚目のアルバム「In the Pink」をリリース。
シングル「Shout」は映画「32A」のサウンドトラックにも収録されている。

2010年4月にサイド・プロジェクトの「シュート」のリードボーカルも務めた。
2012年にはプログレッシブ・ハウス・デュオのプロジェクト46やダブヴィジョンとコラボし、「You and I」をリリース。
2015年3月に約10年ぶりとなるアルバム「Brand New Day」を発表。
このアルバムはジャズの影響を受けたカバー集で、デビッド・ボウイの「Bring Me the Head of the Disco King」やフレッド・ニールの「Everybody's Talkin'」を収録。
また自身の「I Love You Always Forever」を異なるアレンジで再録音し収録した。

2016年にはオーストラリアの女性シンガーのベティ・フーが「I Love You Always Forever」をカバー。
昨年ドナもニック・ゲイルやノラ・エン・ピュアといったハウス系ミュージシャンと組んで「I Love You Always Forever」の別バージョンを発表している。

以上がドナ・ルイスの経歴だが、当然知ってた話は全くなし。
一発屋扱いとなっていることも知らなかった。
アコースティックやトランスやハウスといったジャンル横断の活動履歴だが、結局デビューの頃の雰囲気をなぞった曲は全く出していないとのこと。
意志の強いアーチストだとは思うが、やや残念な気もする。

唯一聴いた「I Love You Always Forever」だが、実はかなり好きな曲である。
深夜の番組で知ったこともあるが、この曲は夜聴くのに向いていると思う。
決して暗くはなくリズムよく流れるメロディなのだが、どこか儚げで霞がかったイメージのサウンドが非常によい。
声やビジュアルはシンディ・ローパーに少し似ていると感じる。

ドナ・ルイスがこの曲を書いたきっかけは、イギリスの小説「ラヴ・フォー・リディア」だったそうだ。
歌詞で繰り返す「I Love You Always Forever、Near and Far Closer Together」という部分は小説に書いてあった文章をそのまま採り入れており(いいのか?)、さらに曲のタイトルも最初は「リディア」だったとのこと。
さすがにタイトルまで拝借したらマズかろう・・・と思って変えたらしいけど、大ヒットデビュー曲が盗作騒動にならずに済んでよかったスね。

96年当時はもうFMエアチェックや新譜レンタルなどもやめていて、年末にMTVなどで放送されるヒット曲プロモ・ビデオ総集編みたいな特番だけを録画していた。
なので「恋のマカレナ」、クラプトンの「Change the World」やアラニス・モリセット「Ironic」、シェリル・クロウの「If it Makes You Happy」など96年のヒット曲もかろうじて覚えている状態。
その中でも「I Love You Always Forever」の独特の淡い雰囲気は気に入っていた。

だが。
今回久しぶりに「I Love You Always Forever」のプロモ・ビデオを見てみたが、驚くほど簡素でカネのかかってなさそうな映像だ。
映るのは室内で歌うモノトーンなドナの姿とたまに出てくるピアノだけで、他に誰も登場せず風景も演出もなし。
80年代のムダにきらびやかな映像とは対極的な作りである。
レコード会社側も偉い人の肝いりでデビューさせることにはなったけど、新人のプロモーションにそんなにお金はかけられなかっただろうし、まさかあんなに大ヒットするとは思ってなかったので・・といったところだろうか。

というわけで、ドナ・ルイス。
「I Love You Always Forever」は好きな曲なのでこれを頼りにアルバム鑑賞、と行きたいところですけど、どうやら彼女のキャリアの中ではこの曲だけ突出していて似たような雰囲気の曲もないらしいので、その点は不安ですが・・・
それでもドナ・ルイス学習には「Now in a Minute」は必須だとは思いますので、感想や聴き所など教えていただけたらと思います。

 

Now-in-a-minute
ドナ・ルイス Now in a Minute
Brand-new-day
ドナ・ルイス Brand New Day

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聴いてみた 第180回 ELO その3

70年代ELO中高年強化合宿補講シリーズ、3時限目は彼らのデビューアルバム「The Electric Light Orchestra」を聴いてみました。
先日聴いてみたブルー・オイスター・カルトとともに近所のユニオンで購入。

強化合宿とか言いながら、前回「オーロラの救世主」を聴いたのは3年も前である。
ELOについてはこの3年間特に危機感もなく過ごしてきた。
というか、もともとELOに危機感を覚えたことはないという面倒でやっかいな中高年リスナーである。(いいから聴けよ)

Elo

聴く前にELO結成とアルバム制作の過程を稚拙にSLシータップで睡眠学習。(意味不明)
ELOの源流はザ・ムーヴというバンド。
1965年末にロイ・ウッド、ベヴ・ベヴァンを含む5人組として結成され、4枚アルバムを発表した。
3枚目のアルバム制作前にジェフ・リンが加入し、その後セカンドネームのような愛称として「エレクトリック・ライト・オーケストラ」を使い始める。
ムーヴの最後のアルバム「Message From The Country」はELOデビューアルバムと同じメンバーで並行して作られていった。

アルバム「The Electric Light Orchestra」は71年12月にリリースされた。
ロイ・ウッド、ジェフ・リン、ベヴ・ベヴァンが全曲で演奏し、フレンチ・ホルンはビル・ハント、バイオリンをスティーブ・ウーラムが担当。
アメリカでは72年3月に別名「No Answer」というタイトルでリリースされている。
レコード会社の重役(秘書と書いているサイトもあり)がアルバムタイトルの電話連絡を誤解したため、という理由だそうです。

その後ムーヴを名乗ることをやめ、ELOとして活動することになる。
ELOは結成当時「ビートルズがエリナー・リグビーでやり残したこと(管弦楽の採り入れ)を達成する」というコンセプトを持っていたそうだ。
ロイ・ウッドはこの目標実現に向けて様々な管弦楽器を駆使してロックとクラシックの融合を試みた。
これに呼応したジェフ・リンが多数作曲を手がけ、試行錯誤を続けながらアルバムを完成させた。

ここから華麗で輝かしいELOの栄光の物語が始まる・・・というはずなのだが、ロイ・ウッドは次のアルバムを作ってる間に他のメンバーを連れて脱退した。
脱退理由は「マネージャーのドン・アーデンの働きがいまいち気に入らなかった」とされているが、その後ロイが作ったウィザードというバンドのマネージャーをドン・アーデンさんが務めているので、どうもウソっぽい。
たぶんジェフ・リンのことが気に入らなかったんだと思う。

目的意識高い系の若者たちで結成・制作された「The Electric Light Orchestra」。
果たしてロックとクラシックの融合とはどんな音がするのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1.10538 Overture(10538序曲)
この曲だけベスト盤で聴いていた。
イントロのぶびんびんぶびんびんぶびん・・と響く特徴的なギター、効果的に鳴るチェロやホルン。
出だしからELO(ジェフ・リン)のクラシックとビートルズ趣味が満載。
決して明るくもなく楽しそうでもない不思議なメロディだが、何度聴いても飽きない。
10538とは脱獄囚に付けられた番号を意味しているとのこと。
全英チャートで9位の実績を残している。

2.Look at Me Now
ロイの作品でボーカルもロイ。
ELO版「エリナー・リグビー」という評価があるようだが、わかる気がする。
チェロ主体の美しいサウンドだが、どこか詰めすぎで騒々しい印象。

3.Nellie Takes Her Bow
ジェフの歌うバラード。
前半はおだやかに進行するが、中盤の間奏はあまり調和がとれておらず、どの楽器も勝手な印象。
後半はやや力のこもったボーカルで、ラストは静かに終了。

4.The Battle of Marston Moor (July 2nd 1644)
なんとなくインドや中近東を思わせる音が続く歌劇調の曲。
メロディやサウンドに転換が多くプログレ色が強いので少し聴きづらい。
エンディングも散漫な印象。
パーカッション担当のベヴが演奏を嫌がったため、全楽器をロイが演奏しているそうだ。

5.First Movement (Jumping Biz)
LPではここからB面。
ロイ作のインストで、ロックのリズムにフラメンコ風ギターとストリングスという不思議な組み合わせ。
アルバム全体がそうだが、実験的でいろいろやってみようぜ感はある・・・のだが、聴いていて心地よいかというとそうでもない。

6.Mr. Radio
ジェフ・リンのビートルズ趣味全開の曲で、シングルカットもされた。
ジョン・レノンが歌ってもおかしくないようなメロディで、転換や逆回転など、あちこちにビートルズをなぞるサウンドが置かれている。
その後のELOの方向性が見えるような曲だと思う。
歌詞は妻に逃げられた男が一人ラジオに語りかけるという寂しい内容。

7.Manhattan Rumble (49th Street Massacre)
今度はジェフ作のプログレなインスト。
行進調のリズムが基盤だが、サウンドは楽しくなく各楽器はやはり好き勝手で、あまり調和はなく散らかった感じ。

8.Queen of the Hours
「Look at Me Now」に似た感じの曲だが、これはジェフの作品。
これも弦楽器主導の美しいサウンドなのだが、暗く重い曲調で不協和音も多く聴きにくい。

9.Whisper in the Night
ラストはロイが歌う壮大なバラード。
わりとシンプルなサウンドだが、ボーカルが少し遠くに聞こえるので弱い。
もっと前に出て歌ったらいいのに・・と思う。
間奏もやはり調和があまりとれておらず、残念な印象。

CDにはこの後ボーナストラックとして「The Battle of Marston Moor (July 2nd 1644)」と「10538 Overture」のテイク1が収録されている。
テイク1なので音が軽く粗い感じで、特に「10538 Overture」はボーカルも荒っぽい。
本番ではあちこち修正したんだなと感じる。

全体を通して感じるのは、曲調が少し暗いこと。
その後のELOにあるゴージャスでロマン輝くメロディやサウンドは、まだこのアルバムにはそれほど感じない。
安い表現だがやや粗削りな印象はある。
また各楽器やボーカルとコーラスの調和も、思ったほどとれていない気がする。
おそらくこのあたりはロイ・ウッドの志向が反映されているのだろう。
ロイと別れたジェフ・リンは、ロイの残した「ビートルズのやり残したこと」「ロックとクラシックの融合」とともに「さらに売れる音」を追求し、大ヒット曲とアルバムを量産していったと思われる。

