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聴いてない 第230回 プレイヤー

みなさんは洋楽を聴き始めた頃のことをどれくらい覚えておられるでしょうか?
自分の場合、洋楽に目覚めた79年頃、60分カセットテープに曲を録音することを始めた。
最終的にはこのオムニバスコレクションは120本を超えることになるのだが、その記念すべき1本目にボストンの「A Man I'll Never Be」やJ・ガイルズ・バンド「One Last Kiss」などとともに録音したのがプレイヤーの「Silver Lining」。
今日採り上げるのはそのプレイヤー。
個人的には出会いは非常に古く、バンド名も曲名も正確に記憶はしているが、結局それっきりという一期一会放置バンドである。
なお表記はウィキペディアなどでは「プレーヤー」となっているが、文字面がなんとなく平坦なので今回はプレイヤーで統一します。

このファーストコンタクト以降、プレイヤーの曲をFMから録音できたことは一度もない。
バンドの素性も知る機会は全くなく、ミュージックライフやFMステーションでも彼らの記事を見た記憶はない。
姉や友人との会話にプレイヤーが登場したこともなく、FROCKLでも話題になっていたかどうか不明。
従ってこの1曲だけの情報で止まっている状態。
日本での評判はどうだったのか、全然わからない。

どうやら西海岸の人たちであることを後からうっすら知った程度。
10年くらい前にベスト盤CDを買ったはずなのだが、実は今も持っているのかどうかすらはっきりしない。(杜撰)
あまり聴かないまま手放したような気もする。

ということで長きにわたり放置してきたプレイヤー、このままでは柏村武昭にも申し訳ないので(棒読み)、心を入れ替えて調べてみることにした。

プレイヤーはロサンゼルスで結成されたバンドで、AORやウエストコーストといったキーワードでくくられることが多いようだ。
源流は、イギリス人のピーター・べケット(Vo・G)と、テキサス出身のジョン・チャールズ・クロウリー(K)がハリウッドで出会って結成したバンダナというグループにある。
その後ロン・モス(B)とジョン・フリーゼン(D)が加入し、4人組バンド「プレイヤー」として活動を開始。

77年アルバム「Player」でデビュー。
シングル「Baby Come Back」がいきなり全米チャート1位を記録する大ヒット。
また「This Time I'm in It for Love(今こそ愛の時)」も10位まで上昇し、アルバムも26位と好調なスタートとなる。

78年には2作目アルバム「Danger Zone」を発表。
このアルバムに自分が聴いた「Silver Lining」が収録されている。
ということは自分が聴いた時点ではまだデビューしてから2年くらいのキャリアだったんスね。
「Silver Lining」は62位というやや微妙な成績だが、別のシングル「Prisoner of Your Love(恋のプリズナー)」は27位を記録。

しかしバンドはこの後早くも内紛が発生。
中心メンバーだったピーター・ベケットが脱退し、3人で存続を試みたが、ジョン・チャールズ・クロウリーも脱退する。
その後ピーターが戻り、サポートメンバーを加えて80年に3作目アルバム「Room with a View」をリリースするが、セールスとしては全く振るわず、ロン・モスが脱退。

ベースのラスティー・ブキャナンが加入し、81年アルバム「Spies of Life」を発表。
シングル「If Looks Could Kill」「I'd Rather Be Gone」がそこそこヒットするが、アルバムチャートでは152位止まりに終わり、バンドは83年に解散。
メンバーはそれぞれミュージシャンや俳優業やカントリー歌手といった分野で活動を続ける。
なおピーターはプレイヤー解散後、リトル・リバー・バンドにも参加している。

83年いったん解散というのも初めて知ったが、80年以降FMでプレイヤーの曲を聴いたり録音したことが全くないので、解散以前に日本でのプロモーションもあまり力が入らなかったんだろう。
80年代にはもっと儲かるバンドが山のように湧いてたしなぁ。

その後プレイヤーは95年にめでたく再結成される。
この時のメンバーが意外に興味深いメンツ。
元メンバーのピーター・ベケットとロン・モスに加え、元カーズのエリオット・イーストン、元リトル・リバー・バンドのトニー・シュート、アンブロージアのバーリー・ドラモンドという顔ぶれ。
バーリーさんはアンブロージアをやめておらず、プレイヤーと掛け持ちだったそうです。
エリオット・イーストンは再結成プレイヤーに参加したのか・・知らなかった・・
95年頃だとカーズはもう解散していて、リック・オケイセックもプロデューサー業にシフトしてたはず。
カーズは東海岸のバンドだけど、どういう経緯でエリオットはプレイヤーに参加したのだろう?

