聴いてない 第297回 シック
世界中が悲しみに包まれたジェフ・ベックの訃報だが、このニュースで三流の自分が思い出したのはナイル・ロジャースだった。
キャリア最大の問題作「Flash」をプロデュースしたのがナイルさんである。
(厳密にはナイルとアーサー・ベイカーとトニー・ハイマスとベック自身による共同プロデュース)
またナイル・ロジャースはハニー・ドリッパーズでもベックと共演している。
で、思い出したわりにナイルの母校たるシックをやはり聴いていないので、ムリヤリ記事にすることにしました。
シックとの出会いは意外に早く、78年の「Le Freak(おしゃれフリーク)」はほぼリアルタイムで聴いた。
あとは同じく78年の「I Want Your Love(愛してほしい)」、80年の「Rebels Are We(反逆者たち)」を聴いている。
いずれも当時の最新流行番組「サンスイ・ベストリクエスト」より録音しており、たぶん柏村武昭はシックのファンだったと思われる。(適当)
アルバムは聴いておらず、聴いてない度は3。
シックの人気や知名度はどんなもんなのか見当もつかないが、「おしゃれフリーク」なんて邦題が付けられて極東の場末貧困中学生でも聴けたくらいなので、当時は相当ラジオで流れていたと思う。
今ネットで検索すると「おしゃれフリーク」というそのまんまの名前のパブや美容院が出てくるので、その昔ディスコでインチキアフロに手足を必死にくねらせていた元ナウいヤングが経営してる店が実は日本全国にある・・ということがわかる名曲である。
ただし我が家では姉の守備範囲にシックは含まれておらず、シックのレコードが我が家のターンテーブルで回ったことは一度もない。
「おしゃれフリーク」のノリは嫌いではなかったが、他の2曲はたまたま録音できたので消さずに聴いてたんです程度。
シックの鑑賞履歴は例によってこんな貧しい有様だが、メンバーの活動はむしろバンド外で知ることが多かった。
ナイル・ロジャースは冒頭に述べたとおり、ベックやデビッド・ボウイやマドンナのプロデュースを手がけている。
80年代はどのアーチストの作品を誰がプロデュースしているかというのも非常に重要な情報だった。
ブライアン・イーノ、テッド・テンプルマン、グリン・ジョンズ、ボブ・クリアマウンテン、スティーブ・リリーホワイト、ロバート・ラング(ジョン・マット・ランジ)など、今でも名前を言える名プロデューサーたちが、アーチストと共に80年代のサウンドを作っていたのだ。
ナイル・ロジャースはミュージシャンだが、プロデューサーとしてもトップクラスであることは極東の貧弱リスナーにも伝わっていた。
またバーナード・エドワーズとトニー・トンプソンも、シックではなく課外活動で名前を知った。
パワー・ステーションである。
パワステのアルバムがヒットした頃、雑誌の記事でバーナードがプロデュースしてトニーがドラムであること、二人はシック出身であることを知った。
知ったまではよかったが、じゃあシックを聴いてみようかとはならず、結局鑑賞しないまま今に至る。
前置き長くなりましたけど、このままでは彼らの本業シックの活動も偉業も全然知らずに人生が終わりそうなので、主な実績について軽薄に調べてみました。
シックはニューヨークで結成された男女混合バンドである。
だが枠組みとしては非常に流動的かつ有機的で、その後の活躍が示すとおり、結成当初から他のミュージシャンとの活動や制作支援も積極的に行うスタイルを取っている。
中心人物はジャズ系ミュージシャンのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズで、二人は70年にニューヨークで出会う。
その後は他のミュージシャンのバックやツアーバンドを務めていたが、76年にシックを結成する。
直後にトニー・トンプソンが加入し、三人組セッションバンドとして活動。
ナイルが目指したのは「黒人版ロキシー・ミュージック」だった。
ナイルはロキシー・ミュージックのコンサートにバックで参加したこともあり、音楽と雰囲気が整合するロキシーのスタイルに感銘を受けたそうだ。
またキッスからも影響を受けたと明かしている。
ナイルとバーナードはバンドとして自立するにはやはりシンガーが必要と考え、テネシー出身の女性歌手ノーマ・ジーン・ライトを加入させる。
ただしシックの一員としてがっちり囲い込むことはせず、ソロ活動もOKというゆるい契約だった。
シックの最初のシングルはノーマがボーカルを務めた「Dance, Dance, Dance (Yowsah, Yowsah, Yowsah)」で、全米6位の大ヒットとなった。
この曲でエンジニアを担当したのは若き日のボブ・クリアマウンテンである。
77年にアルバム「Chic」を発表。
さらにノーマの誘いでもう一人の女性シンガーであるルーシ・マーティンが加入する。
