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聴いてない 第316回 ローラ・ブラニガン

女性シンガーはいずれも壊滅的に聴いてない自分ですが、80年代に活躍したローラ・ブラニガンも例外ではありません。
聴いていたのは「サンスイ・ベストリクエスト」でオンエアされたのを録音した大ヒット曲「Self Control」だけ。
あと録音はしなかったが「Gloria」はかすかに聴き覚えがある。
聴いてない度は実質2。
今回調べてみて初めて知ったが、もう20年も前に亡くなっていた。

ローラ・ブラニガンは1952年7月ニューヨーク州で生まれた。
祖母はオペラ歌手で、父親は金融ブローカー、母はラジオ局専属の歌手。
ローラは5人兄弟の4番目で、弟ウィリアムも後にミュージシャンになり、ローラの初期のバック・バンドでギターを演奏したこともあったそうだ。

18歳でニューヨークの演劇芸術アカデミーに入学し、ウェイトレスとして働きながら音楽を勉強した。
72年頃にフォーク・ロック・バンドを結成。
翌年アルバムとシングル曲を発表するが、全く売れずバンドは解散し、メンバーの一人は自殺してしまうという不幸な音楽生活のスタートだった。
その後はレナード・コーエンのツアーでバックコーラス隊を務めるなど、様々な仕事を続けた。

経歴で変わっていると思ったのは、売れる前にもう結婚したことだ。
78年春頃にマンハッタンのパーティーで弁護士のラリー・ロス・クルテックと出会い、78年末に結婚。
79年にアトランティック・レコードと契約したが、会社側はローラをどのジャンルでデビューさせるか迷っていたらしい。
なので本格的にデビューするまで3年もかかっている。

82年にようやくアルバム「Branigan」でデビュー。
するとシングル「Gloria」が全米2位・全英6位の大ヒットとなる。
もともとこの曲はイタリアの歌手ウンベルト・トッツィが79年に発表しており、ヨーロッパ各国でカバーされたラブソングだそうだ。
「Gloria」は全米で200万枚以上を売り上げ、アルバムは最終的にゴールド認定された。

83年春、セカンドアルバム「Branigan2」をリリース。
シングル「Solitaire(哀しみのソリティア)」は全米7位を記録した。
この曲もフランスのマルティーヌ・クレマンソーという歌手の作品で、ローラは歌詞を英語に変えて歌っている。
またマイケル・ボルトンが書いた「How Am I Supposed to Live Without You」も全米12位に達し、ビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートでは3週間にわたり1位を維持するヒットとなった。
相次ぐヒット曲で人気者となったローラは、テレビ番組や映画にも出演し、CMの仕事も増えていく。

続く84年に発表した3枚目のアルバムのタイトル曲「Self Control」がキャリア最大のヒット曲となる。
全米では最高4位だったが、カナダやフランスや西ドイツでは1位を獲得。
特に西ドイツでは6週間1位を記録した。
ちなみにこの曲もカバーであり、オリジナルは同じく84年にイタリアの歌手ラフが作って歌い、イタリアとスイスで1位を記録している。

だが4枚目のアルバム「Hold Me」から少しずつ状況が変わり始める。
シングル「Spanish Eddie」やマイケル・ボルトン作「I Found Someone」はアダルト・コンテンポラリー・チャートでは高いスコアを記録したものの、どちらの曲もミュージックビデオがあまり支持されず、主流チャートのホット100では50位以内に入らなかった。
アルバムも全米71位と残念な結果に終わる。

この情報でなんとなくわかってきたが、この頃までのローラ・ブラニガンはあまりプロモ・ビデオに力を入れていなかったようだ。
「Spanish Eddie」のビデオを見たが、時代のせいもあるが「フラッシュダンス」「フィジカル」のパロディのような痛い感じがする。
「Self Control」もいまいち安っぽいミステリー風の造りだし、「Gloria」は演出も一切なく地方の営業みたいな貧相なステージ映像だ。
85年の時点ですでに大ヒット曲を持つスターだったのに、新曲の映像ががっかりするほどの出来だと、やはり影響はあったように思う。
ビデオのせいでヒットしなかったと断言もできないが、80年代後半はマイケルの「スリラー」登場以降であり、すでに多くのアーティストが映像を伴ってヒット曲を量産していたはずである。
もう少しビデオにお金をかけていたら、その後の展開は違っていたかも・・と感じた。

