聴いてない 第269回 シュガー・レイ

聴いてないアーチストは売るほどあっても、ネットで検索すれば経歴から人相から実績から賞罰までだいたいわかり、なんなら曲やプロモ・ビデオまでスマホで鑑賞できる世の中。
こんな便利な状況がますます聴いてないことの緊迫感を削いでいるが、それでもネットで得られた情報に驚愕することはまだ多い。
今日採り上げるシュガー・レイも、結構驚きのバンドである。

シュガー・レイ、「Every Morning」しか聴いておらず、聴いてない度は2。
メンバーの人数も名前も知らない。
「Every Morning」もたまたま聴いたNOW系オムニバスCDに入っていただけで、その後バンド情報を調べることも他の曲を聴くこともなく今に至る。

毎回アーチスト情報を調べて驚くことを繰り返しているが、シュガー・レイ検索で一番驚いたのが「初期はメタルバンド」「もともとは重いニューメタルスタイルの音楽を演奏していた」という点。
唯一聴いてる「Every Morning」は、サウンドだけならわりと乾いた軽い感じの曲であり、とてもメタル出身の人々が出す音とは思えない。
驚愕レベルで言えば、「テイラー・スウィフトがカントリーの人」と同じくらいである。(あまり伝わらない)

驚いたからと言ってメタルなシュガー・レイを聴きたくなったわけでもないが、変遷に若干の興味がわいたので、本日採り上げる次第。
ということでいつもの通りウィキペディアを最初に頼ってみたが、英語版と日本語版では文章量が相当違う。
もちろん英語版のほうが圧倒的に詳しい。
なのでまずは英語版をムリヤリ翻訳して調査開始。

シュガー・レイは1986年(ウィキペディア日本語版だと1992年)にカリフォルニア州ニューポートビーチで結成されたアメリカのロックバンド。
結成時のメンバーは、カリフォルニア州南部のオレンジ・カウンティで育った以下の4人。
・マーク・マッグラス(Vo・G)
・ロドニー・シェパード(G)
・マーフィー・カージス(B)
・スタン・フラッツァー(D)

源流はロドニー・シェパードとスタン・フラッツァーが組んでいたトーリーズというバンド。
その後、マーフィー・カージス、マーク・マッグラスが加わり、バンド名をシュリンキー・ディンクスに変更。
バンドはアトランティック・レコードと契約した後、名前をシュガー・レイに変えて95年「Lemonade and Brownies」でレコードデビュー。
これがメタル時代の作品ということになるが、いわゆる80年代の重金属厚底ブーツ鎖鎌系なメタルとは違い、ラウドロック・オルタナティブ・ラップなどの要素が織り込まれた「ニューメタル」とのこと。
あまりよくわかりませんけど・・

その後バンドに帯同していたクレイグ"DJホミサイド"ブロックが正式加入。
97年のシングル「Fly」はアメリカやカナダのラジオで盛んにオンエアされた。
これがバンド最初のヒットとなったが、CDシングルがアメリカで発売されなかったため、ビルボードのエアプレイチャートの1位を4週連続で保持。

同時にミクスチャー・ロック路線アルバム「Floored」を発表。
邦題が「シュガー・レイのアメリカン・ドリーム'97~爆走街道まっしぐら、俺らに勝る敵はナシ!」って、本当?
この不思議なタイトルのアルバムが、「Fly」の大ヒットにも牽引されて全米ウィークリーチャートで最高12位を記録する。
ただし「Fly」はゆるいレゲエ調の曲で、アルバム全体の雰囲気とは異なっており、バンドは「Fly」のヒットに活路を見出す。
スタイルをよりラジオ向きな優しいポップサウンドにシフトさせることを選択する。

方向転換については、メンバーやスタッフにはプレッシャーも迷いもなかったそうだ。
まずは「Every Morning」をシングルとして先にラジオでどんどん流し、1ヶ月後にアルバム「14:59」をリリース。
「Every Morning」の他にも「Live & Direct」「Someday」などアコースティックギターを使った曲を増やし、スティーブ・ミラー・バンドのカバー「Abracadabra」も収録。
バンドの狙いどおり「Every Morning」「Someday」は大ヒットし、アルバムも全米17位・300万枚の売り上げを記録した。
ということでバンド最大のヒットは偶発的なものではなく、戦略的に練られたものの結果だったようだ。

2001年のセルフタイトルアルバム「Sugar Ray」からは、シングル「When It's Over」が全米13位と健闘。
他にも「Answer the Phone」「Under the Sun」「Words to Me」も人気を博した。

2003年にはアルバム「In the Pursuit of Leisure(邦題:レジャーでGO! )」を発表。
シングル「Mr.Bartender(It's So Easy)」は、スウィートのヒット曲「Love Is Like Oxygen」と、ミッドナイト・スターのヒット曲「NoParking(On the DanceFloor)」のサンプリングを含む曲で、ビルボードのアダルトトップ40の20位に到達。
またジョー・ジャクソンの「Is She Really Going Out with Him?」をカバーするなど意欲的な作品だったが、残念ながらアルバムは135,000枚しか売れず、前作よりも実績は大幅にダウン。
この商業的失敗はバンドの活動や人間関係にも大きく影響し、次のアルバムのリリースまで6年かかるという事態になった。

2005年にベスト盤を発表したが、マーク・マッグラスはテレビ番組の仕事に専念し、バンド活動は停滞。
レコード会社からも契約を切られてしまう。
2009年にようやくインディーズレーベルからアルバム「Music for Cougars(邦題:復活の常夏番長)」がリリースされた。
レゲエやアコギなどメロディアスなサウンドを基調としたロックだが、没個性が進み、過去の作品ほどの実績を残せず、ビルボードチャートでも80位止まりで、復活とは言いがたく名前負けした結果に終わってしまう。
このアルバムを最後に、マーフィー・カージス、スタン・フラッツァー、クレイグ"DJホミサイド"ブロックはバンドを去る。

残ったマークとロドニーはサポートメンバーを募集してツアーにも出るなど、なんとかバンド活動は続けたものの、やはり脱退したメンバーとは訴訟沙汰でモメるという、ロックバンドあるあるな展開に。
2016年にはベーシストのクリスチャン・アタードとドラマーのディーン・バターワースが正式加入する。

シュガー・レイとして新作アルバムが発表されたのは前作から10年後の2019年。
マーク・マッグラスが出演するテレビ番組プロモーション用のセッションがきっかけで、新たに大手レコード会社と契約。
7月に新作「Little Yachty」を発表した。
ポップ、レゲエ、カリプソ、ソフトロックなど、ジャケットのイメージそのままの夏を思わせるさわやかなサウンドだそうだが、どれだけ売れたのかはよくわからない。

・・・毎度のことながらすみずみまで知らない話ばかり。
唯一聴いた「Every Morning」は、バンドの代表曲であることは間違いなさそうだが、初期はメタルで途中からレゲエやオルタナやラップやポップも採り入れるなど、想像以上に多角経営な音楽のようだ。

「Every Morning」は確かにゆるいリズムに乾いたサウンドが乗るお気楽な曲で、悪くない。
ボーカルもサビの部分にはしっかりバックコーラスを当てるなど、聴きやすい工夫がされていると感じる。
歌詞は相手の女にとって自分が本命ではなく浮気相手という状態の心情を綴るという、サウンドほどお気楽ではない内容。

今回公式サイトで他の曲もいくつか聴いてみた。
初期の「Mean Machine」は、メタルというよりパンクな感じで、かなり騒々しい。
感覚的にはXTCのデビューアルバムを聴いた時の印象に近い。
もしこの曲でシュガー・レイに出会っていたら、おそらくその後も受け付けなかった可能性が高い。
と言っても「Every Morning」で出会ってもこれしか聴いてないので、結果は変わりませんけど・・

「Fly」は気だるいレゲエのリズムにラップや印象的なギターが乗っており、「Mean Machine」とは確かに全然違う。
その後の「Every Morning」にも少し通じるところもあり、「Someday」「When It's Over」も似たような路線にあると感じる。

プロモ・ビデオを見て思ったが、シュガー・レイは映像制作にはあまり凝ってはいないようだ。
海やビーチなど夏をイメージした映像は多いが、基本は演奏歌唱風景であり、物語仕立てやCGや役者を使った演出などはあまりない。
90年代以降のプロモーション映像のトレンドがどんな様子だったのか詳しく知らないが、シュガー・レイの場合は楽曲そのままに気楽に見てくださいということなのだろうか。

調べていて誰もが感じるのが、日本語のタイトルやキャッチが異様にダサい点。
90年代後半以降なので、洋楽の邦題やアオリなんてだいぶ廃れていったはずが、「爆走街道まっしぐら」「レジャーでGO!」「復活の常夏番長」など、イケてたのかスベってたのかももはやわからないレベル。
日本のレコード会社も明らかに狙って付けてみた感がありありである。
これがどれくらい国内の売り上げに貢献したのか知らないけど、ファンの間ではどういう評価だったのだろうか。

というわけで、シュガー・レイ。
初期のメタル情報にも驚きましたけど、思った以上に多面的な楽曲と観念を持ってるバンドのようです。
少なくとも「14:59」は必修科目と思われますが、みなさまの鑑賞履歴はいかがでしょうか?

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聴いてない 第268回 ジョン・パー

年の初めに入院なんかしてしまったので、2021年最初の音楽記事を2月半ばになってやっと書いているSYUNJIといいます。
2021年のトップを飾るにふさわしいアーチストをムリヤリ見つけてきました。
80年代に洋楽を聴いていた方なら覚えておられるであろう、ジョン・パー。

もちろん聴いてないのだが、大ヒット曲「St. Elmo's Fire」の他に「Two Hearts」を聴いているので、自分にしては健闘してるほうだと思う。(エラくない)
聴いてない度は3。

ぼんやりとしか認識してなかったが、上記2曲はいずれも映画のテーマ曲である。
曲と同名の映画「セント・エルモス・ファイアー」は85年の作品で、エミリオ・エステベス、デミ・ムーア、ロブ・ロウ、アンドリュー・マッカーシーらが出演する青春ドラマ。
一方「Two Hearts」は映画「愛と栄光の旅立ち/アメリカン・デュエット(原題:American Anthem)」のテーマ曲に使われた。
ただしこの映画は日本では公開されていない。
プロレスラー馳浩の入場テーマ曲でもあるそうだ。
そうだっけ?
まあイントロから勇ましいファンファーレみたいな音で始まるので、レスラー入場曲としてもマッチはしてると思いますが・・

ジョン・パーについては名前とこの2曲しか知らず、当時の雑誌やテレビ・ラジオでジョン・パーの情報を得たこともないので、略歴・国籍・賞罰・顔立ち・資産形成など一切不明。
そこであらためてジョン・パーの愛と栄光の経歴を調査開始してみたが、ウィキペディア日本語版はがっかりするほど淡泊で、プロフィールなんかたった1行しかない。
そこでウィキペディア英語版や音楽関連BLOGからなんとかかき集めた情報が以下である。

ジョン・パーの本名はジョン・スティーブン・パー。
1952年にイギリス中西部にあるワークソップという街に生まれる。
音楽活動を始めたのは少年時代。
12歳で早くも同級生とともにサイレンスという名のバンドを結成。
15歳くらいでバンドはプロになり、ヨーロッパをツアーし始める。
背景はよくわからんけど、日本じゃ中学生くらいの年齢でプロになってツアーとは・・Foorin並みのすごい早熟さである。
ツアーメイトにダイアー・ストレイツがいたらしいが、詳細はよくわからない。

その後いくつかのバンドメンバーを経て、イギリスでクラブシンガーとして活動。
しかし歌手としてはなかなか売れず、仕方なく音楽関連会社でサラリーマンもしていたところ、1983年にミート・ローフがジョン・パーにアルバムのための曲を書くよう依頼。
さらにミート・ローフやザ・フーのツアーマネージャーであったジョン・ウルフと出会う。
この出会いがジョン・パーの運命を大きく変えていくことになる。

ジョン・ウルフは、停滞しつつあったザ・フーに代わる新しいスターの発掘に悩んでいた。
ジョン・パーを気に入ったウルフはソロデビューの話を持ちかけ、アメリカのレコード会社との契約が成立。
84年にファーストアルバム「John Parr」をリリースし、シングル「Naughty Naughty」が全米チャート23位を記録した。
ちなみに英語版ウィキペディアをGoogle翻訳して調べてるんですけど、「Naughty Naughty」は「いたずらいたずら」と翻訳されてます・・

その「いたずらいたずら」のヒットの結果、大物プロデューサーのデビッド・フォスターがジョン・パーに注目。
ジョン・パーは映画「セント・エルモス・ファイアー」の主題歌をデビッド・フォスターと共同で作ることになるのだが、映画ありきの曲作りではなく、カナダの車椅子マラソンのアスリート、リック・ハンセンのために曲を書いたとのこと。
・・・どういうこと?

