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聴いてない 第327回 ブルー・マーダー

先日亡くなったジョン・サイクス。
彼を語る記事で在籍したバンドとして必ず書いてあるのがシン・リジィホワイトスネイクだが、バンドリーダーとして活動していたのはブルー・マーダーである。
・・・などと知ったかぶりで書いてみたが、実は全く聴いていない。

というか、そもそもジョン・サイクスの動向やギターサウンドを意識して確認したことがない。
まあそんなのはジョー・サトリアーニもスティーヴ・ヴァイもトミー・ボーリンも同じなんだけど。
名前と華麗なる経歴はかすかに知ってはいるが、他の情報はないまま訃報に接してしまった状態。
すでにシン・リジィとホワイトスネイクはどっちも20年くらい前に書いてしまったが、いずれもジョン・サイクスにはほとんどふれていなかった。(知らないから)
亡くなってからあわてて調べて書いてみるという鉄板の失礼BLOGではあるが、今回はジョン・サイクスを中心としたバンドであるブルー・マーダーに限定して発信します。(エラくない)

ブルー・マーダーは、ジョン・サイクスが中心となって結成されたイギリスのハードロックバンドである。
結成にはホワイトスネイクのデビッド・カバーディルが大きく関係している。
1986年にジョン・サイクスはカバによりホワイトスネイクを解雇される。
ジョン・サイクスはホワイトスネイクの大ヒットアルバム「Whitesnake(白蛇の紋章:サーペンス・アルバス)」の大半をカバと作り全曲演奏しており、ほぼ二人で作った傑作と言える。
でもアルバム発表時にはもうジョン・サイクスはクビになっており、ジョンのどこが気に入らなかったのかはカバに聞いてみるしかないが、カバの傲慢さがにじみ出た歴史的名盤でもある。

傲慢カバと決別し、雇われギタリストの立場にも飽きたたジョン・サイクスは、自らバンド運営に乗り出すことを決意。
ホワイトスネイク時代のバンドメイトであるコージー・パウエル、元ザ・ファームのベーシストのトニー・フランクリン、元ブラック・サバスのボーカリストのレイ・ギレンといった実力者が集まった。
ちなみにレイさんを「レイ・ギラン」と書いてるサイトも多いが、あのイアン・ギラン(Ian Gillan)とは親戚でもなんでもないので、レイ・ギレン(Ray Gillen)としたほうが良さそうだ。

新生ジョン・サイクス・バンドはデモをいくつか録音し、ゲフィン・レコードに送ったが、ゲフィンのジョン・カロドナーはジョンに「レイ・ギレンよりお前が歌ったほうがええんちゃうか」と意見する。
この話がレイ本人にもうっすらと伝わり、レイは「もうええわ」と脱退。
ジョンは「ほんならボーカルはもう少し探してみよか」と思い、バンドはボーカル未定のままゲフィンと契約したが、このボーカル探しを「何をモタモタしとるんや」と感じた短気なコージー・パウエルは突然脱退し、ブラック・サバスに行ってしまう。

コージー脱退にあわてたジョン・サイクスは、ドラマーのエインズリー・ダンバー(元ジャーニー、ホワイトスネイク)やカーマイン・アピス、ボーカリストのトニー・マーティン(元ブラック・サバス)にも声をかけたが、結局加入してくれたのはカーマイン・アピスだけだった。
取り急ぎジョン・サイクス、トニー・フランクリン、カーマイン・アピスの3人でボーカル未定のままバンドは始動。
なんか出だしから全然順調じゃないブルー・マーダー。

トニーの提案によりバンド名をブルー・マーダーとし、88年2月からデビューアルバムのレコーディングを開始した。
並行してボーカルのオーディションも続けたが、メンバーやプロデューサーが満足する歌い手を見つけることができなかったため、トニーとカーマインとジョン・カロドナーは再度ジョン・サイクスに「やっぱお前が歌ったらええねん」と提案。
提案を受け入れたジョンは奮起したのか渋々だったのかはわからないが、最終的にリードシンガーの役割を引き受けることになった。
ただ元々歌手としてのボイストレーニングをあまりマジメにしてこなかったため、やはり当初は歌うのに苦労したそうだ。