危機感を覚えたローラはマネージメントやプロデューサーなどスタッフを替え、5枚目のアルバム「Touch」を87年7月にリリースする。
ダンスナンバー「Shattered Glass」やジェニファー・ラッシュの名曲「The Power of Love」を収録したが、スタッフ刷新の効果は思ったほどなくアルバムは全米87位と前作よりもさらに順位を落としてしまった。

90年に6枚目のアルバム「Laura Branigan」を発表。
アダルト・コンテンポラリー・チャートで22位を記録した「Never in a Million Years」や、ブライアン・アダムスとジム・バランス共作の「The Best Was Yet to Come」などを収録したが、売り上げは伸びず全米チャートでは100位にも届かなかった。
それでもローラ・ブラニガンは全米各地でツアーを行い、テレビ番組やミュージカルにも出演するスターであり続けた。

7枚目のスタジオアルバム「Over My Heart」には、マイケル・ボルトン作でシェールの曲「Hard Enough Getting Over You」、カントリー歌手パティ・ラブレスの「How Can I Help You Say Goodbye 」、ロクセットの「The Sweet Hello, The Sad Goodbye 」などのカバーが収録されている。
残念ながらシングルもアルバムもチャートに登場することもなかったが、ローラは他人の曲も喜んでカバーしていたようだ。

しかしこの後ローラは度重なる不幸に見舞われる。
「Over My Heart」発表の翌年、夫ラリーが結腸癌と診断された。
ローラは夫の介護に専念するために音楽活動を休止する。
夫婦が選択した治療法は通常の西洋医学療法ではなく、ハーブを使った一種の民間療法だったらしい。
その間にローラのベスト盤「The Best of Branigan」が95年に発売され、宣伝のためテレビ番組で歌ったりしたが、ラリーが療養中だったため、本格的な復帰はできなかった。
ラリーは96年6月に亡くなり、その後ローラは数年間活動を中止した。

復帰を目指していたローラにまたアクシデントが起こる。
2001年初め、ニューヨーク州の湖畔にある自宅の外に花を吊るしていた際、ローラは誤ってはしごから転落し両大腿骨を骨折してしまう。
このケガのため、ステージへの復帰は半年ほど延期された。

ようやく復帰できたのは2002年のミュージカル「Love, Janis」でのジャニス・ジョプリン役だった。
ただローラは2度出演した後、予定より早くショーを降板した。
プロデューサーとの意見の相違や、自身の声がジャニス・ジョプリンとは全然違うことが理由とされた。
同じ年には、長らく絶版になっていたヒット曲「I Found Someone」を含む公式ヒット・コレクション「The Essentials」がリリースされた。

トラブルはあったものの本格的な復帰を果たし、本人も事務所もファンも期待していた中、生涯最大で最後の悲劇が発生。
2004年8月26日、ニューヨーク州の自宅(別荘と書いているサイトもあり)で、睡眠中の脳動脈瘤破裂により52歳で死亡する。
亡くなる数週間前から頭痛に悩まされていたが、医師の診察は受けなかったらしい。
なお死亡当時47歳だったと誤って広く報道され、実際に日本のメディアが残した死亡記事にも47歳と表記されているが、年齢詐称ではなくAP通信がマネジメント会社と連絡を取った時のミスの結果とのこと。
遺体はは火葬され、遺灰はロングアイランド湾に散骨されたそうだ。
彼女の功績を称えニューヨーク州アーモンクにあるバイラム・ヒルズ高校では、舞台芸術における優秀な成績を収めた学生にローラ・ブラニガン記念奨学金が毎年授与されている。

以上がローラ・ブラニガンの生涯の事績である。
知ってた話はもちろんなく、20年も前に死亡していたことも知らなかった。

ローラ・ブラニガンを語る多くのサイトに書いてあったが、やはり80年代においてマドンナシンディ・ローパーといったクセつよ女芸人と対等に渡り合いスターの座を維持する・・というのは非常に難しいことだった、と思われる。
もちろんあの二人だけの80年代ではなかったのだが、ローラの才能や歌唱力や優れた楽曲を以てしても苦戦を強いられたのは間違いなさそうである。
当時の日本の若者の間でも、マドンナやシンディ・ローパーに比べてローラ・ブラニガンの知名度や人気は低かっただろうし、友人との会話にローラ・ブラニガンが登場した記憶もない。

「Self Control」はわかりやすいメロディだが曲調は明るくなく、まだ「Gloria」や「The Power of Love」のほうがいいと思う。
調べてみて確かに思ったが、どの曲もやはり映像を全然覚えていない。
繰り返しになるが、事務所やレコード会社がもっと若者の記憶に刻まれるようなビデオ制作に力を入れていたら、違った展開になっていただろう。(偉そう)

