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2025年の終わりに

関東最大級の惰性万年初心者音楽BLOGを始めてとうとう丸22年も経ってしまった。
どの業界でも22年も続けていればベテランとか円熟の領域に到達するもんだが、自分の場合は何年経とうが一向に「聴いてない音楽」が減らないので、もう治療の施しようがなく、完全に手遅れである。(毎年同じセリフ)
ちなみに芸歴22年といえば、ザ・たっち、しずる、ジャルジャル、ジョイマン、狩野英孝、若井おさむなどが該当するそうです。
なんか微妙な空気になってる気がしますが・・・

「聴いてない音楽を公表して聴いてる人からアドバイスを受ける」という他力本願で誰もやらないコンセプトは22年経っても変わらず、聴いてないシリーズは今年も15本も書いてしまった。
今年の聴いてないシリーズは以下である。

聴いてない 第326回 カーラ・ボノフ
聴いてない 第327回 ブルー・マーダー
聴いてない 第328回 ヴァレンシア
聴いてない 第329回 ジョーン・バエズ
聴いてない 第330回 シャーデー
聴いてない 第331回 クランベリーズ
聴いてない 第332回 チャーリー・ドア
聴いてない 第333回 ホリーズ
聴いてない 第334回 ブロック・ウォルシュ
聴いてない 第335回 デバージ
聴いてない 第336回 メリサ・マンチェスター
聴いてない 第337回 ナイン・インチ・ネイルズ
聴いてない 第338回 ポーラ・アブドゥル
聴いてない 第339回 ザ・ジェッツ
聴いてない 第340回 ラモーンズ

さすがにどれも日本中の誰もがきっと聴いてるよ的なアーチストではないかもしれないが、カーラ・ボノフやジョーン・バエズ、ホリーズやラモーンズといった大物芸人が22年目でもまだ登場している。

で、本来はこっちがウチのBLOGの本業にならねばならない聴いてみたシリーズは以下の4本。

聴いてみた 第184回 メン・アット・ワーク
聴いてみた 第185回 オアシス
聴いてみた 第186回 オアシス その2
聴いてみた 第187回 ハート

誰からも勧められていないメン・アット・ワークなんかを聴いており、また来日のニュースにあわててオアシスを2枚も聴いてしまった。
積年の課題である元ビートルズ4人のソロ鑑賞や、ストーンズクラプトンブルース・スプリングスティーンなどの学習も今年は全く進まなかった。
来年からは本腰を入れて聴いてみたシリーズにシフトしようと思う。(毎年棒読み)

年末恒例の哀悼企画、今年亡くなったミュージシャンは以下のとおり。

クリス・レア
ミック・エイブラハムズ(ジェスロ・タル
山内テツ(フリー、フェイセズ
マニ(ストーン・ローゼズプライマル・スクリーム
エース・フレーリー(キッス
ジョン・ロッジ(ムーディー・ブルース
クリス・ドレヤ(ヤードバーズ
リック・デイビス(スーパートランプ
ボビー・ウィットロック(デレク・アンド・ザ・ドミノス)
ポール・マリオ・デイ(アイアン・メイデン
オジー・オズボーンブラック・サバス他)
ミック・ラルフス(バッド・カンパニー、モット・ザ・フープル
ブライアン・ウィルソン(ビーチ・ボーイズ
スライ・ストーン(スライ&ザ・ファミリー・ストーン
ロジャー・マクラクラン(リトル・リバー・バンド
レス・ピンクス(ジューダス・プリースト
クラム・バーク(ブロンディ
ロバータ・フラック
ジェイミー・ミューア(キング・クリムゾン
ガース・ハドソン(ザ・バンド
ジョン・サイクス(ホワイトスネイクシン・リジィブルー・マーダー

