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聴いてない 第263回 パール・ジャム

聴いてない名盤が多すぎるという音楽緊急事態宣言がいくつになっても解除できないSYUNJIといいます。
もうおそらく一生解除できないまま死を迎えるであろう今日のお題はパール・ジャム。
それなりに長くやってる珍奇BLOGだが、今回はいつにも増してハードな題材。

パール・ジャム、聴いてないのはいつものことだが、知ってるのは名前だけ。
1曲も聴いてないしメンバーの名前も全く知らない。
聴いてない度は万全の1。
ゼロでもマイナスでもいいくらい。
そもそも何人組なのか、バンドなのかピン芸人なのか、いつの時代の方々なのか、お国はどちらで資産はおいくらなのか、一切知りません。
なぜ名前だけ知ってるのかも不明。
なので今日書くことは全て受け売りである。(毎回そう)

ネットでパール・ジャムを調べてみて最初に目に入ったのは、グランジというキーワード。
あー・・・そういうくくりの人たちだったのね・・(そこからかよ)
一瞬それだけで調べるのも書くのもやめようかと思ったが、踏みとどまって険しいグランジ街道の入口まで行くことにした。

パール・ジャムは1990年結成。
源流は84年にシアトルで結成されたグリーン・リバーというバンドにある。
グリーン・リバーに在籍していたストーン・ゴッサード(G)とジェフ・アメン(B)は、解散後はマザー・ラブ・ボーンというバンドで活動していたが、アルバム発売直前にボーカルのアンドリュー・ウッドがヘロイン中毒で死亡。
バンドは解散したが、ストーンとジェフのもとにマイク・マクレディが合流し、デモテープ製作を開始。
そのデモを聴いた元レッチリのジャック・アイアンズ(後にパール・ジャムに加入)が、友人のエディ・ヴェダーにもデモテープを聴かせた。
エディはデモにオリジナルの歌詞をまぜてボーカルをかぶせて録音。
それを聴いたメンバーはエディを気に入り、バンドに迎え入れることにした。
さらにデイブ・クルーセン(D)が加わり、バンド名はパール・ジャム となった。
デモテープの行き来という、どこか高校生っぽいやりとりで結果として世界規模のバンドが誕生するという伝説的なストーリー。

パール・ジャムを検索すると、やっぱり名前が出てくるのがニルヴァーナ
ウィキペディア日本語版でも「ニルヴァーナとの関係」コーナーがあるが、今風に言うと両バンドはバチバチのリアルガチな敵対関係にあったようだ。
カート・コバーンは死ぬまでエディ・ヴェダー批判を続けていたそうだけど、アクセル・ローズみたいにタコ殴りしたような話はないんですかね?

パール・ジャムは91年にアルバム「Ten」でデビュー。
ストーン、ジェフ、エディの埋もれていた才能が一気に開花したアルバムは全米2位まで上昇し、1000万枚以上のセールスを記録。
このデビューアルバムこそ最高傑作と評するファンも多いらしい。
このデビュー大成功とシアトルという拠点、そしてニルヴァーナの存在が、パール・ジャムの名前とともにグランジ台頭の歴史を作り上げていくことになる。
なおデイブ・クルーセンはデビューアルバム発表直前に脱退している。

デイブ脱退の後任に一人はさんで同じデイブだけど名字がアブラジーズというドラマーが加入。
93年には2枚目のアルバム「Vs」をリリース。
発売一週間で100万枚近く売り上げるという偉業を達成し、全米アルバムチャート初登場1位も記録した。
このアルバムからは6曲もシングルカットされたが、バンドはレコード会社の提案を無視してミュージックビデオを全く作らなかった。

勢いに乗ったパール・ジャムは次のアルバム制作に取りかかる。
しかしデイブ・アブラジーズは制作途中で脱退し、代わって前述のジャック・アイアンズが加入して録音を続けた。
初期のパール・ジャムはどうもドラマーがいまいち長続きしないバンドだったようだ。

ドラマー交代を乗り越え、94年12月にアルバム「Vitalogy(生命学)」を発表。
全米アルバムチャート5週連続1位・売り上げ500万枚以上という事務所社長も泣いて喜ぶ大ヒット。
・・・なのだが、パール・ジャムとは本来関係ない事件が、このアルバムの評価にも多少影響していると言われる。
事件とはもちろんカート・コバーンの自殺だ。
このアルバム制作期間中にカートが自殺し、死後半年ほど経ってアルバム「Vitalogy」がリリースされている。

