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聴いてない 第318回 リサ・リサ&カルト・ジャム

自分が80年代に主にエアチェックに利用していた番組は、FM東京の「サンスイ・ベストリクエスト」と「マイ・サウンド・グラフィティ」、NHK「クロスオーバー・イレブン」だった。
実は構成的にもっとエアチェックに向いていたのが、NHKの「リクエスト・コーナー」である。
ネットで検索するとわかるが、「サンスイ・ベストリクエスト」なんかよりも「リクエスト・コーナー」を聴いていた人のほうが圧倒的に多い。
自分もこの番組はたまに聴いてはいたが、日曜18時という時間帯が問題だった。
我が家の夕食時間にバッティングすることが多かったのだ。
今日紹介するリサ・リサ&カルト・ジャム、たった1曲だけ録音しているが、「リクエスト・コーナー」でオンエアされた「Lost In Emotion」である。

リサ・リサ&カルト・ジャム、上記のとおり1曲しか聴いてないので聴いてない度は2。
「Lost In Emotion」は全米1位の大ヒット曲だが、「Head To Toe」という曲も1位を獲得しているそうだ。
「リクエスト・コーナー」はチャートの下位にいて上昇予感がする曲をかけることが多く、おそらく「Lost In Emotion」も「リクエスト・コーナー」でオンエアされた後で全米1位を記録したと思われる。
あまり使わなかった「リクエスト・コーナー」なので、逆に「Lost In Emotion」をこの番組で録音したことをよく覚えている。

録音はしたけどそれ以上の情報は仕入れられず、長い名前の由来も謎のまま。
さらにリサ・リサ&カルト・ジャムwithフル・フォースというさらに長い名前で活動してたことは一応知っていたが、フル・フォースが何者なのかもわからない。
石田豊もこのグループについての情報は教えてくれなかった(と思う)。
そこでリサ・リサ&カルト・ジャムについて調査開始。

リサ・リサ&カルト・ジャムは1980年代にニューヨークから登場した最初のフリースタイル・ミュージック・グループのひとつである。
メンバーはボーカルのリサ・リサ(本名リサ・ヴェレス)ギター兼ベースのアレックス・"スパナドール"・モーズリー、ドラム兼キーボードのマイク・ヒューズの3人。
この3人を集めてグループを結成し、最初にプロデュースしたのがフル・フォースというプロダクション・チームである。

リサ・ヴェレスはニューヨーク出身。
プエルトリコ系の家で10人兄弟の末っ子として生まれた。
14歳の時にブルックリンのプロダクション・チーム、フル・フォースのオーディションを受け、アレックスとマイクの3人によるリサ・リサ&カルト・ジャムが結成された。
グループはデビューシングル「I Wonder If I Take You Home」をレコーディングしたが、最初はインディーズレーベルからのリリースだった。
グループはその後すぐにコロンビア・レコードと契約し、83年にシングルを再リリース。
全米R&Bチャートで10位、全英では20位にランクインした。

1985年、デビュー・アルバム「Lisa Lisa & Cult Jam with Full Force」をリリース。
タイトルにフル・フォースの名前があるが、ジャケットにはフル・フォースのメンバーは写っていない。
フル・フォースは6人ほどのミュージシャンで構成されたプロダクション・チームで、作詞作曲やプロデュースもフル・フォースが手掛けており、裏方ではあるが戦略的にチーム名もタイトルに付けてアルバムをリリースしたものと思われる。

87年はグループ史上最大の業績を記録した。
シングル「Head to Toe」と「Lost in Emotion」は全米1位でゴールドディスクという快挙を達成。
「Head to Toe」はR&Bチャートで2週間1位をキープし、「Lost in Emotion」のプロモ・ビデオは、MTVで87年に4番目に多く再生された。
さらにシングル「Everything Will B-Fine」「Someone to Love Me for Me」もリリースされ、シングル4曲のおかげでアルバム「Spanish Fly」も全米7位を記録し、プラチナディスクとなった。

しかしリサ・リサ&カルト・ジャムはこの勢いを持続させることは難しかったようだ。
89年に3枚目のアルバム「Straight to the Sky」を発表。
シングル3曲がカットされ、ブラックチャートやダンスチャートでヒットはしたものの、アルバムは77位と前作より大幅に順位を落としてしまう。