よく聴いていたミュージシャンは今年もあまりおらず、そもそも訃報で名前を初めて知った人や、亡くなったことをさっき知ったばかりの人のほうが多い。
知名度で言えばオジー・オズボーンやブライアン・ウィルソンの訃報が世間ではインパクトが大きかったと思うが、個人的にはエース・フレーリーやリック・デイビスが亡くなったことはやはり残念である。
自分が若い頃活躍していたミュージシャンは当然だが皆高齢化しており、仕方がない話ではあるが、やはり年を追うごとに訃報が増えていて寂しい。

というわけで、ご指導いただいたみなさま、ありがとうございました。
22年経っても一切成長しなかった自分ですが、よろしければ23年目も引き続きよろしくお願いいたします。
いつまで続けられるかわかりませんが・・・
みなさまよいお年を。

Ace-frehley
エース・フレーリー KISS
Breakfast-in-america
スーパートランプ Breakfast in America
Faces-live
ロッド・スチュワート & フェイセズ / ライヴ

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聴いてない 第340回 ラモーンズ

当店は聴いてない音楽を量産し続ける無知無双BLOGですが、今日はその中でも相当に堅いバンド。
ラモーンズ、全く聴いてません。(毎度のこと)
知ってるのはバンド名と由来だけだが、なんでそこだけ知ってるのかもナゾ。
聴いてない度は硬派な1。

ニューヨークのパンクバンドだそうだが、どうも自分が聴いてきた80年代産業ロックとは異なる路線を進んでいたと思われる。
FMで彼らの曲を聴いたり録音したことは一度もないし、FMステーションやミュージックライフで記事を読んだ記憶もないからだ。
なので日本での人気や知名度がどれくらいなのかも全くわからない。

あらためてナゾのパンクバンド、ラモーンズについて調査してみた。
ラモーンズは1974年にニューヨークで結成されたパンクロックバンド。
活動期間中に大きな商業的成功を収めたことはないが、アメリカ国内のみならず世界各地でパンクムーブメントの確立に貢献し、このジャンルの先駆者としてパンク文化に大きな影響を与えたバンドとして知られている。

74年にジョン・カミングスとダグラス・コルヴィンがジェフリー・ハイマンを誘いバンドを結成。
ダグラスはポール・マッカートニーがシルバー・ビートルズ時代にポール・ラモンというペンネームを使っていたことに影響を受け、ディー・ディー・ラモーンと名乗った。
さらにメンバーを説得して以下のとおり全員ラモーンという名前にし、バンド名もラモーンズとした。
・ジョーイ・ラモーン(Vo) 本名:ジェフリー・ハイマン
・ジョニー・ラモーン(G) 本名:ジョン・カミングス
・ディー・ディー・ラモーン(B) 本名:ダグラス・コルヴィン
なので当然血縁関係はなく、全員でビジネス兄弟を名乗っただけ。
ポール・マッカートニーに許可は取ったんだろうか?

3人でバンドを結成はしたものの、ボーカルのつもりだったディー・ディーは歌いながらベースを弾けないことに気づいた。
もう少し早い段階で気づかなかったんだろうか・・
仕方なくジョーイがボーカルになったが、ジョーイもテンポの速い曲だと歌いながらドラムを叩けないことに気づき(気づけよ)、ドラマーをやめると言い出した。
後任ドラマーを探してオーディション中、たまたまスタジオに居合わせたジョーイの友人トーマス・エルデイがドラムを演奏したところ、誰よりも上手にできることが明らかになり、トミー・ラモーンとしてバンドに加入した。
なんかマンガみたいなラモーンズのスタートである。

