聴いてない 第280回 リトル・フィート

前回採り上げたレーナード・スキナードは、自分が最も洋楽に親しんでいた期間が活動休止期間だったという残念な事例だったが、似たような状態にあったバンドを発見した。
リトル・フィートである。

リトル・フィート、名盤「Dixie Chicken」を一度鑑賞したはずだが全く定着せず、今は1曲も脳内再生できず、最後に聴いたのがいつなのかも覚えていない。
聴いてない度は4だが、実質全く聴いてないに等しい。
略歴を調べてわかったが、79年に解散し87年再結成なので、80年代のMTVやFMエアチェックといった産業ロック文化からはかなりはずれているバンドのようだ。
実際エアチェックできた経験もなく、雑誌で記事を目にしたこともない。

妙なアルバムジャケットだけがいくつか見覚えがあり、そのセンスから勝手にプログレなのかと思っていた。
しかしウィキペディア日本語版では「ニューオーリンズR&B、ブルース、カントリー、ジャズなど、アメリカン・ルーツ・ミュージックの影響を色濃く押し出しているサウンドが特長。」などとある。
少なくとも大英帝国プログレや西海岸メタルとは相当遠い集団のようだ。
レーナード・スキナード以上にハードルが高そうな気もするが、とりあえず大幅な誤解を是正するべく生態を調査することにした。

リトル・フィートは、フランク・ザッパのバンド「マザーズ・オブ・インベンション」のメンバーだったローウェル・ジョージを中心に1969年に結成された。
メンバーは以下のみなさんである。
・ローウェル・ジョージ(V・G)
・ビル・ペイン(V・K)
・ロイ・エストラーダ(B)
・リッチー・ヘイワード(D)

ロイも元マザーズ・オブ・インベンションのメンバーで、ビルは参加こそなかったがオーディションを受けた経験はあったそうだ。

バンドは71年にデビューアルバム「Little Feat」、翌年「Sailin' Shoes」の2枚を発表するが、全然売れず、ロイ・エストラーダが脱退。
その後ケニー・グラッドニー(B)、ポール・バレア (V・G)、サム・クレイトン (パーカッション)が加入。
この3人がサウンドにニューオーリンズ・スタイルのファンク要素を採り入れ、バンドに変革をもたらすことになる。

73年にアルバム「Dixie Chicken」を発表。
ローウェル自身がプロデューサーを務め、ボニー・レイットもバックボーカルで参加している。
ニューオーリンズ・サウンドの大胆な採り入れが功を奏し・・というのが一般的な評価ではあるが、当時バンドはロサンゼルスを拠点としており、実はニューオーリンズを含む南部にはメンバーの誰も行ったこともなかったそうだ。
いいのかそんなんで?
続く74年の「Feats Don't Fail Me Now(邦題「アメイジング!」)」はファンキー路線をさらに強化したサウンドで、全米36位を記録した。

75年の「The Last Record Album」から、サウンドと方向性が微妙に変化する。
ポール・バレアとビル・ペインはジャズに傾倒し始め、ジャズにあまり興味がないローウェルと意見が合わないことが増えていく。
またアルバムの曲順をめぐってもメンバー間でかなりモメたことも明らかになっている。
さらにリッチー・ヘイワードはレコーディング直前にオートバイ事故に遭い、制作や進行に影響も出たそうだ。

この方向性の変化は、メンバーの力関係やローウェルの人生にも大きな影響を及ぼすことになる。
バンドがジャズやフュージョンにじわじわ移行するにつれて、ローウェルの曲作りへの貢献は減少していく。
ローウェルはバンドへの関心も意欲も薄れ、麻薬中毒も加わって健康状態も悪化していくことになる。

バンド運営にイヤ気がさしたローウェル・ジョージは、79年3月にソロアルバム「Thanks I'll Eat It Here」をリリースする。
内容はローウェルがサイドプロジェクトとして取り組んできたカバーバージョンのコレクションであり、バンドからはリッチーやビルも参加。
さらにボニー・レイットやJ.D.サウザーなどの大物芸人や、またデビッド・ペイチやジェフ・ポーカロなど後のTOTOのメンバーも参加している。

同時にローウェルは、リトル・フィートの解散を宣言。
インタビューではポール・バレアとビル・ペインのジャズ傾倒を批判し、二人をはずしたリトル・フィートで再スタートする計画があることも明らかにした。

しかし。
ローウェルは79年6月、ソロアルバムのツアー中にバージニア州アーリントンのホテルで心臓発作を起こして死亡。
音楽性の違い・意見の相違から、脱退や解散てのはまあロックバンドだったらよく聞く話だけど、まさかリーダーが解散宣言直後に死ぬとはメンバーの誰も思ってなかっただろう。
ローウェルの死はインタビューのわずか11日後だったそうだ。

メンバーはローウェルの残した音源に追加レコーディングを行い、リトル・フィートとしてのラストアルバム「Down on the Farm」を79年11月に発表した。
その後コンピレーション盤が出たり、たまにメンバーが集まってステージで演奏したりはあったが、リトル・フィートとしての活動は86年まで行われなかった。

再結成のきっかけは、イギリスの歌手ヘレン・ワトソン。
1986年、リッチー・ヘイワード、ポール・バレア、ビル・ペインが、ヘレンのデビューアルバム「Blue Slipper」に参加する。
ちなみにこのアルバムには、元イーグルスのバーニー・レドン、TOTOのスティーブ・ルカサーも参加したそうだ。
3人は続く2枚目の「The WeatherInside」にも参加し、盛り上がったところで旧メンバー5人とクレイグ・フラーとフレッド・タケットを加えた7人編成でリトル・フィートを再結成する。

再結成のキーマンは新加入のクレイグ・フラーだった。
バンドは88年にアルバム「Let It Roll」を発表する。
クレイグは多くの曲を共作し、リードボーカルの大部分を担当した。
アルバムにはリンダ・ロンシュタットやボニー・レイット、マリリン・マーティンやボブ・シーガーも参加し、全米36位のゴールドディスクを獲得。
ローウェル・ジョージのいないリトル・フィートを受け入れるのが最初は困難だったファンも多かったが、クレイグの才能はバンドに新しい風を吹き込み、バンドは見事にカムバックを果たす。
新生リトル・フィートは90年に「Representing the Mambo」、91年に「Shake Me Up」をリリース。

順調に見えたリトル・フィートだったが、93年に異変が生じる。
ここまでバンドを牽引してきたクレイグは、ツアーで家族と離れる時間が長いことを嫌がって脱退を決意する。

クレイグの後任に選ばれたのは、女性ボーカリストのショーン・マーフィーだった。
ショーンは71年にモータウンで歌手として活動を始め、ミート・ローフやボブ・シーガー、エリック・クラプトンムーディー・ブルース、グレン・フライらとの共演経験を持つ。
リトル・フィート再結成後のアルバム3枚全てにもバックボーカルとして参加していた。

ボーカルが女性に代わったことで、雰囲気は大幅にチェンジ。
その後歴代最長の15年以上にわたりショーンはメインボーカルを務め、バンドは4枚のアルバムを発表。
99年と2000年には来日公演も行われた。
ただしファンの中にはローウェル期・クレイグ期以外のリトル・フィートは認めない、という人もいるらしい。
こういう評価はドゥービー・ブラザーズディープ・パープルでもよく見られるので、やはりロックバンドにおいてボーカリストというのは非常に重要な存在なんだと思う。

バンド史上最長ボーカリストを誇るショーンだったが、2009年に意外な形でバンドを去る。
ショーンによれば、自身の意志決断による脱退ではなく、バンドから解雇されたとのこと。
一方バンド側は「我々は彼女とは別の道を歩むことを選択した」との声明を発表している。
双方の言い分にやや食い違いはあるようだが、実態はメンバーがショーンを追い出した、という話。
メンバー解雇もロックバンドあるあるな展開ではあるけど、15年以上やってきた女性ボーカリストを野郎どもが追い出した、というのは珍しいケースかもしれない。
いったい何があったんだろうか?

ショーンが去った直後、ドラムのリッチー・ヘイワードは肝臓癌治療のため活動休止を発表。
代役としてゲイブ・フォードがドラマーを務め、バンドは活動を続けた。
リッチー回復を願ってチャリティコンサートが開催され、ファンがリッチーの治療費に寄付できるウェブサイトも立ち上がった。

その後リッチーは一時回復し、2010年7月バンクーバー島で開催された音楽祭でステージには上がったものの、ドラムキットの後ろに座っただけで叩くことはなかったそうだ。
リッチー本人もファンも回復して再びドラムを担当することを希望していたが、残念ながらかなわず2010年8月に亡くなった。
リッチーの死後、ゲイブ・フォードがドラマーとして正式加入する。
バンドは結局ショーンの後任ボーカルを加入させず、ゲイブ加入の6人編成で10年間活動する。
活動は主にライブ中心で、この期間のスタジオ盤は2012年の「Rooster Rag」のみであった。

2019年10月、ポール・バレアも肝臓癌のため死去。
後任ギタリストとしてスコット・シャラードが加入。
さらに翌年ドラマーがトニー・レオンに代わり、バンドは現在も活動中。

以上が長く複雑なリトル・フィートの歴史である。
当然知ってた話は一切なし。
柏村武昭もリトル・フィートについてはなんにも教えてくれなかった。
冒頭述べたとおり、自分の産業ロック鑑賞エアチェック集中期間とバンド活動休止期間が見事に重なっていたため、聴く機会に恵まれなかったという不幸な言い訳バンドである。

ただ、88年に活動再開してアルバムも出して、リンダ・ロンシュタットやマリリン・マーティンやボブ・シーガーも参加し、全米36位のゴールドディスクを獲得・・といった勇ましい出来事があったのに、全然知らなかったのはなんか残念だ。
88年というと微妙ではあるが、まだなんとかFMやMTVの音声を60分テープに録音してはいた時期である。
事務所もレコード会社も当時の日本を魅力的なマーケットとして見ていなかったのだろうか?
もしかしたら柏村武昭も小林克也も「今週は再結成を果たしたリトル・フィート特集です!」くらいの企画はやってたのかもしれないが、いずれにしろ自分はリトル・フィートの曲を聴いたり録音したりは全くできなかった。

レーナード・スキナードもそうだが、リトル・フィートもバンドの中心人物が不慮の死を遂げてしまい活動休止という、非常に過酷で悲惨な歴史を持っている。
それぞれの事情はあるものの、重要なリーダーを失った後、残ったメンバーがチャラい80年代の芸能界で名門バンドを復活させる気になんかとてもなれなかった・・のではないだろうか。

というわけで、リトル・フィート。
自分の場合、学習プログラムは確定しており、まず「Dixie Chicken」を再履修し、歴代のボーカルごとの各期の代表作を学習していく・・・という流れが適正な更正コースと思われる。
「Dixie Chicken」再履修段階で玉砕する可能性も高いですが・・
各期の名盤や、それ以外のおすすめアルバムがありましたら、ご提案いただければと思います。

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聴いてみた 第169回 ジョージ・ハリスン その2

ビートルズのドキュメンタリー「Get Back」が配信開始となり、ネットでもプロアマ問わずレビューをあちこちで見かけるようになった。
ただし自分はまだ「Get Back」を見ていない。
ディズニーどころか映画全般を見ないのに、「Get Back」のためだけにディズニープラスに入会するのもなぁ・・と躊躇している次第。(貧乏人)
それでも予告編など断片的に映像を見てるうちに、再びジョンとポールのソロ作品学習の義務感が高まりつつある。(高まってるだけ)

しかし。
よく考えたら(考えなくても)、ジョージ・ハリスンについては16年前に「All Things Must Pass」を聴いて以来、全く学習は進んでいない。
しかも「次回は「Cloud Nine」を試してみようと思います」などとほざいておきながら、例によって誰も見に来ないのをいいことに16年放置。
急遽我に返ったわたくしは予定していたジョン・レノン学習をキャンセルし(虚言)、ジョージ・ハリスン鑑賞任務を忠実に遂行することにしました。

Cloud9

「Cloud Nine」は1987年の作品で、前作「Gone Troppo」から5年ぶりのリリース。
全米8位・全英10位を記録し、ジョージのキャリアでは最大のヒットアルバムである。
ジェフ・リンとの共同プロデュースで、この共同制作がトラベリング・ウィルベリーズ結成、ビートルズ・アンソロジー活動へとつながっていくことになる。

