エアチェックの夜 26
第26回 エコロジーの意義2 2002.2.24
POPS111 1997.1.12
Virtual Insanity/Jamiroquai
Mission Impossible/Adam Clayton & Larry Mullen
How You're Not Here/Swing Out Sisiter
Lovefool/Cardigans
Humans Being/Van Halen
Always Be My Baby/Mariah Carey
Because You Loved Me/Celine Dion
Change The World/Eric Clapton
If It Makes You Happy/Sheryl Crow
Ironic/Aranis Morissete
I Love You Always Forever/Donna Lewis
Macarena/Los Del Rio
Sweet Love/Sandy Reed
Survival/Madonna
Games People Play/Inner Circle
Massachusetts/Bee Gees
第23回で割り箸についての新聞の中途半端な報道に疑問を持ったことを書いた。
問題としたのは2つ。
割り箸はいったいどうしたらいいのかが未だに不明なことと、新聞の報道する姿勢自体に疑問があることである。
新聞社に質問のメールを出したが、結局回答はなかった。
新聞社のホームページに、「必要事項が書かれたメールには、できるだけ回答いたします。内容によっては回答できない場合があることをご了承ください。」とある。
回答がないということは、「内容が内容なだけに、当新聞社ではどうしたらいいのかわかりませんので、回答できない場合に該当します。」ということなのだろう。
まあそんなこったろうとは思っていたけどね。
少し腹だたしい気もしているので、名前を出すことにします。
新聞は東京新聞(中日新聞社)、コラムの著者はフォトジャーナリストの大石芳野氏である。
結局コラムの著者も新聞記者も、エコロジーについて実はあまり知識がないのだろう。
しつこいようだけど、地球環境や人体への影響を考えた場合、合成洗剤や煙草の方が割り箸なんかよりずっとタチが悪いことはわかりそうなもんだ。
仮に割り箸が日本の基幹産業で、大手商社が輸入を手がけ、タレントを使って広告まで打つような状態だったら、マスコミの取り扱いは絶対に違うはずだ。
新聞がけっこう偏向した姿勢や方針で編集されていることは、最近では多くの読者もわかっていることだ。
また記事を通じて、記者が案外モノを知らない実態があらわになったり、センスのない文章が相変わらずまかり通る不思議なメディアであることがわかったりする。
皆さん真面目に取材・編集してるんでしょうけど、けっこうワンダーランドな世界なのだ、新聞ってのは。
もう新聞でないと目にすることのない表現なんかもある。
「看護婦さんや~い」「出かけま専科」なんてのがそうだ。
見出し付ける人も、自分のセンスが昭和40年代で止まっちゃってるなんて気にしたこともないんだろうね。
もっとも読んでる側も、そんなもんどうでもいいと思ってるんだろうけど。
(ていうか、こんなこと考えてるのオレだけ?)
そういう意味では、新聞ではないけどAERAのアオリ(例のだじゃれタイトル)は、もはや犯罪の域ですね。
アオリ考えてる人は「我ながらオレのタイトルって毎回いい線いってるな」と思ってるか「今週もオレのタイトルで多くの人がずっこけてる(死語)だろうな」と思ってるか、どっちかでしょう。
後者だったら相当な確信犯だけど。
ちなみに「表現のバーリ・トゥード」我がインターネットの世界では、やっぱりありましたよ、AERAのだじゃれタイトルコレクションが。
興味のある方はどうぞ。
http://www.dajare.com/syakai/AERA/
http://www.t3.rim.or.jp/~s-muraka/aera/aeracon.html
さらに話はズレるけど、新聞の4コマ漫画ってのもどうしてあんなにつまらないんでしょうか?
少年マガジンが数百万部売れる今の時代にあって、新聞漫画だけは本当に昭和40年代からレベルが変わっていない。
若い読者はもう本当に、全く、全然新聞漫画になんにも期待していない(と思う)。
「最近の4コマはつまらないと思う(葛飾区・学生・19才)」なんて投書はないだろ、きっと。
でもそれで本当にいいのでしょうか?
