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2016年の終わりに

BLOGを始めてとうとう丸13年が過ぎてしまった。
13年も継続していながら成長飛躍鍛錬研鑽の実感は全くなく、感覚的には例年どおりド素人のままである。
もはや音楽BLOGとは誰も信じていないが、13年の活動記録は以下のとおり。

ここまでの記事数は665。
コメントは、自分のものも含めて5268。
トラックバック(死語)は403だが、2016年も1件も来なかった。
もうこのトラックバック機能も文化も、完全に過去のものであろう。
自分も誰かのBLOGにトラックバック飛ばすなんてことはもう全然やっていない。
たぶん今の若い人は、BLOGは知っていてもトラックバックはあまりピンと来ないはずである。
12月30日現在の累計アクセス数は981028。
いつも思うけど、これって多いんですかね?そうでもないのかな?

世界的にもまれな珍奇連載「聴いてないシリーズ」は220回。
これだけ書ければもう聴いてないものなんてないやろと一瞬勘違いしそうになるが、聴いてもいないしよく知らないしというアーチストはまだ世界中にたくさん残っているのである。

一方の「聴いてみたシリーズ」は135回。
今年は6回しか書けず、クラプトンポール・マッカートニーストーンズといった極めて今さらな展開である。
まあでも近い将来死の床についた時に「やばい・・あれまだ聴いてへん」と後悔するのを少しでも減らしておこうと思う。(何言ってんだか)

で、今年はビッグネームの相次ぐ訃報に世界中が揺れる一年であった。
・・・などとエラそうに書いてるが、そのビッグネームについてすら実は全然聴いておらず、Yahooニュースを見る度に後ろめたい気分になったのだった。

あらためて確認するととんだ恥さらしクソ野郎(下品)状態である。
数字は自分設定の「聴いてない度」で、定義は以下のとおり。
聴いてない度1=1曲も聴いてない
聴いてない度2=1曲しか聴いてない
聴いてない度3=数曲聴いているがアルバムは聴いてない
聴いてない度4=オリジナルアルバム(スタジオ盤)を1枚しか聴いてない

これを今年天国に旅立ったアーチストにあてはめると、このような惨状になる。

デビッド・ボウイ:3
プリンス:3
・グレン・フライ:2(イーグルスは一応70年代のアルバムは全部聴いた)
・モーリス・ホワイト:2(アース・ウィンド&ファイアーは3)
・レオン・ラッセル:1
・ピート・バーンズ:1(デッド・オア・アライヴも1)
・キース・エマーソン&グレッグ・レイク:どっちも1(ELPは4)
・ジョージ・マイケル:3(ワム!も3)

こんな有様なので、よその一流音楽BLOGのような追悼記事など全く書けずにいる。
そもそもポール・マッカートニーやストーンズを今頃聴こうとしてる時点で音楽BLOGとして成り立っていないんだが・・・
ちなみに上記の物故者のみなさんの名前は、カナさんのBLOGを参考にさせていただきました。

しかも今年は記事公開がほぼ隔週になってしまい、学習意欲も薄れつつある。
まあBLOGは義務でも事業でもないし、毎週書いたところで世間が注目するようなことなどあり得ないので、ムリする必要など全然ないとは思うけど。

それでも今年はポール・マッカートニーの作品を聴いたりビートルズの映画を観ることができたのは良かったと思う。(←小学生並みの感想)
今後もこうした音楽関連の映画が公開されれば観に行きたいと思っている。

ということで、今年は恒例の5大ニュースも書けず、最後もやっつけなスカ記事になってしまいましたが、来年も引き続きご指導いただければと思います。
今年コメントを下さった方々、ありがとうございました。
皆様よいお年を。

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聴いてみた 第135回 ローリング・ストーンズ その16

前回のストーンズ学習から早くも1年以上が経過してしまった。
もう主なアルバムはだいたい聴いてみたという思い上がったつもりでいたが、先日読んだブライアン・ジョーンズの伝記本に触発されて、ブライアン在籍中の未聴アルバムを学習することにした。
1965年発表の「Out Of Our Heads」である。

Our_heads_2

アルバムタイトルはなんとなく知っていたが、調べてみるとけっこう複雑な事情のもとに発表されている。
まずイギリス盤とアメリカ盤で収録曲が大幅に違う。
曲数はどちらも12曲だが、英米共通の収録曲は半分の6曲しかない。
なによりアメリカ盤にある「Satisfaction」が、イギリス盤には収録されていないのだ。

