« 2018年2月 | トップページ | 2018年4月 »

聴いてない 第235回 ダイアナ・ロス

ブラックミュージックの重鎮、モータウンの女王ことダイアナ・ロス。
あまりに偉大すぎて自分みたいな極東三流腸弱リスナーが採り上げること自体おこがましいですけど、聴いてません。

もちろん存在は認識しているつもりだし、ジャズやクラシックのような「全くなじみのないジャンルの人」というわけでもない。
80年代当時アジアの辺境貧乏学生だった自分にもダイアナ・ロスは寛容だったのである。(意味不明)
大スターが集う音楽祭で、キラキラのゴージャス衣装に身を包み大トリで歌う都はるみっぽい人、というイメージ。(雑)

シュープリームス時代も含め、聴いている曲は以下である。
・You Can't Hurry Love(恋はあせらず)
・Upside Down
・Endless Love
・Chain Reaction
・If We Hold On Together

「恋はあせらず」以外はいちおうリアルタイムで聴いている。
なお「恋はあせらず」はフィル・コリンズのカバーを先に聴いた。
ソロで最初に聴いた曲は「Upside Down」だが、聴く前からダイアナ・ロスの名前は知っていたと思う。
「Endless Love」はライオネル・リッチーとのデュエット。
「Chain Reaction」はバックコーラスにビージーズが参加している。
自分にしてはわりと聴けてるほうだと思うのだが、アルバムは全く聴いてないので、聴いてない度は3。

ブラックミュージックの女性シンガーとして最も成功した人であり、80年代も90年代も全く現役だったが、当時の日本のナウいヤングやダサい男子学生が最優先で聴いていたアーチストではなさそうである。
姉や友人との会話にダイアナ・ロスが登場した記憶もない。
なので当時から今に至るまで聴いてない敗北感や危機感もないまま惰性で歳をとっている状態。

ということで、あらためて偉大なるダイアナ・ロスの華麗なる経歴について拙速なる学習。
ダイアナ・ロスは、1944年デトロイトに生まれた。
父親は自動車工員、母親は白人家庭のメイドとして働く家庭で育つ。
中学生の時、近所の友人たちと4人組コーラス・グループ「プライメッツ」を結成。
(プリメッツと書いてあるサイトもあり)
デトロイトの小さなレコード会社からシングルレコードを発表した後、さらに大きなレコード会社であるヒッツヴィル(のちのモータウン)への売り込みを始める。
この時ダイアナ・ロスの売り込みを受けてモータウンの社長にプライメッツを紹介したのがスモーキー・ロビンソンだそうだ。

62年モータウンと正式に契約し、グループ名をシュープリームスと改める。
この時点でメンバーは1人抜けてダイアナ・ロスとメアリー・ウィルソンとフローレンス・バラードの3人となった。

で、シュープリームスについても少し調べてみたが、今は発音により忠実な「スプリームス」と表記するようだ。
・・・なんか「ダイアナ・ロス&スプリームス」ってあまりなじめない感じですけど、もっと早く矯正できなかったんスかね?
カート・コバーンレディー・ガガもアドリアン・アドニスもみんなそうだが、日本人てよその国の人の名前はホント適当だよなぁ。
シュープリームスもたぶん「シュークリーム」につられたんだと思う。(適当)
とりあえずウチのBLOGではシュープリームスに統一しておきます。

シュープリームスは64年「Where Did Our Love Go?(愛はどこへ行ったの)」で初の全米No.1を獲得。
翌65年には「Stop! In the Name of Love」がヒット。
この曲はのちにホリーズがカバーしてまたヒットしている。
さらに66年には「You Can't Hurry Love(恋はあせらず)」、「You Keep Me Hangin' On」もヒット。
(「You Keep Me Hangin' On」はヴァニラ・ファッジのカバーでも有名)
大量のヒット曲を放つスーパーグループに成長を遂げる。

67年に「ダイアナ・ロス&シュープリームス」と改名。
しかしダイアナ本人がセンターでいることにこだわり過ぎて、他の2人との確執・軋轢・摩擦が生じ、リーダーだったフローレンス・バラードは脱退。
69年にはダイアナもグループから脱退しソロとなる。

ソロ転向後もダイアナ・ロスの活動は順調に進んだ。
70年「Ain't No Mountain High Enough」でソロ初の全米1位を獲得。
73年にも「Touch Me In The Morning」をヒットさせた。

