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聴いてない 第324回 ジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンド

長い名前のバンドで思い浮かぶのは、先日採り上げたクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの他、ブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドとか、ボブ・シーガー&シルバー・バレット・バンドニッティ・グリッティ・ダート・バンド、ロス・インディオス&シルビア、一人民族大移動・大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントなどがあるが(後半適当)、今日採り上げるジョン・キャファティも長名バンドを率いていたことで有名な人である。

ただし。
ジョン・キャファティ、実は1曲も知らない。
ジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンドというムダに長いバンド名だけなぜか知っているが、どこで知ったのかは不明。
曲は全く聴いておらず、FM番組でエアチェックした実績もない。
バンドのメンバーも一切知らないし、そもそもジョン・キャファティの顔もわからない。
聴いてない度は天上天下唯我独尊の1。

まずジョンさんのお名前表記だが、おそらく発音に忠実に書くと「ジョン・カフェティ」ではないかと思われる。
ただ当時の日本盤レコードや雑誌での表記は「ジョン・キャファティ」であり、自分もこの文字列で記憶していたので、今回はジョン・キャファティで統一します。

さてほんならジョン・キャファティを調べてみるかなと思うたら、ウィキペディアには日本語版がない。
どうやら日本では人気も知名度もそんなに高くはないようだ。
仕方なく英語版を翻訳したり他のサイトを見たりして集めた情報は以下のとおり。

ジョン・キャファティはロードアイランド州ノース・プロビデンス出身。
60年代半ばの中学生の頃にナイト・クローラーズと名付けたバンドを結成する。
当時ジョンたちがよく聴いていたのはローリング・ストーンズアニマルズヤードバーズなどブルース系の音楽だった。
地元で行われたバンド対抗戦で、中学生バンドのナイト・クローラーズは大学生バンド3つを破って優勝したことがあるそうだ。

ジョン・キャファティはその才能を生かして高校・大学進学後も音楽活動を続け、いくつものバンドを渡り歩いてきた。
その中でビーバー・ブラウンの源流となる以下のメンバーに出会うことになる。
・ゲイリー・グラモリーニ(G)
・パット・ルポ(B)
・ケニー・ジョー・シルバ(D)
・ボビー・コトイア(K)
・フレッド・マカリ(Sax)

バンドの基盤はブルースだったが、当時東海岸で活動するにはジャズやクラシックやソウルなど様々なジャンルでもこなせる必要があった。
そこで彼らは休みなくリハーサルを続け、その結果どのジャンルでもカバーできるユニークな存在となり、各地のステージに呼ばれるようになる。

73年頃にバンドはプロデビューを決意したが、名前がないことに気づく。
・・そんなことある?
中学生でナイト・クローラーズって名前でバンド組んでたのに、プロデビュー前でも名前付けてなかったって、大丈夫だったの?
メンバーがアイデアを出し合ってもいまいち使えるものが思いつかなかったが、その時誰かが棚にあった住宅用ペンキの缶を見つけた。
ペンキの色は「ビーバー・ブラウン」。
で、何か響きがいいということで一致し、他に良い候補もなかったため、それをバンド名として採用した。
ロックバンドとしてはなんか牧歌的でゆるい感じがしますけど。

ビーバー・ブラウン・バンドの人気は地元ロードアイランド州からマサチューセッツ州・コネチカット州へじわじわと広がっていった。
しかしオリジナル曲をほとんど持っていなかったため、ジョン・キャファティが曲作りを担当し始める。
74年にはフレッド・マカリが脱退し、ポール・ジャクソンが加入する。

ここでバンドは難題に直面する。
レコード発売前から、どこのステージに呼ばれても観客は満員。
じゃあデビューも順調に進むかと思ったが、いくつかの大手レコード会社が契約を真剣に検討したにもかかわらず、なかなか実現しなかった。
当時各社が力を入れようとしていたのが、実はブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドや、ボブ・シーガー&シルバー・バレット・バンドだった。
一部の批評家はビーバー・ブラウン・バンドをEストリート・バンドを真似た連中だとして不当に切り捨て始めたという話もあり、時期的には不利に働いたと思われる。

