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聴いてない 第334回 ブロック・ウォルシュ

生涯でたった1曲だけ録音できた一期一会のアーチストは結構いるが、今日のお題ブロック・ウォルシュもその一人。
84年初めに「This Time」という曲だけエアチェックしているが、名前とこの曲以外の情報は一切なし。
雑誌やテレビでも見たことがなく、聴いてない度は2。

ということでいつものとおり心の友ウィキペディアで調査開始・・と思ったら、ブロック・ウォルシュのページが見つからない。
日本語版だとそんなもんかなと勝手に納得したが、英語版でも見当たらない。
これだけネットに情報があふれているのに、ブロック・ウォルシュさんを語るサイトは日米問わずかなり少ないようだ。
なんとかかき集めた情報を整理すると以下のような感じ。

ブロック・ウォルシュは1953年2月ニューヨークに生まれる。
幼少の頃から作曲を始め、ハーバード大学では語学や文学を学ぶ。
大学在学中から自作のデモテープをレコード会社に送り、エレクトラ・アサイラム・レコードからロサンゼルスに来るよう連絡を受ける。
ロスでリンダ・ロンシュタットのバンドのオーディションに合格し、リンダのバックで演奏するようになる。
78年にアンドリュー・ゴールドのアルバム「All This And Heaven Too」をアンドリューと共同でプロデュース。
またカーラ・ボノフのバンドでもキーボードを担当し、80年と81年の来日公演にも同行。
この時はピアノとギターで参加し、オープニング・アクトとしても数曲を歌っている。
この頃ソロデビューに向けてアルバム制作を開始するが、なぜかリリースはされなかった。

82年頃に日本のワーナー・パイオニアと契約。
83年に最初のアルバム「Dateline:Tokyo」が日本でのみリリースされた。
曲は全てブロックの作品(6曲は共作)で、自分が聴いた「This Time」も収録されている。
ブロック本人とアンドリュー・ゴールドの共同プロデュース。
参加ミュージシャンはアンドリュー・ゴールドの他、TOTOからスティーブ・ルカサーとジェフ・ポーカロ、さらにはマシュー・ワイルダー、ケニー・エドワーズとかなり豪華な顔ぶれ。
だが残念ながら日本でもあまり売れなかったようだ。

その後、ブロック・ウォルシュは他のアーティストへの楽曲提供に専念する。
83年にマーク・ゴールデンバーグとの共作「Automatic」をポインター・シスターズに提供し(ブロックもシンセで演奏に参加)、全米5位・全英2位の大ヒットとなった。
そうなの?この曲知らない・・・

他にブロック・ウォルシュが(共作含む)提供した曲は以下がある。
・アル・ジャロウ「Real Tight」(ロビー・ネヴィル他3人との共作)
シーナ・イーストンセリーヌ・ディオン「The Last to Know」
・マンハッタン・トランスファー「Metropolis」「Agua」「The Jungle Pioneer」「Notes from the Underground」
アース・ウィンド&ファイアー「Chicago (Chi-Town) Blues」「Every Now and Then」
・ベット・ミドラー「Lullaby in Blue」
・アーロン・ネヴィル「Show Some Emotion」
・クリスティーナ・アギレラ「Blessed」
シカゴ「Let’s Take a Lifetime」「Mah-Jong」
・ロビー・ネヴィル「Getting Better」「Back to You」

シングル化されていない曲も多いが、多くのアーチストからソングライターとして信頼される存在となった。

95年には「Brother Time」というユニット名義でアルバム「Just The Beginning」をリリースする。
このユニットのメンバーは以下のみなさんである。
・ブロック・ウォルシュ(Vo)
マイケル・センベロ(Vo)
・トレヴァー・ゴードン(K・B)
・ジョジョ・アルヴェス(D・G)
・ジョアン・ラス(K)
・ペン・ジョーンズ(Vo)

ブロック・ウォルシュは全12曲中9曲の創作を担当し、ユニットの中心的存在となっている。

2001年、「Lullaby in Blue」「Blessed」など提供曲のセルフカバーや過去の作品を集めたデモ集「Songs From The Moon Room」を、日本のAOR専門レーベルのクール・サウンドよりリリース。

以上がネットで探し当てたブロック・ウォルシュの経歴である。
知ってた話は当然ゼロ。
提供曲でも聴いたことがある曲もなかった。
またマイケル・センベロとユニットを組んでいたことも初めて知った。
米英ではシンガーよりもソングライターとしての評価が高いようだ。