ジャケットは洋館の部屋の中に置かれた電球の写真。
バンド名やタイトルをそのまま表したアートで、ヒプノシスによるデザインだそうだ。
発売当時はイケてたのかもしれないが、その後の物語調やSF映画風のジャケットに比べるとさすがに少し地味な印象。

というわけで、「The Electric Light Orchestra」。
後年の各名盤につながる音は感じましたが、やはりデビュー当時はまだ実験的で調和も盛りもやや弱かったことはわかりました。
70年代の未聴盤はあと4枚も残ってますが、次回は名盤とされる「Eldorado」「Out of the Blue」を選んでみようと思います。

 

 

 

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聴いてない 第308回 エイス・ワンダー

前回のトム・ウェイツからの振り幅が大きすぎて自分でも混乱しますが、今日のお題はエイス・ワンダー。
80年代洋楽沼にはまった元ナウいヤング(主に元少年)であれば、おそらくご存じであろう。

エイス・ワンダーが日本でもヒットしたのは、ボーカルがティーンエイジャーの金髪少女だったことが大きいと確信している。
その名はパッツィ・ケンジット。
聴いてない自分でも、当時から名前だけは知っていた。
「Stay With Me」がヒットしてた頃は18歳。
日本でもパッツィちゃん目当てに聴いていた少年は多かったはずである。

エイス・ワンダー、聴いたのは大ヒット曲「Stay With Me」と、「Open Your Mind」という曲。
アルバムは聴いてないので、聴いてない度は3。
パッツィとこの2曲以外に情報は持っておらず、そもそも何人組だったのかも知らない。
日本でも人気はあったんやろとは思っていたが、調べたら人気が出たのはむしろ本国イギリスよりも日本が先とのこと。
そうなの?
取り急ぎエイス・ワンダーについて調査開始。

エイス・ワンダーは1983年にロンドンで結成されたイギリスのポップ・バンド。
結成当時はスパイスというバンド名で、ギターのジェイミー・ケンシットとジェフ・ボーチャン、ベースのローレンス・ルイス、ドラムのジェイク・ウォルターズ、パーカッションがナイジェル・デイヴィスというメンバーだった。
ジェイミーは当時15歳だった妹のパッツィを、バンドのオーディションに参加させた。
パッツィはただの素人少女ではなく、幼少の頃から子役として雑誌やCMに出演しており、72年「For the Love of Ada」で映画デビューもしていた。
その後も「華麗なるギャツビー」でロバート・レッドフォードやミア・ファローと共演したり、「ハノーバー・ストリート 哀愁の街かど」でハリソン・フォードとも共演。
79年の日本映画「ベルサイユのばら」にオスカルの幼少時代役として出演もしている。

だが、ケンジット兄妹はかなり強烈な家庭に生まれ育っている。
母親はディオールの秘書で元モデルだったが、父親はギャングの側近でパッツィが生まれた時は刑務所に服役中。
父方の祖父も強盗や通貨偽造をはたらく犯罪者だった。
兄妹は幼少期を公営団地で過ごし、床にマットレスを敷いて寝ていたほど貧しかったそうだ。
父親と祖父が犯罪者という経歴だと、日本では芸能人として活躍するのは相当難しい気がするが、兄妹は逆境に関係なく活動を始めている。

84年後半にナイジェル・デイヴィスが脱退し、アレックス・ゴッドソンがバンドに加わった。
同時にバンド名をエイス・ワンダーと改名。
85年CBSレコードと契約し、ロンドンでレコーディングを開始。
その後ローレンス・ルイスとジェイク・ウォルターズも脱退。

ふつうの新人アーチストであれば、まずシングルが売れる→連動してアルバムも売れる→本国以外の国に進出、というのが通常の出世コースだが、エイス・ワンダーは全く異なる展開だったようだ。
まず85年にシングル「Stay with Me」をリリース。
本国イギリスではほとんど話題にならずチャートでも65位だったが、なぜかイタリアでは4位と大ヒット。
日本でも「Stay with Me」のプロモ・ビデオでミニスカートで歌うパッツィが人気を呼び、87年に日本限定盤ミニアルバム「Brilliant Dreams」も発売された。
自分が聴いた2曲はこの「Brilliant Dreams」に収録されている。

エイス・ワンダーとしての正式なスタジオアルバム「Fearless」は88年になってからようやく発表された。
シングル「I'm Not Scared(モンマルトルの森)」「Cross My Heart」がイギリスでヒットし、やっと本国でのブレイクを果たす。
しかし続くシングル「Baby Baby」は全英65位と失速。
頼みの日本向けに限定シングル「Use Me」をリリースするが、思うような実績を残せず、89年に解散。(早い)
再結成もしていないので、結果的に「Fearless」が唯一の公式アルバムとなっている。
自分みたいな素人リスナーでも2曲聴いてたくらいなので、本国ではもっと長く多く売れてたんやろと思ってたけど、なぜか日本で極端に売れたバンドなのだった。
全然知らなかった・・・

解散後パッツィは主に女優として活動。
89年「リーサル・ウェポン2 炎の約束」でメル・ギブソンと共演し、その後も多くの映画やテレビドラマに出演しているが、主役はあまりないそうだ。
クイズなどバラエティ番組の出演も多いとのこと。

なおパッツィは4度の結婚と離婚を経験していて、お相手は全員ミュージシャンである。
88年にビッグ・オーディオ・ダイナマイトのダン・ドノヴァンと結婚したが、91年に離婚。
翌年シンプル・マインズのジム・カーと結婚するも96年離婚。
翌年オアシスのリアム・ギャラガーと結婚し、息子にレノンと名付けたが、2000年にやっぱり離婚。
その後DJのジェレミー・ヒーリーと交際し、2007年に結婚を発表。
2009年に結婚式を挙げたものの2010年には別居していると報じられた。(早い)
あまり結婚に向いてない人のようだけど、離婚後も毎回すぐに次の夫が見つかってるので、男が放っておけないタイプの女性なんでしょうかね。

パッツィについては当時からプロモ・ビデオで目にしてはいたが、かわいいとは思ったが夢中になるようなことはなかった。
やはり自分にとってデボラ・ハリーを超える女性アーチストはいなかったのだ。
全然関係ないが、エイス・ワンダーのアルバム「Fearless」のプロデューサーには、ブロンディを長く手がけたマイク・チャップマンの名前がある。

ちなみに「Open Your Mind」は「サンスイ・ベストリクエスト」ではなく「クロスオーバー・イレブン」でエアチェックしている。
人気重視の「サンスイ・ベストリクエスト」に比べて「クロスオーバー・イレブン」は独自の選曲で格調高い番組というイメージだったが、エイス・ワンダーもオンエアしていたのだ。
今思うと不思議な気もするが、「Open Your Mind」は「Stay with Me」のようなチャラい曲ではなく、どこかフレンチポップのようなやや物憂げな雰囲気のある曲だったので、「クロスオーバー・イレブン」でも紹介されたのだと思う。

というわけで、エイス・ワンダー。
失礼ながら正直聴いておかねばならないという存在でもないと思われますし、唯一の公式アルバム「Fearless」を聴けば学習終了なんですけど、むしろ日本限定盤ミニアルバム「Brilliant Dreams」に少しだけ興味があります。
入手可能なんだろうか・・・?
鑑賞履歴も含め、ご存じの情報がありましたら教えていただけたらと思います。

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聴いてみた 第179回 ブルー・オイスター・カルト

今回聴いてみたのはニューヨークのハードロック・バンド、ブルー・オイスター・カルト。
彼らのデビューアルバム「Blue Oyster Cult」を近所のディスクユニオンで発作的に買ってみました。

ブルー・オイスター・カルトは「聴いてないシリーズ」でも採り上げていない。
理由は至極明快で、聴いてない以前に「何も知らない」からである。
聴いてないことを白状する前に聴いてみるという投げやり展開だが、わずかに期待したのは「アメリカ版ブラック・サバス」というアオリ。
サバスも1枚しか聴いてない(絶望)が、拒絶感や嫌悪感は全くなかったので、そこにかすかな望みを抱いたのだ。(安直)
そういう時はサバスをもう少し聴けよというお叱りが全国各地から来そうな予感はあるが、あまり深く考えずにブルー・オイスター・カルトを購入。

Blue-oyster-cult

聴く前に表層的にバンド並びにアルバム概要を学習。
ブルー・オイスター・カルトはニューヨーク州のロングアイランドで結成されたロックバンドである。
ヘヴィメタルのルーツとなったグループの一つとされる。(そうなの?)