カートが死ぬまで相互に批判合戦を続けたとされるエディ・ヴェダーだったが、やはりカートの死はかなりショックだったらしい。
エディはカートのことを想って曲を作ったなどとは一切言ってはいないが、このアルバムにあるいくつかの曲は、ファンや評論家により「カートのことを歌った曲」と解釈されているそうだ。
表現は全然違うが、カートもエディもチャラい商業主義やスター気取りのミュージシャンが大キライだったそうなので、エディがそうしたテーマで曲を作れば「カートを思わせる作品」なんて書かれるのも仕方がないとは思うが・・
なおエディもカートもそれほど多くを語らないながらも、カートが亡くなる直前には互いを理解しあえて友人となったという発言をしている。
カートがパール・ジャムの作品自体を気に入らなかったのは死ぬまで変わらなかったらしいが・・

96年にはアルバム「No Code」が全米初登場1位に輝く。
1位なんだから文句なさそうな話だが、このアルバムは音楽性にやや変化や迷いが見られ、初期からのファンは厳しい評価をする人も多いようだ。
98年にアルバム「Yield」を発表するが、このアルバムツアー直前にジャック・アイアンズが持病の悪化やツアーの長さへの不満を理由に脱退。
後任ドラマーとして元サウンドガーデンのマット・キャメロンが加入する。

99年、ファンクラブ向けのクリスマス用シングル曲として「Last Kiss」をリリース。
原曲は1961年にウェイン・コクランという人が歌った曲で、64年にJ.フランク・ウィルソン&キャバリアーズが歌ってヒットしている。
全米2位・カナダとオーストラリアで1位を記録し、パール・ジャム最大のヒットシングルとなった。
この曲はコソボ紛争の難民救済のためのチャリティ・アルバム「No Boundaries」にも収録された。

21世紀に入ってもパール・ジャムは精力的に活動。
2000年にはバイノーラルという技法を用いて録音した、そのままアルバムタイトルにも使った「Binaural」を発表。
バイノーラル録音とは、人間の頭部や耳の構造を模した「ダミーヘッド」にマイクを埋め込み録音する技術とのこと。
この録音による音源は、高性能なヘッドホンで聴いてみるとものすごい臨場感を味わえるそうだ。

さらに2000年から翌年にかけて、ライブツアーの音源を公式海賊盤ライブアルバムとしてリリースした。
店頭でのパッケージ盤ではなく、ネットで注文してMP3やCDで購入するという方法をとったそうだ。
これは「音が悪いのにムダに高額なブート盤が流通している」ことに対抗するための手段であり、「ライブ終了後にすぐにおみやげを持ち帰ることができるようにしたかった」というコメントも発表している。

2006年には創業以来続けてきたレーベルをJレコードに移し、バンド名と同じ「Pearl Jam」というタイトルのアルバムを発売。
2009年にまたレーベルを変え、初期作品のプロデューサーだったブレンダン・オブライエンを起用して「Backspacer」をリリース。
このアルバムで5作ぶりの全米1位を勝ち取ることに成功。
さらに2013年の「Lightning Bolt」でも全米1位を記録した。

その後しばらくアルバム発売がなかったが、今年3月に6年半ぶりのアルバム「Gigaton」を発表。
残念ながら今年開催予定だったツアーは大半が中止になるようだが、まだレコーディングしていない曲のストックがたくさんあり、今後の活動にも非常に意欲的である。

・・・今回も知ってた情報は一切なし。
明日東洋大学でパール・ジャム検定受けたら間違いなく0点である。
知らなかった話だらけなのは毎度のことながら、こんなに人気と実績のある人たちだったことに驚いた。
見事なくらい接触の機会がなかったのだ。
周りに聴いていた友人がいたこともないし(知らなかっただけ)、NOW系オムニバスCDで1曲だけ聴くといった出会いもなし。
あと5年デビューが早ければ、極東の貧困学生だった自分にも、柏村武昭や東郷かおる子からもう少し情報がもたらされた・・ような気がする。
かつて「村上春樹を読んだことがない」という首都圏最大級の愚かな告白を世界中に発信したことがあるが、今の心境は当時のものに近い感覚がある。(どうでもいい)