また公式アルバムとしてもイギリスでは3枚目、アメリカでは4枚目にあたる。
ジャケットも全然違うので、タイトルこそ共通だけど別の作品と考えてよさそうだ。
イギリスとアメリカで中身の違うレコードになっている、というのはビートルズでもあるけど、半分しか共通曲がないというのもややこしい話だ。

さらに。
アメリカでは次のオリジナルアルバムとして「December's Children (And Everybody's) 」が同じ年の年末に発表されているが、これがイギリス盤「Out Of Our Heads」の収録曲といくつかかぶっていて、ジャケットも同じ写真を使っている。
「Out Of Our Heads」の実績としては、イギリス本国ではアメリカ盤が1位を記録したが、イギリス盤は最高2位に終わっている。
うーん・・結果はともかく、そこまで国別に戦略を変える必要があったんだろうか?

自分は今回渋谷のレコファンで中古CDを買ったのだが、確認したらアメリカ盤のデジタルリマスターであった。
大英帝国のストーンズについて、アメリカ盤で「聴いてみた」と宣言してよいものか少し心配にはなったが、年末の忙しいさなかにこんな力のないBLOGなんてどうせ誰も見ていないので、開き直って聴くことにした。
うっすら調べたところでは、どうやらアメリカ盤のほうが世界中でより出回っているらしい。
日本でも発売されたのはアメリカ盤と同じ内容だそうだ。
なので今後たぶんイギリス盤は買わないと思う。
安けりゃ買ってもいいんだけど。

目玉はもちろん「Satisfaction」である。
ここからストーンズを追い始めたという元少年の熱き文章が、ネット上のそこかしこに置いてある。
今まで聴いてみた初期作品の「12×5」「Aftermath」はいずれも良かったので、今回もほとんど不安はない。
果たしてブライアン・ジョーンズはわたくしの心にどのような音を響かせるのでしょうか。(安い表現)

・・・・・聴いてみた。
 
1.Mercy, Mercy
若きミックの魅力あるボーカルが全開である。
まずはスタートからいい感じ。
ドン・コヴェイ&ザ・グッドタイマーズというバンドのヒット曲のカバー。
オリジナルのほうの録音にはジミ・ヘンドリックスが参加してるそうです。

2.Hitch Hike
路線は前の曲に似ている。
単調なメロディだが、間奏の甲高いギターがアクセントになっている。

3.The Last Time
ジャガー&リチャードのオリジナル。
この曲は粗野なイメージがなく、どこかビートルズを思わせるコーラスワーク。
意外なサウンドだが、悪くない。

4.That's How Strong My Love Is
ルーズベルト・ジェイミソンという人の作品。
ワルツ調のリズムにミックのガサツなボーカルが乗っかってこれまた意外な音になっている。

5.Good Times
なんとなくレゲエっぽいゆるいリズムにほのぼのサウンド。
ミックは結構器用に歌っている。

6.I'm All Right
この曲だけライブバージョンで、疾走感に満ちたロック。
観客の叫び声がかなり近い感じで聞こえるので、それほど大きな会場ではないように思う。

7.(I Can't Get No) Satisfaction
言わずと知れたストーンズ初期の名曲だが、フルコーラスを真剣に通して聴くのは初めてである。
もっと粗暴で早いスピードのイメージがあったが、あらためて聴くとそうでもない。

8.Cry to Me
これもワルツのリズムだが、バラードのように始まり、サビはブルースでミックがシャウト。
後半よく聞こえるベースラインが意外にいい。

9.The Under Assistant West Coast Promotion Man(ウエストコーストの宣伝屋)
同じメロディが延々続くやや単調な曲で、ハーモニカはブライアン・ジョーンズ。
ナンカー・フェルジ名義となっているが、元はバスター・ブラウンという人の「Fannie mae」という曲だそうだ。

10.Play with Fire
フォークソング風の静かなサウンド。
ハープシコードの音が聞こえるが、これはジャック・ニッチェの演奏とのこと。

11.The Spider and the Fly(クモとハエ)
どんよりしたブルース。
ネットで調べるとこの曲を一番に推す人も多いが、自分の好みからは少しはずれている。
玄人好みの一曲ということだろうか。
終盤でブルース・ハープを吹いているのはミック。

