聴いてない 第331回 クランベリーズ
先日FMから流れてきた「Ode to My Family」で思い出したクランベリーズ。
実はこの曲しか聴いておらず、しかもタイトルやバンド名も正確に把握できていなかった。
クランベリーズと聞いて「ああエリック・カルメンがいたバンドだろ?」と知ったかぶりしそうになったが、それはラズベリーズ。
自分の認知レベルはこんな有様である。
「Ode to My Family」は確かNOW系オムニバスCDをレンタルしたら収録されていたと思う。
聴いてない度は見事に2。
「Ode to My Family」が代表曲なんやろと勝手に思っていたが、改めて調査してみたら、実は他にも売れた曲がいっぱいあったのだった。
バンドの源流は80年代半ばに発生。
兄マイクと弟ノエルのホーガン兄弟は、80年代半ばにアイルランドの都市リムリックでファーガル・ローラーと出会う。
3人の若者は、当時のイギリスのインディーズやパンク音楽に刺激を受け、バンドを組む。
ファーガルがドラム、マイクがベース、ノエルはギターを担当したが、ボーカルがいなかった。
この時近所に住んでいたナイアル・クインはすでに別のバンドに在籍していたが、何度か共演するうちに意気投合。
ナイアルは3人と合流することを決意し、クランベリー・ソウ・アスを結成した。
クランベリー・ソウ・アスは90年にデモEP 「Anything」を制作したが、直後にナイアルはバンドを脱退し、以前のグループに戻った。
残った3人は解散せずボーカルを探すことにした。
この時ナイアルが声をかけたのが、ドロレス・オリオーダンだった。
ホーガン兄弟は小柄なドロレスの声量に圧倒され、バンド加入を承諾。
バンドは4曲入りのデモEP「Water Circle 」を録音し、地元リムリックのレーベルからカセットテープでリリースした。
このようにスタートは地味だったが、地元では人気だったそうだ。
だがノエル・ホーガンは地元のクラブやパブでの演奏だけでは物足りないと感じていた。
ノエルがロンドンのレコード会社に直接デモテープを送ると、各社から注目を集め、大手レコードレーベルの間でバンドとの契約取り合いとなった。
この頃バンドは名前をクランベリーズに変更。
クランベリーズは争奪戦に勝利したアイランド・レコードと契約を結んだ。
デビュー前から順調に思えたクランベリーズ。
だが話はそう簡単でもなかったようだ。
地元リムリックでバンドの面倒を見ていた、ゼリック・スタジオのオーナーであるピアース・ギルモアは、初のEP「Uncertain」のプロデューサーを引き受ける。
ピアースは良かれと思って音源に様々な変更を加えたが、リリースされたEPはマスコミから酷評を受け、バンドとピアースの間に緊張が生まれてしまう。
さらにピアースがバンドへの連絡を制限し始めたり、アイランドの米国支社と別契約を結ぶなど、バンドから見ると不審な動きを見せるようになる。
バンドはイギリスとアイルランドをツアーするが、資金が不足しており(本当?)、1日の最大収入は25ドルしかなかった。(本当?)
またこれはピアースのせいではないが、クランベリーズは年末に予定されていたニルヴァーナのツアーでサポートアクトを務めるはずだったが、カート・コバーンの体調不良によりツアーは土壇場でキャンセルされてしまった。
トラブルが重なりレコーディング・セッションが難航した後、バンドは作品を白紙に戻してピアースを解雇した。
ノエル・ホーガンは「お互いに問題があったのではなく、ピアースに問題があった」と述べている。
まあそれぞれに言い分はあろうが、突然ビッグになれるよ的な話が持ち上がれば、バンド内外のあちこちに歪みが生じるのは仕方がないことなんだろうね。
それでもクランベリーズは停滞せず他のバンドのサポートでアイルランドとイギリスをツアーし、マネージャーとプロデューサーも刷新。
92年3月にダブリンのスタジオに戻り、ファーストアルバム「Everybody Else Is Doing It, So Why Can't We?(邦題:ドリームス)」の制作を再開した。
その年の10月、シングル「Dreams」がイギリスで発売され、93年2月に「Linger」をリリース。
翌月にはアルバムも発表された。
アルバムもシングルも、当初はそれほど大きな注目を集めなかった。
それでもバンドは地道にフランスやアメリカでもツアーを行い、「Linger」は全米の大学ラジオ局で頻繁に放送された。
これを機に「Linger」はバンドの最初のヒット曲としてアイルランドのチャートを上昇し、最高3位を記録。
全米ビルボードホット100でも8位に達し、24週間もチャートに留まった。
あまりないケースだと思うが、「Linger」は1年後の94年2月に、「Dreams」は94年5月に再リリースされている。
2曲とも英米やアイルランドのチャートで好成績を収め、アルバムも全英とアイルランドのチャートで1位を獲得した。
2枚目のアルバム「No Need to Argue」は94年10月にアイランド・レコードよりリリースされた。
全曲の作詞をドロレスが担当し、前作よりも暗くハードな音楽となったが、全英2位・全米6位の大ヒットを記録。