もう少し詳しく調査。
車椅子アスリートのリック・ハンセンは85年から2年間をかけて、日本を含む世界一周を車椅子で行っている。
その旅に付けられた名前が、曲の副題でもある「Man in Motion」ツアーである。
リック・ハンセンの行動に感動したデビッド・フォスターは、リックのニュース映像をジョン・パーに何度も見せたそうだ。
ジョン・パーもリックの熱い想いを歌詞にすることでリックの支援を決意。
ジョンが詞を書き、デビッドが作曲。
さらに演奏にはデビッド・ペイチ、スティーブ・ポーカロ、スティーブ・ルカサーらTOTOのメンバーも参加して名曲「St. Elmo's Fire」が誕生した。

じゃあその「St. Elmo's Fire(セント・エルモの火)」ってのはそもそも何かというと、船のマストなどの先端で発生する静電気の発光現象のこと。
「セント・エルモ」は、船乗りの守護聖人エラスムスの名前で、エラスムスが祈ると船が落雷から守られたという言い伝えがある。
昔の船乗りのように嵐の中で行く先を示してくれる「セント・エルモの火」に願いを込める心境を、リック・ハンセンの行動に沿って歌詞にしている、ということのようだ。

では映画「セント・エルモス・ファイアー」はリック・ハンセンのドキュメンタリーなのかというとそうではなく、前述のとおりエミリオ・エステベスやデミ・ムーアらが演じる大学の同級生たちが、卒業後社会に出て苦労したり挫折したりみんなで突然集まって励ましあったり・・という青春映画。
劇中に出てくる店の名が「セント・エルモス・バー」で、また「セント・エルモの火」の例えで友人を励ますセリフもあるそうで、それがタイトルにもなっている。
なのでジョン・パーが作った歌詞の内容は、映画のストーリーとは関係ないそうです。
かなりわかりにくかったけど、そういうことだったのね。

ジョン・パーは「St. Elmo's Fire」の大ヒット後も、ティナ・ターナーのツアーに参加したり、ロジャー・ダルトリーとステージで競演したり、マリリン・マーティンとデュエットしたり曲を提供するなど、充実の80年代を過ごしていたようだ。

しかし90年以降は残念ながら実績は大幅に下降。
90年代にはアルバム4枚とシングル7枚を発表するが、いずれもチャートには登場していない。
97年以降はシングルも出ず、10年ほどの沈黙期間となる。

2006年にようやく活動再開。
「St. Elmo's Fire」を再度レコーディングし、81位ではあったが全英チャートにも登場した。
翌2007年にはブライアン・アダムスのツアーに参加。
またイングランドのサッカーチーム「ドンカスター・ローバーズ」のために特別に「Walking Out of the Darkness」という曲を作成。
この曲は試合開始時にチームがピッチに入る時に会場で流れるそうだ。
その後もブライアン・アダムスやジャーニーリチャード・マークスのツアーにゲストで参加する。

2011年6月1日に「Letter to America」という2枚組ライブ盤をオフィシャルサイト限定でリリース。
その後アメリカをツアーした。
2014年にはザ・フー、ジェフ・ベック、ミック・ハックネル、ケニー・ジョーンズらとともに、前立腺がんの調査や啓発活動を行っている団体が主催するチャリティ・イベント「ロック&ホースパワーコンサート」に参加。
2015年にはボニー・タイラーやケニー・ジョーンズ、コックニー・レベルと英国内外のステージで競演している。
2018年にはスタジオに戻り、通算7枚目のアルバム制作を開始したとある。

・・・やはり果てしなく知らない話だらけだった。
日本での知名度や人気はかなり低いようで、前述のとおりウィキペディア日本語版はスカスカだし、曲や馳浩は知っていても、ジョン・パーを覚えている人はかなり少ないと思われる。
実際に一発屋として紹介しているサイトもあった。
正直自分も失礼ながら一発屋風なミュージシャンかと思っていたが、実は多くのビッグネームとの交流や活動実績があり、本国では今も現役の歌手のようだ。

聴いた2曲に限っては、勇壮で力強く決して悪くない。
またリズムやサウンドに釣り合った歌唱力だと思う。
ジョン・パーの声質はそれほど透明度はないが、個人的にはロビン・ザンダーの声に似ていると感じる。

というわけで、ジョン・パー。
必修科目は「St. Elmo's Fire」ではあるもののこれはサントラ盤なので、ジョン・パー個人の作品としてはデビューアルバム「John Parr」や、「Two Hearts」収録の「Running the Endless Mile」を聴けばよいと思いますが、みなさまの鑑賞履歴はいかがでしょうか?

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聴いてない 第267回 トム・ペティ

首都圏でもウチだけという低偏差値BLOGを始めて17年になるが、17年間で一度も「聴いてない」とは認識していなかったのが、おさかな人間ことトム・ペティ。
よく考えたらやはり決して聴いているとは言えなかったのだ。
ちなみに「おさかな人間」とはその昔ミュージックライフでトム・ペティに付けられてたエゲツないアダ名である。
とにかくあの雑誌は編集側も読者もよってたかってエゲツないアダ名を勝手にアーチストに付けていたのだ。
スティーブン・タイラーは「チョウチンアンコウ」、スティーブ・ペリーは「みみずく」、フレディ・マーキュリーに至っては「底なし変態」である。
アダ名禁止の傾向にある今なら炎上間違いなしだったろう。

トム・ペティの作品はソロやバンドも含めいろいろあるが、聴いているのは以下のハートブレイカーズ名義アルバムである。
・Into The Great Wide Open
・She's The One
・Greatest Hits

オリジナル盤は「Into The Great Wide Open」だけで、「She's The One」は映画のサントラ盤である。
あとはベスト盤で満足してしまい、他の作品はソロも含め聴いていない。
トラベリング・ウィルベリーズは2枚とも聴いたが、トム・ペティはバンドの一員でしかない。
従って聴いてない度は4。

日本でどれだけ人気があったのか不明だが、82年のシングル「You Got Lucky」「Change of Heart」はほぼリアルタイムでエアチェックしている。
どちらも悪くなかったが、アルバム「Long After Dark」を聴くことはなかった。
当時ヒット曲を聴いてアルバム鑑賞にまで発展したのはジャーニー「Frontiers」、リック・スプリングフィールド「Success Hasn't Spoiled Me Yet」、メン・アット・ワーク「Business as Usual」など。
こうして並べるとやはり産業ロック優先で、申し訳ないが個人的にはトム・ペティの鑑賞意欲はあまりなかったのがわかる。
トラベリング・ウィルベリーズは特にトム・ペティが気になって聴いたわけではなく、バレバレ覆面バンドの話題性につられて聴いたような感じだった。

トム・ペティ&ハートブレイカーズのアルバムを初めて聴いたのは90年代になってからだ。
「Learning To Fly」をMTVから録音し、気に入ったので「Into The Great Wide Open」をレンタルで借りて聴いてみた。
これは今でも聴くことがある。
サウンドはトラベリング・ウィルベリーズのノリを継承しており、ジェフ・リンの音がすると感じる。
「She's The One」は15年くらい前にたまたまCDを廃盤セール会場で見つけて買ったものだ。
映画は見ておらず、今聴くことはほとんどない。

こういう状態でベスト盤を聴いてしまったので、以降他のアルバムにトライすることもなく惰性加齢。
残念ながらトムは2017年に亡くなってしまった。
中途半端に鑑賞し交友や周辺情報も中途半端に知っている程度で、危機感もなく過ごしてきたアーチストの代表例である。
そこであらためてトム・ペティの略歴を地味に調査。

トム・ペティは1950年10月20日、フロリダ州ゲインズビルに生まれた。
父親はセールスの仕事をしており、母親は税務署員で、本名はトーマス・アール・ペティ。
プレスリーやビートルズ、ストーンズに夢中になり、17歳で高校を中退し音楽活動を始める。
トムによれば父親は飲んだくれのバクチ好きで、学校やめて音楽にのめり込むトムとの仲はあまり良くなかったそうだ。

最初に組んだバンド「マッドクラッチ」ではベースを担当。
ゲインズビル時代の仲間ドン・フェルダーは、トムにギターを教えたのは自分だと主張しているが、トムの記憶ではドンからピアノを弾くよう勧められたとなっているらしい。
じゃあなぜベースだったんだろう?

マッドクラッチはゲインズビルではまあまあ人気が出たものの、シングル「Depot Street」はチャート入りもせず、バンドは解散する。
トム自身は一時期ソロとして活動するも、やっぱりマッドクラッチを続けたかったので、メンバーだったマイク・キャンベル(G)とベンモント・テンチ(K)と再び合流。
そこにロン・ブレア(B)とスタン・リンチ(D)が加わり、トム・ペティ&ハートブレイカーズを結成。

ハートブレイカーズのデビューアルバムはアメリカよりもイギリスで売れ、全英24位の成功を収めた。
シングル「American Girl」は全英40位、「Breakdown」は全米40位。
78年にはセカンド・アルバム「You're Gonna Get It!」を発表。
シングル「I Need to Know」「Listen to Her Heart」はそれほど売れなかったものの、アルバムは全米23位まで上昇した。

初のトップ10入りは、79年発表のアルバム「Damn the Torpedoes(破壊)」で、全米2位・200万枚の大ヒット。
シングル「Don't Do Me Like That」も全米10位、「Refugee」が15位を記録した。

81年にはマイク・キャンベルとの共作「Stop Draggin' My Heart Around(嘆きの天使)」をスティービー・ニックスに提供。(全米3位)
トム・ペティはスティービーとデュエットし、ハートブレイカーズは演奏・コーラスにも参加している。

好調のバンドは同年アルバム「Hard Promises」をリリース。
プラチナ・アルバムを獲得するヒットになり、全米5位を記録。
収録曲「Insider」では再びスティービー・ニックスとデュエットしている。
なおこのアルバムのレコーディング期間中、ジョン・レノンが同じスタジオに入る予定だった。
トムやメンバーはジョンに会うのを楽しみにしていたが、スタジオ入り予定日直前にジョンは殺害されたため、残念ながらジョンに会うことはかなわなかった。
メンバーはジョンへの哀悼の意を表してレコードに「WE LOVE YOU J.L.」とエッチングを施している。
これCDにはたぶんないですよね?