ネットでパール・ジャムを調べると、「師匠」としてニール・ヤングの名前が時々登場する。
パール・ジャムはデビュー以来ライブで度々ニールの曲をカバーしていたが、93年のMTVアワードでついにニール・ヤングと初競演。
その後はパール・ジャムのライブにニール・ヤングが登場するのが定番化。
95年のニール・ヤングのアルバム「Mirror Ball」ではパール・ジャムがバックバンドを務め、ツアーにも同行。
パール・ジャムのレコーディングにもニール・ヤングが参加するという、堅い絆で結ばれた師弟関係とのこと。
両者が師弟関係にあることはなんとなく知っていたが、ニール・ヤングも全然聴いてないので、相互の音楽性がどう響き合って師弟関係になってるのかは全くわからない。

マイク・マクレディは今年行われたファンとの交流ネットイベントで、「人生を変えたレコード」としてストーンズの「Sticky Fingers」「メインストリートのならず者」を挙げていた。
さらにお気に入りはクイーンの「世界に捧ぐ」やツェッペリンの「Led Zeppelin II」だそうだ。
カート・コバーンの時もそうだったが、こういう話を聞くと少しだけ安心。
グランジやオルタナの人だからすんごいコアな尖った音楽ばっか聴いてきたのかというと、そういうことでもないようです。

というか、パール・ジャム以前のマイクは子供の頃からずうっとメタル寄りな音楽をやっていたそうで、ジューダス・プリーストアイアン・メイデンマイケル・シェンカー、モーター・ヘッド、ガール、ハイノ・ロックス・・などといった楽しい音楽がお好みだったとのこと。
またストーン・ゴッサードとジェフ・アメンは若い頃は髪をがっちり固めたようなビジュアル系メタルを好んで聴いていた、という話もある。
共に若い頃同じシアトルで活動していたカート・コバーンは、パールのメンバーがかつてどんな音楽をやってたか・好きだったかを知っていたためか、「パール・ジャムなんてのはオルタナの波に乗っただけのただの操り人形だ」と批判。
カートに言わせれば「元メタルのくせに突然薄汚い格好でオルタナやグランジを名乗り始めた連中」ということだろう。
もっとも亡くなる前には「レコード会社がバンドの意思に反して勝手にグランジに便乗する形でマーケティングしただけ」と若干訂正っぽい発言をしていたそうだ。

ウィキペディアには「パンク・ロック的側面を多分に含むニルヴァーナに対してパール・ジャムのバックボーンはハードロックによる部分が大きく、両者のスタンスは決定的に異なる。」とある。
だとすればニルヴァーナで大敗を喫した自分には、もしかしたらパール・ジャムならば聴ける可能性がかすかにある・・かもしれない。(適当)

バンド名のパール・ジャムだが、エディ・ヴェダーの祖母パールの作っていたジャムに由来するらしい。
ペヨーテという小さなサボテンを使ったネイティブ・アメリカン伝統のレシピで作られたジャムだったが、ペヨーテには幻覚を引き起こす作用があり、エディは子供の頃このジャムを食ってユラユラグルグルしながら学校に行っていたそうだ。
パール(真珠)とジャムという組み合わせから、勝手にアイアン・バタフライとかレッド・ツェッペリンみたいな硬軟取り合わせ系かと思ってましたが、それは違うようです。

ということで、パール・ジャム。
毎度のことながら全米や世間での評価と己の知識の乖離が激しすぎて困惑していますが、こんな自分にも聴けそうな作品があれば教えていただけたらと思います。

 

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聴いてみた 第157回 ボブ・ディラン その2

今日聴いてみたのは予想外のボブ・ディラン
1975年発表の2枚組アルバム「The Basement Tapes(地下室)」を聴いてみました。

The-basement-tapes

ボブ・ディランの未聴作品を聴くのは15年ぶりである。(場内騒然)
「Blonde on Blonde」を勢いで聴いてみたものの、全く定着せず15年間学習から遠ざかっていた。
聴いてないシリーズの初回で恥も外聞もなく世界中に宣言したにもかかわらず、未だに聴いてないままだ。
並み居る聴いてない強豪アーチストの中でも苦戦している代表のような存在。
今回もモンスリー師匠の必修名盤学習指導要領に従いオロオロしながら聴くことにした。
初心者のくせにこんな上級者向けを聴くとは・・という古参ディランファンの舌打ちが世界中から聞こえる気もするが、どのみち何を聴いても初心者なのであまり深く考えないようにする。(開き直り)