シングル「Zombie」は全英では14位だったが全米オルタナティブ・エアプレイ・リストで1位を獲得し、彼らの代表曲となった。
自分が聴いた「Ode to My Family」も収録されているが、各国チャートでの成績は「Zombie」のほうが圧倒的に良い。
「Ode to My Family」が1位となったのはアイスランドだけだが、「Zombie」はアイスランドの他にフランスやドイツ、オーストラリアやベルギーでも1位を記録している。
アルバムからは他に「I Can't Be with You」「Ridiculous Thoughts」「Dreaming My Dreams」のシングルがリリースされた。
翌95年までクランベリーズはアメリカ市場を席巻し、当時「U2以来アイルランド最大の音楽輸出品」とまで言われた。
この年のワールド・ミュージック・アワードで「Ode to My Family」を演奏し、最優秀アイルランド・レコーディング・アーティスト賞を受賞。
11月にはMTVヨーロッパ・ミュージック・アワードで、「Zombie」がマイケル・ジャクソンの「You Are Not Alone」を抑えて最優秀楽曲賞を受賞した。
96年4月に3枚目のアルバム「To the Faithful Departed(追憶と旅立ち)」を発表。
政治批判的な曲「Bosnia」「War Child」が収録され、前作「No Need to Argue」よりメッセージ色の強い作品になった。
「I Just Shot John Lennon」には実際の銃声が録音されていたため、マスコミからは酷評されたそうだ。
6週間で400万枚を売り上げ、アメリカではダブル・プラチナ、イギリスではゴールドを獲得したが、前作の売り上げには及ばなかった。
プロモーションツアーはアジアから始まり、5月には来日して東京・福岡・大阪で公演。
オセアニアの後に北米ツアーが予定されていたが、ドロレスがオーストラリア公演で膝を負傷し、残りの日程をキャンセルした。
この頃からドロレスは膝以外にも心身ともにかなりダメージを負っていたようだ。
ツアーは北米で再開されたが、やはりドロレスの体調不良を理由に北米・ヨーロッパツアーは中止された。
長いツアーとマスコミのしつこい取材攻勢でドロレスは疲れ果て、不眠症や妄想、拒食症に悩まされ、体重は41kgまで落ちたそうだ。
またメンバーも休みがないと不満を述べ、キャンセル費用を巡ってレコード会社や事務所とモメるようになる。
クランベリーズは解散寸前の危機に陥り、1年間の休業を余儀なくされた。
だがクランベリーズは解散せず、休業中も業界やファンの評価は高かった。
97年から98年にかけて、ジュノー賞やアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞。
98年のノーベル平和賞コンサートで「Dreams」「 Promises」「Linger」を演奏した。
当時クランベリーズはヴァン・モリソンやU2と並んで「史上最も優れたアイルランドのアーチスト」の一つに選ばれた。
活動を再開したクランベリーズは、99年にアルバム「Bury the Hatchet」を発表。
病気克服と出産を経験したドロレスは、作詞にも変化が表れ、テーマは妊娠や離婚や児童虐待など多岐にわたる内容となった。
ジャケットもそれまでのメンバー集合写真から、荒野の中で巨大な目に見つめられる裸の男といったプログレっぽいアートになっている。
売上枚数は休業前作品より減少したものの、全英7位・全米13位と健闘し、ドイツやカナダでは1位を獲得。
クランベリーズは110日間の世界ツアーを行い、100万人以上のファンを動員した。
これはクランベリーズのキャリアにおいて最大かつ最も成功したツアーとなった。
2001年10月、アルバム「Wake Up and Smell the Coffee」がMCAより発売された。
前作まではアイランド・レコードだったが、会社合併に伴いクランベリーズはMCAに移籍した。
本国アイルランドでは9位、スペインやフランスやイタリアで2位だったが、全米46位・全英61位と微妙な結果に終わる。
シングル「Analyse」「Time Is Ticking Out」「This Is the Day」リリース後、 9月にベストアルバム「Stars: The Best of 1992-2002」を発表。
イギリスではこのベスト盤のほうが好評で20位を記録した。
「Wake Up and Smell the Coffee」の微妙な成績はバンドとMCAの間に溝を作ることになり、結局バンドはMCAと決裂。
ノエル・ホーガンは「MCAレーベルの努力がほとんどなかったにもかかわらず、多くの国でトップ10入りを果たすことができて嬉しく思っているよ」と皮肉なコメントを残した。
この移籍からバンドの進行が少しずつ変化していく。
2003年9月、アルバムのリリースに向けたセッションを中止しバンドは再び活動停止となる。
当然マスコミは内紛や衝突を疑ったが、ドロレスは「個々のキャリアを追求し、家族との時間に集中するために2年間の休暇を取るだけ。私たちは13年間一緒にやってきたので、これは本当に必要な休みで、挑戦や実験に使う時間です」と強調した。