というわけで、ローラ・ブラニガン。
正直聴くとしたらベスト盤でいいかなと思っていますが、もしみなさんの推奨盤があれば教えていただけたらと思います。

Self-control
ローラ・ブラニガン Self Control
Laura-branigan-best

ローラ・ブラニガン The Best of Laura Branigan   

Numero177

Numero TOKYO 2024年6月号特別版

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聴いてない 第315回 ヴィクセン

女性だけのバンドと言えばゴーゴーズバングルスなどが思いつくが、その中でもHR/HMに傾倒してたバンドがヴィクセンである。
みなさんはご存じでしょうか?

ヴィクセン、聴いたことがあるのは89年の「Cryin'」だけ。
リアルタイムなエアチェックではなく、2000年くらいに「NOW」系CDをレンタルで聴いたらたまたま収録されていたという状況。
アルバムは聴いてないので、聴いてない度は2。

デビュー当時雑誌でヴィクセンの写真付き記事を見た記憶がかすかにあり、「女豹」「女性版ボン・ジョビ」などと表現されていた気がする。
小岩のCDレンタル店「友&愛」にもアルバムが並んでいたこともぼんやり覚えている。
美貌のガールズバンドだけど、メタルな人たちという情報だけ知って遠ざけたんだと思う。
ちなみにヴィクセンという同名のバンドは他にも存在し、マーティー・フリードマンが82年頃に在籍したメタルバンドもヴィクセンというそうだ。

で、ガールズのメタルバンド、ヴィクセン。
当時の日本での人気や知名度は全くわからない。
そこで生涯初のヴィクセン調査を開始。

ヴィクセンはアメリカのハードロック/ヘビー・メタル・バンド。
ミネソタ州セントポールでジャン・クエネムンドを中心に1980年に結成された。
その後ジェネシスに改名したりメンバー交代があったりしたが、84年に以下のメンバーでコメディ映画「ハードボディーズ」にバンド「ダイパー・ラッシュ」として出演した。
・ジャン・クエネムンド(G)
・ジャネット・ガードナー(Vo)
・ピア・マイオッコ(B)
・ローリー・ヘドランド(D)
・タマラ・イワノフ(G)

なので音楽より映画デビューのほうが先ということになる。
さらに87年にはドキュメンタリー映画「西洋文明の衰退 II: メタル イヤーズ」にも出演。
ドキュメントなので演技はなくインタビュー出演だったが、この映画にはファスター・プッシーキャットやメガデスのライブ映像や、オジー・オズボーンエアロスミスアリス・クーパーキッス、メガデスやW.A.S.P.などメタルな人たちのインタビューが収録されており、サントラ盤も発売された。
豪華なメタルバンドに混じってデビュー前のヴィクセンも出演していたのは驚きである。

88年頃にはドラムがロキシー・ペトルッチ、ベースがシェア・ペダーセンに代わり、4人体制の「クラシック・ラインナップ」が形成された。
この4人でデビューアルバム「Vixen」をリリース。
最初のシングル「Edge of a Broken Heart」はリチャード・マークスとフィー・ウェイビルの共作で、リチャードはプロデュースも担当し、全米26位・全英51位を記録。
続く「Cryin'」は全米22位・全英27位で、最大のヒット曲となった。(アルバムは全米41位)
ヴィクセンは翌89年に世界ツアーを行い、オジー・オズボーンやスコーピオンズ、ボン・ジョビなどのアーティストをサポートしたり、ヘッドライナーを務めたりした。

90年には2枚目のアルバム「Rev It Up」を発表。
直後にツアーを開始し、1年かけて欧米を巡り、ステージでメインを務めたり、キッスやパープルのサポート・アクトで演奏した。
しかしこのツアー中にメンバー間に摩擦が生じ、92年にヴィクセンは解散する。

以降のヴィクセンの歴史は、メタルバンドの鉄則である離合集散の連続だった。
ガールズではあっても、やはりメタルの血の掟からは逃れられなかったようだ。

97年にロキシー・ペトルッチとジャネット・ガードナーが新メンバー2人を加えてヴィクセンを再結成する。
全米ツアー中に1人が脱退し、98年に3人でアルバム「Tangerine」を発表。
直後にロキシーの妹マキシンがベースとして参加するが、バンドは創始者ジャン・クエネムンドから商標権侵害で訴えられた。
結果はバンド側が勝訴したが、一部ジャンの要求も受け入れられ、痛み分けみたいな話になったらしい。
やはりジャンにしてみれば、自分の作ったヴィクセンが自分抜きで再結成されて活動してることが不満だったんだろう。

