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聴いてない 第329回 ジョーン・バエズ

先日公開されたボブ・ディランの伝記映画「名もなき者」。
ディランを演じているのはティモシー・シャラメ、モニカ・バロバルが演じているのがジョーン・バエズである。
・・・などとインチキ映画評論家っぽく書いてみましたが、全部引き写し。
そもそもディラン聴いてないのでこの映画も観る資格もありませんけど、流れてきたニュースでジョーン・バエズとディランの関係をぼんやり知った次第。
もちろんジョーン・バエズも全然聴いておりません。

ジョーン・バエズ、1曲も聴いてないので聴いてない度は盤石の1。
じゃあ何で自分みたいな万年ド素人が名前を知ってるのかというと、一度だけ彼女の歌う姿をテレビで観たことがあるからだ。
そう、ライブ・エイドである。

ライブ・エイドはアフリカ難民救済を目的として1985年7月13日に行われたチャリティーコンサート。
主にイギリスとアメリカの会場でライブが行われ、日本でもフジテレビが特番として生放送。
まあ散々語り尽くされた話だが、両会場とも進行の不手際やアクシデントが続出し、日本のテレビ放送でも歌ってる途中で中継が途絶えたりCMに切り変わったりの連続で、称賛も批判も多かったイベントである。

ジョーン・バエズはアメリカ会場のトップバッター(表現が昭和)として登場。
この模様は日本でも放送され、自分も彼女が「Amazing Grace / We Are The World」を歌うシーンを観ていた。
ジョーン・バエズの名前もこの時知った次第。

ただ、この時なぜかジョーンは「Amazing Grace」の歌詞を一部変えて歌っている。
さらに持ち歌ではない「We Are The World」(しかもジョーンはスタジオ録音には参加していない)をアカペラで歌ったことに対する批判もあったらしい。
「トップだったのに観客があまりノッてこなかった」という評価が多いが、映像を見るとまあそうかもしれない・・と感じた。
ジョーン・バエズはエンディングの「We Are The World」大合唱にも登場しているが、シーナ・イーストンにマイクを向けてもらえず、なんとなく困った感じでシーナから離れていった様子が映像で残っている。

で、今回ジョーン・バエズを調べようと思ってウィキペディアを見たら、日本語版は非常に淡泊で短く、文章量は英語版の1/10くらいしかない。
さらに日本語版にはライブ・エイド出演の記述は全くなく、英語版でも1行程度。
どうやら彼女のキャリア中ではライブ・エイド出演はそんなに重要な出来事でもなかったようだ。
すいません、ライブ・エイド出演しか知らなくて・・・

あらためてジョーン・バエズの活躍をムリして調査。
ジョーン・バエズは1941年1月9日、ニューヨークで生まれた。
本名は母親と同じジョーン・チャンドス・バエズ。
父親のアルバートはメキシコで生まれ、ニューヨーク州ブルックリンで育ったため、スペイン語にも堪能だった。
三姉妹の次女として育ったが、父親がユネスコで働いていたため、家族は全米各地や、イギリス、フランス、スイス、スペイン、カナダ、イラクなど各国で生活した。

幼少の頃からメキシコ系であることで人種差別や中傷にさらされ、歌手になる前から公民権運動や非暴力運動など、さまざまな社会運動に関わるようになる。
カリフォルニアに住んでいた13歳の頃、叔母が彼女をフォークミュージシャンの ピート・シーガーのコンサートに連れて行った。
ピートの音楽に強い衝撃を受けたジョーンはすぐにピートの曲を練習し、教会などで演奏し始める。

高校卒業後、家族はボストンに移住する。
ここでもジョーンは大学やクラブで演奏し、友人とフォーク音楽アルバムを制作する。
その後フォーク歌手ボブ・ギブソンやゴスペル歌手オデッタと出会い、ボブの誘いで59年に行われたニューポート・フォーク・フェスティバルに出演。
当時はベトナム戦争が始まっており、フェスは反戦集会も兼ねたイベントだったが、ジョーンは会場に真っ赤な霊柩車で乗り付けるという大胆な反戦アピールをやってのける。
・・・すごいエピソードだけど、霊柩車は誰が塗ったの?
この時の歌と行動が認められたジョーンは、自らギターを弾き、「ドナドナ」「朝日のあたる家」などの伝統的なフォーク・バラード、ブルースを歌ったソロデビューアルバムを発表する。
無名歌手のデビューアルバムとしては異例のヒットとなり、全米15位・全英9位を記録した。

