聴いてない 第291回 W.A.S.P.

前回のラットに続くLAメタル聴いてないシリーズ、今日はW.A.S.P.。
カタカナでワスプと書くとなんかイメージが少し違う気がするので、一応英字表記にします。
なおピリオド付きのW.A.S.P.が正式な表記とのこと。
「今までピリオドを使ったバンドはなかった!」と彼らはドヤ顔で豪語したらしいが、実はW.A.S.P.よりも早くR.E.M.がデビューしているのだった。

そんな傲慢なW.A.S.P.。
1曲も聴いてない・・と思っていたが、92年の「Hold on to My Heart」を聴いていたことが判明。
FMエアチェックではなく、MTVの音声をテープに録音している。
聴いてない度は2。

前回ラットの評価が「メタルの暗く汚いイメージを覆したバンド」だったと書いたが、W.A.S.P.はむしろメタルの暗く汚いイメージを押し通したバンドらしい。
ではW.A.S.P.の暗く汚い歴史を学習開始。

W.A.S.P.はラットよりも少し後の82年頃に結成。
源流は、ブラッキー・ローレスとランディ・パイパーを中心としたサーカス・サーカスというバンド。
ちなみにブラッキーはモトリー・クルー結成前のニッキー・シックスとバンドを組んでいたこともあるそうだ。
サーカス解散後、ブラッキーとランディはリック・フォックスとトニー・リチャーズの2人を誘いW.A.S.P.を結成。
W.A.S.P.は観客に生肉を投げつけたり半裸のモデルをステージ上で拷問道具に縛りつけたりといった野蛮で下品なパフォーマンスで知られていった。

84年にデビューアルバム「W.A.S.P.(邦題:魔人伝)」発表。
ファーストシングル「Animal (Fuck Like a Beast)」は、タイトルや歌詞が下品という理由で、アメリカでは大手レコード店での販売禁止を防ぐためにアルバムから省かれたそうだ。
全米チャート74位という実績だったが、キッスのツアーで前座を務めたりサバスのツアーでサポートを行うなど、実力を認められた。
しかしアルバム発表後にドラムのトニー・リチャーズが脱退し、スティーブン・ライリーが加入する。

85年11月に2枚目のアルバム「The Last Command」をリリース。
直後にランディ・パイパーが脱退し、後任としてジョニー・ロッドが参加する。
W.A.S.P.もスタートからメンバーがいまいち定着しないバンドのようだ。
ジョニーが加わったため、ブラッキーはリズムギターに戻ったところ、これがあまり歓迎されなかったらしく、コンサートホールに爆破予告が届いたり、メンバーは殺害予告を受けたりした。
さらにブラッキー本人は2度にわたり銃撃もされる事態となった。
幸い弾丸が命中することはなかったそうだが。
怖い・・・

89年に4枚目のアルバム「The Headless Children」をリリース。
このアルバムでは、ドラムを元クワイエット・ライオットのフランキー・バナリが担当。
ザ・フーの「The Real Me」のカバーを収録している。
全米48位・全英8位を記録し、現在ではバンド史上最も売れた作品とされている。

しかしアルバム発表直後に今度はオリジナルメンバーだったクリス・ホルムスが「妻のリタ・フォードと人生を楽しみたい」というカッコいいのか悪いのかわかんない理由で脱退。
バンドは事実上の解散状態となり、ブラッキーはソロ活動を開始。

92年6月、ブラッキーが作ったコンセプトアルバム「The Crimson Idol」は、レコード会社のアドバイス(圧力と書いてるサイトもあり)により、W.A.S.P.の作品としてリリースされた。
このアルバムに自分が聴いた「Hold on to My Heart」が収録されている。
ブラッキー本人はバンド名義で発表することに不満だったらしいが、ファンからは最高のコンセプトアルバムとして高く評価されているそうだ。

続く95年の6枚目アルバム「Still Not Black Enough」も、前作の世界観を拡張したダークで内省的な曲のコレクションとなった。
ブラッキーが自身の感情について直接語りかけた歌詞は、社会から追放された不適格者、名声と圧力、愛の探求といった暗い内容が多いとのこと。
なおこのアルバムではジェファーソン・エアプレインの「あなただけを」とクイーンの「Tie Your Mother Down」をカバーしている。

この後バンドはクリス・ホームズの出入りに振り回される。
96年にクリスはW.A.S.P.に復帰。
バンドはアルバム「Kill.Fuck.Die」「Helldorado」をリリースした。
さらに2001年にはアルバム「Unholy Terror」を発表。
順調かに見えたW.A.S.P.だったが、発表直後にクリスが今度は「ブルースをやりたい」と言い出し(本当?)バンドを脱退。

クリスの勝手な行動にブラッキーもあきれたようだが、バンドは解散せず2002年にはアルバム「Dying for the World」を発表。
このアルバムは前年起きた9.11同時多発テロを受けて作られ、作曲からレコーディングまで1年かからずにリリースされている。

2004年には再びコンセプトアルバム「The Neon God: Part 1 - The Rise」「The Neon God: Part 2 - The Demise」を発表。
虐待され孤児となった少年が、人の心を読み操る能力があることを発見するという内容で、2部構成となっている。

2006年に入るとバンドはまたも不安定になる。
ドラマーのステット・ホーランドがまず脱退。
さらにギターのダレル・ロバーツも脱退。
翌2007年にギターのダグ・ブレアーが復帰し、ドラムのマイク・デュプキーが加入する。

本来2006年10月にリリースされる予定だったアルバム「Dominator」は、メンバー交代の混乱もあって2007年4月まで延期され、なんとかメンバーが落ち着いたところでようやく発表となった。

2007年10月、W.A.S.P.はアルバム「The Crimson Idol」の発売15周年を記念して、ギリシャからツアーを開始した。
バンドの最高傑作とされるこのアルバムの10曲が、最初から最後まで忠実に演奏されたのは初めてのことだった。
2009年14枚目のスタジオアルバム「Babylon」を発表。
ここではパープルの「Burn」をカバー。

15枚目のアルバム「Golgotha(ゴルゴダの丘)」は4年の歳月をかけて作られ、2015年10月リリースされた。
アルバムはなんと26年ぶりに全米トップ100入り(でも93位・・・)を果たす。

2018年にはアルバム「The Crimson Idol」の発売25周年を記念した再録音集「Re-Idolized (The Soundtrack To The Crimson Idol)」を発表。
定期的に記念イベントが行われる「The Crimson Idol」は、やはりバンドとしても重要な作品なのだろう。

2020年8月20日、ドラマーのフランキー・バネリが膵臓癌で死亡。

いろいろあったW.A.S.P.だが、現在も活動中。
2021年10月から12月にかけて北米ツアーを行い、なんとマイケル・シェンカーのサポートも受けたステージもあったそうだ。
何かと後輩芸人から頼りにされるマイケル・シェンカー。
・・・ちゃんと会場には来たの?マイケル。
来年には結成40周年を記念したワールド・ツアーも予定されているとのこと。

以上がW.A.S.P.の野蛮で破天荒な沿革と概要。
知ってた話は今日もなし。

総合すると、下品で粗暴なステージと、緻密でストーリー性重視のコンセプトアルバム、という相反するような特徴を合わせ持つバンドということになる。
それぞれの特徴は同時進行というより少しずつ制作志向に移行していったようだ。
最初は凶暴で野蛮なパフォーマンスで注目され、徐々に作品作りに凝るようになっていった、という感じだろうか。
こうした成長過程はなんとなくストーンズを思わせる。(知ったかぶり)
あと結構カバーが好きで、特にイギリスのアーチストの名曲を採り入れているのも興味深い。

前回ラットがグランジの波で粉砕されたと書いたが、W.A.S.P.の歴史を説くサイトには、グランジの影響を受けたとはほとんど書かれていない。
商業的にダメージゼロではなかっただろうが、92年の「The Crimson Idol」はむしろメタル界の名コンセプトアルバムとして高く評価されている。
狙ったかどうかは不明だが、ブラッキー・ローレスの作り出した「社会の型枠にはめられてもがく若者」というテーマが、グランジの持つ内省的な怒りや不満といった感覚に近かったため、当時のナウい欧米ヤングの共感を得た、という説があるようだ。

なので「LAメタル=グランジにより粉砕」という図式は、W.A.S.P.においてはあんまし当てはまらないことになる。
W.A.S.P.の持つ暗さが幸運?にもグランジの波に多少共鳴することができた、ということだろうか。

バンド名のW.A.S.P.は、一般的な意味は「ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント」というアメリカ建国当時の移民の子孫たちで、今もアメリカ社会では主流・支配層を占めることの多いグループを指す。
たぶんメンバーもみんなそこに属しているからだとは思うが、あまり強調すると傲慢でイヤミで問題もあるからだろうか、ブラッキー・ローレスも明確な回答はしていないようだ。
またwaspという単語には「ハチ・怒りっぽい人」という意味もあり、そこからヒントを得たというこじつけっぽい話もあるらしい。

唯一聴いている「Hold on to My Heart」は、アコースティックなサウンドでゆったり進行するバラード。
粗暴な部分は一切なく、ハードロックやメタルの人たちがたまに作るバラードそのものである。
壮大で崇高なイメージは非常によかったが、残念なことに他の曲を聴く機会や意欲はなかった。
この曲しか聴いてないので、W.A.S.P.の本質的な魅力は結局全然知らないままである。

というわけで、W.A.S.P.。
聴くならまずは最高実績の「The Headless Children」か、最高傑作の「The Crimson Idol」だと思いますが、他におすすめのアルバムがありましたら、教えていただけたらと思います。

 

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聴いてない 第290回 ラット

前回ラッシュを採り上げて思い出したのがラットである。(雑)
思い出したなどと言ってるが、ラット本体の思い出は特になく、その昔バンド活動していた友人が「RATT」と書かれたTシャツを着ていた記憶があるくらい。
バンド名しか知らず、1曲も聴いてない(と思う)ので、聴いてない度は1。

やれやれじゃあしょうがないラットについて調べてやるか・・と駅前の商売っ気ゼロの不動産屋のじじいのように気だるく調査を開始。
ラットもまたロックバンドの定石どおり離合集散敵対分裂誹謗中傷訴訟殺伐の連続だった。