ただ各バンドの似たような音楽スタイルと歌詞のテーマは偶然であり、お互いをよく知らず活動しそれぞれが人気者になっていっただけで、それがたまたま同時期だっただけのようだ。
その後ビーバーのメンバーはブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドや、ボブ・シーガー&シルバー・バレット・バンドの面々とも親しくなり、ニュージャージーなどで何度も共演していたそうだ。
冒頭名前の長いバンドとして適当に連ねていたが、実はみんな仲良しだったのね。

レコードデビューを目指して活動を続けたビーバー・ブラウン・バンドだが、76年にギターのゲイリーは音楽的な方向性の違いからバンドを脱退する。
だがバンドは後任を加入させず、ジョンがリードギターを担当し5人で活動を続けた。
1年後にゲイリーは復帰したが、直後にポール・ジャクソンが脱退。
サックスを音の重要なパートとしてきたバンドは、すぐに後任としてマイケル・アントゥネスを招き入れた。

それでもビーバー・ブラウン・バンドの苦難の道は続く。
80年に自主リリースしたシングル「Wild Summer Nights」「Tender Years」は、ニューイングランドでヒットし、1万枚以上を売り上げた。
だが批評家からはやっぱりブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドと比較され続け、大手レコード会社は興味を示さなかったため、バンドがメジャーシーンに登場するまでさらに 2 年かかっている。

ビーバー・ブラウン・バンドの運命を変えたのは、元ミュージシャンで音楽プロデューサーのケニー・ヴァンス。
ケニーは「エディ・アンド・ザ・クルーザーズ」という架空のバンドを描いた小説に基づいた映画のサウンドトラックのオファーを受け、脚本を読みながら曲をどうするか考えていた時、ビーバー・ブラウン・バンドのことを思い出した。
ケニーはジョン・キャファティに連絡を取り、一緒にこの作品に取り組むよう要請。
ジョンはメインテーマ曲「On the Dark Side」を作り、演奏はビーバー・ブラウンが担当し、主演俳優のマイケル・パレがジョンの声に合わせて口パクで歌うことになった。
劇中でビーバー・ブラウン・バンドが実際に演奏するシーンはなく、サックスのマイケルが少しだけ登場しているそうだ。

映画は83年に公開されたものの興行的には振るわなかった。
だがサウンドトラックは人気を博し、ビーバー・ブラウン・バンドのファーストアルバムの代わりに売れ始め、全米9位の大ヒットとなった。

サントラの仕事が終了した時点で、ビーバー・ブラウン・バンドは西海岸に拠点を移し、ついにメジャーレーベルと契約。
ケニー・ヴァンスがプロデュースを担当し、真のオリジナルアルバム「Tough All Over」を85年にリリースする。
タイトル曲を含む4曲がシングルカットされ、全米40位を記録。
シングル「Voice of America's Sons」は、シルベスター・スタローン主演のアクション映画「コブラ」のテーマソングとなり、ジョンのソロ曲「Heart's on Fire」は、別のスタローン主演映画「ロッキー4」で使用された。
バンドはプロモーションのために全米各地や世界各国を回るツアーを始め、この年の11月には来日して中野サンプラザで公演も行っている。

だが、これ以降バンドとレコード会社の方向性は少しずつズレ始める。
バンドは88年にアルバム「Roadhouse」を発表。
レコード会社やプロモーターの意向より自分たちの意志とペースを優先して完成させた作品だったが、ファンの間ではよく売れたものの、一般大衆には受け入れられず、バンドは新たな岐路に立たされることになる。

「Roadhouse」の失敗を重く見たレコード会社は、映画「エディ・アンド・ザ・クルーザーズ」の続編の音楽を手がけるようビーバー・ブラウン・バンドに指示。
会社側は契約解除と映画音楽制作のどちらかを選ぶよう圧力をかけ、悩んだジョンとバンドは、ケニー・ヴァンスとともにサウンドトラック制作を選択した。
曲素材の大部分は脚本を確認しながら書かれ、残りは過去に演奏していた未発表の名曲の中から選んだものだった。
続編映画は89年に公開されたが、前編よりもさらに興行収入を得られず、あっという間に公開は終了。
サントラは「Roadhouse」よりは評価されたが、結果的にこれがメジャーレーベルからリリースされた最後の新盤となった。