不思議なのは、2枚のアルバムがいずれも日本限定発売とか日本のレーベルからリリースなど、日本との関わりが深い点。
その割に当時日本であまり話題になっていない(と思う)。
自分が知らないだけかもしれないが、少なくとも当時の雑誌やテレビの洋楽番組でブロック・ウォルシュを目にしたことはない。
アルバムの参加メンバーもビッグネームだらけでお金もかかってそうな感じなのに、なんでふつうに本国アメリカでの発表としなかったのか、理由はよくわからない。

「This Time」は84年1月に当時の一流音楽番組「サンスイ・ベストリクエスト」で録音している。
だがこの時同じテープに録音していたのが、エイジア「The Smlie Has Left Your Eyes」やナイト・レンジャー「You Can Still Rock In America」、カルチャー・クラブ「Karma Chameleon」、イエス「Owner Of A Lonely Heart」、ヴァン・ヘイレン「Jump」など、当時を代表する強豪曲ばかり。
「This Time」は悪くはないが、やはり上記の各ヒット曲に比べて線は細いと感じる。
こういう状況の中でヒットを狙って日本で様々なプロモーションを仕掛ける・・というのもかなり難しそうだ。
柏村武昭も東郷かおる子も小林克也も、残念ながらブロック・ウォルシュに時間を割いてる余裕はなかったんだろう。

というわけで、ブロック・ウォルシュ。
そもそもみなさんはこの人をご存じでしょうか?
AOR界隈に詳しい方ならご存じなのかもしれませんが・・・
アルバムは「Dateline:Tokyo」「Songs From The Moon Room」だけのようなので、2枚とも聴けば全盤制覇なのですが、ユニット「Brother Time」にも少しだけ興味はあります。
もし3枚とも聴いておられる方がいらっしゃいましたら、感想をお聞かせいただけたらと思います。

Dateline
ブロック・ウォルシュ Dateline
Songs-from-the-moon-room
ブロック・ウォルシュ Songs From The Moon Room
Just-the-beginning
ブラザー・タイム Just The Beginning

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聴いてない 第333回 ホリーズ

デビュー当時はビートルズストーンズに並ぶ存在だったバンド、ホリーズ。
実績は2大バンドには遠く及ばないものの、2010年にはロックの殿堂入りを果たし、今なお現役で活動中とのこと。
そんな偉大なるホリーズ、失礼ながらシュープリームスのカバー「Stop! In the Name of Love」1曲しか聴いていない。
60~70年代の日本での扱いは全くわからないが、80年代にはテレビやラジオの洋楽番組や音楽雑誌でホリーズを採り上げたことはあまりなかったんじゃないかと思う。
80年代は産業ロック革命により英米アーチストがムダに量産された時代だったので、どこの局でも出版社でも他に紹介すべきミュージシャンがいくらでもわいてきて、ホリーズを採り上げるスキマもなかったものと思われる。

なのでホリーズについてはどれだけすごい人たちだったのか全く知らない。
そこで今回ホリーズについて調べてみたが、やはり驚きの連続だった。

ホリーズは1962年にマンチェスターで結成されたイギリスのロックバンド。
ローリング・ストーンズと並んで結成以来一度も解散することなく活動を続けている数少ないバンドだそうだ。

小学校時代からの親友であるアラン・クラークとグラハム・ナッシュは、アメリカのエヴァリー・ブラザーズを真似たデュオ「リッキー・アンド・デイン・ヤング」を結成して活動を始めた。
その後別のバンドと組んだり離れたりしたが、二人でマンチェスターのバンド「デルタス」に加入する。
デルタスはリードギターのヴィック・スティール、ベースのエリック・ヘイドック、ドラムのドン・ラスボーンで構成されていたが、後に10ccを結成するエリック・スチュワートが脱退したばかりで、メンバーを探していたところだった。

やがて62年末にデルタスはホリーズに改名する。
グラハム・ナッシュは、ホリーズと名乗ったのはバディ・ホリーへの敬意からだと語っている。

翌63年の1月、ホリーズはリバプールのキャバーン・クラブで公演を行い、そこでビートルズの最初のセッションのプロデュースにも関わったロン・リチャーズの目に留まった。
ロンはホリーズにパーロフォンレコードのオーディションをオファーしたが、ヴィック・スティールはプロのミュージシャンになりたくなく、4月にバンドを脱退する。
バンドはヴィックの代わりとしてトニー・ヒックスを呼び寄せ、オーディションに参加させる。
ホリーズはパーロフォンと契約し、コースターズのカバー「(Ain't That) Just Like Me」が5月にデビューシングルとしてリリースされ、イギリスのシングルチャートで25位を獲得した。