ジョージは前作「Gone Troppo」発表後、年々チャラい方向に変化していく音楽産業に不満を感じ、80年代初頭にはとうとう曲作りやレコーディングをやめてしまう。
レコーディングの代わりにジョージが没頭したのは、別荘暮らしや庭いじりや映画製作といった趣味っぽい作業だった。
たまにサウンドトラックやチャリティーソングなども手がけたが、偉大な元ビートルズは音楽的には5年ほど沈黙の状態にあった。
ホントの理由は本人に聞いてみないとわからないが、ジョン・レノンの死も少なからず沈黙に影響したものと勝手に思っている。

だが86年頃からなぜかジョージ・ハリスンの創作意欲が復活する。
ここで登場するのが、ELOの活動を停止したばかりのジェフ・リン。
ELOやめてヒマでお金も欲しそうなジェフ・リンに、ジョージは新しいアルバムを共同制作するよう依頼。
ジョージのやる気復活を聞いて、リンゴ・スターエリック・クラプトンエルトン・ジョンなど大物芸人も参加し、ゴージャスなアルバム「Cloud Nine」が完成した。

ジョージのやる気は営業方面にも発揮される。
前作では全然やらなかったプロモーション活動も積極的に行い、メディア嫌いだったはずが新聞雑誌のインタビューにもどんどん答えた。
効果は絶大で、英米のマスコミはこぞってアルバムを絶賛。
アルバムは全米8位、先行シングル「Got My Mind Set on You」は全米1位を記録する。
現時点で元ビートルズが記録した全米1位は、この曲を最後に出ていないそうだ。

そんな大ヒットアルバム「Cloud Nine」だが、聴いてない理由は特にない。
「Got My Mind Set on You」はリアルタイムで聴いたし、ジェフ・リンの音なので避ける理由は何もないはずだが、たまたま小岩の友&愛に在庫がなかったとか持ち合わせが足りなかったなど、つまらない事情でレコードを借りなかったと思われる。
大衆的なサウンド展開がどういう評価を受けてたのかはよくわからないが、おそらくド素人の自分の耳には一番合う音だと思うので、安心して聴いてみることにした。

・・・・・聴いてみた。

1.Cloud 9
メロディは物悲しいが、サウンドはトップからいきなりジェフ・リンの音。
これはありがたい。
愚かな感想だけど、ELOのボーカルだけジョージに変わったような曲。
クラプトンとの日本公演でも演奏した曲なのでCDで聴いてるはずだが、あまり印象には残っていない。

2.That's What It Takes
ジョージとジェフとゲイリー・ライトの共作。
ゆるやかなリズム、ばすばす鳴るドラムはそのままウィルベリーズへの流れである。
終盤はギターとコーラスが効果的に響く。

3.Fish on the Sand
少しテンポアップした軽快なリズム。
バックに流れるエレクトリックな音がますますELOである。
ジョージのややか細く頼りないボーカルも、意外にこのサウンドには合っている。

4.Just for Today
ジョージの作品としては意外な気がするが、ゆったりとしたピアノバラード。
ピアノはゲイリー・ライトが弾いている。
雰囲気は「Isn't It a Pity」に似ている。

5.This Is Love
再びアップテンポなELO調。
ジョージとジェフの共作で、シングルカットされており(全英55位)、プロモ・ビデオも作られている。

6.When We Was Fab
これもジェフとの共作だが、Fabとはビートルズの人気絶頂の頃の愛称「Fab Four」から来ている。
また文法的には「We Were」としないといけないところを、単数形wasでビートルズは唯一無二の集団でワンチームであったことを強調している、との説がある。
ジョージがビートルズ時代を思い出して歌詞を書き、ジェフと二人で様々なサンプリングを行ってサウンドを作ったそうだが、確かに「I Am The Walrus」を感じさせる音がする。
プロモ・ビデオにはリンゴやエルトン・ジョン、さらにセイウチの着ぐるみをかぶった左利きのベーシストが登場している。
このベーシストが本当にポールなのかが当時話題になり、ジョージもポール出演を匂わせる発言をしていたそうだが、どうやらポールはスケジュールが合わず参加はしていなかったらしい。

7.Devil's Radio
LPではここからB面。
これも日本公演で披露しているが、やはりあまり印象に残っていない・・
ただこの曲でもジョージは楽しそうで、ボーカルに合いの手を入れるようなギターはクラプトン。
ピアノでエルトン・ジョンも参加している。

8.Someplace Else
やや暗めのスローバラード。
ジョージのバラードはそれほど得意ではないが、基盤はジェフ・リンの音なので安心して聴ける。
この曲ではジョージがスライドギターを多用。

9.Wreck of the Hesperus(金星の崩壊)
この曲だけ邦題が付いている。
珍しく?ジョージがパワフルに歌う。
ここでもギターはクラプトン。

10.Breath Away from Heaven
中国風のメロディにジョージのゆったりボーカル。
こんな曲があったとは・・面白いサウンドだ。

11.Got My Mind Set on You
全米1位の大ヒットナンバーが最後に登場。
この曲だけはリアルタイムで聴いていた。
日本のFM番組でも盛んに流され、簡単に録音できたのだ。
渋谷陽一は曲紹介で「ジョージ・ハリスン、久々のシングルですが、とても元気です!」と、倉持アナウンサーが天龍を紹介するみたいにテンションが上がっていた。(←伝わらない例え)
なおジョージが1位を獲ったのは1973年の「Give Me Love」以来とのこと。
オリジナルはラディ・クラークという人の作品で、1962年にジェイムズ・レイという黒人歌手が歌ったが、あまりヒットもしなかったそうだ。
カバーだとは知っていたが、そんなに古い作品だったとは知らなかった。
ジョージの物静かなイメージからはずいぶんと離れた、はじけるリズムとサウンド。(←ダサい表現)
たぶんジョージはもともとこういった楽しいロックも好きで、それをジェフ・リンがうまいこと誘導したんじゃないかと思う。

以下はボーナストラック。

12.Shanghai Surprise(上海サプライズ)
ジョージが86年に製作した、マドンナとショーン・ペン主演映画の主題歌。
映画をジョージが作ったのは知っていたが、曲は初めて聴いた。
あまり明るくない中華風メロディで、不思議な雰囲気。
一緒に歌っている女性はジョージの幼なじみのビッキー・ブラウンという歌手。

13.Zig Zag
これも映画のためのジェフとの共作で、シングル「When We Was Fab」のB面に収録された曲だそうだ。
どこか古い感じのメロディで、歌詞はほぼタイトルの繰り返し。

14.Got My Mind Set on You (Extended Version)
11の別バージョンが収録されている。
文字通り少し長く、またイントロや間奏の音が違う。
大幅に違うわけではないが、シングルバージョンのほうがいいと思う。
ちなみにカバーに至った経緯は、セッション中の偶然の会話から始まったとのこと。
ジム・ケルトナーとゲイリー・ライトがこの曲のリズムについて話しているのを聞いたジョージが「えっ!おまいらその曲知ってたんか?」と反応。
ジョージはデビュー前にアメリカでジェイムズ・レイのアルバムを買っていたのでもちろん知っていたが、それまでこの曲を知っている人なんか会ったことがなかったそうだ。
3人ともお互いにコアな曲を知っていたということで盛り上がり、じゃあ収録しようぜという展開に。
偶然からノリで始まったカバーが全米1位の大ヒットという、漫画みたいないい話である。

聴き終えた。
簡単に言うと想定どおりのジェフ・リンの音で、これがむやみに聴きやすい。
ELOは当然、またトラベリング・ウィルベリーズやトム・ペティの作品にも共通する、あの音だ。
ジョージ・マーティンやグリン・ジョンズだったら、全く違う音になっていたはずである。
リアルタイムで聴いていれば、間違いなく愛聴盤になっていたと断言できる。

渋谷陽一の言った通り、このアルバムではとにかくジョージが元気である。
沈黙も復活も理由はよくわからないが、地味に売れない曲ばかり作るよりも、友達と楽しく歌って稼げたほうがやっぱりいいよな、という心境に変わったのだろうか。
このテンションのままウィルベリーズや来日公演やアンソロジーといった活動的なジョージを見ることができて、ファンのみなさんとしてもよかったのではないかと思う。

92年のクラプトンとの日本公演でも、このアルバムから「Cloud 9」「Fish on the Sand」「Devil's Radio」「Got My Mind Set on You」の4曲を演奏している。
(「Fish on the Sand」だけCDには未収録)
なのでジョージもこのアルバムは気に入っていたのだろう。

すでに語り尽くされている感はあるが、やはりジェフ・リンの功績は果てしなく大きい。
ジョージというクセがすごいミュージシャンから、インドやプログレではない「ビートルズの音と香り」を最大限に引き出し、さらに自分の音を混ぜながら芸術的にも興行的にもジョージを成功に導いている。
このジェフ音(モンスリー師匠風に言うと「リン化」)をどう受け取るかによって、評価は分かれる気がする。
おそらくビートルズ時代からのコアなジョージのファンの中には「あれはジョージの音じゃない!」と拒絶してる人もいるんじゃないだろうか。
自分はもちろん大歓迎ですけど・・

ジャケットはサングラス姿の笑うジョージ。
手にしているのはビートルズ結成前にリバプールで購入したグレッチ6128という黒いギター。
ただジョージの手元にずっとあったわけではなく、長年友人であるクラウス・フォアマンに預けられていたもので、ジョージは返してもらったギターを修復してジャケットに使用したとのこと。
背景は雲や海だが、下から光が当たってギラギラした、どこかハワイアン音楽レコードのようなジャケットだ。
あまりジョージっぽくない写真だが、中身同様楽しそうでいいと思う。

というわけで、「Cloud Nine」。
これは予想通りよかったです。
時系列的には最後のスタジオ盤から聴いてしまいましたが、これがジョージ初心者の自分には正解でした。
ビートルズ時代からジョージの独特な音や世界観は今ひとつなじめなかった自分ですが、このアルバムにはそうしたとっつきにくさは全くなく、楽しい音楽だと感じました。(安い感想)
一筋縄ではいかないアーチストだとは思いますが、これを機にジョージの作品も学習していきたいと考えております。

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聴いてない 第279回 レーナード・スキナード

80年代産業ロック以外のジャンルには疎い中高年のSYUNJIといいます。
首都圏最大級の低レベルBLOGをもう18年も続けているが、この18年間とりたてて開眼定着したジャンルは特にない。
今日のお題レーナード・スキナードはサザン・ロックを代表するバンド・・ということはうっすらと認識しているが、そもそも1曲も聴いておらず、サザン・ロック自体を理解するに至ってもいない。
13年前に38スペシャルの記事を書いた時に、レーナード・スキナード学習もやらないと・・みたいなことを棒読みで書いてたが、どちらも全く手を付けないまま放置している。

回りくどい言い訳ですけど、単純に聴いてないです。
メンバーの名前も顔も、アルバムタイトルもジャケットも全く知らない。
聴いてない度は硬派の1。
日本での人気や知名度はよくわからないが、自分はミュージック・ライフやFMステーションでレーナード・スキナードの記事を目にした記憶はない。

鑑賞も学習もできていない理由は特にない・・と思っていたが、バンドの歴史を調べてみてあることに気づいた。
自分が最も洋楽に親しんでいた期間が、レーナード・スキナードの活動停止期間とほぼ同じだったのだ。
ネットでかき集めたバンドの歴史は以下の通り。

レーナード・スキナードは1964年にフロリダ州ジャクソンビルで結成された。
メンバーは以下のみなさんである。

ロニー・ヴァン・ザント(Vo)
ゲイリー・ロッシントン(G)
アレン・コリンズ(G)
ボブ・バーンズ(D)
ラリー・ヤンストロム(B)

バンドの原型はロニーとアレンとボブの三人がハイスクール時代に組んだグループ。
バンド名は彼らの学校の体育教師レオナード・スキナー先生の名前をもじったもの。
こういった韻を踏んだような名前は、ティアーズ・フォー・フィアーズとかスクリッティ・ポリッティとかに受け継がれてる気がする。
日本でもアンドレ・カンドレとかいんぐりもんぐりとかありましたけど・・・
なお日本語表記は「レーナード」「レイナード」と多少の揺れがあるが、当時のアルバムは「レーナード」と表記されているので、今回の記事もそちらに合わせます。

バンド結成後はジョージア州アトランタに拠点を移す。
じわじわ人気が出てきたところで、ミュージシャンでプロデュース業も行うアル・クーパーの目に止まった。
アル・クーパーは当時サザン・ロック専門レーベル「サウンド・オブ・ザ・サウス」を立ち上げようとしていた。
レーナード・スキナードを見つけたアルはすぐに契約を交わし、バンドはレーベル初作品としてアルバム「Lynyrd Skynyrd」を73年8月にリリースする。
この時メンバーはすでに変わっており、クレジットに名前があるのは以下のみなさんである。