ここまで順調に来ていたハートブレイカーズだったが、ベーシストのロン・ブレアが脱退する。
後任のハウイー・エプスタインが加入し、82年にアルバム「Long After Dark」を発表。
自分が聴いた「You Got Lucky」「Change of Heart」はこれに収録されている。

85年にはライブ・エイドに参加し、フィラデルフィアのJFKスタジアムで「American Girl」「Refugee」など4曲を演奏。
同年アルバム「Southern Accents」をリリース。
アルバムは全米7位、デイブ・スチュワートがプロデュースしたシングル「Don't Come Around Here No More」は全米13位となった。

80年代後半からはビッグネームとの交友関係による活動や作品が世間を賑わせることになる。
86年にハートブレイカーズはディランとのツアーでアメリカ・カナダ・オーストラリア・日本など50都市をまわり、ディランとの共作「Jammin' Me」を含むアルバム「Let Me Up (I've Had Enough)」を発表。
88年にはジョージ・ハリスンの発案で結成された覆面バンド、トラベリング・ウィルベリーズにトム・ペティが参加する。

この頃の盛り上がりの延長?で、トム・ペティのソロアルバム「Full Moon Fever」にはジョージ・ハリスン、ジェフ・リン、ロイ・オービソンが参加している。
シングル「I Won't Back Down」のプロモビデオを見たことがあるが、リンゴ・スターが登場している・・のだが、実際にドラムを演奏したのはフィル・ジョーンズという人だそうだ。
初めて知った・・
リンゴがドラムを叩いてたんじゃなかったのね。

さらに91年にはトム・ペティ、マイク・キャンベル、ジェフ・リンの共同プロデュースによるハートブレイカーズ名義のアルバム「Into the Great Wide Open」をリリース。
収録曲の半分くらいがトムとジェフ・リンの共作で、全英3位・全米13位を記録した。
タイトル曲のビデオにはジョニー・デップ、ガブリエル・アンウォー、フェイ・ダナウェイが出演している。

94年にはスタン・リンチがハートブレイカーズから脱退し、スティーブ・フェローネが加入する。
スタンはジェフ・リンがトム・ペティやバンドの周辺で存在感を示すのが気に入らず、これが脱退の引き金になったとも言われているらしい。
同じ年にトム・ペティはリック・ルービンのプロデュースによるソロアルバム「Wildflowers」をワーナーから発表。
ソロではあるけど、ハートブレイカーズのメンバーが全曲ではないものの全員参加している。

96年、ハートブレイカーズはキャメロン・ディアスとジェニファー・アニストン主演の映画「She's The One(彼女は最高)」のサウンドトラックをリリースした。
冒頭で述べたとおりこのCDは持ってるんだが、持ってるだけで詳しくは知らない。
調べたらリンジー・バッキンガムやリンゴ・スターも参加しており、ベック(ジェフじゃないほう芸人)の「Asshole」のカバーも含まれていました。

2001年、「9.11」犠牲者のための慈善コンサートでハートブレイカーズとして「I Won't Back Down」を演奏。
翌2002年、コンサート・フォー・ジョージで「Taxman」「I Need You」「Handle with Care」をジェフ・リン、ジム・ケルトナーと共に演奏した。
同年にはロックの殿堂入りも果たす。

2006年、トム・ペティ&ハートブレイカーズは「30周年記念ツアー」の一環として、第5回ボナルー音楽芸術祭のヘッドライナーを務めた。
このステージには特別ゲストとしてスティービー・ニックス、パール・ジャム、オールマン・ブラザーズ・バンド、ブラック・クロウズも登場。
トム・ペティとスティービーによる「Stop Draggin' My Heart Around」も披露された。

2007年夏、トム・ペティは古いバンドメイトのトム・レドンとランドール・マーシュと再会。
ハートブレイカーズのベンモント・テンチとマイク・キャンベルも合流し、「マッドクラッチ」を再結成。
14曲を録音したアルバムも発表し、翌年にはマッドクラッチとしてカリフォルニアで短いツアーも行われた。

2008年夏、ハートブレイカーズはスティーブ・ウィンウッドをオープニングアクトとして北米をツアー。
ウィンウッドは一部のステージでハートブレイカーズと共にスペンサー・デイビス・グループやブラインド・フェイスのヒット曲を演奏することもあった。

バンドの12枚目のアルバム「Mojo」は2010年6月15日にリリースされ、全米2位を記録。
トム・ペティは「ブルースをベースにしており、いくつかの曲は雰囲気としてオールマン・ブラザーズのように聞こえると思う」と説明した。
そして2014年、13枚目のスタジオアルバム「Hypnotic Eye」を発表。
バンド史上初の全米1位を獲得した。
結果的に最後のスタジオ盤が最初の全米1位を記録したことになる。

2017年、ハートブレイカーズは40周年記念アメリカツアーに乗り出した。
ツアーは4月にオクラホマシティから始まり、9月ハリウッドボウルでの公演で終了。
最後の曲は「American Girl」だったが、この演奏がハートブレイカーズとして最後のショーとなる。

ハリウッドボウル公演終了からわずか1週間後の10月2日、トム・ペティはカリフォルニア州サンタモニカで死亡。
死因は違法なドラッグ過剰摂取などではなく、鎮静剤や抗うつ薬などの混合薬物毒性による。
肺気腫や膝・股関節の損傷など、体のあちこちに問題を抱えていたそうだ。
90年代後半にはヘロイン中毒に苦しんだ時期もあったようだが、治療には成功していたとのこと。

あらためて調べてみると、やはり知らない話だらけである。
最後のアルバムが全米1位だったのも初めて知ったし、ヘロイン中毒だったのも父親が飲んだくれのバクチ好きだったのも知らなかった。
なんかもう少しクリーンな人かと勝手に思ってたんですけど、そうでもなかったんスね。

感じたのはソロとバンドの垣根がかなりゆるい点。
ソロアルバムにはバンドメンバーがほぼ全員参加したり、ソロ曲をハートブレイカーズとして演奏したり、ソロとバンドの間を行き来しながら活動してきている。
バンドのフロントマンがソロ活動するのは珍しくないが、解散や分裂といった危機的状況には発展しなかったので、トムの統率力やバンド運営手腕が良かった、ということなのだろうか。

一方でレコード会社とは度々衝突し、レーベルを相手に訴訟で戦ったり、プロモーション方針に反発して音源をレーベルに引き渡すことを拒否したりしたそうだ。
こういう姿勢や理念が、メンバーにとっても頼もしいリーダーと映っていたんじゃないだろうか。
知り合いじゃないけど、多分トム・ペティは筋の通らないことが大嫌いな昭和な職人気質の人なんだと思う。

というわけで、トム・ペティ。
圧倒的歌唱力で観客を魅了・・という歌手ではないけど、曲も声もキライではないので、どの作品でも問題なく聴ける妙な自信はある。
聴くとすればソロ作品全て、ハートブレイカーズでは「Long After Dark」「Southern Accents」、あとは全米1位の「Hypnotic Eye」にも興味は湧いておりますが、みなさまのおすすめはどれになりますでしょうか?

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聴いてみた 第160回 ELO その2

70年代ELO中高年手遅れ補講シリーズ、2時限目は「A New World Record(オーロラの救世主)」を聴いてみました。
今は亡き渋谷のレコファンで最後の購入となった。

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「オーロラの救世主」は76年発表で、全英6位・全米5位を記録した名盤。
本国では「Livin' Thing」「Do Ya」「Telephone Line」「Rockaria!」がシングルカットされ、「Livin' Thing」が4位を記録。
メンバーはジェフ・リン(Vo・G)、ベヴ・ベヴァン(D)、リチャード・タンディー(K)、ケリー・グロウカット(B)、ミック・カミンスキー(Violin)、ヒュー・マクドウェル(Cello)、メルヴィン・ゲイル(Cello)。

なおウィキペディア日本語版には「アルバムタイトル「A New World Record」は、ミュンヘン・オリンピックのテレビ中継の「世界新記録」というテロップから取ったものである」と書いてある。
そうなの?
ミュンヘン・オリンピックは72年開催だよ。
76年だとモントリオールなんだけど・・

今回もシングル4曲がベスト盤「Light Years」にも収録されており、聴く前の恍惚と不安は全くない。
ヨギボーマックスに体をあずけながら余裕で聴いてみました。

・・・・・聴いてみた。

1. Tightrope
オープニングは壮大なイントロ。
本編は軽快なロックで、ギターを中心にストリングスやコーラスで飾り付けという教科書どおりの展開。
ラストはスピードを落として叙情的に終わる。

2. Telephone Line
この曲を聴くならやはり夜のほうがいいだろう。
電話のコール音、どこか遠く聞こえる歌声。
昔の「電話をかける」という体験があれば、この歌詞や演出に共感するのは当然だろうか。
思ったより複雑な構成だが、ストリングスを効果的に使った名バラード。

3. Rockaria! (哀愁のロッカリア)
ノリのいいロック。
タイトルはロックとアリアの融合を意味しているそうだ。
・・・アリアって何?
ウィキペディアによれば「叙情的、旋律的な特徴の強い独唱曲で、オペラ、オラトリオ、カンタータなどの中に含まれるものを指す」とある。
聞こえる女性の歌声はオペラ歌手のメアリー・トーマスのものだそうだ。
ここでもやはりストリングスとコーラスが効果的に使われており、ELOの方程式が確立されている。

4. Mission (A World Record)
初めて聴く曲。
哀愁を帯びたメロディだがそう単純でもなく、バックコーラスの音を無理めに震わせるなどややひねった構成とアレンジ。
人類の様子を観察してこいという指令を受けて地球にやってきた宇宙人のことを歌っているらしい。

5. So Fine
再び軽快なロック。
これも初めて聴くが、ギターがなんとなくドゥービー・ブラザーズっぽい音がする。
中盤の間奏がどこか民族音楽的。

6. Livin' Thing (オーロラの救世主)
タイトル曲がここで登場。
ただし原題はアルバム名と違い「Livin' Thing」で、いずれにしろオーロラも救世主も出てこない。
曲調は軽やかだが失恋を歌った悲しい内容。

7. Above the Clouds
この曲はギターがあまり聞こえず、ピアノとドラムを中心にストリングスとコーラスで構成されている。
ややはかなげなメロディで、盛り上がりもなく静かに終わる。

8. Do Ya
この曲はベスト盤ではなく、名曲寄せ集めオムニバス盤で聴いていた。
やや大げさで壮大な演奏に対してボーカルは意外とワイルド。
ザ・ムーブ時代の曲のセルフカバーだが、トッド・ラングレンやエース・フレーリーもカバーしたことがあるそうだ。

9. Shangri-La
ラストは「Telephone Line」にも似たゆったりとしたバラード。
歌詞に「ビートルズの「Hey Jude」のように彼女は去っていく」という部分がある。
歌が終わった後のアウトロが結構長い。

聴き終えた。
このアルバムもELOワールド全開で、サウンドは全て想定内の安心と信頼の1枚である。
毎回同じ感想になるが、若い頃に聴いていたら間違いなく愛聴盤になっていたはずだ。
ただし前回聴いた「Discovery」のほうが、やはり装飾は派手な印象。
ELOは来るべき80年代に向かってアルバムごとによりゴージャスになっていったのだろう。
評価は僅差だが、どちらかと言えばハデな「Discovery」のほうが楽しくていいと思う。

ELOは音作りが緻密で入念なことでも有名で、先に演奏とコーラスをとにかく完璧に完成させ、最後にボーカルを乗せるという方法をとっていたそうだ。
言われてみれば確かにどの曲においても、ガサツで適当な音や難な部分が存在しない。
プログレ出身というのが関係してるかどうかは知らないが、こういう精緻な土台の上に耳に心地よいクラシックやビートルズ風ポップな音が加われば、安心して聴けるのもわかる気がする。

ジャケットはその後のアルバムにも登場するELOのシンボルマークとも言える丸い宇宙船。
個人的には泉屋のクッキーのマークにも似てると思いますけど。
デザインを担当したのはジョン・コッシュという人だが、他にも数多くの名盤を手がけている。
調べてみて初めて知ったが、ビートルズの「Abbey Road」「Let It Be」、イーグルス「Hotel California」「The Long Run」、ストーンズでは「Get Yer Ya-Ya's Out!」、ザ・フーの「Who's Next」もジョン・コッシュのデザインだそうだ。