セカンドシングルもコースターズのカバー「Searchin'」で、全英12位にランクインした。
好調に思えたホリーズだったが、8曲ほどレコーディングした後でドラムのドン・ラスボーンもバンドを脱退する。
トニー・ヒックスは昔のバンド仲間ボビー・エリオットを誘い、63年8月に新ドラマーとして迎え入れた。
ここでホリーズはメンバーがようやく安定。
デビューアルバム「Stay with the Hollies」は全英2位を記録し、カバー曲「Stay」は全英8位で初のトップ10ヒットとなった。

ホリーズもデビュー当時はカバー曲中心で人気が出たバンドだった。
アルバム「Stay with the Hollies」は大半がチャック・ベリー、レイ・チャールズ、リトル・リチャードなどのカバーで、オリジナルは1曲だけだった。
またビートルズやストーンズと同様、ホリーズもアルバムの収録曲や順序はイギリス盤とアメリカ盤・カナダ盤では大きく異なっていた。

2枚目のアルバム「In the Hollies Style」を64年に発表。
12曲中7曲はアラン・クラークとグラハム・ナッシュの作品だったが、このアルバム収録曲のいずれも米国ではリリースされなかった。

ホリーズが北米でブレイクしたのは翌65年。
オリジナル曲「Look Through Any Window」は全英4位、全米32位、カナダでは3位にそれぞれ初めてランクインした。
この曲は後に10ccのメンバーとなるマンチェスターのグレアム・グールドマンの作品である。

ちなみに、ホリーズのグラハム・ナッシュと、このグレアム・グールドマンのファーストネームは同じGraham。
日本では昔からGrahamさんを表記のままグラハムと書くことが多く、グラハム・ナッシュもグラハム・ボネットもビリー・グラハムもグレアムとはあまり書かない(と思う)。
ただ発音に寄せるとおそらくグレアムで、ネットでも混在していて、ホリーズを語るサイトでは「グラハム・ナッシュ」「グレアム・グールドマン」と表記されていることも多い。
「グレアム・ナッシュ」だと、古いファンには違和感しかないのではないか?
そう言いながらその昔「聴いてないシリーズ」でCS&Nを採り上げた時は「グレアム・ナッシュ」とか書いてますが・・・
面倒なので今回はこのまま「グラハム・ナッシュ」「グレアム・グールドマン」と書きます。

続くシングルは、ジョージ・ハリスンの「If I Needed Someone(恋をするなら)」だったが、ビートルズがアルバム「Rubber Soul」でジョージのバージョンを収録してリリースすることを決めたため、アルバムとシングルではあったが、両グループによる「恋をするなら」同時発売となった。
だがやはりビートルズが相手では分が悪く、ホリーズの「恋をするなら」は全英20位にとどまり、北米ではリリースされなかった。

そもそもホリーズへの曲提供はジョージ・マーティンからロン・リチャーズへデモ音源が渡って決まったもので、ジョージ・ハリスンの提案ではなかったらしい。
当時リバプールのビートルズとマンチェスターのホリーズは、マスコミや関係者により敵対関係にあるとされていた部分もあり、ホリーズ側では「あのビートルズの曲をホリーズに歌わせるのか」との議論もあったようだ。
昔からイギリスってこういう都市対抗戦が好きだね。
結局ホリーズは「恋をするなら」を録音したが、ジョージ・ハリスンはホリーズについて「寄せ集めのセッションマンの演奏のように聞こえる」と酷評。
ジョン・レノンもホリーズの曲を批判し、長年ホリーズのサウンドを嫌っていたそうだ。

3枚目のアルバムはシンプルに「Hollies」と題され、65年に全英8位に達したが、アメリカ盤は収録曲や順序を変えて「Hear! Here! 」というダジャレなタイトルで発売され、この上から目線なタイトルのせいか知らんけど全米チャート入りはしなかった。

翌年ホリーズはシングル「I Can't Let Go」で全英2位を記録した。
このヒット曲を収録した4枚目のアルバム「Would You Believe?」は全英16位まで上昇した。
だがアメリカではビートルズもカバーした「A Taste of Honey(蜜の味)」「Mr. Moonlight」を収録した「Beat Group!」としてリリースされたが、全米トップ100入りは逃してしまった。
どうもここまでホリーズのアメリカ戦略はいまいちうまくいかなかったようだ。