12.One More Try
ラストはロカビリーのようなノリのいい曲。
誰かのカバーかと思ったが、これはジャガー&リチャードの作品。

全体としては非常に聴きやすい印象である。
若きストーンズがリズム&ブルースを彼らなりに実直に表現しており、ミックのボーカルも比較的おとなしい。
「Satisfaction」は先鋭的な曲として語り継がれることになるが、今あらためて聴いてみると思ったほど粗暴でも野蛮でもなく、わかりやすいリズムとメロディである。
この曲での成功が後の「Jumpin' Jack Flash」につながっているのがよくわかる。

ストーンズとしての多面性が表面化するのはこのアルバムの次の「Aftermath」からだと思われる。
「Aftermath」は全曲ジャガー&リチャードのオリジナルであり、使用した楽器の種類も格段に多くなっている。
そういう意味では今回聴いた「Out Of Our Heads」は、まだカバーを多用する自立前時代の最終作品ということになる。

ブライアン・ジョーンズの演奏については、使用楽器はギターの他にはハーモニカとオルガンとなっている。
だがどの音がブライアンによるものなのかがあまりわからず、CDには解説もなかったので残念ながら評価のしようがなかった。
この点はもう少しネットで確認したり、詳しい人からの指導が必要である。

さて前述のとおりアメリカ盤とイギリス盤ではジャケットも違うのだが、アートとしてはイギリス盤のほうがいいと思う。
イギリス盤のほうが隙間からのアングルや構図に工夫があるし、メンバーの表情もきりっとしたイギリス盤に比べ、アメリカ盤のほうはどうもぼんやりした印象である。

ところで、タイトルの「Out Of Our Heads」とはどういう意味なのだろうか?
直訳すると「俺達の頭の中から」だと思うけど、それではいったい何のことやらである。
俗語では「酒や薬でフラフラ」「正気じゃない」といった意味にもなるようなので、「オレたちイカレてるぜ!」みたいな感じなのだろうか・・?
この後ブライアンが本当にイカレて死んでしまったので、もしそういう意味でタイトルにしてたらとても皮肉な話なのだが・・・

ということで、「Out Of Our Heads」のアメリカ盤。
「12×5」「Aftermath」に比べてややインパクトは弱いものの、全体的には聴きやすく良かったと思います。
次回もブライアン在籍時代の「Between the Buttons」を聴いてみようかと考えております。

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読んでみた 第51回 ブライアン・ジョーンズ 孤独な反逆者の肖像

ローリング・ストーンズと言えばミック・ジャガーであり、次いでキース・リチャーズである。
雑誌や書籍への露出も当然この二人が中心であり、他のメンバーは単独で採り上げられることも極端に少ない、という状況であろう。
従ってブライアン・ジョーンズも名前と早逝したことくらいは知っているが、実際にどういう略歴でバンドに何をもたらしたのかは全然知らない。
まあそれはチャーリー・ワッツもビル・ワイマンも同じなのだが、ストーンズ結成における最大のキーマンがブライアンであった、という点について、今回学習する機会を得た。
読んでみたのは「ブライアン・ジョーンズ 孤独な反逆者の肖像」という本である。

Brian_jones_2

著者はマンディ・アフテル、編集は鳥井賀句、翻訳が玉置悟。
版元はシンコーミュージック、初版発売は1983年となっている。
自分が読んだのは1991年改訂第3版である。
意欲的に探していたわけではなく、たまたま図書館に置いてあったのを借りてみたのだが、古い本なので現在古書店でも見つけるのは相当難しいのではないかと思う。

ミックとキースの出会いについては、ご存じの方も多いであろう。
二人は小学校の頃からの知り合いではあったが、ずっと継続して仲良しというわけでもなく、17歳に成長したある日駅で偶然再会し、その時ミックが持っていたレコードにキースが反応したことがきっかけで意気投合・・という例のストーリーである。

だが。
この出会いがそのままストーンズ結成に直結したわけではない、というところまではうっすら知っていたが、じゃあストーンズはどういう経緯で誕生したのかは知らずにいた。
今回ブライアンの伝記を読んで、ストーンズ結成の秘密(表現ダサすぎ)をようやく知ることができた。
いちおうこの本は事実に基づいて書かれているという前提での話だが。

まず超ざっくり言うと、バンド結成の経緯は以下の通り。
ブライアン・ジョーンズが1962年にイアン・スチュワートと出会い、さらにアレクシス・コーナーのブルース・バンドにギタリストとして参加。
その後ブライアンがジャズクラブで演奏中に、観客として来ていたミック・ジャガーとキース・リチャーズと意気投合。
バンドを組むため共同生活も始める。
ブライアンの提案でバンド名を「ローリング・ストーンズ」とし、その後ビル・ワイマンとチャーリー・ワッツが相次いで加入、レコード・デビュー。