その後2年ほどはバンドの人気も安定し、全米各地で満席のステージをこなしていた。
サックスのマイケル・アントゥネスはセッションマンとしても引っ張りだこで、当時ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックのバックバンドのメンバーだった二人の息子とともに、90年のアルバム「Step By Step」のレコーディングに参加している。

だがその後メンバーに変化が起こる。
92年にドラムのケニー・ジョー・シルバが演奏から離れ、ロードマネージャーとなったため、後任としてジャッキー・サントスとトム・エンライトが加入した。
リードとスライドギターの両方を演奏するトムがゲイリーとうまく連携し、ギター3人という厚みのある編成になったことで、新しい楽曲に最新のサウンドが加わり、ジョンは必要なときに歌うことだけに集中することができたと語っている。

また同時期にキーボードのボビー・コトイアが病気になり、スタジオでは演奏したがツアーには参加しなくなった。
ステージ上ではボビーの代役をスティーブ・バークが務め、スティーブは現在もメンバーに残っている。
94年にはベースのパット・ルポが脱退し、ディーン・カッセルが加入。

2000年代初頭、ジョンとゲイリーとマイケルは「ザ・ヴォイス・オブ・クラシック・ロック」と「ロック・アンド・ポップ・マスターズ」というツアーに参加。
これはゲイリー・US・ボンズ、スペンサー・デイビス、マイク・レノ(ラヴァーボーイ)、ジミ・ジェイミソン(サバイバー)、ラリー・ホッペン(オーリンズ)など、60年代から80年代までのトップアーティストのリードシンガーが入れ替わりで出演するツアーレビューで、リンゴ・スター&オールスター・バンドのような企画だった。
参加者は自分のヒット曲を歌うだけでなく、他のシンガーのバックボーカルも務め、その結果非常に味わい深い組み合わせが生まれ、全米で大好評となったそうだ。

残念なことに、2004年にオリジナルメンバーのボビー・コトイアは肝臓病で死去。
元メンバーのパット・ルポも2021年に亡くなっている。

ビーバー・ブラウン・バンドは、今のところ新曲レコーディングの予定はないが、現在もライブは続けており、11月はロードアイランド州やメキシコで演奏している。
またジョンは慈善活動にも熱心で、ゲイリーやマイケルはビーバー・ブラウン以外にも自身のバンドを率いてそれぞれ活動中だそうだ。

以上がジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンドの長く華麗なヒストリーである。
知ってた話は全くない。
最初のアルバムがサントラというケースはけっこう珍しいのではないだろうか。
映画「エディ・アンド・ザ・クルーザーズ」はアメリカであまりヒットしなかったためか、日本では劇場未公開だそうだ。
となるとビーバー・ブラウン・バンドをくまなく聴いてきた日本のリスナーもそんなに多くはないのかもしれない。
ミート・ローフのように本国と日本では人気や知名度に大幅な乖離があるパターンのような気がするが・・

今回彼らの曲をいくつかYou Tubeで聴いてみたが、どれも全く知らない曲だった。
「ロッキー4」も「コブラ」も観ていないので、「Voice of America's Sons」「Heart's on Fire」も聴いたことはなかった。
ただサウンドやメロディは80年代らしく力強く華やかな印象で、確かにブルース・スプリングスティーンが歌いそうな感じはした。
聴きにくい感覚はあまりなかったので、学習効果への希望はあるように思う。(本当か?)

というわけで、ジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンド。
実績からすれば「Eddie and the Cruisers」だと思いますが、サントラではなく純粋に彼らのオリジナルを聴くなら「Tough All Over」でしょうか。
日本で入手可能なのかすらわかりませんが、おすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

Eddie-and-cruisers
Eddie & The Cruisers - Soundtrack
Tough-all-over
ジョン・キャファティ&ビーバー・ブラウン・バンド Tough All Over
Nodogurobeaber
北陸製菓 hokka のどぐろビーバー