こうしてデビューアルバム「Blue Murder」は89年4月に発売された。
プロデューサーは当時モトリー・クルーラヴァーボーイのアルバムも手がけていたボブ・ロック。
プロモーションも兼ねてボン・ジョビとビリー・スクワイアのサポートとしてアメリカをツアーし、8月には東京・川崎・大阪で来日公演も行われた。

アルバムは全米ビルボードチャートで最高69位、全英は45位まで上昇したが、評価は分かれるようだ。
評論家からはバンドの音楽性やボブ・ロックのプロデュースを高く評価されたが、商業的にはやはりイマイチな結果とされた。
当然要因はいろいろあったと思うが、当時のメンバーや関係者の談話を読むと、なんとなくみんなが「自分ではない誰かのせい」にしていたように感じる。

ジョン・サイクスはサウンドの重厚さと明確なヒットシングルの欠如が失敗だったと認めてはいるが、一方でゲフィンレコードのプロモーションが不十分だったとも発言している。
カーマイン・アピスはマネジメントを担当していたチームに問題があったと指摘している。
実はこのチームはジョン・サイクスの義父が率いていたが、ツアー前に解雇された。
この解雇判断もカーマインは「遅すぎた」と思っていたようだ。
さらにゲフィンのジョン・カロドナーは、ブルー・マーダーの失敗はジョン・サイクスがフロントマンとして機能不十分だったことに起因すると感じていたが、そもそもジョン・サイクスをフロントマンに推したのはカロドナーだった。
やっぱみんな押しつけあってるなぁ・・・

意見や評価のズレはシングルも同様だった。
ジョン・カロドナーが提案した当初の計画では、「Valley of the Kings」を最初にシングルリリースして話題を集め、続いて「Jelly Roll」をMTVやラジオでよりプッシュするはずだった。
「Valley of the Kings」のビデオ撮影には15万ドルもかけたそうだ。
この高額費用もあってか、バンドがツアーに出るとゲフィンは「Valley of the Kings」のプッシュをバンドやMTVに要求し始めた。
だが「Valley of the Kings」はMTVで何度か採り上げられたものの、やがてMTV側から「長すぎて流す価値がない」と見なされ、「Jelly Roll」の放送も拒否される。
・・・そんなことある?
なんかゲフィン側がやらかしてMTVを怒らせたんじゃないの?

ジョン・サイクスはブルー・マーダーのデビューアルバムの失敗に深く落ち込み、バンドはしばらく活動休止になった。
その間全米を覆ったのがグランジである。
メンバーやレコード会社は、グランジ台頭によりブルー・マーダーを含むメタル系のグループは流行遅れとなったと感じていた。
ジョンは90年に入ってようやく新しいアルバム制作の準備を開始したものの、進捗は遅々として進まなかった。
トニーとカーマインはジョンを待つことに疲れ、相次いでブルー・マーダーを脱退。
ジョンはトミー・オスティーン(D)とマルコ・メンドーサ(B)、ニック・グリーン(K)を採用し、トニーやカーマインが残した音源も使ってアルバム制作を進めた。

こうして3年ほどかけてアルバム「Nothin' But Trouble」は完成し、93年8月にゲフィンからリリースされた。
9月には来日して公開番組「ミュージックトマトWorld」にも出演し、アルバムラスト曲「She Knows」の生歌も披露。
伊藤政則が「もう自分でもアルバムは一生出ないんじゃないかと思った?」と問いかけると、ジョンも「そう思ったことは何度かあった」などと答えている。

「Nothin' But Trouble」は日本ではオリコン6位と健闘し、シングル「We All Fall Down」はロック・トラック・チャートで35位に達したが、評論家は「デビューアルバムより劣る」と批判し、結局日本以外ではチャートインしなかった。
ジョンはこの結果をまたしてもゲフィンのせいにし、「アルバムの宣伝を全然しなかった」と発言。
これでゲフィンとの決裂は決定的となり、94年に東京で録音されたライブ盤「Screaming Blue Murder: Dedicated to Phil Lynott(フィルに捧ぐ)」をリリースした直後、ゲフィンとの契約を切った。