なのでミックとキースの駅での再会がストーンズ誕生の瞬間みたいに伝わってる部分もあるが、少なくともブライアンがいなければ「ローリング・ストーンズ」は始まらなかったのは間違いない。
そんな重要な人物ブライアン・ジョーンズの伝記本。
果たしてどんな内容なのだろうか。

・・・・・読んでみた。

目次は以下である。

第一章 理由なき反抗者 
第二章 ブルースに魅せられて 
第三章 愛と触れあいを求めて 
第四章 孤立したストーン 
第五章 ドラッグ中毒 
第六章 モロッコ旅行 
第七章 麻薬裁判 
第八章 ジャジュカの儀式 
第九章 この世のプールを泳ぎ疲れて

著者マンディ・アフテルはアメリカ人女性で、アーチストやライターを対象とした精神科治療の専門家である。
この本はマンディがストーンズのメンバーを含む周囲の人々にブライアンのことを聞いて書き上げたものだ。
メンバーの中で最も多くの証言をしているのはキース・リチャーズで、ミックの話は思ったよりも少ない。
あとはイアン・スチュワートが取材に応じており、チャーリー・ワッツやビル・ワイマンの談話はほとんどない。

ブライアン・ジョーンズはイギリス南部、ロンドンから西に約200kmのチェルトナムというのどかな田園都市の中流階級の家に生まれた。
父親は航空技術者で、幼少の頃から頭の良かった息子ブライアンに寄せる期待は大きかったようだ。

しかし。
礼儀正しく聡明だったはずのブライアン少年、やはり音楽と女に夢中になるというありがちな踏み外し方で両親を悩ませ、16歳の時に14歳の少女を妊娠させ、学校を退学となる。
退学後、家出して職を転々とした後ストーンズとしてデビューを果たすのだが、ブライアンはわりとまめに実家に顔を出していたようだ。
ただしストーンズのリーダーとして売れるようになっても、親や妹の反応は厳しいものだった。

息子と父親の対立構造は世界共通なものだとは思うんだが、ブライアンの場合も父親が「息子がロックという野蛮な音楽で有名になる」ことはあまり良く思っていなかった、という図式だった。
ブライアンはカタギの仕事には就けなかったが、父親には認めてもらいたかったことを周囲には漏らし続けていた。
もしかしたら父親自身は息子の成功を内心うれしく思っていたのかもしれないが、デビュー当時のストーンズは野蛮で攻撃的なパフォーマンスを売りにしていたので、のどかな街チェルトナムでの周囲の目、いわゆる世間体を気にして手放しでは喜べなかったのではないだろうか。

ブライアンには判明してるだけで5人の私生児がいるそうなので、若い頃から女グセは全然良くなかった人のようだ。(まあミックもキースもそうなんだろうけど)
若い頃に交流のあった人物によれば「女の数を数えたら1か月で合計64人にもなった」などの証言もある。
酒やクスリのせいもあろうが、付き合っていた女性に暴力をふるうこともしょっちゅうだったようで、この本にもそんな話は繰り返し出てくる。
一時期恋仲にあった女優アニタ・パレンバーグは、激高したブライアンに鼻を殴られ血だらけになった、などということも書いてある。

全般的にどの章でもブライアンのダメっぷりが満載であり、読んでいてあまり明るい気持ちにはならない。
ただしストーンズ結成当時バンドを牽引していたのはブライアンである、ということはキースやイアンも含めて登場するほとんどの人物が認めている。

ではなぜブライアンのリーダーシップは続かなかったのか?
理由は複合的に存在するようだが、ひとつには曲作りに積極的でなかった、という点はあると思われる。
自ら作った曲を自ら演奏して歌う、というスタイルは、当時ビートルズやストーンズを含む多くのバンドがとっていたものだったので、ストーンズに所属しながら曲は作らないとなると、やはり発言力や統率力に大きく影響してくるはずだ。
イアンやチャーリーは「ブライアンに作曲の才能はなかった」と証言している。
しかしキースは「作曲なんてその気になれば誰でもできる。ヤツはまじめに取り組まなかっただけだ」と主張する。
これはキース自身の体験や経緯から来る発言だろう。

ちなみにキースによれば、ミックとキースに曲を作るよう強く勧めたのはマネージャーのアンドリュー・オールダムだった。
ただしアンドリューは二人のクリエイティブな才能をいち早く見抜いていた・・といった感動ストーリーでは全然なく、全てはカネのためだった。
自ら曲を作って演奏して歌ったほうがカネになる、ということだ。
当時ビートルズというあまりにもわかりやすい成功例がすぐ近くにいたため、アンドリューさんも短絡的にそう思ったのだろう。