続く2枚目のアルバム「Joan Baez, Vol. 2」もゴールドディスクを獲得。
62年にはライブ盤「Joan Baez in Concert, Part 1」、翌年の「Joan Baez in Concert, Part 2」もゴールドディスクを獲得した。
この「Part 2」では、ディランの「Don't Think Twice It's Alright(くよくよするなよ)」をカバーしている。

61年にニューヨークのレストランで歌っていたディランを見たジョーン・バエズは、彼の才能に衝撃を受け、やがて二人は恋仲となる。
先に歌手として売れたのはジョーンだった。
アルバム2枚が大ヒットしたジョーンは「フォークの女王」と呼ばれる存在となったが、その時彼女の周辺にいた友人やプロデューサーに、まだ無名だったディランの才能を紹介するようになる。
この推し活により、ディランはハリー・ベラフォンテやニューヨークのフォークシンガーのレコーディングに参加できるようになり、62年にアルバム「Bob Dylan」でデビューを果たす。
なのでジョーン・バエズと出会わなかったら、ボブ・ディランのデビューはもっと後だった可能性がある・・・というまとめでいいんでしょうか?

ディランの先を行くジョーン・バエズは、ディランがデビューした半年後の11月にタイム誌の表紙を飾っている。
当時のミュージシャンにとっては珍しい栄誉だったそうだ。
ジョーンは63年に行われたニューポート・フォーク・フェスティバルでディランをステージに招き、ディランの「With God on Our Side(神が味方)」を一緒に演奏した。
二人はその後数年にわたって多くのステージでデュエットしたが、ディランのファンからは不評だったらしい。

ジョーン・バエズは64年に「There but for Fortune」という曲をカバーし、全米チャートでは50位・カナダで27位だったが、全英では8位のヒットとなり、シングルで初のトップ10入りを果たした。
オリジナルは60年代を代表するアメリカのプロテスト・フォーク・シンガーのフィル・オクス。
フィルとジョーンは75年にセントラルパークでのライブでこの曲を歌った。
だが翌年フィルは残念ながら精神を病み、36歳の若さで自殺している。

歌手活動としては順調だったジョーン・バエズとディランだったが、65年のディランのイギリスツアーの頃には、彼らの関係は徐々に冷え始めていたそうだ。
それでもアーティストとしての才能はお互い認め合っていて、68年に発表した2枚組アルバム「Any Day Now(ボブ・ディランを歌う)」は全曲ディランのカバーで構成されており、シングルカットされた「Love Is Just a Four-Letter Word」はその後も彼女のコンサートの定番曲のひとつとなっている。

この頃ジョーンに運命的な出来事と出会いが起こる。
67年10月、カリフォルニア州オークランドの軍隊入隊施設前で、ジョーン・バエズは母親や約70人の女性たちと共に、入隊予定の若者の入場を阻止するため出入口を塞ぐ抗議行動に出る。
ジョーンは母親らと共に逮捕され、サンタ・リタ刑務所に収監されてしまう。

この刑務所で出会ったのが、ベトナム戦争反対運動で有名なデビッド・ハリスだった。(出会ったのは刑務所を出た後と書いてあるサイトもある)
釈放後二人は親密になり、68年3月にニューヨークで結婚した。
だがその後デビッドは軍隊への入隊を拒否したため起訴され、69年7月にまたも刑務所に連行されてしまう。

夫デビッドの服役中もジョーンは音楽と反戦活動を止めなかった。
69年8月にはウッドストック・フェスティバルに出演し、夜明け前のステージで「Oh Happy Day」「Joe Hill」やボブ・ディランの「I Shall Be Released」を獄中のデビッドに捧げて歌い、最後は「We Shall Overcome」を披露した。
またカントリーミュージックの好きなデビッドのために「David's Album」を制作。
夫のために作ったカントリー色の強いアルバムで、彼女の音楽性はさらに広がった。
デビッドは1年半ほどで出所したが、二人はその後別居し、3年後には離婚している。

71年に2枚組アルバム「Blessed Are...」をリリース。
シングルカットされたザ・バンドのカバー「The Night They Drove Old Dixie Down」がトップ10ヒットとなり、またストーンズの「Salt of the Earth(地の塩)」やビートルズの「Let It Be」もカバーしている。
このアルバムを最後に、デビュー以来作品を発表してきたヴァンガードを離れ、A&Mレコードに移籍する。
このA&M時代がキャリア中最も商業的に成功していた時期だそうだ。
その割に日本語ウィキペディアには70年代から2000年代の活動が全く書いてない・・・どういうこと?