鑑賞前に馬のマークの参考書を手にアルバムに関する情報を一夜漬け学習。
ところがそんな一夜で覚えられるほど生易しい話じゃなかった。
まずこのアルバム、ディランの他のスタジオ盤とは少し制作経緯が違う。
いっしょに作ったり歌ったりしてるメンバーが後のザ・バンドであることだ。
ゲスト参加ではなく、ディランとザ・バンドの共作。
厳密には録音当時のグループ名は「リヴォン&ザ・ホークス」であった。
ザ・バンドに改名したのは少し後の68年である。

カナダやアメリカで活動していたリヴォン&ザ・ホークスは、ロビー・ロバートソンがディランのライブサポートを担当したことをきっかけに、ディランやマネージャーから信頼され、バックバンドに抜擢された。
そして1965~66年のワールドツアーで、ホークスはエレキ路線に転換したディランを強力にサポートする。
路線変更に対するファンの反応は賛否両論だったそうだが、ディランはメンバーの力量や音楽性などをいたく気に入り、ツアー後も交流を続ける。

ところが66年7月にバイクの事故でディランは大けがを負ってしまい、予定してたツアーはキャンセル。
ホークスの仕事もなくなり、ディランは治療と静養のためしばらく表舞台から遠ざかる。
静養当時ディランはあのウッドストック周辺に住んでいて、音楽や映画のプロジェクトの仕事を少しずつ再開。
そこにホークスのメンバーがやって来て、またディランの活動をサポートし始める。
いい話だなぁ。
「あんたがケガしたおかげでオレたちも失業だよ!」と抗議行動のためディラン邸に押しかけた・・という展開じゃなかったんですね。

こうしてさらに交流を深めたディランとメンバーは、67年にウッドストック近くにあったディランの家:通称「ビッグ・ピンク」でセッションを行う。
他のミュージシャンへの提供曲のデモテープ作成だったり、ほぼ本人たちが楽しむための半分プライベートなセッションだったが、相当盛り上がったとみえて100以上のトラックを録音した。 (150曲以上と書いてるサイトもある)
ロビー・ロバートソンによれば、初めの2ヶ月くらいはカバー中心のセッションだったが、そのうちディランもメンバーも次々と新しいメロディや歌詞を生み出していったそうだ。

この時録音された曲はどこからか流出してしまい、しばらく海賊盤「Great White Wonder」として出回っていた。
海賊盤は確認されてるだけで100種類以上あるそうですけど。
しかもディラン自身は「どうせみんな海賊盤聴いてるんやろ」と、録音の成果を正式に発表することにはあまり乗り気ではなかったそうだ。
ところが75年になって突然ディランが公式アルバムとしてリリースすると意志表明。
詳細は不明だが、権利関係などの問題が解決したためとも言われているらしい。
で、ロビー・ロバートソンが編集を担当し、公式アルバム「The Basement Tapes(地下室)」として発売することになった。

ザ・バンド担当の8曲には、ディランは参加していない。
またそのうちの「Bessie Smith」「Ain't No More Cane」は発表直前に録音されている。
さらに後からオーバーダビングしたりアレンジされたりの曲も混在してるようだ。
そういう意味では海賊盤は当時の音だけをより純粋に?反映しており、むしろ公式盤のほうがコアなディランのファンから厳しい評価を受けているらしい。

ということで結構複雑な経緯と状況のもとで制作された問題作「The Basement Tapes」。
自称ディランのファンは当然先に海賊盤で学習を済ませていたであろうから、この公式盤は答え合わせみたいなものだろう。
実際公式盤よりも海賊盤を高く評価するファンも多いとのこと。
自他共に認める最強素人の自分にとっては、教科書より先に教科書ガイドを買ってしまったバカ学生みたいな状態だが、明鏡止水の心境で聴いてみることにした。

・・・・・聴いてみた。

Disk1
1.Odds and Ends
2.Orange Juice Blues (Blues for Breakfast)
3.Million Dollar Bash(100万ドルさわぎ)
4.Yazoo Street Scandal
5.Goin'to Acapulco(アカプルコへ行こう)
6.Katie's Been Gone(ケイティは行ってしまった)
7.Lo and Behold!
8.Bessie Smith
9.Clothesline Saga(物干しづな)
10.Apple Suckling Tree(リンゴの木)
11.Please, Mrs. Henry(おねがいヘンリー夫人)
12.Tears of Rage(怒りの涙)