翌78年に発表した「Le Freak(おしゃれフリーク)」が国内で400万枚以上の売り上げとなり、全米1位を獲得。
また当時のアトランティック・レコード史上最大のヒット・シングルとなった。
フランス語を交えたおしゃれなノリのいい歌、というイメージだが、ナイルとバーナードが最初に作った時点では「fuck off!」を連呼する下品な歌詞だったそうだ。
この制作経緯にはグレイス・ジョーンズが間接的に関係している。
二人がグレイス・ジョーンズの公演に招待されて「スタジオ54」というセレブに人気のナイトクラブに行ったところ、受付のスタッフに招待が伝わっておらず、追い返されてしまった。
二人は腹を立てながらナイルの家に戻り、怒りの冷めぬままセッションを開始。
ヤケクソで楽器を鳴らしながら「fuck off(クソったれ!)」を連呼。
ついでに因縁の「スタジオ54」まで歌詞に入れてしまった。
ヤケクソで作ったわりにできた曲は良かったので二人とも気に入ったが、さすがに歌詞に「fuck off」を入れたら売れんやろと思い直し、「freak off」に変更。
最終的には「freak out」として発表した。
このヤケクソフリークが全米1位になるんだから、アメリカの芸能界も何が起こるかわからない。
もしグレイス・ジョーンズが「スタジオ54」のスタッフにナイルとバーナードを招待してることをきちんと伝えていたら、シックの全米1位はなかったかもしれない・・・という話。
なお「Le Freak」は、2018年に文化的・歴史的・芸術的に非常に重要であるとされて議会図書館による全米レコード登録の保存対象として選定されている。
翌79年にはアルバム「Risque(危険な関係)」をリリース。
シングル「Good Times」も全米1位を記録したが、この曲はラップやヒップホップの源流とも言われており、クイーンの「Another One Bites the Dust」やブロンディの「Rapture」などに大きく影響を与えている。
80年代に入ってもシックは毎年コンスタントにアルバムを発表してきた。
しかし売り上げは70年代の栄光には全く及ばず、80年の「Real People」は全米30位、81年以降のアルバムはいずれも100位にも入っていない。
こうしてバンドとしての実績は下降していったが、逆にメンバーの評価はどんどん上昇していった。
冒頭に述べたとおり、他のミュージシャンのプロデュースやゲスト参加やユニット結成などの課外活動によって、である。
まずナイルとバーナードのプロデューサーとしての最初の成功は、79年のシスター・スレッジのアルバム「We Are Family(華麗な妖精たち)」である。
さらに二人はダイアナ・ロスの「Diana」もヒットさせ、時代を象徴するリズムとサウンドを作り上げる。
80年代にナイルが手がけた主なアルバムに以下がある。
・デボラ・ハリー「KooKoo(予感)」
・デビッド・ボウイ「Let's Dance」
・マドンナ「Like a Virgin」
・インエクセス「Original Sin」
・ジェフ・ベック「Flash」
・ミック・ジャガー「She's The Boss」
・トンプソン・ツインズ「Here's to Future Days」
・デュラン・デュラン「Notorious」
実績としては微妙なものもあるが、少なくとも当時英米のミュージシャンから絶大な信頼を得ていたのは間違いない。
特徴としてはギターのカッティングでノリよくリズムを刻んでいく、というのが共通しているようだ。
一方バーナードもナイルと組んだり、また単独でもプロデューサー業をこなしている。
・デボラ・ハリー「KooKoo(予感)」
・マドンナ「Like a Virgin」
・パワー・ステーション「The Power Station」
・ロバート・パーマー「Riptide」
・エア・サプライ「Hearts in Motion」
・ロッド・スチュワート「Out of Order」
・ミッシング・パーソンズ「Color in Your Life」
また84年にナイル・ロジャースはハニー・ドリッパーズに、トニー・トンプソンはパワー・ステーションに参加。
どちらもスーパーグループが故に短命に終わったが、ビッグネームが集結したユニットは大きな話題となった。
で、今回調べて初めて知ったんですけど、ハニー・ドリッパーズって元はロバート・プラントがツェッペリン解散直後に作ったユニットで、その時はペイジもベックも参加してなかったんですね。
3年くらい経ってからロバート以外はメンバーを改めてユニットを組み直し、ナイル・ロジャースやブライアン・セッツァーも参加してミニアルバムを作った・・ということだそうです。
そんな課外活動も80年代末くらいからようやく落ち着いてきた。
89年にナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズは、ポール・シェーファーやアントン・フィグとともにシックの曲をパーティー会場で演奏。
