聴いてない 第280回 リトル・フィート
前回採り上げたレーナード・スキナードは、自分が最も洋楽に親しんでいた期間が活動休止期間だったという残念な事例だったが、似たような状態にあったバンドを発見した。
リトル・フィートである。
リトル・フィート、名盤「Dixie Chicken」を一度鑑賞したはずだが全く定着せず、今は1曲も脳内再生できず、最後に聴いたのがいつなのかも覚えていない。
聴いてない度は4だが、実質全く聴いてないに等しい。
略歴を調べてわかったが、79年に解散し87年再結成なので、80年代のMTVやFMエアチェックといった産業ロック文化からはかなりはずれているバンドのようだ。
実際エアチェックできた経験もなく、雑誌で記事を目にしたこともない。
妙なアルバムジャケットだけがいくつか見覚えがあり、そのセンスから勝手にプログレなのかと思っていた。
しかしウィキペディア日本語版では「ニューオーリンズR&B、ブルース、カントリー、ジャズなど、アメリカン・ルーツ・ミュージックの影響を色濃く押し出しているサウンドが特長。」などとある。
少なくとも大英帝国プログレや西海岸メタルとは相当遠い集団のようだ。
レーナード・スキナード以上にハードルが高そうな気もするが、とりあえず大幅な誤解を是正するべく生態を調査することにした。
リトル・フィートは、フランク・ザッパのバンド「マザーズ・オブ・インベンション」のメンバーだったローウェル・ジョージを中心に1969年に結成された。
メンバーは以下のみなさんである。
・ローウェル・ジョージ(V・G)
・ビル・ペイン(V・K)
・ロイ・エストラーダ(B)
・リッチー・ヘイワード(D)
ロイも元マザーズ・オブ・インベンションのメンバーで、ビルは参加こそなかったがオーディションを受けた経験はあったそうだ。
バンドは71年にデビューアルバム「Little Feat」、翌年「Sailin' Shoes」の2枚を発表するが、全然売れず、ロイ・エストラーダが脱退。
その後ケニー・グラッドニー(B)、ポール・バレア (V・G)、サム・クレイトン (パーカッション)が加入。
この3人がサウンドにニューオーリンズ・スタイルのファンク要素を採り入れ、バンドに変革をもたらすことになる。
73年にアルバム「Dixie Chicken」を発表。
ローウェル自身がプロデューサーを務め、ボニー・レイットもバックボーカルで参加している。
ニューオーリンズ・サウンドの大胆な採り入れが功を奏し・・というのが一般的な評価ではあるが、当時バンドはロサンゼルスを拠点としており、実はニューオーリンズを含む南部にはメンバーの誰も行ったこともなかったそうだ。
いいのかそんなんで?
続く74年の「Feats Don't Fail Me Now(邦題「アメイジング!」)」はファンキー路線をさらに強化したサウンドで、全米36位を記録した。
75年の「The Last Record Album」から、サウンドと方向性が微妙に変化する。
ポール・バレアとビル・ペインはジャズに傾倒し始め、ジャズにあまり興味がないローウェルと意見が合わないことが増えていく。
またアルバムの曲順をめぐってもメンバー間でかなりモメたことも明らかになっている。
さらにリッチー・ヘイワードはレコーディング直前にオートバイ事故に遭い、制作や進行に影響も出たそうだ。
この方向性の変化は、メンバーの力関係やローウェルの人生にも大きな影響を及ぼすことになる。
バンドがジャズやフュージョンにじわじわ移行するにつれて、ローウェルの曲作りへの貢献は減少していく。
ローウェルはバンドへの関心も意欲も薄れ、麻薬中毒も加わって健康状態も悪化していくことになる。
バンド運営にイヤ気がさしたローウェル・ジョージは、79年3月にソロアルバム「Thanks I'll Eat It Here」をリリースする。
内容はローウェルがサイドプロジェクトとして取り組んできたカバーバージョンのコレクションであり、バンドからはリッチーやビルも参加。
さらにボニー・レイットやJ.D.サウザーなどの大物芸人や、またデビッド・ペイチやジェフ・ポーカロなど後のTOTOのメンバーも参加している。
同時にローウェルは、リトル・フィートの解散を宣言。
インタビューではポール・バレアとビル・ペインのジャズ傾倒を批判し、二人をはずしたリトル・フィートで再スタートする計画があることも明らかにした。
しかし。
ローウェルは79年6月、ソロアルバムのツアー中にバージニア州アーリントンのホテルで心臓発作を起こして死亡。
音楽性の違い・意見の相違から、脱退や解散てのはまあロックバンドだったらよく聞く話だけど、まさかリーダーが解散宣言直後に死ぬとはメンバーの誰も思ってなかっただろう。
ローウェルの死はインタビューのわずか11日後だったそうだ。
メンバーはローウェルの残した音源に追加レコーディングを行い、リトル・フィートとしてのラストアルバム「Down on the Farm」を79年11月に発表した。
その後コンピレーション盤が出たり、たまにメンバーが集まってステージで演奏したりはあったが、リトル・フィートとしての活動は86年まで行われなかった。
再結成のきっかけは、イギリスの歌手ヘレン・ワトソン。
1986年、リッチー・ヘイワード、ポール・バレア、ビル・ペインが、ヘレンのデビューアルバム「Blue Slipper」に参加する。
ちなみにこのアルバムには、元イーグルスのバーニー・レドン、TOTOのスティーブ・ルカサーも参加したそうだ。
3人は続く2枚目の「The WeatherInside」にも参加し、盛り上がったところで旧メンバー5人とクレイグ・フラーとフレッド・タケットを加えた7人編成でリトル・フィートを再結成する。