バンドの原型は1967年にロングアイランドの学生寮で結成された「ソフト・ホワイト・アンダーベリー」という名のグループ。
メンバーは以下のみなさんであった。
・ドナルド "バック・ダーマ" ローザー(G)
・アルバート・ブーチャード(D)
・アラン・レイニア(K)
・レス・ブラウンスタイン(Vo)
・アンドリュー・ウィンターズ(B)

ロック評論家のサンディ・パールマンがバンドのジャムセッションを聴き、マネージャー兼クリエイティブ・パートナーになることを申し出て、バンド側も同意した。
サンディ・パールマンはレコード会社との契約を取り付け、また多くの曲の歌詞をバンドに提供。
バンドは68年にアルバム1枚分の楽曲を録音した。

しかしボーカルのレス・ブラウンスタインは69年春に脱退。
レスのボーカルで録音したアルバムはお蔵入りになってしまった。
後任ボーカルのエリック・ブルームは元々バンドの音響エンジニアとして採用された人物だった。
アラン・レイニアがたまたまエリックが昔歌っていた古いテープを聴く機会があり、エリックの才能に驚愕。
アランはソフト・ホワイト・アンダーベリーのリード・シンガーになるようエリックを説得した。

だがソフト・ホワイト・アンダーベリーは思ったほど人気が出なかったため、サンディ・パールマンはバンド名を次々と変えていく。
それって名前のせいか?という疑問はあるが、オアハカ、ストーク・フォレスト・グループ、サントス・シスターズなどいくつかの変遷を経て、最終的にブルー・オイスター・カルトに落ち着いた。
サンディによればブルー・オイスター・カルトとは「地球の歴史を監視するエイリアン組織」を意味するとのこと。
青い牡蠣が大好きな人・・・じゃなかったのね。

さらにサンディには名前以外にも作戦があった。
ヒッピーカルチャーが終焉を迎えていた当時、サンディは「これからはヘヴィメタルの時代が来る!」と確信し、メンバーに「ブラック・サバスのような音楽をやったらどうか」と提案。
早く売れたかったメンバーは提案を受け入れ、サバスを意識しながら最初のアルバムを録音。

こうして72年1月にデビューアルバム「Blue Oyster Cult(狂気への誘い)」はリリースされた。
メンバー全員が各曲のクレジットに偏りなくおおむね均等に割り振られ、アレンを除くメンバー全員がリードを歌っている。
歌詞は「カナダ騎馬警察に追われる逃亡者」「麻薬取引で殺された少年」「恋人から渡されるドラッグ」などダークな世界観に満ちたヤバめなサバスっぽい内容が多いらしい。
実績は全米172位。
・・・この実績はどういう評価になるの?
収録曲は今でもバンドがコンサートで定期的に演奏しているとのこと。
総合すると、初期のバンド運営やアルバム制作は基本的にマネージャーのサンディ・パールマン主導で進んでいたようだ。

やはり知ってた話はひとつもなし。
知ったところで安心材料が増えたわけでもないが、とにかく聴いてみることにした。
果たして自分はブルー・オイスター・カルトにサバスの香りを感じることができるでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1.Transmaniacon MC(悪魔同盟)
2.I'm On The Lamb But I Ain't No Sheep(赤と黒(お前は奴隷さ))
3.Then Came The Last Days OF May(5月の最後の日)
4.Stairway To The Stars(星への階段)
5.Before The Kiss, A Redcap(キスの前にはドラッグを)
6.Screams(夜の叫び)
7.She's As Beautiful As A Foot(汚れた天使)
8.Cities On Flame With Rock And Roll(炎の街)
9.Workshop Of The Telescopes(悪魔ののぞき眼鏡)
10.Redeemed(底なし地獄)

以下はボーナストラック。
11.Donovan's Monkey (ドノヴァンの猿)
12.What Is Quicksand (油断大敵)
13.A Fact About Sneakers (スニーカーのあれこれ)
14.Betty Lou's Got A New Pair Of Shoes (ベティの真新しい靴)

うーん・・
うーん・・・
うーん・・・・
あれ?
これアメリカ版サバスなの?
想像してた音とはかなり違う。

確かにギターやベースがサバスっぽい太い音を出してる曲もあるけど、サバスの特徴である「遅い・暗い・重い・怖い」を感じる曲は全然ない。
曲調は暗めのトーンが多いが、サバスのような粘り気はなく、リズムは比較的軽快で飛ばしている曲が多い。
勘違いかもしれないけど、ブルース基調の楽曲が多い気がする。
時々初期パープルやクリームを思わせる音がある。
ただ曲はわりとバラエティに富んでいて、多様な展開。
「Redeemed」は若干曲がったドゥービーみたいだし、ボーナストラックの「Betty Lou's Got A New Pair Of Shoes」などはプレスリーみたいに楽しそうな曲だ。
こういうの実はサバスもやってたりするんでしょうか?

強いて言えば「She's As Beautiful As A Foot」「Cities On Flame With Rock And Roll」はサバスの香りがわずかに漂う気がする。
この曲ならオジーのボーカルを乗せても違和感は少ないと思う。

メンバーがそれぞれボーカルを担当しているとのことだが、突出して聞かせるような特徴的な人はいない。
思ったよりもコーラスを多用していて、みんなで仲良く歌おうバンドだと感じる。
とにかくオジーのようなオカルトなヤバいボーカルはいなかった。

これも全然アテにならない感想だけど、聴いてて感じたのはグランド・ファンク・レイルロードグレイトフル・デッドを聴いた時の感覚である。
曲は別にイヤじゃないんだけど、なんか聴いても頭に残らないというか・・・
通して何度か繰り返し聴いてみたが、今のところ定着の予感はまだない。
ただこの1枚だけでブルー・オイスター・カルトから離れてしまうのももったいない気はするので(本当か?)、他の名盤も試してみる必要はありそうだ。(どのアーティストもそうだけど・・)

あちこちのサイトに書いてあるが、このアルバムについては「軽めのサバス」のようだ。
そう言われて聴いても「まあそうかもしれんけど、そうかなぁ?」という感想になる。
拒絶感や嫌悪感は全くないけど、繰り返し聴いても思ったほど印象に残らない、というのが正直なところ。
とりあえず自分の想定するヘヴィメタルの範疇にはないです。

ジャケットはバンドのシンボルであるハンガーの先っちょをひっくり返したような変形十字をあしらったモノクロの絵。
下半分に広がるのは墓場だろうか?
ヘヴィメタルというよりはどこかプログレっぽいアートだと思う。

というわけで、「Blue Oyster Cult(狂気への誘い)」。
残念ながらサバスに感じた高揚感や定着感は、このアルバムには感じられませんでした。
勝手にサバスの香りを探しに行った自分が間違ってたとは思いますが、どう聴いても全然別の音楽なので、そこは分けて考えたほうが良さそうです。
やはり先にサバス学習を進める必要があると感じた次第です。

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聴いてない 第307回 トム・ウェイツ

全く聴いてないけど名前だけはなぜか知ってるトム・ウェイツ。
このままトムの曲を知らずに余生を過ごすんやろと勝手に思っていたら、実はあちこちでトムの曲がカバーされていることを知ってあわてて採り上げた次第。

トム・ウェイツのオリジナル曲は全く聴いてないので、聴いてない度は1。
しかし他のアーチストがカバーした以下の曲は聴いている。
・エヴリシング・バット・ザ・ガール「Downtown Train」
ロッド・スチュワート「Downtown Train」
イーグルス「Ol’ 55」

どれもトム・ウェイツのカバーだと知らずに聴いていた。
あの名曲が実はトム・ウェイツの作品だったの?という、「コロッケは知ってるけど美川憲一を見たことがない」というZ世代っぽいケースが発覚し(デタラメ)、今回トム・ウェイツについて調査してみました。

アーチスト調査において一番頼りにしてるのがウィキペディア。
だが英語版を見たら昭和の会社忘年会の役員挨拶以上にぐったりするほど長い。
こんなの訳して読むだけでも大変なので、日本語版とchatGPTを使って簡潔?にアジェンダを作成。

トム・ウェイツはアメリカのシンガーソングライター・俳優である。
本名はトーマス・アラン・ウェイツ。
1949年12月7日ロサンゼルス郊外に生まれる。
若い頃はロイ・オービソン、ジェームス・ブラウン、ボブ・ディラン、ライトニン・ホプキンス、セロニアス・モンクなどにあこがれ、ロックではなくフォークやR&Bやジャズに夢中になっていた。
特にボブ・ディランについては歌詞を書き写し寝室の壁に貼り付けるなど、強く影響を受けていたようだ。

70年頃から歌手活動を開始。
サンディエゴのコーヒーハウスで行われていたフォークのライブで歌い始める。
その後ロサンゼルスで当時フランク・ザッパアリス・クーパーのマネジメントを担当していたハーブ・コーエンの目に留まり、レコーディング契約を結んだ。
最初のアルバムはゲフィンから73年に発売されたジャズ志向の「Closing Time」。
続く74年の「The Heart of Saturday Night」も、ナイトライフや貧困・犯罪といった内容を叙情的に歌ったものだった。

その後アメリカやヨーロッパにツアーに出るようになる。
フランク・ザッパのツアーにも同行したが観客の受けは良くなく、トムはザッパツアーの同行はイヤだったらしい。
またこの頃ニューヨークでベット・ミドラーと知り合い、親しくなった。

76年7月にアルバム「Small Change」を発表。
アルバムは好評を博し、ビルボードのトップ100にランクインした最初の作品(最高89位)となった。
トムは後に「自分の技術に完全に自信を持った瞬間だった」と述べている。

77年1月には初めての日本ツアーを行い10都市で公演。
アルバム「Foreign Affairs(異国の出来事)」はベット・ミドラーも参加した「I Never Talk to Strangers」が収録されたが、前作ほどには売れなかった。
この頃には当時デビュー前だったリッキー・リー・ジョーンズと交際を始めている。

78年アルバム「Blue Valentine」を発表。
トムはセッションの途中でジャズ志向の少ないサウンドを作成するためにミュージシャンを交代し、主な楽器をピアノからエレキギターに切り替えたそうだ。
このアルバムからはミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」の「Somewhere」がシングルとしてリリースされたが、チャートにはランクインできなかった。
なお裏ジャケットにはリッキー・リー・ジョーンズが写っている。

アルバム発表後もレコード会社エレクトラ・アサイラムはイーグルスやリンダ・ロンシュタットカーリー・サイモンクイーンなど、当然ながら稼げるアーチストばかり注力しており、会社のつれない対応にトムは次第に不満を抱くようになる。
トムは新しいバンドを結成し全米やヨーロッパやオーストラリアにツアーに出たが、売り上げにはあまり効果がなかった。

一方で恋人リッキー・リー・ジョーンズの音楽キャリアは軌道に乗りつつあった。
リッキーのシングル「Chuck E.'s In Love」は全米チャート4位の大ヒットとなったが、忙しくなったリッキーは次第にトムとの距離を開けるようになる。
さらにリッキーはヘロイン中毒になり、間もなく二人は破局を迎える。

80年に映画監督のフランシス・コッポラが、次回作「ワン・フロム・ザ・ハート」のサウンドトラック制作をトム・ウェイツに依頼。
トムはコッポラからの依頼に興奮したが、葛藤もあったらしい。
コッポラはサントラをトムの初期作品風な音楽で作ることを望んでいたため、トムはコッポラの要望がアーチストとしての「後退」であると感じたそうだ。
それでもトムはコッポラの希望に沿ってサウンドトラックの制作に取り組んだ。
このような働き方はトムにとって初めての経験であり、後に「最初はとても不安で、バケツ一杯の汗をかいた」と回想している。