バンドは76年4月にデビューアルバム「Ramones(ラモーンズの激情)」を発表した。
収録されている14曲はどれも短く、最も長い「I Don't Wanna Go Down to the Basement」でも2分半をかろうじて超える程度だった。
作詞作曲のクレジットはバンド全体で分け合っていたが、大半はディー・ディーが手掛けた。
デビューアルバムは評論家からは絶賛されたものの、商業的には成功せず、ビルボードのアルバムチャートで111位にとどまり、シングル「Blitzkrieg Bop」と「I Wanna Be Your Boyfriend」はチャート入りを逃した。
だがニューヨーク以外での公演は好評で、オハイオ州やイギリスでの短いツアーは大成功を収め、ロンドンではマーク・ボランとの共演も果たし、セックス・ピストルズやクラッシュのメンバーとも交流した。

77年1月にアルバム「Leave Home」をリリース。
タイトルはラモーンズが世界ツアーに出発するためにニューヨークを離れる様子を表している。
プロデューサーはジョン・ボンジョビの親類(又従兄弟)のトニー・ボンジョビ。
楽曲と構成は前作よりも洗練されていたが、全米チャートでは148位と厳しい成績に終わる。
一方イギリスでは45位と健闘し、シングル「Swallow My Pride」も全英36位を記録。
以降ラモーンズはアメリカよりイギリスで評価されていく。

前作からわずか10ヶ月後に3枚目アルバム「Rocket to Russia」を発表。
全米49位・全英60位を記録し、ローリングストーン誌は「今年最高のアメリカン・ロックンロール」と絶賛した。
シングル「Sheena Is a Punk Rocker」 は初の全米チャート入りとなり(最高81位)、「Rockaway Beach」は66位に達した。

順調かに思えたラモーンズだったが、ツアーに疲れたトミーは78年初頭にバンドを脱退。
ただしメンバーとは決裂ではなく、脱退後もラモーンズのレコードプロデューサーを続けた。
トミーの後任ドラマーとしてマーク・ベルが加入し、芸名をマーキー・ラモーンとした。

マーキーが参加した最初のアルバム「Road to Ruin」は78年5月にリリースされた。
このアルバムでは、アコースティックギターやメタル風ギターソロなどの新しいサウンドや、数曲のバラード、バンド初の3分を超える曲などが収録された。
当時のアメリカのメイン市場を意識しサウンド改革にも意欲的な作品だったが、期待どおりには売れず全米103位と前作よりも大幅に後退。(全英は32位)
トミーは「あのアルバムはアメリカでは大失敗だった。ラジオで流してもらうために意図的にそうしたのに」と回想している。
この失敗はメンバーの士気を下げ、その後のレコード制作やツアーにも悪影響を及ぼすことになる。

「Road to Ruin」の失敗を払拭すべく、バンドはコメディ映画「ロックンロール・ハイスクール」に出演。
ラモーンズファンの生徒会長で問題児の学生が、校長や教師と対決するという話で、ラモーンズのメンバーは本人役で登場。
映画は大ヒットというわけでもなかったようだが、この映画を見てラモーンズに興味を持ち接触してきたのが、あのフィル・スペクターだった。

フィル・スペクターはラモーンズ5枚目のアルバム「End of the Century」をプロデュースした。
実はフィルがラモーンズのプロデュースを申し出たのはこれが初めてではなく、77年の「Rocket to Russia」を制作する時にも名乗りをあげていた。(この時はバンド側がフィルの申し出を断っている)
満を持して登場したフィル・スペクターは、後に代名詞となる「ウォール・オブ・サウンド」でラモーンズの楽曲を演出しようとした。
同じパートをユニゾンで合奏し、高品質のオーバーダビングとエコーチェンバーを多用するという例の手法である。

だが、そのフィル・スペクターの完璧主義で傲慢で脅迫的なやり方は、ラモーンズのメンバーにとっては苦痛でしかなかったようだ。
フィルはレコーディング中にヘッドフォンで同じドラムの音を何時間も聴き続けたり、ジョニーに何度も同じパートを繰り返し演奏するよう強要した。
時にはディー・ディーやジョニーに銃を突きつけリフを繰り返し弾かせたという。
フィルさんは確かにプロデューサーとしての力量はすごかったが、人格的には相当ヤバイ人だったらしい。