そして91年の「Straight Outta Hell's Kitchen」が結果的にグループ最後のアルバムとなる。
C+Cミュージック・ファクトリーやアイズレー・ブラザーズのメンバーの協力も得て制作され、シングル「Let the Beat Hit 'Em」は全米R&Bチャートやダンス・クラブチャートの両方でヒットしたが、アルバムは全米100位にも入らず惨敗となってしまった。
グループはその後解散する。
内紛があったのかどうかは不明だが、業績悪化が解散につながったのは間違いなさそうだ。

グループ解散後の94年、リサ・リサは94年にソロアルバム「LL77」をリリースした。
このアルバムには、クラブヒット曲「When I Fell in Love」や、R&Bチャートで38位となったシングル「Skip to My Lu」が収録されている。
さらに2009年には、ラッパーのピットブルを迎えたシングル「Can't Wait」や、テイラー・デインの「Stand」のカバーが収録されたアルバム「Life 'n Love」を発表している。

以上がリサ・リサ&カルト・ジャムの割と短い栄光の歴史である。
知ってた話はもちろんなし。
全米1位が2曲あったことも知らなかった。

リサ・リサを語るサイトに共通して書かれているのが、リサの素人っぽさが最大の魅力という点。
実際フル・フォース側もリサのあどけなさに注目して合格を出しており、クセがすごいボーカルは求めていなかったそうだ。
「Lost in Emotion」も人工的なリズムとサウンドにリサの素人ボイスが乗っかり、不思議な雰囲気を作り上げている。
この1曲しか聴いていないが、確かにリサの声のトーンはダイアナ・ロスをぐっと幼くしたような印象である。

リサ・リサ&カルト・ジャムの業績悪化についての考察は見当たらなかったが、時代背景的にグランジ・オルタナの台頭が影響していたのではないかと思う。
あの頃はとにかくジャンルを問わず80年代のムダに明るくキラキラした音楽が全否定されていったので、リサ・リサ&カルト・ジャムのようなR&Bやダンスチャート主戦のグループでも、グランジの波は避けることができなかったのではないかと勝手に思っている。

というわけで、リサ・リサ&カルト・ジャム。
日本で入手可能かわかりませんけど、聴くなら最大のヒットアルバム「Spanish Fly」でしょうね。
他におすすめの曲や彼らの情報について教えていただけたらと思います。

Spanish-fly

リサ・リサ&カルト・ジャム
Spanish Fly

Lisa-lisa-and-cult-jam
Lisa Lisa & Cult Jam with Full Force
Lisa-larson
リサ・ラーソンのABCブック

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聴いてない 第317回 ソニック・ユース

暗黒の90年代、自分にとっての音楽情報ソースは主にMTVと「NOW」系オムニバスCDだった。(ダサい)
80年代に頼りにしていたFM番組(サンスイ・ベストリクエストなど)や音楽雑誌(ミュージックライフ・FMステーションなど)から離れ、仕入れる新曲も極端に減少した時代である。
なのでMTVやNOWにあまり登場しなかったインディーズ系バンドなどは、その音源や実態に一切触れることなく過ごしてきた。
ソニック・ユースもそんな暗黒バンドのひとつ。

ソニック・ユース、1曲も聴いておらず、知ってるのは名前だけ。
メンバーの名前も顔もわからないし、そもそも何人組なのかも知らない。
聴いてない度は破竹の1。
ただなぜかアルバムジャケットのいくつかには見覚えがある。
バンド名しか知らないので、今から学習する基礎知識は全て初耳で伸びしろしかないが、取り急ぎソニック・ユースについて調査開始。

ソニック・ユースは1981年に結成されたニューヨーク出身のバンド。
ジャンルとしてはノイズパンク・オルタナ・グランジといった形容をされることが多いらしい。
70年代末にサーストン・ムーア(G・Vo)とキム・ゴードン(B・G・Vo)、アン・デマリニス(K)がニューヨークで結成。
いくつかの名前を経て81年半ばにソニック・ユースに落ち着いた。
その後リー・ラナルド(G・Vo)を誘い、リチャード・エドソン(D)が加入した。(アンはすぐ脱退)