移籍後の最初のアルバム「Come from the Shadows」ではジョン・レノンの「Imagine」をカバー。
A&Mでは76年まで毎年コンスタントにアルバムを発表した。
その中にはB面が23分のタイトル曲だけ(しかも半分は朗読詩、半分はテープ録音された音)で構成された73年の「Where Are You Now, My Son?」のような変則的なアルバムもあった。

75年の「Diamonds & Rust」は、ボブ・ディラン、スティービー・ワンダー、オールマン・ブラザーズ、ジャクソン・ブラウンの曲をカバーし、ラリー・カールトン、ジョニ・ミッチェル、デビッド・ペイチも参加。
ジョーンの作品で最も売れたアルバムとなり、シングルの「Diamonds & Rust」が2枚目のトップ10シングルとなった。
この曲は後にジューダス・プリーストブラックモアズ・ナイトもカバーしている。

76年に2枚組ライブ盤「From Every Stage」を発表した後、今度はエピックの姉妹レーベルとして発足した新興のポートレイト・レコードに移籍。
翌77年、ロッド・スチュワートも歌った「Sailing」や、トラフィックの「Many a Mile to Freedom」をカバー収録した「Blowin' Away」をリリース。

多作だったジョーン・バエズだが、80年代に入るとアルバム制作の間隔が大幅に開いてくる。
グラミー賞授賞式やライブ・エイド出演、アムネスティ・インターナショナルによる慈善ツアーへの参加など、イベント出演で注目を集めることが多くなった。

87年に8年ぶりのスタジオ盤「Recently」を発表。
このアルバムでもダイアー・ストレイツの「Brothers in Arms」やU2の「MLK」、ピーター・ガブリエルの「Biko」をカバー。
へぇー・・知らなかった。
いえ、この話だけじゃなく全てのエピソードが初めて知る話ばかりですけど。
ここまで調べてなんとなくわかってきたが、この人も自作自演にはあまりこだわりがなく、他人のいい曲ならカバーするというスタンスのようだ。
「Brothers in Arms」はフォークランド紛争中にマーク・ノップラーが書いた反戦歌で、ジョーン・バエズも特に感銘を受けたようで、91年にもこのタイトルでカバー中心のアルバムを作っている。

89年には「Speaking of Dreams」をリリース。
90年代はレーベルチェンジを繰り返しながらアルバムを発表。
92年に「Play Me Backwards」、95年にライブ盤「Ring Them Bells」、97年「Gone from Danger」の各作品を残す。

2000年代のアルバムは2003年「Dark Chords on a Big Guitar」、2008年の「Day After Tomorrow」の2枚。
この頃にはもうチャートの実績にはこだわらなくなり、後輩芸人とのコラボやイベント出演で注目を集めていたようだ。
2006年6月にはブルース・スプリングスティーンのサンフランシスコでのライブに登場し、ボスと共に「Pay Me My Money Down」を披露した。
また同じ頃にジョン・メレンキャンプのアルバム「Freedom's Road」に、デュエット曲「Jim Crow」で参加している。

2008年のアメリカ大統領選挙で、ジョーンはバラク・オバマの支持を表明。
しかしオバマが当選し大統領になった後に、オバマの行動のどこかに失望したようで、「がっかりしている。大統領執務室に入ったら何もできなかった。もうおそらく二度と支持しない」と発言している。
・・・オバマの何にがっかりしたのだろうか?

2011年10月にはアップルコンピュータ設立者であるスティーブ・ジョブズの追悼式で「Swing Low, Sweet Chariot」を歌った。
追悼式にはU2やノラ・ジョーンズなども出演してたそうだが、驚いたことにジョーン・バエズは80年代初頭に若きスティーブ・ジョブズと交際していたとのこと。
・・・そうだったの?ファンの間ではもしかして常識?
二人には年齢差もあって(ジョーンのほうが14歳上)、スティーブ氏がプロポーズを断念したらしいが・・
ちなみにスティーブ氏はボブ・ディランの大ファンでもあったそうです。

2010年以降もジョーン・バエズは歌にも社会活動にも意欲的に取り組んできた。
2017年4月4日、トランプ大統領に対する抗議歌として27年ぶりの新曲「Nasty Man」を発表した。
その3日後にはロックの殿堂入りを果たす。

だが2018年3月に、重大な決意とともにアルバム「Whistle Down the Wind 」をリリースする。
タイトル曲はトム・ウェイツのカバーである。
このアルバムツアーで世界各国を回り、2019年2月のツアー終了をもって歌手活動から引退すると発表した。
引退の理由はやはり加齢により高い声が出なくなったことだそうだ。
アルバムは全米フォークアルバムチャートで5位、ドイツやスイスなど多くの国でチャートインした。