結果的にこのアンドリューの戦略(と成功)が、ミック&キースとブライアンを分断することになる。
もともとブライアンはボーカルを楽器演奏より下に見ており、バンド結成当初はミックをはずして別のボーカルを加入させるかどうかを考えたこともあったようだ。
ところがミックとキースが曲を作って売れてくると立場は逆転する。
ブライアンは徐々に二人が作った曲に音を添える演奏係に成り下がってしまう。

それでも楽器演奏の才能は突出して優れていたので、しばらくはバンドの音に厚みや変革をもたらす重要な役割を担っていた。
ブライアンの楽器に関する才能は多くの人が高く評価しており、初めてさわる楽器でも短い時間で聴かせる音を出すことができたそうだ。
なのでミックやキースからも楽器に関しては信頼されていたはずなのだが、どうもミックがブライアンの音やリズムも含めて、音楽性や発案などもあまり快く思っていなかったようだ。

ビートルズの大成功に触発されたブライアンは、ボーカルにコーラスを当てることを提案し、実際にビル・ワイマンとともにコーラスをやってみたそうだが、キースに言わせれば全然使えるものではなかったらしい。
Beggars Banquet」の頃になるといよいよブライアンはバンドの中でやることがなくなる恐怖感に襲われ、録音前からスタッフに「あんまし貢献できないかもしれない」みたいなことを口にしたそうだ。
この有様ではリーダーとしてバンド牽引なんてそりゃムリだろう。

またライ・クーダーらとセッションする際、ブライアンがミックにギターをどう弾いたらいいかたずねると、ミックは「好きなように弾いてくれたらいい」と返事したにも関わらず、実際にブライアンがギターを鳴らすとすぐに「そうじゃない、それじゃダメだ」「それもよくないよ、ブライアン」とダメ出し。
コンガをたたいてみてもビートはぎくしゃくしてしまい、またダメ出し。
さらにはハーモニカを懸命に吹いてみたものの、ミックはあきれて無言で上着を引っかけて出て行ってしまう。
ブライアンはこうしたミックの度重なるつれない対応に疲弊し、不信感や不健康が加速していく。

決定的だったのはモロッコ旅行での出来事であった。
恋人のアニタ・パレンバーグ、デボラ・ディクソン、キースとその運転手とともにモロッコ旅行に出かけたブライアン。
ところがその途中、キースとアニタはブライアンを置いて二人でどこかに行ってしまった。
しかもこの後二人は付き合い始めてしまう。
著者はどうやらこの脱走?はアニタが仕組んだことと推察しているが、アニタは認めていない。
いずれにしろブライアンは同じバンドの仲間に自分の女を取られた形になってしまった。

ブライアンも女に対する態度は果てしなくデタラメではあったので、因果応報というか文句も言えない話ではあるのだが、こういう事件が起きれば、その後キースのいるスタジオや事務所に平常心で出かけることはできなくなって当然だと思う。
こうしてブライアン・ジョーンズはミックとキースの様々な言動や行動による圧力に追い込まれ、以前にも増して酒やクスリに逃避する。

で、酒やクスリをやりすぎてスタジオやステージにも来ないといった状態が頻発し、ミックはキースとともにブライアンの家に行き、バンドを抜けるか、戻ってツアーに出るかを決断するよう言った。
ブライアンの返事は「バンドをやめる、でいい。戻る気になった時には戻る」だったが、ミックはそれも許さず、「ダメだ。やめるか残るかはっきりしろ」とせまったそうだ。キツいなぁ。

ロック・ミュージシャンと酒とクスリと女はどうしても切り離せない構造なんだろうけど、結局は音楽産業上の活動である以上、やはり野蛮なロッカーとしての生き様よりもビジネスとしての成立が優先する。
ミック・ジャガーはローリング・ストーンズをビジネスとして継続する上で、ブライアンの状態が障害になっていると判断したのだろう。
ミック自身やキースにしたってクスリや女で無茶ばっかしてたはずだけどね。
さすがのミックも見切りを付けるほどブライアンの状態がヤバかったということだろう。
結成当初からいっしょにやってきた仲間ではあるが、バンドのためには切らざるを得ないという苦渋の決断だったと思う。