サントラ収録曲は当初ベット・ミドラーとデュエットする予定だったが、ベットが参加できないことが判明。
そこでカントリー歌手クリスタル・ゲイルとトムがボーカルを務め、3曲はデュエットで録音された。
映画は82年に公開され、トムはトランペットを演奏する男として1シーンだけ出演している。
映画の評判は良くはなかったが、トムのサントラアルバムはアカデミー賞オリジナル音楽賞にノミネートされた。

このコッポラとの仕事が、その後のトムの躍進につながったと見る評論家も多い。
なおこのサントラ制作中、トムは映画編集アシスタントだったキャスリーン・ブレナンに出会い一目惚れ。
その後二人は結婚し、キャスリーンは曲作りやプロデュース、広報活動などで夫のサポートに力を発揮していくことになる。
キャスリーンの存在なしにトム・ウェイツの成功はなかった、と評する人も多いそうだ。

トムはエレクトラ・アサイラムとの契約上まだアルバムを作る義務があったため、コッポラのサントラ制作を中断してレコーディングした。
アルバムは80年9月に「Heartattack and Vine」としてリリースされ、全米96位・全豪36位を記録した。
シングル「Jersey Girl」は後にブルース・スプリングスティーンによってカバーされている。

アサイラムとの決別とキャスリーン・ブレナンとの出会いが、トム・ウェイツの方向性を大きく変えるターニングポイントだったようだ。
トムは自分自身を改革する時期が来たと決意し、キャスリーンの助言もふまえてトムを長くマネジメントしてきたハーブ・コーエンを解雇。
そして83年アイランド・レコードから「Swordfishtrombones」を発表。
ピアノをベースにした作曲やサックスを使ったジャズサウンドをやめ、珍しい楽器編成と抽象的で実験的なロックのアプローチへ移行した内容となっている。
評論家からは好評だったが、実績は全米167位という結果に終わった。
また同じ83年にはコッポラの映画「ランブル・フィッシュ」「アウトサイダーズ」「コットン・クラブ」に出演している。

85年に8枚目のアルバム「Rain Dogs」をリリースする。
このアルバムでトムはキース・リチャーズと初めて一緒にレコーディングしている。(キースは3曲ギターで参加)
トムは「キースなら理解してくれるだろうと確信していた。彼は素晴らしい声とスピリットを持っていた」とキースを絶賛。
収録曲「Downtown Train」は冒頭に述べたとおり、後にロッド・スチュワートやエヴリシング・バット・ザ・ガール、またボブ・シーガーやパティ・スミスもカバーしている。
またキースとの交流が、ストーンズのアルバム「Dirty Work」のゲスト参加(「Harlem Shuffle」でバックボーカルを担当)につながった。

その後トム・ウェイツは単に曲を書いて歌うだけでなく、映画やミュージカル用に曲やシナリオを作り、自らも俳優として出演し、構成や演出も手掛けるというマルチな活動が増えていく。
「Franks Wild Years」は87年にリリースされた10枚目のアルバムで、主に妻のキャスリーンと共同で同名の劇のために書いた曲が収録され、劇以外にも様々な映画やドラマに使用されている。
俳優としての活動も増えたが、どれも主役のヒーローではなく、どこかにダメージを負ったクセのある男を演じている。

87年9月のロイ・オービソンのロサンゼルス公演ではブルース・スプリングスティーンやエルビス・コステロジャクソン・ブラウンやKDラングとともにバックバンドに加わった。
このステージが縁で、コステロの89年のアルバム「Spike」にも参加。

92年8月アルバム「Bone Machine」をリリースし、グラミー賞の最優秀オルタナティブ・レコード賞を受賞。
曲の大半が妻キャスリーンとの共作であり、またラストの「That Feel」はキース・リチャーズとの共作共演である。
同年末にはミュージカル「アリス」の音楽を担当。

98年にはアイランド・レコードで発表した5枚のアルバムから23曲を集めた企画盤「Beautiful Maladies」をリリースした。
このアイランド期はトム・ウェイツにとって居心地のよい期間ではあったが、創設者で長年トムの良き理解者であったクリストファー・ブラックウェルが会社を去ったため、移籍を決意。
エピタフ・レコード傘下の小さなレーベルであるアンタイ・レコードと契約し、99年にアルバム「Mule Variations」をリリース。
このアルバムでトム・ウェイツは初めて全米チャートトップ30入りを果たし、ノルウェーでは1位、ベルギーでも2位を獲得した。

2000年に入ってもトム・ウェイツの創作意欲は衰えることなく精力的に活動。
歌劇「ヴォイツェック」のために曲を書き始め、また過去にミュージカル「アリス」用に作った曲の再録音を思いついた。
これらの曲はアルバム「Alice」「Blood Money」として2002年5月に同時にリリースされ、「Alice」は全米32位、「Blood Money」は33位を記録。
2004年、サクラメント郊外の廃校舎でピアノを使わずに録音した15枚目となるアルバム「Real Gone」を発売。
当時のブッシュ米大統領やイラク戦争に対する怒りを表現した曲を収録し、キャリアの中で最も政治色の濃いアルバムとして評価された。

2006年夏、トムは「Orphans」と題した南部と中西部の州を巡る短いツアーに出る。
ツアーには息子のケイシーも同行し父親と一緒に演奏した。
この年の11月には過去の未発表曲やレアなトラックに新曲を加えた54曲入り3枚組ボックスセット「Orphans: Brawlers, Bawlers & Bastards」を発売。
トムによれば中身は「夕食の準備中にストーブの後ろに落ちた曲」とのこと。

2011年3月、トム・ウェイツはロックの殿堂入りを果たした。
受賞式の際、トムは会場で受賞を称えた仲間を指して「彼らは、私にはヒット曲がなく一緒に仕事をするのが難しいと言っている・・・悪かったな!」と述べた。
同年10月に7年ぶりにアルバム「Bad as Me」をリリース。
キース・リチャーズが3曲参加し、タイトル曲「Bad as Me」がシングルとしてiTunesで配信された。
アルバムはグラミー賞の最優秀オルタナティブ・ミュージック・アルバム賞にノミネートされた。

2013年2月、コンピレーション・アルバム「Son of Rogue's Gallery: Pirate Ballads, Sea Songs & Chanteys」を発表。
このアルバムでもアメリカ民謡「Oh Shenandoah」でキース・リチャーズが参加。
5月にはオークランドで行われたローリング・ストーンズのライブにトム・ウェイツが登場し、ミック・ジャガーと「Little Red Rooster」をデュエットした。

ここ数年は音楽より俳優業や演劇に力を入れているようだ。
2018年にはNetflixで公開された西部劇アンソロジー映画「バスターのバラード」で主演を務め、ロンドンで上演された演劇「A Very Very Very Dark Matter」ではナレーションを担当した。
2021年の青春映画「リコリス・ピザ」では映画監督役で出演している。

今回も知ってた話は一切なし。
アジェンダとか言っときながら結局すんごく長くなってしまったが、簡単に済ますことのできないキャリアであった。
1行でまとめると「酔いどれ詩人」の異名を持ち、独自の幅広い音楽スタイルとキャラクター的なボーカルで知られ、「アメリカで最も優れたポストディランシンガーソングライターの一人」「ある意味ディラン以上にディラン」などと評されるのがトム・ウェイツである。
カルト的な人気でコアなファンに支えられ、同業者からは好評でカバーされることも多い上級者向けの歌手、ということで合ってますかね?

調べてみて思ったが、少なくとも柏村武昭が「サンスイ・ベストリクエスト」で中学生向けに紹介したり、「FMステーション」「ミュージックライフ」といった雑誌に頻繁に登場するタイプのアーチストではなさそうだ。
それでも交流のあった人物としては、ベット・ミドラーやキース・リチャーズなど自分でも知ってるミュージシャンが続々と出てくるので、そこからトム・ウェイツ情報を得ることができなかったのも残念な気がする。
ウィキペディアにも書いてあったが、トム・ウェイツはキャリアを通じてチャートでの成功はあまりなく、大きな商業的成功もなかったミュージシャンだそうだ。
大ヒットで毎週チャートを席巻したり毎晩深夜番組でプロモ・ビデオが流れたりがなかったので、自分みたいな偏差値の低いリスナーにまで情報が届かなかったと思われる。(毎度の言い訳)

今回いくつかトム・ウェイツの曲をYou Tubeで聴いてみたが、曲や時代によって声がかなり違うが、基本はうなるような野犬系の強烈がなり声である。
「Jersey Girl」なんてブルース・スプリングスティーン以上にがなり声であり、これでアルバム全曲歌われると個人的にはかなりキツイ感じがする。
顔も姿も少し怖いし・・・
もしコンビニのレジでトム・ウェイツがあの声で店員に文句言ってたら、自分は買い物をせずそのまま引き返すと思う。(失礼)

本人は自分の声を「サンドイッチの中の砂のようだ」と表現したそうだが、評論家からは「砂利のような声」「錆びた鋤の刃のような声」「浚渫船で黄泉の国を運ばれたような声(なんだよそれ)」「バーボンのタンクに浸し、燻製室に数ヶ月放置し、その後外に持ち出して車に轢かれたような声(なんだよそれ)」など、まあみんなホメてるつもりなんだろうけど、好き勝手な言われようである。
あの声こそがトム・ウェイツ最大の魅力なんだよと言われればその通りなんだろうけど、自分は理解できるまで相当時間がかかりそうです。

というわけで、トム・ウェイツ。
今回はいつにも増してハードルが相当高い予感がしますが、聴くとしたら曲だけは知ってる「Ol'55」「Downtown Train」を頼りに「Closing Time」「Rain Dogs」から恐る恐る始めてみるしかないか・・・?と思いますが、比較的初心者向けのアルバムなんてあるんでしょうか?
みなさまの鑑賞履歴とおすすめのアルバムを教えていただけたらと思います。

 

 

