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聴いてない 第279回 レーナード・スキナード

80年代産業ロック以外のジャンルには疎い中高年のSYUNJIといいます。
首都圏最大級の低レベルBLOGをもう18年も続けているが、この18年間とりたてて開眼定着したジャンルは特にない。
今日のお題レーナード・スキナードはサザン・ロックを代表するバンド・・ということはうっすらと認識しているが、そもそも1曲も聴いておらず、サザン・ロック自体を理解するに至ってもいない。
13年前に38スペシャルの記事を書いた時に、レーナード・スキナード学習もやらないと・・みたいなことを棒読みで書いてたが、どちらも全く手を付けないまま放置している。

回りくどい言い訳ですけど、単純に聴いてないです。
メンバーの名前も顔も、アルバムタイトルもジャケットも全く知らない。
聴いてない度は硬派の1。
日本での人気や知名度はよくわからないが、自分はミュージック・ライフやFMステーションでレーナード・スキナードの記事を目にした記憶はない。

鑑賞も学習もできていない理由は特にない・・と思っていたが、バンドの歴史を調べてみてあることに気づいた。
自分が最も洋楽に親しんでいた期間が、レーナード・スキナードの活動停止期間とほぼ同じだったのだ。
ネットでかき集めたバンドの歴史は以下の通り。

レーナード・スキナードは1964年にフロリダ州ジャクソンビルで結成された。
メンバーは以下のみなさんである。

ロニー・ヴァン・ザント(Vo)
ゲイリー・ロッシントン(G)
アレン・コリンズ(G)
ボブ・バーンズ(D)
ラリー・ヤンストロム(B)

バンドの原型はロニーとアレンとボブの三人がハイスクール時代に組んだグループ。
バンド名は彼らの学校の体育教師レオナード・スキナー先生の名前をもじったもの。
こういった韻を踏んだような名前は、ティアーズ・フォー・フィアーズとかスクリッティ・ポリッティとかに受け継がれてる気がする。
日本でもアンドレ・カンドレとかいんぐりもんぐりとかありましたけど・・・
なお日本語表記は「レーナード」「レイナード」と多少の揺れがあるが、当時のアルバムは「レーナード」と表記されているので、今回の記事もそちらに合わせます。

バンド結成後はジョージア州アトランタに拠点を移す。
じわじわ人気が出てきたところで、ミュージシャンでプロデュース業も行うアル・クーパーの目に止まった。
アル・クーパーは当時サザン・ロック専門レーベル「サウンド・オブ・ザ・サウス」を立ち上げようとしていた。
レーナード・スキナードを見つけたアルはすぐに契約を交わし、バンドはレーベル初作品としてアルバム「Lynyrd Skynyrd」を73年8月にリリースする。
この時メンバーはすでに変わっており、クレジットに名前があるのは以下のみなさんである。

ロニー・ヴァン・ザント(Vo)
ゲイリー・ロッシントン(G)
アレン・コリンズ(G)
ボブ・バーンズ(D)
エド・キング(G)
ビリー・パウエル(K)

アルバムの売り上げは100万枚を超え、全米チャートでは27位まで上昇。
シングル「Free Bird」も19位を記録した。
この年にはザ・フーのアメリカツアーでオープニングアクトを務めている。

ギター担当が3人もいることが、レーナード・スキナードの最大の特徴で売りでもあった。
74年には2枚目のアルバム「Second Helping」を発表。
前作を上回る全米12位を記録し、シングル「Sweet Home Alabama」は8位の大ヒットとなる。
ただ意外なことに、結果としてレーナード・スキナードのシングルでトップ10入りできたのはこの曲だけとのこと。

3枚目のアルバム制作過程で、バンド内に様々な問題が起こる。
ドラマーのボブ・バーンズはヨーロッパツアー中にメンタルにダメージを負い、バンドを脱退。
後任としてケンタッキー出身で元海兵隊員のアーティマス・パイルが加入する。
このメンバー交代などが影響し、アルバム「Nuthin' Fancy」制作スケジュールが押してしまい、結局準備も不十分なまま、わずか17日間で録音された。
このことがバンドとアル・クーパーとの間に摩擦を生じさせ、アルのプロデュースもこのアルバムで終わりとなる。