チャーリーやイアンはブライアンについて「もともとリーダーの素質はなかった」と言い切っている。
特にイアンが不満に感じていたのは、ブライアンのメンバーに対する不公平さだったようだ。
一方でキースは、ブライアンについて「オレと二人でいる時は、パラノイアさえなければ実に気持ちのいいヤツだった」と証言する。
ブライアンのリーダーシップに関するミックの明確な証言はこの本にはないが、総合するとやはりブライアンはミックとはうまくいかなかった、というのが脱退の大きな要因であると推測できる。

ブライアンが亡くなった時の様子も、この本で初めて詳しく知った。
自宅で当時の恋人アンナ・ウォーリン、看護婦であるジャネット・ローソン、また家に出入りしていた建築業者フランク・サログッドと酒を飲んでいる最中に、酔ったブライアンは「ちょっと泳いでくる」と言って自らプールに向かった。
ブライアンは泳ぎが得意だったそうだ。

フランクもいっしょに泳いでいたが、先にプールから上がり、ブライアンの様子もおかしくはなかったという。
しかし、誰かが気づいた時にはすでにプールの底に沈んでおり、人工呼吸などを行ったが助からなかった。
死因は溺死だが酒や薬物の過剰摂取による心臓麻痺・臓器不全との説もあり、また最近になってあらためてブライアンの死因を調査しなおすという動きもあるようだ。
50年近く経っている話なのに、どうやって調べるんだろう?

ネットでブライアンの死因を検索すると、日本語でも多くのサイトにヒットする。
で、どの話も少しずつ状況や内容が違っており、どれが真実なのかはやはりわからない。
多いのは建築業者フランクがブライアンを殺害したという説だが、この本にはそうした記述はない。
またフランク犯人説にしても、フランクが自白した・いっしょにいたジャネットがそう証言した・ミックがフランクに依頼したなど様々な設定になっている。
(2005年にはフランク犯人設定で映画化もされたそうだ)

死因は今も謎に包まれているが、とにかくブライアンは27歳でこの世を去ってしまった。
メンバーの中では葬儀に参列したのはビル・ワイマンとチャーリー・ワッツで、ミックもキースも姿を現さなかった。
それがまた様々な憶測を呼ぶことになったのだろう。
「キースがプール脇の藪から出てきてブライアンを突き落とした」などといったデマも飛び交ったらしい。
本はブライアンの死を伝えたところで終わっている。
チェルトナムの街にはブライアンの生家や墓があり、地元の人にとってはやはり(悲劇の)ヒーローだそうだ。

さて読み終えた。
訳本なので多少日本語表現が冗長だったり平易だったり、という部分はたまにあったが、全般的には特に引っかかることもなく読めた。
キースのセリフもイメージどおりの粗野な言葉使いになっている。

これは個人的な感覚だが、この本も巻末に注釈がまとめられているのだが、やはりページを行ったり来たりで少し使いにくいと感じる。
注釈の数はかなりの量になるので、脚注というスタイルをとってほしいと思った。

詳細な情報を知り得たことは有意義だったが、読後感として気分がいいとか明るくなるといった性質のものでは全くなく、ひたすら気の毒なブライアン・・という感想しかない。
普段からロックバンドのモメ事大好きを自認する自分でも、ここまで悲惨だと笑えもしないスね。
でもこれでさらにストーンズ情報について学習意欲は高まりました。
ブライアン・ジョーンズに関する他の本も読んでみたいと思います。

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行ってみた 第52回 京都・大阪

紅葉の季節にムダに高揚する徘徊放浪中高年のSYUNJIといいます。
今年もまた関西方面に寄せていただくことにしました。
ただし今年は11月に三連休がなかったため、土日で1泊2日の旅です。

毎年新幹線と宿の予約には仕事の2.7倍くらい神経をすり減らしますが、今年は三連休ではないせいか、思ったよりもラクに取れた気がします。
もっとも秋の京都は宿が取れませんので、初めから大阪泊で予約。
このほうが神戸や奈良もコースに組めて何かと便利。

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朝のムダに早い新幹線で京都を目指します。
この日は進行方向右側に席が取れたため、見事な富士山を見ることができました。
今年の関東は夏から秋にかけて異様に雨が多く、御殿場や箱根に出かけても富士山を見ることがありませんでしたので、ここまで近くて快晴の富士を見たのは久しぶり。
ちなみに東海道新幹線は左右どちらの窓からも富士山が見えるよう設計されている、という話を聞いたことがあります。
下り列車の場合、左側(海側)だとどのあたりで富士山が見えるんですかね?