ドロレスとファーガルはそれぞれソロアルバムを発表し、ホーガン兄弟はモノ・バンドというユニット名でアルバムを制作した。
メンバーはそれぞれ別の活動に移ったが、仲違いしたわけではなく、定期的に連絡を取り合っていたそうだ。
2009年1月、ドロレスがダブリン大学哲学協会の名誉総裁になったことを記念して、クランベリーズは再結成する。
翌年からアルバムレコーディングを開始し、6枚目の新盤「Roses」は2012年2月に発売された。
全英で37位、全米ビルボード200チャートで51位を記録し、インディペンデント・チャートで4位、オルタナティブ・チャートで9位など、他のビルボードチャートでも多くの成績を残した。
この後バンドは方向性を大きく変更。
2017年4月に初のアコースティックアルバム「Something Else」をリリース。
アイルランドのオーケストラとアコースティックで再録音された「Linger」「Zombie」「Ode to My Family」などの過去のヒット曲に加え、新曲「The Glory」「Why」「Rupture」が収録されている。
アルバム発売後はヨーロッパと北米でのツアー(ただし会場は小規模でオーケストラの生演奏付き)を開始。
しかしこの時ドロレスは背中に強い痛みを抱えており、ステージではほとんど椅子に座って歌っていた。
なんとか11公演をこなしたものの回復はかなわず、残りのヨーロッパ公演と北米公演全日程をキャンセルしてしまう。
その後ドロレスは年末にニューヨークで行われたビルボードのクリスマスパーティーで3曲歌ったが、これが彼女の最後のステージとなった。
1ヶ月後の2018年1月に、ドロレスはロンドンのホテルで部屋の浴槽で溺れて亡くなった。
死因は溺死だが、背中の痛みに加え、アルコール中毒もあったようだ。
ノエル・ホーガンは「クランベリーズは継続しないが、ドロレスが残したボーカルのデモ音源を使って最後のアルバムをリリースする」と発表した。
宣言どおり2019年4月にラストアルバム「In the End」をリリースし、アイルランドで3位となったほか、ドイツで8位、フランスで11位、イタリアで4位を記録。
同年グラミー賞でも最優秀ロック・アルバムにノミネートされた。
ドロレスの死後、バンドはコンピレーションアルバム「Remembering Dolores」を出したり、昔の曲を編集したEP「Wrapped Around Your Finger」を発売したが、新曲発表やライブ活動などはしていないようだ。
以上がクランベリーズの輝かしくも過酷な歴史である。
いつものことだが、知ってた話は全くなかった。
そもそもボーカル女性がすでに亡くなっていたことも知らなかったし、アメリカ市場を席巻とかU2以来アイルランド最大の音楽輸出品など、そんなにすごい評価と実績を持つバンドだったことも初めて知った。
それにしてもドロレス・オリオーダン。
アルコール中毒を患いホテルの浴槽で溺死とは・・まるで70年代ロックスターのような悲劇的最期である。
結成以来作詞のほとんどとボーカルを担当していたドロレスが亡くなったら、バンド継続はやはり難しいだろう。
クランベリーズの音楽は、シンニード・オコナーやスージー・アンド・ザ・バンシーズに似ていると言われているそうだ。
・・・そう言われてもどっちも聴いてないんでああなるほどとは言えないんですけど・・
なおドロレスやノエルは「ザ・スミスに一番影響を受けた」と発言している。
「Ode to My Family」しか聴いていないが、ドロレスのヨーデルを採り入れた独特な歌唱スタイルがバンド最大の特徴であることは間違いない(と思う)。
彼女の歌声は好みなわけではないが、一度聴いたら忘れないようなインパクトがある。
今回クランベリーズの他の曲もいくつかYou Tubeで聴いてみたが、やはり知ってた曲はない。
どの曲も映像が暗くモノトーンなイメージで、こういうところは昔のU2にも少し似ているかも・・と思ったりした。
というわけで、クランベリーズ。
聴くとしたら「Ode to My Family」収録を頼りに「No Need to Argue」からになりそうです。
デビューアルバム「Everybody Else Is Doing It, So Why Can't We?」が最高傑作との評価もあるようなので、素直に発表順に聴いていけばよいはずですが、他におすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。
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クランベリーズ Everybody Else Is Doing It, So Why Can't We? |
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クランベリーズ No Need to Argue |
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