ロニー・ヴァン・ザント(Vo)
ゲイリー・ロッシントン(G)
アレン・コリンズ(G)
ボブ・バーンズ(D)
エド・キング(G)
ビリー・パウエル(K)

アルバムの売り上げは100万枚を超え、全米チャートでは27位まで上昇。
シングル「Free Bird」も19位を記録した。
この年にはザ・フーのアメリカツアーでオープニングアクトを務めている。

ギター担当が3人もいることが、レーナード・スキナードの最大の特徴で売りでもあった。
74年には2枚目のアルバム「Second Helping」を発表。
前作を上回る全米12位を記録し、シングル「Sweet Home Alabama」は8位の大ヒットとなる。
ただ意外なことに、結果としてレーナード・スキナードのシングルでトップ10入りできたのはこの曲だけとのこと。

3枚目のアルバム制作過程で、バンド内に様々な問題が起こる。
ドラマーのボブ・バーンズはヨーロッパツアー中にメンタルにダメージを負い、バンドを脱退。
後任としてケンタッキー出身で元海兵隊員のアーティマス・パイルが加入する。
このメンバー交代などが影響し、アルバム「Nuthin' Fancy」制作スケジュールが押してしまい、結局準備も不十分なまま、わずか17日間で録音された。
このことがバンドとアル・クーパーとの間に摩擦を生じさせ、アルのプロデュースもこのアルバムで終わりとなる。

さらに問題噴出は続く。
アルバム「Nuthin' Fancy」は全米9位を記録するものの、最終的には前作よりも売上が減少。
「Nuthin' Fancy」ツアーの途中で、ギタリストのエド・キングが突然脱退。
バンドはそのまま6人組で活動し、76年にトム・ダウドをプロデューサーに起用した4枚目のアルバム「Gimme Back My Bullets」をリリース。
カナダでは1位を獲得したが、全米チャートでは20位止まり。

やはりギターが3人必要と感じたバンドはエドの後任を探し、歌えるギタリストのスティーブ・ゲインズがオーディションを経て加入。
76年にはゲインズ加入後のアトランタでのステージを録音した2枚組ライブアルバム「One More from the Road」を発表した。

しかし。
順調と思われたバンドはここから不幸の階段を降り始める。
ゲイリー・ロッシントンとアレン・コリンズは、76年に重大な自動車事故に見舞われ、アルバム制作が遅れたり、コンサートをキャンセルするなど、活動に大きな影響を及ぼす。

こうした混乱の中、徐々に才覚とリーダーシップを発揮し始めたのが、スティーブ・ゲインズだった。
加入後の最初のアルバム「Street Survivors」では、全8曲中4曲がスティーブの作品である。(2曲はロニー・ヴァン・ザントとの共作)
プロデューサーには再びトム・ダウドが起用され、アルバムは1977年10月17日にリリースされた。

ところがリリースから3日後の10月20日、最大の悲劇がバンドを襲った。
メンバーとクルー総勢26人を載せた自家用飛行機は、サウスカロライナ州グリーンビルからルイジアナ州バトンルージュへ向かう途中で燃料切れを起こした。
パイロットはミシシッピ州内で何度か緊急着陸を試みたが、飛行機はミシシッピ州ギルズバーグ郊外の森に墜落。

ロニー・ヴァン・ザント、スティーブ・ゲインズ、スティーブの姉でバックボーカルを務めたキャシー・ゲインズら6人が死亡。
他のバンドメンバーのアレン・コリンズ、ゲイリー・ロッシントン、レオン・ウィルクソン、ビリー・パウエル、アーティマス・パイルは重傷を負った。

フロントマン2人を失ったバンドは解散。
ゲイリーとアレンは80年に女性ボーカルを立ててバンドを結成し、他のメンバーもそれぞれ音楽活動を続けたが、レーナード・スキナード復活にはつながらなかった。
また事故のあった77年には、ロニーの弟ドニーが38スペシャルを結成している。

事故・解散から10年が経過した87年、ボーカルにロニーの弟ジョニー、ギターにランドル・ホールを加え、レーナード・スキナード再結成ツアーを行う。
なお前年に自動車事故を起こしたアレンはケガのためギターが弾けなくなり、再結成ツアーには音楽担当監督として参加している。

90年代に入るとドラマーのアーティマスが脱退。
カスター・ラドウィックが加入し、本格的な活動再開となる。
新生レイナード・スキナードは91年にアルバム「Lynyrd Skynyrd 1991」を、93年には「The Last Rebel」を発表。
94年には「Endangered Spacies」をリリースした。
91年と94年には日本公演が行われている。

2000年代になるとメンバーの死亡と後任の加入が相次いだ。
・2001年レオン・ウィルクソン死亡 → イアン・エヴァンス加入
・2009年ビリー・パウエル死亡 → ピーター・キーズ加入
・2009年イアン・エヴァンス死亡 → ロバート・カーンズ加入
ちなみにオリジナルメンバーだったアレン・コリンズとボブ・バーンズもすでに故人である。

2018年にバンドはラストツアーを行う。
ツアーにはバッド・カンパニーや38スペシャルやチープ・トリックも参加。
現在バンドはほぼ活動休止状態だが、ゲイリー・ロッシントンは2020年1月のインタビューで「ツアーは終了したが、時折ライブを続けるよ」と発言している。

以上がレーナード・スキナードの長く過酷な歴史である。
飛行機事故があったことはぼんやりと知っていたが、ここまで深いダメージをもたらしたとは知らなかった。
アメリカならではのことかもしれないが、飛行機以外でも自動車事故にあった話が多い気がする。
また再結成して最近まで活動していたことも知らなかった。

冒頭に述べたとおり、77年に解散し90年代で再結成なので、自分が洋楽にまみれていた80年代にはほとんど活動していなかったことになる。
当然この間新曲は出てないし、日本のFMでオンエアされたり雑誌に記事が出たりといった露出もほとんどなかったと思われる。
とにかく80年代に毎晩サルのようにエアチェックしてたにもかかわらず、レーナード・スキナードの曲を録音できたことは一度もない。
You Tubeでいくつかヒット曲を聴いてみたが、やはりどれも知らない曲ばかり。
ちなみに38スペシャルも5曲くらいしか聴いていない。

なお飛行機事故は映画化され、昨年「Street Survivor: The True Story of the Lynyrd Skynyrd Plane Crash」というタイトルで公開されたそうだ。
生き残ったドラマーのアーティマス・パイルがプロデューサーとして制作に参加しているとのこと。

というわけで、レーナード・スキナード。
少し聴いてみた限りでは好みとしては微妙なところですが、聴くなら「Lynyrd Skynyrd」「Seconed Helping」「Street Survivors」など解散前の名盤からでしょうか。
皆さまの鑑賞履歴や推奨盤についてご指導いただけたらと思います。

 

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聴いてない 第278回 バックストリート・ボーイズ

我が国では、とある芸能事務所が一貫してアイドル男性グループを半世紀にわたり量産し続けるという不思議な文化があるが、欧米においてもいわゆるロックバンドとはやや異なるアイドルグループは存在する。
その男性アイドルグループの代表格として、以前ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックを採り上げたことがあるが、今日はもう1つの聴いてない団体、バックストリート・ボーイズについて書いてみます。

バックストリート・ボーイズ、聴いてる曲は「Everybody (Backstreet's Back)」と「I Want It That Way」だけ。
聴いてない度は盤石の3。
「Everybody」はMTVの音声をそのままテープに録音したので、ホラー映画仕立ての映像も含めてわりと印象に残っている。
「I Want It That Way」はどこで聴いたのかすら不明だが、彼らの代表曲でもあり世界中で大ヒットしたそうなので、日本でもテレビやラジオで相当流れていたのだろう。

この2曲とグループ名しか知らないので、てっきりメンバーもそれぞれ歳とって節々も痛くてすっかり太っちゃったりハゲ散らかしたりモメ事も勃発してやっぱりどこかで解散してすっかり過去の人たち・・・だと、さっきまで勝手に思っていた。

しかし。
人生で初めてバックストリート・ボーイズを調べてみて私は驚愕。
まず実績がものすごく(後述)、さらに今もグループは活動中で、2019年にもアルバムが全米1位を獲得するなど、現役そのもの。
知らなかった・・・
ファンの皆さまと事務所の方々に陳謝いたします。

あらためてバックストリート・ボーイズの栄光と信頼の軌跡をたどってみる。

ハワード・ドゥエイン・ドローとアレキサンダー・ジェームズ・マクリーンはフロリダ州オーランドの出身で、まずこの二人が出会い、その後オーディションを通じてニック・カーターが合流しトリオを結成した。

ケヴィン・スコット・リチャードソンとブライアン・トーマス・リトレルは、ケンタッキー州レキシントン出身のいとこ同士。
ケヴィンは90年にオーランドに移り住む。

1992年、ボーカルグループのオーディションを受けてハワード、アレキサンダー、ニック、ケヴィンの4人が合格。
その後ケヴィンの誘いでブライアンも加わり、93年4月20日にバックストリート・ボーイズが結成された。
グループ名はオーランドで開催されていた屋外フリーマーケット「Backstreet Market」にちなんで付けられた。

ただし、アメリカ出身なのに国内デビューは日本やヨーロッパよりも遅い。
グループはしばらく全米各地のテーマパークやショッピングモールや学校などで営業を行っていた。
95年9月に最初のシングル「We've Got It Goin' On」をリリース。
ヒットしたのはヨーロッパで、イギリスやスイスでは3位、ドイツで4位を記録した。
この実績により、デビュー当初のプロモーションは主にヨーロッパで行われることになる。
アルバム「Backstreet Boys」も日本や欧州各国では96年に発売されたが、アメリカでの発売は翌年になってからで、しかもセカンドアルバム「Backstreet's Back」とセットの2枚組という状態だった。
なおこの2枚組は全米4位を記録している。

96年の「Get Down (You're the One For Me)」はアメリカでもヒットし、10位まで上昇。
これでようやく本国でも認められるグループになり、97年には「Everybody (Backstreet's Back)」「All I Have to Give」を欧米でそれぞれヒットさせた。

グループ最大のヒットが99年のシングル「I Want It That Way」である。
イギリス・オーストリア・カナダ・ドイツ・オランダ・ニュージーランド・スイスで1位、オーストラリアとスウェーデンで2位というすさまじい売れ行き。(全米は6位)
アルバム「Millennium」も世界中で2400万枚以上を売り上げ、本国アメリカでも1300万枚を突破。
アメリカでは99年で最も売れたアルバムとなっている。
そうなの?知らなかった・・・

続く2000年の「Black & Blue」も全米1位に輝き、800万枚を売り上げた。
アルバムのプロモーションで世界各国を専用ジェット機でまわり、日本にも来たが公演はなく、すぐに次の目的地へ去って行った。

2001年にベスト盤「The Hits: Chapter One」をリリース。
この年の11月には待望の初来日公演が、東京・名古屋・大阪のドーム球場で開催され、計23万5千枚のチケットは即日完売という人気ぶりだった。
そうなの?知らなかった・・・

しかし。
頂点を極めていたこの期間、グループは良いことばかりではなかった。
98年には「プロデューサーのルー・パールマンとマネージャーのジョニーが勝手に10億円以上をネコババした」とメンバー側が訴え、1年ほどの法廷闘争の末に示談が成立している。
デビュー前からグループの面倒を見てきたルー・パールマンだが、あまり素行の良くない人物だったようで、後に詐欺罪で逮捕され懲役25年の判決を受け、2016年に獄死している。

2001年「Black & Blue」のツアー中、アレキサンダーはアルコール依存症とうつ病のリハビリに入ったため、1ヶ月ほどツアーが中断。
さらにツアー再開後の9月にクルーメンバーで大道具のダニー・リーが、同時多発テロでハイジャックされ世界貿易センターに衝突した飛行機に乗っていて死亡。
なおブライアンの妻リーアンも同じ便に乗る予定だったが、前日にキャンセルしている。

翌2002年頃からはグループ内に不協和音が発生し、マネジメント会社との関係も悪化。
グループは会社との関係をやめたいと主張したが、ニック・カーターはソロ活動のために会社に残ることを選ぶ。
こうしてニックと他のメンバーとの間にも意見の食い違いが起こり、ニックはソロ活動を開始。
他のメンバーはニック抜きで次のアルバムのレコーディングをし始めた。
しかし最終的にメンバーはニックに同調し、ソロアルバム「Now Or Never」の制作をサポートしたとのこと。
またアレキサンダーは再びアルコールや麻薬の依存症となり、グループは2年ほど停滞する。