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聴いてない 第323回 スリー・ドッグ・ナイト

前回のCCRに続いてアメリカの古くて変わった名前のバンドをご紹介します。
スリー・ドッグ・ナイト、やはり聴いてません。
86年頃にFMの「アメリカン・ポップスDJ」という特番で、CCRの「雨を見たかい」を録音したが、同じ番組でオンエアされたのがスリー・ドッグ・ナイトの「An Old Fashioned Love Song」だった。
この1曲だけ録音したが、以来他の曲を全く聴くこともなく現在に至る。
従ってCCR同様に聴いてない度も2。

そこでスリー・ドッグ・ナイトについても調べてみたが、当然だけどCCRとは全く異なる原理と経歴を持っていた。
さらにバンドの歴史にからむ関係者に、意外な人たちの名前が見つかった。
意外と思ったのは自分だけで、ファンにとっては常識なのかもしれませんけど・・・

スリー・ドッグ・ナイトの原型は1967年ロサンゼルスで結成されたレッドウッドというグループ。
ダニー・ハットン、チャック・ネグロン、コリー・ウェルズの歌える3人がレッドウッドを組んだが、これが後のスリー・ドッグ・ナイトである。

レッドウッドをデビューに先立ってサポートしようとしたのは、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンだった。
レッドウッドはブライアンとともに3曲ほどレコーディングし、ビーチ・ボーイズが設立したブラザー・レコードと契約させ、アルバムのプロデュースもブライアンが行う予定だった。

だが、ブライアン以外のメンバーはこれに反対する。
当時ビーチ・ボーイズは「Smiley Smile」が商業的に失敗し、またブライアンが心身ともに不安定になりバンド活動にいまいち身が入らない状況にあった。
他のメンバーはこの状況を打破するためにはブライアンの力をビーチ・ボーイズにのみ振り向ける必要があると考えたようだ。
メンバーはブライアンに「そんな新人バンドの面倒なんか見ないでビーチ・ボーイズに集中せえよ」と詰め寄ったらしい。
ブライアンに頼らず自分たちでビーチ・ボーイズを立て直そうとは思わなかったんですかね?

レッドウッドの演奏や歌は残念ながらブライアンの期待したレベルではなく、ビーチ・ボーイズのメンバーからの圧力もあり、結局ブライアンはレッドウッドのサポートを断念。
ブライアンに頼れなくなったレッドウッドは、自力でのデビューに向けて追加メンバーを雇うことにした。
採用されたのはギターのロン・モーガン、ドラムのフロイド・スニード、ベースのジョー・シェルミー、キーボードのジミー・グリーンスプーンの4人。
だがロン・モーガンはアルバム録音前に脱退し、代わってマイケル・オールサップが加入。
7人組となったバンドはスリー・ドッグ・ナイトに改名した。
このボーカル隊3人+演奏4人という変わった編成が、スリー・ドッグ・ナイトの特徴でもある。

スリー・ドッグ・ナイトという妙な名前は、「オーストラリア先住民アボリジニが寒い夜には犬を3匹抱いて眠る」という慣習から来ているとのこと。
ボーカルのダニー・ハットンの恋人ジューン・フェアチャイルドが、雑誌記事を読んでこの名前を提案したそうだ。
低偏差値な疑問ですけど、これって「three dogs」じゃなくていいんでしょうか・・・?

スリー・ドッグ・ナイトは68年にデビューを果たし、アルバム「Three Dog Night」とシングル「Nobody」「Try a Little Tenderness」がリリースされた。
この2曲は当初思ったほど売れず、バンドは気を取り直して次のアルバム制作に取りかかる。
だがハリー・ニルソンのカバー曲「One」が3枚目のシングルとして発表されると、すぐにヒットチャートを急上昇し、最終的に全米5位に達した。
この曲の人気を利用するため、アルバムジャケットのグループ名の下に「One」というタイトルが後から追加されている。

70年には「Mama Told Me Not to Come」で全米1位を獲得。
この曲はもともとランディ・ニューマンがエリック・バードンのソロアルバムのために書いた曲である。
さらに71年にもフォークシンガーのホイト・アクストンが作った「Joy to the World」をリリースし、全米1位になった。
また同年ポール・ウィリアムズが書いた「An Old Fashioned Love Song」もヒットさせている。
スリー・ドッグ・ナイトはこの後も他人が作ったいい曲を発掘してヒットさせるパターンを続け、74年にはレオ・セイヤー作の「The Show Must Go On」も全米4位を記録した。