再結成のキーマンは新加入のクレイグ・フラーだった。
バンドは88年にアルバム「Let It Roll」を発表する。
クレイグは多くの曲を共作し、リードボーカルの大部分を担当した。
アルバムにはリンダ・ロンシュタットやボニー・レイット、マリリン・マーティンやボブ・シーガーも参加し、全米36位のゴールドディスクを獲得。
ローウェル・ジョージのいないリトル・フィートを受け入れるのが最初は困難だったファンも多かったが、クレイグの才能はバンドに新しい風を吹き込み、バンドは見事にカムバックを果たす。
新生リトル・フィートは90年に「Representing the Mambo」、91年に「Shake Me Up」をリリース。
順調に見えたリトル・フィートだったが、93年に異変が生じる。
ここまでバンドを牽引してきたクレイグは、ツアーで家族と離れる時間が長いことを嫌がって脱退を決意する。
クレイグの後任に選ばれたのは、女性ボーカリストのショーン・マーフィーだった。
ショーンは71年にモータウンで歌手として活動を始め、ミート・ローフやボブ・シーガー、エリック・クラプトン、ムーディー・ブルース、グレン・フライらとの共演経験を持つ。
リトル・フィート再結成後のアルバム3枚全てにもバックボーカルとして参加していた。
ボーカルが女性に代わったことで、雰囲気は大幅にチェンジ。
その後歴代最長の15年以上にわたりショーンはメインボーカルを務め、バンドは4枚のアルバムを発表。
99年と2000年には来日公演も行われた。
ただしファンの中にはローウェル期・クレイグ期以外のリトル・フィートは認めない、という人もいるらしい。
こういう評価はドゥービー・ブラザーズやディープ・パープルでもよく見られるので、やはりロックバンドにおいてボーカリストというのは非常に重要な存在なんだと思う。
バンド史上最長ボーカリストを誇るショーンだったが、2009年に意外な形でバンドを去る。
ショーンによれば、自身の意志決断による脱退ではなく、バンドから解雇されたとのこと。
一方バンド側は「我々は彼女とは別の道を歩むことを選択した」との声明を発表している。
双方の言い分にやや食い違いはあるようだが、実態はメンバーがショーンを追い出した、という話。
メンバー解雇もロックバンドあるあるな展開ではあるけど、15年以上やってきた女性ボーカリストを野郎どもが追い出した、というのは珍しいケースかもしれない。
いったい何があったんだろうか?
ショーンが去った直後、ドラムのリッチー・ヘイワードは肝臓癌治療のため活動休止を発表。
代役としてゲイブ・フォードがドラマーを務め、バンドは活動を続けた。
リッチー回復を願ってチャリティコンサートが開催され、ファンがリッチーの治療費に寄付できるウェブサイトも立ち上がった。
その後リッチーは一時回復し、2010年7月バンクーバー島で開催された音楽祭でステージには上がったものの、ドラムキットの後ろに座っただけで叩くことはなかったそうだ。
リッチー本人もファンも回復して再びドラムを担当することを希望していたが、残念ながらかなわず2010年8月に亡くなった。
リッチーの死後、ゲイブ・フォードがドラマーとして正式加入する。
バンドは結局ショーンの後任ボーカルを加入させず、ゲイブ加入の6人編成で10年間活動する。
活動は主にライブ中心で、この期間のスタジオ盤は2012年の「Rooster Rag」のみであった。
2019年10月、ポール・バレアも肝臓癌のため死去。
後任ギタリストとしてスコット・シャラードが加入。
さらに翌年ドラマーがトニー・レオンに代わり、バンドは現在も活動中。
以上が長く複雑なリトル・フィートの歴史である。
当然知ってた話は一切なし。
柏村武昭もリトル・フィートについてはなんにも教えてくれなかった。
冒頭述べたとおり、自分の産業ロック鑑賞エアチェック集中期間とバンド活動休止期間が見事に重なっていたため、聴く機会に恵まれなかったという不幸な言い訳バンドである。
ただ、88年に活動再開してアルバムも出して、リンダ・ロンシュタットやマリリン・マーティンやボブ・シーガーも参加し、全米36位のゴールドディスクを獲得・・といった勇ましい出来事があったのに、全然知らなかったのはなんか残念だ。
88年というと微妙ではあるが、まだなんとかFMやMTVの音声を60分テープに録音してはいた時期である。
事務所もレコード会社も当時の日本を魅力的なマーケットとして見ていなかったのだろうか?
もしかしたら柏村武昭も小林克也も「今週は再結成を果たしたリトル・フィート特集です!」くらいの企画はやってたのかもしれないが、いずれにしろ自分はリトル・フィートの曲を聴いたり録音したりは全くできなかった。
レーナード・スキナードもそうだが、リトル・フィートもバンドの中心人物が不慮の死を遂げてしまい活動休止という、非常に過酷で悲惨な歴史を持っている。
それぞれの事情はあるものの、重要なリーダーを失った後、残ったメンバーがチャラい80年代の芸能界で名門バンドを復活させる気になんかとてもなれなかった・・のではないだろうか。
というわけで、リトル・フィート。
自分の場合、学習プログラムは確定しており、まず「Dixie Chicken」を再履修し、歴代のボーカルごとの各期の代表作を学習していく・・・という流れが適正な更正コースと思われる。
「Dixie Chicken」再履修段階で玉砕する可能性も高いですが・・
各期の名盤や、それ以外のおすすめアルバムがありましたら、ご提案いただければと思います。
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