2004年にグループは再始動。
9月には小規模なアジアツアーを開催。
北京、上海、東京、マニラを訪れ、東京では代々木競技場第一体育館で公演をおこなった。

1年以上のレコーディングを経て、アルバム「Never Gone」を2005年6月にリリース。
大幅なスタイルの変更は、ローリングストーン誌からは酷評されたが、アメリカでプラチナ認定を受け、チャートでも3位を記録。
4枚のシングルがリリースされ、「Just Want You to Know」は全英8位まで上昇した。
同年7月から「Never Gone」ツアーがスタート。
2006年正月には東京・名古屋・大阪でライブを行った。

しかしこの年の6月、ケヴィンが俳優など音楽以外の活動を行うため脱退。
残ったメンバーはケヴィンの後任加入の話を全て断り、ケヴィンがグループに戻るための扉を常に開けておくと声明を発表。

4人組となったバックストリート・ボーイズ。
だがケヴィン脱退は人気や実績には影響せず、2007年10月のアルバム「Unbreakable」は特に日本とカナダで好評を博し、日本のオリコンチャートでは1位、カナダのチャートで2位となる。(全米は7位)
日本での実績に気を良くしたグループは、翌年2月に東京ドームで2日間公演を行った。

事務所もグループも日本を優秀なマーケットとして認識するようになり、2009年にはアルバム「This Is Us」発売に合わせて来日。
ラゾーナ川崎でスペシャル・ライブを行い、新曲「Straight Through My Heart」「Bigger」に加え、大ヒット曲「I Want It That Way」「Everybody」も披露。
14000人が殺到するものすごいイベントとなった。
そうなの?知らなかった・・・
なお「Bigger」のプロモ・ビデオは東京で撮影されたそうです。
さらに翌年の日本公演は場所も回数も5都市10日間とぐっと増え、日本武道館でファイナルを迎えた。

2011年にはニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックとのコラボレーションアルバム「NKOTBSB」を発表し、欧米でツアーも開催。
この頃から脱退したケヴィンが時々ステージに姿を見せるようになる。
ファンの期待と憶測のとおり、2012年4月にはケヴィンが正式にグループに復帰する。

再び5人組となったグループは、2013年に新作「In a World Like This」をリリース。
日本で4位・カナダで2位と相変わらず好調な売れ行きを見せ、さらにオランダでは1位、ドイツでも3位を記録。
日本公演も過去最大の7都市で11日間行われている。

2018年に5年ぶりの新曲「Don't Go Breaking My Heart」「Chances」を発表。
翌年これまた5年ぶりのアルバム「DNA」が全米1位を記録し、衰えぬ人気ぶりを証明した。
今年はコロナの影響で年末に予定していたクリスマスアルバム発売を延期し、ラスベガスの特別公演も中止となったが、現在もグループは活動中である。

・・・今回もことごとく知らない話ばかりであった。
そもそも全て初めて知る話なのでいちいち驚いて当然ではあるが、ここまで人気と実績が継続しているグループだとは知らなかった。
実は一番驚いたのが「ラゾーナ川崎に14000人集めた」という話。
あそこは純粋なコンサート会場ではなく、ショッピングモールである。
敷地の中央に広場のような屋外スペースがあり、アイドルのミニコンサートみたいな催しが時々行われてるけど、まさかあそこでバックストリート・ボーイズも歌って帰ったとは・・

バックストリート・ボーイズが人気と実績を継続できているのは、歌唱力を売りにしてきたことが大きいようだ。
事務所やレコード会社の戦略でもあったとは思うが、結成当初から楽器を手にした野郎バンドではなく、一貫して歌えるボーカルグループであり続けている。
これは彼らを発掘したルー・パールマンの功績でもあるが、目指していたのは「ボーイズ・II・メンのように歌えて、ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックのように華やかなグループ」だったそうで、アカペラを多用したり、R&Bを基盤としたサウンドを採り入れてきたとのこと。

また同じくオーランドで結成されたボーイズグループのイン・シンクとの対立構造も、実はパールマン氏の戦略だそうだ。
二つのグループの本人たちは、それほど互いを悪くは思っていなかったらしい。
似たようなグループ同士を対立させて話題を作ったり人気をあおったりするのは割と古典的な手法で、ビートルズvsストーンズ以来、カルチャー・クラブvsデュラン・デュランオアシスvsブラーニルヴァーナvsパール・ジャムなど様々な組み合わせが作られている。
対立構造のほとんどは演出だったり周囲が勝手にけしかけたもので、当人同士は実は結構仲が良かったりすることも多い(オアシスとブラーはガチの不仲だったそうですけど)。
勝負の行方としては、実績ではバックス側の圧倒的勝利に終わり、イン・シンクはジャスティン・ティンバーレイクというスターを生み出したものの、2002年に解散している。

日本では最近男性アイドルグループの解散や活動休止が相次いでいるが、どこの国でもアイドルとして長年活動していくのは簡単ではないだろう。
美少年も歳を重ねればどうしたっておっさんになるのだ。
中高年が集まって「なんとかボーイズ」を名乗り続けるのも厳しいはずである。
そういう意味ではバックストリート・ボーイズは希有な存在と言えるかもしれない。

というわけで、バックストリート・ボーイズ。
今さらおっさんが夢中になってどうする的なグループではありますが、聴いてる「Everybody」と「I Want It That Way」は嫌いではありません。
なのでもし聴くとしたらやはり世界中で売れた「Millennium」からでしょうね。
他におすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

 

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聴いてみた 第168回 ポール・マッカートニー その5

ポール・マッカートニーの70年代作品をようやく聴き終えて、ジョン・レノン学習に移行するほど安心慢心していたのだが、ほんならポールの80年代作品は全部聴いたんかワレと言われると、やはりそうでもない。
80年代のアルバム6作品のうち、聴いたのは実は半分だけ。
「Tug of War」「Press to Play」「Flowers in the Dirt」は聴いていない。
もっと言うと90年代以降は全く聴いてないので、本来はもう少し深刻に考えねばならない状況である。
そこで衆議院選挙開票前に少しでも前進しようと思い立ち、まずは「Tug of War」を聴くことを決意。(遅い)

Tug-of-war

「Tug of War」は82年発表で、ジョン・レノンの死後初めてリリースされたポールのアルバムでもある。
シングル「Take It Away」「Ebony and Ivory」は柏村武昭の指導により誠実にエアチェックしており、なぜアルバムを聴かなかったのか明確な理由は不明。
たぶんレコードを借りるカネがなかったんだろう。

聴く前に発表の経緯を調べてみた。

まず最初に軽い衝撃。
あまりよく知らなかったのだが、前作「McCartney II」発表時点でウィングスは解散していた・・わけではないようだ。
ふーん・・・
なんとなくウィングスが解散したからソロアルバム「McCartney II」が出たんやろなと勝手に思っていたが、そうでもなかったのね。

「II」はソロとしてリリースされたが、次のアルバムを作るにあたり、ポールはまず80年8月頃までは一人で曲を作って録音し、その後リンダとデニー・レインを招集している。
この段階ではウィングスとしてのリハーサルだったので、このまま進行すればウィングス名義のアルバムができた可能性もあったはずだ。

さらに初めて知ったのだが、この頃録音した曲が「Tug of War」と「Pipes of Peace」に収録されたという話。
2枚のアルバムはほぼ同時に制作されていたことになる。

80年12月にはジョージ・マーティンのスタジオで「Ballroom Dancing」「Keep Under Cover」などの録音を開始した。
ところが80年12月8日、ジョン・レノンがニューヨークで死亡。
ロンドンにいたポールのもとに訃報が届いたのは翌日朝だった。
ポールはなんとか「Tug of War」「Ballroom Dancing」「Take It Away」「Wanderlust」などのデモ制作・録音を続けるが、動揺するポールを見ておそらくジョージ・マーティンも「これはムリだ」と感じたのだろう、いったんレコーディング作業は中断する。

レコーディングを再開したのは翌年2月になってからであった。
ロンドンを離れ、カリブ海のイギリス領モントセラト島にあるAIRスタジオでセッションを再開。
1か月の間にスタンリー・クラーク、スティーヴ・ガッド、リンゴ・スター、カール・パーキンス、スティービー・ワンダーといった大物芸人が入れ替わりで参加した。

ロカビリー界の大御所カール・パーキンスはポールやビートルズのメンバーにとって憧れの存在で、ビートルズの「Matchbox」「Honey Don't」はカールの作品のカバー。
しかも当時ビートルズが「Matchbox」を録音中のスタジオに、カール本人が激励に訪れたという話もあるそうだ。

「Tug of War」制作にあたり、ポールがカール・パーキンスに参加を依頼。
カールは快諾し、すぐに一人で飛行機に乗ってモントセラト島入りした。
カールが作った曲をポールとリンダに聴かせたところ、歌詞の中に偶然ジョンが最後にポールに向けた「Think of me every now and then, my old friend」という言葉が入っていて、ポールは激しく動揺。(動揺ではなく「感動」と書いているサイトもあり)
ポールは震えながら部屋を出て行ってしまい、リンダがカールに事情を説明したという話が残っている。

スティービー・ワンダーもポールからのアプローチにより参加が実現。
スティービーがモントセラト島に滞在したのは1週間程度だったが、録音はスムーズに進行。
「ポールはギターに頼らない曲作りをするのが特徴」とスティービーは発言している。
キーボードで作曲・演奏するスティービーにとって、ポールはおそらくいっしょに仕事がやりやすいミュージシャンなのだろう。

3月にはロンドンに戻ってレコーディングを続けたが、デニーがポールとの口論をきっかけにスタジオに来なくなり、入れ替わりでエリック・スチュワートが参加するようになる。
結局デニーは戻ってこないまま4月末でウィングスを脱退。

「Tug of War」がポールのソロアルバムになるという点について、デニーは不満だったらしい。
デニーは「Tug Of War」もてっきりウィングス名義で発表するんやろ印税入るしツアーも行くしと喜んでレコーディングしてたのに、ポールのソロ作品として出すと決まったので相当がっかりしたそうだ。
ソロ作品とするのを強く推したのはジョージ・マーティンだそうだが・・・
デニー・レインという人は実は金遣いがかなり荒く、当時ウィングス停滞によりおカネに少し困っていたという話もある。
ちなみにデニーさん、ウィングス脱退後に一度破産してるそうです。

デニー脱退直後の5月にはマイケル・ジャクソンが登場し、「Say Say Say」「The Man」を録音している。
このとおり「Tug of War」と「Pipes of Peace」の各曲録音はほぼ同時進行だったが、ポールがどちらのアルバムにどの曲を収録すべきか悩んだり録音し直したりしたため、「Tug of War」は当初の予定よりも大幅に遅れて82年4月にようやくリリースとなる。

こうしてジョンの死やデニーの脱退という厳しい出来事を乗り越え、多くの大物ミュージシャンの協力も得て完成した「Tug of War」。
果たして極東の引きこもり中高年の自分にはどう響くのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1.Tug of War
イントロに綱引きをする人々の掛け声や実況が入り、おだやかに曲がスタート。
中盤は様々な楽器やコーラスが加わり、ポールらしい構成。
やや騒々しい感じだが、壮大に終わる。
ベスト盤「夢の翼」に収録されていたはずだが、全然覚えていなかった。

2.Take It Away
この曲はリアルタイムでエアチェックしている。
軽快でコーラスも厚く、ウィングスの雰囲気を再現したサウンド。
リンダやエリック・スチュワートがコーラスで参加し、ドラムはリンゴとスティーブ・ガッド。

3.Somebody Who Cares
アコースティックギターで始まる静かな曲。
マラカスやケーナ?のような中南米風の音が聞こえる。

4.What's That You're Doing?
スティービー・ワンダーとのデュエットだが、これは初めて聴く。
ファンクでソウルフルな曲調はスティービー・ワンダー色が濃く、むしろポールがボーカルで参加といった感じ。
スティービーはシンセサイザーも弾いている。

5.Here Today
ジョンへ語りかける追悼歌。
アコギとストリングスは「Yesterday」に似ているという評価だが、確かにその通りだ。
ジョンの死後初めて出すアルバムにあって追悼歌となれば、もっと話題になってもよさそうだが、シングル化もされずベスト盤にも収録されていない。
ただ21世紀になってからポールはコンサートでこの曲を歌い始め、今もほぼセットリスト入りする扱いになっているそうだ。

6.Ballroom Dancing
LPではここからB面。
ポールらしいシャウトとしゃべりが聴ける。
どこかで聴いたことがあると思ったら、「ヤァ!ブロード・ストリート(Give My Regards to Broad Street)」でセルフカバーされていた。