ソニック・ユースはインディーズレーベルのニュートラル・レコードと契約。
81年12月、バンドは5曲をレコーディングし、EP「Sonic Youth」としてリリースされた。
この頃は後の作品とは対照的に、比較的伝統的なポストパンクのスタイルを特徴としていた。
その後リチャード・エドソンは俳優業を志すために脱退。
リチャードは後に俳優として「ストレンジャー・ザン・パラダイス」「プラトーン」などに出演したそうだ。

後任ドラマーとしてボブ・バートが加入したが、82年11月に他のバンドのサポートとしてツアーに同行中、サーストン・ムーアがボブのドラム演奏を批判し続け、結局解雇される。
その後ジム・スクラヴノスがボブの代わりを務め、83年にバンド初のスタジオアルバム「Confusion Is Sex」を発表。
EPよりもさらに音量が大きく不協和音の多いサウンドが特徴的だった。
ソニック・ユースは83年の夏にヨーロッパツアーを組んだが、ジム・スクラヴノスはツアー中に脱退。
仕方なく?バンドはボブ・バートに再加入を要請し、ボブは「ツアー終了後に再びオレを解雇しないように」という条件で同意した。

ソニック・ユースはヨーロッパでは好評だったが、ニューヨークのマスコミは地元のノイズロックシーンをほとんど無視していた。
ニューヨークの新聞社ヴィレッジ・ヴォイスは、ソニック・ユースとビッグ・ブラック、プッシー・ガロアなどのバンドをまとめて「ブタ野郎」というレッテルを貼り、ソニック・ユースのライブを酷評した。
そんな言い方ある?と親戚でもない自分でもそう思うけど、やっぱりアタマに来たキム・ゴードンは新聞社宛てに「地元の音楽シーンを支援していない」と抗議の手紙も送ったが、新聞社は「支援する義務はない」と返答。
サーストン・ムーアも報復として「I Killed Christgau with My Big Fucking Dick」という曲を発表。(Christgauは新聞社の編集者の名前)
数年後には新聞社と和解したそうだけど、80年代初めのニューヨークにはまだソニック・ユースが理解される土壌がなかったらしい。

2度のヨーロッパツアーを終えたソニック・ユースは、ニューヨークでもようやく人気が出始め、地元でのライブを定期的に組めるようになった。
84年にはサーストン・ムーアとキム・ゴードンが結婚。
バンドはアルバム「Bad Moon Rising」をレコーディングした。
強迫観念、狂気、チャールズ・マンソン、ヘヴィメタル、悪魔崇拝など、当時のアメリカのダークな状態をテーマにしており、タイトルはクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの1969年の楽曲「Bad Moon Rising」にちなんで付けられた。
サーストンとリー・ラナルドがステージ上でチューニングの休憩中に時間をつぶすために考え出したつなぎの曲が中心で、曲間にはほとんど隙間がないという妙な構成。
ニューヨークのマスコミはこのアルバムをほとんど無視したが、イギリスでは批評家の称賛を受け、5,000枚を売り上げた。
もっともまだこの時点ではインディーズの領域を出ておらず、アングラな尖ったバンドのひとつに過ぎなかった。

「Bad Moon Rising」リリース後、ボブ・バートは「1年中同じ曲を毎回演奏するのに飽きた」という、ミュージシャンってそもそもそういうもんでしょ的理由で脱退。
ソニック・ユースはドラマーを探し、ライブ演奏を見て演奏に感銘を受けたスティーブ・シェリーを発掘。
オーディションなしでスティーブを雇うことにした。

86年初頭にSSTレーベルと契約し、アルバム「EVOL」を発表する。
大手の音楽メディアもようやくソニック・ユースに注目し始め、「ジミ・ヘンドリックス以来の独創的なギターベースの音楽」などと評され、ニール・ヤングも「EVOL」を名作と評価している。
・・・ニール・ヤングって時々こうしたオルタナやグランジに理解あるレジェンドとして登場するけど、そういう人なの?