2019年4月、ジョーン・バエズはウッドストック開催50周年記念イベントへの出演を断ったと雑誌のインタビューで語っている。
「関わるには複雑すぎる」ことが理由だったそうだが、やはり声が出ない状態でステージに立つのはイヤだったんじゃないかと思う。
なおフェスティバルは8月に開催される予定だったが、様々な問題が噴出したようで、直前に中止となっている。

今回も知ってた話は全然ない。
主に60年代後半から70年代に輝かしい実績を残したが、80年代米国芸能界のチャラい展開には乗らず(乗れず?)、社会活動とともに音楽もブレずに活動してきたため、80年代以降は現役でありながら早くも「伝説」の歌手みたいな扱いになっていったのではないだろうか。
たぶんプロモ・ビデオでミラーボールを回して踊ったり寸劇を演じて笑いを取ったりはしていないはずである。

というわけで、ジョーン・バエズ。
聴くとしたらまずは最大のヒット作「Diamonds & Rust」かなと思いますが、「Brothers in Arms」にも少し興味はあります。
多作なので評価も選択もいろいろかもしれませんが、おすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

Diamonds-and-rust
ジョーン・バエズ Diamonds & Rust
Brothers-in-arms
ジョーン・バエズ Brothers in Arms
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聴いてない 第328回 ヴァレンシア

自分が洋楽の沼に浸かっていたのはほぼ80年代限定なので、90年代以降に活躍したアーティストの鑑賞は基本的に壊滅状態である。
その暗黒の90年代に登場し、なぜか1曲だけ聴いているのが、オランダの貴公子ヴァレンシア。
93年のデビューシングル「Gaia」だけ、MTVの音声をテープに録音している。
映像は全く覚えておらず、オランダの若い人という情報以外仕入れることもなかった。
聴いてない度は2。

今回ヴァレンシアを調べて初めて知ったが、この人はクイーンに強く影響を受けたことを公言していて、2003年にはカバー集アルバム「Queen Tribute」までリリースしているそうだ。
これで俄然興味がわいたので、採り上げることにしました。(安直)

ヴァレンシアは1971年4月13日にオランダのハーグで生まれた。
父親はインドネシア人、母親はオランダ人。
父母は逆だが、ルーツの組み合わせはヴァン・ヘイレン兄弟と同じである。
本名はアルダス・バイロン・ヴァレンシア・クラークソンという長い名前。
幼少の頃暮らしていたスペインでピアノやギターを始めた。

その後オランダに戻りバンド活動を始め、16歳でレコード会社にデモテープを送るようになる。
すでにこの頃にはクイーンをよく聴いていたようだ。
デモに注目したプロデューサーから連絡を受けたヴァレンシアは、91年マーキュリー・レコードと契約。
93年に最初のアルバム「Valensia(邦題:ガイア)」をリリースし、オランダのチャートで2位に達した。

デビューシングル「Gaia」は6分近くもある長尺曲で、ラジオ向きでないためレコード会社内ではシングル発表に否定的な意見もあったらしい。
新人歌手の長すぎるデビュー曲という大胆な決断ではあったが、結果は大ヒットで成功を収めた。

デビューアルバムは翌年日本でもリリースされ、10万枚のセールスを記録。
日本でのヒットに気を良くしたヴァレンシアは、クリスマスソング「21st Century New Christmas Time」やデュラン・デュランの「A View to a Kill」のカバーを含む5曲を収録したミニアルバム「The White Album」を日本限定で発売する。

96年には2枚目のアルバム「Valensia II - K.O.S.M.O.S.(邦題:遥かGAIA(地球)を離れて)」を発表。
シングル3曲を収録し、その中の「Thunderbolt」は日本でのみ発売である。
この年には初の来日公演も行われ、日本滞在中はテレビやラジオ番組に出演したり、CDショップでサイン会も行われたそうだ。
ヴァレンシア本人やレコード会社が、日本市場をわりとマジメに重視していたことがよくわかる。
97年には早くもベスト盤「The Very Best Of Valensia」も発売している。

98年にアルバム「V III - Valensia '98」を日本限定でリリース。
方向性に若干の変更が見られ、ややロック寄りにシフトしたサウンドになったが、ヴァレンシア本人はあまり気に入っておらず、後に「レコード会社からの指示で仕方なく作った」などと発言している。