というわけで、「オーロラの救世主」。
軽い言い方になりますけど、この作品も非常に良かったです。
次は「Out of the Blue」を聴いてみようと思います。

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聴いてない 第266回 ニール・ダイヤモンド

華やかな洋楽の世界において、日本というマーケットはいったいどういう位置づけなのだろうか。
・・・なんだかテレビ東京の経済番組みたいな物言いですけど、日本に入ってくる過程でレコード会社や事務所や放送局や音楽出版社など様々なフィルターがかかって、ようやく自分みたいな極東の貧乏リスナーに作品が届く、という構図だと思われる。

で、その洋楽アーチストの中には日本での知名度や人気と、本国での評価実績に大幅な乖離が生じる人がいる。
過去に記事にした中ではミート・ローフビリー・レイ・サイラスなどがそうだろう。
今回採り上げるニール・ダイヤモンドも、おそらくそんな一人。
アメリカ国民の誰もが知る米国歌謡界の重鎮である。(知ったかぶり)
自分はもちろん聴いていないが、日本でもFMで頻繁にオンエアされたり雑誌の表紙を飾ったりといったことはそれほどなかったのではないかと思う。
まあジャンルとしてはロックでもなく、ミュージックライフやFMステーションに載るような歌手ではないと思われる。

しかし。
先に書いてしまうが、ウィキペディア日本語版の冒頭から仰天の記述。
「ビルボードチャートの歴史上で、最も成功したアダルト・コンテンポラリーのアーティストとして、エルトン・ジョンバーブラ・ストライサンドに次いで3位にランクされている。」
・・・本当ですか?
そんなにスゴイ人だったの?
いや、エルトン・ジョンもバーブラ・ストライサンドも聴いてはいないけど大物だという認識はありましたが、ニール・ダイヤモンドもそんなビッグな成功者だったとは・・・
すいません、全然知りませんでした。

あらためてニール・ダイヤモンド、ちっとも聴いておりません。
聴いたのは「Love On The Rocks」「Heartlight」の2曲だけ。
いずれも80年代の曲で、柏村武昭の案内により録音。
70年代のヒット曲は全く知らない。

衝撃の中、仕方なくニール・ダイヤモンド情報収集を続行。
なおGoogleだと「もしかして:ニール・ダイアモンド」として検索結果が表示されるようだが、ウチのBLOGではダイヤモンドで表記します。

ニール・ダイヤモンドは1941年ニューヨーク市ブルックリンで、ロシアとポーランドの移民の子孫であるユダヤ人の家庭に生まれる。
本名はニール・レスリー・ダイヤモンド・・って本当?
アメリカだと「ダイヤモンドさん」て普通にいるんでしょうか・・
日本人で言うと「金剛石よしお」という感じの名前でしょうか・・
ちなみにダイヤモンド・ユカイの本名は田所豊だそうです。(関係ない)

ブルックリンのエラスムス・ホール高校では合唱部に所属。
この時のメンバーにバーブラ・ストライサンドがいた。
16歳でギターを始め、曲を作るようになる。
ニューヨーク大学では医学や生物学を学び、フェンシングで奨学金を得るほどの多彩な学生だったが、一番やりたいのが音楽だと気づき、大胆にも大学を中退。

1960年に高校時代の友人ジャック・パッカーと組んでデュオグループ「ニール&ジャック」で音楽活動開始。
62年にはシングルを発表したが、全然売れずソロ歌手に転向。
シングル「At Night」をリリースしたもののやっぱり売れず、レコード会社との契約も解除され、その後作曲家として活動することになる。
この期間に作ったのがモンキーズが歌って大ヒットした「I'm a Believer」「A Little Bit Me, A Little Bit You(恋はちょっぴり)」である。
なのでニール・ダイヤモンドの最初の成功はシンガーではなくソングライターとしてのものだった。

66年に歌手としてレコード会社と契約。
シングル「Solitary Man」をリリースし、全米55位を記録した。
その後も全米6位の「Cherry, Cherry」や、22位「Kentucky Woman」などがヒットし、スターの座を確立。
ちなみに「Kentucky Woman」はディープ・パープルもカバーしてるそうです。

69年にはMCAレコードに移籍し「Sweet Caroline」がヒットする。
この曲はジョン・F・ケネディの長女キャロラインを歌ったもので、2013年から4年間駐日アメリカ大使を務めたあのキャロラインさんである。
2007年にキャロライン・ケネディ50歳の誕生日パーティが開かれたが、そこにゲストとしてニール・ダイヤモンドが登場。
その場でニールは「Sweet Caroline」は9歳のキャロラインを雑誌で見て作った曲だと初めて明かした・・と伝えられている。
ただその後どうもニールは発言を多少修正してるそうで、真相はいまいちよくわからない。
キャロラインのパーティーに招かれたんでつい盛ってしまった・・といった感じなのか?
なお理由はよくわからないが、この曲はアメリカやイギリスではスポーツの試合中に会場で流れたり観客が歌ったりすることが多いそうだ。
ボストン・レッドソックスの試合や、イギリスのサッカーやラグビーの試合でもよく起こる現象らしい。

1973年にコロムビア・レーベルに移籍。
そのコロムビアがニールに提示したのが、映画「かもめのジョナサン」の主題歌とサウンドトラックを作ることだった。
小説「かもめのジョナサン」は当時大ベストセラーとなっていたが、ニールはそのプレッシャーもあってか、どんな曲を書けばいいのか見当もつかず、一度は断ったらしい。
しかし考え直したニールは、かもめをイメージしながら「Be」「Skybird」などの曲を生み出し、サントラ盤「Jonathan Livingston Seagull」は全米2位を記録する大ヒットとなり、グラミー賞のサウンドトラック部門と主題歌賞を受賞した。
このコロムビア時代がニール・ダイヤモンドの絶頂期だったようで、73年から79年にかけてサントラを含む6枚のアルバム全てが全米トップ10以内という輝かしい実績。

1976年にはロビー・ロバートソンの強力な推しにより「ラスト・ワルツ」に出演。
ロビーとの共作「Dry Your Eyes」を歌った・・のだが、ロックを聴きに来ていた観客の反応はいまいちで、ニール・ダイヤモンドの登場はどうも場違いな感じだったそうだ。
ニールを呼んでスベらせたロビー・ロバートソンは、ザ・バンドの他のメンバーとの関係も悪くなり、83年のザ・バンド再結成にはロビーだけ不参加という展開。
ニール・ダイヤモンドを呼んだことだけが不仲の原因ではないだろうけど、呼ばれたニールも気の毒な話だ。

77年アルバム「I'm Glad You're Here With Me Tonight」をリリース。
収録曲「You Don't Bring Me Flowers」はバーブラ・ストライサンドがカバーしたが、その後デュエット版が録音され、翌年全米1位を獲得する大ヒットとなった。
このヒットによりニール・ダイヤモンドとバーブラ・ストライサンド主演の映画も企画されたが、実現はしなかった。

1980年には映画「The Jazz Singer」サントラ盤を発表。
これに自分が聴いた「Love On The Rocks」が収録されているが、全米2位の大ヒット曲だった。
全然知らなかった・・・これ日本でヒットしてましたっけ?
たまたま録音できただけですけど・・
なおサントラ盤も全米3位を記録しているそうだ。

82年にアルバムと同名シングル「Heartlight」をリリース。
シングルはニールとバート・バカラック、キャロル・ベイヤー・セイガーの共作である。
これも聴いているが、やっぱり全米3位という素晴らしい実績。(アルバムは9位)
こっちも知らなかった・・・(こればっか)
柏村武昭はニール・ダイヤモンドのファンだったんだろうか?
残念ながら以降ニール・ダイヤモンドの曲をエアチェックしたことはない。

全米チャートに登場したのは86年の「Headed for the Future」が今のところ最後の曲となっている。(最高53位)
その後もシングル曲はあまり売れなかったが、87年にはスーパーボウルで国歌を歌ったり、シングル曲「America」が88年の大統領選挙でマイケル・デュカキス候補の主題歌となったりした。

ただし活動は停滞していたわけではなく、90年代も企画盤を含む6枚のアルバムを発表している。
2005年にはリック・ルービンのプロデュースによるアルバム「12 Songs」をリリース。
ブライアン・ウィルソンがバックボーカルで参加しており、全米チャート4位まで上昇し、久々のトップ10入りを果たす。
さらに2008年のアルバム「Home Before Dark」は全米だけでなくイギリスとニュージーランドでも1位を獲得。
2014年にはアルバム「Melody Road」を発表。
デラックスエディションのボーナストラックにはビートルズの「Something」も収録されており、これも全米3位の好成績を残す。

しかし2018年にはパーキンソン病を患っていることを告白し、ツアーやコンサート活動から引退すると発表した。
予定されていたコンサートも中止されたが、レコーディング活動などは続けると表明しており、その後も時々チャリティーイベントなどにもサプライズで登場しているそうだ。

・・・毎度のことながら全く知らない話ばかりだった。
モンキーズやザ・バンドやバーブラ・ストライサンドを調べた時に引っかかりそうな話だが、正直ニール・ダイヤモンドにそんなに興味なかったんでスルーしてた可能性も高いです。すいません・・・

数字で見ると、この人はシングルよりもアルバムの実績のほうが良いようだ。
全米チャートに限るとシングルのトップ10入りは69~82年に集中しているが、アルバムのトップ10は70年代から2010年代までコンスタントに記録している。

聴いた2曲については、「Love On The Rocks」はやや重めのバラードで、「Heartlight」のほうがおだやかで味わい深い感じ。
好みかと言われると微妙だが、実力派シンガーであることは間違いない。
他の初めて聴く曲でもたぶんすぐにニール・ダイヤモンドだとわかると思う。
声質から勝手にジョー・コッカーとかボブ・シーガーみたいなひげ面熊顔の人かと想像してたんですけど、若い頃からあまりひげ面ではないですね。

というわけで、ニール・ダイヤモンド。
アメリカを代表する大スターについて、あまりの情弱ぶりに身の縮む思いですが、最低限これは聴いておくべきという作品があればご教示ください。

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聴いてみた 第159回 メタリカ

今回聴いてみたのは緊張のメタリカ
バンドと同じ名前のアルバム「Metallica」、通称「ブラック・アルバム」を聴いてみました。
閉店セールにわく渋谷レコファンで衝動的に500円くらいで購入。

メタリカを聴いてないことを世界中に白状してから14年も経過している。
個人的にはやたらとある聴いてない音楽のひとつとして採り上げたつもりだったが、いただいたコメントが意外にもかなりストレートなご意見ばかりで、安いBLOGの歴史の中でも結構揺れた緊張の回として印象に残っている。
印象には残ったけど、聴く意欲はあまり湧かず、結局14年間全く手つかずのままだった。
決してメタリカだけ避けたわけではなく、ボブ・ディランサバスバリー・マニロウも全然聴いてこなかった点では特に変わらない。(必死の言い訳)

ちなみに14年前に「メタル+アメリカだからメタリカ」などと適当なことを書いてたが、今ネットで調べてもそんな説は見つからない。
どうやらガセだったようです。
自分もどこで仕入れたのか覚えていない。
メタリカという単語自体がラテン語で金属を表すそうで、これがバンド名の由来とのこと。
重ね重ねすいません・・

Metallica

「ブラック・アルバム」は1991年発表で、メタリカ5作目のアルバム。
メンバーは以下の方々である。
・ジェームス・ヘットフィールド(G・Vo)
・カーク・ハメット (G)
・ジェイソン・ニューステッド (B)
・ラーズ・ウルリッヒ (D)