ファンの作るサイトには、「メタルの暗く汚いイメージを覆した」「モトリー・クルーとともにLAメタルブームを牽引」「派手なファッションと明るいセンス」「ラットン・ロール!」などの形容が目につく。
そこまでは想定どおりだが、驚いたのが他の有名バンドとの人事交流がかなりあった点である。

ラットは80年代のLAメタルを代表するロックバンド。
母体は76年にスティーブン・パーシーを中心にサンディエゴで結成したミッキー・ラットというバンド。
このミッキー・ラットには、後にオジー・オズボーン・バンドで名をはせたギタリストのジェイク・E・リーが参加していた。

81年にバンド名をラットに変更するが、ジェイク・E・リーは脱退。
再編されたラットのメンバーは以下のみなさんである。
スティーブン・パーシー(Vo)
ロビン・クロスビー(G)
ボビー・ブロッツァー(D)
ウォーレン・デ・マルティーニ(G)
フォアン・クルーシエ(B:元ドッケン

ちなみにロビン・クロスビーとモトリー・クルーのニッキー・シックスはルームメイト同士という間柄で、また脱退したジェイクと、ロビンとウォーレンは西海岸のサーフィン仲間だったそうだ。

ラットは83年にデビューし6曲入りEPを発表。
翌年3月にデビューアルバム「Out Of The Cellar(情欲の炎)」をリリースし、全米チャート7位のヒットとなる。
シングル「Round and Round」もMTVを通じて本国や日本で大ヒット。
・・・そうなの?
84年頃だったらリアルタイムで聴いていてもおかしくないはずだけど、全然知らない・・・

85年に2作目「Invasion of Your Privacy」を発表し、これも前作同様に全米7位を記録。
この年には初の日本公演も行われた。

ラットは順調に86年にもアルバム「Dancin’Undercover」をリリース。
このアルバムでは曲作りの担当が徐々にロビン・クロスビーからウォーレン・デ・マルティーニに移行。
また2度目の来日公演もこの年に行われている。
88年に4枚目のアルバム「Reach For The Sky」をリリースし、全米17位を記録。
翌年には3度目の日本公演。

順調だったラットも90年代に入ると様子が変わってくる。
背景にあったのはやはりグランジ・オルタナの台頭だった。

ラットは90年8月にアルバム「Detonator」を発表する。
前作までプロデューサーを務めたボー・ヒルに代わり、このアルバムではボン・ジョビを育てたと言われるデズモンド・チャイルドを起用。
よりポップな路線にシフトしたアルバムは全米23位と健闘したが、プラチナムは逃す結果となった。

全米23位はそんなにひどい成績じゃないと思うけど、ラットはこの後低迷する。
内部事情としてはロビンのヘロイン中毒もあったらしい。
ロビンのリハビリ期間中にマイケル・シェンカーがバンドをサポートしたそうだけど、これマイケルに頼んだこと自体がマズかったんじゃないの?
マイケル神、ちゃんとサポートできたんだろうか・・・

91年にはベスト盤「RATT & ROLL 8191」を出してなんとかつなごうとするが、グランジの波は予想以上に激しく、レコード会社からは契約を解除される。
結局ラットの人気が戻ることなく92年には解散してしまう。

ラット解散後、スティーブン・パーシーはアーケイドというバンドを結成。
またウォーレン・デ・マルティーニは94年にホワイトスネイクに加入する。
えっそうだったの?
・・・と思ったら、ギタリストとしてツアーには参加したけど、アルバム制作には関わらないまま脱退したそうです。

しかしラットはメンバーは以下のみなさんで意外に早く再結成する。
・スティーブン・パーシー
・ウォーレン・デ・マルティーニ
・ボビー・ブロッツァー
・ロビー・クレイン(元ヴィンス・ニール・バンド)

再結成したラットは97年に未発表の曲を集めたアルバム「Collage」をリリース。
99年には低迷バンド再生工場と言われるジョン・カロドナーさんをプロデューサーに起用したアルバム「Ratt」をリリースする。
より大衆的なサウンドで再起を図ったラットだったが、ジョン・カロドナー再生工場は残念ながら機能せず、全米169位という驚きの結果に。
がっかりしたスティーブン・パーシーはバンドを脱退。

スティーブン脱退後はジジー・パールや元モトリー・クルーのジョン・コラビが加入して活動を続けたが、盛り上がることなくバンドはフェードアウト。
再び解散となる。

2002年6月に初期メンバーだったロビン・クロスビーが42歳で亡くなる。
ヘロイン中毒からエイズを発症し、病気を苦にした自殺とも言われているそうだ。
その後もバンドは解散停止したままだったが、ベスト盤は何度も発表されている。

2007年にそのベスト盤「Tell the World: The Very Best of Ratt」発表を機に、スティーブン・パーシー、ウォーレン・デ・マルティーニ、ボビー・ブロッツァーがギグを行い、ラットは再々結成。
この年には日本でもウィンガーとのジョイント・ライブも行われた。
さらに2008年にはジョン・コラビが脱退し、後任として元クワイエット・ライオットのカルロス・カヴァーゾが参加する。

そして2010年4月、ラットは11年ぶりの新作「Infestation」を発表。
収録曲の異なる日本独自の企画盤までリリースされ、「LOUD PARK 10」出演のため来日も果たす。

奇跡の再々結成にファンも歓喜の涙・・かと思ったら、この後の展開は遅れてきたロックバンドあるあるな様相となる。
2012年にロビー・クレインが脱退し、懐かしのメンバーであるフォアン・クルーシエが復帰。
さらに2014年にはスティーブン・パーシーが再脱退。
ラットはまたも停滞する。

2015年、バンド運営や名称の権利を巡ってウォーレン・デ・マルティーニとボビー・ブロッツァーが対立。
昔のメンバーで組んでこそラットだと主張するウォーレンだったが、ボビー・ブロッツァーも「ボビー・ブロッツァーズ・ラット・エクスペリエンス」という長い名前で活動を開始。
両者は互いに訴訟を起こしたが、結果として亡くなったロビン以外の4人に権利ありとの裁定が下される。
この裁定を受け、ウォーレンとスティーブンとフォアンが結託し、ボビーをラットから除名する。

これで本流ラットも安泰かと思いきや、やはり人事異動は続く。
2018年にはウォーレンとカルロス・カヴァーゾが脱退。
現在はスティーブンとフォアンに2人の新メンバーを加えた4人がラットとして活動中とのこと。
ボビー側のラットもメンバー交代を繰り返しながらも継続はしているようだ。

以上がラットの長く波乱に満ちたストーリー。
バンド名や運営を巡って訴訟合戦に発展というのはよく聞く話ではあるが、ファンからはやはりあまり歓迎されていないらしい。
まあそうでしょうね。
ロックバンドのモメ事で喜ぶ変態は北半球でもアタシくらいでしょうし。

ボビー側ラットの評判もいまいちだそうだ。
「オレ一人でもラットを続けたる」というボビー・ブロッツァーはなかなか気骨のある男にも思えるが、解散前のラットでは特にバンドを牽引したり曲をたくさん作ったりという立ち位置ではなかった人だそうなので、やはり古いファンにとってはボビーのラットではインパクトが足りない・・という評価のようだ。

それにしても80年代に活躍したハードロックやメタルのバンドを調べると、ほぼもれなくグランジの波に(一度は)粉砕されていることがわかる。
どっちも未だにまともに聴いてないので、この現象は今もよく理解できないのだが、やはりグランジ恐るべし、カート・コバーンはすごい人である。(なんだそのまとめ)

というわけで、ラット。
作品としてはやはり80年代のアルバムの評価と実績が高いようだ。
なので聴くとしたらデビューアルバム「Out of the Cellar」から「Reach for the Sky」までを順に鑑賞するのが正しい姿勢と思われますが、みなさまのおすすめアルバムはどれなのか、教えていただけたらと思います。

 

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聴いてみた 第172回 ブラインド・ガーディアン

今日聴いてみたのはドイツを代表するパワーメタルバンド、ブラインド・ガーディアン。
88年のデビューアルバム「Battalions of Fear」を聴いてみました。

・・・などと軽く表明したけど、そもそもブラインド・ガーディアンの曲を聴くのは初めてである。
というかバンドについての知識も全然持ち合わせていない。
いつ頃登場したのかも何人組なのかも知らず、メンバーの名前も一切知らない。
なんとなくメタル学習をしたくなって、ユニオンで発作的に手に取っただけである。

Battalions-of-fear

ブラインド・ガーディアンは今も活動中で長い歴史を持っているため、取り急ぎバンド黎明期の一般教養を因循姑息的に学習。

結成は1984年。
西ドイツでまずハンズィ・キアシュとアンドレ・オルブリッチが組み、マーカス・ズィーペンとトーメン・スタッシュを誘ってルシファーズ・ヘリテージという名で結成された。
なおメンバー名の表記だが、みなさんドイツ人のためかサイトによってかなりゆらぎがある。
ボーカルのハンズィ・キアシュ(Hansi Kursch)は、サイトによってはハンシ・クルシュとかハンシ・キュルシュと書かれている。
サイトの中でも表記がバラバラだったりするが、ドイツ語発音に忠実な表記がおそらくハンズィ・キアシュなのだろうと思う。

バンドはレコード会社との契約直後にブラインド・ガーディアンに改名。
88年にデビューアルバム「Battalions Of Fear」を発表。
「Majesty」「Run for the Night」「By the Gates of Moria」「Gandalf's Rebirth」は、J・R・R・トールキンの「ロード・オブ・ザ・リング」を題材としており、また「Guardian of the Blind」はスティーブン・キングの「イット」をモチーフにしているとのこと。
こうしたファンタジーをもとにした楽曲作りは、その後も彼らのスタイルとなっていったそうだ。

またブラインド・ガーディアンはハロウィンの影響を強く受けたバンドとして知られており、2作目ではカイ・ハンセンがゲスト参加している。
ということは、ハロウィンのサウンドや楽曲に似ているのだろうか?
じゃあブラインド・ガーディアンももしかしたら聴けるかも・・・という淡く短絡的な期待を寄せながら聴いてみることにした。
(ハロウィンもアルバム1枚しか聴いてませんけど)

・・・・・聴いてみた。

なお買ったのは93年再発の日本盤CDで、LPにはなかった1曲が追加されている。

1.Majesty
2.Guardian of the Blind
3.Trial by the Archon
4.Wizard's Crown
5.Run for the Night
6.The Martyr
7.Battalions of Fear
8.By the Gates of Moria
9.Gandalf's Rebirth(ボーナストラック)