99年にはオランダのミュージシャンであるロビー・ヴァレンタインとのプロジェクト「V」名義でアルバム「V」をリリースした。
2002年6月にもV名義で「Valentine vs Valensia」を発表。
ファンの間では2枚目のほうがゴージャスで高評価なようだ。
てっきりこのままユニットで活動すんのかと思いきや、翌月にはヴァレンシアとして「The Blue Album」をリリースしている。
案外多作なヴァレンシア。

そして2003年にクイーンの曲を自ら演奏し歌ったアルバム「Queen Tribute」を発表。
12曲全てクイーン作品ではなく、クイーンの前身バンドのスマイル時代の「Polar Bear」や、モット・ザ・フープル「All the Young Dudes(全ての若き野郎ども)」が収録されている。
また「Man From Manhattan」という曲もカバーしており、元曲はエディ・ハウエルという人が76年にリリースしたシングル。
なんでこんなのカバーしたのかと思ったら、オリジナルはフレディがプロデュースしてピアノを弾き、ブライアンがギターで参加した曲とのこと。
しかも演奏をサポートしたミュージシャンの労働許可違反が発覚し、リリースはしたもののすぐに廃盤となっている。
こんな曲クイーンのファンでも知らない人多いんじゃないの?
クイーンをカバーした人は世界中にいると思うが、ヴァレンシアも相当コアなクイーンマニアのようだ。

また同年メタル・マジェスティという名で弟のデビッドとユニットを組み、アルバムを発表。
デビッドはドラムを担当し、ギター、ベース、キーボードはヴァレンシアが演奏している。
なお日本盤はバンド名そのままのタイトルだが、ヨーロッパ盤は「This Is Not A Drill」という名前で2004年に発売され、収録曲も異なるそうだ。
メタル・マジェスティとしては2005年にもアルバム「2005」をリリースしているが、日本では未発表。
この頃は日本市場をどう見ていたのか、あまりよくわからない。

2010年にはシングル「One Day My Princess Will Come」を発表したが、直後にまたも販売中止となった。
中止の理由は不明で、どのサイトも「種々の事情」と書いている。
なのですでに流通に乗った盤だけがわずかに店頭販売されたというレアな曲になったそうだ。
なんかヴァレンシアさんはどうもこういう展開が多い気がする。
本人が悪いわけではなさそうですけど。

2014年9月、「Valensia VI - Gaia III - Aglaea - Legacy」というアルバムをリリース。
ヴァレンシアは活動休止を宣言し、レコード会社も「最後のアルバム」として発表している。
これでミュージシャンとしては引退・・となるはずだったが、思ったより早くヴァレンシアは復活する。

2017年に未発表曲をクラウドファンディングの特典として配布するなど、わりと珍しい形で活動を再開。
2019年に7枚目となるアルバム「7EVE7(セブン)」も発表。
2022年には3Dシューティングゲーム「Air Twister」の音楽を担当し、2枚組サントラアルバムも制作している。
最近はK-POPの楽曲を手がけているという情報もあるそうだ。

今回も知ってた話は全くない。
歌手というより作曲や演奏もこなすマルチプレーヤーと、どのサイトでも紹介されている。
若い頃から人見知りで内向的でインドアなタイプだったようで、大人数での会食などが苦手なため、来日中も毎晩ホテルの部屋で一人飯を食っていたとのこと。
なんか共感するなぁ。
楽屋で殴り合ったりステージで火を吹いたり生きたコウモリを食いちぎったりホテルの窓から女を投げ捨てたり・・・といった往年の野蛮なロックスターの行動様式とは無縁の人のようだ。

「Gaia」だけしか知らないが、言われてみればあのサウンドやワルツなリズムや構成は確かにクイーンっぽい気はする。
ビートルズが発したサイケやプログレな部分もなぞっている感じはするし、ティアーズ・フォー・フィアーズにも似ていると思う。
壮大でやや大げさな楽曲だが、中性的なボーカルが乗ると悪くはない。
他の曲もおおむねこの路線であれば、それほど拒絶感なく聴けそうな気はする。(本当か?)

というわけで、ヴァレンシア。
聴くなら当然「Gaia」収録のファーストアルバムからでしょうけど、「Queen Tribute」でどんなカバーに仕上げているのかも興味はあります。
ユニット名義も含め、他におすすめのアルバムや曲があれば教えていただけたらと思います。

Gaia
ヴァレンシア Valensia
Air-twister
Air Twister オリジナル・サウンドトラック
Orange

ネーブル バレンシア 果物 フルーツ

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