7.The Pound Is Sinking
少し辛口なサウンド。
イントロとエンディングにコインの音が流れる通り、ポンドの下落や他の国の通貨との対比を歌っているとのこと。

8.Wanderlust
スローだが力強く壮大なメロディで、ドラムはリンゴ。
ホーンが効果的に使われている。
この曲も「Ballroom Dancing」と同様に「ヤァ!ブロード・ストリート」でセルフカバーされているので、ポールは気に入っているのだろう。
タイトルはなじみのない英単語だが、かつてポールがレコーディングで訪れたヴァージン諸島で宿泊用に使ったヨットの名前で、旅・放浪・航海といった意味らしい。

9.Get It
はじけるギターが印象的な、カール・パーキンスとのデュエット。
エンディングはカールの意外に長い笑い声が入っており、終わらないうちに次の曲に続く。

10.Be What You See (Link)
30秒ほどの短い曲で、前後の曲とつながっている。

11.Dress Me Up as a Robber
リズムはディスコっぽいが、ところどころフラメンコギターが入る、思ったより複雑な展開。
ラストもフェードアウトせずに終わる。

12.Ebony and Ivory
ピアノの鍵盤色を人種の違いに見立てて大ヒットした、スティービー・ワンダーとのデュエット。
人種問題という重いテーマを楽しいメロディでほがらかに歌うことには批判も生じたらしいが、そこはポールのセンスであり、当然だがジョン・レノンのアプローチとは異なる。
ポールが初めて全米と全英で1位を獲得した曲でもあるそうだ。
何度も聴いてきた曲だが、あらためて聴くとやはりスティービー・ワンダーの歌唱力が圧倒的である。
クレジットではドラムもスティービーが担当となっている。

聴き終えた。
全体として安定しており落ち着いた印象である。
尖ったロックもそれほどなく、難解でとっつきにくい曲もなし。
他のアルバムではたいてい1曲はあった、独善的な「ファン置き去り曲」「ヘンな曲」がない。
安い表現をすれば「より大衆的」なサウンドと楽曲である。
前作「McCartney II」と比べると、その差は非常にはっきりしている。
今さらだが、リアルタイムで聴いていれば間違いなく先発ローテーション入りしていたはずである。

リンダとデニーがいて、さらにリンゴやスティービー・ワンダーが参加し、ジョージ・マーティンがプロデュースとなれば、サウンドの質は申し分なくて当然だろう。
個人的にはポールの声が非常にいい状態だと感じた。
「Here Today」「Wanderlust」など落ち着いた曲でよくわかるが、少なくとも「McCartney II」や「Back to the Egg」の時の声よりも、伸びや張りがよい。

盟友ジョン・レノンの死という非常事態は、当然ポールの精神や活動に大きな影響を及ぼしたとは思うが、このアルバムについては、追悼歌「Here Today」はあるものの、作風や曲調に大幅な変化をもたらした・・といった状態ではないと感じた。

タイトルにある通り、このアルバムは二つの事象・事項の対立や対比といったテーマで作られた曲が多い。
また経済や人種などの問題を採り上げた社会派な曲も目立つ。
ジョンの死が影響しているという見方もあるそうだが、発表してももう批評してくれるジョンはいない中、どんな想いでポールは歌っていたのだろうか。

ジャケットも、ヘッドホンを両手で押さえるポールの左右に赤と青のカラーを配置し、タイトルとともに対比や対立を表現している。
ヒプノシスのデザインだそうだが、ポールのアルバムの中では好きなほうである。

そんなわけでようやく聴いてみました「Tug of War」。
これは予想どおり良かったです。
やはりリアルタイムで聴いておけばよかったと後悔させられたアルバムでした。
残る80年代未聴作品「Press to Play」「Flowers in the Dirt」は知ってる曲が少なく、作風もかなり違うようで不安が大きいですが、早めに学習したいと思います。

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聴いてない 第277回 レイ・パーカー・ジュニア

だらだらと適当に続く我が洋楽鑑賞遍歴において、ブラック・ミュージックは壊滅状態なのだが、当該案件についても例外ではない。
・・・まあ壊滅なのはブラックだけじゃなくメタルもプログレもパンクも同じですけど。
で、先日Mを調査していて名前を発見したのがこの方です。
お呼びしましょう、レイ・パーカー・ジュニアの登場です。(大歓声)

レイ・パーカー・ジュニア、聴いたのは2曲。
レイディオ名義の81年の大ヒット曲「A Woman Needs Love」、ソロの83年「Bad Boy」を聴いただけ。
「Bad Boy」は録音中テープが尽きてしまい、厳密には半分程度しか聴いてない。
映画「ゴーストバスターズ」のテーマソングも一応知っているが、エアチェック実績はなく、当時繰り返し流れた映画の予告編CMなんかで覚えてしまったレベル。
従って聴いてない度は2.5くらい。
壊滅してることに変わりはない。

「A Woman Needs Love」はアダルトなムード漂う感じは悪くなかったが、曲の良さを味わえるにはまだ幼かったためか、他の曲も聴いてみようとは思わなかった。
同時に録音したのが「Stars On 45 Medley」やジョージ・ハリスン「All Those Years Ago」、エア・サプライ「The One That You Love」、デュランの「Planet Earth」といった当時のヒット曲。
「A Woman Needs Love」はそれらにはさまれて録音されたので消さずにいただけという、重ね重ね失礼な状態だった。

レイ・パーカー・ジュニアについては、名前と上記3曲、あとは「ゴーストバスターズ」で訴訟問題に発展したことくらいしか知らず、顔もぼんやりとしか記憶に残っていない。
当時の雑誌で記事を見たこともなく、レイディオは何人組で誰がいたのかなど全くわからない。
そこで衆議院解散宣言を受けて総選挙直前にレイ・パーカー・ジュニアについて緊急街頭出口調査開始。

本名レイ・アースキン・パーカー・ジュニア、1954年ミシガン州デトロイト生まれ。
ジュニアと名乗っているが本人は次男で兄はオペルトンという名前。
父親レイ・パーカー・シニアは特に著名人ではないようです。

レイ・パーカー・ジュニアは大学卒業まで地元デトロイトで過ごしたが、高校生の頃には早くもナイトクラブで演奏するバンドのメンバーとして活動開始。
16歳でマーヴィン・ゲイのレコーディングに参加したり、17歳の時にはスティービー・ワンダーやアレサ・フランクリンのバック・バンドで演奏。
ローリング・ストーンズの72年ツアーのオープニングアクトをスティービー・ワンダーが務めたとき、バックバンドでリードギターを弾いたこともあった。

ちなみに最初にスティービー・ワンダーからバンドでの演奏依頼があった時、レイはスティービー本人からの電話をニセモノと思い込み、切ってしまった。
その後も何度もかけてくる相手に怒ってついに「いい加減にしろバカやろう!」と叫んで電話を切ってしまったそうだ。若い・・
それでもスティービーはあきらめずレイに再度電話し、まだ信じないレイに自分の歌(Superstition)を聞かせてようやく信じてもらったとのこと。

その後もカーペンターズ、チャカ・カーン、アレサ・フランクリン、テンプテーションズ、ボズ・スキャッグスのために曲を書き、セッションワークを行うなどの実績を積む。
レイが作った最初のヒット曲は、ファンクバンドのルーファス名義で録音され、R&Bチャートで1位・ポップチャートで11位を記録したチャカ・カーンとの共作「You Got the Love」。

1977年、レイ・パーカー・ジュニアは仲間3人とともにR&Bグループ、レイディオを結成。
翌年シングル「Jack and Jill」がR&Bチャート5位・ポップチャート8位に達し、アルバム「Raydio」もゴールドアルバムを獲得。
なおレイディオ名義のアルバム2枚は長い間CD化もされていなかったが、日本では最近ようやく紙ジャケットで再発されたそうだ。
日本にもレイディオの熱心なファンがかなりいるということだろうか。

80年にグループ名をレイ・パーカー・ジュニア&レイディオに改名。
名実ともにレイはグループのフロントマンとしてセンターに立つことになる。
シングル「Two Places at the Same Time」と同名アルバムともR&Bチャート6位を記録した。
81年にリリースされた最大のヒット曲「A Woman Needs Love (Just Like You Do)」 は、これまた同名アルバムともどもついにR&Bチャート1位を獲得。
この年には初来日してツアーも行われた。

しかしこの大ヒット直後にレイディオは解散。
理由が記されたサイトは見つからなかったが、まあお金回りが急によくなっていろいろグループ内に問題が噴出したんだろう。(違ったらすいません)

83年にレイ・パーカー・ジュニアはソロとしてアルバム「The Other Woman」を発表する。
ただし全米1位の有り余る報酬を惜しみなく投入・・といった派手な転職ではなく、レイ個人の所有するスタジオに一人こもって多重録音という地味なスタートだったそうだ。
堅実な経営が功を奏し、タイトル曲が全米4位の大ヒットを記録した。
じゃあこのアルバムに自分の聴いた「Bad Boy」も入ってんのかと思ったら、このシングルは当時どのアルバムにも収録されなかったそうだ。なんで?

あとシングル「I Still Can't Get Over Loving You」は「I・Still・愛してる」という脱力なダジャレ邦題が付けられたことで有名。
曲は聴いてないけどこの嫌がらせみたいな邦題は当時雑誌で目にしており、こんな邦題で日本市場での売り上げに影響しないのだろうかと心配になった記憶がある。

そんな極東の低偏差値な心配をよそに、この頃レイ・パーカー・ジュニアは他のアーチストにも積極的に曲を提供。
ニュー・エディションの「Mr. Telephone Man」、デニース・ウィリアムス「I Found Love」、ダイアナ・ロス「Love or Loneliness」「Up Front」などはレイの作品である。

そして84年、キャリア最大の問題作「Ghostbusters」が生まれる。
映画も大ヒット、曲も全米1位獲得というドリームな展開だったが、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの「I Want A New Drug」のパクリである疑惑が浮上。
経緯としては、まず映画のプロデューサーが「I Want A New Drag」を使いたいとヒューイ・ルイスに依頼したが、ヒューイ側は拒否。
拒否の理由は不明だが、困ったプロデューサーはレイ・パーカー・ジュニアに「「I Want A New Drag」っぽい曲を作るよう依頼。

で、レイは実直に似たような感じで「Ghostbusters」を作成した。
元は映画のシーンBGMで長さも1分半程度の予定だったが、映画監督がレイの作った音を気に入り、急遽シングル曲として用意することに変更。
レイは必死でテープをループさせたり歌詞を継ぎ足して、2日あまりでなんとかシングル用の尺を作り上げた。
クライアントのころころ変わるリクエストにムリヤリ応えて作られたもので、じっくり時間をかけて・・とはほど遠い状況だったらしい。

とは言え、簡単に言うとやはりパクリである。
やらせたプロデューサーや依頼内容を変えてきた監督が一番悪いが、真に受けたレイも芸術家としてどうなのかという話だ。
ヒューイ側はレイを訴え、パクリでしたすいませんと認めたレイの代わりに映画会社が和解金を支払うことで決着。

しかし。
和解の条件として「解決金支払いについては互いに公言しないこと」とあったのに、ヒューイ・ルイスが人気テレビ番組「Behind the Music」で勝手に「レイ側から和解金をもらった」と話してしまい、今度はレイがダイアン津田ばりに逆上。
2001年にレイがヒューイ側を訴えるというアメリカっぽい抗争に発展。
中身以上に因縁で名をはせる名曲となったのだった。

たぶん映画と曲がヒットしなければ、こんな訴訟合戦もなかっただろう。
ただしレイ本人は「Ghostbusters」騒動をそれほど負い目に感じていないようで、今でもインタビューで質問されても、イヤな顔もせずおだやかに答えているらしい。
いい人なのか懲りてないのかわかりませんが・・

騒動の影響もあってか、85年以降レイ・パーカー・ジュニアの人気と実績はじわじわ下降。
その後アルバム4枚・シングル6枚ほど発表するも、チャートでは50位にも入らないほど苦戦している。

90年代以降はプロデューサー業や映画音楽制作を中心とした活動に移行。
しかし両親の病気などで一時期音楽活動を休止せざるを得なくなる。
2000年にスティービー・ワンダーやボズ・スキャッグス達とともにレコーディングやライブ活動を再開。
その後方向性はジャズにシフトし、2006年には15年ぶりとなるスタジオ盤の「I'm Free」をリリース。
最近もテレビ番組やライブでも競演するのはジャズミュージシャンが多いそうだ。
2019年1月にも来日しビルボード東京で公演を行い、アルバム「A Woman Needs Love」を全曲まるごと演奏したとのこと。