さらに問題噴出は続く。
アルバム「Nuthin' Fancy」は全米9位を記録するものの、最終的には前作よりも売上が減少。
「Nuthin' Fancy」ツアーの途中で、ギタリストのエド・キングが突然脱退。
バンドはそのまま6人組で活動し、76年にトム・ダウドをプロデューサーに起用した4枚目のアルバム「Gimme Back My Bullets」をリリース。
カナダでは1位を獲得したが、全米チャートでは20位止まり。

やはりギターが3人必要と感じたバンドはエドの後任を探し、歌えるギタリストのスティーブ・ゲインズがオーディションを経て加入。
76年にはゲインズ加入後のアトランタでのステージを録音した2枚組ライブアルバム「One More from the Road」を発表した。

しかし。
順調と思われたバンドはここから不幸の階段を降り始める。
ゲイリー・ロッシントンとアレン・コリンズは、76年に重大な自動車事故に見舞われ、アルバム制作が遅れたり、コンサートをキャンセルするなど、活動に大きな影響を及ぼす。

こうした混乱の中、徐々に才覚とリーダーシップを発揮し始めたのが、スティーブ・ゲインズだった。
加入後の最初のアルバム「Street Survivors」では、全8曲中4曲がスティーブの作品である。(2曲はロニー・ヴァン・ザントとの共作)
プロデューサーには再びトム・ダウドが起用され、アルバムは1977年10月17日にリリースされた。

ところがリリースから3日後の10月20日、最大の悲劇がバンドを襲った。
メンバーとクルー総勢26人を載せた自家用飛行機は、サウスカロライナ州グリーンビルからルイジアナ州バトンルージュへ向かう途中で燃料切れを起こした。
パイロットはミシシッピ州内で何度か緊急着陸を試みたが、飛行機はミシシッピ州ギルズバーグ郊外の森に墜落。

ロニー・ヴァン・ザント、スティーブ・ゲインズ、スティーブの姉でバックボーカルを務めたキャシー・ゲインズら6人が死亡。
他のバンドメンバーのアレン・コリンズ、ゲイリー・ロッシントン、レオン・ウィルクソン、ビリー・パウエル、アーティマス・パイルは重傷を負った。

フロントマン2人を失ったバンドは解散。
ゲイリーとアレンは80年に女性ボーカルを立ててバンドを結成し、他のメンバーもそれぞれ音楽活動を続けたが、レーナード・スキナード復活にはつながらなかった。
また事故のあった77年には、ロニーの弟ドニーが38スペシャルを結成している。

事故・解散から10年が経過した87年、ボーカルにロニーの弟ジョニー、ギターにランドル・ホールを加え、レーナード・スキナード再結成ツアーを行う。
なお前年に自動車事故を起こしたアレンはケガのためギターが弾けなくなり、再結成ツアーには音楽担当監督として参加している。

90年代に入るとドラマーのアーティマスが脱退。
カスター・ラドウィックが加入し、本格的な活動再開となる。
新生レイナード・スキナードは91年にアルバム「Lynyrd Skynyrd 1991」を、93年には「The Last Rebel」を発表。
94年には「Endangered Spacies」をリリースした。
91年と94年には日本公演が行われている。

2000年代になるとメンバーの死亡と後任の加入が相次いだ。
・2001年レオン・ウィルクソン死亡 → イアン・エヴァンス加入
・2009年ビリー・パウエル死亡 → ピーター・キーズ加入
・2009年イアン・エヴァンス死亡 → ロバート・カーンズ加入
ちなみにオリジナルメンバーだったアレン・コリンズとボブ・バーンズもすでに故人である。

2018年にバンドはラストツアーを行う。
ツアーにはバッド・カンパニーや38スペシャルやチープ・トリックも参加。
現在バンドはほぼ活動休止状態だが、ゲイリー・ロッシントンは2020年1月のインタビューで「ツアーは終了したが、時折ライブを続けるよ」と発言している。

以上がレーナード・スキナードの長く過酷な歴史である。
飛行機事故があったことはぼんやりと知っていたが、ここまで深いダメージをもたらしたとは知らなかった。
アメリカならではのことかもしれないが、飛行機以外でも自動車事故にあった話が多い気がする。
また再結成して最近まで活動していたことも知らなかった。