 

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聴いてない 第306回 UB40

自分の場合、長く洋楽を聴いてきたわりにほとんど手を出さなかったジャンルがいくつかある。
メタルやパンク、グランジやオルタナ、ブラックミュージックやダンス、ヒップホップやラップなどがそうだが(壊滅)、レゲエもそのひとつ。
ボブ・マーリーもジミー・クリフもサード・ワールドもスペシャルズもダイアナ・キングも全然聴いていないが、UB40ももちろん聴いていない。

UB40で聴いたことがあるのは「(I Can't Help) Falling in Love With You(好きにならずにいられない)」だけ。
MTVの音声をテープに録音したのだが、たまたま録音できただけで狙ったわけではない。
映像はもう覚えておらず、何人組なのかどこの国の人たちなのかも不明。
時々B-52'sと混同しそうになるが、その程度の認識。(どっちにも失礼)
聴いてない度は2である。

新NISAと同じくらいよくわかっていないUB40。
証券会社に適当なことを吹き込まれる前に、UB40について人生初の自主的学習を断行。(ネットで調べるだけ)

UB40は1978年12月にイギリスのバーミンガムで結成されたレゲエ&ポップバンドである。
・・・78年結成は少し驚き。
てっきり80年代後半くらいに登場したグループかと思ってました・・

結成当時のメンバーは以下のみなさんである。
アリ・キャンベル(Vo・G)
ロビン・キャンベル(G・Vo)
ジミー・ブラウン(D)
アール・ファルコナー (B)
ノーマン・ハッサン (Per・Vo)
ブライアン・トラヴァース(Sax)
ジミー・リン(K)
ヨミ・ババエミ(Per)

78年半ばにアリ・キャンベルがヨミとジミーとアールのリズム隊と共に、レゲエのリハーサルを始めたのがUB40の源流。
そこにノーマン・ハッサン、ブライアン・トラヴァースとジミー・リンが加わり、さらにアリの弟ロビンもバンドに参加した。
「UB40」という名前は「Unemployment Benefit, Form 40」の略で、イギリス政府の雇用局から失業手当を請求する人に発行される出席カードを意味するとのこと。

ネットでは「30年近く安定した不動のメンバー」などと紹介されていることが多いが、結成当初はメンバーチェンジが相次いでいる。
79年2月に初ライブを行ったが、直後にヨミ・ババエミとジミー・リンが脱退し、ミッキー・ヴァーチュー(K)が加入。
さらに1ヵ月後パーカッショニスト兼ボーカリストのアストロが加わることになった。

ブレイクのきっかけはクリッシー・ハインドだった。(意外・・)
クリッシーがたまたまパブでUB40の演奏を見て、プリテンダーズのサポートアクトに起用したことで人気が出たとのこと。
最初のシングル「King」/「Food for Thought」は、地元バーミンガムのインディーズレーベル「Graduate Records」から80年にリリースされ、全英シングルチャートで4位を記録した。
(アメリカでは未発表。ニュージーランドでは1位)

同年8月ファーストアルバム「Signing Off」を発表。
10月にはUKアルバム・チャートに登場し、最高2位まで上昇。
合計71週にわたりチャートにランクインし、最終的にプラチナ・アルバムを獲得。
ちなみにニュージーランドでは4位。
このバンドはニュージーランドで人気が高く、その後もアルバム・シングルとも何度も1位を獲得している。

その後はアメリカでの快進撃が始まる・・・のだが、全く知らない話だった。
83年にカバー曲集アルバム「Labour of Love」を発表。
ニール・ダイヤモンドのカバーである「Red Red Wine」が収録されており、83年に全英1位を記録。
さらになぜか5年後の88年に全米1位も獲得している。
その「Red Red Wine」ヒットにつられてアルバムも発表の5年後に全英1位・全米14位を記録した。
・・・全然知らない・・・83年も88年もいちおうそれなりにチャートは追ってたはずだが、UB40がそんなヒットを放っていたとは知らなかった。
柏村武昭は何をしていたのだろう?
あと5年後に再ヒットってのも理由がよくわからないが・・・

なおその5年の間にも他のヒット曲が出ている。
85年にはクリッシーとのデュエット曲「I Got You Babe」(ソニー&シェールのカバー)が全英・全豪およびアイルランドとニュージーランドで1位になっている。
・・・全然知らない・・・
東郷かおる子は何をしていたのだろう?

すっかり人気者になったUB40(受け売り)、88年6月にはロンドンで行われたネルソン・マンデラ70歳誕生日トリビュート・コンサートに、ダイアー・ストレイツ、ジョージ・マイケル、ホイットニー・ヒューストンビージーズなどの大物芸人たちとともに出演。
90年にロバート・パーマーとUB40はボブ・ディランのカバー「I'll Be Your Baby Tonight」をリリースした。
この曲はロバート・パーマーのアルバム「Don't Explain」に収録され、イギリスとアイルランドで6位、ニュージーランドでは1位を獲得。

そして93年にバンド史上最大のヒットシングルがリリースされた。
プレスリーの「(I Can't Help) Falling in Love With You」を、93年のアルバム「Promises and Lies」からのファースト・シングルとしてカバー。
するとアメリカ、オーストラリア、オーストリア、オランダ、ニュージーランド、イギリスを含む11カ国のチャートで1位という世界的なヒットとなった。
さらにシャロン・ストーン主演の映画「Sliver」のメインタイトルにも使用された。
厳密にはシングル盤と映画のサントラ盤では曲名表記やバージョンが少し異なっているそうだ。
またこの曲は97年の映画「スピード2 クルーズ・コントロール」にも使われ、UB40のメンバーも映画にゲスト出演している。

95年にはエディ・マーフィ主演映画「ヴァンパイア・イン・ブルックリン」のためにスティービー・ワンダーの「Superstition」をカバーした。
その後も毎年コンスタントにシングルやアルバムを発表。
ただしチャート上位を賑わすことは減っていき、本国イギリス以外での発売も行われなくなった。

2003年、UB40とユナイテッド・カラーズ・オブ・サウンドは「Swing Low, Sweet Chariot」をラグビー・ユニオン・チームのイングランド代表の公式アンセムとして録音。
その年のワールドカップでイングランドが優勝した後、イギリスのシングルチャートで15位を記録した。
しかし2005年のシングル「Bling Bling」は全英100位にも入らず、人気の高かったニュージーランドでも78位に終わり、以降現在まで各国チャートにランクインされた曲はない。

盤石と思われたUB40のメンバー間にも亀裂が生じ始める。
2008年1月、アリ・キャンベルがグループを脱退することが発表された。
当初はアリがソロプロジェクトに専念するためとされていたが、後にアリ本人が脱退の理由としてマネジメントとビジネス上の問題だと発言した。
さらにキーボードのミッキー・ヴァーチューもアリに続いて脱退してしまう。

この騒動の後で、バーミンガムの地元新聞は「マキシ・プリーストがUB40の新しいボーカルになり、バンドと共にボブ・マーリーの「I Shot the Sheriff」を録音か?」などと東スポっぽく報道した。
マキシ・プリーストは2007年のUB40のツアーにゲスト参加しており、マキシ登場でバーミンガムでの公演はソールドアウトになったので、ファンもこれはいよいよマキシがUB40加入か?と期待したようだ。
しかしバンドの広報はこれを否定。
「マキシはバンドと協力してレコーディングはしたが、アリ・キャンベルに代わってボーカルやりますという決定はなされてはいない」とのコメントを発表している。
その後BBCが「アリの代わりに兄のダンカンがバンドに参加し、マキシ・プリーストもツアーのラインアップを強化する」と報じた。
結果としてはBBCの報道のとおりとなり、マキシはUB40の正式メンバーとはならなかった。
なおダンカンを「アリの弟」と書いてるサイトもいくつかあったが、英語版ウィキペディアを確認したらダンカンは1958年生まれ、アリは59年生まれなので、「アリがダンカンの弟」というのが正しいようだ。

この騒動の中でアリ在籍の最後のアルバム「TwentyFourSeven」(10曲入り)を、イギリスの保守系タブロイド紙「The Mail on Sunday」の2008年5月4日号に無料で挿入する方法で発表する。
バンドの意向なのか事務所の思いつきなのかは不明だが、タダでUB40の新盤が手に入るということでこの号は300万部近く売れた。
このため6月21日に17曲入りのフルバージョンアルバムがふつうに発売されると、大手CD販売店のほとんどが反発し入荷や販売を拒否。
公式アルバムがそれまですべて全英アルバムチャートでトップ50に入っていたが、「TwentyFourSeven」は81位に終わり、50位に入らなかった初めてのアルバムとなってしまった。
そりゃそうでしょうよ、タダで配ったりするから・・・

2009年、UB40は新ボーカルにダンカン・キャンベルを迎えて初のニューアルバム「Labour of Love IV」をリリースした。
全14曲のカバー集で、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズの「The Tracks of My Tears」も収録されている。
ボーカル交代という大きな変化があったが、それなりに健闘し、2週間だけ全英チャートにランクインし、最高24位を記録した。

しかし2011年にバンド最大の危機が発生。
UB40のブライアン・トラヴァース、ジミー・ブラウン、テレンス・オズワルド、ノーマン・ハッサンと、元メンバーのアリ・キャンベルも破産を宣告された。
メンバーのうちロビンだけはなぜか破産宣告を免れたそうだ。
破産以前にバンドのレコード会社とマネジメント事務所を兼務していたDEPインターナショナルの破綻が明らかになっていたが、破綻に伴いメンバー間の対立もあり、アリ・キャンベルが脱退したのも対立が理由だった。
アリは「会社はいずれ破綻するぞ」とメンバーに警告していたはずだと語っている。

この破綻破産騒動は新旧メンバー間に深刻な対立を引き起こす。
バンドは2013年9月にニューアルバム「Getting Over the Storm」を発表。
成績は全英29位と微妙だったが、英国ツアーも行われ音楽ジャーナリストからは好評だった。
ただアリ・キャンベルは「オレは5年間ずっと、ダンカンがオレの歌を殺しているのを見ていた」と兄ダンカンやバンドを批判。
また同年11月にアストロが「バンドは舵のない船で、バンドとマネジメントの間にコミュニケーションが欠如している」と発言して脱退。
アルバムのカントリー寄りの方向性も気に入らなかったらしい。