この後ホリーズは混乱と栄光をほぼ同時に経験することになる。
ベースのエリック・ヘイドックがマネージメント側に対して不満を主張し、活動を休止する。
エリック不在の間、バンドはビートルズの親友であるクラウス・フォアマンを招き、2枚のシングルを録音した。
それが「After the Fox」と「Bus Stop」である。

「After the Fox」にはピーター・セラーズがボーカル、ジャック・ブルースがベース、バート・バカラックがキーボードで参加。
ピーター・セラーズ主演の同名映画のテーマソングにもなった。
「Bus Stop」は全英・全米とも5位を記録し、ホリーズにとって初の全米トップ10シングルとなった。
この曲もグレアム・グールドマンの作品で、演奏ではバーニー・カルバートがベースを担当し、後に正式なメンバーになっている。
なおエリック・ヘイドックは「Bus Stop」が大ヒットした後、66年7月にバンドを解雇された。

なお「Bus Stop」は多くのミュージシャンによりカバーされており、ハーマンズ・ハーミッツやピーター&ゴードン、クラウドベリー・ジャムやドッケンもカバーしている。
日本でもキャンディーズや荻野目洋子がカバーしたそうです。

「Bus Stop」大ヒットを経て、ホリーズのメンバーには他のミュージシャンからの引き合いが増えることになる。
アラン・クラークとグラハム・ナッシュとトニー・ヒックスは、憧れだったエヴァリー・ブラザーズのアルバム「Two Yanks in England」のレコーディングに参加。
なおこのレコーディングに同時に参加していたのがジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、エルトン・ジョンである。

こうした課外活動はバンドの創作内容にも変化をもたらす。
ホリーズ5枚目のアルバム「For Certain Because」はアラン、グラハム、トニーによるオリジナル曲のみで構成された初のアルバムとなった。
「Stop! Stop! Stop!」は3人を作詞作曲者としてクレジットした最初の曲であり、全英2位・全米7位を記録。
トニー・ヒックスがバンジョーを演奏している数少ない曲としても有名である。

続くアルバム「Evolution」はサポートにミッチ・ミッチェルやクレム・カッティーニを起用。
ビートルズの「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」と同じ67年6月1日に発売され、全英13位・全米43位に達した。

この頃からグラハム・ナッシュはバンドの音域を広げようと様々な試みを行っていく。
グラハムはアメリカのフォークに影響を受けた野心的な「King Midas in Reverse」を制作したが、全英チャートでは18位に終わる。
18位なら十分ヒットしてるやんと言っていいような気もするが、アルバム「Butterfly」と合わせて商業的には失敗とされた。
あわてたアランとグラハムはより一般受けしそうなポップソング「Jennifer Eccles」を急遽発表。
これは吉と出て全英7位・全米40位・全豪13位を記録した。

この過程がバンド内にかなり深刻な亀裂を生むことになる。
「King Midas in Reverse」の失敗はグラハムの立場を悪くし、メンバー間の緊張を高めていく。
もともとアランとトニーはそれまでの「売れ筋路線ホリーズ」で行ったらええやんと考えており、グラハムのアメリカかぶれな方向性には反対だった。
次のアルバム用にグラハムが作った「Marrakesh Express」を他のメンバーは「こんなん売れへんわ」と拒否。
その後バンドがボブ・ディランのカバー曲のみで構成されたアルバムを作ることを決定した時点で、対立は決定的なものとなる。
グラハムは「風に吹かれて」の録音に渋々参加したが、ディランのカバー集という安直企画に対する嫌悪感を隠さず、メンバーやプロデューサーと何度も衝突した。

68年末のロンドンでのチャリティコンサートに出演した後、グラハムは正式にホリーズを脱退し、ロサンゼルスへ移住する。
グラハムは雑誌のインタビュー記事で「もうツアーには耐えられない。ただ家でじっと座って曲を書きたい。他のメンバーがどう思おうと、どうでもいい」と述べている。
ツアーは口実で、本音はやはり目指す音楽性や方向性の違いと、それに関するメンバーとの衝突にあったと思われる。

グラハムはロサンゼルスへ移住した後、元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルスと、元バーズのデヴィッド・クロスビーと共に、クロスビー・スティルス&ナッシュというグループを結成。
デビューシングルとしてホリーズでは出せなかった因縁の「Marrakesh Express」をリリースした。

