聴いてない 第299回 ジョー・コッカー
世の中には声を聴いてすぐ誰だかわかる歌手が存在する。
ロッド・スチュワートやブライアン・アダムスなど、ハスキーな声の人は特にそうだろう。
そのハスキーボイスの持ち主の中でも「暑苦しい」と形容される、ジョー・コッカー。
ジョー・コッカー、全然聴いてません。
聴いたのはジェニファー・ウォーンズとのデュエット「Up Where We Belong(愛と青春の旅だち)」だけ。
82年の曲だが録音できたのは10年くらいあとで、NOW系オムニバスCDからだったと思う。
ジョー・コッカーの名前はもう少し前からなんとなく知ってはいたが、実績や経歴は今も全然知らない。
すでに故人であることもさっき初めて知った。
「すぐわかる声」などと言ってるわりに実はなんにも知らないのである。(毎度のこと)
暑苦しく渋い声のジョー・コッカーについて渋々調査開始。
ジョー・コッカーは1944年イギリスに生まれた。
・・・勝手にアメリカの人かと思ってましたけど、イギリス人だったんスね。
本名はジョン・ロバート・コッカー。
レイ・チャールズとロニー・ドネガンに影響を受けて音楽活動を始めた。
16歳で友人3人とともにキャバリアーズという名のバンドを結成。
その後学校を辞めてガス局で働きながら音楽活動を続けた。
1961年にヴァンス・アーノルドという芸名で、シェフィールド周辺のパブでチャック・ベリーやレイ・チャールズなどの歌を演奏していた。
63年にはシェフィールド・シティホールでローリング・ストーンズをサポートしたこともあった。
64年ソロとしてデッカとレコーディング契約を結び、最初のシングルとしてビートルズの「I'll Cry Instead(ぼくが泣く)」でデビュー。
このシングルでギターを弾いているのはジミー・ペイジである。
だがペイジの協力もむなしく全く売れなかった。
がっかりしたジョー・コッカーはいったん音楽活動を休止する。
だが音楽の夢をあきらめられなかったジョーは同郷の同い年クリス・ステントンと組み、グリース・バンドを結成した。
バンドは主にシェフィールド周辺のパブで演奏していたが、やがてプロコル・ハルムやムーディー・ブルースのプロデューサーであるデニー・コーデルの目に留まる。
デニー・コーデルはジョーにロンドンのマーキー・クラブで演奏するよう指示し、ジョーはクリスとともにロンドンに移り住む。
68年にジョー・コッカーは再びジミー・ペイジの演奏をバックにビートルズの曲「With a Little Help from My Friends」をカバーする。
すると全英チャートのトップ10に13週間留まり、最終的に1位を獲得する大ヒットとなった。
ジョー・コッカー&グリース・バンドは69年春に初のアメリカ・ツアーに乗り出した。
ジョーのアルバム「With a Little Help from My Friends」は全米チャートで35位を記録し、最終的にはゴールドになった。
この全米ツアー中、ジョーとバンドはニューポート・ロック・フェスティバルやデンバー・ポップ・フェスティバルなど、いくつかの大きなフェスティバルで演奏した。
するとプロデューサーのデニー・コーデルが、ニューヨーク郊外のウッドストックで大規模なコンサートが予定されていることを聞き、主催者を説得してジョー・コッカーとグリース・バンドを出演させるよう依頼。
めでたくジョーとバンドはウッドストック・フェスティバルに出演し、「Feelin' Alright?」「Something's Comin' On」「Let's Go Get Stoned」「I Shall Be Released」「With a Little Help from My Friends」など数曲を披露した。
ジョー・コッカーは後に、「この体験は日食のようだった...とても特別な日だった」と語っている。
ウッドストックの直後、ジョー・コッカーは2枚目のアルバム「Joe Cocker!」をリリースした。
ツアーの合間に録音されたこのアルバムは全米チャートで11位を記録し、レオン・ラッセルの曲「Delta Lady」は全英10位とヒットした。
69年にはワイト島フェスティバルで歌ったり、「エド・サリバン・ショー」やトム・ジョーンズのバラエティ番組にも出演するなど、多忙な日々を送る。
さすがに疲弊したこの年の暮れ、ジョー・コッカーはもうアメリカ・ツアーに出ることを望まず、グリース・バンドは解散してしまう。
しかしアメリカでのツアーは契約上出演する義務があったため、ジョーは新しいバンドを結成しなければならなかった。
そこで集まったのがレオン・ラッセル、ジム・ゴードン、ジム・ケルトナー、チャック・ブラックウェル、リタ・クーリッジやクローディア・レニアなど、20人以上の大所帯だった。
この豪華なバンドは「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」と名付けられ、ツアーでは48都市を回り、ライブアルバムを録音し、そのパフォーマンスは音楽誌や評論家から非常に高い評価を受けた。