予定時刻どおり京都駅に到着。
今回の徘徊エリアは嵯峨野周辺と決めていました。
10年以上前に一度来ていますが、梅雨のクソ暑い時期でかなりきつかった思い出があります。

嵯峨野には見どころとなるスポットが多いのですが、点在している上に交通の便が良くない場所もあり、効率よく回るためには自転車が必要です。

嵯峨嵐山駅前でレンタサイクルを借りました。
外国人も多いせいか、自転車を手配して客に渡すおっちゃんの説明も「この道はゴーストレート。こっちは自転車に乗ったらノーグッドや。オーケー?」など英語と日本語が混じりすぎてかなり適当。
どうやら自分のことも日本人ではないアジア系外国人だと思って説明してたようです。

カタコトで返事して自転車を借り、まずは世界遺産の天龍寺へ。
天龍寺の北側には竹林の中の小道があります。
ここはガイドブックやポスターやCMにもよく使われる有名なところ。

Sdscn0055

しかし。
この小道を自転車で通るのは失敗でした。
そもそも人が多いので押して歩くしかありませんが、歩いている観光客の大半は外国人。
狭い道のあちこちで写真を撮りあったり自撮りしたりで全然前に進みません。
仕方なく自転車を押して彼らをよけながら前進しますが、前からも大量の外国人が来ており、自転車なんか押してる日本人の自分は相当迷惑なヤツになってしまいました。
以前来た時は暑い時期で観光客は誰もおらず、優雅に自転車をこいで竹林の涼風を感じながら通ったものですが、やはり桜や紅葉の時は無理なようです。

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たぶん平常時には自転車で3分くらいの道のりを、自転車押して15分くらいかけてようやく天龍寺北門に到着。
広い庭のあちこちにモミジがあるのですが、正直色づきはいまいち。
一本の木なのに上のほうはもう枯れていて下のほうはまだ青いという、アバウトで雑な紅葉。
にもかかわらずやはり日本の紅葉はめずらしいのか、外国人は盛んに写真を撮っていました。

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続いて天龍寺から少し北の常寂光寺に移動。
この移動でも細い小道に大量の観光客が往来している中を自転車を押して移動する迷惑日本人中年となってしまいました。

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常寂光寺も以前来たことのある寺ですが、その時は誰もいない文字通り静寂な心落ち着く名刹でした。
やはり紅葉の時期は様子が全く違います。
名前とは裏腹に鬼のような人出。
寂しくもなんともない、朝の常磐線みたいな混雑ぶり。
しかもここの紅葉もまたいまひとつ。
飛び交う外国語に身を低くしながら常寂光寺を脱出したのでした。

さすがにこのままではせっかく京都・嵯峨野に来た意味がありません。
そこで観光名所ではない神社に行ってみました。
事前にネットで隠れた紅葉スポットとして当たりをつけておいた護法堂弁財天です。
五山の送り火の鳥居形がある曼荼羅山の麓にある神社。
常寂光寺からは自転車で上り坂を10分程度。

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市販のガイドブックにはほとんど掲載されていない神社だと思います。
しかもモミジはかなり赤く、いい雰囲気。
期待しながら参道の階段を上ってみました。

(加藤みどりの声で)なんということでしょう。
境内に入ると、そこにはモミジを見ながら大声で騒いでいる酒飲み団体がいるではありませんか。
・・・団体はおそらく地元の会社の集まりで、むしろ我々観光客のほうが圧倒的に場違いな展開。
仕方なくお堂に手を合わせ(賽銭箱すらなかった)、3分ほどで退散しました。

がっかりして自転車を東にユラユラグルグル走らせていたら昼になりました。
嵐山駅前とは違い、嵯峨野界隈にはあまり食事処がありません。
清凉寺周辺に飲食店はいくつかありましたが、どこも満席で断られてしまいました。
一年で一番混雑するこの時期に、予約もしていない貧乏飛び込み観光客など相手にされないのは当然です。
やむを得ず目に留まった「Potter's Cafe」という小さな喫茶店に入り、ベタにオムライスを注文。
客は地元の人が3人ほどで、テーブルが4つくらいに漫画本という昭和テイストな店です。

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ところが。
ここのオムライス、倒れそうなくらいにうまかったです。
日本でまずいオムライスを食わせる店もあまりないとは思いますけど、この店の味はちょっと違いました。
ケチャップではなくデミグラスソースがかかっているのですが、これがまた絶妙なバランス。
やや薄味ですが、なんつうか非常にダシの効いた深ーい味がしました。
オムライスならデミグラスソースのほうが好き、というわけではないのですが、これまで食べてきたオムライスの中でも間違いなくTOP3には入るおいしさです。