実績は今さら説明する必要もないが、全米だけで1600万枚超、世界では3100万枚を売り上げており、バンド史上はもとより世界史上でもランキング20位には入るという鬼レコードである。
全米・全英チャートは当然、カナダ・オーストラリア・スイス・ニュージーランド・ドイツでも1位を獲得というすさまじい成績を残している。
簡単に言うと当時のアメリカ国民のお宅を勝手に次々と訪問したらどの家にも必ずあったアルバム、という感じだろうか。
少なくともアメリカではあのビートルズの「Beatles 1」よりも売れたアルバムなのだ。

ちなみに14年前にも白状しているが、自分は奇跡的にこのアルバムの収録曲「Nothing Else Matters」をリアルタイムで聴いている。
逆に言えばこの曲だけがかすかな頼り。
たとえて言えば友達が誰もいない高校の入学式で「確か幼稚園がいっしょだったヤツ」を見つけて少しだけ安心してる・・・ような心境。(伝わらない)
「Nothing Else Matters」も決して好みに合うとも言えないのだが、とにかくこの曲を軸にメタリカの世界観を味わってみることにした。

・・・・・聴いてみた。

1.Enter Sandman
2.Sad But True
3.Holier Than Thou
4.The Unforgiven
5.Wherever I May Roam
6.Don't Tread on Me
7.Through the Never
8.Nothing Else Matters
9.Of Wolf and Man
10.The God That Failed
11.My Friend of Misery
12.The Struggle Within

サウンドは大枠ではメタルのイメージどおりでほぼ想定内の音だ。
構成や進行はメガデスと同様に激しいリズムと技巧的ギターが中心。
カタカナで書くと安い響きだが、ヘビメタそのものの楽曲がぎっしり並んでいる。
思ったほど金属臭は強くはなく、また早弾きや絶叫やスピード競争といった演出もさほどない、誠実と信頼のアルバム。

最大のヒット曲である「Enter Sandman」やパワープレイの「Holier Than Thou」などはストレートでいいと思う。
また「The Unforgiven」「Nothing Else Matters」は美しく悲しき壮大なバラード。
このあたり緩急硬軟動静のバランスがほどよく取れており、曲順や構成に相当緻密な計算がはたらいていると思われる。

強く感じるのは暗さである。
メタリカの楽曲全般がそうなのかもしれないが、少なくともこのアルバムには明るく楽しいメロディや爽快なリズムはなかった。
「重い・暗い・遅い」はサバスを表す形容詞だったはずだが、メタリカの「ブラック・アルバム」にも部分的にはかなり当てはまると感じた。

プロデューサーのボブ・ロックは、モトリー・クルーボン・ジョビラヴァーボーイのサウンド制作エンジニア経験のある人。
メタリカのメンバーはこれらのバンドが好きだったわけではなく、ボブ・ロックのサウンド制作手法、特にモトリー・クルーの「Dr.Feelgood」に興味があったので起用したとのこと。

これらの情報をつなぎあわせると、メタリカはこのアルバムを作る上で、グランジ・オルタナ・ハードロック・バラードというメタルとも少し違うテイストも意欲的に取り込んでいった・・ということになる。
特に当時全米を覆い始めたグランジ・オルタナの雰囲気を機敏に取り入れた結果、全米1位で1600万枚となったので事務所的には仕掛けは大成功ということになる。
歌詞も含めてそれまでのメタリカの表現とは明らかに異なるのが「ブラック・アルバム」のようだ。
制作中にカーク・ハメット、ジェイソン・ニューステッド、ラーズ・ウルリッヒの3人が離婚してしまったという、まさに私生活も犠牲にし身を削って作った血のにじむ渾身の作品。

しかし。
その輝かしい栄光の実績と高い芸術性を共感できるところまでは至っていない。
聴いてみたシリーズの傾向として、プログレやパンクよりはハードロックが自分には合うことはわかってきたので、メタリカも「聴けばわかる・やればできる」という高岸的な考えで聴いてみたのだが、やはりメタリカ、そんなに甘いバンドではない。
これまでに聴いてみたサバスやガンズウィンガードッケンよりも手ごわい相手だと感じる。
「これなら売れたのもわかる」ではなく「こういう音でもそんなに売れたのか・・」という驚きのほうが強い。

楽曲やパートごとの音に拒絶感はそれほどない。
ムダに冗長だったり唐突に曲調やリズムを変えたりといった変化球的な音があまりないせいだろう。
また各楽器の奥行きをあまり感じず、特にドラムは結構前に出てきているような気がする。
的外れかもしれないが、どの楽器もずんずん前に出てこようとしてる点で、編成としてはクリームに似ていると思う。

抵抗を覚えるのはやっぱりボーカルだ。
ジェームス・ヘットフィールドの声は想像以上に野太く濁ってて野蛮な印象。
これも金属的というよりは木製バットに30本ほど釘を刺し、それでコールタールをかき回してるような感じ。(例えが貧困)
コーラスワークや楽器との調和にもそれほどこだわりを感じない。
もちろんこれがメタリカの特徴のはずだが、個人的にはまだ聴き慣れていないせいかそれほどなじめない。
「Don't Tread on Me」「Through the Never」など重低音に濁りボーカルで押してくる曲はやや苦手だ。
なので「The Unforgiven」「Nothing Else Matters」などバラードを聴くと少しほっとする。
メタリカの聴き方としては間違っているとは思うが・・
でもジェームスさんもそれまでのメタリカにはなかった曲調の「Nothing Else Matters」が本当に売れるのか相当心配してたそうなので、よかったんじゃないでしょうか。

ジャケットは通称の示すとおり真っ黒な闇。
ずっとK100だけかと思っていたが、よーく見ると蛇がいる。
変わったアートではあるが、内容に負けていない点ではいいと思う。

というわけで、メタリカ「ブラック・アルバム」。
これまでの戦績からするとそこそこいけるんじゃないかと甘い気持ちで臨んだものの、かなりあちこち殴られたり関節を取られたりでダメージ深く減点だらけで判定負けした状態。
負けたのに判定に納得してないビッグマウスな格闘家みたいな心境ですが、全面降伏したつもりはない(まだ言う)ので、もう少し繰り返し聴いてみます。

 

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聴いてない 第265回 クイーンズライク

アメリカのプログレメタルバンド、クイーンズライク。
どこかの国の新政権のように予想通り名前だけは知ってるという状態だが(意味不明)、そのバンド名がポイント。
あくまで日本における話なのだが、自分が若い頃はクイーンズライチだったのだ。
レコードでも雑誌でもクイーンズライチ。
ところがいつの間にかクイーンズライクになっていたという変名バンドである。

もっともメンバーのみなさんはバンド名が変わったという意識はたぶんないはずだ。
発音に忠実な表記はライク。
スペルは昔からQueensrycheで変わっていない。(厳密にはyにウムラウト)

原因はやはり日本のレコード会社にあるようだ。
最初のレコード会社の東芝EMIではQueensrycheを「クイーンズライチ」と読んでしまい、クイーンズライチ表記でレコードを発売。
つられて雑誌でも新聞のラジオ欄でも「ライチ」と表記していた。
その後レコード会社はビクターに変更となり、ビクターは発音に寄せて「ライク」と表記。
さらにその後のワーナーミュージックも「ライク」を踏襲。

こうして日本では時期によりライチとライクが混在しているという世界でも例を見ない(本当?)状態となったのだ。
カタカナ表記が本国の発音に今ひとつ整合しない事例は、ルパート・ホルムズカート・コバーンデュラン・デュランやアドリアン・アドニスなど結構あるが、途中で表記を正しく変えたのはむしろ珍しいかもしれない。

で、自分もバンド名を知った時はクイーンズライチだった。
ところがある日図書館で「クイーンズライク詩集」という本を発見。
きちんと確認はしなかったが、どうやら名前が変わったらしいことはぼんやりと認識。
持ってる情報は以上です。
曲もメンバーも全く知らない。
ということでナゾの変名バンド、クイーンズライクについてビジネスライクに調査開始。(小スベリ)

バンドの源流は「ザ・モブ」。
ワシントン州のベルビューという街でマイケル・ウィルトン(G)、クリス・デガーモ(G)がバンドを組み、さらにシアトルで出会ったエディ・ジャクソン(B)、スコット・ロッケンフィールド(Dr)を加えて結成したのが「ザ・モブ」である。

ザ・モブはインディーズレーベルから4曲収録EPをリリースし、アルバムデビューにあたりバンド名をクイーンズライクとした。
バンド名の由来はEP曲の「Queen Of The Reich(女王の国)」と言われる。

その後ボーカルのジェフ・テイトを加えて5人編成でメジャーレーベルと契約。
1984年ファーストアルバム「The Warning(警告)」をリリース。
日本でもヒットを記録・・と書いてるサイトがあるが、ウィキペディア日本語版にはチャート順位の記録はなし。(全米は61位)
でもウィキペデイアでは「「Take Hold of the Flame」がアメリカ以外の地域、特に日本でヒットを記録した。」とあり、日本公演も行われているので、日本でもデビュー当時から認知はされていたようだ。(聴いたことないけど・・)

86年「Rage for Order(炎の伝説)」、88年には「Operation:Mindcrime」を発表。
89年には再び日本公演が行われた。
90年発表の4作目「Empire」は全米アルバムチャート7位を記録。
94年の「Promised Land」で全米3位を獲得し、頂点を極める。

だが。
売上絶好調の一方でバンド内にはやはりモメ事が多発し、ジェフ・テイトが勝手に引退発言したりメンバーと衝突したりしていたそうだ。
さらにメタルの歴史的宿命として、クイーンズライクもグランジ・オルタナ台頭の流れにやはり飲み込まれてしまう。
97年のアルバム「Hear In The Now Frontier」は流行のオルタナ要素を取り入れたりした意欲的な作品となったが、前作ほどの成績を残せず、ジェフの病気やレコード会社破綻などのトラブルも重なり、バンドの人気や実績はじわじわ下降していく。

「Hear In The Now Frontier」のツアー終了後に、ギターのクリス・デガーモが脱退。
後任にはジェフの元バンドメイトで、ドッケンのプロデュース経験もあるケリー・グレイを迎え、99年にアトランティックから「Q2K」をリリース。
日本ではこのアルバムからクイーンズライク表記になったようです。
前作でのグランジ・オルタナ路線はやめてハードロックに方向性を切り替えたものの、全米チャートでは46位が最高というキツイ評価だった。
バンドはこの後しばらくアルバムを出さず、ひたすら各地を回るツアーを続けた。

で、「Q2K」ツアーまでなんとか持ちこたえたクイーンズライクだったが、2002年のツアー終了後にケリー・グレイは薬物乱用などの理由でクビとなる。
すかさずバンドは後任ギタリストとしてマイク・ストーンを加入させ、次のアルバム制作にとりかかる。
そして2003年にイギリス最大のインディーズレーベルであったサンクチュアリから「Tribe」をリリース。
作曲や録音にはクリス・デガーモも参加したが、結局復帰とはならなかった。

2006年に「Operation:Mindcrime II」を発表。
88年の名盤「Operation:Mindcrime」の続編で、ロニー・ジェイムス・ディオがゲスト参加。
チャートでは最高14位と健闘したが、ファンの間では評価は分かれるようだ。

翌2007年にはベスト盤とカバー集を相次いで発表。
このカバー集がけっこう驚きの選曲である。
ピンク・フロイドの「ようこそマシーンへ」、クイーンの「Innuendo」、ポリスの「Synchronicity II」、ピーター・ガブリエル「Red Rain」、U2「Bullet the Blue Sky」など、なぜかイギリスのミュージシャンのヒット曲をたくさん選んでいる。

2009年に戦争を兵士の立場から語るというテーマで制作された「American Soldier」をリリース。
このアルバムはジェフ・テイトが父親を含む多数の退役軍人に話を聞いて詞を書き、外部から曲提供を受けて制作。
ほぼジェフ・テイトの独断で制作され、メンバーは演奏だけ担当したような状態。
ジェフ・テイトが想いを込めて作った社会派なコンセプト・アルバムだったが、メタルなサウンドはほとんどなくなっていたようで、全米チャートでは25位と微妙な成績に終わった。