その後アストロは2013年12月にロンドンのO2アリーナで行われたステージで、アリ・キャンベルとミッキー・ヴァーチューと共演。
翌年この元UB40トリオは新曲をレコーディングしたりツアーに出たりした。
このトリオに対してバンド側はUB40の名前の使用に関して訴訟を起こすというバンドあるあるな展開に。
訴えられたアリ・キャンベルは法廷外で和解することを選ばず、裁判所に行く用意があると発言した。
訴訟の結果は不明だが、かつてのメンバーたちは話し合いすらできないほど関係が悪化していたようだ。

ダンカン・キャンベルは2020年に脳卒中で倒れ、翌年弟アリと和解することなくUB40を引退。
後任ボーカルとして、同じバーミンガムのレゲエバンドKiokoのマット・ドイルが加入する。
この年にはサックスのブライアン・トラヴァースががんのため62歳で亡くなり、元メンバーのアストロも病気のため64歳で亡くなっている。
バンドは現在も活動中で、昨年マット・ドイルが歌う新曲も発表しているとのこと。

以上がUB40の信頼と実績と破綻の歴史である。
30年以上安定していたはずがまさかの破産と分裂という、月9ドラマのような展開。
もちろん知ってた話は全くない。
ヒット曲「Red Red Wine」「I Got You Babe」をYou Tubeで聴いてみたが、やはり聴いたことのない曲だった。

「(I Can't Help) Falling in Love With You(好きにならずにいられない)」はプレスリーのカバーであることは、聴いた時点でわかってはいた。
86年にコリー・ハートがこの曲をカバーしており、当時の雑誌でオリジナルがプレスリーで多くのミュージシャンによりカバーされているという情報を仕入れていたのだ。
プレスリーのカバーだとは知っていたが、特に気に入ったわけでもなく偶然録音できたので消さずに聴いていただけの状態。

特徴としては、「カバーが得意で独自のレゲエアレンジを行ってヒットさせる」バンドのようだ。
ベースはレゲエだがポップで親しみやすい音やアレンジが、ヨーロッパやアメリカでは受けたのだと思われる。
ただし歌詞はレゲエの精神や理念を継承しており、失業や人種差別などの問題を採り上げた社会派な内容が多いとのこと。

日本でもレゲエが好きな人はいるはずだが、やはりハードロック・メタル・プログレといったジャンルに比べ、ファンの数は少ないのではないかと思う。
レコード会社も事務所もUB40のメンバー本人たちも、日本をあまり魅力的で重要なマーケットだと思っていないのではないだろうか。
80年代当時、FM雑誌やミュージックライフでUB40の記事を見た記憶はないし、友人との会話に登場したこともない。
テレビやラジオでの露出もそうハデなものではなかったはずだ。
「好きにならずにいられない」がヒットしたのは93年だが、この頃はもうチャートをまじめに追うこともしなくなり、時々MTVを見ていた程度で、当時流行っていたと言えばホイットニー・ヒューストンやミート・ローフの印象しか残っていない。
自分が知らないだけで実はちゃんとUB40も日本で人気があったのかもしれないが・・・

というわけで、UB40。
聴くとしたら一番売れた「Promises and Lies」でいいとは思いますが、「Red Red Wine」収録の「Labour of Love」や、「I Got You Babe」が入った「Baggariddim」にも少しだけ興味はあります。
みなさまのUB40鑑賞履歴はいかがでしょうか?

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聴いてない 第305回 スレイヤー

アンスラックスを採り上げた時にこっそり告白していた聴いてないバンド、スレイヤー。
全く聴いてません。
1曲も知らず、アルバムジャケットも全く見覚えがない。
メンバーの名前や顔も知らず、そもそも何人組なのかもわからない。
スラッシュメタル四天王の中で、アンスラックスもスレイヤーも1曲も聴いていない。
聴いてない度は無双の1。

四天王のうちメタリカメガデスはアルバム1枚だけ聴いてみたが、定着は全くしていない。
アンスラックスは調べてみたものの聴く意欲も野心もわかないので、スレイヤーもそうなる可能性は高い。
やはりメタルは自分にとってはボルダリング並にそびえ立つ高き壁である。

それでも聴けそうな要素が少しでも見つかるなら・・というすがる思いで、スレイヤー調査開始。
スレイヤーは1981年にケリー・キング(G)、ジェフ・ハンネマン(G)、デイブ・ロンバード(D)、トム・アラヤ(Vo・B)によってロサンゼルス郊外のハンティントン・パークで結成された。
結成当初はドラゴンスレイヤーという名前で南カリフォルニアのクラブでアイアン・メイデンブラック・サバスジューダス・プリーストなどのカバー曲を演奏していた。
ドラゴンスレイヤーという名前の由来は、81年公開の映画のタイトルという噂があったが、ケリーは否定している。
またデイブによればスレイヤーに落ち着く前は「ウィングス・オブ・ファイヤー」を名乗るはずだったとのこと。

スレイヤーの特徴として、歌詞やアルバムジャケットアートで殺人犯・拷問・虐殺・組織犯罪・秘密結社・オカルティズム・テロ・反宗教・ファシズム・人種差別・戦争などのダークでヤバめなテーマを扱っている点が挙げられる。
このため曲やアルバムの発売禁止・延期、訴訟や宗教団体からの批判を度々引き起こしてきた。
しかしその音楽は非常に影響力があり、多くのバンドが音楽的にも視覚的にも影響を受けたと語っている。

なおバンドの象徴的なロゴをデザインしたのはデイブ・ロンバード。
殺人犯の視点でナイフでロゴをどのように彫り出すかを考えて作成したそうだが、デイブは左利きだったため、ロゴが右に傾いてしまったそうだ。

83年にスレイヤーはカリフォルニア州アナハイムのクラブで他のバンドの前座として演奏していたところ、メタル系レコード会社「メタル・ブレイド・レコーズ」を設立したばかりの音楽ジャーナリストのブライアン・スレーゲルの目に止まり、ブライアン氏はメタル・ブレイド・レコーズ企画アルバム用にオリジナル曲をレコーディングするよう依頼。
スレイヤーは快諾し、メタル・ブレイド・レコーズによるコンピレーションアルバム「METAL MASSACRE 3」に「Aggressive Perfector」という曲を提供。
「Aggressive Perfector」はリリースされるとすぐに話題となり、バンドはメタル・ブレイド・レコーズと契約した。

だが。
契約はしたものの無名のスレイヤーには予算がなかったため、デビューアルバム制作費用を自前で調達しなければならなかった。
呼吸療法士として働いていて稼ぎが比較的よかったトム・アラヤの貯金と、ケリーが父親から借りたお金をなんとか合わせ、83年末にデビューアルバム「Show No Mercy」がリリースされた。
バンドはアルバムのプロモーションのためカリフォルニアのクラブを回るツアーを開始。
しかしやはりカネのないスレイヤー、ツアーでもトムが持っていたカマロで借りたトレーラーを引きながら移動していたそうだ。
この苦労が実り、「Show No Mercy」の売り上げは最終的にアメリカ国内外で合計4万枚以上を達成した。

85年には、地獄とサタンをテーマに前作をさらにダークにしたアルバム「Hell Awaits」を発表。
非常にプログレッシブでより長く複雑な曲構成が特徴で、特にドイツで人気が高く、チャートで41位を記録した。

この後バンドは主にヒップホップをベースとしたレーベルであるデフ・ジャム・レコードとレコーディング契約し、サウンド面でも大きな転換を行う。
前作「Hell Awaits」の複雑なアレンジと長い曲のプログレ路線をやめ、ハードコア・パンクの影響を受けたクリアで短く速い楽曲を集めたアルバム「Reign in Blood」を作り上げた。
しかし曲の多くは死・反宗教・狂気・殺人・ナチスやホロコーストを扱った歌詞になっていた。
特にホロコーストの強制収容所とナチスの人体実験について書かれた「Angel of Death」があまりにも過激すぎるという理由で、コロンビアレコードはリリースを拒否。
結局アルバムは86年10月にゲフィン・レコードから発売された。
しかしゲフィンも炎上を危惧してか、リリース・スケジュールへの掲載は見送られ、またラジオでもほとんどオンエアされなかった。
これがかえって話題となり、アルバムは初めて全米チャートで94位を記録した。
94位という数字だけ見れば大したことないやんけに思えるが、当時スラッシュメタルという分野の音楽が100位以内にランクインすること自体スゴい話だったようだ。

この実績によりスレイヤーは様々なバンドとの共演やツアーが実現する。
しかしW.A.S.P.のアメリカ・ツアーに同行中、ドラマーのデイブ・ロンバートが「ギャラが安すぎる。家賃と光熱費を払ってほしい」という直球で切実な理由で脱退する。
バンドは臨時で他のドラマーを起用してツアーを続行。
その後デイブは奥さんに説得されて87年に復帰している。

88年7月、「Reign in Blood」のスピード感とは対照的にあえてテンポを落とし、よりメロディアスな歌を取り入れた4枚目のアルバム「South of Heaven」をリリースする。
ファンやメディアの評価は様々で、「不穏で力強い」「純粋に攻撃的な悪魔の戯言」などいろいろ言われたりもしたが、ビルボード200で初登場57位を記録し、ゴールドディスク認定を受けるなど、商業的には成功したアルバムとなった。

90年10月には5枚目のアルバム「Seasons in the Abyss」を発表。
ビルボード200で初登場44位、92年にはゴールドディスク認定と、前作を上回る実績を残した。
なおタイトル曲のためにエジプトのギザのピラミッドの前で撮影したバンド初のミュージック・ビデオが制作された。
・・・90年で初のビデオ制作って、遅くないスか?