サウンドは確かに疾走感あふれるスピードメタルである。
どの曲もドラムはムダにせっかちでギターはキレ気味に鳴り、余裕をもって聴けるバラードなどはない。
しかもただ早いだけでなく、非常にメロディアスでハデな音がする。
1回聴いただけでも高度な技術に支えられた演奏であることはわかる。

他のバンドと比較できるほどメタルを聴いていないが、感覚的にはハロウィンよりメガデスに近い気がする。
特にドラムのムリヤリな急ぎ方や、どこか全体的に香る暗さはメガデスに通じるものがあると感じた。
いずれにしろメタルの一般的イメージにはことごとく合致する構成とサウンドで、嫌いではない。
好みでもないけど・・

ファンタジーをもとにした楽曲作りが彼らのスタイルだという話だが、収録曲全部がファンタジックでUSJっぽい物語曲(意味不明)かというとそうでもなく、「The Martyr」はキリストの受難がテーマであり、タイトル曲「Battalions of Fear」はレーガン政権の戦略的防衛構想を批判する内容とのこと。
このあたりは訳詞だけでなく時代背景や当時の世相も含めて解釈しないと、理解することは難しい。

問題はハンズィのボーカル。
キーは高めだがそれほど金属感はなく、また頻繁に出るシャウトもどこか投げやりで、圧倒される歌唱力・・のようには聞こえない。
正直言ってあまり好みの声ではなく、申し訳ないけどどの曲も同じに聞こえる。
コーラスワークにもそれほど感動は起こらなかった。
なので総合すると、ハロウィンのほうが自分の好みには合っていると感じる。

ロックには様々な構成要素やパートがあるが、自分の場合ボーカルがかなり重要なファクターである。
ボーカルの声が好みがどうかで、鑑賞の扉が開く角度がかなり違ってくるのだ。
もちろん声には「慣れ」もあるが、第一印象としてのハンズィのボーカルはかなり難易度が高いと感じる。
マイケル・キスクやキップ・ウィンガーにはあまり感じなかった、扉の重さを実感する。

これは「やっぱ音楽はボーカルだよ」などとエラそうにカマすウザい中年音楽ライター気取りのようなスタンスではなく(必死)、長いこと聴いてたらどうもそういうことだった、という結果論である。
メガデスやメタリカに今ひとつなじめない感覚が抜けないのも、デイヴ・ムステインやジェームズ・ヘットフィールドの声のせいだと思う。

というわけで、ブラインド・ガーディアン。
まだ評価を下せるほど聴き込んでませんが、自分にはハードルのやや高い音楽だと感じました。
やはりハンズィ・キアシュのボーカルに、もう少し慣れる必要がありそうです。
ここを乗り越えないと、他のアルバムには進めない気がしています。

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聴いてない 第289回 ラッシュ

カナダ最強のプログレバンド、ラッシュ。
気安くキャッチ書いてますが、実はカナダもプログレもさっき知ったばかり。
バンド名とニール・パートの名前をうっすら知っている程度で、1曲も聴いてないので実質何も知らない。
名前のイメージからなんとなくメタルやパンクなどを勝手に想像してましたが、全然違うようです。

なおイギリスにもラッシュというバンドが存在する。
カタカナで書くと同じラッシュだが、カナダがRush、イギリスがLushだそうだ。
どっちも聴いてないが。
今日はいつにも増してこんなレベルからいきなり路上教習スタート。

ラッシュは1968年にカナダで結成された。
メンバーは以下のみなさんである。
・アレックス・ライフソン(G)
・ジェフ・ジョーンズ(B)
・ジョン・ラトジー(D)

初めはザ・プロジェクションという名前で活動していたが、ジョン・ラトジーの兄の提案でラッシュに改名。
結成直後にジェフ・ジョーンズが脱退し、後任としてゲディー・リーが加入。

しかし結成からプロデビューまでは意外に時間がかかり、74年にようやくデビューアルバム「Rush(閃光のラッシュ)」をリリース。
アルバムのリリース直後、ジョンが体を壊しツアーにも耐えられないという理由で脱退。
アメリカ・ツアーを前に困ったアレックスとゲディーは急遽オーディションを実施。
合格したニール・パートが加入する。
・・・あっそう・・・ニール・パートって結成当時からのメンバーじゃなかったんスね。

そのニールが作詞を担当したことにより、音楽性や世界観も大きく変化し、それまでのハードロック路線から、前衛的なプログレッシブ要素を採り入れた路線に転換する。

75年に「Fly By Night(夜間飛行)」を発表。
プログレらしく組曲構成にしたりアコギを効果的に使用するなど、芸術性が向上した作品となった。
ラッシュはこの組曲を採り入れた大作志向が気に入ったようで、その後のアルバムでも何度も採用。
またプログレ標準飛び道具である変拍子や転調も好んで使用し、3人編成なのにものすごくたくさんの種類の楽器を使うなど、イエスクリムゾンなど大手プログレの影響を強く受けていることがうかがえる。

76年発表の「2112(西暦2112年)」は初期の名盤とされ、哲学的な歌詞と壮大なテーマを組曲で構成し、プログレとハードロックの融合サウンドで300万枚を売り上げた。

だがラッシュも80年代になるとかなり路線変更。
80年発表の「Permanent Waves」は、それまでの大作志向をやめて普通の長さの作品集となった。
これにはレコード会社や事務所の意向が強くはたらいており、レゲエやニューウェーブなどそれまであまりなじみのなかった音楽の要素を採り入れたり、ラジオ向けの短い曲を収録している。
このあたりの事情はイエスやジェネシスにも通じるものがある気がする。

そのポップとプログレとハードロックの混合スタイルの集大成が、81年のアルバム「Moving Pictures」。
ここまで培ってきたプログレ・ハードロック・哲学的歌詞をバックボーンに、ポップなメロディをプログレ風の組曲として高度な技術で演奏する、というラッシュにしかできないスタイルで表現されている。
セールスとしてもキャリア最高の全米3位を記録。
アメリカでは400万枚の実績を残している。
アルバムタイトルとジャケットにかすかな記憶はあるが、そんな名盤だったのね・・
収録曲「YYZ」はラッシュの代表インスト曲であり、ライブでも定番ナンバーだそうだ。
「YYZ」ってどういう意味?と思ったら、トロントのピアソン国際空港の識別コードとのこと。

次作「Signals」でラッシュはさらに変貌。
シンセサイザーを多用し、プログレ味もハード風味も薄まった80年代の若干チャラいサウンドに仕上がり、古参のファンからは評価されなかったらしい。
その後も80年代はシンセ前面押し出しの音でのアルバム作りが続く。
84年には日本公演も行われた。

91年の「Roll the Bones」ではファンクやジャズ、ヒップホップなど様々な音楽要素を展開。
方向性を見失ったかに思われたラッシュだが、93年発表のアルバム「Counterparts」では原点回帰。
ハードでヘビーなギターサウンドが戻り、80年代のキラキラしたシンセサウンドなんかなかったかのような音になった。
この回帰路線は次の「Test For Echo」でも継続。

しかし。
97年のツアー終了後、ニールの娘が交通事故で死亡する。
さらに翌年妻も癌で失い、精神的に大きなダメージを負ったニールは音楽活動を停止。
バイクで放浪の一人旅に出てしまい、バンドも停滞してしまった。

ラッシュの停滞は10年以上に及んだが、2001年になってようやく活動を再開。
翌2002年に新作「Vapor Trails」をリリースする。
キーボードもシンセサイザーも使わない武骨なサウンドで作ったアルバムだが、メンバーは音の仕上がりが不満だったらしく、2013年にリミックス盤を発売している。

しばらくライブとライブ盤発表を続けた後、バンドは2012年にSF風の物語を綴る歌詞とハードロックの楽曲で構成されたコンセプトアルバム「Clockwork Angels」をリリースする。

2015年にはデビュー40周年を記念して「R40」ツアーが行われた。
だがニール・パートは腱鞘炎が悪化しており、ツアーはバンドとして最後になると発表された。
さらに2018年にはゲディーがニールの引退を発表。
2020年にニールは亡くなったので、ゲディーとアレックスはニールが病気であまり長くはないことを知っていたのだと思われる。

以上がラッシュの壮大な歴史である。
毎度のことながら知ってた話は一切なし。
ニールが放浪したら停滞し、ニールが引退した時点でラッシュの歴史も終わっているので、ニールがバンドの命運を握っていたことになる。
作詞も大半の曲をニールが担当していたので、バンドはニールを中心に動いてきたと言える。

ニール・パートを紹介するサイトには、その圧倒されるドラムセットの写真や図が掲載されていることが多い。
周囲360度に配置された巨大な要塞セットがトレードマークだそうだが、ライブではセットした楽器は全て必ず使うそうで、無駄なものは置かない主義とのこと。

ニール本人はキース・ムーンに影響を受けてドラムや作詞を始めたと語っている。
キースの他に、ジョン・ボーナム、マイケル・ジャイルズ、ジンジャー・ベイカー、フィル・コリンズの名も挙げているが、意外にも?スチュワート・コープランドも影響を受けたドラマーの一人だそうだ。
影響を受けるほどにはキャリア違わないのでは・・?と思って調べたら、ニールとスチュワートは同い年だった。(1952年生まれ)
なおデイヴ・グロールは8歳でラッシュを聴いて音楽に目覚め、ニール・パートのドラムを聴いてドラマーになりたいと思い、独学でドラムを始めている。

ラッシュの魅力としては他にゲディー・リーのハイトーンなボーカルもある。
「鶏の首を絞めた声」と言われるそうですけど、これ褒めてるんでしょうか・・?
多くのサイトに書いてあるのが、「ロバート・プラントに似ている」という点。
ただラッシュのファンのみなさんも「まあ似てはいるけどプラントほどじゃない」という感覚は共通しているようで、自分もラッシュの曲をいくつか動画で聴いてみたが、確かにプラントほど圧倒されるような声でもないと感じた。
やはりロバート・プラントは唯一無二のボーカリストであり、ゲディー・リーよりはルー・グラムのほうが似ていると思う。

高い演奏歌唱技術と独自の様式や世界観を持つ最強の3人組バンド・・のはずなのだが、なぜか日本ではあまり人気がないというのが、ラッシュの悲しい現実である。
本人たちにとっては、日本で人気がないなんて話はどうでもいいことなんでしょうけど。
本国では絶大な人気を誇るが日本では人気どころか知名度も危うい・・という事例はいくつかあるけど、ラッシュも残念ながら該当してしまうようだ。

実際自分も今までFMでラッシュの曲に出会ったことは一度もないし、雑誌で記事を目にした記憶もない。
友人の口から「あのラッシュの曲がさぁ・・」と発されたことも一度もない(と思う)。
日本公演も84年以降行われず、「来日しない最後の大物バンド」というキャッチ?まで付けられたそうだ。
なんでだろう・・?
こういうケースって、周囲のスタッフの力の入れようが大事だとは思うんだけど、ラッシュは本国側と日本側のどっちに(どっちも?)やる気がなかったんですかね?

