聴いてない 第290回 ラット
前回ラッシュを採り上げて思い出したのがラットである。(雑)
思い出したなどと言ってるが、ラット本体の思い出は特になく、その昔バンド活動していた友人が「RATT」と書かれたTシャツを着ていた記憶があるくらい。
バンド名しか知らず、1曲も聴いてない(と思う)ので、聴いてない度は1。
やれやれじゃあしょうがないラットについて調べてやるか・・と駅前の商売っ気ゼロの不動産屋のじじいのように気だるく調査を開始。
ラットもまたロックバンドの定石どおり離合集散敵対分裂誹謗中傷訴訟殺伐の連続だった。
ファンの作るサイトには、「メタルの暗く汚いイメージを覆した」「モトリー・クルーとともにLAメタルブームを牽引」「派手なファッションと明るいセンス」「ラットン・ロール!」などの形容が目につく。
そこまでは想定どおりだが、驚いたのが他の有名バンドとの人事交流がかなりあった点である。
ラットは80年代のLAメタルを代表するロックバンド。
母体は76年にスティーブン・パーシーを中心にサンディエゴで結成したミッキー・ラットというバンド。
このミッキー・ラットには、後にオジー・オズボーン・バンドで名をはせたギタリストのジェイク・E・リーが参加していた。
81年にバンド名をラットに変更するが、ジェイク・E・リーは脱退。
再編されたラットのメンバーは以下のみなさんである。
スティーブン・パーシー(Vo)
ロビン・クロスビー(G)
ボビー・ブロッツァー(D)
ウォーレン・デ・マルティーニ(G)
フォアン・クルーシエ(B:元ドッケン)
ちなみにロビン・クロスビーとモトリー・クルーのニッキー・シックスはルームメイト同士という間柄で、また脱退したジェイクと、ロビンとウォーレンは西海岸のサーフィン仲間だったそうだ。
ラットは83年にデビューし6曲入りEPを発表。
翌年3月にデビューアルバム「Out Of The Cellar(情欲の炎)」をリリースし、全米チャート7位のヒットとなる。
シングル「Round and Round」もMTVを通じて本国や日本で大ヒット。
・・・そうなの?
84年頃だったらリアルタイムで聴いていてもおかしくないはずだけど、全然知らない・・・
85年に2作目「Invasion of Your Privacy」を発表し、これも前作同様に全米7位を記録。
この年には初の日本公演も行われた。
ラットは順調に86年にもアルバム「Dancin’Undercover」をリリース。
このアルバムでは曲作りの担当が徐々にロビン・クロスビーからウォーレン・デ・マルティーニに移行。
また2度目の来日公演もこの年に行われている。
88年に4枚目のアルバム「Reach For The Sky」をリリースし、全米17位を記録。
翌年には3度目の日本公演。
順調だったラットも90年代に入ると様子が変わってくる。
背景にあったのはやはりグランジ・オルタナの台頭だった。
ラットは90年8月にアルバム「Detonator」を発表する。
前作までプロデューサーを務めたボー・ヒルに代わり、このアルバムではボン・ジョビを育てたと言われるデズモンド・チャイルドを起用。
よりポップな路線にシフトしたアルバムは全米23位と健闘したが、プラチナムは逃す結果となった。
全米23位はそんなにひどい成績じゃないと思うけど、ラットはこの後低迷する。
内部事情としてはロビンのヘロイン中毒もあったらしい。
ロビンのリハビリ期間中にマイケル・シェンカーがバンドをサポートしたそうだけど、これマイケルに頼んだこと自体がマズかったんじゃないの?
マイケル神、ちゃんとサポートできたんだろうか・・・
91年にはベスト盤「RATT & ROLL 8191」を出してなんとかつなごうとするが、グランジの波は予想以上に激しく、レコード会社からは契約を解除される。
結局ラットの人気が戻ることなく92年には解散してしまう。
ラット解散後、スティーブン・パーシーはアーケイドというバンドを結成。
またウォーレン・デ・マルティーニは94年にホワイトスネイクに加入する。
えっそうだったの?