だがツアーは商業的には成功に至らず、ジョー・コッカーは多額の借金を負うはめになる。
「やっぱ行くんじゃなかった・・・」とがっかりしたジョーは70年5月にやっとツアーが終了すると鬱状態になり、酒におぼれてしまうようになった。
それでも音楽活動はなんとか続け、アメリカでは「Feelin' Alright」「Cry Me a River」がヒットした。
またライブアルバム「Mad Dogs & Englishmen」に収録された「The Letter」も、ジョーにとって初の全米トップ10ヒットとなった。
ジョー・コッカーはデビュー当時からカバーが好きなようで、これらのヒット曲はいずれも他のミュージシャンの曲のカバーである。
酒の飲み過ぎで心身共に悪化したジョー・コッカーは2年ほど活動を休止。
72年初めにようやくクリス・ステイントンらと一緒に欧米でのツアーに出る。
このツアーでの演奏も収録したアルバム「Joe Cocker」は全米30位・全英29位を記録した。
だがこの年の秋、オーストラリアのツアー中にマリファナ所持やホテルでの暴行で逮捕されてしまう。
オーストラリア連邦警察から即刻国外退去を求められたが、人気者ジョー・コッカーの逮捕はオーストラリア国内で大きな反響や抗議活動を呼び、マリファナ合法化についての議論まで引き起こした。
この騒動でジョーについたあだ名が「English Mad Dog」だった・・・
ファンは狂犬ディック・マードック・・じゃなかったジョー・コッカーを支持してくれたが、周囲の友人たちはやはり離れていったため、ジョーは再び鬱状態に陥り、酒やヘロインに溺れることになる。
そんなジョーの素行を見かねたバンドメンバーのジム・プライスは、自身が作った「I Can Stand a Little Rain」を歌って録音するよう説得。
いまいち乗り気でなかったジョーもジムと1曲共作してようやくレコーディング開始。
ヘンリー・マックロウやアラン・トゥーサンからも曲提供を受け、後にTOTOを結成するデビッド・ペイチやジェフ・ポーカロも参加し、74年にアルバム「I Can Stand a Little Rain」をリリースする。
アルバムは全米チャートで11位まで上昇し評価は高かったものの、この頃のジョーはライブでのパフォーマンスは非常に悪く、飲み過ぎでまともに歌えないステージもあったようだ。
その後もコンスタントにアルバムを発表するが、成績はかなり下降してしまう。
酒や薬物でダメになるミュージシャンてのは山ほどいるけど、やはり才能あるアーチストの場合は周囲が放っておけないらしく、ジョー・コッカーも断酒と中毒を繰り返しつつも友人たちの協力を得て活動を続けたようだ。
そして82年、ジョー・コッカーは映画「An Officer and a Gentleman(愛と青春の旅だち)」のテーマ曲「Up Where We Belong」で全米1位を獲得する。
このジェニファー・ウォーンズとのデュエットはアカデミー賞のオリジナル曲賞も受賞し、二人は授賞式でこの曲を披露している。
80年代は5枚のアルバムをリリースしているが、自作の曲はほとんどなく、シンガーとして活動するスタイルをとっている。
83年には9枚目のスタジオアルバム「Civilized Man」を発表。
このアルバムにはデビッド・ペイチやスティーブ・ルカサーも参加している。
87年のアルバム「Unchain My Heart」ではジョン・レノンの「Isolation」をカバー。
89年「One Night of Sin」はオーストラリアやスイスのチャートで1位を記録。
ブライアン・アダムス、ジム・ヴァランス、ダイアン・ウォレンが書いたシングル「When The Night Comes」は全米11位のヒットとなった。
この曲でブライアンはギターも弾いている。
90年代もペースは変わらず、おおむね1年おきに1枚アルバムを制作。
アメリカではあまり売れなかったが、ヨーロッパではいずれもチャート上位に食い込んでいる。
またやはりカバーも多く、ビートルズの「You've Got to Hide Your Love Away」「Something」、エルトン・ジョンの「Don't Let the Sun Go Down on Me」、ボブ・ディラン「Dignity」などを採り上げている。
21世紀に入っても活動ペースは変わらず、自身のアルバムをマメに発表し続け、ビッグなアーチストとの共演も行ってきた。
2000年にはティナ・ターナーのツアーのオープニング・アクトとして、アメリカやヨーロッパの公演に参加。
2002年6月、エリザベス女王の即位50周年記念コンサートで、ジョー・コッカーはフィル・コリンズのドラムとブライアン・メイのギターをバックに「With A Little Help From My Friends」を披露。