だがスリー・ドッグ・ナイトはこの頃から混乱してくる。
ベースのジョー・シェルミーは73年初めに脱退し、直後にジャック・ライランドが加入。
さらにキーボードのスキップ・コンテが加わり、一時的に8人編成となった。

74年後半にはマイケル・オールサップとフロイド・スニードが脱退する。
後任のジェームズ・スミスとミッキー・マクミールが加入したが、二人とも2年持たず脱退している。
なおフロイド・スニードは、先に脱退したジョー・シェルミーと、後にTOTOのメンバーとなるボビー・キンボールと共にSSフールズを結成している。
スリー・ドッグ・ナイトはその後もメンバーチェンジが続いたが、基本的に入れ替わっていたのは演奏組だった。

しかし歌唱隊の3人も決して安定はしていなかったようだ。
ボーカルのダニー・ハットンはコカインとアルコールの乱用でレコーディングやセッションを欠席するようになり、最終的には75年後半にバンドから解雇されてしまう。
ダニーは結成当時の中心メンバーだった歌唱隊からの最初の脱落者となり、代わってジェイ・グルスカが加入した。
また75年のツアーの最初のコンサート開始前に、チャック・ネグロンは麻薬所持で逮捕されている。(すぐに1万ドルの保釈金で釈放)

バンド内部の不安定さは成績にも影響した。
75年5月にリリースされたアルバム「Coming Down Your Way」は、売れ行きが振るわず全米70位どまり。
また「Til The World Ends」をアルバムからの唯一のシングルとしてリリースしたが、結果的にこれがバンドにとって最後のトップ40ヒット(32位)となった。
不振の原因はレーベル変更やディスコミュージックの人気の高まりによるプロモーションの失敗とも言われたが、メンバーもファンも結果に失望。
がっかりしたバンドは、76年7月ロサンゼルスで最後の公演を行い解散する。

でもスリー・ドッグ・ナイトは案外早く再結成する。
81年にはジョー・シェルミーを除くデビュー当時の6人に、マイク・セイフリットを加えた編成で再結成された。
マイクは当時リック・スプリングフィールドのヒット曲「Don't Walk Away」などでベースを弾いていた人物である。

再結成スリー・ドッグ・ナイトは83年に5曲入りEP「It's a Jungle」をパスポート・レコードという小さなレーベルからリリース。
ただ音楽性はかなり変わっていて、スカ調の5曲全てがメンバー外の人による作品であった。
再結成してもメンバーは自前の曲にあまりこだわらない点は変わらなかったようだ。
パスポート・レコードはすぐ倒産したため、このEPは売れなかったが、後年再評価されている。

めでたく再結成はしたものの、すでに歌唱隊3人の求心力もなく、その後もやっぱりメンバー・チェンジが繰り返される。
マイケル・オールサップは活動を休みがちになりやがて脱退。
ポール・キングリーとスティーブ・エッツォがヘルプで加わり、その後正式に加入。
同時にフロイド・スニードは解雇され、マイク・キーリーと交代した。
キーボード担当はジミー・グリーンスプーンが病気→代役としてデビッド・ブルーフィールド加入→リック・セラットに交代→回復したジミー・グリーンスプーン復帰、と目まぐるしく変動。

チャック・ネグロンは85年にまたクスリのやり過ぎでついにバンドを解雇された。
リハビリを続けたが、結局バンドには復帰していない。
ポール・キングリーとマイケル・オールサップは80年代から90年代にかけて脱退と復帰を何度か繰り返している。
これだけ出入りの激しい期間でも、バンドはツアーに出て演奏してたというからすごい話だ。

ただこの時期のスリー・ドッグ・ナイトは、日本では話題になることはほとんどなかったのではないかと思う。
自分にとっての三大洋楽講師である柏村武昭・小林克也・東郷かおる子も、誰一人再結成スリー・ドッグ・ナイトを案内していなかった。(してたらすいません)
渋谷陽一やピーター・バラカンは当時の日本のヤング向けにきちんと案内していたのだろうか?(上から目線)