再結成アルバム「Electric Shadow」は日本で先行発売され、翌96年には本国でも「Lost in Reality」というタイトルでリリースされた。
さらにメンバーチェンジと解散・再結成を繰り返しながら断続的に活動を続け、クリストファー・クロスやロビー・デュプリーらとともにツアーにも出かけ、2013年にアルバム「Too Many Reasons」も発表。
今後もピーター・ベケットとロン・モスがいる限りバンドとしてはやっていけるのだろう。

唯一聴いている「Silver Lining」だが、悪くない。
記念すべき1本目のテープに録音したのでそれなりに思い入れもあるが、程よくノリのいい明るく爽快なサウンドだ。
歌いだしの前に鳴ってくるギターも意外な感じでいいと思う。
なおエアチェックではエンディングがフェードアウトされており、長いことそういう終わり方だと思っていたが、ベスト盤で聴きなおしたらもっと壮大な映画のラストみたいなエンディングだったのでちょっと驚いた。
ちなみに「Silver Lining」は直訳だと「銀の裏地」だが、意味としては「希望の光」みたいな言葉らしい。
歌詞として「every cloud has a silver lining」という英語のことわざが使われており、「どんな雲にも銀の裏地がある=絶望の中にも必ず希望はある」ということだそうです。

しかし残念ながらそれ以外の曲を聴く機会がなく、毎週量産される産業ロックの波に飲まれていったので、プレイヤーについて興味を持つことすらなかった。
最初にして最大のヒット曲「Baby Come Back」を、後追いでもいいから80年代当時に聴いていれば、その後の展開も多少は違ったのではないかと思うが。(今さら)

あらためてベスト盤に頼らず聴いてみるとしたら、やはりデビューアルバムと2枚目の「Danger Zone」ははずせないでしょうね。
今日本でふつうに手に入るのかどうかわかりませんけど・・・
これ以外にもおすすめのアルバムがあれば教えていただけたらと思います。

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聴いてない 第229回 ハノイ・ロックス

北欧フィンランドからムーミンとともにやってきた元祖ビジュアル系?バンド、ハノイ・ロックス。
全然聴いておらず、フィンランド出身というのも実は今回調べて初めて知った。
ハノイなんて地名が付いてるので、アジア系アメリカ人がいるのかと勝手に思っていたが、バンド名はクスリの愛称に由来するそうです。
別の候補としてこれもクスリの名前で「チャイニーズ・ロックス」というのもあったらしい。

そんな北欧薬学部バンド、ハノイ・ロックス。
82年の「Motorvatin'(炎のドライビン)」だけ柏村武昭の紹介で聴いており、聴いてない度は2。
以降「サンスイ・ベストリクエスト」でハノイ・ロックスをエアチェックできたことはなく、おそらく柏村武昭の趣味ではなかったと思われる。

エアチェックより前からミュージックライフには時々登場していたので、バンドとマイケル・モンローの名は知ってはいた。
「炎のドライビン」はハードロックではあるが金属的なサウンドではなく、キッスをもっと若い感じにしたガヤ系のノリの曲である。
悪くはないが特に好みというわけでもなく、前後に別の曲を合わせて録音したため消さずにいたという扱い。

ハノイ・ロックスを語る上で必ず登場するのがモトリー・クルーのヴィンス・ニールだ。
モトリーを採り上げた時に調べたので、彼らの因縁については少し知っている。
あらためてその因縁も含めたハノイ・ロックスの歴史をひもといてみよう。

バンドは1980年フィンランドの首都ヘルシンキで結成。
マイケル・モンローとアンディ・マッコイが中心メンバーだが、最初はマイケルとギターのナスティ・スーサイドがスウェーデンで5人組バンドを結成し、少しあとでアンディが加入してハノイ・ロックスとなったそうだ。

1981年にシングル「I Want You」でデビュー。
アルバムはなぜか「Bangkok Shocks, Saigon Shakes」というタイトルで、邦題は「白夜のバイオレンス」。
地元フィンランドやスウェーデンでヒットし人気はイギリスまで拡張。

1982年アルバム「Oriental Beat」がフィンランドで1位を記録する。
自分が聴いた「炎のドライビン」はこのアルバムに収録されており、日本での人気に火が着き始めた頃のようだ。
イギリスでの人気に連動するように日本でも評価が上昇し、83年に初来日を果たす。
翌84年にも来日し、東京・大阪・福岡でライブを行った。

しかしこの年にバンド最大の悲劇と危機が発生。
ライブの最中にステージ上で高いところから飛び降りたマイケル・モンローが、アンディと衝突。
マイケルは足を骨折し、その後もムリしてツアーを続けたためケガは悪化。
ツアーは終盤だったが、残り5公演をキャンセルして中止になった。