その後ジャンとメンバーは和解し、99年にはベスト盤「The Best of Vixen: Full Throttle」もリリースされた。
2001年にヴィクセンはジャン・クエネムンド、ジャネット・ガードナー、ロキシー・ペトルッチ、新ベーシストのパット・ホロウェイで再々結成された。
再々結成ヴィクセンはめでたく全米ツアーを開始。
だがツアーの途中で意見の相違というやっぱりでド定番な理由によりジャンと他の3人の間にまた亀裂が生じ、3人は脱退。
結局ジャンだけがヴィクセンに残ることになった。

ジャンは残りのツアーを続けるため、急遽後輩芸人3人を招集。
呼ばれたのはジェナ・サンツ・アジェロ(Vo)、リン・ルイーズ・ローリー(B)、キャスリン・キャット・クラフト(D)。
だが2004年にアメリカのテレビ番組「Bands Reunited」でデビュー当時のメンバーでのライブが放送された。
番組を見たファンの間でオリジナルメンバーでの再結成も期待されたが、やはりテレビ用のイベントだったようで、結局実現はしなかった。
新生ヴィクセンは2006年にスウェーデンでのライブを収録した「Extended Versions」と、スタジオ盤「Live & Learn」を発売。
「Live & Learn」ではデビッド・ボウイの「Suffragette City」をカバーしている。

しかし結果的にこれがジャン在籍の最後のアルバムとなる。
新生ヴィクセンは2011年頃には次のアルバムを制作中であると表明したが、ジャンは密かにジャネット・ガードナー、シェア・ロス、ジーナ・スタイル、ロキシー・ペトルッチによるクラシックなヴィクセンを再結成する計画を立てていた。
だが再結成を発表する直前にジャンが癌と診断され、発表は無期限延期となる。
ジャンは残念ながら回復することなく2013年10月に59歳で亡くなり、クラシック・ヴィクセン再結成は永久に不可能となった。

残されたクラシック組のジャネット、シェア、ロキシーは、ジャンの遺志を尊重しヴィクセンの活動継続を決意する。
ジャンの構想どおりジーナ・スタイルがバンドに復帰し、翌2014年からジャン追悼ライブをアメリカやカナダで行った。
ツアー後ロキシー・ペトルッチは、ヴィクセンがジャンに捧げる曲を収録した新しいアルバムを制作中であると語った。

だがジャンが亡くなった後も、ヴィクセンはメンバーチェンジが止まらなかった。
2017年3月にジーナ・スタイルが脱退し、ブリット・ライトニングが加入。
2019年1月にはボーカルのジャネット・ガードナーが、家族との時間やソロキャリアを優先するためヴィクセンを脱退したとFacebookで発信。
バンドはジャネット脱退後も活動を継続し新しいスタジオアルバムを制作中であると発表。
後任にロレイン・ルイスが加入する。
2022年2月、今度はシェア・ロスが活動休止宣言し、後任にリッチー・コッツェンの妻としても知られるブラジル人のジュリア・ラージが加入する。

ヴィクセンは現在も活動中で、昨年10月にはシングル「Red」も発表している。

以上がヴィクセンの栄光と混乱の歴史である。
知ってた話はやはり今回もゼロ。
在籍した人の総数が20人以上もいるという変動相場制バンドだった。

初期の映像や写真を見ると、メンバー全員がボリュームのある長髪をしていて、ビジュアル面でもメタル系を強調していることがわかる。
ただし歌唱力や演奏は比較的実直で、絶叫や重低音を売りにしていた感じではない。
ステージで豚の生首を客席に投げたりギターに火を付けて振り回したりブーツに凶器を仕込んで反則したり、といった狼藉をはたらいたりはしていないようだ。
少なくとも「Cryin'」はふつうのロックナンバーで、ハートのアルバムに入っていても全く違和感はない曲である。
もしデビューが5年早ければ、きっと柏村武昭も番組で紹介していただろうと思う。

というわけで、ヴィクセン。
スタジオ盤は4枚なので全盤学習も難しくはなさそうですが、聴くとしたら正直デビューアルバムだけでもいいかなとも思っています。
みなさまの鑑賞履歴はいかがでしたでしょうか?

Vixen

ヴィクセン Vixen

Tangerine
ヴィクセン Tangerine
Vixen-147236

ビクセン(Vixen) 双眼鏡 アトレックIIHR8×32WP 14723-6 ブラック

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