90年代以降もバンドは変動継続。
93年、パット・バウツがマイク・キーリーの後任としてドラマーに就任。
結成当時の演奏隊だったベーシストのジョー・シェルミーは2002年3月に死去した。

21世紀に入るとバンドはクラシックオーケストラと接近する。
2002年5月にロンドン交響楽団とのコラボ盤「Three Dog Night with The London Symphony Orchestra」をリリース。
ロサンゼルスとロンドンで録音され、新曲「Overground」「Sault Ste. Marie」が収録されている。
またテネシー交響楽団との演奏を収録したDVD「Three Dog Night Live With the Tennessee Symphony Orchestra」もリリースされた。

さらに2004年10月、スリー・ドッグ・ナイトは35周年記念ヒット曲集盤「The 35th Anniversary Hits Collection Featuring The London Symphony Orchestra」をリリースした。
本編は2002年のロンドン交響楽団とのコラボ盤で、ボーナストラックとして「Eli's Coming」「Brickyard Blues」「Try a Little Tenderness」「Family of Man」のテネシー交響楽団とのライブバージョンが収録されている。

長く活動を続けてきたスリー・ドッグ・ナイトだが、メンバーの高齢化や病気は避けられなかった。
2012年の夏、ギタリストのマイケル・オールサップが病気で入院したため、ベースのポール・キングリーはギターに戻らざるを得なくなり、ダニー・ハットンの息子ティモシーがベースを弾いた。
ティモシーは今もバンドの正式なメンバーとして活動している。
息子が加入して親子でステージに立つという図式は、イーグルスチープ・トリックヴァン・ヘイレンなど名門バンドで最近よく見られるパターンである。

2015年3月にはキーボードのジミー・グリーンスプーンが癌のため67歳で亡くなった。
同じ年の10月21日、結成当時から歌い続けてきたコリー・ウェルズが74歳で死亡。

主要メンバーの病欠や死亡、またコロナ禍により一時期停滞していたスリー・ドッグ・ナイトだが、2021年からはツアーを再開。
バンドは現在も活動中で、新曲や新盤も計画中とのこと。
結成当時のメンバーで残っているのはダニー・ハットンだけである。
マイケル・オールサップは現在もスリー・ドッグ・ナイトのメンバーだが、ツアーからは引退しているそうだ。
昨年1月には結成時のドラマーのフロイド・スニードも亡くなっている。

以上がスリー・ドッグ・ナイトの波乱と混沌と薬物の歴史絵巻である。
CCR同様知ってた話は一切ない。
デビューにあたりブライアン・ウィルソンが後押ししようとしたことも知らなかった。
歌唱隊と演奏隊という明確な分担があるバンドってのも珍しい構成だと思う。
ボーカル組のコリー・ウェルズも多少は楽器を使ったらしいけど。
出入りの激しい団体だが、全メンバーを覚えているファンはいたりするんだろうか?

「An Old Fashioned Love Song」以外の70年代の曲をYou Tubeでいくつか聴いてみたが、全米1位の「Joy to the World」はどこかで聴いたことがある。
他はどこかメルヘンでフラワーなクスリっぽい曲が多い気がする。(伝わらない)
好みかどうか微妙ではあるが、聴きやすい音ではあると感じた。

ちなみに「An Old Fashioned Love Song」は、ポール・ウィリアムズが元々はカーペンターズのために書いた曲だったらしい。
だがタイトルの「古くさい時代遅れのダサいラブソング」が、それ系のヒット曲で人気だったカーペンターズにとっては皮肉だと思われたらしく、リチャード・カーペンターは歌うことを断ったとのこと。
スリー・ドッグ・ナイトが歌ってヒットしたので、リチャードの判断は正しかったのか、微妙なところですけど。

というわけで、スリー・ドッグ・ナイト。
聴くとしたら「An Old Fashioned Love Song」収録の「Harmony」からかなと思いましたが・・
果たして我が国にどれだけファンの方がおられるのかわかりませんが、もし必聴盤があるならば教えていただけたらと思います。

Three-dog-night
Three Dog Night One
Harmony
スリー・ドッグ・ナイト Harmony
Three-dog-night_book
落合恵子 三匹の犬と眠る夜

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