冒頭に述べたとおり、77年に解散し90年代で再結成なので、自分が洋楽にまみれていた80年代にはほとんど活動していなかったことになる。
当然この間新曲は出てないし、日本のFMでオンエアされたり雑誌に記事が出たりといった露出もほとんどなかったと思われる。
とにかく80年代に毎晩サルのようにエアチェックしてたにもかかわらず、レーナード・スキナードの曲を録音できたことは一度もない。
You Tubeでいくつかヒット曲を聴いてみたが、やはりどれも知らない曲ばかり。
ちなみに38スペシャルも5曲くらいしか聴いていない。

なお飛行機事故は映画化され、昨年「Street Survivor: The True Story of the Lynyrd Skynyrd Plane Crash」というタイトルで公開されたそうだ。
生き残ったドラマーのアーティマス・パイルがプロデューサーとして制作に参加しているとのこと。

というわけで、レーナード・スキナード。
少し聴いてみた限りでは好みとしては微妙なところですが、聴くなら「Lynyrd Skynyrd」「Seconed Helping」「Street Survivors」など解散前の名盤からでしょうか。
皆さまの鑑賞履歴や推奨盤についてご指導いただけたらと思います。

 

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聴いてない 第278回 バックストリート・ボーイズ

我が国では、とある芸能事務所が一貫してアイドル男性グループを半世紀にわたり量産し続けるという不思議な文化があるが、欧米においてもいわゆるロックバンドとはやや異なるアイドルグループは存在する。
その男性アイドルグループの代表格として、以前ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックを採り上げたことがあるが、今日はもう1つの聴いてない団体、バックストリート・ボーイズについて書いてみます。

バックストリート・ボーイズ、聴いてる曲は「Everybody (Backstreet's Back)」と「I Want It That Way」だけ。
聴いてない度は盤石の3。
「Everybody」はMTVの音声をそのままテープに録音したので、ホラー映画仕立ての映像も含めてわりと印象に残っている。
「I Want It That Way」はどこで聴いたのかすら不明だが、彼らの代表曲でもあり世界中で大ヒットしたそうなので、日本でもテレビやラジオで相当流れていたのだろう。

この2曲とグループ名しか知らないので、てっきりメンバーもそれぞれ歳とって節々も痛くてすっかり太っちゃったりハゲ散らかしたりモメ事も勃発してやっぱりどこかで解散してすっかり過去の人たち・・・だと、さっきまで勝手に思っていた。

しかし。
人生で初めてバックストリート・ボーイズを調べてみて私は驚愕。
まず実績がものすごく(後述)、さらに今もグループは活動中で、2019年にもアルバムが全米1位を獲得するなど、現役そのもの。
知らなかった・・・
ファンの皆さまと事務所の方々に陳謝いたします。

あらためてバックストリート・ボーイズの栄光と信頼の軌跡をたどってみる。

ハワード・ドゥエイン・ドローとアレキサンダー・ジェームズ・マクリーンはフロリダ州オーランドの出身で、まずこの二人が出会い、その後オーディションを通じてニック・カーターが合流しトリオを結成した。

ケヴィン・スコット・リチャードソンとブライアン・トーマス・リトレルは、ケンタッキー州レキシントン出身のいとこ同士。
ケヴィンは90年にオーランドに移り住む。

1992年、ボーカルグループのオーディションを受けてハワード、アレキサンダー、ニック、ケヴィンの4人が合格。
その後ケヴィンの誘いでブライアンも加わり、93年4月20日にバックストリート・ボーイズが結成された。
グループ名はオーランドで開催されていた屋外フリーマーケット「Backstreet Market」にちなんで付けられた。

ただし、アメリカ出身なのに国内デビューは日本やヨーロッパよりも遅い。
グループはしばらく全米各地のテーマパークやショッピングモールや学校などで営業を行っていた。
95年9月に最初のシングル「We've Got It Goin' On」をリリース。
ヒットしたのはヨーロッパで、イギリスやスイスでは3位、ドイツで4位を記録した。
この実績により、デビュー当初のプロモーションは主にヨーロッパで行われることになる。
アルバム「Backstreet Boys」も日本や欧州各国では96年に発売されたが、アメリカでの発売は翌年になってからで、しかもセカンドアルバム「Backstreet's Back」とセットの2枚組という状態だった。
なおこの2枚組は全米4位を記録している。