「End of the Century」は全米44位・全英14位の成績を残すが、ジョニーは「あんなのはただの薄めたラモーンズだった。本物のラモーンズじゃない」と切り捨てている。
ロネッツの「Baby, I Love You」もストリングスを採り入れてカバーしているが、ジョニーは「自分は全然演奏してない。オーケストラに合わせて演奏するなんて意味がない」とフィルの手法を批判した。
でもこのカバーはシングルとしてリリースされ、イギリスで8位を記録するバンド最大のヒットとなっている。

80年には初来日し、東京・名古屋・京都・大阪・福岡でライブを行い、NHKのテレビ番組「レッツゴーヤング」にも出演している。

6枚目のアルバム「Pleasant Dreams」は81年7月にリリースされた。
フィル・スペクターに懲りたバンドはスティーブ・リリーホワイトにプロデュースを依頼するつもりだったが、レコード会社に却下され、10ccのグラハム・グールドマンがプロデュースした。
アルバムは全米58位まで上昇したが、全英ではチャートインせず、シングルも全くヒットしなかった。
この頃からジョニーとジョーイは音楽の方向性や同じ女性を巡って対立するようになる。

バンドは83年にアルバム「Subterranean Jungle」を発表する。
このアルバムはハードなパンク・ロック・スタイルへの回帰を特徴としており、その方向性はジョニー・ラモーンが推進した。
ジョニーは「ただ曲がラジオで流されることを心配するのをやめ、ひたすら集中して良いレコードを作る必要がある」と感じていた。
だがこの方針はリードシンガーのジョーイの意向とはズレており、ジョニーのハードロックな好みが優先された形となった。
二人の対立は深まり、またジョーイとマーキーはアルコール依存症、ディー・ディーはコカイン依存症になっており、メンバー間の不和はさらに深刻なものになった。
アルバムは全米83位と微妙な評価に終わり、マーキーはリリース後に解雇され、後任としてリッチー・ラモーン(本名リチャード・ラインハルト)が加入する。

84年のアルバム「Too Tough to Die」は、演奏前のカウントや短いアップテンポの曲を増やすなど、初期のサウンドに近いものへ転換した。
新加入リッチーの作品も1曲あり、評論家からは好評だったが、全米171位・全英63位と商業的にはやっぱり成功と言えない結果に終わる。

9枚目のアルバム「Animal Boy」は86年にリリースされた。
ディー・ディーが大半を作曲し、以前のアルバムにはなかった様々なジャンルや音楽的要素を採り入れ、シンセサイザーを多用したり、レーガン大統領を批判する曲を収録するなど、意欲的な内容。
だがメンバー間の軋轢はかなり悪化していた。
ディー・ディーは「ジョニーはジョーイの作ったいい曲にも『マイナーコードやリードギターは弾かない』などとあれこれ理由をつけて演奏したがらなかった。ヤツにはいつもストレスを感じてた」と語っている。
またジョーイはいつもリッチーに曲作りをするよう勧めていたが、リッチーの本音はあまり気が進まなかったらしい。

結局この居心地の悪さが、リッチーの脱退につながる。
翌87年、バンドはリッチーにとって最後のアルバムとなる「Halfway to Sanity」を制作した。
ほとんどの曲が3分以内で、全12曲でも30分に満たないというラモーンズらしい構成。
ただしサウンドは大きく変化しており、ハードロック、ヘヴィメタル、クロスオーバーなどの影響が見られる曲もあった。
「Go Lil' Camaro Go」ではジョーイがデボラ・ハリーとデュエットしている。

バンドはアルバムツアーに出るが、リッチーはギャラの配分を巡ってジョニーとモメて脱退。
ジョニーは代わりのドラマーを必死で探し、ブロンディのクレム・バークがエルヴィス・ラモーンとしてリッチーの代役を務めた。
しかしクレム・バークはライブで曲や拍を何度も間違えるなど、高校の文化祭みたいな散々な演奏をしてしまう。
ジョニーはこの時のクレムのドラミングを「大惨事」と表現している。
結局クレムはわずか2公演でやっぱり解雇となり、その後アルコール依存症を克服したマーキーが復帰する。