Disk2
1.Too Much of Nothing(なにもないことが多すぎる)
2.Yea! Heavy and a Bottle of Bread(おもいぞパンのビン)
3.Ain't No More Cane
4.Crash on the Levee (Down in the Flood)(堤防決壊)
5.Ruben Remus
6.Tiny Montgomery
7.You Ain't Goin' Nowhere(どこにも行けない)
8.Don't Ya Tell Henry(ヘンリーには言うな)
9.Nothing Was Delivered(なにもはなされなかった)
10.Open the Door, Homer(ドアをあけて)
11.Long Distance Operator(長距離電話交換手)
12.This Wheel's on Fire(火の車)


全24曲のうち、ディランの作品が16曲、ザ・バンドのメンバー作品が5曲(1-2、4、6、8、2-5)、共作が2曲(1-12、2-12)。
楽曲は思いの外バラエティに富んでいて、50年代の色を残すロックやブルースの他、フォークやバラードが次々に登場。
ザ・バンドの人たちも曲ごとにボーカルを変えているので、長いことは長いが飽きない造りである。

ディランのボーカルはやはりこの時期も投げっぱなしで、正直なじめない曲もかなりある。
特に「Lo and Behold!」「Clothesline Saga」「Please, Mrs. Henry」など低い語り調の放り投げ声はやや苦手だ。
ここを超えないとディラン学習の意味がないのはわかってはいるが、苦戦感情はそう簡単に消してはもらえないのがボブ・ディラン。
メンバーもディランに「すいませんもう少し音取ってもらえます?」とは言えなかったのだろうか。(素人の戯言)

逆に高いキーで歌う「Goin'to Acapulco」「Tears of Rage」は意外にいいと感じた。
バックと声を合わせる曲もあるが、調和がとれた美しいハーモニー・・ではない。
好みや慣れの問題だろうが、ムリヤリ言えば味わい深いコーラス。
いずれにしろこのあたりの克服がディラン攻略のカギである。
相変わらず難しいディラン。

ただし何もかも受け入れがたいというわけではなく、楽しくセッションする彼らの喜びや希望みたいなものはかすかに感じとれる・・ような気がする。(本当か?)
全編アコースティックな朴訥サウンドかと思ったらそうでもない。
かなりの割合でキーボードが鳴っており、武骨な男どもの歌声を違った角度で支えている。
これはかなりいい感じだ。
他の楽器と調和してるかどうかは微妙だけど、もしこのキーボードの音がなかったら、印象は相当違ったものになっていたと思う。

さてボブ・ディランと言えばノーベル文学賞受賞者である。
しかも世界中のファンの予想を見事に裏切り、抵抗も返上もせず「まあもらっとこか」とあっさり受賞。
彼の詩の世界を味わわなければ正しい鑑賞とは言えない。(ホントは他の歌手でもそうなんだけど)
いくつかの訳詞をネットで探して読んでみた。

当時のアメリカ文化や世相を理解していないので、訳だけでは何を意味しているのかほとんどわからない。
ただ割と平易な言葉で日常の情景や会話などを物語のように取り込んでいることはわかった。
おそらくはこの言葉の中に政治や経済や社会情勢に対する鋭いメッセージが隠されているのだろう。
さすがはボブ・ディラン。(知ったかぶり)
・・・これ以上は訳詞をなぞるだけではムリで、やはり詳細な解説が必要である。

ジャケットはディランとザ・バンドの人たちが、地下室っぽい部屋で楽器を手にしている写真。
ディランは横を向いてマンドリンをバイオリンのように構えているが、ザ・バンドの面々は記念写真調である。
裏面は表から続いていて、バレリーナやベリーダンサーや重量挙げ男やマツコ・デラックスなど、サーカス団の面々が写っている。
・・これって写真?
人物の立ち位置も変だし、コラージュか絵画のように見えるのだが・・
アートとしての評価はよくわからない、不思議なジャケットだ。

というわけで、15年ぶりのボブ・ディラン鑑賞でしたが、やはりそう簡単にはいかないようです。
ここまで来ると次にどのアルバムを聴いても結果に結びつきそうもないため、ディランにおいてはやはりベスト盤で基礎固めという安直な方法をとったほうがいいような気がしています。

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