96年の「Get Down (You're the One For Me)」はアメリカでもヒットし、10位まで上昇。
これでようやく本国でも認められるグループになり、97年には「Everybody (Backstreet's Back)」「All I Have to Give」を欧米でそれぞれヒットさせた。

グループ最大のヒットが99年のシングル「I Want It That Way」である。
イギリス・オーストリア・カナダ・ドイツ・オランダ・ニュージーランド・スイスで1位、オーストラリアとスウェーデンで2位というすさまじい売れ行き。(全米は6位)
アルバム「Millennium」も世界中で2400万枚以上を売り上げ、本国アメリカでも1300万枚を突破。
アメリカでは99年で最も売れたアルバムとなっている。
そうなの?知らなかった・・・

続く2000年の「Black & Blue」も全米1位に輝き、800万枚を売り上げた。
アルバムのプロモーションで世界各国を専用ジェット機でまわり、日本にも来たが公演はなく、すぐに次の目的地へ去って行った。

2001年にベスト盤「The Hits: Chapter One」をリリース。
この年の11月には待望の初来日公演が、東京・名古屋・大阪のドーム球場で開催され、計23万5千枚のチケットは即日完売という人気ぶりだった。
そうなの?知らなかった・・・

しかし。
頂点を極めていたこの期間、グループは良いことばかりではなかった。
98年には「プロデューサーのルー・パールマンとマネージャーのジョニーが勝手に10億円以上をネコババした」とメンバー側が訴え、1年ほどの法廷闘争の末に示談が成立している。
デビュー前からグループの面倒を見てきたルー・パールマンだが、あまり素行の良くない人物だったようで、後に詐欺罪で逮捕され懲役25年の判決を受け、2016年に獄死している。

2001年「Black & Blue」のツアー中、アレキサンダーはアルコール依存症とうつ病のリハビリに入ったため、1ヶ月ほどツアーが中断。
さらにツアー再開後の9月にクルーメンバーで大道具のダニー・リーが、同時多発テロでハイジャックされ世界貿易センターに衝突した飛行機に乗っていて死亡。
なおブライアンの妻リーアンも同じ便に乗る予定だったが、前日にキャンセルしている。

翌2002年頃からはグループ内に不協和音が発生し、マネジメント会社との関係も悪化。
グループは会社との関係をやめたいと主張したが、ニック・カーターはソロ活動のために会社に残ることを選ぶ。
こうしてニックと他のメンバーとの間にも意見の食い違いが起こり、ニックはソロ活動を開始。
他のメンバーはニック抜きで次のアルバムのレコーディングをし始めた。
しかし最終的にメンバーはニックに同調し、ソロアルバム「Now Or Never」の制作をサポートしたとのこと。
またアレキサンダーは再びアルコールや麻薬の依存症となり、グループは2年ほど停滞する。

2004年にグループは再始動。
9月には小規模なアジアツアーを開催。
北京、上海、東京、マニラを訪れ、東京では代々木競技場第一体育館で公演をおこなった。

1年以上のレコーディングを経て、アルバム「Never Gone」を2005年6月にリリース。
大幅なスタイルの変更は、ローリングストーン誌からは酷評されたが、アメリカでプラチナ認定を受け、チャートでも3位を記録。
4枚のシングルがリリースされ、「Just Want You to Know」は全英8位まで上昇した。
同年7月から「Never Gone」ツアーがスタート。
2006年正月には東京・名古屋・大阪でライブを行った。

しかしこの年の6月、ケヴィンが俳優など音楽以外の活動を行うため脱退。
残ったメンバーはケヴィンの後任加入の話を全て断り、ケヴィンがグループに戻るための扉を常に開けておくと声明を発表。

4人組となったバックストリート・ボーイズ。
だがケヴィン脱退は人気や実績には影響せず、2007年10月のアルバム「Unbreakable」は特に日本とカナダで好評を博し、日本のオリコンチャートでは1位、カナダのチャートで2位となる。(全米は7位)
日本での実績に気を良くしたグループは、翌年2月に東京ドームで2日間公演を行った。