マーキー復帰後バンドは11枚目のスタジオアルバム「Brain Drain」のレコーディングを行った。
だがマーキーが戻ってもメンバーの仲はちっとも良くなく、ディー・ディーはもうこんなバンドやめてやると思い、一人で追加ボーカルのみを別録音した。
そんな状態の中アルバムは88年5月に完成。
シングル「Pet Sematary」はスティーブン・キング原作の同名映画のために書かれた曲で、ラモーンズ最大のヒット曲の一つとなり、全米オルタナチャートでは4位を記録した。
ジョーイ作の「Merry Christmas (I Don't Want to Fight Tonight)」は、後にスマッシュ・マウスやLAガンズ、チープ・トリックなど様々なアーチストによりカバーされている。
ただしアルバムの実績は全米122位・全英75位。
個人的にはジャケットが気持ち悪いんで売れ行きにも影響したんじゃないかと思うが・・・

ディー・ディーはアルバムのツアー終了後に宣言どおり脱退。
代わってクリストファー・ジョセフ・ワード(芸名C・J・ラモーン)が加入した。

バンドは長年契約してきたサイアー・レコードを離れ、ラジオアクティブ・レコードと新たに契約を結ぶ。
レーベル移籍後ラモーンズはすぐにアルバム「Mondo Bizarro(狂った世界)」の制作に取り掛かる。
シングル「Poison Heart」はビルボードのモダン・ロック・トラックチャート(って何?)で2位となった。
またドアーズのカバー「Take It as It Comes」も収録され、「Mondo Bizarro」は10万枚を売り上げてブラジルでゴールド認定を受けた。
ただし全米チャートでは190位。
評価はいろいろだけど、ラモーンズはとにかくアメリカ市場ではかなり苦戦していたようだ。

93年初めにはまた来日し、東京・川崎・名古屋・大阪で公演。
この年の暮れには、ストーンズの「Out of Time」やザ・フー「Substitute」、ボブ・ディラン「My Back Pages」やCCR「Have You Ever Seen the Rain?」など全曲カバーソングを集めたアルバム「Acid Eaters」を発表する。
アルバムはスコット・ハックウィズがプロデュースしたが、ラモーンズがスコットと仕事をしたのはこれが初めてだった。
そのためか制作過程は混乱の連続で、ジョニーによれば「スタジオワーク、アレンジ、トリックといろいろやってみたが、我々にとっては本当に異例のことだった」そうで、「スコットやメンバーからもやたら提案を受け、面倒だった。成功と失敗が入り混じる実験だった」と厳しい評価を述べた。
C・J・ラモーンは「あのアルバムは完全に金儲けのために作った」と発言している。
初のカバー集として話題性はあったものの、実績は全米179位に終わった。

本業でいまいち振るわなかったラモーンズは、同年テレビアニメシリーズ「ザ・シンプソンズ」に出演。
自分たちのアニメ版の音楽と声を担当した。

95年、ラモーンズは14枚目で最後のスタジオアルバム「¡Adios Amigos!(さらば友よ)」をリリースし、翌年解散すると発表した。
ディー・ディーはすでにバンドを脱退していたが、このアルバムには彼の作品が6曲もあり、またトム・ウェイツの「I Don't Want to Grow Up」とハートブレーカーズの「I Love You」のカバーも収録されていた。
だが売上は平凡で、ビルボードチャートの下位に2週間ランクインしただけで最高147位だった。