69年1月、グラハム・ナッシュに代わりテリー・シルベスターがホリーズに加入した。
グラハム脱退前からの計画通り、5月にディランカバー集「Hollies Sing Dylan」を発表し、全英3位を記録した。
「風に吹かれて」にはグラハムがボーカルとギターで参加したはずが、クレジットには名前は載らなかった。
全英3位にはなったものの、ディランのファンや評論家からは不評だったようだ。
そうした反発を意識してか、次のアルバムは半年後に「Hollies Sing Hollies」と題して急ぎリリーズされた。

70年代に入ってもホリーズは比較的好調だった。
シングル「I Can't Tell the Bottom from the Top」はエルトン・ジョンがピアノで参加。
全英7位のほか、アイルランドやオランダでもトップ10入りしている。
続く「Gasoline Alley Bred(懐かしのガソリン・アレー)」も全英14位・全豪20位を記録。
アラン・クラーク作のハードなロックナンバー「Hey Willy」は全英22位となり、その他8カ国でチャートインした。

しかしこの頃からバンドは再び混乱する。
アラン・クラークもグラハム・ナッシュと同様に、メンバーやプロデューサーのロン・リチャーズと楽曲をめぐって衝突するようになった。
アランにはバンドへの不満もあったが、それ以上にグラハムの脱退後の成功をうらやましく見ており、「オレもバンドを脱退してうまいことやるんや!」と思ったらしい。
71年のアルバム「Distant Light」発表をもってレコード会社パーロフォンとの契約が終了した時点で、アランもホリーズを脱退した。

ホリーズは72年にポリドールと契約を結び、スウェーデン人歌手のミカエル・リックフォースをスカウト。
ミカエルは初のポリドールからのシングル「The Baby」でリードボーカルを務めた。
一方でパーロフォンは対抗策として、アランが脱退前に録音した「Long Cool Woman in a Black Dress」を「The Baby」にぶつけてリリースした。
歌ってるアランはすでに脱退してホリーズにはいなかったが、そんな事態に関係なく曲は大ヒット。
全米ビルボード2位(キャッシュボックスでは1位)、オーストラリアやニュージーランドでも2位、カナダや南アフリカで1位というバンド最高の実績となった。
・・・これって印税の配分はどうなってたんですかね?
抜けたアランにもお金は支払われたんでしょうか・・?

ミカエル・リックフォースは新加入ながらホリーズのフロントマンとなり、1年半ほどの在籍中にアルバム「Romany」「Out on the Road」を発表。
だが加入前ほどの実績を残せず、73年夏にアラン・クラークがバンドに復帰し、ミカエルは脱退した。

アラン・クラークの復帰後も、ホリーズは作品ごとの成績が大幅に異なる状態が続く。
アラン作詞の「The Day that Curly Billy Shot Down Crazy Sam McGee」で全英トップ30(24位)に返り咲き、74年にはアルバート・ハモンドとマイク・ヘイズルウッド作曲の「The Air That I Breathe」が全英2位・全米6位を達成する。
しかしこれがホリーズにとって今のところ最後の全英全米トップ10入りした新曲になってしまった。

翌年アラン・パーソンズをプロデューサーに起用した「Another Night」は全米71位止まり。
ブルース・スプリングスティーン作曲の「4th of July, Asbury Park」はニュージーランドでは9位と健闘したものの、全米では85位で失敗に終わっている。
ホリーズは70年代後半もシングル・チャートでヒット曲を出し続けていたが、人気があったのはイギリス以外のヨーロッパとニュージーランドだった。
80年にはバディ・ホリーのカバー集アルバム「Buddy Holly」をリリース。
81年5月、バーニー・カルバートとテリー・シルベスターがグループを脱退し、アラン・コーツがギター担当で加入した。

この後バンドは意外な展開を見せる。
その年の8月にホリーズはEMIからヒット曲メドレー集「Holliedaze」をリリースした。
さらにBBCの要請により、グラハム・ナッシュとエリック・ヘイドックはこのアルバムのプロモーションのために短期間再加入する。
二人が戻ったホリーズはテレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」で「Holliedaze」を演奏した。