事務所もグループも日本を優秀なマーケットとして認識するようになり、2009年にはアルバム「This Is Us」発売に合わせて来日。
ラゾーナ川崎でスペシャル・ライブを行い、新曲「Straight Through My Heart」「Bigger」に加え、大ヒット曲「I Want It That Way」「Everybody」も披露。
14000人が殺到するものすごいイベントとなった。
そうなの?知らなかった・・・
なお「Bigger」のプロモ・ビデオは東京で撮影されたそうです。
さらに翌年の日本公演は場所も回数も5都市10日間とぐっと増え、日本武道館でファイナルを迎えた。

2011年にはニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックとのコラボレーションアルバム「NKOTBSB」を発表し、欧米でツアーも開催。
この頃から脱退したケヴィンが時々ステージに姿を見せるようになる。
ファンの期待と憶測のとおり、2012年4月にはケヴィンが正式にグループに復帰する。

再び5人組となったグループは、2013年に新作「In a World Like This」をリリース。
日本で4位・カナダで2位と相変わらず好調な売れ行きを見せ、さらにオランダでは1位、ドイツでも3位を記録。
日本公演も過去最大の7都市で11日間行われている。

2018年に5年ぶりの新曲「Don't Go Breaking My Heart」「Chances」を発表。
翌年これまた5年ぶりのアルバム「DNA」が全米1位を記録し、衰えぬ人気ぶりを証明した。
今年はコロナの影響で年末に予定していたクリスマスアルバム発売を延期し、ラスベガスの特別公演も中止となったが、現在もグループは活動中である。

・・・今回もことごとく知らない話ばかりであった。
そもそも全て初めて知る話なのでいちいち驚いて当然ではあるが、ここまで人気と実績が継続しているグループだとは知らなかった。
実は一番驚いたのが「ラゾーナ川崎に14000人集めた」という話。
あそこは純粋なコンサート会場ではなく、ショッピングモールである。
敷地の中央に広場のような屋外スペースがあり、アイドルのミニコンサートみたいな催しが時々行われてるけど、まさかあそこでバックストリート・ボーイズも歌って帰ったとは・・

バックストリート・ボーイズが人気と実績を継続できているのは、歌唱力を売りにしてきたことが大きいようだ。
事務所やレコード会社の戦略でもあったとは思うが、結成当初から楽器を手にした野郎バンドではなく、一貫して歌えるボーカルグループであり続けている。
これは彼らを発掘したルー・パールマンの功績でもあるが、目指していたのは「ボーイズ・II・メンのように歌えて、ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックのように華やかなグループ」だったそうで、アカペラを多用したり、R&Bを基盤としたサウンドを採り入れてきたとのこと。

また同じくオーランドで結成されたボーイズグループのイン・シンクとの対立構造も、実はパールマン氏の戦略だそうだ。
二つのグループの本人たちは、それほど互いを悪くは思っていなかったらしい。
似たようなグループ同士を対立させて話題を作ったり人気をあおったりするのは割と古典的な手法で、ビートルズvsストーンズ以来、カルチャー・クラブvsデュラン・デュランオアシスvsブラーニルヴァーナvsパール・ジャムなど様々な組み合わせが作られている。
対立構造のほとんどは演出だったり周囲が勝手にけしかけたもので、当人同士は実は結構仲が良かったりすることも多い(オアシスとブラーはガチの不仲だったそうですけど)。
勝負の行方としては、実績ではバックス側の圧倒的勝利に終わり、イン・シンクはジャスティン・ティンバーレイクというスターを生み出したものの、2002年に解散している。

日本では最近男性アイドルグループの解散や活動休止が相次いでいるが、どこの国でもアイドルとして長年活動していくのは簡単ではないだろう。
美少年も歳を重ねればどうしたっておっさんになるのだ。
中高年が集まって「なんとかボーイズ」を名乗り続けるのも厳しいはずである。
そういう意味ではバックストリート・ボーイズは希有な存在と言えるかもしれない。

というわけで、バックストリート・ボーイズ。
今さらおっさんが夢中になってどうする的なグループではありますが、聴いてる「Everybody」と「I Want It That Way」は嫌いではありません。
なのでもし聴くとしたらやはり世界中で売れた「Millennium」からでしょうね。
他におすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

 

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