喝采を浴びた二人はこれをきっかけにシック再結成を決意する。
ボーカルにシルバー・ローガン・シャープとジェン・トーマスを加えた新生シックはレコーディングを開始し、92年シングル「Chic Mystique」とアルバム「Chic-ism」を発表。
どちらも久々に全米R&Bチャートで50位以内に入り、シックは世界中でライブを行った。
ただ新生シックの活動はいったん上記だけに終わり、トニーは参加していない。
93年にナイルとバーナードとトニーは、ジミ・ヘンドリックスのトリビュートアルバム制作のためエリック・クラプトンと共にレコーディングに参加。
「Stone Free」「Burning of the Midnight Lamp」を録音した。
だが結果的にこれが三人の最後の共同作業になった。
ここまで世界中のサウンドを牽引してきたナイルとバーナードだが、二人の協力活動は思わぬ形で終焉を迎える。
96年にナイル・ロジャースはビルボード誌で世界のトッププロデューサーとして表彰される。
これを記念した「JTスーパー・プロデューサー・シリーズ」というコンサートが日本で開催され、ナイルとバーナードはシックを伴い初来日。
シックに加えシスター・スレッジ、スティーブ・ウィンウッド、サイモン・ル・ボン、スラッシュといった豪華な面々がステージに立った。
しかし最終公演の二日後、バーナード・エドワーズは宿泊していたホテル・ニューオータニの客室で倒れているところを発見される。
残念ながらバーナードは43歳という若さで亡くなってしまった。
公演中もバーナードは体調がすぐれず、点滴を打ちながらライブを行ったが、ナイルはバーナードの異変に全く気づいていなかったそうだ。
バーナードの最後の演奏は99年発売の「Live at the Budokan」に収録されている。
バーナード本人もナイルも、まさか日本で亡くなるとは夢にも思わなかったはずだ。
盟友を異国の地で失うという事態に、一時期は音楽活動への意欲すらも失いかけたナイル・ロジャースだが、後任ベーシストのジェリー・バーンズと、妹でキーボーディストのカトリーズ・バーンズの加入によりシックは復活。
翌年もシックは再び来日公演を行った。
なお2003年にはトニー・トンプソンが腎臓癌のため48歳で亡くなっている。
一人残ったナイル・ロジャースは、バンドのゆるい参加規約も含めてシックの屋号を維持。
メンバーを都度変えながら、日本公演もコンスタントに行われている。
またナイルは他のミュージシャンとの共演も精力的にこなしている。
2013年、ナイル・ロジャースはダフト・パンクからの熱望により、彼らのアルバム「Random Access Memories」に参加する。
するとナイルのギターが効果的に使われたシングル「Get Lucky」が大ヒット。
ダフト・パンクは2013年のグラミー賞で5部門を受賞し、共作・演奏者としてナイルも自身初の3部門を受賞する。
授賞式ではダフト・パンクと共にナイル・ロジャースやドラムのオマー・ハキムやベースのネイザン・イースト、スティービー・ワンダーが演奏に参加した。
2015年、シックとしては23年ぶりの新曲「I'll Be There」を発表。
さらに2018年には25年ぶりのニューアルバム「It’s About Time」をリリース。
昨年3月ウクライナ救済支援のためのコンサートがイギリスで開催され、ナイル・ロジャース、エド・シーラン、カミラ・カベロ、マニック・ストリート・プリーチャーズなどが参加し、集まった支援金は19億円を超えた。
以上がシックとナイル・ロジャースの華麗なる活動履歴である。
知ってた話は半分もない。
ナイルとバーナードの80年代の輝かしい功績は多少知ってはいたが、バーナードが日本で亡くなっていたことも、トニー・トンプソンもすでに故人だったことも、今回調べて初めて知った。
あらためてナイルとバーナードのプロデュース実績には驚くばかりである。
こんな極東の極貧リスナーな自分でも、聴いていた作品がいくつもあり、いかに世界中で彼らの作った音が大量に流れていたかがわかる。
ナイル・ロジャースは、多くの曲で弦を6本中3本しか使わないという変わったギタリストだそうだ。
それでも世界中で売れる音を生み出す才能あふれるミュージシャンということなんだろう。
というわけで、シック。
聴くとしたら当然「おしゃれフリーク」収録のアルバム「C'est Chic」は必修でしょうけど、シックの名曲に加えてナイルがプロデュースした他のミュージシャンの曲も収録した、非常にいい感じの企画盤「Up All Night」というのもあるそうなので、これで学習してみようかと思っております。
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