このアクシデントが結果的にさらなる悲劇につながっていく。
バンドはツアー中止を受けて休養とプロモーション活動に切り替える。
この期間にメンバーはモトリー・クルーの面々と出会い意気投合。
マイケル以外のメンバーは、モトリー・クルーのトミー・リーの家でパーティーに参加。

パーティーの途中ヴィンス・ニールは当時ハノイ・ロックスのドラマーだったラズルを誘い、酒を買いに車(パンテーラ)で出かける。
しかし泥酔状態のヴィンスが運転するパンテーラは暴走し、車線をはみ出し対向車と正面衝突。
対向車の運転手とラズルが死亡、その他の車も巻き添えになり運転手が重傷という大事故を引き起こした。
ヴィンス自身はほぼ無傷だったそうだ。

ラズル死亡により年内に予定されていたハノイのライブは全て中止となり、翌年正月のライブは追悼公演となった。
結局ラズルが死んだ時点でハノイのバンドとしての歴史はほぼ終わったものとなる。
ベースのサミ・ヤッファは追悼公演直後に脱退し、アンディとナスティはクスリや酒におぼれ、マイケル・モンローも脱退を告げ、バンドは解散した。
その後マイケルはアクセル・ローズと交流し、それぞれお互いのライブに出たりと比較的なごやかに音楽活動を続ける。

しかし。
この後マイケル・モンローはさらにつらい思いをすることになる。
ここで登場するのが元ビリー・アイドル・バンドのギタリスト、スティーブ・スティーブンス。
昔猪木と戦った空手家みたいな名前だが、そのウィリー・・じゃなかったスティーブとマイケル・モンローはエルサレム・スリムというバンドを結成。
だが意見の相違からか公式アルバムを出す前に二人は決裂しバンドは破綻。
直後にスティーブはマイケルにとっては因縁のクソ野郎であるヴィンス・ニールのソロアルバムに参加してしまう。

ヴィンス・ニールによって盟友ラズルを死に追いやられ、さらにはスティーブという得難い名ギタリストまで引き抜かれる・・という、マイケルにとってはありえへん展開。
スティーブを引き抜いたヴィンスには他意や悪意はなかったらしいが、マイケル自身もハノイのファンも、ヴィンス・ニールのことは今でも良く思っていないそうだ。
そりゃそうだろうなぁ。
ラズルの件についてはモトリー・クルーを聴いた時に調べて知ったのだが、さらにスティーブを巡る因縁まであったとは・・・
どこまでも気の毒なマイケル・モンロー。

ただしいずれにしても作品に罪はない。
ヴィンス・ニールの「Can't Change Me」をリアルタイムで聴いているが、ここで素晴らしいギターを弾いているのがスティーブ・スティーブンスだったんスね。
この曲を作ったのはダム・ヤンキーズのジャック・ブレイズとトミー・ショウ
なおヴィンス・ニールは例の事故の服役後はモトリーのメンバーとも和解して、バンドとしては最近までわりとマジメに活動はしていた一方、やっぱり暴行や飲酒運転で逮捕歴を順調に積み重ねてきたり、ニコラス・ケイジと殴り合ったり、相変わらずなクソぶりで世間をにぎわせているようです。

で、主役のマイケル・モンローだが、まだ悲劇は続く。
2001年に最初の妻と死別。
2002年にはハノイ・ロックスを再結成するが、この頃マイケルはバセドウ氏病にかかっていたと言われている。
新生ハノイ・ロックスは2007年までに3枚アルバムを発表し、ラウドパーク07出演のため来日もするが、2009年には解散を表明。
解散後はソロとして、また自身のバンド「マイケル・モンロー・バンド」を率いて活動している。
なんか苦労の多い人だ。
特に自ら転落していったということではなく、他人によってつらい目に合わされた、というところが泣かせる。
半生が映画化されたりしないだろうか。

というわけで、ハノイ・ロックス。
悲劇的な歴史ばかりについ注目してしまうが、音楽作品としては第1期・2期(と呼んでいいのか不明だけど)で分けて評価するのが一般的のようだ。
ビジュアルの印象から毒っぽいサウンドをイメージしそうだが、根底にはR&Bを保持しながら多様な音楽性も持ち合わせるという、思ったよりも深いバンドのようです。
聴くとしたらやはりまずは第1期作品からだろう。
個人的には「炎のドライビン」収録の「Oriental Beat」か、または1期最後の作品「Two Steps From The Move」に興味がややあるところですが、皆様の鑑賞履歴はいかがでしょうか?

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