この頃ソニック・ユースは当時のメジャーな音楽にもアプローチしている。
バンドはチコーネ・ユースという名でマイク・ワットとコラボレーションした。
チコーネとはあのマドンナの本名(姓)である。
ソニック・ユースがマドンナのファンだったのかノリだったのかは不明だが、チコーネ・ユース名義でマドンナの「Into the Groove 」や「Burning Up」、またロバート・パーマーの「Addicted to Love 」のカバーもしている。

しかしその後ソニック・ユースはレーベルについてさまようことになる。
87年のアルバム「Sister」は6万枚を売り上げ、音楽評論家からは好評だったものの、バンドは金の支払いや管理業務についてSSTに不満を抱くようになった。
そこで次のアルバムをエニグマ・レコードからリリースすることを決め、SSTと決裂。
88年に2枚組LP「Daydream Nation」をエニグマから発表した。

「Daydream Nation」は好評を博し、シングル「Teen Age Riot」は、カレッジロックのラジオ局で何度もオンエアされた最初の曲となり、ビルボードのモダンロックトラックチャートでも20位に達した。
ローリングストーン誌を含む多くのメジャーな音楽雑誌も、「Daydream Nation」を称賛。
だがここでもレーベルによる流通の問題が発生。
エニグマ・レコードはマーケティングやプロモーションについてやはり力が不足していたようで、「Daydream Nation」は店頭で見つけるのが難しいことが多発した。
バンドのエニグマに対する不満は他にもあり、チコーネ・ユース名義でリリースされた実験的アルバム「The Whitey Album」の扱いであった。
エニグマは「The Whitey Album」と「Daydream Nation」を同時にリリースしたいというバンドの提案を拒否しただけでなく、「The Whitey Album」のジャケットにマドンナの顔の拡大写真を使うこと(マドンナ側が許可していたにもかかわらず)も却下したそうだ。
こういうエピソードからすると、ソニック・ユースはホントにマドンナのファンで楽曲も好きだったんだろうなと思う。

インディーズレーベルに限界を感じたサーストン・ムーアはエニグマとも決裂し、ついにメジャーレーベルとの契約を模索し始めることになる。
90年、ソニック・ユースはゲフィンと契約し、アルバム「Goo」をリリースした。
(厳密にはゲフィンの子会社レーベルであるDGCレコードからリリースされており、バンドは多少不満だったらしい)
パブリック・エネミーのチャック・Dがゲスト出演したシングル「Kool Thing」が収録され、音楽雑誌でも「以前の作品よりもはるかに聴きやすい」と高評価を得る。
90年12月までに20万枚以上を売り上げ、最終的にはビルボード200で96位まで上昇した。
96位がそんなにすごい評価なの?とは思うが、当時のバンド史上最高位ではあり、後に90年代初頭のオルタナティブ・ミュージックの商業的躍進に貢献したアルバムとされることになる。
ジャケットはカリフォルニアの芸術家レイモンド・ペティボーンによるイラスト。
描かれているのはイギリスで60年代に起こった連続猟奇殺人事件の共犯者の妹モリーン・ヒンドレーと夫のデヴィッド・スミス。
お笑い芸人永野がパロディTシャツを売っているが、聴いてない自分でも「あれ確かソニック・ユースのジャケットだな」とわかるほど有名なアートだ。

なお翌91年には同じくDGCレーベルからニルヴァーナの「Nevermind」がリリースされ、オルタナティブ・ロックやグランジが全米を席巻していく。
実績で言えばソニック・ユースのほうが少しだけ先に有名になっており、ソニック・ユースは91年にブレイク前夜のニルヴァーナとツアーしたこともあるそうだ。
後輩芸人とされていたニルヴァーナが鬼のような売れ方であっという間にソニック・ユースを追い越していった・・・ということだろうか?