ジェフ・テイトの独善的バンド運営はさらに続き、次のアルバム制作用にマイケル・ウィルトンやスコット・ロッケンフィールドが用意していた新曲を無視してバンド外の人たちとレコーディングを開始。
クビにしたはずの元メンバーのケリー・グレイをプロデューサーに起用して「Dedicated to Chaos」をリリースする。
発表にあたりジェフは「我々の能力と最新の技術を使った音楽的実験を行った。非常に聴きやすいものになっている」と発言し自信満々だったが、残念ながら思ったほど売れず全米チャートでは70位までしか届かなかった。

結局クイーンズライクもロックバンドの原理原則どおりに分裂することになる。
ジェフ・テイトの勝手な方針にイヤ気がさした他のメンバーは、ファンクラブ運営やマネジメント担当を身内で固めるジェフと衝突。
会合中はおろかステージ上でも楽器を投げつけたりツバを吐きかけたりといった昭和の中学校みたいな騒動が勃発し、バンドはジェフとジェフ以外に分裂してしまう。

ジェフ以外のマイケル・ウィルトン、エディ・ジャクソン、スコット・ロッケンフィールドは、新ボーカリストとしてトッド・ラ・トゥーレ、またサポートメンバーだったギターのパーカー・ラングレンを正式に加入させ、クイーンズライクとして活動を続行。
しかしここまでクイーンズライチもライクも牽引してきたジェフ・テイトも黙っておらず、バンド解雇やバンド名使用を不当だとしてやっぱり提訴。

裁判が長引く間、バンド側クイーンズライク(変な表現)は2013年6月にアルバム「Queensryche」を発表。
ジェフ・テイトのクイーンズライク(変な表現)も、盟友ケリー・グレイやAC/DCのサイモン・ライトらをメンバーとし、ジューダス・プリーストのKK・ダウニング、元メガデスのクリス・ポーランドなどをゲストに迎えて、昔のオリジナル曲やリミックスバージョンを収録した2枚組デラックスアルバム「Frequency Unknown」をリリースする。
2014年には和解が成立したそうだが、この間2年ほどはクイーンズライクを名乗る2つの団体がそれぞれ全く別の活動を同時に行っていたことになる。
バンド分裂や名前使用で訴訟ってのはまあよくある話だが、モメてる間に同名バンドが同時に活動を続けたというのは珍しいかもしれない。

現在もバンドは活動中で、2016年の来日公演「LOUD PARK16」で、トッド・ラ・トゥーレが初めて日本のファンの前で歌声を披露した。
昨年3月にはアルバム「The Verdict(評決)」をリリース。
なおスコット・ロッケンフィールドは2017年から育休中という今風な働き方改革バンドでもある。
一方クイーンズライクを名乗れなくなったジェフ・テイトも、シモーネ・ムラローニとのプロジェクト「スウィート・オブリヴィオン」として昨年6月にアルバムを発表している。

・・・いやー長い。
その割に知ってた話がひとつもなかった。(いつものこと)
日本での表記が変わったなんてのはバンドにとって正直どうでもいい話であり、クイーンズライクが同時に2つ存在したことのほうが圧倒的に深刻である。(当然)

聴いてない理由は特にないが、やはりメタルな世界の人々なので自分にとっては文字通り遠い国の存在だった。
少なくとも柏村武昭のナイスな案内でエアチェックできた経験は1度もないし、FMステーションで記事を目にしたこともない。
ベストヒットUSAや夜のヒットスタジオに登場したのを見た記憶もない。(出てたらすいません)

今回初めて知ったのだが、あのメタル版バンド・エイドとも言うべき「ヒア&エイド」に、ジェフ・テイトも参加してたんスね。
85年のイベントだからクイーンズライクもデビュー間もない頃だと思うが、すでにこうした催しに参加できるくらい、同業者のメタル芸人たちからも認められていたということですよね。
これはけっこうすごい話だと思う。
・・・すごいなどと浅い感想を漏らしてはいるが、ヒア&エイドの参加メンバー見てもつくづく聴いてない人たちばかりで、いかに自分がメタルを(メタル以外もだけど)を聴いてこなかったかを痛感するばかり。

さてクイーンズライク学習だが、ネットではなんとなくクイーンズライチ時代のアルバムを高く評価する声が多いようだ。
聴きどころはもちろんジェフ・テイトのハイトーンなボーカルであり、クオリティの高いプログレとメタルのテイストだろう。
ただアルバムごとにサウンドやコンセプトにかなり違いがあるそうなので、慎重に選んだほうがよいかもしれない。
本音を言うと一番聴きたいのはカバー集「Take Cover」ですが・・・

というわけで、クイーンズライク。
プログレもメタルも未だに定着してない状況で、クイーンズライクも聴いたらコールド負けする可能性も大いにあるのですが、こんな脆弱中高年にも聴けそうなアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

 

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聴いてない 第264回 ティナ・ターナー

80年代に全米チャートにハマった人なら誰でも知っているティナ・ターナー。
こんな自分でもさすがに「顔も名前も知らない」というわけにもいかず、曲もわずかだが聴いている。
また聴いてはいないが昔は「アイク&ティナ・ターナー」というデュオだったことや、USAフォー・アフリカやライブ・エイドへの参加、ブライアン・アダムスとの競演など、周辺情報も少しだけ知っている。

聴いてる曲は以下である。
・What's Love Got To Do With It(愛の魔力)
・Typical Male
・What You Get Is What You See
・Two People

もっと聴いていたような気もしたが、まとめるとこんな程度。
なお「What You Get Is What You See」はライブバージョンを録音している。
アルバムは聴いておらず、聴いてない度は3。

印象としてはパワフルでド派手に歌い飛ばす元気な姐さんというイメージだが、調べてみたらやはり苦労苦難は多々あったようだ。
しかも21世紀に入ってからは活動はほとんどしていないらしい。
あらためてティナ・ターナーの経歴を探ってみよう。(昭和の少年誌っぽい表現)

ウィキペディア日本語版は結構長い。
冒頭に「本名アンナ・メイ・ブロック・バーク」とあるが、少し後には「本名アンナ・メイ・ブロック」と書いてある。
最後の「バーク」は何?

アンナは1939年アメリカのテネシー州にあるナットブッシュという街に生まれた。
幼い頃には聖歌隊に所属。
11歳の頃に母親が家を出てしまい、祖母と暮らす。
その祖母もアンナが16歳の時に亡くなり、アンナはセントルイスで母親と再会。
やがて病院で看護助手として働き始める。

セントルイスでは姉とともにナイトクラブに出入りしていたが、そこでアイク・ターナーと運命の出会い。
クラブのバンドが休憩している間に、たまたま置いてあったマイクで歌いだしたアンナの歌声に衝撃を受けたアイクは、自分のバンドに引き入れることを決意。
その後アイクはアンナの芸名をティナと名付け、デュオグループ「アイク&ティナ・ターナー」として活動を始める。

1960年に「A Fool In Love」、翌年の「It's Gonna Work Out Fine」がヒット。
デュオの人気は全米各地で徐々に高まり、65年にはフィル・スペクターのプロデュースによる「River Deep Mountain High」をヒットさせる。
71年にはクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのカバー「Proud Mary」が、全米チャート4位とデュオ最大のヒットとなる。
デュオとしての新曲発表は73年まで続いた。

74年にティナ・ターナーは初のソロアルバム「Tina Turns the Country On!」を発表。
ティナがソロでもやっていける自信と実力を身につけたからだが、同時にアイクがアルコールやコカインの依存症になり、曲も書けずコンサートも中止したりと、まともな活動ができなくなってきたこともあった。
またアイクはティナに暴力をふるったり金を渡さないなどの虐待を繰り返し、76年にはティナが離婚の訴訟を起こし、78年には正式に離婚が確定した。

アイクがおかしくなるのと前後して、ティナは法華宗に帰依し「南無妙法蓮華経」を唱えるようになっていた・・・って書いてあるけど、そうだったの?
初めて知ったけど、ファンの間では有名な話なんでしょうか?
どんな経緯で題目を唱えるようになったのかわからないけど、あの「セクシー・ダイナマイト」ティナ・ターナーが「南無妙法蓮華経」を唱える姿というのも、あまりイメージがわきませんが・・

アイクとの別れを機に、77年頃からティナ・ターナーは本格的にソロ活動を開始。
と言ってもソロシンガーとして最初から順調だったわけではなく、しばらくは地味な活動と実績が続く。
復活をとげたのは45歳になった時だった。

84年に5年ぶりに発表したアルバム「Private Dancer」で状況が一変。
タイトル曲「Private Dancer」はマーク・ノップラーの作品で、「Let's Stay Together」「1984」「Help!」などのカバー曲も収録され、ジェフ・ベックも参加するなど話題性も十分。
収録曲のうち7曲がシングルカットされ、「What's Love Got to Do with It(愛の魔力)」は全米1位を獲得する大ヒットとなった。
アルバムも全米で500万枚を売り上げ、チャートでも3位を記録。

復活したティナ・ターナーは次々にビッグイベントに参加。
1985年1月、USAフォー・アフリカに参加し「We Are The World」でケニー・ロジャース、ジェームス・イングラムの次に登場。
ビリー・ジョエルとともにパートを歌った。
なおこの日ティナは「アメリカン・ミュージック・アワード」授賞式会場のシュライン・オーディトリアムから「We Are The World」録音のスタジオに直行したそうだ。

同年7月には「ライブ・エイド」のアメリカ会場に出演。
ミック・ジャガーが2曲歌い終えた後、「State Of Shock」でミックと競演し、次の「It's Only Rock'n Roll」で歴史的なスカートはぎ取り事件が勃発。
あれってどっちが考えた演出だったんでしょうか・・

さらにこの年には映画「マッド・マックス/サンダードーム」に出演し、サントラの2曲を歌った。
またこの年のツアー中にブライアン・アダムスとの「母と息子のデュエット」競演も行われ、この「It's Only Love」のライブ音源はそれぞれのライブアルバムやベスト盤にも収録された。

86年アルバム「Break Every Rule」を発表。
売り上げは前作には及ばなかったようだが、それでも全米で400万枚を超えるヒットを記録。
自分がエアチェックした4曲中3曲がこのアルバムに収録されているので、当時のFM各局もプロモーションに協力していたことがわかる。
その後のヨーロッパや南米でのツアーも大成功を収め、ライブアルバム「Tina Live in Europe」として発売された。
85年と88年には日本公演も行われている。
1991年にアイク&ティナ・ターナーがロックの殿堂入りを果たすと、二人の活動が映画化され、ティナはサントラの制作にも参加し、その後全米ツアーも行っている。

90年代以降のティナ・ターナーは、生活や活動の拠点をヨーロッパに移している。
96年にはアルバム「Wildest Dreams(どこまでも果てしなき野性の夢)」をリリース。
U2のボノとエッジの作品で映画007シリーズに採用された「Goldeneye」や、ジョン・ウェイトのカバー「Missing You」、スティング参加の「On silent wings」など豪華な内容だったが、売り上げとしては80年代の栄光には届かず、年間チャートではオーストリアやスイスで9位を記録したものの、全米では100位にも入らなかった。

99年のアルバム「Twenty Four Seven」を最後にスタジオ盤が出ておらず、一度は引退を公言したが、その後は活動と休息を繰り返す状態が続く。
2003年にはディズニー映画「ブラザー・ベア」用に「Great Sprits」をフィル・コリンズとデュエットで録音。
ちなみに日本語版ではこの曲を天童よしみが歌ったそうです。
2007年にはツアー活動を再開。
2008年にはベスト盤が発売され、芸能生活50周年記念ツアーも行われた。