奥さんに説得されてバンドに戻ったデイブ・ロンバートだったが、92年にまた脱退。
表向きの理由は「初めての子育て中でツアーには出たくない」というメタルっぽくないものだったが、脱退後にグリップ・インクという自分のバンドを結成してるので、スレイヤー内では人間関係でモメ事が発生していたと思われる。
スレイヤーは新ドラマーとしてポール・ボスタフを加入させた。

94年にポール加入後の最初のアルバム「Divine Intervention」をリリース。
このアルバムでもやっぱりトム・アラヤの殺人犯への興味が歌詞に力一杯反映され、ナチス高官のラインハルト・ハイドリヒや、アメリカの連続殺人犯で性犯罪者のジェフリー・ダーマーを歌っている。
95年にはバイオハザードとマシン・ヘッドを前座に迎えてワールドツアーを行い、モンスターズ・オブ・ロック・フェスティバルにも出演。

しかしこの頃にはすでにグランジの台頭でメタルの人気や売り上げが各地で脅かされる時代に突入していた。
あせったスレイヤーは96年にはパンクのカバーアルバム「Undisputed Attitude」を発表。
14曲中11曲を他のパンクバンドのカバーが占めるという構成だったが、ビルボード200で最高34位と健闘はしたもののファンの評価は今ひとつだった。

スレイヤーの苦悩は続く。
「Diabolus in Musica」(ラテン語で「音楽の中の悪魔」の意)は98年にリリースされ、ビルボード200で初登場31位、初週で46,000枚以上を売り上げた。
実績としてはまあまあではあったが、評論家の評価は厳しく、「チューニングダウンしたギター、濁ったコード構成、かき鳴らすビートなど、ニューメタルのダサい特徴を取り入れている」「多くの曲が同じような灰色のキーで、リズムのアイデアも疲れるほど同じ」などと酷評された。

次のアルバム「God Hates Us All」は偶然だが因縁めいた2001年9月11日にリリースされた。
その9月11日のアメリカ同時多発テロにより、参加する予定だったヨーロッパ・ツアー開催が危ぶまれた。
結局開催はしたもののイギリスでの日程は飛行機のフライト制限のために大幅に延期され、スレイヤーとクレイドル・オブ・フィルス以外の参加予定バンドがほとんど撤退してしまった。

さらにドラマーのポール・ボスタフが慢性的な肘の怪我のためプレイに支障をきたすようになり、2001年末にバンドを脱退。
ヨーロッパ・ツアーはその時点で継続中だったため、マネージャーはオリジナルのドラマーであるデイブ・ロンバードに連絡を取り、残りのツアーに参加を要請した。

次のスタジオアルバム「Christ Illusion」は当初2006年6月6日にリリースされる予定だった。
この6月6日はホラー映画「オーメン」でも使われたように、西洋各国ではヨハネの黙示録の「野獣の数」を連想させる恐ろしい日付とされている。
で、メタル業界ではこの日に照準を合わせて発表や告知を行うことが一種の宣伝効果としてよく使われていた手法であり、この年も同じアイデアを持っていたバンドがスレイヤー以外にも多数いたため、スレイヤーはリリース延期を決定。
アルバムは結局8月8日にリリースしたものの、やっぱり「6年目の6月6日」を記念して666枚限定でTシャツを発売するなど、なんか軸のブレた商売を展開。
「Christ Illusion」はビルボード200で初登場5位を記録し、初週で62,000枚以上を売り上げたので、日付はあんまし関係なかったようだ。
好成績の理由として、ファンクラブ会員向けに発売前に曲を試聴できるようにしていた点もあるらしい。
なお10月にはメタル・フェス「LOUD PARK 06」出演のため来日もしている。

しかし2008年頃からトム・アラヤはバンドの将来について不安を覚えるようになり、「先行きは不確かで、年を取ったらバンドを続けることは考えられない」などと定年前のサラリーマンみたいな発言をしている。
まあそうだろうなぁ。
じいさんになってもメタル続けるのもしんどいだろうし・・・
でもケリー・キングは「まだあと2枚くらいはアルバム出せるんじゃね?」と楽観的だったそうだ。

ケリーの前向き宣言どおり2009年には11枚目のアルバム「World Painted Blood(血塗ラレタ世界)」をリリース。
10月には再び来日して「LOUD PARK 09」に登場し単独公演を行った。

この頃からいわゆるBig4の興行や交流が始まる。
スレイヤーは2010年6月にメタリカとメガデスとアンスラックスとともに初めて公演(ポーランド・ブルガリア)を行った。
その後スレイヤーとメガデスは手を組み、アンスラックスとテスタメントをオープニング・アクトに迎えてアメリカツアーを行ったり、四天王がカリフォルニアでそろって演奏するなど楽しい興行が続いた。

しかし2011年初めにアクシデントが発生。
ジェフ・ハンネマンが右腕をクモに噛まれて壊死性筋膜炎を発症したため、一時ツアーを離脱。
4月にはなんとかツアーに戻り、カリフォルニアで行われたBig4のライブで、ジェフは「South of Heaven」と「Angel of Death」の2曲を演奏した。
だがこれがジェフのスレイヤーでの最後のライブパフォーマンスとなった。
2013年5月、ジェフは肝不全のため亡くなってしまう。
ジェフの後任としてゲイリー・ホルトが正式メンバーとなる。

またジェフの死去と前後してデイブ・ロンバートがツアー不参加を表明し、バンドはデイブを解雇。
5月にはポール・ボスタフが復帰する。

2015年9月、アルバム「Repentless」をリリース。
結果的にスレイヤー最後のアルバムとなったが、全米4位というバンド史上最高の成績を残した。
10月に「LOUD PARK 15」のヘッドライナーとして来日。
その後も「LOUD PARK」では常連となる。

2018年1月22日、スレイヤーはファイナルワールドツアーを行うと発表した。
バンドとしては引退する理由を公に表明したことはないが、背景にはトム・アラヤの健康上の問題や家族と過ごす時間を増やしたいと望んだことがあるようだ。
ツアーは5月から北米で始まり、11月から12月にかけてはヨーロッパを回ったツアーが続いた。

しかし年末にゲイリー・ホルトが病床の父親と一緒にいるため一時ツアーを離脱。
ヴァイオレンスと元マシーン・ヘッドのギタリスト、フィル・デンメルが彼の代役を務めた。
翌年もツアーは続き、南米やオーストラリアを巡り、2019年3月に幕張で開催された「DOWNLOAD JAPAN 2019」にも出演している。
結果的にスレイヤーとしてこれが最後の来日公演となった。
「ラスト・キャンペーン」と名付けられた北米ツアーの最終公演は2019年11月30日ロサンゼルス郊外のイングルウッドで行われ、スレイヤーは宣言どおり活動を停止した。

スレイヤーが宣言したのは解散・引退・活動停止のどれなのかニュアンスは微妙だが、律儀に停止したことはロックバンドとしては珍しいケースかもしれない。
プロレスラーの引退とロックバンドの解散は、紳士服販売店の閉店宣言と同じくらい撤回されてるのが実情だけど、今のところスレイヤーは停止したままである。

スレイヤーのメンバーも再結成についてはそれぞれが複雑で消極的な発言をしている。
ゲイリー・ホルトは、「もし再結成が実現するとしても、それは僕とは関係ない。もう終わったことだ」と述べている。
一方ケリー・キングはマシーン・ヘッドの結成30周年を祝福した際、「30年というのはかなりの偉業で、そこまで到達したバンドは多くない。俺たちスレイヤーはそうだったし、辞めるのが早すぎた」と悔やんだそうだ。
ケリーはその後のインタビューではBig4ライブの可能性は否定しなかったが、スレイヤーの再結成実現には疑問を示している。
各メンバーとも「他の連中がやりたいと言えばやらんでもない」とは言うものの、自らが再結成に向けて声かけをするつもりはない、という点では共通しているようだ。
まあおカネとかパワーバランスとかでなんかあったんでしょうね。

今回スレイヤーの曲をいくつかYou Tubeで聴いてみたが、音も見た目もメタルのイメージそのものだった。
ボーカルはがなり系でほとんど音程を取らず、楽器はどれもムダに早く太く重くキツい音を立てている。
たまたま聴いてみた曲がそうだっただけかもしれないが、申し訳ないけどどれも同じような曲に聞こえた。
ハーモニー重視のパワーバラードなんてあったりするんでしょうか?
パンクやったりグランジに対抗したりといろいろ試みてるそうですが、メタル香のやや薄いアルバムもあったりするんだろうか?

というわけで、スレイヤー。
正直感触としてはほぼ絶望的で、定着どころかアルバム1枚も通して聴ける気がしませんが、「まあそう言わずに初心者はコレから始めてみろや」という難易度の比較的低いアルバムがあるようでしたら、参考までに教えてください。

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聴いてない 第304回 シンニード・オコナー

先月56歳の若さでこの世を去ってしまったシンニード・オコナー。
全然聴いておらず、訃報を聞いてようやく採り上げるという毎度失礼な展開ですが・・・
なお名前の表記は以前からシニードやシネイドなどかなり揺れているようだが、今回は比較的なじみのあるシンニード・オコナーで統一します。
今はシネイドが正しい表記のようですけど、以前フィル・コリンズがインタビューで彼女の名を口にしてた時はやはり「シンニード・オコナー」と聞こえました。

シンニード・オコナー、ほとんど聴いていない。
大ヒット曲「Nothing Compares 2 U」は録音できなかったが、プロモ・ビデオを新婚旅行中にシドニーのホテルで見た記憶だけはある。
あとは92年に行われたボブ・ディランのデビュー30周年記念コンサートに出演したシーンを覚えている。
NHKテレビで放送されたので音声だけテープに録音したのだが、シンニード・オコナーはブーイングの中で突然ボブ・マーリーの「War」を歌い、その1曲だけで退場という強烈な映像だった。
なので聴いてない度は実質1である。

歌よりも行動や言動が注目されることが多かったシンニード・オコナー。
あらためてその生涯を調べてみました。

シンニード・オコナーは1966年12月8日、アイルランドの首都ダブリンに生まれた。
父親は弁護士だったが母親とは不仲で後に離婚する。
父親と後妻と暮らしていたシンニードは万引きや不登校などの問題行動を起こすようになり、教会が運営する保護施設に預けられた。