92年、ソニック・ユースは再びDGCレーベルからアルバム「Dirty」をリリース。
94年には「Dirty」の続編にあたる「Experimental Jet Set, Trash and No Star」という長い名のアルバムを発表。
「Dirty」は大音量で濃密なノイズの爆発的なサウンドが特徴だが、続編はより暖かくリラックスした「静かなノイズ」となっているそうだ。
CDの最後の曲「Sweet Shine」が終わってから1分後に、「ボーナスノイズ」として1分半ほど日本人のガソリンスタンド店員の声が収録されているとのこと。
アメリカではビルボード200で34位となり、「Goo」を上回るセールスを記録した。
なお同じく94年にはカーペンターズのトリビュートアルバム「If I Were a Carpenter」で「Superstar」をカバーしている。

95年にはパンクロックから長いジャムベースのアレンジメントへと変化したサウンドのアルバム「Washing Machine」をリリース。
ここからソニック・ユースの活動や作品はさらに実験的要素を帯びていく。
97年から「SYR(Sonic Youth Recordings)」というタイトルでシリーズ化された即興アルバムをリリースし、曲名とライナーノーツはエスペラント語を含む様々な言語で表記された。
SYRシリーズは2011年までに9枚リリースされ、98年の「SYR3:Invito al cielo」には、後に正式なメンバーとなるジム・オルークが参加している。

一方で正規?の活動も並行して継続。
2000年にアルバム「NYC Ghosts & Flowers」をリリースし、パール・ジャムの2000年ツアーの東海岸公演で前座を務めた。
2002年にはジム・オルーク(G・B・K)が正式メンバーとして加入し、アルバム「Murray Street」を発表。
この時期にニューヨークのパンクロックの歴史を扱ったドキュメンタリー映画「Kill Your Idols」の制作にも参加した。(映画は2004年公開)

2004年に通常スタジオ盤「Sonic Nurse」を発表。
ジム・オルークは2006年に日本語と映画の勉強に専念するため脱退し、ツアーのためにベーシストのマーク・アイボールドが代わりに参加。
マークは後に正式なメンバーになった。

2006年にリリースされた「Rather Ripped」は、ジム・オルークの脱退の影響もあり初期のサウンドへの回帰として注目された。
同年12月にはコンピレーションアルバム「The Destroyed Room: B-Sides and Rarities」をリリース。
このアルバムには、以前はレコードでしか入手できなかったトラック、限定リリースのコンピレーションからのトラック、海外シングルのB面、未発表曲などが収録されている。
だがこれがバンドの最後のゲフィンからのリリースとなった。

ソニックユースは過去のアルバムのプロモーション方法に不満を抱き、2008年にゲフィンとの契約を解消する。
その後独立系レーベルのマタドール・レコードと契約し、2009年にアルバム「The Eternal」をリリースした。
これがソニック・ユースのラストアルバムとなる。

2011年10月、キム・ゴードンとサーストン・ムーアは27年間の結婚生活に終止符を打ったと発表。
ソニック・ユースの活動も停滞し、11月14日のブラジルのサンパウロ州で開催されたSWUミュージック&アーツフェスティバルで最後のコンサートを行った。
リー・ラナルドはインタビューで「ソニック・ユースは解散する」と述べ、サーストン・ムーアも解散を表明。
結局キムとサーストンの夫婦仲がバンドの生命線だったことになる。
昨年サーストンのバンド回想録も出版されたが、今のところ再結成はなさそうだ。

そもそも全然知らないバンドなので、知っていた話も全くなし。
90年代になってからのバンドだと思っていたが、81年にはすでに結成されてたことも知らなかった。
オルタナ・パンク・ノイズといったジャンルのようなので、聴けそうな気はほとんどしない。
ただポップスや産業ロック全般を否定してきたわけでもないようで、マドンナやカーペンターズをカバーしていた話にはやや安心。
インディーズからメジャーまでレーベルを変えてきたのも、自分たちのやりたい音楽追求の表れであり、実は頑固で実直な集団なのではないかと思う。

サーストン・ムーアは日本が好きで、日本のアングラな音楽をまめにチェックし、ボアダムスや少年ナイフのメンバーとも交流がある。
来日した際には各地の中古レコード店で大量のレコードやCDを買って帰るそうだ。
偏屈だけど実はいいやつ、という感じだろうか?

というわけで、ソニック・ユース。
どのアルバムも大衆受けを狙っていない楽曲やサウンドだそうなので、80年代産業ロックにまみれた自分はニルヴァーナ同様に玉砕する可能性が非常に高いのですが、そんな高齢初心者でも聴きやすそうなアルバムがあったら教えてください。

Goo

ソニック・ユース GOO

Daydream-nation
ソニック・ユース Daydream Nation
Goo_tshurt

[オソマロ] ソニックユース

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