このツアーを最後に、歌手活動はほとんど行われておらず、引退状態とのこと。
理由は主に健康面にあるという。
2013年にはドイツのレコード会社重役であるアーウィン氏と再婚し、スイスに移住。
しかしこの頃から高血圧や腸や腎臓の病気が重なり、ついに透析が必要な状態になる。
2018年には夫のアーウィン氏から腎臓の提供を受ける手術を行う。

さらに不幸は続き、2018年7月に長男クレイグ・レイモンド・ターナー(59歳)がカリフォルニア州の自宅で銃による自殺。
クレイグはティナがアイクと結婚する前に産んだ子供で、アイクの養子。

しかし度重なる不幸や逆境にも耐えてきたティナ・ターナー、「乗り越えるたびに強くなる自分を感じる」と発言している。
その半生を描いたミュージカル「TINA ? The Tina Turner Musical」がロンドンやニューヨークで上演された。

今年7月にはノルウェー人DJのカイゴが、ティナ・ターナーの「What's Love Got to Do with It(愛の魔力)」のリメイク・バージョンをリリース。
同時に撮影したのかは不明だが、二人並んだ写真も公開している。
PVで曲を聴いてみたが、ボーカルは基本的にティナが昔歌った「愛の魔力」をカイゴがアレンジしたもので、カイゴとデュエットというわけではないようだ。
カイゴは91年生まれなので、年齢的にはかつてのブライアン・アダムスとの「母と息子のデュエット」を超えて、完全に「祖母と孫のコラボ」である。

毎度自分の情弱ぶりに辟易するが、今回も全然知らない話ばかり。
アイク&ティナ・ターナーは名前だけ知ってはいたが、アイクがそんなにヒドい夫だったとは・・
ほぼ引退というのも知らなかった。
まあティナ・ターナーに限らず、80年代のスター達が今どうしているのか詳しく追っかけてるわけではありませんけど・・

さてこれから聴くとしたら、普通は最も売れた「Private Dancer」となるのだろうが、自分の場合は3曲知っていて参加ミュージシャンもブライアン・アダムスやフィル・コリンズ、エリック・クラプトンスティーブ・ウィンウッドと豪華な顔ぶれな「Break Every Rule」からというのが良さそうだと思っている。
日本での人気がどのくらいなのか見当もつきませんが、他におすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

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聴いてみた 第158回 デビッド・ボウイ

聴いてみたシリーズ、本日の名盤はデビッド・ボウイ「Ziggy Stardust」。

デビッド・ボウイのアルバムを聴くのは生涯で初めてである。(遅すぎ)
東日本最大級のインチキBLOGを始めて16年半ほど経過してるが、デビッド・ボウイは「聴いてないシリーズ」では14番目という相当早い登場だったものの、その後の学習は全くしてこなかった。
理由は特にないが、ニルヴァーナリンゴ・スタースティービー・ワンダーなど同じようにBLOG黎明期に採り上げたくせしやがって全然学習していないアーチストはまだたくさん残っている。(だから何?)
余命があとどんだけあるのかわからないが、これまで「聴いてないシリーズ」で採り上げたアーチストを全部聴くのはもうムリです、ぷく先輩。
そんな敗走する思考の中で渋谷レコファン閉店のニュースを知り、駆けつけて買い求めたのが「Ziggy Stardust」1990年再発盤である。

デビッド・ボウイについては、80年代のイギリスニューウェーブ界でひときわ存在感を放っていた人・・という印象。(とってつけ感)
80年代に人気が開花したデュランカルチャー・クラブワム!ABCスパンダー・バレエやEXITや宮下草薙といった第7世代芸人とは違い、70年代から独自の世界を確立してきた大英帝国芸能界の重鎮の一人である。(適当)

だが自分が聴いた曲は「Let's Dance」「China Girl」「Modern Love」「Blue Jean」など80年代のヒット曲だけ。
「Blue Jean」はリアルタイムでプロモビデオを見ていたが、勘違いからFROCKLを騒然とさせ(誇張)、その10年後にこのBLOGで再会したYAGI節さんによって真相を知るというドラマティックな展開。
あと持ってる情報はクイーンやミック・ジャガーとの競演、バンド・エイドでの声の出演、「戦場のメリークリスマス」「ラビリンス」出演など、当時のナウい若者なら誰でも知ってる話ばかり。
「このままでは何も聴かずに人生が終わります」というぷく先輩からの死の宣告を胸に(使い回し)、急遽渋谷に出向いた次第。

Ziggy-stardust

「Ziggy Stardust」は72年発表のボウイ5作目のアルバム。
イギリスではアルバムチャート5位を記録し、プラチナディスクも獲得。
ダサい言葉で表現すればボウイの出世作である。
原題は「The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars」という長いタイトル。
発売当時の日本盤には「屈折する星屑の上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群」といった王様みたいな直訳が書かれていたらしい。

あと5年で地球が滅びるという時に、遠い星からやってきたロックスターのジギー。
帯同するバンドは「スパイダーズフロムマーズ」という、ナゾの設定が施されたコンセプトアルバム。
宇宙開発、宇宙人の存在、同性愛問題など、当時ボウイが考えていた世界の課題みたいなテーマがいろいろ含まれているそうだ。
そんな不思議な設定を当時の日本の純朴な若者がホントに理解できていたかはよく知らないけど・・

当たり前だが、自分の知ってる80年代のスーツ姿の多かったダンディズム全開のボウイとは全然違うはずである。
果たしてタイトルどおり星屑のようなきらびやかな音楽なのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1. Five Years(5年間)
ピアノとドラムで静かな幕開け。
徐々に盛り上がって壮大なオペラチック展開。
5年後に地球が滅ぶという設定の中、人々の日常や街の風景を描写している不思議な世界。

2. Soul Love(魂の愛)
この曲も最初は静かに始まり、徐々に盛り上がる構成。
サックスとギターが効果的に使われている。

3. Moonage Daydream(月世界の白昼夢)
重く響くギターとベースが印象的なサウンド。
明確にはわからないが、いろいろな楽器が使われており、調和のとれた組み立て。
後のクイーンはこのあたりに影響を受けているような気がする。
「オレはワニだ、オマエのパパにもママにもなるぞ、オレはインベーダーだ、ロックンロールするビッチになるぜ」といったナゾの歌詞。

4. Starman
この曲はどこかで聴いたことがある。
アルバムよりも先行してシングル発売された曲とのこと。
アコースティックギター中心のフォークっぽい音だが、エレキギターもあちこちで登場。

5. It Ain't Easy
この曲だけがカバーで、ロン・デイビスという人の作品。
なんとなくインドや中東を思わせる音がする。
「そんなにラクな話じゃない」という意味らしいが、このあたりでスーパースターであるジギーの風向きが変わってくることを予感させる。(知ったかぶり)

6. Lady Stardust
LPではここからB面。
ピアノ主体の奥行きあるバラードで、マーク・ボランに捧げられた曲とのこと。
「Lady Stardust」に扮装したジギーがステージに立ち観客の前で歌い、それを絶賛するという内容。

7. Star
なんとなくジョン・レノンを思わせるようなアップテンポのロック。
タイトルはロックスターのことで、ジギーは「オレならロックスターとして変革を起こせるぜ」と自信満々。
ロックスターとして眠り、ロックスターとして恋に落ちる、というどこか青臭い決意を歌っている。

8. Hang On To Yourself(君の意志のままに)
さらにスピードアップしたロック。
この曲もクイーンのようなサウンドと構成だ。

9. Ziggy Stardust(屈折する星くず)
タイトルチューンがここで登場。
ブルースのような鳴り渡るギターが非常にいい。
ギターの名手でもあったジギー、バンドを組んでスターにはなったが、自分を救世主だと思い込み、最後はファンの子供たちに殺されてバンドは解散・・という悲惨な物語を、バンドメンバーの視点から語る。
ジギーという名はイギー・ポップから、左利きのギター名手という設定はジミ・ヘンドリックスから作られたそうだ。
今さらだが、邦題がもう少しなんとかならなかったのだろうか・・

10. Suffragette City
パンクのような騒々しい曲。
タイトルは直訳すると「女性参政権運動家の街」。
「Suffragette」はウィングスの「Jet」にも出てくるが、あっちの曲ではあまり深い意味はないらしい。
この曲も訳詞を読んでも意味はさっぱりわからないが、バイセクシャルの男が、その日は女と会うために男を追い払う様子を表している・・とのこと。

11. Rock 'N' Roll Suicide(ロックン・ロールの自殺者)
LPの最後は静かなアコギのバラード。
滅亡寸前の人類は、結局救世主ではなかったジギーに失望し、逆襲しようとする。
追い詰められたジギーはステージでこの曲を歌い最後は自殺(殺される前に死を悟る・・?)という設定らしい。
ただ歌詞については今も様々な解釈があり、訳詞を読むと、むしろ滅亡を前にした地球人を救おうと必死になっている自称救世主・・のように思える。

この後はボーナストラック。
12. John, I'm Only Dancing
13. Velvet Goldmine
14. Sweet Head
15. Ziggy Stardust(Original Demo)
16. Lady Stardust (Original Demo)

このボーナストラックの中では最後の2曲が非常によく、個人的には本編バージョンよりもこのデモ版のほうがむしろ味わいがある気がする。
特に「Ziggy Stardust」のデモ版はアコギだけで歌うボウイが、やはりジョン・レノンを思わせる。

聴き終えた。
一言で言うと非常に聴きやすい音がする。
衣装や化粧や異星人から受ける勝手なイメージから、もっと電子的でハジけたパリピなサウンドを想像していたのだが、意外にシンプルでキャッチーな音楽だ。
特にギターサウンドはアコースティックも含めてかなり実直でマジメな造りをしていて、しつこいリフやムダなアレンジや唐突な変拍子といった小細工が全くない。
ボウイのボーカルもさすがに声は若いが、絶叫や火吹きや血吐きなどの演出はなく(誰?)、さらにコーラスもあまり凝った感じでもなく、極めて誠実に歌っている印象。

コンセプトアルバムとしては、乱暴に言うとLPのA面でジギー登場からスターダムへの過程を描き、B面ではジギーの凋落と破滅、そして死という展開を表しているようだ。
ネットでそういう解説を読んでもあまり理解はできないけど。
ボウイはこのアルバムで何を言いたかったのだろうか・・・

2度ほど聴いて確信したが、もし80年代に聴いていたら、もし姉がLPを持っていたら、おそらくかなりの確率で愛聴盤になっていたと思う。
歌詞やコンセプトはさらなる学習が必要だが、楽曲や音楽は難解な点や拒絶感はあまりない。
こんなアルバムだったのか・・・
惜しいことをしたなぁ。(こんなんばっか)

ジャケットはロンドンのへドン・ストリートという場所で撮影された写真。
ジギーに扮したボウイがギターを下げて足をかけて立つ姿という、思ったよりも地味な感じのアート。
遠い星からやって来たロックスターなんだけど、宇宙空間を飛び交う火の玉や山の岩肌に掘られた顔面といった演出をせず、あえて背景は都会の日常の場所が選ばれていて、異星人ジギーの存在感を際立たせている。
現在この場所の壁面には「ZIGGY STARDUST 1972」と刻まれたパネルが設置されており、2016年にボウイが亡くなった時には、世界中からボウイのファンが献花に訪れたそうだ。

というわけで、「Ziggy Stardust」。
コンセプトや歌詞は半分も理解できてませんが、楽曲としては聴きやすくてよかったです。
ただこれでボウイ学習意欲に火がついた・・というところまではまだ至っておりません。
アルバムごとに音楽性や特徴が異なるのがボウイだそうなので、次にボウイを聴くとしたら、多少はなじみのある「Let's Dance」「Tonight」あたりにしようかとぼんやり考えています。

 