また映画女優としても活動の幅を広げ、「ビリー・ホリデイ物語」で主役を演じる。
しかし女優としては大成功とは言い難く、その後の主演映画「マホガニー物語」やミュージカル「ウィズ」は興行的には残念な結果に終わってしまった。

80年にナイル・ロジャースによるプロデュースの「Upside Down」でシンガーとして完全復活し、全米1位をまた獲得する。
81年ライオネル・リッチーとのデュエット「Endless Love」も大ヒットを記録。
いちおう全米1位獲得の曲はこの「Endless Love」を最後に出ておらず、モータウンからRCAに移籍する。
85年にはUSA for Africaに参加。
「We Are The World」でソロパートを歌い、マイケル・ジャクソンとも声を合わせた。

この後アメリカでは人気もセールスも下降していく。
しかし日本では91年発表の「If We Hold On Together」が、ドラマ「想い出に変わるまで」の主題歌に使われて大ヒットという日本限定の現象が起こる。
確かに曲は自分もリアルタイムで聴いているが、このドラマは見ていた記憶はない。
主演は今井美樹と石田純一、脚本は内館牧子というトレンディなドラマだったそうですけど・・・

ヒット曲は出ていないが、今もアメリカ音楽界の重鎮として記念行事や音楽祭などのイベントに登場し、変わらぬ歌声で観客を魅了している。(表現が昭和っぽい)
2015年には日本公演も行われ、またこの年からツィッターも始めるなど、現在も精力的に活動中とのこと。

繰り返しの言い訳で恐縮ですけど、偉大なる存在であることはもちろん認識してはいた。
が、上記の経歴話は半分も知らなかった。
エアチェックした曲は冒頭述べたとおりだが、積極的に録音しに行ったものではなく、柏村武昭の案内に従順に対応していただけの話である。
聴いている中では「Chain Reaction」がノリが良くていいと思う。

ウィキペディアには「シュープリームス時代に12曲、ソロとして6曲、計18曲のビルボード1位のヒットを放っている。これはザ・ビートルズの20曲に次ぐ史上2位の記録である。」と書いてある。
金額的にどうなのかはわからないけど、記録としてはグループ時代のほうがすごかったということになる。
なのできちんとダイアナ・ロス学習をするのであれば、シュープリームス鑑賞も必修科目となるはずだ。

楽曲や声の好みはともかく、歌唱力においては不安など感じる必要も一切ない、信頼と実績が誇る安心安定な歌手であることは間違いない。
ただ勝手な推測だが、ダイアナ・ロスもカーペンターズ同様にアルバムよりは曲単位での評価が主流ではないだろうか。
なのでシュープリームス時代のヒット曲も収録されたいい感じのベスト盤があれば聴いてみたいと、ムシのいいことを考えている。

ということで、ダイアナ・ロス。
偉大すぎて評価が難しいようなアーチストではあると思いますが、みなさまの鑑賞履歴はいかがでしょうか?

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

読んでみた 第53回 文藝別冊「イーグルス」

今日読んでみたのは「文藝別冊 イーグルス」。
毎度おなじみの河出書房新社の文藝別冊シリーズだが、副題がいまひとつ垢抜けない「アメリカン・ロックの神話」。
加えて表紙には「グレン・フライ追悼」と記載されている。
定価は1300円、178ページ。
業界の展示会で版元のブースに置いてあったのを見つけて15%OFFで購入した。

Eagles_2

「The Long Run」までのイーグルスについては、いちおう全アルバム鑑賞は終えている。
しかし全盤聴いたあとでもそれほど深い感動もなく、一番好きなのは「The Long Run」で変わらなかったという脱力なリスナーである。

イーグルスも活動中から解散後に至ってもメンバー間のいさかいが絶えず、ロックバンドのモメ事見本市のようなパープルっぽい人たちであったことはよく知られている。
・・・のだが、実はイーグルスに関するモメ事学習もそれほど熱心には行ってきていないのだった。
ロックバンドのモメ事マニアを名乗る者として非常にゆゆしき事態である。
なぜかイーグルスのモメ事についてはさほど学習意欲もなく、主体的にこの本を買ったわけでもない。
結局たまたま見つけて買ってみたという失礼な動機だが、果たしてどんなモメ事が書いてあるのだろうか。