というわけで、ラッシュ。
作品数が多いので今さら全盤制覇はムリですが、聴くとしたら一番売れた「Moving Pictures」がいいかなと勝手に考えています。
相変わらずプログレにはなじめない自分ですが、こんな永世素人でも聴きやすいアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

 

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聴いてない 第288回 スウィート

その昔姉がよく聴いていたカセットテープに入っていたある曲。
自分もメロディやサウンドは今でもほぼ脳内再生が可能なほどがっちり記憶してるが、残念なことに誰の何という曲かが全くわからない。

姉に聞いてみるのが早いんだろうけど、メロディを姉の前で歌わねばならず、もし姉の記憶が喪失してたら全くの歌い損である。
そんな面倒な展開はイヤだ。
今なら歌詞をネットで検索してみるという手はあるが、その歌詞は「アーイ!」とか「ユー!」「オケーイ!」くらいしかわからず(全然ダメじゃん)、結局不明のまま45年以上経過。

手がかりは「1975年頃のヒット曲」くらいしかない。
姉が聴いていたのが75年頃であり、同じテープにあったのがジョージ・ハリスンの「二人はアイ・ラブ・ユー」やレインボーの「虹をつかもう」、ミニー・リパートンの「Lovin' You」などだったのだ。
いずれも確かに75年頃のヒット曲である。
あの曲も75年のヒットで間違いない。

そこで2年ほど前からYou Tubeにある「1975年頃の洋楽ヒット曲集」みたいな動画を探して見ていた。
すぐに見つかるかと思いきや、なかなかあのメロディは出てこない。
前後の年のヒット曲にも広げて捜索してみたが、全然見つからず、いったんはあきらめた。

そして1年ほど経った先週。
ふと思いついて再度「1975年頃の洋楽ヒット曲集」を検索。
ついにあの曲にたどりついた。
それはスウィートの「Fox On The Run」。
長年不明だった曲はこれだったのか・・・

ということでいつにも増して長くつまんない前置きですが、スウィート。
バンド名も今回初めて知りました。
知ってたのは「Fox On The Run」だけやなと思ったら、73年の「Blockbuster」も聴いてることが判明。
安売りオムニバスCDに収録されてたのを聴いてただけで、サイレンの音がうっとうしいめんどくさい曲という印象しかない。

まあ長年の疑問が解明されてめでたいことは確かなので、スウィートについてもう少し調査することにした。

バンド結成の中心はブライアン・コノリー(Vo)とミック・タッカー(D)。
二人はウェインライツ・ジェントルメンというバンドに在籍していたが、脱退後にスティーブ・プリースト(G)、アンディ・スコット(B)を加えてスウィートを結成した。
実はアンディ加入の前にフランク君というギタリストがいて、スウィートショップという名でシングルをいくつか出したが全然売れず、フランク脱退・バンド名変更・レーベル変更という小刻みな変遷もあったそうだ。

なお源流であるウェインライツ・ジェントルメンには、イアン・ギランとロジャー・グローバーも参加していた・・と書いてあるサイトが複数見つかる。
ただブライアン・コノリーとミック・タッカーが在籍したのはギランが脱退した後で、みんないっしょにバンドやってた時期はないようだ。

デビューは1968年。
いくつかシングルを発表するも全然売れず、71年にRCAレコードに移籍。
このレーベル変更がバンドの転機となる。
ここで登場するのがマイク・チャップマンとニッキー・チンというコンポーザー・コンビ。
彼らが作った曲「Funny Funny」や「Co-Co」「Little Willy」がイギリスで大ヒット。
73年の「Blockbuster」でついに全英1位を獲得する。
・・・そうなの?
自分にはあまりいいと思えない曲だったんですけど・・・

しかしチャップマンとチンの力は絶大で、続く「Hell Raiser」「The Ballroom Blitz(ロックンロールに恋狂い)」「Teenage Rampage(ティーン・エイジ狂騒曲)」も大ヒットを記録した。
いずれも二人の共作である。
レコード会社やプロモーターは、スウィートを当時流行のグラムロックバンドとして売り出そうという戦略だったらしい。

驚くのは72年から73年にかけて早くもベスト盤が出ている点。
スウィートとしてはオリジナルアルバム1枚しか出てない時点でもうベスト盤が出るという、なんかジャニーズの新人バンドみたいな展開だが、それだけ当時人気があってヒット曲も多かったということだろう。

74年にセカンドアルバム「Sweet Fanny Adams」を発表。
チャップマン&チンの人気コンビは他の仕事でスウィートに手が回らなくなり、またメンバーもこの二人の音楽性に飽きてきたところだったので、大半の曲はバンドのメンバーの手で作られた。
チャートでは全英27位とまずまずの出来だったが、これは前作までの人気の反映とみられ、実際シングルでヒットした曲はない。

しかしこの自立が次の成功につながる。
75年にメンバー4人の共作である「Fox On The Run」が全英2位・全米5位を記録する大ヒットとなる。
これが日本でもオンエアされ、姉のカセットテープに収まったというわけか・・

バンドはこのヒットによって自立を確信し、76年のアルバム「Give Us a Wink(甘い誘惑)」はチャップマン&チンの力を一切借りることなく制作。
前年ヒットした「Action」も収録され、全米では27位を記録。
中にはズバリ「Cockroach(ゴキブリ野郎)」という曲もあるんですけど、これヒットしてたんでしょうか・・・?
ちなみに「Action」はデフ・レパードがカバーしているそうだ。

78年にアルバム「Level Headed(甘い罠)」をリリース。
邦題がまだグラムっぽいのが気になるが、本国では引き続き人気となりシングル「Love Is Like Oxygen」が全英9位のヒット。
しかし残念ながらこれがスウィートとしては最後のトップ10入りとなる。

翌79年にアルバム「Cut Above The Rest(標的)」を発表するが、全英全米とも100位にも入らず惨敗に終わる。
この年にブライアン・コノリーが脱退。
バンドは残った3人で活動を継続したが、ブライアン脱退のダメージは大きく、81年には解散してしまう。

ところが85年に過去のヒット曲メドレーのシングル「It's the Sweet Mix」が全英45位のヒットとなった。
そうなの?・・・・知らない・・・
日本のFMでもオンエアされたんだろうか?

このヒットを機にメンバーはそれぞれスウィートとしての活動を再開する。
ブライアン・コノリーは別のメンバーを集めて新生スウィートを結成。
一方アンディ・スコットとミック・タッカーもスウィートを再結成しツアーも行った。
たまにメンバー同士が共演することもあったらしいが、2つのスウィートは合併することもなく別々に活動。

アンディのスウィートはメンバーチェンジをしつつ、オリジナルアルバム制作やライブなども行い、現在も活動中とのこと。
ブライアン・コノリーは97年に亡くなったため、結局元のメンバーでのスウィート再結成は実現しなかった。
2002年にはミック・タッカーが、また2020年にはスティーブ・プリーストも亡くなっている。

スウィートの歴史絵巻は以上である。
そもそも2曲しか知らなかったので、名前も含めてこんなバンドであることも初めて知った。

「Fox On The Run」は改めて聴くとけっこうおもしろい。
イントロにはグラムやテクノっぽい音が聞こえ、リズムはタテノリでガヤ系だが、コーラスも厚くギターソロもちゃんとある。
クイーンに似ているという評価があるが、確かにそのとおりだと思う。
キッスを思わせるサウンドもあり、捜索中は「あの曲はもしかしてキッスか?」と思っていたくらいだ。

スウィートを語るサイトには「レコード会社やプローモーターに利用されたバンド」という表現が書かれていることが多い。
本人たちの音楽性や方向性とは違った曲を歌わされ、ヒットもしたんでこれでいけよという指示のもと活動はしたけど、そうじゃない!と自立して証明したのが「Fox On The Run」というわけだ。
自立前後の作品を比較してみることも、スウィート鑑賞の必修科目のようだ。

というわけで、スウィート。
長年の捜索がようやく終了したんで安心してそれっきりになる可能性が高いですけど、そもそもみなさんはこのバンド、ご存じでしょうか?
「Fox On The Run」以外でおすすめの曲があれば教えていただけたらと思います。

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聴いてない 第287回 スライ&ザ・ファミリー・ストーン

たとえば。
ぷく先輩やカナさんやモンスリー師匠やゲッツさんという列強の洋楽論客とともに世界の山ちゃんあたりで音楽談義に興じたとしよう。
レベルの高い話題に適当に相づちを打ちながら聞いていて、もし「やっぱスライは暴動だよ」「いやいやフレッシュでしょう」などといった展開になったら?
もはや相づちすら打てず、ひたすらメニューをながめて「次何を頼もうかな」と熱心に選んでいるフリをするしかない。
そんなバンド。
以上です。

・・・世界のスライに対してあまりにも雑な扱いで申し訳ないけど、自分の偏差値はこんなもんです。
聴いてないのはもちろん、そもそもよく知らない。
スライさんという人がやってるバンド、という低次元な認識はあるが、それ以上のことは何もわからない。
まあそんなのはスライに限らないけど。
スライ&ロビーというユニットも名前だけ知っていたが、実はこれも同じスライさんがやってるユニットだと思っていた。
・・・すいません、このスライさんはスライ・ストーンに憧れてスライを名乗ってる別の人(スライ・ダンバー)なんですね。
プリティ長嶋みたいなもんかな。(ずいぶん違う)

前置き長くなりましたが、スライ聴いてません。
ロックの長い歴史の中で非常に重要な存在であることはおぼろげに認識してはいるけど、1曲も知らない。
聴いてない度も1。
ただし「暴動」「Fresh」のジャケットだけはなぜか見覚えがある。