翌82年9月、グラハムはホリーズのレコーディングにも参加し、再結成アルバム「What Goes Around...」が発売された。
自分が聴いたシュープリームスのカバー「Stop! In the Name of Love」も収録されている。
「Stop! In the Name of Love」はホリーズ最後の全米トップ40ヒットとなった。
なおグラハムは84年初めまでホリーズで演奏を続けたが、その間クロスビー・スティルス&ナッシュは休業状態だった。
デヴィッド・クロスビーが82年にテキサスで麻薬と武器所持の容疑で逮捕・投獄されていたためである。

アルバムツアー終了後、グラハム・ナッシュがまた脱退し、アラン・コーツとスティーブ・ストラウド、デニス・ヘインズが加入した。
新生ホリーズは85年5月にシングル「Too Many Hearts Get Broken」をリリースした。
翌年春、レイ・スタイルズがスティーブ・ストラウドに代わって加入。
69年発売のシングル「He Ain't Heavy, He's My Brother」が、88年にビールのテレビCMで使用された後、イギリスで再発され、全英1位を獲得した。(69年は3位だった)

ホリーズは昔からカバー曲をたくさん出してきたが、90年にはあのプリンスの「Purple Rain」もカバーしている。
知らなかった・・・ほとんど話題にならず全然売れなかったようですけど。

93年、ホリーズは結成30周年を記念してベスト盤「The Air That I Breathe: The Very Best of the Hollies」を発売。
全英チャート15位にランクインし、シングル「The Woman I Love」は全英42位まで上昇した。
96年2月、バディ・ホリーのトリビュートアルバム「Buddy Holly Tribute - Not Fade Away」が発表された。
このアルバムのトップに収録された「Peggy Sue Got Married(ペギー・スーの結婚)」は、バディ・ホリーの音源にホリーズがコーラスと演奏を加えたもので、この録音のためにグラハム・ナッシュが一時的にホリーズに復帰した。
この後もホリーズはツアーやテレビ出演を続けた。

2000年以降はメンバー交代が相次いだ。
アラン・クラークは2000年2月に引退し、後任にはムーブの元リードシンガーであるカール・ウェインが加入。
カール・ウェインはホリーズとして「How Do I Survive? 」をレコーディングしたが、これは2003年のベスト・アルバム(全47曲)のラストに収録された唯一の新曲である。
だが2004年8月にカール・ウェインは食道癌で亡くなり、また同年アラン・コーツもバンドを脱退し、ピーター・ハワースとスティーブ・ラウリが加入した。

2006年には1983年以来初の新スタジオ盤「Staying Power」がリリースされた。
2009年に現時点で最新のスタジオアルバム「Then, Now, Always」を発表。

ホリーズは2010年にロックの殿堂入りを果たした。
2012年イギリスツアーのライブを収録したライブ2枚組CD「Hollies Live Hits! We Got the Tunes!」をリリース。
翌2013年にはバンド結成50周年記念ワールドツアーとして世界各国60か所でライブが行われた。

ホリーズは今も解散はしておらず、2023年まではライブが行われたが、2024年以降は活動は停止しているようだ。
なおオリジナルメンバーのエリック・ヘイドックは2019年1月、ドン・ラスボーンは2024年9月に亡くなっている。

以上がホリーズの長く波乱に満ちた歴史絵巻。
知ってた話は全然ない。
そもそもCS&Nのグラハム・ナッシュってそういえばホリーズ出身だったんスね・・というレベル。

60年代ホリーズの不幸だった点はビートルズとともにあったことだと思う。
本人達や周囲はもちろん大マジメにリバプール連中に対抗したれと思っていろいろ画策してたはずだが、結果を知ってる我々未来のリスナーからすれば「そりゃあ相手がビートルズじゃなぁ・・」と当然思うところである。
そんなグループは当時のイギリスに山ほどいただろうし、その中でもホリーズはビートルズという異次元バンドと共に時代を生きながらかなりの成果を残しているすごいバンドなのだ。

日本においての彼らの人気や認知度は全然わからないが、冒頭に述べたとおり80年代にはホリーズの曲をFMで聴いたり雑誌で情報を仕入れるなどの機会はほとんどなかった。
おそらくデビュー当時から最新作までくまなく聴いてますけどねという人はかなり少ないのではないかと思われる。

というわけで、ホリーズ。
自分のような素人はまずたくさん出てるベスト盤から学習したほうがよいように思いますが、オリジナル盤として押さえておくべきアルバムがあれば、教えていただけたらと思います。

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ホリーズ Hollies' Greatest
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ホリーズ What Goes Around...
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平浩二 バスストップ

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