シンニードは84年半ばに学校を中退し、ダブリンで活動していたトン・トン・マクートというバンドに加入する。
バンドのサウンドはワールド・ミュージックに傾倒していたものだったが、周囲の関係者はバンドの魅力はシンニードの歌唱力とステージの印象にあると見抜いていた。
シンニード・オコナーは次第に業界から注目されるようになり、イギリスのエンサイン・レコードと契約する。
さらにU2とも関わりのあったファクトナ・オ・チェラーイがマネージャーに就いた。
しかしファクトナは問題発言も多くU2から解雇された人物で、その影響を受けてか、シンニードも政治問題について率直な意見を述べ、IRAの行動を擁護し、「U2の音楽は大げさだ」などとも発言。
後に「あの時は若すぎた」と撤回したが、デビュー当時からストレートな意見を言うタイプのミュージシャンだったようだ。
なおシンニードの母マリーは85年2月、車を運転中に凍結した道路でバスに衝突し、45歳で事故死している。

87年のファースト・アルバム「The Lion and the Cobra」は全英ウィークリーチャートで27位を記録。
ゴールド・レコードに輝き、グラミー賞で最優秀女性ロック・ボーカル・パフォーマンス賞にノミネートされた。
またシングル「Mandinka」はアメリカのカレッジ・ラジオで大ヒットし、翌88年に初めてアメリカのネットワークテレビに出演し「Mandinka」を歌った。

90年にセカンドアルバム「I Do Not Want What I Haven't Got(蒼い囁き)」を発表。
アルバムにはアダム・アンド・ザ・アンツとの共演で有名なマルコ・ピローニ、ザ・スミスのアンディ・ローク、ウォーターボーイズのスティーブ・ウィッカム、シンニードの最初の夫であるジョン・レイノルズが参加している。
シングルカットされたプリンスのカバー曲「Nothing Compares 2 U」が世界中で大ヒットし、アルバムは英米で1位を記録した。
ただしプリンスは自作の曲をシンニードがカバーしたことをあまりよく思っていなかったそうだ。
「Nothing Compares 2 U」のレコーディング後にプリンスから呼び出され、口論の末に殴り合いとなり、明け方にシンニードはプリンスの家から逃げ出したとのこと。

この頃から歌よりも言動や行動で注目を浴びることが増えていく。
アメリカ国内ではコンサートの前に国歌が流れる慣習があるが、シンニードはこれに反発し「国歌が流れたら演奏しない」と発言。
この発言が多くの批判を浴び、フランク・シナトラは「なんやねんアイツ。アメリカから出ていけや!尻蹴ったろか」と怒ったらしい。

1992年10月に自身最大の炎上事件が起こる。
シンニードはアメリカの深夜テレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」の生放送に出演。
持ち歌「Success Has Made A Failure Of Our Home」と「Scarlet Ribbons」を歌う予定だったが、2曲目に突然ボブ・マーリーの「War」(児童虐待に抗議する歌詞に変更)を歌い出した。
歌い終わるとカメラの前で当時のローマ法王・ヨハネ・パウロ2世の写真を破り捨てるという行動に出た。
当時カトリック教会内で行われていたとされる児童虐待に対する抗議の表明だった。

この放送の13日後、シンニードはニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで行われたボブ・ディランのデビュー30周年記念コンサートに出演。
しかしステージに登場したシンニードに対し、観客から大ブーイングが起こり、鳴り止まない状態に。
ディランの曲を歌う予定だったが、結局シンニードはブーイングの中でまたボブ・マーリーの「War」を歌ってステージを下りた。

1992年、シンニードは当時恋仲にあったピーター・ガブリエルのアルバム「Us」に参加。
ツアーにも同行し、ステージで歌を披露した。
93年のMTVビデオ・ミュージック・アワードにピーターが出演した際も、シンニードが寄り添っていたそうだ。
しかしピーターはシンニードの奇行や睡眠薬中毒などに悩まされ、次第に扱いが雑になり破局を迎えている。

こうした騒動の中でもシンニードは92年にアルバム「Am I Not Your Girl?(永遠の詩集)」を発表。
前作には及ばなかったものの、本国アイルランドでは8位、全英6位を記録している。
94年には「Universal Mother」をリリースし、アイルランドで5位を獲得した。

21世紀に入るとシンニードの音楽性は多様化していく。

2000年にアルバム「Faith and Courage」をリリースし、シングル「No Man's Woman」にはユーリズミックスのデイブ・スチュワートが参加。
2002年のアルバム「Sean-Nos Nua」ではアイルランド民謡を原語で歌った曲を収録した。

2003年にはデモ音源と未発表曲やライブ音源を収録した2枚組の企画盤アルバム「She Who Dwells in the Secret Place of the Most High Shall Abide Under the Shadow of the Almighty」をリリース。
この直後に線維筋痛症の治療のため引退を発表したが、結局2年ほど活動休止した後に復帰。
2005年にはピーター・ガブリエル、マッシヴ・アタック、エッジ、U2などが参加したコンピレーション・アルバム「Collaborations」がリリースされた。

シンニード・オコナーは音楽配信にも意欲的だった。
2005年のレゲエ・アルバム「Throw Down Your Arms」はLPとCDの他ダウンロード盤も発表。
2007年6月にリリースされたアルバム「Theology」に収録された 「If You Had a Vineyard」と「Jeremiah (Something Beautiful)」の2曲を、公式ウェブサイトから無料でダウンロードできるようにした。

2012年にアルバム「How About I Be Me (and You Be You)」をリリース。
このアルバムを引っ提げた大規模なツアーを計画したが、体調不良に見舞われ、ツアーと2012年の残りのすべての音楽活動がキャンセルされた。

2014年2月、ロマンチックなオリジナルのラブソングで構成された新アルバムのレコーディングを開始。
新アルバム「I'm Not Bossy, I'm the Boss」は同年8月にリリースされた。
2014年11月、シンニードはイギリスとアイルランドのミュージシャンとともにチャリティ・スーパーグループ「バンド・エイド30」に参加し、西アフリカのエボラウイルス流行への募金を集めるために「Do They Know It's Christmas? 」の新バージョンをレコーディングした。

この頃から健康面や私生活でのダメージが重なり、活動の間隔が少しずつ開き始める。
2019年9月、5年ぶりにライブ・パフォーマンスを行い、アイルランド室内管弦楽団と「Nothing Compares 2 U」を歌った。

2021年6月、シンニードは「もうツアーもプロモーションもしない。レコード・ビジネスの仕事からも引退することを発表します。私は年を取り、疲れました」と、再び音楽業界からの引退をツイッターで発信する。
ただし直後にまた発言を撤回し、予定されていた2022年のツアーを決行すると発表した。
これだけでも当時彼女は相当混乱していたことがわかるような状態だった。

この後おそらくシンニード・オコナーにとって生涯最大の過酷な悲劇が起こる。
2022年1月7日、息子シェーンが17歳の若さで自殺により亡くなってしまう。
シェーンは精神を病んでいて、自殺の危険があるため入院していたが、病院を脱走して結局自殺してしまったそうだ。
息子の自殺はシンニードに計り知れない衝撃をもたらし、シェーンの死から1週間後に彼女も命を絶つことを示唆するようなツイートを連続発信し、その後自らの意思で入院した。
シンニードは離婚によりシェーンが13歳の時に親権を失っており、以来孤独を感じて精神科に通ったり自殺したいと思ったと発言していた。

今年の2月、シンニードはスコットランドで作られたゲール語の古い歌をアレンジした「The Skye Boat Song」を発表。
ファンも彼女の活動再開に安堵していた矢先に、7月26日に家族により突然の訃報が伝えられた。
またロンドン警視庁の発表では、現地時間の7月26日午前11時頃に自宅で女性が倒れているとの通報があり、警察が現場でシンニード・オコナー56歳の死亡を確認したが、不審死としては扱っていないとのこと。
死後1か月ほど経つが、死因は今も明らかにされていない。

以上がシンニード・オコナーの波乱に満ちた生涯である。
知ってた話は全然ない。

とにかく幼少期から晩年まで、どんな言葉で形容しても追いつかないほど過酷な人生だったことがわかる。
母親からの虐待、施設入所・脱走、数々の反発発言と炎上、4度の離婚や親権喪失、度々の引退宣言と復活、長年の大麻中毒など。
また線維筋痛症や双極性障害、心的外傷後ストレス障害、境界性人格障害、広場恐怖症など多数の病歴もあったようで、これだとまともに生きることは困難だっただろうと思う。
数々の問題発言や行動で批判されてきたが、後に撤回したり訂正したりすることも多く、直情型の性格だったようだ。

お騒がせタイプの歌手ではあったが、アイルランドでは国民的な人気を誇っており、今月行われた葬儀にはボノやボブ・ゲルドフ、またアイルランドの大統領と首相が参列。
首相は「彼女の音楽は世界中で愛され、その才能は比類なきものだった」とコメントしている。
英米のミュージシャンからの評価も高く、彼女の死に対してレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーやスマッシング・パンプキンズのビリー・コーガン、R.E.M.のマイケル・スタイプなど多くのアーチストが追悼のメッセージを発信。
また死後から数日経った7月29日のフジロックに出演したフー・ファイターズアラニス・モリセットは、シンニードに捧げる特別パフォーマンスとしてデビューアルバム収録の「Mandinka」を演奏したそうだ。

「Nothing Compares 2 U」をYou Tubeで聴いてみたが、壮絶な人生とはあまり結びつかない素朴で感情豊かな歌声である。
オリジナルであるプリンス版も聴いてみたが、かなり雰囲気が違う。
シンニード・オコナーはオリジナルとは異なる独自の世界観を作っており、勝手な想像だがプリンスはシンニードの才能に嫉妬したんじゃないかとも思う。

というわけで、シンニード・オコナー。
気安く聴けるような感じではなくハードルの高いアーチストだと思いますが、今さらですけど聴くとしたらやはり「I Do Not Want What I Haven't Got(蒼い囁き)」は外せないでしょうね。
みなさまのシンニード評についてお聞かせいただけたらと思います。

 

 

 

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