・・・・・読んでみた。

目次はこんな感じである。

・対談 小林克也×萩原健太 イーグルスという変革者 
・中川五郎インタビュー ぶち壊される側になった、象徴的バンド 
・久保田麻琴インタビュー 音楽的ゴールドラッシュの果て 
・五十嵐正インタビュー イーグルス入門 
・「ならず者」にならず!? テヘッ。 綾戸智恵 
・墓探しにて 湯浅学 
・火照るカリフォルニア 佐藤良明 
・LA/アメリカを演じ続けること 長澤唯史 
・イーグルズ大阪公演 中村とうよう 
・サウンドをハードに変化させるにあたって 若月眞人 
・イーグルスに会ったあの日 松尾一正 
・ディスクガイド

まず巻頭にメンバーのステージ写真(ただしモノクロ)、続いて対談・インタビュー記事が4本あり、イーグルスに関する文章、イラスト集、曲の対訳などのページがあり、最後にディスクガイドといった標準的な構成である。
表紙は「Hotel California」、裏表紙は「ならず者」のアルバムジャケットを使用。
他の文藝別冊シリーズにあったカラー写真ページはなく、表紙と目次以外は全て単色。
しかもスミ100(黒)ではなく、セピアな古くさい色をしている。

先に書いてしまうが、グレン・フライ個人に特化して書いたり話したりしている文章・記事はない。
当然バンドの核であるグレンとドン・ヘンリーに関する記述の割合は多いが、あくまでバンドとしてのイーグルスを語る書物である。
インタビュー記事はいずれもグレン・フライの死についてふれてはいるが、どれもほぼ「ひとこと」程度にとどまっている。

グレン・フライは2016年1月16日に亡くなっている。
この本は同年9月30日出版だが、訃報を受けて急遽企画されたのか、企画進行中に訃報が飛び込んだのかはわからない。
追悼版と付けたのであれば、もう少しグレンの最期の詳細やメンバーのコメントなど、またグレン個人のヒストリーなんかもあってもよかったのではないかと感じた。

インタビューでも文章でも、イーグルスの活動を時代背景とともに分析・考察するものが多い。
陳腐な言い回しだが、70年代アメリカ文化を代表するスーパーグループとしてのイーグルスを語る場合、当時の世相や若者文化などを前提に考えるのは当然なのだろう。
このあたりは極東の中学生だった自分には理解も共感もしづらい部分なので、あまり頭には入ってこない感じがした。

またロサンゼルス・カリフォルニア・西海岸といった地理的要素からバンドを語る文章もいくつかある。
デビュー当時から「ロサンゼルスから来ましたイーグルスでーす」という自己紹介をしていたそうだが、実は結成時の4人にロサンゼルス出身者はいない、ということがあちこちに書いてあった。
真のロサンゼルス出身者は、解散直前になってようやく登場したティモシー・B・シュミットだけである。

小林克也と萩原健太の対談はやはり面白く、興味深いエピソードがいろいろ語られている。
小林克也はグレン・フライについて「最初に会った時、こいつ絶対喧嘩っ早いと思った」と明かしている。
萩原健太がその理由を問うと、「頭蓋骨を見ればわかる」「殴り合いの喧嘩をいっぱいしてる」とのこと。
・・・当たってるのかどうか不明だが、克也氏は自信満々である。

他にも「ホテル・カリフォルニア」の有名な一節である「1969年以降スピリットは切らしております」は、70年代ディスコ・ミュージックが化け物になったことに対する皮肉なんだとか、ドン・フェルダーとジョー・ウォルシュがギターをかき鳴らしてドヤ顔で決めたらドン・ヘンリーがダメ出ししたとか、初めて知る話がたくさん出てくる。

イーグルスを語る文献の多くに登場するスタッフの一人がビル・シムジクである。
この本でもビル・シムジクについて複数の人がインタビューで語る部分がいくつかあり、また若月眞人はビルをメインテーマに据えて文章を書いている。
これまでイーグルスの歴史学習はおろか鑑賞もやっと終えた程度だったので、正直ビル・シムジクの名前も知らなかった。
あらためて読んでみると、バンドにとって非常に重要な人物だったことがわかる。

デビューから「On The Border」までは、ツェッペリンストーンズを手がけたイギリス人のグリン・ジョンズがプロデューサーを担当。
ところが音楽の方向性についてメンバーと意見が対立し、グリンはクビとなる。