このままでは世界の山ちゃんに集合してもメニューを見るだけの時間が過ぎゆくだけなので、スライ&ザ・ファミリー・ストーンについて召集令状が来る前に学習することにした。

スライ・ストーンことシルヴェスター・スチュアートは、1943年テキサス州ダラスに生まれた。
父は教会の助祭としてギターを弾き、母はゴスペル・グループで歌うという音楽一家で5人兄弟の長男として育つ。
9歳でカリフォルニアに移住した後、1952年に弟妹たちと共に「スチュアート・フォー」というコーラスグループを結成。
さらに16歳でソロデビューして「Long Time Away」という曲でヒットを飛ばす。

なお「スライ」とは、シルヴェスターが小学生の頃に友だちがSylvesterのスペルをSlyvester=スライベスターと間違えたことがきっかけでついたあだ名とのこと。
スライ少年はその後ギターを演奏するようになり、高校時代には複数のバンドに参加。
人気が出てそのままプロに・・と思ったら、卒業後の仕事はカリフォルニアのラジオDJや、小さなレコード会社のプロデューサーだったそうだ。
実績としてはボビー・フリーマンやビリー・プレストン、またグレース・スリックが在籍していたザ・グレイト・ソサエティというバンドをプロデュースしている。

やがて裏方の仕事よりも自身がステージに立ちたいと考え、シングル数枚を発表するがあまり売れなかった。
66年には高校でバンドを組んでいたシンシア・ロビンソンと共にスライ&ザ・ストナーズを結成。
翌67年には弟のバンドと合体してスライ&ザ・ファミリー・ストーンが誕生する。
メンバーは以下の7人。
・スライ・ストーン(Vo・K)
・フレディ・ストーン(Vo・G):スライの弟
・ローズ・ストーン(Vo・K):スライの妹(ロージー)
・シンシア・ロビンソン(Vo・Trumpet):スライの高校時代の友人
・ラリー・グラハム(Vo・B):シンシアの親戚
・ジェリー・マルティーニ(Sax)
・グレッグ・エリコ(D)

スライからラリーまでが黒人、ジェリーとグレッグは白人という男女人種混合バンドである。

67年にアルバム「A Whole New Thing(新しい世界)」でデビュー。
シングル「Dance To The Music」はビルボードのポップチャートで8位、R&Bチャートでは9位のヒットとなる。

69年のシングル「Everyday People」で全米1位を獲得。
8月にはあのウッドストック・フェスティバルに出演し、10曲も演奏した。
アルバム「Stand!」も売り上げ300万枚以上となり、「Hot Fun in the Summertime」「Thank You」「Everybody Is a Star」のシングル3曲をチャートの上位に送り込んだ。
デビュー3年目にして歴史に名を残す快挙を成し遂げたことになる。

しかし。
成功の陰でスライは麻薬や周囲からの圧力などで大きなダメージを負っていた。
レコード会社からの売り上げ伸ばせ圧力も当然あったが、スライを最も苦しめたのはバンド内外の圧力だった。
当時バンド周辺にはブラックパンサー党などの黒人解放運動家たちが存在し、バンドの音楽性に口出ししたり白人メンバーを追い出すようスライに迫ったりしていたそうだ。
この圧力はファミリー・ストーンのメンバーたちとの仲にも影響し、バンド内にも摩擦が生じるようになる。

そんな圧力と混乱の中でもアルバム「There's a Riot Goin' On(暴動)」は発表された。
レコーディングにあたって、ファミリー・ストーンのメンバーがスライといっしょに演奏することを拒むほど、バンド内の亀裂は大きくなっていた。
仕方なくスライは大半の曲でボーカルや楽器を一人で録音し、メンバーの演奏のほとんどはオーバーダビングで録音された。
こんな異常事態の中作られた「暴動」だが、人気は非常に高く、今もファンクの名盤として評価されている。

71年にはグレッグ・エリコが脱退し、翌72年にはラリー・グラハムも解雇され、メンバーチェンジが相次ぐ。
ただバンドの人間関係悪化は作品の質や人気にはあまり影響がなく、73年のアルバム「Fresh(輪廻)」とシングル「If You Want Me to Stay」も高い評価を得た。
この「Fresh」のドロップキックジャケットはやはり強烈で、80年代の貸しレコード屋や音楽雑誌でも何度も目にしている。(目にしただけ)

74年にアルバム「Small Talk」をリリース。
メンバーの出番は少なく、実質スライのソロという見方もあるそうだ。
この頃にはスライの状態は心身ともにさらに悪化しており、ライブでもドタキャンを繰り返すようになっていた。
また麻薬や銃の不法所持、脅迫などで何度も警察に逮捕されている。
こうしてスライ・ストーンのイメージはどんどん悪化。
ファンやレコード会社やプロモーターからも見放されるようになり、75年1月のラジオシティ・ミュージックホールでの公演は席が1/8しか埋まらず大失敗に終わる。
これがスライ&ザ・ファミリー・ストーンの事実上の解散につながる最後の公演となってしまった。

バンド解散後スライ・ストーンはすぐ停滞したわけではなく、ソロアルバムを4枚も発表している。
残念ながら評価も成績もバンド全盛期には遠く及ばず、以降ボビー・ウーマックやアース・ウィンド&ファイアーの作品に参加したり、ジョージ・クリントンとの共演もあったが、話題になることはあまりなかった。
この後スライはほぼ隠居状態となる。

93年にスライ&ザ・ファミリー・ストーンがロックの殿堂入りを果たし、セレモニー会場にメンバーが久しぶりにそろって登場。
だがメンバーとの活動が復活するようなこともなく、スライは再び隠居。
後にドキュメンタリー映画「Coming Back For More」で明らかになるが、スライはこの頃マネージャーのジェリー・ゴールドスタインとの契約を無視されて収入がなくなり、生活保護や慈善団体の寄付で暮らしていたそうだ。
その10年後、ザ・ファミリー・ストーンのメンバー6人が新しいアルバム録音のためスライにも参加を呼びかけたが、スライはこれを拒否。
かつての輝きを失い生活にも困るほどの落ちぶれた姿を、昔の仲間には見せたくなかったのだろうか。

事態が少しずつ動き出すのは2005年頃から。
2005年7月、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの曲をカバーやサンプリングして作られたトリビュートアルバムが発表される。
2006年度グラミー賞授賞式の会場に、このアルバム参加者が集まってスライの曲を演奏したが、この時スライ本人も登場。
ザ・ファミリー・ストーンのメンバーと共に久しぶりに演奏した。

この共演がきっかけで、バンドは翌年からヨーロッパ各地のジャズ・フェスティバルに少しずつ参加するようになる。
2008年には東京で奇跡の初来日公演が行われた。

2010年には前述のドキュメンタリー映画「Coming Back For More」が公開される。
映画ではスライがマイケル・ジャクソンに提供するための曲を作っていたことも明らかにされている。

2011年に周囲の支援を受けて、元マネージャーのジェリー・ゴールドスタインを詐欺や契約不履行などで提訴し、5000万ドルの損害賠償を請求。
(500万ドルと書いてるサイトもあり。10倍違うんですけど・・?)
ゴールドスタイン側も名誉毀損でスライを訴えるという訴訟合戦に発展した。
この混乱の中でもスライはアルバム「I'm Back! Family & Friends」を果敢にリリース。
訴訟費用と浪費で再び生活に困窮し、一時期トレーラーハウスで暮らすなど波乱は続いたが、2015年に裁判には勝訴した。

以上がスライ・ストーンおよびザ・ファミリー・ストーンの華麗かつ波乱に満ちた名勝負数え歌である。
知ってた話はもちろんゼロ。
なお学習にあたり、いくつかのヒット曲もYou Tubeで見てみたが、やはり聴いたことのある曲はなかった。

80年代にほぼ隠居してたという点が、聴いてない最大の理由。
FMでスライ&ザ・ファミリー・ストーンの曲を録音どころか聴けたことも一度もない。
自分にとっての洋楽三大講師である柏村武昭・小林克也・東郷かおる子からも、スライ関連情報を一度も受け取ったことがない。(うるさいよ)

ファンクというジャンルを確立させたミュージシャンとして、ジェームス・ブラウンという大御所もいるが、ファンの人たちから見ると「パワフルなJB、クールでロックなスライ」というイメージがあるそうだ。
この言葉どおりであるならば、自分にとって聴けそうなのはスライのほうではないかという気が(わずかに)する。
気がするだけで玉砕・無定着も十分あり得ますが・・・

というわけで、スライ&ザ・ファミリー・ストーン。
自分みたいな万年素人が手を出して平気な音楽なのかすらわかりませんけど、もし聴くとしたらやはり名盤「暴動」「Fresh」ははずせないでしょうか。(小声)
他のアルバムも含め、おすすめの作品を教えていただけたらと思います。

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聴いてない 第286回 ワン・チャン

すっかり一般に普及して意味も運用も変わってしまった言葉として「テンパってる」「ワンチャン」があります。
どちらも元々は麻雀用語で、「テンパってる」はあと1枚で上がりの状態(=聴牌)なので良いことのはずが、普及したとたんに「余裕のない・切羽詰まってる・相当ヤバい」といった危険な状況を示す言葉に変わってしまいました。
コレ変えたの誰?
15年くらい前に、会社で電話取ったバイトの若い女性から「なんかテンパってる人から電話です」と言われた時は心底驚いたもんです。(遠い目)

一方「ワンチャン」はOne Chanceの略で、終盤で負けが込んできても一発逆転を狙う希望に満ちた言葉だったけど、今は「可能性あり・もしかしたら・案外いける」みたいな幅広い運用が可能なライトな意味合いだそうです。
しかももうナウいヤングな若者の間ではすでに古い言葉らしい・・

そんな郷愁のワンチャンス・・とは全く関係なさそうなバンド、ワン・チャン。
元はハン・チャン(Huang Chung)だったそうだが、やはり半荘とは関係ないようだ。
いずれにしても聴いてません。
86年の「Let's Go!」だけ聴いているので、聴いてない度は2。
そもそもどこの国の何人組バンドなのかも知らない。