やはり今回も知ってた話はほとんどなし。
パクリ騒動は知っていたが、レイが後になってヒューイ・ルイスを逆提訴したのは知らなかった。
一番驚いたのが、「A Woman Needs Love」をヒットさせた時、レイ・パーカー・ジュニアはまだ27歳だったこと。
本当?
そんな若さであんな雰囲気を醸し出していたとは・・
すいません、曲聴いた時は40過ぎのダンディなおじさまが歌ってんのかと思ってました・・

なおレイ・パーカー・ジュニアは、ミュージック・ビデオの世界に足を踏み入れた最初の黒人アーティストの1人とされている。
78年にはすでにレイディオの曲の映像を作成しており、テレビや映画でも流れていたそうだ。
それまでの単純な歌番組ステージ風景ではなく、ハロウィンやドラキュラなど欧米の風習や伝説を巧みに採り入れたストーリー仕立ての映像を、しっかり映画監督を起用して制作。
マイケル・ジャクソン以前からミュージック・ビデオを重視していた先進的なアーチストでもあったということになる。
これも非常に意外な話だった。
日本でそう認識していた人はほとんどいないんじゃないかと思う。

というわけで、レイ・パーカー・ジュニア。
当然レイディオ時代の「A Woman Needs Love」、ソロの「The Other Woman」が必修科目と思われますが、話題性なら「Ghostbusters」も対象でしょうか。
他におすすめのアルバムがあればご紹介いただきたいと思います。

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聴いてない 第276回 アイアン・バタフライ

60年代後半から70年代にかけて、サイケやヒッピーといった文化が音楽にも多大な影響を及ぼしたことはなんとなく知っているが、実際にそうした音楽を聴いてみたりベルボトムのジーンズはいてゴーゴー喫茶に通いつめたり六本木のハウスでヤバいクスリをやってみたりしたことはない。
あったら困るけど。
なので今日採り上げるアイアン・バタフライも、名前と有名なアルバムだけは知っているが、聴いたことは一切ないバンドである。

学生の頃プログレ好きな友人の家でELPの細かすぎる特徴を延々聞かされ、実際に曲をかけて説明されたことがある。
しかし当時自分が聴いていた80年代産業ロックとはあまりにも乖離しており、プログレに対しては難解なイメージしか持てなかった。
今もその感覚はあまり変わっていない。

で、その時友人が持っていたレコードコレクションに、アイアン・バタフライの名盤「In-A-Gadda-Da-Vida」もあり、友人は「B面はタイトル曲だけで17分もある」と誇らしげに説明した。
結局その日はアイアン・バタフライ鑑賞までには至らず、難しいELPだけ聴いて友人宅をあとにした。
自分のアイアン・バタフライに関する体験は以上である。
(レコードを見ただけ)
あれから30年以上は経過しているはずだが、現時点でも興味は全然わいていない。

アイアン・バタフライは、日本では主に「団塊の世代」に支持されていたようだ。
コロナ禍でどの世代とも話をする機会はもうほとんどないが、あの世代の方々と話を合わせるために知っておくと便利なバンドだと思われる。
ということで、来たるべき団塊の世代との邂逅に備え、自己批判しつつアイアン・バタフライ学習を決起邁進。(適当)

ところが。
聴いてないシリーズではまずバンド略歴をウィキペディアで調べることにしてるんだけど、日本語版を見てびっくり仰天(死語)。
バンドの歴史はそれほどの文章量でもないが、旧メンバーが60人以上もいる。

英語版はさらに詳しく、文章量は日本語版の倍以上。
ページの後半ほとんどで旧メンバーとラインナップ(期)、メンバー別タイムラインをカラーグラフで紹介。
ラインナップは細かく言うとたぶん40期以上ありそうだ。
こんなの見たらイエスパープルの離合集散なんてカワイイもんである。
アイアン・バタフライについて、期ごとのメンバーを正確に言える日本人なんているんだろうか?

バンドの歴史サマリーをアジェンダかレジュメに記そうと思ったけど(適当)、この量を見て急速に意欲減退。
仕方なく三流セミナーのプレゼン資料のごとくパワポ1ページ分程度に箇条書き。(雑)

・1966年カリフォルニア州サンディエゴで結成
・メンバーは、ダグ・イングル(V)、ジャック・ピニー(D)、グレッグ・ウィリス(B)、ダニー・ワイス(G)
・結成直後ダリル・デローチ(V)が加入
・68年のセカンドアルバム「In-A-Gadda-Da-Vida」は1年以上ビルボードチャートに残り、最終的に累計3000万枚以上の売り上げとなった
・次作「Ball」発表後にメンバー交代を経て71年にいったん解散
・74年、エリック・ブラン(G)、ロン・ブッシー(D)、フィリップ・テイラー・クレイマー(B)、ハワード・レイツェス(K)で再結成
・以降85年までメンバーチェンジを重ねながら活動、85年に再度解散
・87年にロン・ブッシー、エース・ベイカー(K)、ケリー・ルーベンズ(B)、マイク・ピネラ(G)で再々結成
・以降2012年までメンバーチェンジを重ねながら活動、2012年にまた解散
・2015年にロン・ブッシー、エリック・バーネット(G)、マイク・グリーン(Pa)、デイブ・メロス(B)、フィル・パラピアーノ(K)、レイ・ウェストン(D)で再々々結成
・2021年現在も全く異なるメンバーで活動中
・2021年8月29日、最も長く在籍してきたドラマーのロン・ブッシーが79歳で亡くなった
・スタジオアルバムは6枚

ものすごく大雑把だが、ヒストリーはこんな感じ。

アイアン・バタフライの音楽は、ブラック・サバスAC/DC、ラッシュ、アリス・クーパーユーライア・ヒープ、サウンドガーデンなど、数多くのバンドやアーチストに影響を与えたとされる。
歴史も長いが、実績も影響範囲も広いバンドである。
なおアルバム売り上げ実績は「In-A-Gadda-Da-Vida」が最高だが、チャート順位では最高4位で、「Ball」が最高3位を記録している。
通算で6枚しかアルバムを出していないが、この2枚が突出して売れたようだ。

しかしだ。
最新のアルバムは75年の「Sun and Steel」。
46年間新曲も新作アルバムも出ていない。
2014年にライブ盤が3枚発表されているが、音源はいずれも67年や71年のもの。
でもバンドは2021年現在も継続中。
・・・では76年以降活動としては何をしてるの?
60人以上のミュージシャンが入れ替わり立ち替わり参加しながら、ひたすら過去の作品をライブで演奏している・・ということ?

これまでいろいろな聴いてないバンドを調べてきたが、ここまでメンバーチェンジを重ねながらも50年以上も継続してきた(一時期解散していたようだけど)事例も珍しい気がする。
バンドのメンバーだけで累計60人超なのだから、周辺のスタッフもカウントしたら200人は超えるだろう。
これはバンド継続というより、伝統楽団をみんなで運営し続けているような状態なのか?
それとも「アイアン・バタフライ保存会」のみなさんが屋号を守るため必死に楽曲を伝承している・・ような感じだろうか?
その情熱は賞賛すべきだろうけど、原動力は何?

これだけ長い期間にこれだけ多くの人が関わっているとしたら、よほど事業として魅力的でなければおかしい気がする。
今のメンバーは過去の楽曲をライブで演奏して、それで儲かってるの?
過去のメンバーの間で、ギャラや印税の配分とかで混乱はないのだろうか?
例えば今自分が「In-A-Gadda-Da-Vida」の新品CD(って買えるの?)をタワーレコードで買ってみたら、誰に印税が入るんですかね?
事務所やレコード会社にとってアイアン・バタフライはどういう存在なのだろう?
謎は深まるばかり。
アイアン・バタフライの本とか出てるんでしょうか?

とりあえず名曲「In-A-Gadda-Da-Vida」を部分的にYou Tubeで鑑賞してみた。
どこのサイトにも書かれているが、「ドアーズヴァニラ・ファッジを安くしたような音」は確かにそう感じる。
聴いてて楽しくなる音楽ではないが、思ったほど拒絶感もわいてこない。

「In-A-Gadda-Da-Vida」という噛み合わせの悪そうなタイトルは、旧約聖書に登場する楽園を意味し、「生命の庭」「エデンの園」「安息の地」などという言葉に訳されたそうだ。
これ普通にアメリカ人に言って通じる言葉なのだろうか?
造語じゃないの?

というわけで、謎の伝統芸能団体アイアン・バタフライ。
鑑賞するなら当然「In-A-Gadda-Da-Vida」でいいと思いますが、それよりバンドの実態や継続の秘密について、詳しい方がおられましたらぜひご教授いただきたく存じます。

 

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聴いてみた 第167回 ジョン・レノン その2

中高年ジョン・レノン周回遅れ補習シリーズ、名盤「Imagine」を発売50年後にようやく聴いてみました。(遅すぎ)

「Imagine」は71年発表で、ジョンとヨーコ、フィル・スペクターの共同プロデュース。
チャートでも全米・全英、さらには日本のオリコンやオーストラリア・西ドイツ・ノルウェーなど世界中で1位を獲得した、名実ともに輝く不滅の金字塔アルバムである。

前作「ジョンの魂」はジョンの私小説的な雰囲気が充満していたが、「Imagine」では楽曲も比較的一般受けしやすいものが収録され、プロデューサーに音壁王子ことフィル・スペクターを起用するなど、商業ベースを多少意識した音作りになっているとされる。

Imagine

参加メンバーもさらに豪華な顔ぶれ。
ジョージ・ハリスン、ニッキー・ホプキンス、クラウス・フォアマン、アラン・ホワイト、さらにはキング・カーティスやジョン・バーハムも登場という贅沢なサポートを受けて完成したアルバム。
よく見るとドラマーが3人もいる。
(アラン・ホワイト、ジム・ケルトナー、ジム・ゴードン)
制作中のスタジオにはリンゴ・スターもいたはずだが、リンゴの名前はない。
ジョンがリンゴに「今回はもうええわ」と言ったのか、リンゴが自ら「今回はもうええわ」と断ったのかはわからない。
ただジョージやクラウスやニッキー・ホプキンスらが賑やかに集まるスタジオで、ビートルズ時代のような活動的なジョンの姿を見たリンゴは「もうジョンは大丈夫やな」と安心したのではないかと思う。
互いの曲作りへの協力体制は時期により違っていたらしいが、この頃までは引き続きポール以外の3人はそれぞれ仲良くやっていたようだ。

タイトル曲だけ突出してワールドクラスの名曲になっているので、アルバムとしての評価は今ひとつよくわかっていない。
チャート実績だけ見れば歴史的名盤なのは明白なのだが、果たして自分の耳にはどう聞こえるのだろうか。

・・・・・聴いてみた。

1. Imagine
タイトル曲でスタート。
すでに何度も聴いてきた名曲だが、初めて聴いたのはジョンが亡くなった直後である。
自主的に録音したことはないが、ジョンの死後にテレビやラジオで盛んに流れるようになったので、いつの間にか覚えてしまった。
この曲のドラムはアラン・ホワイト。

2. Crippled Inside
カントリー調のがちゃがちゃした楽しいメロディ。
コメディ映画のテーマソングのようだ。
あまりジョンらしくないサウンドで、少し意外な感じがする。
ジョージ・ハリスンの弾く印象的なギターはドブロ・ギターという楽器で、ボディに丸い金属の共鳴板がついているそうだ。

3. Jealous Guy
これもベスト盤で聴いていた名曲。
ブライアン・フェリーがステージでこの曲を歌う映像を見たことがあるが、やはり本家には及ばない。
バックに流れる壮大なストリングスには賛否両論あるようだが、これもフィル・スペクターの仕業なのだろう。
今まで聴いてきて全く気にならなかった。

4. It's So Hard
一転辛口でブルージーな楽曲。
ジョンのボーカルもワイルドで、本領発揮といったところ。
サクソフォーンでキング・カーティスが参加。

5. I Don't Wanna Be A Soldier Mama(兵隊にはなりたくない)
これも重くのしかかるブルース調のサウンド。
「兵隊にはなりたくない、死にたくない」というフレーズを繰り返す、これ以上ないストレートな反戦ソングである。
一度終わりかけてまた音が続く、どこかポールっぽいエンディング。