・・・と思ったら、ギタリストとしてツアーには参加したけど、アルバム制作には関わらないまま脱退したそうです。
しかしラットはメンバーは以下のみなさんで意外に早く再結成する。
・スティーブン・パーシー
・ウォーレン・デ・マルティーニ
・ボビー・ブロッツァー
・ロビー・クレイン(元ヴィンス・ニール・バンド)
再結成したラットは97年に未発表の曲を集めたアルバム「Collage」をリリース。
99年には低迷バンド再生工場と言われるジョン・カロドナーさんをプロデューサーに起用したアルバム「Ratt」をリリースする。
より大衆的なサウンドで再起を図ったラットだったが、ジョン・カロドナー再生工場は残念ながら機能せず、全米169位という驚きの結果に。
がっかりしたスティーブン・パーシーはバンドを脱退。
スティーブン脱退後はジジー・パールや元モトリー・クルーのジョン・コラビが加入して活動を続けたが、盛り上がることなくバンドはフェードアウト。
再び解散となる。
2002年6月に初期メンバーだったロビン・クロスビーが42歳で亡くなる。
ヘロイン中毒からエイズを発症し、病気を苦にした自殺とも言われているそうだ。
その後もバンドは解散停止したままだったが、ベスト盤は何度も発表されている。
2007年にそのベスト盤「Tell the World: The Very Best of Ratt」発表を機に、スティーブン・パーシー、ウォーレン・デ・マルティーニ、ボビー・ブロッツァーがギグを行い、ラットは再々結成。
この年には日本でもウィンガーとのジョイント・ライブも行われた。
さらに2008年にはジョン・コラビが脱退し、後任として元クワイエット・ライオットのカルロス・カヴァーゾが参加する。
そして2010年4月、ラットは11年ぶりの新作「Infestation」を発表。
収録曲の異なる日本独自の企画盤までリリースされ、「LOUD PARK 10」出演のため来日も果たす。
奇跡の再々結成にファンも歓喜の涙・・かと思ったら、この後の展開は遅れてきたロックバンドあるあるな様相となる。
2012年にロビー・クレインが脱退し、懐かしのメンバーであるフォアン・クルーシエが復帰。
さらに2014年にはスティーブン・パーシーが再脱退。
ラットはまたも停滞する。
2015年、バンド運営や名称の権利を巡ってウォーレン・デ・マルティーニとボビー・ブロッツァーが対立。
昔のメンバーで組んでこそラットだと主張するウォーレンだったが、ボビー・ブロッツァーも「ボビー・ブロッツァーズ・ラット・エクスペリエンス」という長い名前で活動を開始。
両者は互いに訴訟を起こしたが、結果として亡くなったロビン以外の4人に権利ありとの裁定が下される。
この裁定を受け、ウォーレンとスティーブンとフォアンが結託し、ボビーをラットから除名する。
これで本流ラットも安泰かと思いきや、やはり人事異動は続く。
2018年にはウォーレンとカルロス・カヴァーゾが脱退。
現在はスティーブンとフォアンに2人の新メンバーを加えた4人がラットとして活動中とのこと。
ボビー側のラットもメンバー交代を繰り返しながらも継続はしているようだ。
以上がラットの長く波乱に満ちたストーリー。
バンド名や運営を巡って訴訟合戦に発展というのはよく聞く話ではあるが、ファンからはやはりあまり歓迎されていないらしい。
まあそうでしょうね。
ロックバンドのモメ事で喜ぶ変態は北半球でもアタシくらいでしょうし。
ボビー側ラットの評判もいまいちだそうだ。
「オレ一人でもラットを続けたる」というボビー・ブロッツァーはなかなか気骨のある男にも思えるが、解散前のラットでは特にバンドを牽引したり曲をたくさん作ったりという立ち位置ではなかった人だそうなので、やはり古いファンにとってはボビーのラットではインパクトが足りない・・という評価のようだ。
それにしても80年代に活躍したハードロックやメタルのバンドを調べると、ほぼもれなくグランジの波に(一度は)粉砕されていることがわかる。
どっちも未だにまともに聴いてないので、この現象は今もよく理解できないのだが、やはりグランジ恐るべし、カート・コバーンはすごい人である。(なんだそのまとめ)
というわけで、ラット。
作品としてはやはり80年代のアルバムの評価と実績が高いようだ。
なので聴くとしたらデビューアルバム「Out of the Cellar」から「Reach for the Sky」までを順に鑑賞するのが正しい姿勢と思われますが、みなさまのおすすめアルバムはどれなのか、教えていただけたらと思います。
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