すっかりテンションが回復したところで大覚寺に移動。
寺そのものの記憶は全然ありませんでしたが、ここは大沢池という広い池が付いている?というロケーションで有名です。

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やはり紅葉の色づきはそれほどよくありませんでした。
今年は京都全体がこんな感じで、あと数日も経てばきっと真っ赤に染まる前に枯れて散ってしまうのでしょう。

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最後に鹿王院に行ってみました。
初めて来ましたが、あまり観光客もおらず静かな場所です。
この日一番紅葉がきれいだったのはこの鹿王院でした。

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嵯峨嵐山駅で自転車を返し、京都駅から大阪に向かいます。

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新梅田シティでは今年もクリスマスマーケットが開催されていました。
10年以上続く冬の大阪の有名なイベントのようですが、昨年よりは人出は少なめでした。

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今回は谷町4丁目の「ホテルマイステイズ大手前」に泊まったのですが、構造はウィークリーマンションで、部屋が3つもあり、ゴージャス感は全然ありませんがキッチンや食卓もあってとても広いです。
こういう造りだとは知らずに予約したのですが、長期滞在するならこれは便利だと思います。

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夜は大丸にある「アルレッキーノ」というイタリアンの店でパスタを食べました。
実はここで食べるのは3度目です。
大阪に来てなんでパスタやねんと思われる方もおられましょうが、自分はこの店のパスタは大阪で一番うまいと思っています。
いえ、他でパスタ食べたことがないだけですが。
いずれにしてもここのパスタはどれもはずれがありません。
まあオムライス同様、まずいパスタが出てくる店もそれほど多くはないとは思いますが、大阪でも唯一通いたくなる店なのです。
細麺でゆで加減は若干固めですが、とにかく破壊力のあるソリッドな味がします。(意味不明)
特にオーナーが親戚とかそういう事情は全然ありませんが、大阪にお越しの際はぜひお立ち寄りいただきたいと思います。

翌日は予報どおり大雨。
晴れれば京都に行くつもりでしたが、雨で混雑で紅葉もいまいちで・・という状況を考えて方針を変更し、一日大阪で過ごすことにしました。

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行ってみたのはエキスポシティ
万博記念公園のとなりにできたでかい総合娯楽商業施設?です。
有名な太陽の塔を近くで初めて見ました。
けっこう胴体がうす汚れてるなぁ・・というのが正直な感想。
万博から50年近く経つので無理もないと思いますが。

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でかい商業施設はららぽーとなのですが、はっきり言ってウチの近所にいくつもあるららぽーととあんまし変わりませんでした。
そりゃそうか。
もう少し大阪っぽい関西系な店や品ぞろえがあるんやろかと期待しておったのですが、ここはそういうコンセプトではないようでした。

エキスポシティには「NIFREL」という新感覚な動物園もあるのですが、ここは非常に人気で入場口は長蛇の列。
中に入ってもおそらくは大混雑であろうと判断し、結局ららぽーとを一周しただけで梅田に戻りました。

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昼は梅田の「しのぶ庵」でうどん。
西日本のうどんはつゆの色が薄くてダシがきいてるのがいいところですが、最近は関東でも大手チェーンが進出して西日本系のうどんがふつうに食えるので、以前ほどの感慨はなくなりつつあります。
今関東の若い人はうどんの地方色なんか全く意識せずに食べとるんじゃないでしょうか。

午後になっても雨は全く止む気配もなく、梅田界隈のデパートや書店を徘徊し、タリーズでくつろいだりしました。
場所にもよるとは思いますが、大阪は日曜午後のカフェも思ったほど混雑していない気がします。
都内や横浜だととにかく休日のカフェはムダに混雑しているので、大阪で空席の目立つタリーズやスタバを見た時には感動すら覚えました。

帰りは新大阪駅から新幹線に乗りましたが、駅構内にまた飲食店や土産物店が増えていました。
中でも妻はカネテツデリカフーズの「ネルサイユ宮殿」に反応。
ポテサラちくわや練り物をわしづかみにして新幹線に乗り込むという出張帰りのサラリーマンみたいなことをしていました。

というわけで今回の遠征も終了。
一日雨で紅葉もいまいちだったのは残念でしたが、食べ物はどこもおいしく満足しました。
次はまた桜の季節に行きたいと思います。

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