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聴いてない 第263回 パール・ジャム

聴いてない名盤が多すぎるという音楽緊急事態宣言がいくつになっても解除できないSYUNJIといいます。
もうおそらく一生解除できないまま死を迎えるであろう今日のお題はパール・ジャム。
それなりに長くやってる珍奇BLOGだが、今回はいつにも増してハードな題材。

パール・ジャム、聴いてないのはいつものことだが、知ってるのは名前だけ。
1曲も聴いてないしメンバーの名前も全く知らない。
聴いてない度は万全の1。
ゼロでもマイナスでもいいくらい。
そもそも何人組なのか、バンドなのかピン芸人なのか、いつの時代の方々なのか、お国はどちらで資産はおいくらなのか、一切知りません。
なぜ名前だけ知ってるのかも不明。
なので今日書くことは全て受け売りである。(毎回そう)

ネットでパール・ジャムを調べてみて最初に目に入ったのは、グランジというキーワード。
あー・・・そういうくくりの人たちだったのね・・(そこからかよ)
一瞬それだけで調べるのも書くのもやめようかと思ったが、踏みとどまって険しいグランジ街道の入口まで行くことにした。

パール・ジャムは1990年結成。
源流は84年にシアトルで結成されたグリーン・リバーというバンドにある。
グリーン・リバーに在籍していたストーン・ゴッサード(G)とジェフ・アメン(B)は、解散後はマザー・ラブ・ボーンというバンドで活動していたが、アルバム発売直前にボーカルのアンドリュー・ウッドがヘロイン中毒で死亡。
バンドは解散したが、ストーンとジェフのもとにマイク・マクレディが合流し、デモテープ製作を開始。
そのデモを聴いた元レッチリのジャック・アイアンズ(後にパール・ジャムに加入)が、友人のエディ・ヴェダーにもデモテープを聴かせた。
エディはデモにオリジナルの歌詞をまぜてボーカルをかぶせて録音。
それを聴いたメンバーはエディを気に入り、バンドに迎え入れることにした。
さらにデイブ・クルーセン(D)が加わり、バンド名はパール・ジャム となった。
デモテープの行き来という、どこか高校生っぽいやりとりで結果として世界規模のバンドが誕生するという伝説的なストーリー。

パール・ジャムを検索すると、やっぱり名前が出てくるのがニルヴァーナ
ウィキペディア日本語版でも「ニルヴァーナとの関係」コーナーがあるが、今風に言うと両バンドはバチバチのリアルガチな敵対関係にあったようだ。
カート・コバーンは死ぬまでエディ・ヴェダー批判を続けていたそうだけど、アクセル・ローズみたいにタコ殴りしたような話はないんですかね?

パール・ジャムは91年にアルバム「Ten」でデビュー。
ストーン、ジェフ、エディの埋もれていた才能が一気に開花したアルバムは全米2位まで上昇し、1000万枚以上のセールスを記録。
このデビューアルバムこそ最高傑作と評するファンも多いらしい。
このデビュー大成功とシアトルという拠点、そしてニルヴァーナの存在が、パール・ジャムの名前とともにグランジ台頭の歴史を作り上げていくことになる。
なおデイブ・クルーセンはデビューアルバム発表直前に脱退している。

デイブ脱退の後任に一人はさんで同じデイブだけど名字がアブラジーズというドラマーが加入。
93年には2枚目のアルバム「Vs」をリリース。
発売一週間で100万枚近く売り上げるという偉業を達成し、全米アルバムチャート初登場1位も記録した。
このアルバムからは6曲もシングルカットされたが、バンドはレコード会社の提案を無視してミュージックビデオを全く作らなかった。

勢いに乗ったパール・ジャムは次のアルバム制作に取りかかる。
しかしデイブ・アブラジーズは制作途中で脱退し、代わって前述のジャック・アイアンズが加入して録音を続けた。
初期のパール・ジャムはどうもドラマーがいまいち長続きしないバンドだったようだ。

ドラマー交代を乗り越え、94年12月にアルバム「Vitalogy(生命学)」を発表。
全米アルバムチャート5週連続1位・売り上げ500万枚以上という事務所社長も泣いて喜ぶ大ヒット。
・・・なのだが、パール・ジャムとは本来関係ない事件が、このアルバムの評価にも多少影響していると言われる。
事件とはもちろんカート・コバーンの自殺だ。
このアルバム制作期間中にカートが自殺し、死後半年ほど経ってアルバム「Vitalogy」がリリースされている。

カートが死ぬまで相互に批判合戦を続けたとされるエディ・ヴェダーだったが、やはりカートの死はかなりショックだったらしい。
エディはカートのことを想って曲を作ったなどとは一切言ってはいないが、このアルバムにあるいくつかの曲は、ファンや評論家により「カートのことを歌った曲」と解釈されているそうだ。
表現は全然違うが、カートもエディもチャラい商業主義やスター気取りのミュージシャンが大キライだったそうなので、エディがそうしたテーマで曲を作れば「カートを思わせる作品」なんて書かれるのも仕方がないとは思うが・・
なおエディもカートもそれほど多くを語らないながらも、カートが亡くなる直前には互いを理解しあえて友人となったという発言をしている。
カートがパール・ジャムの作品自体を気に入らなかったのは死ぬまで変わらなかったらしいが・・

96年にはアルバム「No Code」が全米初登場1位に輝く。
1位なんだから文句なさそうな話だが、このアルバムは音楽性にやや変化や迷いが見られ、初期からのファンは厳しい評価をする人も多いようだ。
98年にアルバム「Yield」を発表するが、このアルバムツアー直前にジャック・アイアンズが持病の悪化やツアーの長さへの不満を理由に脱退。
後任ドラマーとして元サウンドガーデンのマット・キャメロンが加入する。

99年、ファンクラブ向けのクリスマス用シングル曲として「Last Kiss」をリリース。
原曲は1961年にウェイン・コクランという人が歌った曲で、64年にJ.フランク・ウィルソン&キャバリアーズが歌ってヒットしている。
全米2位・カナダとオーストラリアで1位を記録し、パール・ジャム最大のヒットシングルとなった。
この曲はコソボ紛争の難民救済のためのチャリティ・アルバム「No Boundaries」にも収録された。

21世紀に入ってもパール・ジャムは精力的に活動。
2000年にはバイノーラルという技法を用いて録音した、そのままアルバムタイトルにも使った「Binaural」を発表。
バイノーラル録音とは、人間の頭部や耳の構造を模した「ダミーヘッド」にマイクを埋め込み録音する技術とのこと。
この録音による音源は、高性能なヘッドホンで聴いてみるとものすごい臨場感を味わえるそうだ。

さらに2000年から翌年にかけて、ライブツアーの音源を公式海賊盤ライブアルバムとしてリリースした。
店頭でのパッケージ盤ではなく、ネットで注文してMP3やCDで購入するという方法をとったそうだ。
これは「音が悪いのにムダに高額なブート盤が流通している」ことに対抗するための手段であり、「ライブ終了後にすぐにおみやげを持ち帰ることができるようにしたかった」というコメントも発表している。

2006年には創業以来続けてきたレーベルをJレコードに移し、バンド名と同じ「Pearl Jam」というタイトルのアルバムを発売。
2009年にまたレーベルを変え、初期作品のプロデューサーだったブレンダン・オブライエンを起用して「Backspacer」をリリース。
このアルバムで5作ぶりの全米1位を勝ち取ることに成功。
さらに2013年の「Lightning Bolt」でも全米1位を記録した。

その後しばらくアルバム発売がなかったが、今年3月に6年半ぶりのアルバム「Gigaton」を発表。
残念ながら今年開催予定だったツアーは大半が中止になるようだが、まだレコーディングしていない曲のストックがたくさんあり、今後の活動にも非常に意欲的である。

・・・今回も知ってた情報は一切なし。
明日東洋大学でパール・ジャム検定受けたら間違いなく0点である。
知らなかった話だらけなのは毎度のことながら、こんなに人気と実績のある人たちだったことに驚いた。
見事なくらい接触の機会がなかったのだ。
周りに聴いていた友人がいたこともないし(知らなかっただけ)、NOW系オムニバスCDで1曲だけ聴くといった出会いもなし。
あと5年デビューが早ければ、極東の貧困学生だった自分にも、柏村武昭や東郷かおる子からもう少し情報がもたらされた・・ような気がする。
かつて「村上春樹を読んだことがない」という首都圏最大級の愚かな告白を世界中に発信したことがあるが、今の心境は当時のものに近い感覚がある。(どうでもいい)

ネットでパール・ジャムを調べると、「師匠」としてニール・ヤングの名前が時々登場する。
パール・ジャムはデビュー以来ライブで度々ニールの曲をカバーしていたが、93年のMTVアワードでついにニール・ヤングと初競演。
その後はパール・ジャムのライブにニール・ヤングが登場するのが定番化。
95年のニール・ヤングのアルバム「Mirror Ball」ではパール・ジャムがバックバンドを務め、ツアーにも同行。
パール・ジャムのレコーディングにもニール・ヤングが参加するという、堅い絆で結ばれた師弟関係とのこと。
両者が師弟関係にあることはなんとなく知っていたが、ニール・ヤングも全然聴いてないので、相互の音楽性がどう響き合って師弟関係になってるのかは全くわからない。

マイク・マクレディは今年行われたファンとの交流ネットイベントで、「人生を変えたレコード」としてストーンズの「Sticky Fingers」「メインストリートのならず者」を挙げていた。
さらにお気に入りはクイーンの「世界に捧ぐ」やツェッペリンの「Led Zeppelin II」だそうだ。
カート・コバーンの時もそうだったが、こういう話を聞くと少しだけ安心。
グランジやオルタナの人だからすんごいコアな尖った音楽ばっか聴いてきたのかというと、そういうことでもないようです。

というか、パール・ジャム以前のマイクは子供の頃からずうっとメタル寄りな音楽をやっていたそうで、ジューダス・プリーストアイアン・メイデンマイケル・シェンカー、モーター・ヘッド、ガール、ハイノ・ロックス・・などといった楽しい音楽がお好みだったとのこと。
またストーン・ゴッサードとジェフ・アメンは若い頃は髪をがっちり固めたようなビジュアル系メタルを好んで聴いていた、という話もある。
共に若い頃同じシアトルで活動していたカート・コバーンは、パールのメンバーがかつてどんな音楽をやってたか・好きだったかを知っていたためか、「パール・ジャムなんてのはオルタナの波に乗っただけのただの操り人形だ」と批判。
カートに言わせれば「元メタルのくせに突然薄汚い格好でオルタナやグランジを名乗り始めた連中」ということだろう。
もっとも亡くなる前には「レコード会社がバンドの意思に反して勝手にグランジに便乗する形でマーケティングしただけ」と若干訂正っぽい発言をしていたそうだ。

ウィキペディアには「パンク・ロック的側面を多分に含むニルヴァーナに対してパール・ジャムのバックボーンはハードロックによる部分が大きく、両者のスタンスは決定的に異なる。」とある。
だとすればニルヴァーナで大敗を喫した自分には、もしかしたらパール・ジャムならば聴ける可能性がかすかにある・・かもしれない。(適当)

バンド名のパール・ジャムだが、エディ・ヴェダーの祖母パールの作っていたジャムに由来するらしい。
ペヨーテという小さなサボテンを使ったネイティブ・アメリカン伝統のレシピで作られたジャムだったが、ペヨーテには幻覚を引き起こす作用があり、エディは子供の頃このジャムを食ってユラユラグルグルしながら学校に行っていたそうだ。
パール(真珠)とジャムという組み合わせから、勝手にアイアン・バタフライとかレッド・ツェッペリンみたいな硬軟取り合わせ系かと思ってましたが、それは違うようです。

ということで、パール・ジャム。
毎度のことながら全米や世間での評価と己の知識の乖離が激しすぎて困惑していますが、こんな自分にも聴けそうな作品があれば教えていただけたらと思います。

 

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