そこでワン・チャンについてワンチャン狙いでテンパりながら調査敢行。
だが調べてみたら意外に情報が錯綜していることが発覚。

バンドの源流は77年頃にイギリスで発生。
ニック・フェルドマンはイギリスの音楽雑誌「Melody Maker」にバンドやろうぜ募集の広告を掲載。
それにジェレミー・ライダーが応募し、バド・メリックとポール・ハモンドと共にインテルクタルズというバンドを結成した。

インテルクタルズは1年後に解散したが、ジェレミーとニックは別のメンバー3人と「57Men」を結成。
その後2人が抜けて3人となった時点でバンド名をハン・チャン(Huang Chung=黄忠)とした。

メンバーは以下のみなさんだが、結成当時は全員が芸名を名乗っていた。
・ジャック・ヒューズ(Vo・G・K 本名ジェレミー・ライダー)
・ニック・デスピック(G・K 本名ニック・フェルドマン)
・ダレン・ダーウィン(D 本名ダレン・コスティン)
・ホッグ・ロビンソン(Sax 本名デイヴ・バーナンド 少し遅れて参加)

81年にシングル3曲、82年にアルバム「Huang Chung」、シングル「「Dance Hall Days」を発表したが全然売れず、メンバーは別のプロジェクトでバイトみたいな活動をするなど苦労が続いた。
バンドはこの後レーベルをアリスタからゲフィン・レコードに変更。
デイヴ・バーナンドは売れないバンドあるあるな「音楽的な違い」を理由に脱退した。

バンドに転機が訪れたのは83年である。
まずゲフィン・レコードの提案で、バンド名をワン・チャン (Wang Chung) とした。
イギリス人にはハン・チャンよりも発音しやすいからという理由だそうです。

さらに84年にセカンド・アルバム「Points on the Curve」を発表。
シングル「Don't Let Go」が全米38位、再録した「Dance Hall Days」は全米16位・全英21位まで上昇。
これでゲフィンに認められたワン・チャンは、ロマンティックスやベルリンと共にアメリカでのツアーを行い、カーズの「ハートビート・シティ」ツアーでオープニング・アクトも務めることができた。

しかしツアー後にドラムのダレンが脱退。
通常ここまでメンバー脱退が続くとバンドとしては維持不能で解散・・という展開が大半だが、ワン・チャンのサクセスストーリーはむしろここからであった。

ワン・チャンは85年に映画「To Live and Die in L.A.」のサントラ盤を制作。
このサウンドトラックはそのままワン・チャンの3枚目のアルバムとなり、アメリカのビルボードチャートのサウンドトラック部門でトップ10入りを果たす。

さらに翌年シングル「Everybody Have Fun Tonight」が全米2位、「Let's Go!」は9位 「Hypnotize Me」は36位を記録し、4枚目のアルバム「Mosaic」もバンド最大のヒットとなった。
87年夏のアメリカ公演では、ティナ・ターナーのワールド・ツアーのオープニング・アクトを務めた。

しかしワン・チャンが順調だったのは残念ながらここまで。
89年に5枚目のアルバム「The Warmer Side of Cool」を発表するが、シングル「Praying to a New God」は全米63位止まりで、アルバムも商業的には失敗。
ジャックとニックはそれぞれ他のプロジェクトに参加するようになり、ワン・チャンは90年に事実上の解散をする。

ニック・フェルドマンはカルチャー・クラブのジョン・モスと一緒にプロミセッド・ランドというユニットを結成し、92年にアルバムもリリースしている。
一方ジャック・ヒューズは90年の「ガーディアン」を含む様々な映画のサウンドトラック制作に参加した。
またジャックは95年ジェネシスのトニー・バンクスと組んで「Strictly Inc」という名でセルフタイトル・アルバムを発表している。

ワン・チャン再結成は意外に早く、97年に新曲「Space Junk」も収録されたベスト盤発表を機に復活。
ただし2000年代はスポット的に他のバンドとツアーに参加する程度の活動だった。
ワン・チャンはABCやベルリン、カッティング・クルー、ミッシング・パーソンズといった懐かしの面々と共に2009年6月から行われた「リジェネレーション'80sツアー」に参加している。

2010年にワン・チャンは過去のヒット曲の再録音4曲と新曲4曲を収録したダブルEPをリリースし、プロモーションのためアメリカツアーも行った。
また同じ年にはビートルズの「Rain」をウクレレでアレンジして発表する。

2012年12月には23年ぶりのスタジオアルバム「Tazer Up!」をリリース。
2013年にはダレン・コスティンも参加して一回限りのパフォーマンスを行った。

2016年にジャック・ヒューズが脱退し、カッティング・クルーのガレス・モールトンをボーカルに迎えてライブを開始するが、ジャックは翌年復帰。
なんかワン・チャンて解散や脱退からの復帰が早いスね。
2019年にはプラハ・フィルハーモニー管弦楽団と共に「Orchesography」と題したベストアルバムをリリースしている。

ワン・チャンの来歴は以上だが、毎度のことながら全然知らない話ばかりだった。
最大のヒット曲「Everybody Have Fun Tonight」のPVをYou Tubeで見たが、やはり聴いたことはない曲だった。
ただサウンドは80年代そのものであり、「Let's Go!」と雰囲気は近いと感じる。

さてワン・チャンを調べている間に、バンド以上に(失礼)興味を持ったのがプロデューサー情報の錯綜であった。
84年頃にドラムのダレンが脱退するが、プロデューサーであるピーター・ウルフを新しいドラマーとして採用し、ワン・チャンは新曲の録音を続けた・・とある。
ただしピーターはバンドの公式メンバーとはならなかったそうだが。
このピーターさんに関する情報が、書いてあるサイトによって異なるのだ。

1 スターシップの「We Built This City」を手掛けた辣腕プロデューサー
2 J.ガイルズ・バンドのボーカル

ピーター・ウルフと言えば大半の洋楽ファンは2を思い浮かべるだろう。
自分も「あのピーター・ウルフがワン・チャンのプロデュースを?」「そもそもスターシップの大ヒット曲もピーター・ウルフがプロデューサーだったの?」と非常に驚いた。

だが。
よく調べてみたら、1と2のピーター・ウルフは別人であることが判明。
正しくは、ワン・チャンのプロデューサーは1のピーター・ウルフである。
サイトによっては「J.ガイルズ・バンドのボーカル、ピーター・ウルフをプロデューサーに起用し・・」などと書ききっており、別人情報を混同してしまっている。
まあワン・チャン活躍当時はネットも普及してなかったし、きっと日本の雑誌にもそんな誤情報が堂々と書かれていたんだろう。
自分も深掘りしていなければそのままこの記事に誤情報を引き写して炎上していたはずである。(炎上はしないよ)

ということで、ワン・チャン。
日本での人気や知名度もさっぱりわかりませんし、CDが入手できるかどうかも不明ですが、聴くなら当然最大のヒット作「Mosaic」ですよね?
これも含め、おすすめのアルバムや深掘り情報があれば教えていただければと思います。

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聴いてみた 第171回 ビートルズ その2

洋楽を聴くようになったきっかけはビートルズ、という中高年は非常に多いと思うが、自分もそうである。
以来40年以上にわたってシングルからアルバムから再結成やら企画盤やら書籍雑誌から懐かしの映像まで様々鑑賞してきた。
もうええかげん聴いてない曲も公式アルバムもないやろとふんぞりかえっていたが、先日曲目をながめていて、どうも脳内再生できない曲が多い・・と寒気を感じたアルバムがあることが発覚した。
「With the Beatles」である。

「聴いてないアルバムなどない」と思い上がっていた自分だが、実はビートルズのLPレコードを買ったことは一度もない。(ダメだろ)
FMで全曲録音した・友人にレコードを借りて録音した・・という極貧鑑賞ばかりである。
公式アルバムの鑑賞履歴を記すと以下のようになる。

・Please Please Me 友人に借りた
・With The Beatles 聴いてない
・A Hard Day's Night 友人に借りた
・Beatles For Sale FMで全曲録音
・Help! 中古CD購入
・Rubber Soul FMで全曲録音
・Revolver 友人に借りた
・Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band FMで全曲録音 その後CD購入
・Magical Mystery Tour 友人に借りた
・The Beatles FMで全曲録音
・Yellow Submarine 友人に借りた
・Abbey Road FMで全曲録音 その後中古CD購入
・Let It Be 友人に借りた その後中古CD購入

「Help!」だけは長いこと聴いてない自覚があって、10年ほど前に中古CDを購入した。(遅い・・)
だが「With The Beatles」は聴いてないことすらきちんと認識していなかった。
アルバムとしてまるごと正しく鑑賞していない・・ことはうっすらわかっていたが、収録曲は「全部どこかでバラバラに聴いてきたはず」と勘違いしていたのだ。

「With The Beatles」の曲目を見ていて「まあ1曲2曲は知らないかも・・」と初めは余裕だったのが、「あれ?これも知らない・・」というのが次々と出てくる。
イヤな汗が出てくるのを感じながら、やはりまともに聴いてないことを自覚。
予定ではジョンリンゴのソロでも鑑賞するかなと思ってたところを(本当か?)、急遽緊急事態としてディスクユニオンで「With The Beatles」を購入した。

With-the-beatles

鑑賞前に概要を斜めに学習。
「With The Beatles」は、デビュー作「Please Please Me」発表からわずか8ヶ月後の1963年11月22日にパーロフォンから発売された。
8曲のオリジナル曲(レノン=マッカートニー作7曲とジョージ作1曲)と、ロックンロールとモータウンR&Bのヒット曲カバー6曲が収録されている。
レコーディングは前作よりも時間をかけて行われ、7月から10月までの3ヶ月間にわたって録音された。
全14曲のうち、イギリスでシングルとして発売されたものはない。
・・・そうなの?知らなかった・・・

当時のLPレコードにはよくあった話だが、本国以外ではタイトルや収録曲が微妙に異なり、アメリカでは「Meet The Beatles!」と「The Beatles’ Second Album」に分割して収録されてリリースされている。
また日本では曲順の違う「ステレオ! これがビートルズ Vol.2」というタイトルのレコードとして66年に販売された。

なので日本ではたやすく聴ける状況になかった・・というわけでもない。
現にその他のアルバムは友人たちが日本盤や輸入盤を入手しており、たまたま自分は聴く機会がなかっただけだ。