全部の新聞漫画を見ているわけではないけど、知る限りでは、いしいひさいち氏の漫画以外、評価に値する作品はないと思う。
話を割り箸に戻す。
あれからインターネットでいくつか割り箸に関する評論などを調べてみた。
その中で最もわかりやすいと思う理論を展開していたのが、以下のサイトである。
http://www.sanshiro.ne.jp/activity/99/k01/6_18prs1.htm
「環境三四郎」という、東京大学の学生やOBによる環境を考える団体が、99年に発表した評論である。
3年前なので、現状はまた少し違うのかもしれないが、実態の調査と対策の提案が述べられている。
詳細は中身を見ていただくとして、彼らの掲げる解決の方法とは以下の4つである。
1.割ばしそのものの使用量を減らす
2.使用済みの割ばしをリサイクルにまわす
3.規制により、同じ量の割ばしを作るのに切る木の量を減らす
4.低利用木の利用により、同じ量の割ばしを作るのに切る木の量を減らす
厳密には「解決方法」ではなく、「割り箸の環境に与える負荷を減らす方法」とされている。
で、これらを実現するにあたっては、経済や産業の問題も関係してくるため、彼らは「これでいくべき」といった形での性急な結論づけはしていない。
この姿勢は非難されるものではない。
感覚的な意見だけを公器を使って流し、何も成果が生まれていない(あるいは誤っている可能性もある)東京新聞とは全く次元が異なるからだ。
「環境三四郎」がどこの制約も受けず真っ当な意見を述べているのかどうか、本当のところはわからない。
ただしこの割り箸問題を考えるに当たっては、やはり以下の手順が必要だろう。
1.「環境三四郎」のような研究機関が現状を調査研究し、いくつかの解決策を模索
2.マスコミによる解決策の公開
3.市民団体・業界・管轄省庁による検討調整・結論付け
4.マスコミによる結論の公開
5.政府主導による法的根拠・規制に基づいた環境保護実践
ここでいう2と4が最も重要な役割である。
割り箸をどうしたらいいのかを実践するのは主に一般市民であり、1・3・5を結ぶに当たっては、市民に正しい情報を知らしめるために、マスコミのチカラが必要なのである。
「同じ量の割ばしを作るのに切る木の量を減らす」なんてのは市民には実践できない。
ただし、なぜ「割ばしを作るのに切る木の量を減らす」必要があるのかを、市民に正しくマスコミが伝えないと、市民の側が意義を理解できず、続かないおそれがあるのだ。
ボケっとコラムを垂れ流すだけではいかんのである。
だじゃれ見出しを考えてるヒマがあったら、もう少しこの問題について勉強する必要があるのではないでしょうか?
まあAERAと東京新聞は違うんですけどね。
でも東京新聞の見出しも同じようなレベル。
新聞社だって企業だから、営利を追求したり多少偏向したりはあって当然である。
ただそれ以外に、社会に対する役割ってものがあること、センスの欠落した表現で未だによしとしている姿勢体質に問題があるのではないかということ、この2つは(全然次元違うけど)考えてほしいよね。
人はやっぱりまずは自分第一である。
そしてあまり自分本位でありすぎると、お互いに自分のためにもならなくなることに気づく。
社会という「公」の中に「個」として生きているからだ。
心ある人なら、「これはもしかして社会のために良くないのでは?」と気づき、そして変えていこうとする。
その動機付けとなるものに、「公」の表現機関であるマスコミの存在がある。
小さな社会なら、このへんは自治会とか町内会でも機能するだろう。
しかし割り箸問題はすでに国家の枠を超えた地球環境規模にまで発展している可能性があるのだ。
たかが割り箸なんだけど、大石氏も含め「何とかせねば・・」と考えてる人は多いはずだ。
それを具現化していく発端として、マスコミの使命がそこにある。
「ペンは剣より強し」なんてのも死語になって久しい。
でも、剣なんかより弱くたって構わない。
これからは「ペンは海よりも青く、雪よりも白い」存在であってほしい。
牛乳パックはどうしたらいい?プラスチックトレーは?ペットボトルは?
こうした市民の考える小さな疑問が、実は地球環境にとって重要であり、マスコミがとりあげることで世の中が変わっていくことだってあるはずなのだ。
自分はマスコミに籍を置く身ではないが、紙上表現を生業とする、比較的近い業界にいる。
多くの記者は今でも社会への使命感を持って日々取材に臨んでいると信じて、彼らへのエールに代えてこの曲を紹介します。
エリック・クラプトンで、「Change the World」。
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