2007年には故郷シェフィールドの名誉市民に選ばれ、また長年の音楽への貢献が認められ大英帝国勲章(Order of the British Empire)が与えられた。
2010年のカルロス・サンタナのアルバム「Guitar Heaven」収録の「Little Wing」ではボーカルを担当。
晩年は肺がんを患い、2014年末にコロラドで亡くなった。
タバコは91年頃やめたそうだが、それまでは1日40本のヘビースモーカーだったらしい。
レイ・パーカー・ジュニアがギターで参加した2012年の「Fire it up」が、最後のスタジオ・アルバムとなった。
最後のライブは2013年9月7日にドイツのサンクト・ゴアルスハウゼンにあるローレライ野外劇場で行われた。
以上がジョー・コッカーの波乱に満ちた生涯である。
知ってた話は今回も全然ない。
思っていた以上に多作で、また交友範囲の広いミュージシャンだった。
デビュー曲でペイジがギターを弾いていたのも初めて知った。
ウッドストックで手を震わせながら歌う姿を「アルコール中毒の影響」と解説した記事を昔音楽雑誌で読んだ記憶があるが、今ネットで多くのサイトやBLOGでは「エアギター」と説明している。
ウッドストックでの映像も見たが、確かにアル中の震えというよりは、やはりギターを弾くマネをしてる・・・ように見える。
ただ実際アル中でひどいステージだったことも何度もあったらしいので、どこかで情報が混在したものと思われる。
あと驚いたのは年齢。
1944年生まれなので「Up Where We Belong」の頃はまだ40歳前である。
すいません、あんなにすごいしわがれた声なんで、70くらいのじいさんが歌ってんのかと思ってました・・・
なお「Up Where We Belong」でデュエットしたジェニファー・ウォーンズだが、この人のことも全然知らなかった。
調べたら87年の映画「ダーティ・ダンシング」の主題歌「The Time of My Life」を元ライチャス・ブラザーズのビル・メドレーとデュエットし、全米1位を獲得している。
映画のテーマ曲をデュエットで歌い、2度も全米1位を記録するという珍しい経歴の持ち主である。
というわけで、ジョー・コッカー。
あの声でアルバム全曲聴いていられるか、あまり自信もありませんが・・・
ただカバーが多い人のようなんで、どのアルバムを聴いても知ってる曲がありそうです。
もし聴くとしたら2枚目の「Joe Cocker!」がいいかなとぼんやり考えています。
皆さまおすすめのアルバムはどれか、教えていただけたらと思います。
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コメント
こんばんは。1980年代の産業ロックが大好きなえふまるです。
ジョー・コッカーの個人的なおススメは「シェルター・ミー」「ドント・ドリンク・ザ・ウォーター」を収録している1986年発表の『COCKER』です。メッチャ産業ロックしていてグッド!…その前後のアルバムは正直、全く関心が湧きません。
20年以上前にナゼか『COCKER』のCDを売り飛ばしてしまい、近年は後悔の念に苛まれていました。ベスト盤で「シェルター・ミー」は聴いていましたが物足りない。やはりオリジナルアルバムで聴きたーい!
Am●zonやメ●カリで時折チェックしていましたが、品薄の上に、たまに出品されても再買となると躊躇する価格でしたので(←心が貧しい)ズルズルと年月が過ぎていました。が、SYUNJIさんの記事をきっかけに久々にチェックしたところ、ついさっき“格安”でゲットできました。ラッキー!心から御礼申し上げます。
まっ、Y●uTubeで全曲聴けるんですけどね。でも、やはりCDで聴きたいという古臭い人間です。
投稿: えふまる | 2023.03.23 23:34
えふまるさん、コメントありがとうございます。
自分も80年代産業ロックに相当汚染されたクチです・・
>ジョー・コッカーの個人的なおススメは「シェルター・ミー」「ドント・ドリンク・ザ・ウォーター」を収録している1986年発表の『COCKER』です。メッチャ産業ロックしていてグッド!
そうなんですか?
産業ロックという評価は意外な感じですけど・・
そう言われるとなんか自分にも聴けそうな気がしてきました。(単純)
調べたらおすすめの「Don't Drink The Water」はアルバート・ハモンドの作品ですね。
>まっ、Y●uTubeで全曲聴けるんですけどね。でも、やはりCDで聴きたいという古臭い人間です。
そうなんですよね・・
聴いてない曲を試しに聴いてみる時は自分もYou Tubeを使っています。
最近は新譜発表でもCDでなく配信だったり、CDレンタルや買い取り事業も縮小してるようなので、予想以上に早く無くなるのではないかと思っています・・
投稿: SYUNJI | 2023.03.25 18:25