若い時に聴けなかったのは残念だが、今気づいてよかったと思う。
手遅れだけど・・
果たして本当に聴いてない曲はいくつあるのだろうか。

・・・・・聴いてみた。

1.It Won't Be Long
2.All I've Got To Do
3.All My Loving
4.Don't Bother Me
5.Little Child
6.Till There Was You
7.Please Mister Postman
8.Roll Over Beethoven
9.Hold Me Tight
10.You Really Gotta Hold On Me
11.I Wanna Be Your Man
12.Devil In Her Heart
13.Not A Second Time
14.Money(That's What I Want)

結論から言うと、1・5・9・12はやはり初めて聴く曲だった。
どこかで聴いたことがある、曲の一部分だけ知っていた、メロディと曲名がやっと一致した・・というレベルではなく、いずれも全く聴いたことがなかった状態。
14曲中4曲も知らなかった・・・(悪寒)

このトシになってまだビートルズの「新曲」を聴けるとは思わなかった。(勝手新曲だけど)
しかも1・5・9はカバーではなく、レノン&マッカートニーのオリジナルである。
FMでエアチェックしたこともなかったので、日本ではオンエアされる機会も少なかったのだろうか?
若い頃の体験って大事ですね。(何言ってんだか)

アルバムを通して聴くと、カバー曲のほうがいいと感じる。
「Till There Was You」「Please Mister Postman」「Roll Over Beethoven」「Money」など、名曲ぞろいだ。
もちろんオリジナル曲「All My Loving」「I Wanna Be Your Man」「Not a Second Time」も名作であることに異論はない。

初めて聴いた曲の中では「It Won't Be Long」がジョンが元気でいいと思う。
やはり初期のビートルズはジョンが牽引していたのは明白である。
「Rubber Soul」までのビートルズでは、ジョンが作って歌いポールとジョージがコーラス、というパターンが、やはり完成度が高くて好きである。

それ以外の「Little Child」「Hold Me Tight」「Devil In Her Heart」はどれもそれほど印象に残らない。
ただ若い時に聴いていれば、評価は全く違っていただろう。
「Little Child」はジョンとポールが時間がなくて急いで作った曲で、初めはリンゴが歌う予定だったらしい。

ジャケットもこれまた有名なハーフシャドウのモノクロ写真。
もちろん見覚えもあるしタイトルとともによく知っている。(聴いてなかったけど)
ロバート・フリーマンという写真家が、ホテルの廊下に椅子を並べて1時間あまりで撮影したもので、4人の誰も笑っていない。
当時のアイドルバンドのレコードジャケットとしては異様だったせいか、EMIはこの写真をジャケットに使用することに難色を示し、ブライアン・エプスタインとジョージ・マーティンが説得してようやく採用されたそうだ。

それにしても。
今さらだが極貧の自分でもよくここまでビートルズを聴いてきたもんだと思う。
FMで全曲オンエアされていたのも貴重ではあったが、やはりでかいのは友人の存在だ。
「Please Please Me」「A Hard Day's Night」「Magical Mystery Tour」「Yellow Submarine」を貸してくれたのは中学の同級生M君。
厳密にはMの所有してたレコードではなく、近所に住んでいたMの親戚のお兄さんのものだった。

当時Mは、お兄さんのアパートに勝手に入って置いてあるレコードを好きに聴いていい、という恵まれた環境にあった。
お兄さんは大学に行っててほとんどアパートにおらず、Mは上記の各アルバムを自分にもどんどん録音させてくれた。
お兄さんのコレクションには公式盤以外の「Beatles No.5!」「Something New」「Yesterday And Today」などもあり、これも全部録音させてもらった。
たまたまその中には「With The Beatles」がなかったのだ。

まあ全部タダで聴かせてくれたMとお兄さんには感謝しかない。
その後Mとはポールの日本公演にいっしょに行く予定だったが、ポール逮捕により公演はマボロシとなり、Mはブツブツ文句を言いながらチケット払い戻しもしてきてくれた。
Mとは別の高校に進学したので、すっかり疎遠になってしまい、今何をしてるのかすらわからない。
もしMに会うことがあったら、「オレ最近やっと「With The Beatles」聴いたんだよ」とバカな報告をすることにしよう・・・

というわけで、「With The Beatles」。
当たり前ですけど、聴いてよかったです。
中身に感動・・よりも、無事聴けたことに対する安堵、というのが正直な心境。
こんな恥ずべき事態をわざわざ世界中に発信してるという、東アジア最大級のスカ記事になりましたが、すでにBLOG全体が18年間同じような調子なんで、どうでもいい話ですけど。
これで本国公式盤は全て制覇した・・ことにしたいと思います。
今後も引き続き4人のソロ作品鑑賞研究に精進いたします。

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聴いてない 第285回 ダム・ヤンキース

聴いてはいないし活動期間も短いけど、知名度はかなり高いであろうダム・ヤンキース。
自分の鑑賞は非常に雑で、アルバム「Don't Tread」はレンタルで聴いたはずだが、「Don't Tread on Me」という曲しかテープには残っていない。
聴いてない度は3のはずだが、実質2である。(どうでもいい)

ダム・ヤンキース、どこのサイトでも「スーパーグループ」と形容されている。
メンバーと出身バンドを見れば確かにそういうことになる。
・ジャック・ブレイズ(元ナイト・レンジャー)
・トミー・ショウ(元スティクス
・テッド・ニュージェント
・マイケル・カーテロン

ナイト・レンジャーもスティクスも80年代はリアルタイムで聴いており、ジャックとトミーの名前も知っていたので、ダム・ヤンキース結成のニュースで驚いたことも覚えている。
テッド・ニュージェントのことはあまりよく知らないが、ハードロックやメタルを学習するとよく目にする名前である。
マイケル・カーテロンは技巧派セッションドラマーとして知られていて、メジャーなキャリアスタートがダム・ヤンキースだったそうだ。
その後アクセプトやジョン・フォガティやフレディ・マーキュリーなどの作品に参加し、現在はレーナード・スキナードに在籍している。

93年頃にテッドがソロ活動に戻り、ダム・ヤンキースは解散したが、解散した時期は明確には知らなかった。
アルバム2枚で解散というのも今回初めて知った。
なのでファーストアルバムを聴けば全盤制覇である。(偉くない)

さて全盤制覇を目指し(棒読み)、事前学習のためいつもの通りウィキペディア日本語版をのぞいてみた。
・・・が、何か変だ。
冒頭にグループの紹介文があるのは当然だが、続く目次のトップが「解散後の動向」ってどういうこと?
ふつうはメンバーの生い立ちとか略歴とか出会いとか結成前後のエピソードなどがあって、活動記録の後におカネや女でモメて解散・・というバンドの歴史が細かく書かれているはずだ。

なのにダム・ヤンキースについては、
  1 解散後の動向
  2 代表曲
  3 メンバー
という目次。
要するに活動期間中の案内が抜けている。
何コレ?
どこからか圧力でもかかったんだろうか・・?

・・・まあウィキペディアはバンドの公式サイトではないし、活動期間の克明な記録を絶対に記載しないといけない規定でもないが、こういうケースは初めて見た。
仕方がないのでウィキペディア英語版を中心に調査続行。

英語版でも結成に関する細かな情報は書いていない。
メンバーはそれぞれ元のバンドの実績伸び悩みを受け、1989年にダム・ヤンキースを結成する。
セルフタイトルのデビューアルバムは、ロン・ネヴィソンのプロデュースにより90年にリリースされ、2004年にダブルプラチナムを獲得した。
このアルバムからジャックのリードシングル「Coming of Age」や、トミーが作曲した「Come Again」、ジャック・トミー・テッドの共作「High Enough」のヒットが生まれた。
なお「High Enough」はリーバイスのCMで使用されたそうだ。

デビューアルバムリリース後、バンドは18ヶ月に及ぶワールドツアーを行い、バッド・カンパニーやポイズンなどと共演。
アメリカでのツアーは湾岸戦争と重なり、バンドはアメリカの国旗を広げて愛国心を強調した。
ちなみにテッド・ニュージェントはアメリカ音楽界きっての保守派として知られ、その右傾化思想からか度々問題発言で物議を醸すお騒がせ芸能人とのこと。

92年に2作目で結果的に現時点でラストアルバムでもある「Don't Tread」を発表。
前作ほどは売れなかったものの、「Mister Please」「Where You Goin' Now」「The Silence Is Broken」などのヒット曲が収録され、ゴールドを獲得した。

順調かと思われたダム・ヤンキース。
しかし93年にテッド・ニュージェントがソロ活動に戻ることになり(なんで?)、バンドは自然消滅。
スーパーグループ特有の人間関係のもつれ・・という楽しそうなモメ事があったかどうか不明だが、グランジ・オルタナの台頭という時代背景もあったようだ。

テッドがいなくなった後、トミー・ショウとジャック・ブレイズはデュオユニット「ショウ・ブレイズ」としてアルバムを録音することにした。
レコーディングにはマイケル・カーテロンも3曲参加し、ジャーニーの陽気なドラマーであるスティーブ・スミスも参加した。
このアルバム「Hallucination」は、音楽評論家からの評価は高かったが、レーベルからのサポートがほとんどなく、プロモーションや全国ツアーはワーナーブラザーズによってキャンセルされてしまった。
この頃のレコード業界はオルタナティヴやグランジ・バンドに力を入れるようになっており、80年代風の古くさい音楽を続けるミュージシャンには急速に冷たくなっていったためである。
当時メタルがグランジに粉砕されたのは知ってたけど、ダム・ヤンキースの面々も影響を受けていたとは・・・

結局トミー・ショウとジャック・ブレイズはそれぞれ元のバンド、スティクスとナイト・レンジャーに戻った。
だがトミー復帰後のスティクスは全く安定せず、ドラムのジョン・パノッツォが亡くなったり、トミーとデニスの確執が再発してバンドが分解したり名前を巡って訴訟に発展したりと、インディーズのプロレス団体みたいな楽しい展開に。
一方ナイト・レンジャーはスティクスに比べ安定していたようで、アルバムを出したり来日公演したりといったマメな活動が続いた。

トミー・ショウとジャック・ブレイズは、それぞれのバンドに在籍しながら2007年に再びユニットとして60~70年代フォーク・ロックの名曲カバーアルバム「Influence」を発表。
サイモン&ガーファンクルの「I Am a Rock」「The Sound of Silence」、イエス「Your Move」、EL&P「Lucky Man」、ママス&パパス「California Dreamin'」などが収録されている。