後任として登場したのが、ビル・シムジク。
若い頃から音感が優れていたビルは、アメリカ海軍で潜水艦をソナーで探知するオペレーター訓練を積み、除隊後は音楽エンジニアに転身。
B.B.キングのアルバム制作に関わり、J・ガイルズ・バンドのエンジニアを務め、ジョー・ウォルシュのソロアルバムをプロデュースした経歴を持つ。

ビルはイーグルスのサウンド面にロックやブルース色を反映させることを提案し、メンバーと意見が一致。
以降「呪われた夜」「Hotel California」「The Long Run」までプロデューサーを担当、というのがビルとバンドのヒストリーだ。

ものすごく簡単に言うと、グリン・ジョンズはカントリーフォークやコーラス、ビル・シムジクはロックやブルースでバンドを売ろうとした、ということらしい。
ロックやブルースもやりたかったドン・ヘンリーとグレン・フライは、ビルと意見が合ったのでグリンを解雇。
この方向性に反対だったバーニー・レドンは脱退・・という展開。

これはこの本ではなくネットで見つけたエピソードだが、ドン・ヘンリーはボンゾのようなドラム音が出せないかグリンに相談したこともあったそうだ。
ドンはツェッペリンやストーンズを手がけた経験を持つグリンの「ロック」な助言を期待していたのだろう。
ところがグリンはイーグルスを「バラードに強いカントリーフォークなバンド」と見ており、実際それで売ってきたんだからわざわざロックなんかやらんでもええやんけと思っていたらしい。
もしドンとグレンがロックをあきらめて引き続きグリンさんのお世話になっていたら、名盤「Hotel California」も生まれなかったであろう・・という話。

グリンは「On The Border」の録音途中でクビになったので、「You Never Cry Like A Lover」「Best Of My Love」以外に録ってあった曲は捨てられてしまい、あらためてアルバム用に足りない曲を録音することになった。
ここでビル・シムジクはドンとグレンが求めていたのがロック色の濃い楽曲だったことを理解し、希望に沿うようなサウンドを作るようにした。
メンバーはビルのことを親しみを込めて「先生」と呼ぶこともあり、ビルの作るサウンドに驚いたり感激したりすることも多かったそうだ。
モメ事の多いバンドだったけど、これはなんとなくイイ話ですね。

実は個人的に一番面白かったのは、松尾一正という人の文章。
若い頃に友人とあてもないアメリカ放浪の旅に出て、思いつきでエリック・クラプトンに会いに行こうとロサンゼルスのスタジオをアポなしで訪問。
ところがクラプトンはスタジオを引き上げた後ですでにおらず、中から出てきたのがイーグルスだった、という映画みたいな話から始まる。
他のインタビューや評論などとは明らかに調子の異なる読み物なのだが、個々のメンバーの人柄やバンドの内情がなんとなく伝わる、非常に臨場感にあふれた内容となっている。

さて。
この本はこれまで読んできた他の文藝別冊シリーズよりもページ数がやや少ないのだが、通して読むとやはりなんとなく急いだ編集を思わせるものがある。

「Songbook」というページは「Hotel California」「Take It Easy」「Desperado」「Take It To The Limit」「Life In The Fast Lane」「I Can't Tell You Why」の歌詞と対訳が掲載されている。
が、解説や考察は一切ない。
せっかく出版するのであれば、CDの歌詞カード以上の情報が少しでもあってほしかったと思う。

またイーグルスをテーマ?にしたイラストレーターの八木康夫氏の描くイラストがいくつか載っているが、残念なことに全てモノクロで、絵そのものも個人的には良さがよくわからない。
このあたりいろいろ編集側の事情があるとは思うが、申し訳ないけどこういうページを作るくらいなら、やはりもっとバンド内紛やグレン・フライ死亡に関する情報を掲載してほしいと感じた。

ということで、「文藝別冊 イーグルス」。
興味深い記事も多かったですが、それほど印象に残らない部分もかなりありました。
イーグルスというバンドに対する自分の興味というか熱量が、そのままこの本でも同じように再現された感じです。
特に「グレン・フライ追悼」というアオリに対しては少々物足りない内容だった、というのが正直な感想。
もし今後増補版が出版されるようなら、この点に期待したいと思います。

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2018年2月 | トップページ | 2018年4月 »