ラモーンズはアルバム発表後最終ツアーを行う。
96年8月ハリウッドでの最後の公演には元メンバーのディー・ディーが登場し、またモーターヘッドのレミー・キルミスター、パール・ジャムのエディ・ヴェダー、サウンドガーデンのクリス・コーネルとベン・シェパードなどのゲストも出演した。
ツアー終了後の99年7月、ディー・ディー、ジョニー、ジョーイ、トミー、マーキー、C・J・ラモーンはニューヨークのヴァージン・メガストアでサイン会に出席。
これがオリジナルメンバー4人が揃った最後の機会となった。
2001年4月15日にジョーイがリンパ腫により49年の生涯を閉じたためである。

この後相次いでオリジナルメンバーが亡くなる。
2002年3月、ラモーンズはロックの殿堂入りを果たし、式典にはディー・ディー、ジョニー、ジョーイ、トミー、マーキーが出演。
だが今度はこの式典が、ディー・ディーの公の場での最後の姿となった。
この年の6月、彼はヘロインの過剰摂取により死亡。
また前立腺癌と診断されていたジョニーは、2004年9月にロサンゼルスで亡くなった。
最後のオリジナルメンバーであるトミー・ラモーンは、2014年7月11日に胆管癌で亡くなっている。

メンバーの死によりラモーンズは消滅したが、特筆すべきはその影響である。
以下のミュージシャンがラモーンズの楽曲や演奏に影響を受けたことを公言している。
・ポール・シムノン(クラッシュ)
・グレッグ・ギン(ブラック・フラッグ)
・ジェロ・ビアフラとイースト・ベイ・レイ(デッド・ケネディーズ)
・マイク・ネス(ソーシャル・ディストーション)
・ブレット・グルウィッツ(バッド・レリジョン)
・ビリー・ジョー・アームストロングとトレ・クール(グリーン・デイ
・レミー・キルミスター(モーターヘッド)
・カーク・ハメット(メタリカ
・ポール・ディアノ(アイアン・メイデン
・ダフ・マッケイガン(ガンズ・アンド・ローゼズ
・デイブ・グロール(ニルヴァーナフー・ファイターズ
・エディ・ヴェダー(パール・ジャム)
・マイク・ポーノトイ(ドリーム・シアター

また他のアーチストやバンドによるトリビュート・アルバムも、判明しているだけで50枚近くあり、日本でも少年ナイフが2011年に「大阪ラモーンズ」というタイトルでリリースしているそうだ。

以上がラモーンズの概論である。
知ってた話は微塵もなし。
柏村武昭・小林克也・東郷かおる子の誰からもラモーンズを教わっていないし、姉や友人からラモーンズの話を聞いたこともない。(いつも人のせい)
ものすごく簡単に言うと「わずか3つのコードをハイテンポで演奏するというスタイルで、後に続くパンクやハードロック、メタルを含む多くのミュージシャンたちに多大な影響を与えた」という存在とのこと。

80年代は停滞してたのかと思っていたらそんなことは全然なく、アルバムが6枚も出ていた。
ただ曲やアルバムがチャートにばんばん登場するような産業ロックバンドではなかったため、自分みたいな極東の極貧素人学生リスナーにまでは情報が届かなかったようだ。(そうか?)
当時日本で誰がどういう評価をしてたんだろうか?

You Tubeでいくつか彼らの曲を聴いてみたが、やはり知っていた曲はなかった。
多くのミュージシャンに影響を与えたそうだが、そのミュージシャンたちの曲も全然聴いていないので、ラモーンズまでたどり着くこともなかったのだった。

というわけで、ラモーンズ。
いつにも増してハードルの高いイメージですが、自分が聴くとしたらデボラ・ハリーが参加してる「Halfway to Sanity」かなと勝手に考えています。
こんな素人でも聴きやすいアルバムがあったら教えていただけたらと思います。

Ramones
ラモーンズ Ramones
Halfway-to-sanity
ラモーンズ Halfway to Sanity
Osaka-ramones
少年ナイフ 大阪ラモーンズ

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