ジョン・サイクスは「Nothin' But Trouble」が好評だった日本に恩義を感じ、あえてマーキュリー・ジャパンと契約。
トミー・オスティーンとマルコ・メンドーサを、自身のバンド「サイクス」に連れて行き、95年にはアルバム「Out of My Tree」を発表。
その後も2000年までトミーとマルコを伴い活動を続けた。
なお97年の「20th Century」にはTOTOのサイモン・フィリップス、2000年の「Nuclear Cowboy」にはカーマイン・アピスが参加している。

一方で94年には新生シン・リジィとしても活動を開始。
ジョン・サイクスは元シン・リジィのブライアン・ダウニー、スコット・ゴーハム、ダレン・ウォートンと共にツアーに出る。
新シン・リジィ(ややこしい)は過去の曲のみを演奏し新曲は作らなかったが、フィル・ライノット抜きでシン・リジィの名前を使ったことで批判されたりした。
メンバーを変えつつライブアルバム「One Night Only」もリリースし、ジョン・サイクスは2009年まで新シン・リジィのフロントマンを務め続けた。

ジョンが新シン・リジィを脱退した表向きの理由は「自分の音楽に戻る時が来たと感じた」からだそうだが、実は脱退前後にガンズ・アンド・ローゼズのオーディションを受けていたとの話もある。
結局ガンズ加入は実現しなかったが・・・
なおその後はスコット・ゴーハムがジョン・サイクスのいないシン・リジィを再結成している。

名門バンドを渡り歩いた栄光の経歴ギタリストを業界が放っておくはずがなく、ジョン・サイクス周辺には再びスーパーグループ結成の話が持ち上がる。
2011年にはマイク・ポートノイ(元ドリーム・シアター)、ビリー・シーン(元MR. BIG)と新バンド「バッド・アップル」結成を画策していることが判明した。
しかしジョン・サイクスは他のメンバーと予定が合わないというとってつけたかのような理由でバッド・アップルは頓挫。
ジョンに代わってリッチー・コッツェンが加わり、2012年にワイナリー・ドッグスと名を変えて結成された。
ワイナリー・ドッグスは意外?に順調で、10年間で3枚アルバムをリリースし、都度日本を含むワールドツアーも行われている。

結果的にジョン・サイクスはキャリア最終章としてソロ活動を選んだことになる。
2013年に新しいソロアルバム制作に取り組んでいることを明らかにしたが、正式にリリースはされていない。
2021年には20年ぶりの新曲「Dawning of a Brand New Day」「Out Alive」を発表。
アルバム「Sy-Ops」もリリースすると表明していたが、これも実現しなかった。

で、本題のブルー・マーダーだが、再結成の話はメンバーや関係者の間では何度もあったようだ。
2019年にジョンとカーマイン・アピスでリハーサルもしたが、再結成で合意するところまで行かなかった。
ツアーの名義を「ジョン・サイクス&ブルー・マーダー」にしたいとジョンが言いだし、カーマイン・アピスは「なんやそれ」と反発したらしい。
冒頭で述べたとおり、ジョン・サイクスは2024年12月に65歳で亡くなったため、ブルー・マーダーの再結成は永久に不可能となってしまった。

今回ブルー・マーダーの曲をいくつかYou Tubeで聴いてみた。
本業はシンガーでなくギタリストで通してきた人なので、歌もそんなに頼りないのかと思って構えて聴いたが、ふつうに歌えていると感じた。
ただデビカバやフィル・ライノットのようにクセがすごいボーカルではないので、比べられるとやや厳しいかもとは思う。
本人も結成後しばらくはシンガーを探していたようなので、もしブルー・マーダーにもっと強力な歌手が加入していたら・・と思うと少し残念ではある。

あとブルー・マーダーの活動期間がグランジ台頭と重なってしまった点も不利に働いたと思う。
日本では結構売れたようだが、結成があと5年早ければ、アメリカやイギリスでもまた違った展開になっていたと思われる。

というわけで、ブルー・マーダー。
スタジオ盤は2枚なので全盤制覇も難しくなさそうですが、ブルー・マーダーを含むジョン・サイクスが関わった名曲についても、教えていただけたらと思います。

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誉田哲也 ブルーマーダー 警部補 姫川玲子

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