6. Gimme Some Truth(真実が欲しい)
LPではここからB面。
やや騒々しいジョージのギター、ジョンの絞り出す濁ったボーカル、詰め込まれた歌詞。
決して楽しい曲ではないが、悪くない音だ。

7. Oh My Love
再び静かなピアノのバラード。
雰囲気は「Love」の延長上にある。
このあたりの対比や緩急の付け方が見事である。

8. How Do You Sleep?(眠れるかい?)
ポールを徹底的にこきおろしたとされる問題作。
邦題は「眠れるかい?」となっているが、ビートルズ時代から目のでかいポールをからかってジョンが言っていたのが「How Do You Sleep?」という言葉で、「ヤツは寝てる時も目が開いてるんじゃねーのか?どうやって寝てるんだよ?」ということらしい。
初めて聴くが、サウンドはジョンの皮肉っぽい音そのものだ。
実際レコーディングの時にジョンはジョージや他のメンバーにも「もっと悪意を込めて演奏しろよ」と指示している。
この音にこの歌詞じゃ、さぞポールもイヤな思いをしたはずだろうけど、ポールは「この曲でジョンはひどいヤツだとは思わないでほしい」と大人な発言をしたそうだ。
おそらくこれがジョンにも伝わり、後にジョンは「結果的にポールを利用させてもらった」といった後悔のコメントにつながったのだと思う。

9. How?
おだやかな調べに乗せて歌うジョン。
むしろこの曲が一番ジョンらしい気がする。
あまりいい表現ではないが、ジョン版「The Long And Winding Road」のようだ。

10. Oh Yoko!
ラストも少しカントリーテイストなリズムとフォーク調メロディ。
終盤のハーモニカも効果的で、教科書の課題曲のような名曲である。
ジョンにしてはヒネリのないエンディングだが、安心して最後まで聴ける。
ラストでこんなストレートで純粋な曲を持ってくるのは素晴らしい。

聴き終えた。
「ジョンの魂」で感じた難しさはほとんどなく、初心者の自分にも聴きやすいアルバムだと思う。
フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドに自分の耳が毒されていると言えなくもないが、結果的に世界中でチャート1位を獲得し、自分のような極東の貧困中年リスナーにもきちんと届くサウンドになっている。
ジョンの狙いもまさにその点にあり、「政治的なメッセージに、少し砂糖をまぶしてやればいいとわかったんだ」と発言している。

大雑把に言うと、ピアノやギター基調のシンプルな曲と、重くヘビーなブルース調の曲に分かれる。
ただビートルズにおけるホワイトアルバム以降のジョンの曲とそう遠くはないので、意外な展開や困惑する楽曲はなかった。

好みで言えば「Crippled Inside」「Gimme Some Truth」「Oh My Love」「Oh Yoko!」あたりがいいと感じる。
「Imagine」と「Jealous Guy」があまりにも偉大すぎるので、評価の中心もこの2曲になるのはやむを得ないが、他にもいい曲がたくさんあるじゃんというのが率直な感想である。

やはり最も異色なのが「How Do You Sleep?」である。
サウンド的にはヘビーなブルース調に属するが、そもそもA面のトップで世界平和を誠実に訴えていながら、B面では一番の友人を徹底的に攻撃してる時点でヤバいだろという状態。
世界平和の前にまずポールと仲良くやれよ、そんな話ならレコードに入れずに電話でポールに直接言えよという内容だが、まあこういうことを平気でやってしまうのがジョン・レノンという人なのだろう。
本当はもっと下品で辛辣な歌詞だったのを、あまりのひどさに不愉快になったリンゴが「いい加減にしろよ」と忠告したため、ジョンは渋々歌詞を修正したそうだが、修正前の歌詞も聴いてみたい気はする。
ポールのアルバム「Ram」もそうだが、こんな互いを攻撃するような極めてプライベートな内容の曲を、お金を出して聴かされていた当時の世界中のナウいヤングはどう感じていたのだろうか?

雲がかかったような印象的なジャケット写真は、以前はアンディ・ウォーホルが撮影したと言われていたが、実はヨーコがポラロイドカメラで撮影したものだそうだ。
ジョンには常に芸術家ヨーコがついていたからという理由だけでもないとは思うが、ジョンのソロアルバムのジャケットは、ポールの作品よりもアートな雰囲気がにじみ出ていて、どれもレベルが少し違うと感じる。

というわけで、「Imagine」。
これはよかったです。
特に初めて聴いた曲がどれも素晴らしく、あらためてジョンの才能やセンスに驚かされました。
発表から50年も経って今さらこんな陳腐な感想を発信してるのもどうかとは思いますが・・
次は「Mind Games」「心の壁、愛の橋」のどちらかを聴いてみようと思います。

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聴いてない 第275回 M

タイプミスではありません。
今日のお題は懐かしのM。
70年代末期に「Pop Muzik」を大ヒットさせたあのMです。

聴いたのはその「Pop Muzik」と、80年のシングル「Official Secrets」だけ。
いずれも柏村武昭の紹介により地味にエアチェック。
本名や国籍や家族構成や貯蓄額などは一切知らない。
聴いてない度は3。

「Pop Muzik」が大ヒットしていた当時、Mにハマった友人がいて、アルバム「New York-London-Paris-Munich」の輸入盤を入手していた。
そいつはよほどうれしかったのか、買った輸入盤をわざわざ学校に持ってきて自慢していたのだが、当時の輸入盤レコードは独特の黄色っぽいニオイがして、自分はどうにもあの香りになじめず、友人からの「貸してやる」のお誘いも丁重にお断り。
結局アルバムは聴かずじまい。
そんなわけで自分にとってMといえば楽曲とともにあの強烈なニオイが強く印象に残っている。

「Pop Muzik」は聴いたものの、世界中を席巻していたテクノポップにも実はそれほど興味はわかなかった。
日本でもYMOをはじめヒカシューやランドセルやPモデルやプラスチックスといったテクノな人たちが続々登場したが、どれもまともに聴いたことはない。

大ヒット40周年を記念してMについて今夜調べてみました。(適当)

本名はロビン・エドモンド・スコット。
とりあえずイニシャルMではないようです。
1947年イギリスのサリー州クロイドン生まれ。
ロビン少年はクロイドンで育ち、地元の美術大学に通う。

60年代後半にセックス・ピストルズのマネージャーとして知られるマルコム・マクラーレンと、マルコムのパートナーでありファッションデザイナーのヴィヴィアン・ウェストウッドに出会う。
ロビンはマクラーレンとウェストウッドから、彼らが立ち上げたチェルシーのブティック「SEX」に参加しないかというお誘いを断り、音楽でのキャリアを築くことを選ぶ。
あのマクラーレンとウェストウッドに出会った・誘われたという経歴はジョン・ライドンと同じだが、その後の展開は全く違ったようだ。
そのまま二人の誘いに乗っかってたら、パンクで有名になっていたかもしれない。

ロビン・スコットは大学在学中からラジオやテレビ用に曲を書く仕事を始め、1969年にアルバム「Woman From The Warm Glass」でデビューする。
中身はアシッド・フォーク・ロックで、マイティ・ベイビーというバンドのメンバーが参加。

その後はブルースバンドに参加したり、デビッド・ボウイキャメルなど様々なミュージシャンと交流し曲を作ったりしたが、メジャーリリースには至らず。
他にもミュージカル用の曲を書いたり、プロデュース業をやってみたりと地味に音楽活動を継続。

78年頃、ルーガレーターというR&Bバンドのデビューアルバムをプロデュースするため、「Do It Records」という名のレーベルを知人とともに設立。
このレーベルから初期のアダム&ジ・アンツの作品をリリースしたり、ロビン自身も「Comic Romance」という名義でシングル「Cry Myself to Sleep」を発表している。

そしてロビンが当時「M」と呼んでいたセッションミュージシャンのグループとともに、名曲「Pop Muzik」、アルバム「New York-London-Paris-Munich」をプロデュースして録音する。
参加した他のミュージシャンには、ロビンの弟であるジュリアン・スコット、キーボード奏者ワリー・バダロウ、ジョン・ルイス、ブリジット・ノヴィク、後にレベル42に加入するフィリップ・グールドがいた。
録音はスイスのモントルーで行われ、当時モントルーに住んでいたデビッド・ボウイも手拍子で参加している。
え、手拍子だけ?
せっかくボウイさん来てくれはったならワンフレーズでもいいから歌も録音したらよかったのに・・

手拍子の甲斐もあって「Pop Muzik」は各国の週間チャートで軒並み上位を記録し、全米1位・全英2位、オーストラリアやカナダや西ドイツでも1位を獲得する大ヒットとなった。

今回調べてみて初めて知ったのだが、Mとは公式にはロビン・スコットの個人ユニットではあるが、そもそもはロビンも含めたセッションミュージシャングループのことだった。
大ヒットした後、ギャラや印税の配分でモメたりしなかったのだろうか。
ボウイは手拍子だけでいくらもらえたのだろうか。(発想が貧乏人)
なおMという名前は、当時パリでジャケットのデザインを考えていたロビンが、地下鉄(メトロ)のでかいMの字看板を見て思いついたとのこと。

Mは80年シングル「Official Secrets」「Keep It to Yourself」とアルバム「The Official Secrets Act」をリリース。
イギリスとアイルランドで録音され、レベル42からフィル・グールドとマーク・キングも参加。
「Pop Muzik」の国際的大ヒットの勢いそのままに、事務所もレコード会社も期待を込めての発表だったが、なんと結果は惨敗。
「Official Secrets」は全英64位どまり、アルバムも全米全英はおろかどこの国でも200位にも入らず。
この落差は今見ても驚くほど厳しい。
イギリスの芸能界も怖いスね。
日本じゃ一発屋の称号が似合うMだが、そう言われても仕方がない実績である。
なお惨敗をよそにロビン・スコットは、坂本龍一に誘われて81年のアルバム「左うでの夢」を共同プロデュースしている。

懲りないロビン・スコット、82年にはMとしての3枚目のアルバム「Famous Last Words」を発表。
再びレベル42からはフィル・グールドとマーク・キングが参加。
また高橋幸宏やトーマス・ドルビーも協力した話題性がっちりの作品だったが、セールスとしてはまたも失敗で、本国イギリスでは発売もされず、他国のチャートをにぎわすようなこともなかった。

これでレコード会社MCAとの対立も決定的なものとなり、以降二度とMCAから作品をリリースすることはなかった。
ロビンは新たな方向性としてアフリカ民族音楽に傾倒するようになる。
83年から84年にかけて多くのアフリカのミュージシャンたちと共演。
南アフリカの女性ボーカルトリオ、シキシャとの共作アルバムも発表した。

その後はしばらく表舞台に立つこともなく、当然ヒット曲もロケ弁もギャラも出ない状態が続く。
ただアルバム「New York-London-Paris-Munich」は歴史的名盤として評価は高く、97年再発時にはボーナストラックが13曲も追加された。
また2002年にもボートラ5曲を含む全13曲収録で再発売されている。

2007年8月頃オーストラリアで開催されたコンサートに出演し、初めて「Pop Muzik」をライブ演奏した。
現時点での最新作は2017年リリースの「Emotional DNA」。

・・・今回も全っ然知らない話だらけ。
失礼ながら今も現役で活動中というのも知らなかったし、マクラーレンとウェストウッドに誘われたという経歴も初めて知った。

聴いた2曲はどちらもテクノサウンド満載で、当時の音楽情勢を雄弁に語る楽曲である。
「Official Secrets」のほうがやや英国エレポップの神経質な要素を取り込んでいる気がする。
「Pop Muzik」はイントロは印象的だが、リズムやメロディは思ったよりも単調に思える。
どちらも好みの音かと言われるとやはり微妙で、当時流行っていて録音できたから消さずに聴いていただけ。

でも「Pop Muzik」はU2がツアーでこの曲をリミックスして使ったり、カバーした人たちも複数おり、イギリスではテクノブーム時代を象徴する名曲ではあるらしい。
本国ではMことロビン・スコットは一発屋扱いではないのだろうか?