トミーとジャックは今もダム・ヤンキースの名曲「High Enough」を、それぞれスティクス、ナイト・レンジャーのライブでも演奏しているそうだ。
(スティクスのアルバムにも収録されている)

・・・調査終了。
やっぱり知らない話ばかりだった。
ダム・ヤンキースとしてはテッド脱退時点で消滅している。
活動期間は4年程度。
ブラインド・フェイスやハニー・ドリッパーズ、バッド・イングリッシュやパワー・ステーションなど、短命はスーパーグループの宿命とも言える。
なおダム・ヤンキースは解散後21世紀になってからライブ盤や企画盤が出てるらしい。

ダム・ヤンキース結成は知っていたが、聴くのに少し出遅れており、レンタルで聴いてみたのは2枚目のアルバム「Don't Tread」だった。
借りた時も2枚目という認識もあまりなかったと思う。
当然ナイト・レンジャーかスティクスを期待して聴いたものの、感想は「どっちでもなかった」。
「Don't Tread on Me」も悪くはないが、他でも聴けそうな音だと感じていて、それは今も変わらない。

今ネットでファーストの各曲を聴いてみると、2枚目の曲よりも全然いい。
やはり最初にこっちを聴いておくべきだった。

ということで、もう結論は出てますが、ダム・ヤンキース。
アルバム「Damn Yankees」を聴いて全盤制覇を高らかに宣言したいところですが、ショウ・ブレイズのカバー盤「Influence」も聴いてみようかと思っています。
皆さまの鑑賞履歴やうんちくなど教えていただけたらと思います。

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聴いてない 第284回 ザ・レンブランツ

1曲だけ聴いてそれっきり、しかもそれは大ヒット曲というアーチストは結構いる。
思いつくだけでもヒューバート・カードン・マクリーンブラインド・メロンブラックウォーターボーイズなどが該当する。
今日紹介するザ・レンブランツも同じ状態。
大ヒット曲を聴いてまあまあ気に入っておきながら、その後他の曲やアルバム鑑賞にまで進むことはなかったという定番のパターンである。

ザ・レンブランツ、聴いてるのは95年の大ヒット曲「I'll Be There for You」だけ。
柏村武昭指導のFMエアチェックではなく、MTVの音声をテープに録音したのだが、映像は全く覚えていない。
なお同時期に録音したのはオアシスの「Roll With It」、スキャットマン・ジョン「Scatman」、TLC「Waterfalls」、ボン・ジョビ「Something For The Pain」などの懐かしいヒット曲たち。
聴いてない度は2である。

さてレンブランツを調べてみて、「I'll Be There for You」はアメリカのテレビドラマシリーズ「フレンズ」のテーマソングということを初めて知った。
当時日本でこのドラマの視聴は可能だったんだろうか?
ちなみにこの曲、日本の「鶴瓶上岡パペポTV」でも使われたそうだ。
やはり見てませんでしたが・・

ということでもしかしたら当時のナウいヤングはみんな知ってるレンブランツ・・かもしれない恐怖におびえながら、内偵開始。
しかし、心の支えウィキペディア日本語版は極めて淡泊で4行くらいしか書いておらず、詳細な経緯や実態が全然わからない。
しかたなく英語版をムリヤリ翻訳・・・といういつものパターンで調査を進めた。
最近はGoogleよりもDeeplという翻訳サイトを使用している。
これが非常に優秀で、自分みたいな日本語すらカタコトの三流でもかなりわかりやすい翻訳をしてくれるのだ。
以下は主にDeepl翻訳により得た情報のまとめ。

ザ・レンブランツは、1989年にダニー・ワイルドとフィル・ソレムによって結成されたアメリカのオルタナティブロック・デュオである。
ダニーは70年代にザ・クイックというバンドに所属しており、80年代にはソロアルバムを数枚リリースしている。
ダニーとフィルはあるパーティで出会い、お互いデビッド・ボウイが好きなことで意気投合。
その後二人はグレート・ビルディングスというパワーポップな4人組バンドを結成。
81年にアルバム「Apart From The Crowd」を発表したが、この1枚だけで解散。

89年にザ・レンブランツとして独立したダニーとフィルは、バンドと同名のファーストアルバムを発表。
アルバムは全米チャート88位という地味なスタートだったが、シングル「Just the Way It Is, Baby」は14位を記録し、最初の成功を収めた。
・・・そうなの?聴いたことがない・・・
日本ではヒットしてたんだろうか?

92年のアルバム「Untitled」では、「Johnny, Have You Seen Her?」が54位、「Rollin' Down the Hill」は映画「ダム・アンド・ダンバー」に使用された。

そして95年、彼らの代表作となる「I'll Be There for You」が大ヒット。
90年代以降、ビルボードなど全米のチャートはジャンルが細分化されており、ビルボードチャートの記録では最高17位だが、「Hot100」で11週連続1位、また「メインストリームトップ40」や「アダルト・コンテンポラリー」でも1位を記録している。
さらにカナダでも1位、イギリスやオーストラリアやニュージーランドでは3位を記録。
アルバム「LP」にはトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのベルモント・テンチとリトル・フィートのビル・ペインが参加している。

しかし。
せっかく大ヒットを生み出したのに、2人は活動方針を巡って対立し、コンビを解消してしまう。
98年にはダニーが「ダニー・ワイルド&ザ・レンブランツ」を名乗り、アルバム「Spin This」をリリースする。

ここまでは「お金まわりが良くなると人間関係が悪化」というロックバンドあるあるな話だが、その後が少し珍しい展開。
二人は2000年に再会し、翌年レンブランツとして「Lost Together」をリリースした。
なので解散してた期間は数年程度だったことになる。

しかしその後新曲を次々発表・・とはならなかったようだ。
2005年に彼らは少し変わった形で企画盤を発表する。
「Choice Picks」というお気に入りの曲を再録音したアルバムだが、異なるレーベルから別バージョンとしてリリースされ、それぞれ別の新曲も1曲ずつ収録されている。
この試みが受けたのかどうかは不明。
何で普通のベスト盤にしなかったんだろう?

2006年には今度こそ本当にベスト盤「Greatest Hits」を発表。
全20曲からなるキャリア回顧録で、グレート・ビルディングス時代の曲も2曲収録されている。
現時点での最新作は、前作から実に18年ぶりとなる2019年発表の「Via Satellite」。

今回も当然知ってた話は全くないが、本国ではずうっと人気者でヒット曲連発・・という話でもなかったようだ。
日本での知名度もかなり厳しい状況にあると思われる。

最大のヒット曲「I'll Be There for You」はアメリカのテレビドラマシリーズ「フレンズ」のテーマソング・・ではあるが、曲としてフルバージョンが完成したのはドラマがヒットした後だそうだ。
しかもレンブランツの二人だけで純粋に作って歌った曲ではないらしい。

元々はドラマの音楽監督や製作総指揮担当者がメロディと歌詞を書き、フィル・ソレムがそれに手を加えてドラマ用の42秒しかない曲ができあがった。
ところがドラマ「フレンズ」が爆発的にヒットし、ナッシュビルの放送局がこの42秒しかない曲をループして流し始めた。

レンブランツはレコード会社からアルバム収録のためにこの曲をフルバージョン化するよう促された。
二人はハイ喜んで・・とやる気茶屋の店員みたいに引き受けたかと思いきや、実はそんなに嬉しくなかったらしい。
当時二人が取り組んでいたのは、もっと暗めで内省的でニュアンスに富んだ、少しヒネたヘビーなロックで、「フレンズ」みたいなナウいヤングの青春ドラマとは対極にあるような音楽だった。
なので二人はしぶしぶ?「I'll Be There for You」のフルバージョン化を実行。

完成された曲は、それでもやはりレコード会社の思惑に沿うものではなかったようで、結局やっぱりドラマ関係者によって大幅に手が加えられ、陽気で軽快な曲に仕上がった。
結果的にこれが大ヒットし、アルバム「LP」はプラチナ・ディスクになったので、レンブランツの二人も反論のしようがなかっただろう。

フルバージョンが公開された後も、レンブランツはこの曲への関与を控えめにしていた。
しかし「I'll Be There for You」の大ヒットは、その後の二人の人生も大きく変えてしまう。
レコード会社にせっつかれて突然ツアーに出た二人は、「自分たちよりも曲(とドラマ)のほうが圧倒的に有名」であることに気づかされる。
二人がステージに登場しても歓声がいまいち上がらず、「I'll Be There for You」を演奏し始めてやっと大歓声。
しかも演奏中ずっと「フレンズ!」と叫ぶファンばかり。
「I'll Be There for You」を終えると観客の半分が退場してしまったそうだ。
キツい・・・

またフィルは、殺到するメディアのインタビューを早朝から受けて声を酷使することに悩むようになった。
当時のレンブランツの曲ではフィルのボーカルはとてもキーが高いところにあり、おかげで声が枯れやすく、のどを回復させるための十分な休みもなかった。
でもダニーはライブ中心で活動したがり、できればスタジオにこもってやりたかったフィルと意見が合わなくなった。
そんな不満が積もり、フィル・ソレムは解散を決意する。
しかもフィルはその後離婚もしてしまい、レンブランツで稼いだおカネはほとんど離婚(訴訟?)に費やしてしまった。
「元妻がいなければ、もっとラクな人生だった」とド本音も漏らしている。

ただしその後レンブランツとして復活し、今も継続中なので「あんな曲もう二度とやりたくない」という感情はないようだ。
「フレンズ」の出演者たちとも仲がいいらしい。
「I'll Be There for You」のプロモ・ビデオにも、「フレンズ」の出演者が登場している。

「I'll Be There for You」は、確かにノリのいいリズムに覚えやすいメロディで、コーラスワークや手拍子などビートルズを基盤にしたサウンドという評価も共感できる。
ただレンブランツの本来の方向性とは異なるそうなので、このノリを他の曲にも期待して聴くとたぶん戸惑うことになるんだろう。
自分みたいなこれしか知らない三流リスナーが、気安くアルバムに手を出すと痛い目に遭いそうなバンドなのかもしれない。

というわけで、ザ・レンブランツ。
意外な歴史も持つユニットのようですが、日本での人気も知名度も全く見当がつきません。
聴くとしたら当然「I'll Be There for You」収録の「LP」からだとは思いますが、どなたかお詳しい方がおられましたら、おすすめのアルバムをご指導いただければと思います。

 

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