「Pop Muzik」の歌詞も今回初めて調べてみたが、つぶやきや口語の部分も多いので、紹介してるサイトごとに細かい部分で微妙に言葉やスペルが違う。
少なくとも恋する心情を歌ったり愛の情景を綴ったりといったものではなく、韻を踏んで言葉をつないでみたり、思いつくままフレーズを並べているだけで、日本語に訳すること自体無理があるようだ。

アルバムのタイトルのとおりニューヨーク・ロンドン・パリ・ミュンヘンが出てきたり、「ラジオにビデオ、スーツケースを持ってブギーしよう、ディスコ三昧の生活をしよう」と呼びかけたりしている。
「I can't get jumping jack、I wanna hold get back」という部分は、ストーンズの「Jumpin' Jack Flash」とビートルズの「Get Back」を指しているとのこと。

なんとなく意味がありそうなセンテンスはそれくらいで、他はディズニーアニメ「ミッキーのジャックと豆の木」で巨人が口ずさむ鼻歌部分「Fe, fi, foe, fum(ふんふんふん♪といった感じ?)」を歌詞に入れてみたり、子供が使う古典的な言い回し「Eenie, meenie, mienie, mo(日本語で言うと「どーれーにーしーよーうーかな」)」を採り入れたり、かなり自由で好き勝手な歌詞だ。

さてロビン・スコットから「Pop Muzik」のパクリだと訴えられた、とあちこちのサイトに書いてあるのが以下の2曲だ。
・ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース「I Want A New Drug」
・レイ・パーカー・ジュニア「Ghostbusters」

ただしこれもサイトによって記述はけっこうバラバラ。
結果は「ロビンの勝訴」と書いてあったり、「ほとんど話題にならず」で終わってたり。
さらには訴えられたのはレイ・パーカーだけになってるサイトもあって、真相はよくわからない。
なおヒューイ・ルイスが「Ghostbusters」は「I Want A New Drug」のパクリだとレイ・パーカー・ジュニアを訴えた、というのは各サイトとも共通していた。
とりあえず3曲とも知ってるが、まあ確かにリズムは似てるけど・・これがパクリだったらもっと似てる組み合わせはあるよなという感想。
そういえば「うっせえわ」って、ストーンズの「Neighbours」に似てません?

というわけで、M。
そもそも日本のリスナーからはどんな評価を受けてるのか全くわかりません。
M名義のスタジオ盤は3枚とのことなので、気合いを持って臨めば全盤制覇も不可能ではないとは思うが、当然名盤「New York-London-Paris-Munich」ははずせないでしょうね。
皆さまの鑑賞履歴や評価について教えていただけたらと思います。

 

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聴いてみた 第166回 ジョン・レノン

70年代ポール・マッカートニーをなんとか制覇してやれやれ一安心の聴いてみたシリーズ。
だが没後40年半、また東洋一の珍奇BLOG開設以降17年半もの間力一杯放置していたのが、ポールと並ぶ大英帝国音楽界の双璧・巨大なる音楽山脈・ひとり民族大移動ことジョン・レノンである。(適当)
まあジョージリンゴも放置してることに変わりはないが、ポールだけ聴いてジョンの作品を一切聴いてないというのは相当深刻な状況だ。(今さら)

ただし。
相手は一筋縄ではいかないジョン・レノン。
時系列にそって正しく鑑賞・・と行きたいところだが、さすがに前衛芸術家ヨーコと組んで発表した69年までの3作品からではハードルが高すぎであろう。(聴いてないけど)
なので一応ビートルズ解散後のソロキャリアとして最初の作品である「ジョンの魂」を聴くことにしました。
なお今回聞いたのは2000年発売のリマスター盤である。

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原題は「John Lennon/Plastic Ono Band」。
ジョンとヨーコ、フィル・スペクターによる共同プロデュースで、ヨーコ名義の「Yoko Ono/Plastic Ono Band」という前衛的な曲を集めたアルバムと対になっているそうだ。
申し訳ないけど、ヨーコ名義の音楽は全く興味はわかない。

取り急ぎ制作の経緯をネットで調べてみた。
ビートルズ解散騒動の影響は4人それぞれにあっただろうが、ソロアルバムをポールは一人で作ったのに、ジョンにはリンゴ・スターやクラウス・フォアマン、ビリー・プレストンが協力している。
またジョンが30歳の誕生日である10月9日に「Remember」を録音していると、ジョージ・ハリスンがお祝いのためスタジオを訪れ、リンゴと3人でしばしご歓談したという話もある。
なので図式としてはやはり解散前後はポールだけが孤立し、ジョン・ジョージ・リンゴと対立関係にあったのは間違いないようだ。

ビートルズ解散後、ジョンの精神的ダメージやLSDの影響を心配したヨーコは、ジョンとともにアメリカのアーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法である「プライマル・スクリーム(原初の叫び)療法」を受けることにした。
治療はまずロンドンで4週間行われ、その後はロサンゼルスで4ヶ月間続けられた。
ヤノフ博士の治療は、抑圧された子供時代のトラウマを感情的に吐き出すことを主眼としていたとされる。

しかし、ビザ期限切れを理由にアメリカ移民局からジョンに国外退去命令が出たため、イギリスに戻らねばならず、治療は中断してしまったそうだ。
ヤノフ博士は、ジョンのトラウマはかなりの重症であり、治療は最低1年は必要と判断していたので、治療が途中で終わってしまったことを心配していた。

ジョン自身は、途中で終わってしまったものの治療については肯定的で、感情を価値のある自己啓発的な作品に昇華することができたと表明している。
結果として「ジョンの魂」は、この原初療法の経験が強く反映され、シンプルではあるが強烈な内面感情の発信となって完成されたことになる。

レコーディング中もジョンはかなり不安定で、「録音の途中で急に泣き出したり、叫び始めたりしたこともあった」と後にリンゴは語っている。
そもそも「オレはもうビートルズをやめてヨーコと生きていくんや」と先に脱退表明したのはジョンなのに、いざ解散となったら混乱ぶりはポール以上に深刻で、たぶんリンゴはジョンのことが心配でレコーディングに協力したんじゃないかとも思う。
長い付き合いの中で、リンゴはジョンのことを「常にそばに誰かがいないとダメなヤツ」だとわかっていたんじゃないだろうか。
いずれにしてもリンゴがいてよかったなぁ、ジョン。

こうして泣いたり叫んだりヨーコや友人に支えられたりで混乱しながらも完成した、文字通り魂の叫びとしてのジョン・レノンの「ジョンの魂」。
果たしてジョンの叫びは自分にはどう聞こえるのでしょうか。

・・・・・聴いてみた。

1. Mother(母)
部分的に聴いたことはあるが、全編まともに聴くのは初めてである。
重い鐘の音が4回鳴ったあと、唐突に曲が始まる。
ラストの2行は一部リズムが急いでいる。
歌詞も原初療法の成果なのだろうか。
解釈はいろいろあるようだが、個人的には「世界中の子供たちに自分と同じような思いをしてほしくない」というメッセージである説を支持したい気がする。

2. Hold On(しっかりジョン)
ゆったりしたリズム、リンゴのころがるドラム。
これにジョンのボーカルが二重で乗る安心のサウンドだが、短い。

3. I Found Out(悟り)
ジョンならではの辛口なブルージーメロディとサウンド。
どの楽器も主張しており、意外にバンド感がある。

4. Working Class Hero(労働階級の英雄)
アコースティックギターの弾き語り。
どの評論にも書いてあるが、「ボブ・ディランを思わせる」フォーク調の曲。
まあ確かにメロディも歌い方もディラン風ではあるが、ジョンのボーカルなので安心して聴ける。
この後「God」で「ディランを信じない」と言ってしまうんだけど。
歌詞の和訳をあちこちのサイトで見てみたが、解釈がかなり難しい。
そもそもイギリスの階級自体が日本人に正確に理解できるんかと言われたら、これも微妙だ。
繰り返される「A working class hero is something to be」は「労働者階級の英雄になれるならそりゃカッコいいよ、大したもんだよ」といった意味だろうが、単純に労働者階級の人々を鼓舞してがんばろうぜと呼びかけているわけではない。
「英雄になれたらいいけど、そんなに簡単じゃないぜ、気をつけなよ」といったニュアンスだろうか。

5. Isolation(孤独)
今度はピアノの弾き語り。
前半はなんとなく後の「Imagine」につながるような旋律。
中盤はピアノもボーカルもたたきつけるようなブルース調に変わる。
・・と思ったら突然終わる。

6. Remember(思い出すんだ)
少しテンポを上げたピアノ基調の曲だが、ハーモニーやリズムをあまり気にしていない展開で、複雑な構成。
リンゴのドラムがいい。
爆発音が鳴り、この曲も唐突に終わる。

7. Love(愛)
この曲だけベスト盤で聴いていた。
他の曲とは違い、歌詞もメロディも構成も非常に誠実で、皮肉や裏をかくような切り返しが一切ない。
やはり後世に残る名曲である。

8. Well Well Well
一転重苦しいブルース。
どこか「Yer Blues」や「Come Together」を思わせる。
中盤以降はボーカルもかなりクスリっぽいヤケクソなシャウトが混じる。

9. Look At Me(ぼくを見て)
「OK?」という掛け声で始まる、アコースティックギター。
これもどの評論にも書いてあるが、リズムもメロディも「Julia」に似ている。
確かにそのままホワイトアルバムに入っていても違和感のない曲である。
実際この曲の原型を作ったのはホワイトアルバム制作の頃らしい。

10. God(神)
この曲もまともに聴くのは初めてである。
ビリー・プレストンがピアノで参加。
サウンドは美しいが、歌詞は読んでのとおり、世の中の何もかも信じない、真実としてあるのは自分とヨーコだけ、夢は終わった・・という強烈な決別宣言である。
「僕はビートルズを信じない」という衝撃の一節があるが、ここは「The Beatles」とは言っていないので、ジョンが信じないと言ったのは「バンドとしてのビートルズ」ではなく、「ビートルズをとりまく一連の騒動や現象を指している」という解釈があるそうだ。
ファンとしての切実な想いも込めた解釈のようだが、当時の状況からしてもジョンはやはり「ザ・ビートルズ(=ほぼポール)」も信じられなかったのではないだろうか。
今なら炎上必至の歌詞だけど、そういうことをついストレートに歌ってしまうのがジョン・レノンという人なんだと思う。
なお歌詞にある「Zimmerman」はボブ・ディランの本名とのこと。

11. My Mummy's Dead(母の死)
ジョンがカセットテープに録音したという短い曲。
元曲はイギリス民謡の「Three Blind Mice(三匹の盲目のネズミ)」だそうだ。

以下はボーナストラック。

12. Power to the People
この曲もベスト盤で聴いていた。
タイトルどおりの力強い歌と演奏。
ジョンにとってはどうでもいい話だが、あの内田裕也が政見放送でこの曲を歌っていたのをリアルタイムで見たことがある。

13. Do the Oz
ビル・エリオット&エラスティック・オズ・バンドというグループのシングル「God Save Us」のB面に収録された曲で、歌っているのはジョン。
曲はジョンが作ったもので、イギリスの雑誌「Oz」が猥褻の罪で裁判にかけられた際、雑誌を救う募金活動を行うのに合わせて作られたそうだ。
ビル・エリオットとは何者?と思って調べたら、ハーフ・ブリードというバンドで活動していた歌手で、ビートルズのロードマネージャーだったマル・エヴァンスによってスカウトされた人、とのこと。
ただしサウンドは前衛的で歌詞もタイトルの繰り返し、ジョンのボーカルもヤケクソで聴きどころは全然ない。
これで募金は目標どおり集まったの?
なんでこれをボーナストラックとして採用したんだろうか?

聴き終えた。
「よかった」「そうでもなかった」という感想の前に、やはり「難しい」という感覚はある。
「難しい」の定義すら難しいのだが、プログレやパンクを聴いた時の難しさとは当然違う。
楽しくなったり高揚するような曲はひとつもなく、かと言って受け入れがたいような変わった音でもない。
もう少し反復が必要なことは言うまでもないが、第一印象としては思ったより難しかった、というのが正直なところ。

好みかどうかは別として、ポールの「McCartney」よりも印象に残るアルバムではある。
「ジョンの魂」も音楽として楽曲や歌声や演奏だけを純粋に鑑賞するのではなく、当時の状況や背景をふまえ、ジョンの心情や決意、ポールやリンゴとの関係などをくみ取りながら聴くのが正しい姿勢であろう。
「McCartney」同様そうした情報も含めての鑑賞だったが、やはりジョンの魂の叫びのほうがインパクトは大きいものがある。

歌詞はどれもシンプルでストレートがゆえに、日本のリスナーでも様々な解釈がなされている。
特に「God」の「ビートルズもディランも信じない」とは当時の本心なのか、皮肉なのか、はたまたジョン特有のジョークなのか、判断は難しい。
ホントのところはジョンに聞いてみないともちろんわからないが、当時は本気でそう思っていて歌詞にも直球で書いちゃったけど、その後やっぱ少しマズかったかな?と後悔していた・・というあたりではないだろうか。

というわけで、「ジョンの魂」。
名盤であることはなんとか理解できたものの、まだ学習は全然足りておらず、繰り返し鑑賞が必要と感じました。
次作の名盤「Imagine」にも挑戦しようと思います。

 

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